中学生たちとの対話

講演した中学生からの感想文が届きました。一年生から三年生まで、様々です。さっそくお礼のメールを先生に送りました。

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 感想文ありがとうございました。

 私のために選ばれた言葉の数々で、本当に感謝です。

 こんなにわかっていてくれたのか、と安心するやら嬉しいやら。

 封筒あける時は結構ドキドキしました。

 「あの人の話を聞いて、久しぶりに聞く気になった。すごく人の事を考えてるなって思った。自分が4才の時を思い出した。もう一度ききたい。 ためになった! 言葉じゃ表せない!」

 は、音楽家でもある私には特に嬉しかったです。

 いままでもらった感想文集の中で、一番響いてきて、温かかったです。いい子たちですね。

 OOさんの私への質問ですが、本人に会わずに答えるのは難しいので、どのように答えるかは先生のご判断にお任せします。(離婚した母が再婚する。本心では継父と一緒にいたくない、でも、本当の事を言えません、という質問です。)

 とても素直な悩みと質問です。

 文章を読んでいると理解力のある人ですし観察力も分析力もあります。でも、この状況に正解はありませんね。どういう行動が良い結果を生むのか誰にもわからない、ということです。継父が良い人である事を祈るばかりです。

 こうしてほしいなと思うのは、良い自分を保つために、できるだけ幼児と接する時間を作ってほしい、ということです。卒園した幼稚園や保育園を訪ねて手伝いをしたり、幼児と遊んだりしてあの人たちと接する時間をとれば、この子はちゃんと答えのようなものを見つけていくはずです。すべて相対性のものですから、母親がどう変わってゆくかによって、継父との関係がどうなってゆくかによって、この子は、様々な苦しみや安らぎを体験するのでしょう。どんな時でも彼女が精神的に安定していることが、一家にとって、たいせつな柱になるはずです。彼女の存在が一家に安心と癒しを与えて、みんなを落ち着かせるのです。

 それには意識的に幼児と接していること。自分の価値を鏡になって見せてくれる人たちに囲まれていること。

 そして、常に相談相手をまわりに持っていることです。

 この人は理性と感性のバランスが良く、研究心があって学ぼうとする力が強いので、自分の相談相手を育てるタイプの人です。友だち、先生、祖父母、親戚、相談すればするほど相手を育てます。

 私もちょっと育てられている感じがします。

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 「よくわからなかったけど、聞いてよかった」

 「いつでも無言の愛というやつはとてもいいと思っております」

 「話が難しく思えましたが、生きていくうえでは大切なことだと思いました」

 「自分も小さい子たちにはげまされて、育てられたいです」

 「自分が親になって困ることより『いいな』と思う方が多くなる日が来ると思うと、とても楽しみになりました」

 「幸せについて、きちんと語る人はめずらしいです。ぜひ、次の講演も頑張ってください」

 「親になりたいと思いました。今日のお話しは、私の成長につながったと思います」

 「私たちは親に育てられているだけではなく、私たちも親を育てているとゆう話を聞いて、なんていえばいいかわかりませんが、話にひきつけられました」

 「松居さんが一年生からの質問の答えを、全て精神的なことで答えていたので、子どもを泣き止ますためには、まず自分が落ち着いて、それから自分でどうすればいいか考えるのが大事なんだなあ、と思いました」

 「非常に実になるお話を聞くことができ、とても嬉しいです。『幸せのものさし』という言葉をよく使われていましたが、あれは自分の価値観ということなんでしょうか。自分も職場体験で幼稚園に行き、園児たちが自分の行動一つ一つに笑顔を見せてくれて、松居さんの『幸せのものさし』というものがよくわかった気がしました。子を育てるという行為が、逆に自分を育てることにつながるという話が一番お話の中で共感でき、印象に残りました。松居さんの色々な経験談を聞けて、本当に自分の物事を見る目が変わりました。とても良かったです」

        ーーーありがたい言葉をたくさん、いただきました。ーーー

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Merry Christmas!!

 メリークリスマス!! 

 クリスマスソングを三曲(私も吹いています) にアップしました。選択してプレイを押すと聴こえます。昔つくったクリスマスアルバムからです。Jesus Loves Meは、祖母の愛唱歌、子ども賛美歌の「主われを愛す」です。


中学生に講演/試され、助けられる。追悼ラビ・シャンカル

 中学生に講演しました。

 全校生徒500人が体育館に集まっています。

 私は、五年に一度くらいの割合で中学生に講演する機会を与えられます。自分が試される日なのだ、と思って引き受けます。一番緊張する聴き手たちです。まだ神様のしっぽを引きずっている、感性が生きている、ごまかしは効かない、魂の次元で交流を求めている人たちです。
 講演の一週間前から考え、想像し、ドキドキします。
 まだ出会っていない彼らが、私を育てようとしているのがわかるのです。
 5年前より一段と幼さを感じます。
 先生が講演の前に、私たちは保育をしているようです、とおっしゃいます。中学生たちはいま、教師にも親を求めている。誰かを探している。
 家庭と社会の区別がつかなくなっているのです。
 1年生、2年生、3年生と成長するにつれ、何か、生きていることにがっかりしている感じがわかります。気持ちがバラバラになりそうなのが話をしていてわかります。3年生にもなると、いよいよどうしていいかわからないのでしょう。あっち向いたり、こっち向いたり。先生たちの大変さがわかります。
 どんなことでも許してくれる人を造ろうとしているのでしょうか。生きてゆくために、安心の土台がほしいのでしょう。
 話している途中で、難しすぎるのかもしれない、何を話したら良いのだろう、どうしたら魂に触れることができるのか、と私の中で不安がよぎります。10年前は、大人に話すのと同じ話で通じていたのに。
 私は、正直にオロオロしようと思いました。そう決心した瞬間に、中学生が一つになって、私に集中したのです。私を助けようとして一体になった彼らを、そのとき確かに感じたました。彼らの優しさを感じ、彼らは悪くない、役割を果たしているだけ、とわかりました。
 「あなたたちの親に、私は話したい」と彼らに言いました。
 最後は拍手で見送ってくれました。
 あの子たちが、私に伝えたかったのは何なのか、今日も考え続けています。
 無償の愛を探している、絶対的な拠り所を求めている、大人たちが、親たちが、親と教師たちが、信頼関係で結ばれることを望んでいる。彼らはそれを求め、望むことによって社会の中で役割を果たしている。それが彼らの天命でしょう。その天命が空回りをしている。
 そういうことなのでしょうね。

松居先生

 

今日は心のこもった講演をありがとうございました。

彼らから教えられてる、育てられているというものさしを持つことが自分自身のためにも必要だと改めて思いました。

 

魂の言葉や想いは通じるのですね。

そのことがわかってうれしかったです。

ありがとうございました。

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こちらこそありがとうございました。私を助けようとしてくれた彼らの優しさを、いつまでも憶えていようと思います。

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 帰宅すると、新聞にラビ・シャンカルが亡くなったという記事が載っていました。インドのシタール奏者です。ビートルズのジョージ・ハリスンの師、歌手のノラ・ジョーンズの父、と書いてありました。 私は、コンサートで二度、彼のアルバムで一度共演したことがあります。懐かし時代が確実に終わってゆく感じです。

 できるところまでやってみよう、と思います。ご冥福を祈ります。

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安野先生/言葉のない絵本

息子の幼稚園の先生が、朝、「和さん、安野光雅さんがこんなこと書いていたわよ」と教えてくれました。月刊絵本に一緒について来る「絵本の楽しみ」という小冊子でした。

 安野先生が絵本をつくることになった頃の経緯が書いてあって、
 (前略)「明星(学園)には、校門のそばに『自分たちの巣』を作っている子どもたちがいました。もう何日もかかっている様子で、それはバラックとも言えないほどの変な小屋でしたが、自分たちにとっては御殿のような砦だったらしいのです。
 (中略)砦を築いていたのは、和くんという活発な子でした。お父さんは松居直さん(『こどものとも』初代編集長)でした。(中略)松居さんから『絵本を描いてみませんか』と言われたのです。『わたしは、お話がないから」と言うと、『お話しはなくてもいい』と言われたのです。これは驚天動地です。それで『ふしぎなえ』という文字のない絵本ができたのですから、人生とはふしぎなものです。松居さんにも恩義を感じますが、和くんにも感じないわけにはいきません。」
 砦を築いていた、子どものころの私にまでこう言ってくれるのが安野先生です。小学生の時の先生には、いまだに見守られている気がします。
 文章は続きます。
 「わたしたちは言葉を通じてわかりあっている世界に生きていたのです。でも、たとえば、ゴッホの絵にも、ふつうの山や川の風景にも、言葉による説明はありません。
 このことを忘れて、言葉がなくても理解できる世界があること。むしろ、そのほうが多いことを考えてみなければなりません。」
 講演や本で、0、1、2歳児との会話が、言葉を介さないコミュニケーションの世界に人間を導く、それが感性を育て、自分自身をより深く体験できる、と私は言ってきました。
 赤ん坊と話していれば、歳をとってからお地蔵さんや盆栽とさえ会話ができる、と書いてきました。だから、安野先生の言葉が嬉しいのです。先生は、授業を生徒と一緒に喜んでいる先生でした。
 「すごいなー、すごいなー」という言葉が、心からの言葉だということが、子どもたちにはビンビン届きました。
 先生は続けます。
 「いろいろ説明して結婚するのが見合い結婚です。はじめはなにもわからないのに、好きになって結婚するのが、恋愛結婚です。どちらがいいか考えるのは、本人が決めることですが、このごろは『感性』が鈍い人が多いらしく、説明を聴きたがる傾向があるように思います。」
 だから少子化なんですね、と思います。信頼関係が薄いですから、当然、見合い結婚は少ないですし、説明を求めていたら恋愛結婚にもなかなか進まない。理屈ではない、言葉では説明のつかないのが人生なんだ、という感覚がもう一度行き渡るには、海や山や川を眺めるのも良いのですが、0、1、2、3歳児あたりとみんながつきあうのが一番いいのです。
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キャリアと子育て/政権公約と保育現場の思い(長い付録)

 前回、キャリアと子育て/政権公約と保育現場の思いという文章を書いたのですが、これはその付録です。


「結婚・出産が女性のキャリア形成に不利にならない社会を創出」という新聞に載っていた日本未来の党の公約から書き始めたのですが、一応、一段落書き終わってからも考え続けました。

 「男性のキャリア形成に不利になること」それはなんだろう、と考えていて、思い出したのが徴兵制度です。法律でこういうことをされると男性はいきなり不利です。キャリアどころではない、生死に関わってくる問題です。
 私がアメリカに渡ったころ、ベトナム戦争が終わって数年というころ、ギタリストのロビン・フォード(Robben Ford)の家で、人生について話していたのです。私の一番最初のアルバムに参加してもらっていた時で、たぶん打ち合わせのあとワインを飲みながら、夕暮れ時だったと思います。

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 ロビンは、終戦間近だったけど、徴兵番号がかなり近づいてきてヒヤヒヤしたんだ、と言いました。
 その頃のアメリカの徴兵制度は、ある年齢層が番号を渡され、順番が近づいて来ると覚悟を決めなければならない、という仕組みでした。彼の盟友でもあるピアノのラッセル・フェランテもかなり危なかった、と言うのです。私が人生で最初に徴兵制度を身近に感じた瞬間でした。
 穏やかで哲学的なロビンは、チベット仏教の信者で家に小さな祭壇がありました。ブルース系のギタリスですが、フュージョンジャズの草分けでもあり、マイルス・デイビスのバンドにも居たことがあります。一か八かの個性的な巨大なソロをライブで弾くことがあり、いまでも根強いファンを世界中に持っています。
 当時の私にとっては音楽上のソウルメイトのような存在でした。
 「徴兵されても戦場に行かなくても住むように、一流のミュージシャンは軍楽隊に志願したんだ」とロビンは笑いながら言いました。
 当時のロサンゼルスの軍楽隊にはハービー・メイスンやトム・スコット、マイク・ベアードも居たんだよ、と教えてくれました。軍楽隊の隊長は一流のミュージシャンに囲まれて鼻高々だったそうです。
 徴兵、これほど男たちのキャリア形成にとって不利なことはないかもしれません。音楽家としてキャリアが一番伸びる時に軍楽隊で行進曲や国歌を演奏し続けるのはあまり喜ばしいことではないでしょうし、戦場に駆り出され、負傷したり、戦死したら、キャリア形成どころではありません。

(http://sakthi.luci.jp/pg80.html このページの「Farther On」という私の一枚目のアルバムの曲の中で、ロビンのソロを聴くことができます。スケールの大きい背後に沈黙を感じさせる、スピリチュアルで哲学的なソロです。私の尺八も一緒に、ぜひ、聴いてみて下さい。)

 私の想像上の思考は、そこで、再び子どもたちのキャリア形成、で不利になることは何だろう、という方向に飛びます。幼児期の親との体験については前回書いたのでそれ以降のことを考
えてみました。
 まず思ったのが、学校の担任や保育士、保育者の当たり外れの問題です。これが子どもたちのキャリア形成に不利になる可能性があるから、モンスターペアレンツや「担任外し」などが起こるのでしょう。でも、親たちのそういう行動は、育てる側同士の信頼関係を崩し、めぐり巡って教育や保育の質の低下につながるわけです。ますますキャリア形成に不利になるのです。
 学校で同じクラスに障害児がいることを露骨に嫌がる親もいます。授業の進み具合が遅くなるというのです。その通りだと思います。でも、授業の進み具合は子どものキャリア形成には悪い影響を及ぼすかもしれませんが、クラスに障害を持った子がいることが子どもの人格形成に良い影響を及ぼすことも当然あるのです。あらゆる命が意味を持つことを知り、受け入れようとする能力は、真のリーダーを生むことにつながるかもしれない。優しさや忍耐力は、子どもが親になった時に、とても役に立つのかもしれない。いい人間になることは、ひょっとしてキャリア形成に不利になるかもしれませんが、人生にとってはとてもいい事です。キャリア形成に失敗しても幸せになれます。人間が一番確実に幸せになれる方法が、いい人間になることです。人生は自分自身を体験することでしかないのですから。(もちろんいい人間になることは、キャリア形成に有利になることもあるし、そんなキャリアであってほしいものです。)
 ここまで考えると、例えば、生まれた家の貧富の差、先天的な病気を持っていること、結婚して授かった子の体質、性格、結婚相手の性格、その両親の性格、親の信じる宗教、もう不利なる可能性のある要素に関しては、上げればきりがありません。それが人生だだ、というしかありません。
 女性のキャリア形成の不利になるから、と授かった幼児だけ、なぜ政府がお金をかけて預からなければならないのか。こんなことは人類がまだ一度もやったことのないことです。しかも0歳児を預かるのに税金を一人当たり月20万円から40万円かけているわけです。直接7万円母親に渡せば、キャリア形成より良いかもしれない、と思う女性は結構いると思います。

 当然、私の思考はインドに飛びます。インドでは、結婚と出産と子育ては「人生の形成」(注:キャリアの形成ではありません)にほぼ不可欠なこと、と考えられています。それが良い悪いではなく、そうなのです。だからインド人のほとんどが親の決めた相手と結婚します。(ほぼカーストの範囲内で……。これはあまり良いとは私は思いません。恋愛が命取りになることがあります。ずっと以前このブログにも書きましたが、私は友人を一人カーストを跨いだ恋愛で亡くしています。)
 この、結婚・出産を中心に人生を考えるやり方は、いまこの瞬間、同じ人間がやっていることなのだ、と思わないかぎり、先進国で育った人には、論理的に中々受け入れ難い仕組みです。しかし、この仕組みには、親子の信頼関係を維持しなければ結婚さえできない、という家族を維持するための足かせの役割もあるのです。
 シャクティの映像を撮ったとき、ダリット(不可触民)の村で、モルゲスワリというメンバーの両親にインタビューしました。彼女の家には村では珍しく電気が来ていました。電球の光の下、とても興味深いインタビューだったので、ぜひご覧になってください。このアドレスに映像がアップしてあります。
http://www.youtube.com/watch?v=xCFYYAUjbXU&feature=youtu.be
 ドキュメンタリーで使った映像の他にもこの家で一時間くらい話していたのですが、最後に「私に質問はありますか?」と両親に聴くと、「結婚しているか?」と聴くのです。している、と答えると頷いて、「子どもはいるか?」と聴くのです。いる、と答えると、とても安心したように頷き、笑ったのです。
 質問はその二つだけでした。
 セルバという結婚相手が決まったメンバーのインタビューからも、命をつなげてゆく仕組みが、親子の信頼関係を土台に、結婚・子育てを経て、男女の信頼関係につながってゆく流れが見えてきます。
http://www.youtube.com/watch?v=h3OpPP_JY_g&feature=youtu.be

 キャリア形成に不利なことが、一家の生活という視点からは有利になる。相対性、陰陽の法則のようなものを感じます。
 そして、人類は「家」という単位でものごとを考えていた時代がつい最近まで続いていた、だからそこに相対性が生じるのでしょう。私たちの遺伝子は、その単位で進化して来ました。だから気をつけなければいけない。
 そういうことだと思うのです。

 絆や信頼関係が人間の「生きる力」、すなわち幸福観の中心にあった。

 だからこそ、「女性のキャリア形成」という言葉を使うときは、それが限定的な幸福観を持つ人のキャリア形成、または限定的な状況にある人のキャリア形成だということを同時に言わなければならない。少なくとも「働きたい女性の」とするか、「どうしても働かざるを得ない状況にある女性の」と言えば、少しはイメージがはっきりしてくると思います。
 「キャリア形成における不利」と「幸福感」は別物であることを常識として社会全体が持ち続けなければ、自分自身が弱者になってハッと気づいた時はもう遅い、なんてことになってしまします。
 人間は弱者という形で生まれ、弱者という形で死んでゆく。キャリアはその間の40年くらいのことでしかありません。幼児という弱者がいかに美しく幸せそうか。なぜ、そうあるべきか。彼らを眺める時、人間は、弱者であることがいかに幸せなことか、それを感じて生きてゆくのが人間の本来の姿なのだ、と気づくのです。老人になって、なお幸せを感じれば、それが人類が求める一番納得のゆく姿です。

 公党が選挙公約で単純に「女性の」と言ってしまうと、そこからいつの間にか「子どもたち」がこぼれていってしまう。それが見えるから、心ある保育士が辞めてゆく。保育士になるなり手がいなくなる、そして、子どもたちが不安のなかで生きるようになってゆくのです。
 シャクティの風景に出てくる登場人物たちは、いまこの瞬間を生きています。
 どちらが安心感に包まれているか、絆と信頼関係に守られているか、それを考える機会を私たちは与えられています。彼らが持っていない「選択肢」があるために、私たちが不幸になっているのだとしたら、私たちは幸福になる選択肢も与えられているということなのです。



カズ・マツイ・プロジェクトの入手困難盤がタワレコ限定復刻/だそうです。びっくり



カズ・マツイ・プロジェクト

 
私の心の中では名盤なので、復刻されると嬉しいです。28年前のプロジェクトです。良いものを創ったから復刻されるんだ、と人生におけるご褒美をもらった気持ちです。

1月11日、ディジュリドゥー奏者のKnob君のコンサートで久しぶりに尺八少し吹きます。場所は、スイートベージルです。

宇宙の相対性の中で/公園に幼児と座っていると






 私が一人で公園のベンチに座っていたら「変なおじさん」で、

 三歳児と二人で並んで座っていたら、「いいおじさん」です。

 宇宙の相対性の中で、三歳児は、そこにいるだけで私をいい存在にする。

 それが、人間を進化させる一番揺るがない絶対的な法則のはず。

 その繰り返しが、人間たちを育ててきたのだと思います。

 

 幼児たちは、自分がいれば、周りの人間がいい人間になるんだ、ということを感じ、その感覚を身につけて育ってゆく人たちだった。ひとをいい人間にする、という役割りを身につけ、できればそれを感じ、理解し、社会は成立していた。

 

 世論調査で動く政治家、ところが世論調査は乳幼児の思いを反影していない。

 有識者は情報を学んだり数字を分析しますが、幼児の願いを知識として持ち合わせていない。幼児の願いは感性、つまり想像力の領域に存在するものだからでしょう。

 弱者を見つめ、人間は想像力を磨かれ、その想像力の積み重ねで生きる指針と心を得てきました。


 以前、経済財政諮問会議の座長をやっていた学者が「乳児は寝たきり、幼児は野蛮人」と私の目の前で言った。

 厚生労働大臣が、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言ったり、25万人の乳幼児を母から引き離す施策を、総理大臣が国会で「党の真骨頂」と言う。

 子育ての仕組みを変える「新システム論争」の中心にいて、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言っていた学者が、今度は国民会議のメンバーに選ばれる。

 選挙のために、テレビの討論が繰り返され、次の世代を育てることではなく、年金の多寡で将来の幸せを量ることが当然のように意識のなかに広がってゆく。選挙という闘いが、人々の意識を利権争いに導いてゆく。

 弱者というのは貧しいひとたちを言うのではないのです。貧しき者は幸いなれ、と聖書にもあります。欲を捨てて貧しさに釈迦は身を投じました。弱者というのは、一人では絶対に生きられないひとたち、そこにいるだけで人間をいい人間にするひとたちを言うのだと思います。




母子像の意味。/三人目は保育料無料?

 カソリックの教会に祈りの対象として母子像が置いてあります。イコンなどにもよく描かれていますが、幼子イエスを抱く聖母マリアの姿です。もともと偶像崇拝を避けていた人たちが、どうして母子像を拝みたくなったのか。戦乱や貧困があたりまえだった時代、人間の本質を疑いたくなるような苦しみや悲しみの出来事のなかで、幼子を抱く母の姿は慈悲の象徴だったのでしょう。日常生活のなかでも目にすることができるその風景に根源的な救いを求めたのではないでしょうか。
 子を抱く母は、人類にとって特別の意味を持つ風景なのです。人はその姿を見ると、過去と未来に温かさを感じ、怖れが遠のくのでしょう。人間は、母子を守ることで心を一つにし、生き甲斐や、幸せを感じ、育ってゆくのです。守る側の心と絆が育ってゆくのです。
 人間が人間性を追い求めるとき、母と子の姿はその意識の起点になっていたのではないかと思います。

 いまの少子化の一番の原因は男たちが結婚しなくなっていることです。
 男は元来、自分のためなんかには頑張れない、誰かのために頑張るのが普通なのでしょう。そういう風につくられたのだと思います。最近、新卒の男子が使いものにならない、女子だったら大丈夫、という声を聴きます。草食系男子が増えている、というのもどうやら現実のようです。フィギアと一緒に旅行に出かける大学生もいるそうです。それ自体は悪いことではない。むしろその方が平和なのではないかとさえ思います。
 しかし、もしこの国が、もうしばらく経済的に先進国の中で優位を保ちたいのなら、もう少し人口を増やしたいのなら、男たちが生きる力を取り戻す方向に施策をもってゆく必要があると思います。
 母と子を引き離しては、多くの男たちは何を起点に生きていいかわからなくなる。
 そういう男女の幸福観の違いを重視する視点で、いまの親子を引き離す施策をもう一度考え直すといいのです。しかし、いまはまだ誰も施策の中でそういう人類学的な幸福論を言いません。昔だったら当たり前だった、陰陽の法則が忘れられているような気がします。
 いずれ、考え直さなければならない時は来ます。このままこの方向に進めば、保育園も、学校も、家庭さえも、子どもが育つ場としては相応しくない場になってしまう。福祉それ自体が人間性を失っていく。
 方向転換がいかに早く来るか、それがこの国の運命を左右するのだと思います。

 選挙が始まろうとしています。もう何がなんだかよくわかりません。
 民主党が、駆け込みで保育園を増やす予算を組みました。最後にいい事をやっていることを見せたいのでしょう。保育士もいないのに…。箱ものをつくって中身のことをよく考えない。
 子どもの日々の生活と安心がこのお金でどれだけ崩れてゆくか。それがどれほど日本の将来に長期的に悪い影響を及ぼすか。子育ての質をどれだけ悪くするか。現場を見ない思いつきの政治家と学者たちは何もわかっていない。

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 子どもを三人産むと、三人目は保育料無料、という奇妙なことをする自治体の首長がいます。現場の保育士たちが嘆いていました。

 無料にすると、三人目は0歳から簡単に保育園にあずけてしまう親がたくさんいるのです。

 三人目に産まれた子どもは、三番目というだけで、そして、偶然この町長に当たったおかげで、母親にくっついて一緒に人生の最初の数年を過ごす、という人間が何十万年もやってきた運命的な体験を二度と経験することはできない。こんなのはもう人権問題です。子どもの人権を守る、ということはどういうことか、社会全体で考えるべきだと思います。
 どうしようもない理由があって、それが母親の苦渋の決断であったり、しゃべれない、主張できないその子の悲しみを誰かが想像し、魂に寄り添うように一緒に悲しむ心がまわりにあれば、たぶんそうしたっていいのでしょう。しかし、ただ浅はかな町長の「福祉」はいいことなんだ、という単純な認識が原因になって行
われるのであれば、子どもの思いや願いを想像できない人間たちの判断の積み重ねが、やがて人類を滅ぼすのかもしれない。滅ぼさないまでも、家庭という定義を失って犯罪や虐待に苦しむ欧米のようになってしまう。

 私は講演で「福祉が進めば必ず家庭は崩壊し、幼児虐待と女性虐待が爆発的に増える。それは欧米の数字を見ればあきらかだ」と言います。福祉がそれほど危険なものであることは、北欧では周知の事実で日本語に訳された本も15年前くらいから出ています。
 民主主義の危険なところは、感性と理性のととのった人間が必ずしもリーダーにならないということ。最近の政界のバトルを見ていると、程度に差こそあれ、パワーゲームに明け暮れて感性と理性のバランスを失っている人が多い。これが終わって落ち着いた時に、何か変化があれば良いのですが。

いじめとバンジージャンプの意味

 いじめについて、講演で話して下さい、と言われます。一月にも小学校のPTAで話します。

 いまこの国で、いじめに会った子どもの悲しさは、ひょっとすると親子の絆が強く存在する状況での戦時体験よりも、深く大きいのだと思います。子どもたちにとって毎日がすべてで、貴重な人生体験です。自分の小学生時代を思い出しても、大人の一日とは質量が違うのだと感じます。ですからやがてこの子たちが30年40年この国を支えてゆくのだと思うと、これはいま一番重要な問題と言ってもいい。そこから現在のすべてが見えてくるし、解決方法が経済競争やシステムにコントロールされつつある人間社会を救う道でもあるのです。

 いじめをあってはならない、と見ては意味がありません。子どもがこういう良くない行動をする時は、取り囲む環境、だいたいは大人の社会(人間関係)に問題があって、それを治そうとしている、警告を発しているのだと考えるべきです。子どもはいつも誰かを育てようとしている。そして、育つことで誰かたちの心を一つにしようとしている。そう考えなければいじめが存在する意味がありません。
 風邪をひくと熱が出る。熱をたた下げるだけでは風邪は治らないですし、熱が出るから風邪がわかる。

 なぜバンジージャンプを人間はするのか。なぜ、エベレストに登ろうとしたのか。なぜ、0才児に話しかけるのか。自分を発見し、体験し、絆をつくるためでしょう。
 いじめは社会の一部であると同時に、ひとり一人の人間の一部、そして人間の命は社会全体としても命、と考えなければなりません。社会全体に欠けてきていることが何かを考えれば、そこに解決策があるのに、大人たちは、誰かのせいにしようとする。子どもたちを叱っていじめがなくなるわけではありません。教師を責めてなくなるのでもない。教育委員会を批判するなど馬鹿げている。教育委員会や教師たちの隠蔽体質と言いますが、親と教師の間に信頼関係がないからそういう体質が生まれるのであって、信頼と絆をつくろうとせずに体質を責めても本末転倒、意味はない。ますます信頼関係が希薄になるだけです。

 「誰かの責任にしようとしている」これが、子どもたちからの警告の中身なのでしょう。

わかちあうこと
http://www.youtube.com/watch?v=SUaQXFUp1_M&feature=youtu.be

シャクティ震災日の丸.JPG

 先週行った講演会で講演後、ひとりの保育士さんが、「みんなでシャクティのドキュメンタリーを見ていたら、字幕もわからないのに、年中の子どもたちが来て、最後まで集中して一緒に見たんです。びっくりしました」と報告してくれました。
 嬉しいです。人間がやはり、あの風景の中には未来や過去とつながる何かがあるのだと思います。その風景を見て、子どもたちは育ってきたのだと思います。言葉や文字がわからなくても、感性はいつも働いている。育っています。だからこそ、大人たちは、子どもたちと、たとえそれが乳幼児であっても、時空を共有しているんだということを忘れてはいけません。聴いていないようで、聴いている。見ていないようで、見ている。感じている。

偽メールにご注意ください。

 私の名前で、英文の偽メールがフィリピンから出されました。

 私は、元気で日本にいます。
 ご迷惑、ご心配をおかけして申し訳ありません。
 

いじめをなくすために。(大人たちが絆と信頼関係をつくる)

 子どもたちと親たち、そして教師たち(保育者たち)と親たち、ともに育てあい育ちあう関係にあるひとたちが今の仕組みの中で、三すくみの状況になっていることを前回のブログに書きました。どのように不安を表現していいかわからない子どもたちが、警告として発信しているのが「いじめ」という現象のように思います。
 いじめる側の心の問題、じめられる側を支えなければならないひとたちの絆の問題、様々に存在して一概にこれが原因と断ずることの出来ない、人間たちのあまり良くない人間関係の複雑な状況と社会を覆う空気が、「いじめ」という形になって出て来ているでしょう。
 「いじめ」をなくすにはどうしたらいいのですか、という質問をされ私も考え込んでしまうのですが、私が知っている今の「問題のある仕組み」の中で、こういう方向へ進んで行けばなくなっていくのではないか、ということを今日、いま三つ書くと、
 子どもたちが、その子の小さい頃を知っているひとたちの目線に見守られて育ってゆくこと。(本質は善ですから、良い自分を知っているひとたちの前では、そうであろうとする。)

 父親たちが、自分の子だけではなく、ほかの子たちにも責任があると感じる。(これは、部族の男たちの「生き甲斐」でもありますから、遺伝子のなかに組み込まれていることで、オンにしてやればいいだけのこと。父親の一日保育者体験をすべての園でやれば出来ます。)
 母親たちが、我が子の命に感謝するひとたちを意識的に増やしてゆく。(身近な、一番自然なスタートは、子どもが幼児期に祖父母心を育てることができる機会をなるべくつくる。意外と、こういうことが人間社会の魂のインフラになっているようです。母親の心の中で繰り返される「この子をよろしくお願いします」という言葉が共鳴しあって、宇宙の一部としての人間社会があるようです。)
 

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