調和する社会を作るための筋道

 

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以前、経済財政諮問会議の座長が「0歳児は寝たきりなんだから」と私に言ったことがある。正確に言えば「私たちに」言ったのだが、隣にいた保育園の園長先生の肩が怒りに震えていた。

座長は男性、園長先生は女性だった。

この高名な経済学者は、人間を、働けるか働けないかでしか見ていない。「0歳児は寝たきり」という情報を、ただ情報としてインプットされ、幼児の「働き」、「役割り」に関しては見えていない。考えが及ばない。自分が幼児だった時、どういう存在だったのかさえ理解できていないのだ。人間の生きる動機、実はこれこそが「経済」の原動力だったわけだが、それが理解できていないということ。「経済」を調和ではなく、闘い、競争と理解している。勝者(強者)の側からの都合で見る「経済」は破綻する。それが全世界で起こっている。

人間は、遺伝子の中に組み込まれている、誰のために生きるのか、何のために生きるのか、という「人生の目的」を、0歳児を眺めることで思い出す。

表層的な情報に依存して想像力を封印し、感性を忘れる経済学者が多いのは仕方ないこと。しかし、この人が政府の少子化対策が始まった頃に経済財政諮問会議の座長だったことは、政府という、経済で成り立つ仕組みにとって致命的だった。少子化対策の中心にあった保育施策が雇用労働施策の一部として扱われ始めた時だっただけに、あってはならないことだった。強者が仕切る仕組みというはこのように動く。

似た考え方をする経済学者はこの人だけではない。

3年前に閣議決定された政府の「新しい経済政策パッケージ」を作った人たちの名前の横にも、有名大学教授の肩書きが並んでいた。

(政府の「新しい経済政策パッケージ」より抜粋)

『0歳~2歳児が9割を占める待機児童について、3歳~5歳児を含めその解消が当面の最優先課題である。待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』

(例えば、イギリス、フランス、韓国においては、所得制限を設けずに無償化が行われて いる)。

 

この政策パッケージが作られる10年以上前から、ハローワークで保育士を募集しても一人も応募してこない、という状況は日本中で起きていた。保育士を選べない状況はすでに動かない現実だった。経済学者たちが最優先と決め、無償化によって推し進めようとする32万人分の「受け皿整備」は、確実に幼児たちを世話する労働力の質を落とし、怯える幼児たちを増やすことでしか「着実に進め」られない。それを自治体のベテラン保育課長たちは知っていたし、厚労省も勿論知っていた。

保育士不足による弊害は、すでにマスコミでも繰り返し報じられていた。

ネットで、「保育士、虐待」と検索すれば記事はいくらでも出てくる。それを読みもしないで保育という手段を前提にした政策パッケージを作った学者や政治家を除けば、「子育て安心プラン」が規制緩和と人材不足を一層進め、子どもたちの安心、安全を脅かすプランだということは現場は皆わかっていた。私は、当時年間100以上の講演をし、その半数が保育者たちに呼ばれた講演だったから、そう言い切れる。現場は皆わかっていた。

それでも、いい保育士が怯える「子育て安心プラン」 を前倒しする、と政府は再び決めたのだった。

(イギリス、フランス、韓国の保育制度に関しては、参考にする意味がない。イギリスは四割、フランスは五割の子どもが未婚の母親から生まれ、家庭の定義がすでに日本とは違う。韓国の保育制度に関しては、その破綻の速度と、市場原理の危険性について知るべきだと思うが、無償化をとどまる事例にしてほしい。)

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2643:「保育士7人が一斉退職」の新聞記事と、現場からのメール:「子育て安心プラン」の中で、子どもが不安に怯えている

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591:幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実

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「新しい経済政策パッケージ」に関わった経済学者だけではない。保育士不足の只中で「十一時間保育を標準」と定めた国の子ども・子育て会議の「専門家」たちは、一体何をしていたのか。

「この内閣主導の経済政策パッケージをいずれ支えるのは未来の労働力となる子どもたちではないのか」という単純な理解があれば、「32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め」たらこの国の将来がどういうことになるか、保育の専門家ならわかるはずではないか。

保育の質の低下は、学級崩壊や教師の離職という形になって学校教育を追い詰める。いじめや不登校、引きこもりが増え、社会全体の生きる力が弱まり、将来の労働力の質も下がっていく。

「保育の受け皿」という言い方で誤魔化しても、これは間違いなく「子育て」の受け皿なのだ。そう言い換えれば少しは問題の本質が見えてくる。専門家の机上の仕組み論ではない「人間の営み」が感じられるはず。そんなことは、突然32万人分出来るはずがない。仕組みと資格(学問)で補えることではない。そこに書かれている通り対象の九割が三歳未満児なのだ。脳の発達、将来の思考の道筋がこの時期決まると言われている、その扱いには細心最善の注意を払わなくてはいけない、人間社会において最も繊細で敏感な人たち(大切な弱者たち)なのだ。政府や学者、専門家たちが乱暴に扱えば、そのひずみは必ず出てくる。

そして、この時期の子育ては、育つ側だけでなく、明らかに「育てる」側の体験であって、「寝たきりなんだから」(誰がやっても同じ)で済まされることではない。

「待機児童解消」が「子育て安心」と決めたのは誰なのか。

その人は一体何を考えているのか。「誰が」安心しようとしているのか。子育てにおいて、子どもたちの「安心」は二の次なのか。

心ある園長なら、すぐに抱くこうした施策上の矛盾と思考の展開に対する疑問に、学者たちがまったく気づかない。少なくとも、「新しい経済政策パッケージ」と「子ども・子育て支援新制度」に関わった専門家たちは、気づいていない。弱者の願いから生じる、人類が生き残るための常識から逸脱している。

追記:

待機児童はやがてゼロになる。その時が危ない。待機児童解消を優先課題と位置付ける経済学者たちは、そこで働く市場原理を理解しているのだろうか。

乱造とも言える保育施設の設置、規制緩和による人材の質の低下、それと同時に、少子化は確実に進んでいるのだ。地方ではすでに保育園の「定員割れ」があちこちで起こっていて、その波は、近い将来都市部にもくる。

その時、園児の取り合いから、親を「客」と考える保育のサービス産業化に拍車がかかる。それが怖い。数人の欠員が園の存続に直結する自転車操業のような小規模保育では、言い方は悪いが、親子を引き離すサービスに走り始める。生き残りを賭けて。そうしているところはすでにある。

(その結果、保育園が仮児童養護施設のような役割さえ果たさなければならなくなってきている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2391)

10年以上前から、私が講演依頼を受けた保育団体の勉強会の分科会に、「保育でどうやって儲けるか」というテーマで、保育の本質を理解していないビジネスコンサルタント達が講師として入り込んでいた。ビジネスには素人の、市場原理には慣れていない園長、設置者たちをサービス産業化で煽った後、今度は「保育界でいかに生き残るか」という脅し方を始めている。幼稚園がこども園化させられた過程でも、その現象は起こっていた。

子どもたちの最善の利益を優先する、という保育所保育指針の大前提を考えれば、保育は絶対に商売になってはいけなかった。保育の重要性を理解し、国が保育士たちの「心持ち」を守らなければいけなかった。「子育て」そのものと重なるこうした「保育に関わるものたちの様々な心の動き」を考慮せずして、少子化対策は成り立たない。

しかし、介護保険の失敗に懲りずに、市場原理に任せるのがいいという学者たちの安易で稚拙な経済施策が閣議決定され、子どもたちの日常と、取り返しのつかない幼少期の日々を蝕んでいく。

この国の将来の安心と経済を考えれば、まず最優先で保育を立て直すことだと思う。先手を打って、保育園を子育て支援センターに作り変えていく。親子を引き離さずに保育園がより一層大切な役割を果たし、生き残りの不安を感じなくてもいいように制度を変えることはできる。そして、0、1歳児を自ら育てる家庭に、もちろん祖父母でもいい、直接給付金を出すなどして、保育界の人材不足を解消する。(0、1歳児の役割の大切さももちろんだが、0、1歳児保育は、4、5歳児保育の10倍の人手が必要なのだ。)

保育という仕組みが必要不可欠になっている今、保育士たちがゆとりを持ち、喜びを感じる現場にしていくことが、弱者を中心に調和する社会を作る筋道だと思う。

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2736:「児童虐待がニュースになる度に思います」

http://kazu-matsui.jp/diary2/wp-admin/post.php?post=2276&action=edit:保育界の現実(森友学園問題)

卒園児を集め「お泊まり保育」のビデオ

保育園・幼稚園、という人生の故郷(ふるさと)になると丁度いい不思議な場所には、できることがたくさんあります。八王子の共励保育園(現在こども園)では、二十歳になり成人式を迎えた卒園児を園に集め同窓会をして「お泊まり保育」のビデオを見せるそうです。

「一人では生きられなかった自分。でもあの頃、あんなに楽しそうだったんだ、幸せそうだったんだ」映像に映る小さな自分の姿を見て、二十歳(はたち)がそう感じる。

「無力なのに、幸せそう」。昔の自分を眺めて、頼り、信じることの大切さに気づく。幸せの見つけ方を以前、ちゃんと知っていたことを思い出すのです。

幸せは、自分の心の持ち方で砂場に居ても手に入る、一緒に歌えば手に入る、そのことを思い出せば、安心を土台に、これから様々な責任を引き受けていける。

「お泊まり保育」のビデオ鑑賞は、やろうと思えば全ての園で出来ること。

いま混迷している義務教育の中でも、見方を変えれば、道徳教育や英語教育に力を入れる前に、しなければいけない大切なことがたくさんあると思います。仕組みを変えても何も変わらない。

いま子どもたちに教えなければいけないことは、人はひとりでは生きられないこと。そして、みんなで踊ると楽しいこと。その次元のことなのです。

保育は、園児の幸せを願うことで成り立ちます。子育ては、子どもの幸せを願うことなのです。子育ても、保育も、祈りの領域で完結する、そんなことを私に教えてくれた園長先生たちがいました。

毎年保育士が何人も替わる派遣や非正規雇用に頼らなければ運営できない保育では、園が心の故郷になることはできません。待機児童解消を目指す国の施策に、人の心を一つにする祈りの要素がないのです。乳幼児の笑顔は人間たちが「欲を捨てる」きっかけとなる。生きる動機になる、そのことの大切さを忘れてはいけない。

(共励保育園の理事長長田安司先生の著書「便利な保育園が奪う、本当はもっと大切なもの」幻冬舎刊、は保育者だけでなく、経済学者にも、政治家にも読んでほしい。保育実践の中から生まれる知恵、仕組みの問題点が様々な視点から書かれています。)

 

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長田先生も私も、映画「三丁目の夕日」の風景を知っている世代です。

あの頃に比べて私たちはより幸せになったのか、技術が進歩し、国は豊かになったはずなのに、社会としての幸せを実感できない、どこか殺伐としてきている。絆の質が浅くなっている。それは親子関係に現れている。そういうことをひしひしと感じる世代なのです。

アインシュタインが来日した時に驚愕、感嘆した「調和の社会」の残照、名残りを知っている世代なのです。

人間が生きる意味を見失い始めているのではないか。生きる意味を探す方法を捨てようとしているのではないか。時代が変わった、で片付けてはいけない、「もっと大切なもの」が崩れようとしている。

私は、その原因として、人間たちが三歳未満児と過ごす時間の減少を挙げます。それを保育の現場で検証し、警鐘を鳴らし続けているのです。

人間は、なぜ眠っている0歳児を眺めていると孤独を感じないのか。その辺りに答えがある。その瞬間、人間は、自分自身の人間性を見つめている。

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1676:「愛されることへの飢餓感・荒れる児童」

アメリカの道祖神が亡くなった。

RBG(Ruth Bader Ginsburg)ルース・ベイダー・ギンズバーグ米国最高裁判事が逝った。八十七歳だった。連邦議会の国旗が半旗になり、最高裁の前にロウソクが並び始め、日を追うごとに柵のまわりが花束とメッセージで埋めつくされていく。

アメリカの道祖神が亡くなった。

そんな気がする。

男女同権を目指す闘志だったが、男性的パワーゲームには巻き込まれない、ジェンダーの意味を知っていた賢者だと思う。だからこそ、保守系が多数を占める九人の最高裁判事の中で、保守系の男性判事からも尊敬を集め、畏れられ、友情を育んだのではないか。イデオロギーを超える「人格の力」に説得力があった。

九人のうち女性判事は三人、インタビューで、最高裁の判事のうち、何人が女性であるべきだと思いますか、という質問に、「九人」と答えている。性的役割分担を知っていた人だと思う。最高裁判事が九人とも女性だったら、アメリカという国の混沌はこれほど危険な状況にはなってはいなかった、私もそう感じる。想像でしかないのだが、そこに一つの真理があると思う。

この時期に逝くことによって、分断の恐ろしさ、政党政治の醜さ、ポピュリズムが選挙を動かす民主主義の危うさを浮き彫りにしているような、不思議なタイミング、去り方だった。

彼女の残像によって、進むべき道も、示されている気がする。

https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20200920-00199134/

ギンズバーグ判事

 

私は、保育界で道祖神たちから様々なことを教わり、その絶対的存在感に後押しされ、その意図をうかがいながら、考えている。携帯の中には自分で撮った道祖神コレクションがある。保育界は特に、神を育てる場所なのだと思う。幼児という神々と日常的に向き合い、その影響を受ける場所なのだと思う。

私の道祖神たちは、全員女性だった。九十歳を超えた道祖神は、歩いているだけで、座っているだけで園を治めていた。子どもたちだけではなく、親たちの心を見事に鎮めていた。

(参考ブログ)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=290:ゾウがサイを殺すとき/園が道祖神を生む/チンパンジーとバナナ/犬にはちゃんと法律が出来たのに

保育士の喜び

「同居は福祉における含み資産」。こういう真っ当なことが1978年の「厚生白書」に書かれていた。

 その辺りがこの国の賢さだった。絆や、人々の心持ち、数字には表れない心情を、資産として評価する姿勢が行政や学問の中にあったのだ。つい、40年前のこと。

経済を金の動きという一面だけで見ない、人間の心理、幸福論まで含む経済論が確かにこの国には存在していた。そうした一見非論理的な計算能力を伝承することで、集団としての人間たちが、互いの存在に安心する「知恵や常識」が維持されていた。

子育てを最近の経済学者が「雇用労働施策」に取り込んだあたりから、そうした「知恵や常識」が一気に崩れはじめたのです。

いつの間にか人々をつなぐ「絆」の次元がとても平板に、白か黒かみたいなことになってしまった。税金を納めているかいないかで人間の価値が測られ、「平等」という現実にはあり得ない関係性が指針を惑わし、より多くの人々が競争に追い込まれ、まるで地球温暖化のように市場原理、競争原理がヒートアップしていく。「平等」を目指すパワーゲームに慣れてしまい、戦える者たちの陰で弱者がその存在価値を失っていく。結果的に、格差は、なお一層広まってしまった。

平等という言葉は実は「機会の平等」(Equal Opportunity)であって、民主主義における社会正義として必要ではあっても、結局、強者たちによる勝者の免罪符にすり替わっていく。その過程で捨てられる物差し、「人間性」の喪失が、世界中で様々な形の摩擦や軋轢を生んでいる。

格差で生じる不満、不安が資本主義社会のエネルギーとアダム・スミスは言ったが、それはすなわち利他や無私の心を捨てる道でもあった。その道を行くと、幼児という弱者を可愛がり、彼らに寄り添うという種の保存法そのものでもある本能的な幸福論が見えにくくなる。表層的で短絡的な経済論(欲の幸福論)によって、人間の共生本能が覆い隠されていく。

三歳までに、主として親や祖父母から肌を通して伝えられてきた「何か」の絶対量が決定的に欠けてくると、競争意欲に歯止めがかからなくなり、これでは欧米社会の二の舞になってしまう。

心を伴わない「情報」で頭が一杯になった人たちは、相対的に、拠り所としての自分の感性、本能に基づく判断力を失い始める。すると、正論や事実であっても、自分の思い、願いに合わないものは「フェイクニュース」(偽情報)として簡単に片付けることができるようになる。

思い出してほしい。「千と千尋の神隠し」もフェイクニュースといえば、そうなのだ。人間が社会を形成するのに必要なのは、共有できる真理を見つけ出す力、調和への道を示唆する物差しを嗅ぎ分ける感性なのだ。

「千と千尋の神隠し」という不可思議な作品が日本の映画史上、いまだに観客動員数第一位。そこにこの国の素晴らしさ、本質がある。それを真剣に見てほしい。

 

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保育士の喜び

少人数、透明マスクをつけ、距離を保ちながら保育園の主任さんたちに講演し、その後座談会になった。敢えて、ここ数ヶ月、コロナ禍の中で保育士として嬉しかったこと、を聴いてみた。

保育士や子どもたちの安全を考え、保護者に登園自粛をお願いしたところ、大体どの園も登園児が定員の三分の一になったといいます。その時のゆとりある保育がとても嬉しかった。子どもたちの願い、要求に3倍応えられる、それで保育自体が楽しかった、と言うのです。

保育の基本は、子どもを可愛がる、そして寄り添う。それができた時に保育士は幸せを感じます。そういう人たちなのです。言い換えれば、普段の国基準の1対4、1対6、1対20、1対30の保育が、保育士たちの幸福の基準を超えてしまっているということ。そして、保育士たちの喜びが、保育の質なのです。

その次に、親たちが規則をちゃんと守るようになったのが嬉しかった、という発言がありました。

「コロナの問題がありますから、少しでも熱があったら登園させないでください」と言う園からのお願いを親たちが聴く、のだそうです。普段は、登園前に抗生物質を呑ませて、登園時だけ熱を下げるようなことをする困った親たちが、ちゃんと子どもを休ませる。

お迎えに平気で遅れてくるような親が、「コロナの問題がありますから」と言うと、時間通りにきちんと迎えに来る、と嬉しそうに言うのです。

そう、保育士たちは、親たちが子どものためにルールや規則をちゃんと守ってくれるのが嬉しい。そういうあたり前のことが保育士を元気にする。言い換えれば、そういう当たり前のことをしてくれない親たちが、当たり前のように増えてきたことが、保育士を疲弊させ、保育士不足を生んでいるのです。

そして、最後に、「今年新任で入った子(保育士)が、私が保育士になって最初の年に受け持った子だったんです。先生が好きで、保育士になったんです、って言ってくれたんです」。もう、涙が止まらない。周りに聴いている他の主任さんたち、私も涙が止まらない。これが保育士の本当の喜びなんだなぁ、と思いました。

毎年、保育士がどんどん代わっていくような園では、もう絶対に起こらないこと。政府の「保育は成長産業」という閣議決定が、これほど馬鹿馬鹿しく思えた瞬間はありませんでした。

人間は、生きている意味を探しながら生きる。喜びをわかちあいながら、人生がつながっていくことを嬉しく思う。それが「生きる力」、そんな法則を、主任さんたちから学びました。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=285

「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている

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魂の次元のコミュニケーションが人間社会の土台として存在していて、その伝承が「生きる」喜びになる。それを、祈りという人たちもいれば、思いやりという人たちもいる。最近では、非認知能力と定義する学者もいる。音楽や舞踏などは、その次元をそのまま具現化しているから、私たちは、浅い、深いのちがいはあっても常にこの次元で会話をしている。この次元を互いに分かち合う人間は、宇宙における存在としては不思議で、その不思議さは赤ん坊との会話から始まる。(と私は言ってきました。)

すべての人が生まれてすぐ、実はこの魂の次元のコミュニケーションの源に位置し、それを体現していた。だから、人間たちは「宝」として、それを可愛がった。

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たとえば、子守唄という、始めは一方通行のように見える音楽の形が、人間のコミュニケーションの次元を広げ、種の存続にとって正しい方向へ人々を導いてくれる。子守唄は、人類を祈りという行動に誘う入り口にあって、道筋は、神々や、大自然や、自分自身との会話に繋がっていく。

先進国社会の子育てに、子守唄が聴こえなくなっている。それは、子育てに祈りが、欠けてきているということ。

こうした現象から人間社会の変化を感知してほしい。コミュニケーションの変質は、そのまま社会の変質でもあるのだから。

今、3歳までの幼児と話す機会を社会全体に、積極的に、意識的に取り戻していかないと、と私は言い続けてきた。

 

この映像は、私が作ったドキュメンタリー映画「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」からの1シーンで、シャクティのメンバーでリーダー的存在のメリタの婚約式の場面から始まる。

 

その晩、突然激しい雨が降り出し、村全体が停電になった。インドの村ではよくあること。半分冗談のように、誰かが電線を盗んでいった、と一人がつぶやく。すぐにロウソクとランプの灯りが点けられ、思いがけず、つい最近まで、世界中で何千年も続いてきた人々の暮らしが照らし出された。

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幸運だった。嵐が、私に何か大切なことを告げようとしている、と感じた。

炎の揺らぎの中に、神や宇宙を感じる。人間は灯火(ともしび)のもとで心を合わせ、生きてきたのだ……。その風景は見事で、鮮明で、美しかった。

シスター・チャンドラは踊ること、太鼓を打ち鳴らすことでダリット(不可触民)の女性に対する差別や偏見と闘っていた。不可触民の「男性」に、しかも上位カーストの葬儀でしか許されていなかった太鼓を、女性が撃ち鳴らすことで、幾重にも作られた理不尽な壁を打ち破ろうとしていた。舞踏劇の一シーンでは、持参金(ダウリ)目的で台所で灯油をかけられて殺される妻たちが表現される……。

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私とシスターとの出会いも偶然だった。稀有の出会いがたぐり寄せたこの作品は、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭で、長編ドキュメンタリー部門の金賞を受賞した。音楽は自分のアルバム「Stone Monkey」からCrowを使った。自分の撮った映像と以前作った音楽が不思議に、目的と時を超えて寄り添い、馴染んだ。

人間たちが積み上げ、深めてきた「絆」と、コミュニケーションの様々な手法や形がこの映像に集約された。その意思と意味を汲み取って、私は言い続けなければならない、そう思いながら編集した。

 

人間が幸福論の中心に据えていた「子育て」という体験が、ここ数十年の間に先進国で、急激に希薄になっている。「子育て」と「教育」の混同から始まり、親を労働力にするために「子育ての社会化(制度化)」が進められている。子どもを育てる幸福感が、社会構造や人間の「気」の流れから突然欠落し始め、それに伴う家庭崩壊によって、保育や学校教育という制度そのものも危機にさらされている。

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日本の国会で、数年前総理大臣が、当時待機児童が2万人だったにも関わらず、あと40万人保育園で預かれば女性が輝く、と言ってしまった。子育てでは輝かない、経済活動に参加する方が輝く、と言うのだ。幸福を金額で計る近視眼的な経済界の都合が、そのまま国の施策となっていった。子育ては損な役割、イライラの原因というイメージづけが政府とマスコミによって繰り返し行われ、浸透し始め、しかも、論旨に差はあっても、三歳未満児をなるべく親から引き離そうとすることにおいては、与野党一致なのだから、私がいくら叫んでもどうしようもない。それでも、発言の機会が、国会や市役所や園長先生たちの勉強会、保護者会などで与えられてきたのだから、それがこの国の不思議さであり、ありがたい。

(今年は、コロナ問題で講演はほぼ全て中止になったが、それでも先日、参議院会館からズームを使って、地方議員の人たち100名くらいに発言する機会があった。去年、衆議院調査局が年に一度発行する「RESEARCH BUREAU 論究 第16号 2019.12」に提言論文を依頼され、「子供を優先する、子育て支援」―先進国社会における家庭崩壊にどう向き合うか―、というタイトルで書き、年末に発刊されました。衆議院のホームページで読むことができます。誰も聞いてくれなくなるまで、いい続けるしかない。)

保育園と「一緒に」子育てをしていた昔の親たちを覚えている園長先生たちが、顔をしかめて言う。たった十年くらいの間に、0歳児を十時間以上預けることに躊躇しない親たちが驚くほど増えた、と。年配の園長先生たちは、保育を商売とは考えない。保育所保育指針にも、保育園は「子どもの最善の利益を優先する」と書いてある。だから、経済学者たちが保育園の経営が安定していいだろう、くらいに思う、十一時間保育を「標準」と名付ける施策に心を痛め、顔をしかめる。そして「保育は成長産業」とした閣議決定を呑まざるを得ない補助事業としての立場に失望し、気力を失って引退していく。

「この人たちが居なくなったら、学校教育なんかもたいよ!」と叫びたくなる。この国が誰に支えられていたか、誰との会話によって耕されていたのか、経済学者はまったく気づいていない。

政府の思惑通り「保育はサービス産業」と本気で考える園長や理事長もいる。彼らは、政府の子ども・子育て支援新制度を「ビジネスチャンス」と宣伝するビジネスコンサルタントやフランチャイズ型の株式会社の進出に煽られ、保育士の質など考えずに、マネーゲームのように保育園を増やしていく。老人介護で露見した人材不足が生む「心ない福祉」が、保育施策を通して幼児たちの将来にどう影響を及ぼしていくか、政治家やマスコミは真剣に考えてほしい。

学級崩壊やいじめ、不登校、成人男性の早期退職、引きこもり、そして未婚率の増加、増え続ける児童虐待と女性虐待の数字を見れば、幼児期の子育てに関わる施策は、国家の成り立ちに関わる緊急かつ最重要課題だとわかるはず。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2822(全国で相次ぐ「保育士大量退職」:保育のサービス産業化は義務教育とは相容れない)

 

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コロナウイルスの感染拡大の最中に、アメリカやフランスで、大学生や大人たちがマスクも付けずに「コロナ」パーティーで大騒ぎをしている姿が報道で流れてくる。(私は、NHKの世界のトップニュースやCNNなどで見ている。)映し出されるのは名門大学の学生たち。一体どうなっているのか、と驚いている日本人も多いはず。「一部の人たち」とは言い切れない異常さが、あのから騒ぎから見えてくる。

競争に駆り立てられ、優しさを失った人間たちの不穏な空気が欧米先進国を覆っている気がしてならない。傾向は、今年はじめにフランスで起こっていた労働問題のデモ行進が簡単に暴動につながってしまう風景にも見られたし、私は、二十六年前にロサンゼルスで起きた大地震の後の略奪風景からも感じていた。「人間性」と、人間たちが持ち合わせているはずの「社会性」が変質してきている。多くの人間の心の底に不平不満が蓄積し、行き場を失っている。それは多分、突き詰めて言えば、日本における「結婚しようとしない男たち」の増加という現象にもつながっている。

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アメリカで40%、フランスで50%の子どもが未婚の母から生まれ、実の親、血のつながりという概念が成り立たなくなっている今、子育てが、人間たちが信頼関係を育て、輝き合う瞬間だという意識が遠のいている。それにつれ、「利他」「思いやり」という他人の幸せを願う幸福論が希薄になっている。

経済競争を「輝く」手段と刷り込まれた人たちは、お金を稼ぎ、それを使うことで「輝く」と思い始める。稼いでも、使わなければ意味がない。そう思うように仕向けられている。それゆえに、コロナウイルスという「利他の心」がなければ治まらない試練が人類に突きつけられている只中で、他人と自分の命をリスクに晒してでも、人生の価値を確認するように、尋常とは思えない刹那的などんちゃん騒ぎが広がっていく。高齢者でないかぎり死亡率は低い。ちょっとしたロシアンルーレットのようなギャンブル性が逆に、若者たちにとって魅力になっているようにも思える。

先週、トランプ大統領が選挙戦の最中、大学の人気フットボールリーグ「ビッグ10」の開催をうながし、病気になるのは疾患を持った太った高齢者だけだ、体を鍛えている君たちは大丈夫だ、と言い切った。”People don’t realize it’s a tiny percentage of people who get sick. They’re old. Especially old people with heart and weight problems.”

フットボールリーグのキャンセルが経済に及ぼす影響を考えているのだと思う。アメリカの大学スポーツ、特にフットボールとバスケットボールはプロ以上に人気があるし、開催されれば経済活動復活のシンボルになる。しかし、こうした明らかに弱者を軽視する発言を、国の未来を担っていく名門大学の若者たちに大統領が言ってしまっては、この先人種差別や格差の是正に向かう手立てが、ますます希少になっていく。

調和に向かうための社会全体に共通する常識や、それを支える「モラルや秩序」を考えた時、私は、こういう発言こそが問題だと思う。

その演説をテレビで見て、すでに犠牲者が千人を超えている医療関係者が肩を震わせて憤る。医療崩壊がいつ起きても不思議ではない状況の中で大統領がこれを言っては、隔離や自粛が絵空事になる。大統領には、教育機関が、ビジネスに貢献する以上に、または以前に、人間の品格とか人智を身につける目的がその土台にあったという意識がすでにない。

日本で、首相が「病気になるのは疾患を持った高齢者がほとんど、若者は重篤にならないのだから、経済を回すために積極的に旅行をしましょう」と言ったら大変なことになると思う。それが事実に基づいた発言であったとしても、高齢者(弱者)の気持ちを考えれば立場上言えるはずがない。欧米に比べれば、の話だが、この国は、まだ良識や常識が機能している国なのだ。そのことにもっと気づいて欲しい。この国も、土台から崩れ始めているのだから。

政府や経済界が、経済を回すために主導した子育てに関わる「弱者を忘れた」経済優先の施策が、先進国社会で行き詰まっている。それを、コロナ惨禍が浮き彫りにしている。大自然が人類に、コミュニケーションの原点回帰を要求している。

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(バイデン候補、副大統領候補にカマラ・ハリス上院議員、元カリフォルニア州司法長官を選んだ。氏の亡くなった息子さんが二人を引き寄せた、というのも偶然ではないと思う。人は死んでも絆は続き、会話は続く。特に親子の関係はそういうもの。会話は永遠に続く。

カマラという名前はサンスクリット語で「紅い蓮の華」だという。母上がチェンナイ出身のインド人で乳がんの研究者。父はジャマイカ出身の経済学者。60年代の公民権運動に幼いカマラさんを乳母車に乗せて参加したというエピソードが、私たちの世代には懐かしい、微笑ましいイメージとして伝わってくる。

それは、「答えは、風の中に……」とボブ・ディランが大衆に唄い始めたころで、彼を見つけ出すことができた時代の幕は、その時すでに上がっていた。

「溺れる前に泳ぎ始めよう」と彼は続けた。

しかし、その後ベトナム戦争は激化し、若者たちの命を奪いながら泥沼化していった。敵は10倍の戦死者を出しているのだから、自分たちは勝っている、と言い続けた軍の上層部、そしてデモを抑えきれなくなった政治家たちが目指した『名誉ある撤退』のために、多くの若者が死んでいった。ヘリコプターの輸送力と先進医療のおかげで戦死する確率は低かったが、負傷する確率はほぼ百パーセント、だから全員勲章をもらった戦争は、当初、志願兵が主体になって成り立っていた。母親たちが育てた、愛国心を持った自慢の息子たちが倒れていった。

そして今、アメリカが抱える混沌は、「愛国心」を利用した利権争いになっている。同様の混沌が世界中に広がっている。国の定義に、幼児たちの日常が優先的に含まれない「愛国心」など、権力闘争の道具でしかない。)