保育士さんの面構え/中堅保育士さんからのメール:本音で言う人/心ある保育士が何に傷つくか。/2才児の不思議さ。人間の意思と宇宙の意図

保育士さんの面構え



 あちこちで講演をしながら、役場のひとたちに、国や親のいいなりになって保育の質、保育士の心のゆとりを失っていったら、取り返しつかないことになりますよ、と説明する。保育や学校教育を存続させたいのなら、心ある保育者を大切にすることです、とお願いする。

 保育士さんが集まっていると面構えを見てしまう。ほぼ全員女性の聴き手に「面構え」はそぐわないのですが、今の保育事情を考えるとこれは結構重要問題で、地域の環境によってずいぶん違うのです。山に囲まれた公民館で粒ぞろいの200人に出会いました。思わず窓の外に目をやり、山々のおかげかな、と考えてみましたが、講演終了後話を聴いて納得しました。すべて公立の保育園という地域なのですが、9割が正規職員だと言うのです。それだけ予算をかけて守ってきた保育なのです。

 20年前なら、保育士の待遇がその面構えに直結することはそんなにはなかった。しかし、これほど保育士が不足している今、地方公務員として募集すれば確かに倍率は出る。保障も昇給もありますから長続きもします。待遇は勤務年数につれて非正規の2倍3倍になっていきます。公立特有の問題が色々あったとしても、全体の保育者としての意識は確かに維持出来る。お互いの意識がいい方向へも悪い方向へも影響し合うのが保育です。これは子育ても同じで、十人親がいれば、子育て苦手という人が一人は居て、でも混ざっていれば全体のレベルはいい方向へ向かう。子育て上手という人は幸せそうな顔をしていて、人間はそういう人を真似ようとするからです

 過去十五年くらいの財政削減の矢面に立たされ、保育士は公立でも非正規、臨時採用が7割を超える自治体が増えています。そこへ、税収が格段に多い東京の自治体が、居住費月八万円援助みたいな補助金を出し、地方から保育士を吸い上げようとする。賃金を上げずに居住費を上げるところが姑息であからさまです。地方はどうなっても構わない、という感じがするのです。

 国全体が「自分さえ良ければ」という市場原理に巻き込まれ、それが「子育て」の領域にも浸透し、(親も含めて)それを何とも思わない社会になってきた。こんな施策を進めておいて、「地方創世」「一億総活躍」などと言うのです。地方を回ることが多いので、こういうやり方には腹が立ってきます。


中堅保育士さんからのメール/本音で言う人

 

 お久しぶりです。

 長らく連絡できずに申し訳ありませんでした。本当に色々ありました。現在進行形で問題勃発しています。新制度になったからなのか、もうとっくの昔に日本は終わっていたのかはわかりませんが、親心を空っぽにするために保育園があるような気がしてなりません。親も、上も、メディアも、政治も、みんな◯◯です。言い過ぎかもしれませんが、最近そんなやつとそんな画面しか入ってきません。

 子どもの成長ではなく、子どもの寂しさを育んでいるだけのような気がします。

 本当はもっともっと前に、連絡してお話しようと何度も思っていたのですがただの愚痴になりそうで、なんだか申し訳なくて連絡できずにいた次第です。

 お金です。

 女性に働いてもらって、経済を豊かにする。

 そこだけ。

 それを謳えば好感度が上がるから、バカみたいに保育園増設、待機児解消と言っておけ精神。

 それらに反対すると、古い、の一点張り。 ありえないです。

 なぜ、保育士が足りないのか、その原因を分かっていないから、エンドレスでしょうね。

 なんだかパワーがでなくて。

 少し前まで怒りがパワーになってぶつかっていけたのですが、その力もどっかいっちゃって。

 保育園の在り方も託児所化しています。親は自分の都合で預けたい、優先順位は自分です。それが一人や二人じゃない。

 自分の時間が一番なんです。

 親が、親である前に「個」でいようとするのです。

 親になった以上、親でなければいけないのに。特に乳児期は。

 そこを支援せず、親の個としての生き方を援助しているだけです。

 人の土台を作るのが親ではなく、保育士であっては絶対にならないのです。

 もういやです。

 

(私の返信がここに挟まります。先日下関の自民党女性局のイベントで講演し、安倍さんの秘書が来ていました。講演の前に大きなクスノキに出会い、「気」をもらいました、というメッセージと一緒にクスノキの写真を添付

 

 是が非でも安倍総理の秘書の方から安倍総理本人に、どうか、どうか、松居先生の言葉、思いがまっすぐ、まっすぐ届き、少しでも子どもに寄り添った政策になりますように。

 本当の意味での子どもの幸せを、もう一度考えて頂けますように。

 そして、今の危機的状況を理解しますように。

 

 松居先生、講演など、お忙しいと思いますが

時間があります時に是非またお会いしてお話させて頂ければと思っております。

 私だけでなく、前回共にいた先生方のモチベーションがだだ下がりです。

 様々なことによって。エネルギーをチャージしないと、潰れてしまいそうです。

 



 

(地方の公立保育園で、親と保育士に講演し、穏やかな園長先生と役場の人とお茶を飲みながら話していて、ふと憶い出して携帯に入っていたこのメールを読んだとき、園長先生と役場の人の目に涙が浮かんだ気がしました。その奥に炎が見えました。

 状況を真剣に考え、把握し、怒りをエネルギーにして頑張ってきたひとたちが潰れてしまいそうになっている。親に言えない。上に言えない。役場に言えない。幼稚園や障害児デイも含め、本音が言えない人たちが幼児期の子育てに、より深く関わっている歪みが出て来ている。一番長時間関わっている人たちの気持ちが尊重されていない。)



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 心ある保育士が何に傷つくか。

 「休みの日は一緒にいてあげてください」と親に言って、親が人権侵害と役場に駆け込む、プライバシーの問題だ、上から目線だと気色ばむ、そんな瞬間に、一体自分たちは何をやっているんだろう、と思う。

 子どもを優先しない親たちの身勝手な一言で、保育士の人生観が壊れることがある。そして、心ある保育者が辞めてゆく。国も学者も、なぜこれほど保育士が不足する事態になったのか、わかっていない。(理事長や設置者も度々わかっていない。)「心ある」、これが保育そのものだった。

 政府も、学者も、報道も、人間が生きるための優先順位、子育ての優先順位を一度しっかり考え直さないと、このままでは保育界は立ち直れない気がします。政府は、保育界から「心」を奪うような施策を続けている。もうこれ以上、学校教育を支えるのは無理でしょう。

 どんなに仕組みを変えてみても、保育の質は保育士の幸せであり、その幸せの「物差し」を現場で伝える園長や主任、ベテラン保育士の決意であって、その決意は親子関係を眺めることから生まれていたのです。そこに気づかなければ、現実に起こっている保育崩壊は止められない。教員資格を持っていれば保育士になれる、地域限定の保育資格を新たにつくる、などという場当たり的な規制緩和が続いています。これでは保育士の意欲はそがれるばかり。国が言うようにこのままサービス産業になってしまったら、「いらっしゃいませ、ありがとうございした」という送り迎えの時だけの接客になってしまう。それでもたぶん多くの現場で保育士の真心は生き続けるのでしょう。しかし、親たちの意識の変化はその子たちの一生を左右してゆくのです。

 保育は教育以上に子育てだった。子育てをする「思い」の共有だった。だからこそ園長や主任、ベテラン保育士の「優先順位を間違っている親は黙ってここを通さない」という決意が保育の根幹だったし、保育所保育指針にもすでにそう書いてある。それが出来ていたかどうかは置いておいて、日本の保育に対する「思い入れ」「視点」は素晴らしいものだった。

 

 政府は、閣議決定で「保育は成長産業」と言い素人起業家たちの新規参入を促し、新制度で11時間保育を標準、8時間を短時間と遺伝子や宇宙に相談すること無く勝手に決め、三歳未満児の枠を増やす意図のこども園を、「幼稚園と保育園の良い所を併せ持つ」と、保育士不足の今ほぼ不可能な定義で無責任に宣伝し、それがうまくいかないと様々な規制緩和。「あと40万人保育所で預かれ」という首相の経済主体の方針を進めようとする。(先月、その目標が50万人になった。現状を知らないのか、誰も進言しないのか。)

 「障害児デイ」という言葉でネット検索すれば、いま保育界で起こっていることが映し絵のようにわかる。素人でも大丈夫。これで儲けよう、というビジネスコンサルの(コンサルタント料稼ぎの、あとはどうなってもいい)勧誘。彼らは、子どもの日々のことなど考えない。釣られた起業家が一年で倒産しても見向きもしない。私が一番危惧するのは、その倒産してゆく過程で子どもたちの日々に起こること。

 設置者を除けば資格は必要なし。設置者の資格も広過ぎて、指圧師の体験が数年でもできる。厚労省の資料(障害児支援の強化について)にはお得意のパワーポイントの図が並ぶ。そこに書いてある「提供するサービス」を読み、「資格無し」を考えれば、その向こうに子どもたちの叫び、泣き声が聴こえてくる。色々ある保育現場の中でもここはいま無法地帯。

 子育て経験も無い素人指導員の「訓練」を受け、子どもが園に戻って暴れる。障害を持っていそうな子は愛着関係で包むのが第一歩なのに、厚労省のサービス規定(日常生活における基本的な動作の指導、知識技能の付与、集団生活への適応訓練)に、無資格の素人が取り組めば、イライラがすぐに密室での強制になってゆく。資格者でさえ複数の発達障害の子どもを指導するのは難しい。「誰でも出来ます」というコンサルの甘言が、経済学者の言う「市場原理」を端的に表している。人間性を失った市場原理は、弱者を追い詰める。

 

 報道は一体何をしているんだろう。

 日本中どの市でもいい。子ども課の職員に、「保育士足りますか」「来年シフト組めますか」「現場に居るべきではない保育士雇ってませんか」「政府の保育施策,可能だと思いますか」「親の意識,変わってませんか」と聴いてみれば、この国の置かれている状況がわかるはず。

 保育士がいないのに未満児の入所希望が倍増。来年はもうシフトを組めません、という保育課長の声をあちこちで聴く。待機児童が出てもいいから保育の質を落とさないように、とお願いする。保育所は人間同士の様々な葛藤を生む場所。親と保育士、園長と主任、行政と園長、子ども優先という視点が崩れ始めると、子どもに見られているだけに不信感が増幅する。気持ちや時間の余裕を失うと共倒れになってゆく。質の低下は連鎖し保育士不足が加速する。




2才児の不思議さ/人間の意思と宇宙の意図 

 

 保育新制度のこともあり去年から講演が増えました。今年も150回、それだけ現場や地方の状況もよくわかります。もともと保育士さんの勉強会、幼稚園・保育園の保護者たちにする講演が多かったのですが、学校の先生や保護者、保護司、民生委員さん、宗教的な集まりにも呼ばれます。去年は年初に自民党の党大会女性局の集まりで講演した後、十五の県連女性局から講演依頼があり、女性たちの思いはそんなに揺らいでいないのではないか、と意を強くしました。こういう人たちの意見を聴いていれば,政府もそんなに間違わないし、保育界も追い詰められなかった、と心底思います。

 冒頭で、2才児の不思議さ、存在意義について話すのです。

 私が一人で公園のベンチに座っていたら、変なおじさんです。でも、2才児と二人で座っていたら、いいおじさんです、と説明をすると、みなさんハッとして、なんとなく理解出来、「一緒に」笑顔になります。

 「そのことは知っている」という感覚がその場に満ちる。遺伝子のレベルで「そのことはみんな知っている」。

 この笑顔、人間性と言ってもいい共通の理解を体験することが社会を形づくるのだと思います。私と、横に座っている2才児のあいだには、宇宙(遺伝子)の相対性理論のようなものが存在し、それは時に神話のようなもので、無意識と意識の間に存在する。2才児は私をいいおじさんにしようとして座っているのではない。ただ座っている。

 単純に、宇宙の意図がとなりに座っている。

 「不思議が果てしない」。

 そんな感覚をなんとなく二人で身につけ、ハッキリはわからないけれど、自分の体の中にある遺伝子の説明に耳を傾ける。そんな瞬間が人間には必要なのだと思います。

 高校生の保育士体験で、ズボンを腰まで下げて悪ぶっていた高校生が、三才児にズボンのはき方を説明されて慌ててズボンを上げる。校長や教頭が三年注意しても上がらなかったズボンが、三才児が指摘するとすぐに上がる。

 三才児は無心に無意識に、自分の存在意義と高校生の成り立ちを指摘する。

 高校生は無意識の中で、三才児がいるから自分がいい人になれる、三才児がいるから、自分はすでにいい人なのだ、ということを知っている。知っていることを憶い出すために、高校生には三才児が必要、ということなのです。

 

 遺伝子に組込まれているもの、年月をかけ、進化の過程で培われたものを、社会という括りの中で(たとえば常識や文化といういい方で表してもいいのですが)、身近に感じさせてくれるのが乳幼児とのやりとりだったはず。幼児と丁寧に暮らし、その時「本当は、誰と誰が、何と何が」会話をしているのか、無意識の中で気づかないと、自分自身の成り立ちがわからなくなる。人生という限られた時間の中で、自分自身を充分に体験できなくなるのです。三歳未満児を生産性のない人たち、と括って、単に育てばいいんだという浅い考えで政府が家族たちから引き離すと、双方向に不安がどんどん広がっていきます。

 

果てしない不思議

 

 話を戻して、この「2才児」というのに意外に意味があって、公園で私の横に座っているのは2才児でなければならない。私がそう感じるのは、私たち二人の背後に大きな沈黙が感じられるからです。背後に沈黙、周囲に余白がないと、言語を介さない会話の意味や姿がうまく見えて来ない。

 背後に沈黙を感じないと、言葉は、深さや時間的広がりを失う。

 私はよく「4才児=人間として完成」説を言うのですが、頼りきって、信じきって、幸せそう、そこに宗教の求める人間像がある、という説明をつけます。しかし、無心、という境地の解説を宇宙が人間にするには、2才児が鍵を握っている、と思うのです。

 高校生がズボンのはき方を三才児に指摘される話も同様で、その時、なぜかほぼ必然的に「3才児」が登場する。生まれて、人々との一体感を身につけようとしている人の、連帯を求める意識が、ワルの高校生の遺伝子に語りかけるのでしょう。いい人間になろうとする意識が、意図として存在している。

 幼児期の人間には、みんなで見張るのではなく、みんなで愛でる祝うという周囲の環境がより重要なのだと思う。独特の存在感、大切な弱者という感じは、眺めている「みんな」の心を一つにする。それが人間社会の成り立ちの原点であって、養成校で与える資格以上の、人間としての資格を私たちに与えてくれる。

 

 人間の意思と、宇宙の意図(または遺伝子の中に形成されてきた宇宙と人間の育ちあいの過去)が、ある一定の重なりを持っていないと、人類は調和の方向へは進化しないし、マイナスの進化は相対的に常に存在しているから恐い。どの次元で道を選択するか、なのだと思います。


仕組みや役割分担で子育てはできない/言語の習得期という意味での幼児期



役割分担で子育てはできない



 

 三歳未満児は小規模保育で、そのあとは保育園で、と国はとても安易に目論む。

 以前、経済財政諮問会議の座長が「0才児は寝たきりなんだから」と言った。そういう連中が保育の仕組みを「新制度」と言って変えようとしているのだから空前の保育士不足も無理はない。「認可」扱いになった小規模保育の資格者は半分でいいし、ネット上では、「誰でもできる」「儲けるなら保育」というコンサルの宣伝が飛び交う。

 それまでにどんな保育を受けてきたかで三才児への保育士の対応は当然違ってくる。本来、一律に引き受けられるものではない。乳幼児期の発達を理解していないサービス産業的託児所保育を受けた幼児を集団で保育するのは難しい。どんな保育を受けたか、そういう施設ほど教えようとしない。

 仕組みで子育てはできないということを、国に助言する立場の学者たちが知らないからこういうことになる。仕組みをいじっていれば、役割を果たしていると思っている。


 国が薦める、三歳まで小規模保育そして保育園、その先は学校と学童という雇用労働施策は、実は、お互いどういう育て方をしているか理解していない仕組みが入れ替わり「子育て」をしていること。子どもは混乱するし、不安になる。保育士も教師も専門家だからと親は思うかも知れないが、「専門家」たちの間に絆がない。「専門家」を生み出す資格制度に心がない。資格の定義、取得する仕組みさえ保育士不足で簡単に変わってゆく。

 どう育ったかわからない子どもの子育てを、気安く引き受けてはいけない。

 欧米の家庭崩壊と犯罪率を見ても、元々家庭という土壌で「子育て」がそだてていた男女間の信頼関係が崩れると、人間社会は疑心暗鬼で土台からバラバラになってくる。

 「子育ての社会化」で生まれる人類未体験の疑心暗鬼が人々を競わせ、その必死さが、しばらく経済効果を生むのは一つの現実かもしれない。しかし、それでは目指すものが人間本来の幸福感とずれてくる。次世代を育てることを支える幸福観が土台にないと、社会全体が安定性を失う。福祉や教育という仕組みで肩代わりは出来ない。


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言語の習得期という意味での幼児期


 人間は成長し、言語によって考える、とよく言われる。言語によって思考を確認する、視る、というべきかもしれない。そして、言葉には”ニュアンス”があり、同じ言葉でも、それが話される時、話す人、その表情、声の質、その背後に存在した感情や沈黙によって微妙に違いが生じてくる。

 あるメロディーが異なる和音の上で奏でられると印象が違うように、背景や空気の感じ方の違いによって、言葉の意味に違いが生じる。

 大人が三才児と会話をする時、同じ単語が並んでも、幼児からの言葉は受け取る側には違って聴こえる。相対的な関係の解釈が会話の向こうに必ず存在するからだ。それは即ち考える沈黙、意識の中で語られる各々の言語が、それが取得された時の体験によって異なることを意味しているのだと思う。文化や生活習慣の違いももちろんだが、言語の取得体験が、たとえばそれが日本語か英語かヒンズー語かも含めて、人間の思考や共同体の成り立ちに少なからず影響を及ぼすということ。共通言語というのは一面共通体験の積み重ねでもあった。

 幼児は言語の習得期を生きている人たちで、この時期の沈黙と言語の体験が家族の意味や文化の伝承の世襲に重要に役割りを果たしていた。

 保育の質、保育士の質、保育園における職員配置の国基準は、そういう点で老人に対する福祉とは次元の異なる重要性を持っている。

 特別養護老人施設での人員不足の構造は、待遇が全職業の平均より月に十万円低いという数字も含めて保育士不足と酷似している。決定的に違うのは、そこで「育つもの」が異なること。保育園が家庭的であるかどうか、保育士がどういう頻度と”ニュアンス”を持って子どもに接するか、語りかけるかで、将来のこの国のあり方が変わってくる。同時に、社会性を持たない人間の数が変わってくる、とも言える。

 フランチャイズ系の一部屋しかない認可外保育園で、子ども向けの楽しげな音楽が流し続けられている風景に出会ったことがある。そこに異年齢の乳幼児たちの声や泣き声、様々な音が絶えることなく重なっていた。保育の専門家としての教育を受け、保育所保育指針を理解した園長や主任が居たら、絶対に起こりえない風景だった。私が二時間過ごすのが辛い人工的な空間でした

、その騒音から逃れられない状況で、一日八時間以上、年に260日幼児たち、そして保育士たちが選択肢を持たずに過ごしていた。それは確かに国によって造られた、常識では考えられない風景だった。


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 たまたま募集したよりも多く応募して来た、ちょっといい園の園長に、不採用の保育士を紹介してほしいという電話が他園から複数かかってくる。理由があって落としたんですよ、と説明しても、それでもいいから教えてくれ、と、明日国基準を満たせない設置者は必死に懇願する。判断はこちらでするから、と。幼児たちの過ごす時間や、存在意義が仕組みの存続、市場原理の原点によって忘れられてゆく。