月別: 1月 2013
絵本「からすたろう」
以前ブログに、息子さんの英一朗君の「海を渡ったLD王子」の講演会のことを書いた溝井夫妻から、その時差し上げた絵本、「からすたろう」感激しました、Facebookで妻がPRしました、とお手紙をいただきました。http://kazu-matsui.jp/diary/2013/01/post-180.html
いい親。
簡単なことですが、いい親でいたいと思った瞬間、その人はいい親です。「いい親」とは、いい親になりたいと思う人。その「心持ち」「心のあり方」を言う。
親として迷ったとき、困ったとき、悩んだとき、繰り返し自分に言い聞かせるのです。いい親になりたいと思った瞬間、自分はいい親なんだ、と。
いい親とは、心の状態であって、目標として目指す種類のものではない。子どもの育ち具合という「結果」で評価されるものでもない。
親がいい親でも、子どもが悪い友だちを作って社会から様ざまな影響を受け、不幸な道を自ら選んだり、罪を犯したりすることはあります。運命でしょうか。それによって、親が「いい親」である事実がゆらがない。
いい親であることは、「育て方」とは直接関係ありません。いい親は「いい育て方」を知っている人、「この子にあった正しいやり方を知っている人」と思ったら、入口で間違ってしまいます。「いい親」と「育て方」は基本的に無関係で次元の違うことです。
子育てに正解はない。こう育てればこう育つ、なんてことがあるなら、人類はとっくにそれを発見している。自分と自分の親の関係をよく考えてみてください。あなたは親の「育て方」の結果ではない。親の「心持ち」の影響を受けているだけです。
普通に心配しオロオロし、いい親でいたいと願い、自分で考え、できることをやればいいのです。親らしさが育ちます。
実は、この「親が育つこと」の方が、社会という「子育ての土壌」には大切です。
親らしさとは子育てから逃げないこと、そしてオロオロすること。いつか子育ては幸せにつながっているということを実感できるようになることです。この道を通って多くの人が「祈り」の次元まで到達できれば、人類は大丈夫なのでしょう。
(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」より)
共励保育園の保育展/二月十七日です。
保育士必見、子育て支援課長にも是非体験してもらいたい,今年も八王子の共励保育園の保育展が二月十七日に開催されます。http://www.kyorei.ed.jp/Hoiku/Event/hoikuten.html … 子どもの発達を考え、楽しく育つ保育、親と保育園が一体になる保育、具体的で素晴らしいヒントが満載です。
園長設置者の意識の格差
元気のいい若手園長数名、昨晩やって来て色々話しました。遅れて来た園長は、園児の身の安全のことで児相、警察、祖父母と掛け合ってきたところ。母親の彼氏のDV、その彼氏も養護施設を出て間もなくで事情が複雑です。本気で園児のことを考えいたら、行けども行けども、関わって行かなければならない。
学校教育の中で起こる出来事を見ていて思うのですが、もともと、モラルや秩序は、動物であり、哺乳類である人間たちが、母親が授乳に専念できる状況を作ろうとする動きの一部であって、それは、損得勘定を捨てることに幸せを見いだすという、子育ての基本と重なっている。
自分が教えたことを自分の子どもが出来るようになる、そこに幸せを感じる、という進化の本能がモラル・秩序を維持するのですが、モラル・秩序を伝えることがそれを維持するのではなく、伝えようとすることがそれを維持するのでしょう。
インドの村で見ていると、子育ては五歳くらいまでに子どもを労働力に育てること。親が子どもに教えることが沢山あって、逃げられない。逃げられないと忍耐する。必ず親が育ちます。何万年もの間、人類の忍耐力は子育てで育ってきた。教わる側が何を学ぶかより、教える側がどう育つかの方が重要だった。
保育士1人に2才児は6人。2人で12人は可能、3人で18人はかなり厳しい。4人で24人はほぼ限界を越える。市によっては1人認定された発達障害児がいても保育士の加配はつかないので、一瞬にして、3人で23人保育する状況になります。保育園の学級崩壊はいわば命が危険にさらされること。
加配を一人からにしないと、国基準はほとんど意味をなさない。しかも、元々2才児を保育士1人で6人、一日平均十時間年に260日気持ちを込めて育てるのは無理です。市場原理導入で、これだけ派遣会社が保育界に食い込んで来たら、3ヶ月や半年、一年で頻繁に担当の保育士が変わり始めます。
主任やベテランが辞めてしまい、若い保育士だけで認定された2才児3才児と加配なしで、週六日12時間預ける親、その他に必死に対応している保育士たちから涙の相談を受ける。派遣会社が毎週ファックスを送ってこなければ、こんなことにはならなかった。市場原理がこういう環境を作る。限界が近い。
園長設置者の意識にこれほど格差ができてしまった時代はないでしょう。「福祉はサービス、親のニーズに応えよう」と長時間保育、仕事でなくても親が望めば預かります、という園長もいれば、なんとかこの時期に親の意識を子どもに向けないと噛みつく子がますます増えてくる、という園長もいます。
良い園もたくさんあるのです。すみません。毎年、何人もの親子の人生が変わるような関わりをして下さっている園長,主任さんもたくさんいます。でも、保育科の学生が実習先で見る現実は、介護士を目指した学生が涙を流しながら方向転換をして行った風景に近づいてきている。しかも、幼児がそこにいる。
保育園の方針で、二歳児とごっこ遊びをすることで親の人生が変わるのを、私は見ました。競争社会に囚われ固まっていた父親の心がフッと融け、言いようのない笑顔があふれるのを見ました。忘れていた幸せのものさしに気づいたとき、自分のいい人間性に気づいたとき、親は安心します。そういう「親心を育てる」園を、私はたくさん知っています。
人類は200万年、哺乳類は2億2500万年、と言っておられたのは菅原哲男さんだったでしょうか。ご著書の「誰がこの子を受けとめるのか」を長田先生に薦められ読んでいます。帯に、家族の愛に等しい養護をめざした「光りの子どもの家」十九年の記録、とあります。
一人の保育士が0才児を3人担当するのか、3人で9人を見るのか,私の師匠たちの間でも意見がわかれる。愛着形成の中心がどこになるのか。しかも、愛着は双方向へ働きます。真の愛着は親に譲らなければ保育ではありません。別れは半年か一年でくる。「保育は常に一対一!」ある園長の叫びです。
不良高校生が保育士体験に行って、3才児に服装を注意される姿を見ました。教頭や校長の言葉に耳を貸さなかった不良が、苦笑いしながら服装を直します。幼児と一緒にいるだけで、人間はいい人間になろうとする。その積み重ねが「社会」だと思うのです。そして、みんなが以前3才児だった。
2007年の厚生労働省の発表。その年ベビーホテルが193カ所新設され、177カ所が廃止・休止。認可外保育施設は594カ所新設され、492カ所廃止・休止。(長田安司先生著「便利な保育園が奪う本当はもっと大切なもの」幻冬舎より)乳幼児は喋れない。こんな仕組み、施策でいいはずがない。
学校が年に600新設され500廃止になったら、小規模校でも問題になるはず。保育施設だとなぜこんな状況がいつまでも続くのか。役場の認可外保育施設を担当する人が、「問題点を注意しても『おおむね』で始まって『望ましい』で終わるような規則で子どもは守れませんよ」と以前、嘆いていました。
信念を持った立派な認可外保育施設もあります。講演に呼ばれます。しかし毎年これだけ新設され、これだけ廃止なる仕組みに、大人たちの決定に従い信じるしかない、言葉さえ獲得していない人たちの毎日を委ねている。それに慣れることの恐さをもう少し真剣に考えないと大切なものを失うと思うのです。
認可外保育施設の現状が保育政策が雇用労働施策であって、子ども優先ではないことを表しています。有資格者で保育士ではない人が90万人。保育士がいないのではない、子どもを思う人たちの良心が施策に歯止めをかけている。すごい国です。米国の幼児虐待数は日本の百倍です。まだ方向転換できます。
LD王子講演会の映像/不特定多数の「誘拐犯」に語りかけるCM
LD王子溝井英一朗君の講演会で再会した教え子からメッセージと、YouTubeにアップされた英一朗君の講演会の映像アドレスが届きました。学校の先生たちにぜひ聴いていただきたい、LD児本人からのメッセージです。
柳下さんからのメール。
「音のない一日。学生時代の教本とその続本を読みます。あの頃の@kazu_matsui先生の授業「深夜のメッセージ」は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。」
「下記、先日の講演を溝井さんがFBにアップしたものです。」
http://www.youtube.com/watch?v=MwpnGfD04FE&feature=youtube_gdata
http://www.youtube.com/watch?v=FuD_sIPhgEM
http://www.youtube.com/watch?v=-YDCGkQQMx4&feature=youtube_gdata
http://www.youtube.com/watch?v=ekPd-HnW3ws&feature=youtube_gdata
http://www.youtube.com/watch?v=DOjGhk7etgo&feature=youtube_gdata
http://www.youtube.com/watch?v=Tufz-T2jFok&feature=youtube_gdata
「海を渡ったLD王子?」溝井英一朗13.1.10」
——————深夜のメッセージ–——————
「深夜のメッセージ」ずいぶん昔のことですが、思いだしました。私の二冊目の本「子育てのゆくえ」(エイデル研究所)か、一冊目の本(「親心の喪失」として再販)に書いた文章だったと思います。柳下さんが受けていた保育科の授業で使ったのです。
25年前でしょうか、アメリカに住んでいて、東洋英和の保育科の授業に毎週ではありませんが、通っていたのだと思います。当時、ロサンゼルスで、深夜、奇妙なコマーシャルがテレビから流れてきました。不特定多数の「誘拐犯」に語りかけるCMでした。
「もし、あなたが子どもを誘拐してしまったなら、この電話番号に連絡して下さい。警察には届けません。相談にのります」というコマーシャルでした。
こんなメッセージが深夜テレビから流れてくる社会がある、数字から見る現実とは違った驚きがありました。アメリカという社会を象徴している、と思って本にも書いたのです。一年間に誘拐される子どもの数が10万人と言われ、その多くが親による誘拐。養育権を失った親が、自分の子どもを取り返すために誘拐する、というケースでした。親による誘拐とはいえ、れっきとした犯罪です。捕まったら刑務所行きです、逃げる方も必死です。州を越えた犯罪は連邦警察(FBI)しか捜査できない状況で、誘拐された方の親の9割が子どもと二度と会えないのが現実でした。身代金を求めての誘拐なら、子どもが見つかる可能性が高い。しかし、家族を求めての誘拐はほとんど解決できない。実際は、親による誘拐かどうかも判断できないのです。年に10万人の親が、子どもを一生涯失う、それがアメリカの現実でした。そして、子を失った親たちの悲痛な願いが、CMという形で深夜、流れてきたのです。
その頃、アメリカで幼稚園に子どもを行かせると、必ず「子どもの指紋を登録しておきますか?」と園から聴かれました。誘拐され、何年もたって姿や顔つきが変わってしまってから見つかった時に確認するための手段です。それもまたアメリカの現実でした。
当時、アメリカの全人口の150人に一人が刑務所の中に居たのが、今では100人に一人、子どもを取り巻く状況は決して良くはなってはいないはずです。
私の教え子は、学生のころ、その状況にリアリティーを感じなかったのでしょう。でも、20年後、日本で幼稚園教諭や発達障害児の支援をしながら、『「深夜のメッセージ」は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。』と書いてきたのです。
最新刊「なぜわたしたちは0才児を授かるのか」(国書刊行会)では、渡米してすぐの頃、私がアメリカという国の入口で出会ったエピソードについて書きました。当時小学校の五年生だった従姉妹の誠子に、ある日、「学校ではどんなことを友だちと話すの?」と聞いたのです。すると、いまでは医者になっている利発な従姉妹は、「そうね、今度のお父さんは、とか、今度のお母さんは、という話が多いね」と言ったのです。
小学五年生の子どもたちの日常の話題が、今度のお父さん、今度のお母さん、であって、その会話を大人たちが聴いていない。人類の根幹が揺らいでいる、しかし、人間はこういうことに慣れる。直感がありました。そして、先進国と言われるその国で、何が崩れようとしているのか、意識して観察するようになったのです。その会話の数年後に、「深夜のメッセージ」が加わり、家庭を崩壊させながらも、それにしがみつこうとする、人間たちの性を感じました。裁判所の中でおこる発砲事件は家庭裁判所が一番多い、ということを知りました。その数年後に「Nation in Crisis」(高卒の二割が読み書きができない。学校が機能しない。)というアメリカ政府が「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義した学校教育の危機が明るみになり、私は次の年、義務教育の普及が家庭崩壊を招き、家庭崩壊は義務教育の崩壊につながる、という図式についての本を書きました。
(義務教育が悪いと言ったのではないのです。その存在自体が「子育て」を夫婦から奪うことによって、子どもが親と親たちの絆を育てることができなくなり、それが社会からモラルと秩序を奪うという、全ての欧米社会で起こったことを率直に書いたのです。)
そして世紀末、「母子家庭に任せておくと犯罪が増えるから、政府が孤児院で育てよう」という『タレント・フェアクロス法案』の連邦議会提出が重なっていったのです。
この法案に賛成し「孤児院と考えなければいい、24時間の保育所と考えればいい」と発言した当時の下院議長が、去年の大統領選で、破れはしましたが共和党の指名をロムニー氏と争ったギングリッジ氏です。教育と福祉、そして家庭は共存することが出来るのか。落としどころはあるのか。この私が米国で見たいくつかの象徴的な出来事を並べれば、先進国社会が一律進んでいる方向と結果の可能性はあるていど予測できるはずです。日本はちがった道を進んでほしい。その義務があるような気がします。人類全体のために、日本はちがった道を試行錯誤してほしい。そう言い続けて25年になりました。みなさん、どうぞ、よろしくお願いします。
なぜわたしたちは0歳児を授かるのか-親心の幸福論
民族楽器と祈り/Knob君のライブで演奏
昨夜は六本木のスイートベージルで尺八を吹きました。http://www.youtube.com/watch?v=pp611Jj-M7s&feature=player_embedded#t=246
ディジュリドゥーのKnob君のライブにゲストで参加しました。彼の姿勢が「音楽をする者」の原点なのかな、と時々思います。不思議な人物です。
ピアノの塩入さんから打ち合わせの時にCD「ピアソラ新基準 古川展生×塩入俊哉」をもらったのですが凄いです。ピアソラをチェロの凄い人とやっているのですが、素晴らしいのです。凝縮された空間で、間や余韻の向こうに広い空間を感じさせる、「焚き火があるから宇宙を感じる」、Knob君の「宇宙があるから焚き火が見える」世界とは対極にあって同機しているような、人間の感性、存在の幅を感じます。
3月18日にスイートベージルでこの二人のライブがあります。絶対、お薦めです。
パーカッションの楯さんは打楽器に加えて、アフリカのハープ、コラとか、ネーティブアメリカンの笛とか、カワリボーカルにも似た不思議な声とか、宇宙が共鳴する変なアンテナとか、使うのですが、次元が一気に広がって気分が楽になります。
音楽的に考えなければ私もけっこう吹ける、と思いました。論理性から離れること、いま、民族楽器はその象徴かもしれません。頑張らなくては。
民族楽器の持つ様々な形や異なった手触りからは、それぞれの楽器が進化してきた風土や文化の多様さ、それは言い換えれば人間の祈りと、その進化の過程の多様さなのですが、その長い年月を見渡し、感じることができます。
人間たちの歩んできた道筋や、歩みの速度の違いが、旋律やリズムを聴かずとも、民族楽器の姿や肌触りから、伝わってくる。楽器を見つめながら耳を澄ますと、石器の時代、青銅器の時代、鉄器の時代の心の合わせかたのちがいが聴こえてくるようです。
民族楽器は、「祈り」をテーマに人類の道筋が収集された博物館のようです。
教え子への手紙。
メールありがとうございました。
どんな小さな単位でも、親身になってくれる相談相手がいるかいないか、なのだと思います。
親子という最小単位がどのように存続してゆくか、それが土台で、そこが崩れてゆくと、どんなに対処しても追いつかないということに、アメリカを見て25年前に気づいたのだと思います。
それと、やはり乳幼児という特殊な存在の役割りを感性の領域で無意識のうちに意識しないと、社会全体に人間らしさが欠けてくる、ということかな。
システムを論じていると、知らぬ間にパワゲーム、マネーゲームという、子育てで育つ幸福論とは対極のエネルギーに巻き込まれてゆく。「指輪物語」などに出て来る闘いですね。
「指輪物語」のテーマは忠誠心なんですね。かなり非論理的ですが、意外とこのあたりに鍵があるんだと思います。
渡辺京二著の「逝きし世の面影」という本があるのですが、読んだことありますか?
この第十章に「子どもの楽園」という章があって、それはいまから150年くらい前の日本の姿なのですが、私はそこに、探していた社会をみつけました。ぜひ、読んでみてください。
最近、講演で配るレジメの最後にこんなことを書いています。
子どもを産み育てることは、人間が宇宙から与えられた尊い仕事。それは宇宙との対話、自分自身を発見し、体験すること。人生の意味、はかなさを理解する道でもありました。自らの価値を知ることで、人間は納得します。
もっと尊い仕事は、子どもが親たち(人間たち)を育てること。それは宇宙の動きそのものであり、自分自身を体現すること。一人では生きられないことを宣言し、絆の道を示すこと。
親が子どもを育てることは、人間の本能と意思がそれをさせている。
幼児が親を育てる風景は、宇宙の意思、姿がそこに現れる。
溝井英一朗君の「海を渡ったLD王子」講演会を聴いてきました。
発達障害((AD/HD+?)を持った青年、溝井英一朗君が自らの障害体験を、小学校の時の不登校からカナダ留学まで、様々な経緯とともに熱く語る「海を渡ったLD王子」講演会を聴いて来ました。ご両親の溝井夫妻とは長くお付き合いさせていただいていて、誘われたのです。英一朗君の説得力、抜群でした。本人が説明するからこそ理解できる、発達障害の「感じ」。そして「苦労」。教師、必聴でした。