「社会で子育て」大日向教授、小宮山厚労大臣の新システム

(公開日時: 2013年2月28日)

派遣会社に頼り始めたり、非正規雇用を増やすと、入れ替わる保育士の回転が早過ぎて、保育園で心構えの伝承が行われないまま、マニュアルに頼って保育をし始める園が現れます。株式会社などは始めからマニュアルを用意する。(そうした方が良い保育園も、残念ながらある。)しかし、本来「子育て」は、人から人へ受け継がれてきた生きる動機の伝承であって、次の世代に未来を託し、信頼関係を深める儀式だった。

 保育士は養成校で育つのではない、現場で育つ、と昔はよく言われたもの。保育は子育てであって、どんなマニュアルを作っても基本は一対一。つまり人間対人間なのです。気持ちの伝承が中心あってこそ成り立つ。特に乳幼児は、そうした伝承の意味を肌で敏感に感じる。そういう役目を持っている人たちなのです。

 その子と私、であって、子ども対仕事ではない。

 良い園で、新人は、それを徹底的に仕込まれます。「仕事になってはいけないよ」「オムツを替える時は話しかける。給食の時もそう」、「なんで泣いているのか、担当の保育士にはわかるようになれば、いい。それでも最後は親に譲るんだよ」

 そして、ゆっくりと子どもたちが保育士を育て、保育士同士助け合いながら、いい園長や主任に見守られながら、保育士の心が縦糸と横糸のように伝わっていく。

 命を前に、心が一つにならなければ「親子関係が主体」という基本が次の世代に伝わらないのです。

 

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 去年、子ども・子育て新システムに携わり、現在社会保障制度改革国民会議委員の大日向教授が、新システムの説明で「保育の友」に、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言った。これが、新制度の出発点にある。これが存在する限り、どんな妥協点もありえない。闘うしかない。

 大日向教授:「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある。」

 社会(仕組み)が育ててくれれば産む、ということなのでしょう。しかし、この発言は日本人を見くびっている。日本の少子化は、自ら育てられないのだったら産まないという美学、ととらえたい。その方が自然。日本人は、欧米人とは違った考え方をする。男性が結婚しない状況を、その理由を探ろうともせず、未婚の母を欧米並みに増やさなければ少子化は解決しない、と言い切る学者さえいるのです。そういう施策が、どれだけ将来の世代の負担になるっていくか、欧米の状況を見れば想像がつくはず。

 

 「社会で子育て」というキャンペーンを張り、自分で育てられなくても産む、という感覚が広がることの方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。実の親という概念が消えつつある欧米の犯罪率を見ると、「社会で子育て」は、人間性の否定につながるのかもしれない。

 

 小宮山洋子元厚労大臣が、自著で「希望するすべての子どもに家庭以外の居場所を作ります」書いている。

 現在進んでいる「子ども・子育て支援新制度」、小宮山氏が進めていた「子ども・子育て新システム」の表紙を変えたもの。家庭以外の居場所を子どもたちが希望するようになったら、それこそ人類の危機です。政府がそう仕向けることで、システム(居場所)から保育士の心が本能的に離れてゆく。

 

 行政が、親たちに保育園の満足度調査をする。園からそれぞれ数十万円徴収して行われる「第三者評価」もおかしな仕組みです。親が保育園の客ではない。保育所保育指針にもあるように、「子どもの最善の利益を優先する」、それが保育の第一義的責任。それを繰り返し確認していないと保育がただの労働、サービスになってしまう。国が行う匿名の「満足度調査」は保育園はサービス産業というイメージを親に与えるきっかけになる。これでは本来の保育は出来ない。問題のある親を指導する、という保育指針に書かれている園の役割を実行出来なくなる。

 保育園は場合によっては児童相談所と相談して子どもを親から一定時間引き離す役割を担っている。それほど現場では様々な場面が現れている。サービス産業にはそれが出来ない。

 「子どもたちの満足度+親たちの感謝度」調査ならわかりますが。

 調査と称して匿名で行われるやり取りが、子育てに必要な(育てる側の)信頼関係を壊し、子どもたちがそのように「社会」を理解しはじめたら、将来結婚や子育てに生きる動機を見出すことからますます離れてゆくでしょう。

 子育てにおける第三者評価をする第三者は、神とか仏、または人間の善性のようなものでなければならないはず。

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 全国紙に載った、ベネッセの母親に対する調査に、

「子育ては大事だが、自分の人生も大切」 ○か×か、という質問がありました。6割が○をつけます。

 自分の人生が大切でないと言う人はいない。あきらかに設問に問題がある。子育てをしたら人生を大切にできない、と暗示している。それが事実なら哺乳類は成り立たない。背後に子育ての市場化が見え隠れします。こういう曖昧な意識の操作が近頃多いのです。

「母親も、一人の女にかえる時間が必要だと思うんです」という発言が以前雑誌に載っていました。母親と一人の女は本当は分けられない。

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 体罰問題でTVタックルに出ていた陰山先生が番組の最後に言っていた、「大阪、とにかく教師になり手がいないんです」。これが、いま子育てを中心に渦巻いているすべての議論の結果としてある。大人たちが自分本位に、自分の立場で、自分の権利を主張して議論している間に、子どもたちは誰に育てられているのかわからないまま不安を抱え育ってゆく。教育・保育に関するテレビの議論を聴いていると、子育ての押し付け合い、責任転嫁のしあい、のように思えてくる。それに教師が背を向け始めている。

 

 18年前の調査で、「できるなら自分で育てたい」という母親が9割いたそうです。

 それが、三才児神話は神話にすぎない、という三歳未満児を預けさせる厚労省の強力なキャンペーンで現在7割に減った。これが保育を苦しめる、と共励保育園の長田安司理事長は著書「便利な保育園が奪う本当はもっと大切なもの」に書く。これはもう雇用労働施策の域を越えている。本能に関係する負の連鎖が始まり、戻れなくなっている。

 

 政治家も厚労省も実は知っている。一日8時間働いても認可保育園に入れない地域もあれば、一日4時間、月に16日働けば週40時間預けられる地域もある。幼稚園が一つもない自治体も二割ある。つまり、全国で働いていないが保育園に子どもを預けてる親はたくさんいるのです。それほど仕組み自体が発展途上の、対応がバラバラな制度なのです。一部の親たちの要求が通ると、他の地域で必要ない保育時間と親の子育てに対する意識の変化を生まれる。だからこそ地方裁量がいいと言う論法もあるのですが、保育の基準を自治体の裁量に任せた時に、問われるのは首長の知識と意識です。そこが心配です。

(私は毎年、全国あちこちで講演して市長や子育て支援課長に会うのですが、非情に心配です。保育を福祉サービスだと勘違いして、子育てだということを忘れている人たちが多い。特に市長や議員がそうなのですが、待機児童をなくすことが、即ちいいことで、それが子どもたちの願いに反していること、親らしさを育ち難くしていることまで理解している人が少ない。子どもの育ち、親の親らしさが学校教育にどのように影響してくるかほとんど考えていない。行政の人には気づいている人が沢山いるのですが、現場の状況に気づいても数年で異動になってしまったり、国の施策との板挟みになって気力を失ってしまう。)

親たち、子どもたち、保育者たちの育ちあいを理解していれば、地方の実状に合わせて異なった基準を作るのは、そんなに難しい事ではありません。幼稚園と保育園の割り合い、公立と私立の割り合い、正規雇用と非正規雇用の割り合いで、地域の状況と意識はだいたい把握できますし、あとは勤務時間の正確な把握と行事の組み合わせで、親たちがそこそこ育っていく、義務教育が成り立つ基準をつくることは出来る。

 

  政府の、子ども・子育て支援新制度説明会で配られた資料に、「認定こども園に関する留意点について」、というのがありました。ネットでも検索出来るのですが、制度のやり方、進め方のことばかりで、保育内容についての留意点は書いていない。全く子どもの事を考えていない。一文字もない。

 認定こども園という新たな形で政府が進める幼保一体化で、一番留意すべき点は、三才まで保育園で育った子どもたちと、それまで家庭で育った子どもたちを年少で一緒にすることの危うさです。よほど子どもを仕切れる保育士の配置をしない限り、家庭組が恐い体験をする。(死を招いた保育/猪熊弘子著にも似たような状況が書いてあります。)0歳から保育園に居た子どもと家庭でのんびり過ごした子どもでは、出来る事出来ない事、それまでの人生の体験がちがうのです。そして、子どもは、知らず知らず残酷なことをしてしまう。

 

 「就学前の子供たちが、親が働いている、いないによって幼稚園と保育所に別れている現状が、子供の健やかな育ちを守り、同時に親が安心して働き続ける上で、大きな問題を生んでいる。」と政府の会議を仕切る大日向雅美教授は言うのです。

しかし、子ども、特に幼児を、他人に預けて親が「安心して」働けるわけはないし、保育士1人に乳児3人、一歳児で1対6という基準でそれを目指すのは尋常ではない。無理な要求が、保育をする側の人間性の欠如を生む。子どもの気持ちを考えると、自分たちの限界が見える。そして、幼稚園と保育園はまったく異なる仕組みであって、形だけ差を無くせばそれが安心につながると思っているのなら、あまりにも身勝手で稚拙。結局は、雇用労働促進のための幼保一体化でしかない。

 自分で育てたい親と、その子どもたちのための日常的な配慮が「こども園」を進める施策にはない。

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 ユニセフの「世界子供白書2001」に、三歳までの、親や家族との経験や対話が後の学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、と書いてあります。必ずそうなるとは思いませんが、たぶんそうだろうな、と思います。

 一昨年、朝日新聞でも一面で保育園に通った子と幼稚園に通った子の、中卒まで縮まらない学力の差を報道していました。保育の質の差がそれを生んでいるのなら、体力の差と同じように小学5年生くらいで差はなくなるはず。そこに現れるのは親子関係の差ではないか、子どもの安心感、特定の人間との愛着関係の差が子どもの将来に影響するのだと考えられないか。「勉強しなさい」という言葉は、言う人と言われる人の愛着関係によって、その質量が変わってくるということです。

 税収を上げるための雇用労働施策で、三歳児神話は神話に過ぎないと否定しようとする人たちは、未だに親の意識の変化を心配する園長たちの話に耳を傾けようとない。

「せっかく良い保育をしても、また月曜日噛みつくようになって戻ってくる。週末親に返すと、お尻が真っ赤になって戻ってくる」。そして、そんな常識を逸脱している親の子たちが沢山の子どもたちと一緒に過ごす。1才の時に、何度か噛みつかれた子どものPTSDなど、誰にもわからない。それが将来どういう行動になって出てくるのか、誰にもわからない。保育士不足、保育士の意識の低下も重なり、現場は追い込まれている。

 

 定員割れを起こしている保育者養成校の問題が保育士不足の現状をますます危機的にしています。来期の生徒募集に関わるのでしょう、資格を与えるべきでない学生をなかなか落とせない。

 講師が園長に、自分たちは落とせないので実習で落としてほしいと秘かに頼む。これはいい教師。でも情けない仕組みは、なんとか落とさないでくださいと園長に頼む。園長も、また他の園で迷惑をかけても困るからと、渋々合格にする。市場原理とはこんな物。厚労省は自治体で養成校を増やし保育士不足を解消しろ、安心基金で金は出す、と言うのですが、このままではますます学生の質が落ち、講師がやる気をなくしていきます。

 保育に本気の学生たちが、「全員に国家試験を課すべきです」と私に言うのです。

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 日本人は仕事と、人生や生き甲斐を重ねる人たちでした。市場原理主義の欧米の価値観とは人生観が違うのです。だからこそ、学者の経済論で計りきれない動きをする。預かる事で子どもの不幸に手を貸しているのではないか、と思えば保育士が辞めてゆくのです。子どもたちの願いと自分の人生を重ねることが出来る人たち。この人たちがいつか日本を守る。この人たちがまだ居るうちに、政府が保育施策の中心を、保育のサービス産業化から、子どもの最善の利益を優先する、に戻してほしいのです。

 

 

「高学歴化、社会参加の意欲の高まり、経済不況の影響もあって、働くことを希望する女性は増えている」と大日向教授。

 心から希望しているのか、仕方なく希望しているのかによって施策は違わなければならない。仕方なくであれば、直接給付などで、子育てを心の中では希望している女性のニーズにもっと応えていくべき。子どもたちの希望とも重なります。

 

 幼保一体化と簡単に言いますが、5時間預かる子どもと10時間預かる子どもを一緒に保育するのは大変なことです。親たちのプライドの持ちどころも異なる。人生観がちがう。一緒にしてもなかなか交わらないのです。「幼稚園は初めての社会、保育園は家庭の延長でなければいけない」と、こども園に関わっている主任が、実感を込めて私に言ったことがあります。

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 規則が曖昧にされ、規則の合間を縫って、百人規模の「家庭的保育室」が現れている。市から補助も出る。そんな人数で「家庭的」はあり得ない。親へのサービスだけを考える園長のもとでは犠牲者が出るかもしれない。いま進められている国の新制度は、保育ママでさらに危ない状況を進めようとする。

保育は市場原理では機能しません。いずれ事故が増え、訴訟と損害賠償、保険料の急騰で撤退してゆくのでしょう。しかし、それでは子どもの犠牲がともなうことになる。

 

 0、1、2歳との会話は、神との会話。神話の領域。人間のコミュニケーション能力が次元や時空を超えるのは、この人たちの指導のおかげです。

人生は、自分を体験することでしかない。理解できないことを理解しようとする。それが自分自身を体験するということなのです。

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ツイッター@kazu_matsuiからの発展型/徒然なるままに

 子を授かり、男らしさ女らしさ(遺伝子的には、進化に不可欠の相対的発達障害?)が適度に中和され、自然界の落とし所「親らしさ」に移行する。そのための「子育て」なのかもしれません。


(差異を「選択肢のない絆」で中和し、お互いに必要であることを確認するために個人差=不完全さがある)

 以前、上野動物園の中川園長が教えてくれた,人間は八人育てて一人前説も、人間を動物の一種と見た時に成立する現代社会に対する警告的仮説だと思う。

(哺乳類には、平均生涯出産匹数があって、人間は八匹。八匹育てて一人前です、と中川さんは言っていた。親子という絶対的に必要としあう個体の差異が種の保存に決定的、という意味かもしれない。)

 八匹は無理としても、産むことは育てること、人間のような高等動物は育てることで一人前になってゆくと言いたかったのだと思う。「一人前」という言葉が中々意味深い。たぶん種の保存に必要な程度に成熟することなのだろう。遺伝子学者は「遺伝子がオンになってくる」という言い方をしていた。

 筑波大名誉教授の分子生物学者、村上和雄氏の「生命の暗号」という本に、遺伝子がオンになるほど良い研究が出来る、感性が磨かれる。遺伝子をなるべくオンにするには感謝すること、Give&Giveで生きること、その典型が乳児を育てる母親、と書いてあるのを読んだ時、その直感に感動したことがあります。

 男が授乳できれば結構遺伝子がオンになるはずなのでしょうが、宿命的に無理。今の世の中、父親が乳幼児を抱いて遺伝子をオンにする時間さえ極端に少ない。父親を人間らしくする一日保育士体験を薦めています。「親心を育む会」のホームページに父親たちの感想が数百載ってます。絶対、効き目あります。

 経済競争というパワーゲーム(マネーゲーム)に組込まれた子育ての社会化が、親らしさで心を一つにする(男女の差異を中和する・調和する)部族の定義を揺るがしている。

 人類は、赤ん坊の生まれて初めての笑顔を一緒に眺めて、部族の善性を確認し安心する。
 「逝きし世の面影」渡辺京二著の第十章、(子どもの楽園)を読むと、幼児を崇拝して生きていた人間たちの安心感と笑顔が、それを書いた欧米人の魂を揺さぶったのが見えてくる。インドや中国をすでに見た欧米人が、なぜこの国を「パラダイス」と呼んだか。貧しきものは幸いなれ、と言った聖書の言葉が、幼児を中心に生きることで具現化されることに、気づいたからだと思う。


 子育てに幸せを感じ、心を一つにし、人々が安心すると、競争が止まり経済は減速するのかもしれない。
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 国境を越えた経済のグローバリズムは、幸福論と無関係に、勝者敗者を残酷なまでに露にすることで成り立っている。資本主義のエネルギーは社会に不満と不安を増やすこと、と書いたのはアダム・スミス(国富論)。グローバル化した経済はまさにその通りに動いている。
 親らしさは損得勘定を捨て、利他の幸せを感じること。本来、経済の土台を支えるものではあるが、価値観の多様化により経済成長の対極に位置するようになる。(差異を中和するために補いあうという動きの対極にあるのが現在の経済活動。)

 百五十年前、欧米人はこの国の調和を見て「パラダイス」と言った。
 それでは困る、と今,日本の経済学者たちが言う。

 実は、「パラダイス」に競争は馴染まない。「逝きし世の面影」第十章に、日本の男、夏、冬という欧米人が百五十年前に描いた絵がある。それは、フンドシ姿で幼児を抱く男と、着物姿で幼児を抱く男。日本の子どもは父親の肩車で育つ、そこから降りるとすぐ赤ん坊をおんぶする。
 時空を越えて、欧米人が私たちにメッセージを伝える。

 男女という差異が子育てで適度に中和され、「親心」という調和を生む。差異を、経済競争における「機会の平等」で埋めようとすると、それはお互いの不完全さを尊重した上での調和ではないため、差異が競争のエネルギー源になり絆を傷つけはじめる。

 「待機児童をなくせ、子育ての社会化」:哺乳類2億年の歴史に対抗する親子を引き離す運動は、幼児の存在を軽んじることでのみ可能になる。その兆候は教師と保育士の待遇の差にも現れるし、親が育つ「幼児期の子育て」を仕事化、システム化しようとする施策でもわかる。
 以前、経済財政諮問会議の座長が「0才児は寝たきり」と言った。経済学者にとって、「寝たきり」の人は社会に貢献していない。学問の恐ろしさは、こいうところに現れる。数値で表れないことにはほとんど関心を示さない。
 0才児に一年間話しかけ、寝たきりの老人にも役割があることに人間は気づく。1才児2才児に信じてもらい許されて、認知症の老人にも障害を持っている人にも役割があることを知る。システムに過ぎない福祉には限界がある。予算が無くなるかもしれない。
 しかし何より、選択肢が出来ることで、心の育ちあいが消えることが恐ろしい。

 (子育ての責任が社会に移ると、モラル・秩序が崩壊していく。人間性は教育や法整備で強制できない。犯罪率(例えば傷害事件)を比べれば、家庭崩壊が激しいアメリカは日本の25倍、フィンランドは18倍、フランスは6倍、これが現実。宗教や哲学が数千年繰り返し言ってきた幸福論が、歴史の浅い経済論で壊される。)

 (個の差異=不完全さ、をまず親子という絆で中和する。絆をつくることに幸せを感じることによって、互いに必要とするために個人差があることに気づく。大自然の中で、個としての弱さを補うために、人間は絆を必要とする。発達、知的、年齢、体力、親子、男女、全ての個人差が絆を使って人類が輝くために存在する。子育ての社会化で選択肢のない不完全さの中和・調和ができなくなってくると、不完全さが家庭を崩壊させ社会を崩壊させる。子どものいじめはその兆候。パワー・ハラスメント。)

「逝きし世の面影」より

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金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。……ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心底から信じる心が、社会の隅々まで浸透しているのである(チェンバレン)』




 保育士養成学校の先生が言う。「昔、学生たちの多くが、子どもを幸せにしたくてここに来た。今、学生が子どもに幸せにしてもらいたくて来る。愛に飢えていると、裏切りが許せない。子育てや保育は、裏切られることの連続なんです」
 わかるなあ。裏切られ,許され、愛され、そして人は子どもに救われる。

 (共励保育園の保育展で元品川区の子ども未来部長さん、川口の若手園長、長田先生と私で話していると、自民党副幹事長の萩生田さんがやって来ていい感じの核心に迫る討論会になりました。萩生田さんは共励の卒園児で元保護者。党派を超えて子ども優先に考えてくれる人が増えてほしいとみんなで期待。

 ある派遣保育士で回し始めた園、毎年4割の保育士が換わる。最短3時間。それでいい保育などできない。その派遣会社でさえ、保育ママ制度に派遣を渋っている。事故と訴訟が恐いのだ。米国で産婦人科医が掛け捨ての保険料高騰で消えていった時と似ている。そんなリスクを政府が一般の母親に押し付けようとしている。日本も訴訟社会に近づいているのに。

 園長が怒る。「株式会社でも何でもやらせりゃいい。派遣で回すのは保育じゃない。子どもをしつけてくれなんて言っても無理だからね。規制緩和して無資格増やしても虐待が増えるだけ。保育ママ?家庭的環境などと学者の言うことを真に受けたら大変なことになる。他人様の子なんだ。密室は絶対駄目!」

長田先生の本、発売一ヶ月で増刷です!

共励保育園の長田先生の本「「便利な」保育園が奪う本当はもっと大切なもの」幻冬舎、発売一ヶ月で増刷です。保育界が本当に言いたかったこと。経済論に子育てが巻き込まれる仕組みとその危険性、三つ保育園を持ち、真剣に子ども主体に考える人の発言です。http://kazu-matsui.jp/diary/2013/01/post-177.html

「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋です。


 子ども中心に生きていた日本人。その様子を見て、欧米人がこの国をパラダイスと呼ぶ。大人が子どもを崇拝し、神々の次元に降りて来て一緒に遊ぶ。自分の中に、3才だった頃の自分、4才だった頃の自分が居ることを確認し安心する。自分が以前神だったことを憶い出し、人間は生きてゆく。

 そして、百五十年前にこの国を見た欧米人が、私たちに時空を超えて話しかけてくる。これが、人間のコミュニケーション能力、時空を越えた育てあいの凄さだと思う。

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「逝きし世の面影」渡辺京二著、平凡社からの抜粋です。

第十章「子どもの楽園」から

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838〜1925)』

 

51MQ9F98Q6L._SL500_AA300_-thumb-300x300-thumb-150x150.jpg『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている(バード)』

 

『怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく』『彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです』『それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると―いずこも六歳から十歳のあいだですが―彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただの一日のうちに大人になってしまうのです(フレイザー婦人)』

 

『十歳から十二歳位の子どもでも、まるで成人した大人のように賢明かつ落着いた態度をとる(ヴェルナー)』

 

日本について「子どもの楽園」という表現を用いたのはオールコックである。(初代英国公使・幕末日本滞在記著者)

 

彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで半身または全身裸の子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのにでくわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用することとなった。事実日本の市街地は子供であふれかえっていたスエンソン(江戸幕末滞在記著者)によれば日本の子供は「少し大きくなると外へだされ、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。

 

ワーグナー著の「日本のユーモア」でも「子供たちの主たる運動場は街上である。・・・子供は交通のことなど少しも構わずに、その遊びに没頭する。彼らは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担った運搬夫が、独楽(こま)を踏んだり、羽根突き遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、凧の糸をみだしたりしないために、少しのまわり路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者や駆者を絶望させうるような落ち着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する。」ブスケもこう書いている。「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたいろいろな形の凧を揚げており、馬がそれを怖がるので馬の乗り手には大変迷惑である。親たちは子供が自由に飛び回るのにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が乳母の足下で子供を両腕で抱き上げ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」こういう情景は明治二十年代になっても普通であったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきえ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ。」

 

 『ヒロンやフロイスが注目した事実は、オランダ長崎商館の館員たちによっても目に留められずにはおかなかった。ツユンベリは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。「船でも」というのは参府旅行中の船旅を言っているのである。またフィツセルも「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」と述べている。

 このことは彼らのある者の眼には、親としての責任を放棄した放任やあまやかしと映ることがあった。しかし一方、カッテンディーケにはそれがルソー風の自由教育に見えたし、オールコックは「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっている」と感じた。「すなわち日本の子供たちは自然の子でありかれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ大人ぶることがない」。

 オイレンブルク伯は滞日中、池上まで遠乗りに出かけた。池上には有名な本門寺がある。門を開けようとしない僧侶に、つきそいの幕吏が一分銀を渡してやっと見物がかなったが、オイレンブルク一行のあとには何百人という子どもがついて来て、そのうち鐘を鳴らして遊びはじめた。役僧も警吏も、誰もそれをとめないでかえってよろこんでいるらしいのが、彼の印象に残った。

 日本人は子どもを打たない。だからオイレンブルクは「子供が転んで痛くした時とか私達がばたばたと馬を駆って来た時に怖くて泣くとかいう以外には、子供の泣く声を聞いたことがなかった。

 日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ」。

 レガメは一八九九(明治三十二)年に再度の訪日を果したが神戸のあるフランス人宅に招かれた時のことをこう記している。「デザートのときお嬢さんを寝かせるのにひと騒動。お嬢さんは四人で、当の彼女は一番若く七歳である。『この子を連れて行きなさい』と、日本人の召使に言う。叫ぶ声がする。一瞬後に子供はわめきながら戻ってくる。—–これは夫人の言ったままの言葉だが、日本人は子供を怖がっていて服従させることができない。むしろ彼らは子供を大事にして見捨ててしまう」。つまり日本人メイドは、子どもをいやいや服従させる手練手管を知らなかったのだ。日本の子どもには、親の言いつけをきかずに泣きわめくような習慣はなかった。』

 

 『日本についてすこぶる辛口な本を書いたムンツィンガIも「私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」と言っている。チェンバレンの意見では、「日本人の生活の絵のような美しきを大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」だった。日本の「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである」。モラエスによると、日本の子どもは「世界で一等可愛いい子供」だった。』

 『モースが特に嬉しく思ったのは、祭りなどの場で、またそれに限らずいろんな場で大人たちが子どもと一緒になって遊ぶことだった。それに日本の子どもは一人家に置いて行かれることがなかった。「彼らは母親か、より大きな子どもの背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り回し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるすべてを見物する。

 ブスケによれば「父とか母が一緒に見世物に行くときは、一人か二人の子どもを背中に背負うか、または人力車の中に入れてつれてゆくのがつねである」。

 ネットーの言うところでは「カンガールがその仔をその袋に入れてどこえでもつれて行くように、日本では母親が子どもを、この場合は背中についている袋に入れて一切の家事をしたり、外での娯楽に出かけたりする。

 子どもは母親の着物と肌のあいだに栞のようにはさまれ、満足しきってこの被覆の中から覗いている。

 その切れ長の目で、この目の小さな主が、身体の熱で温められた隠れ家の中で、どんなに機嫌をよくしているか見て取れることが出来る。」

 

 「ネットーは続ける「日本では、人間のいるところならどこを向いて見ても、その中には必ず、子どもも二、三人はまじっている。母親も、劇場を訪れるときなども、子どもを家に残してゆこうとは思わない。もちろん、彼女はカンガルーの役割を拒否したりしない」

 チェンバレンはまた「日本の少女は我々の場合と違って、十七歳から十八歳まで一種のさなぎ状態にいて、それから豪華な衣装をつけてデビューする、というようなことはない。ほんの小さなヨチヨチ歩きの子どもでも、すばらしく華やかな服装をしている。」と言っている。彼は七・五・三の宮参りの衣装にでも目をとめたのであろうか。彼が言いたいのは、日本では女の子は大人の衣装を小さくしたものを着ていると言うことだ。

 

 フレイザーは1890年の雛祭りの日、ある豪族の家に招待されたが、その日のヒロインである五歳の少女は「お人形をご覧になられますでしょうか、別の部屋においでくださる労をおかけしますことをどうかお許し下さい。」と口上を述べ「完璧に落ち着き払って」メアリの手をとっておくの間に導いた。

 彼女のその日のいでたちをメアリは次のように描写する。

 「彼女は琥珀色の縮緬のを着ていたが、その裾には青に、肩は濃い紫をおび、かわいらしい模様の刺繍が金糸でほどこされ、高貴な緋とと金の帯がしめられていた。頭上につややかに結い上げられた髪は、宝石でちりばめたピンでとめられ、丸いふたつの頬には紅がやや目立って刷かれていた。」

 メアリの著書に「私の小さな接待役」とキャプション入りで揚げられている写真を見ると、彼女は裾模様のある振袖の紋服を着、型どおりに右手に扇子を持ち、胸には懐刀を差している。つまりこの五歳の少女は完璧に大人のいでたちだったのである。

 しかしそれは服装だけのことではなかった。

 イザベラ・バードは明治十一年、日光の入町村で村長の家に滞在中、「公式の子どものパーテイー」がこの家で開かれるのを見た。

 主人役の十二歳の少女は化粧して振袖を着、石段のところで「優雅なお辞儀をしながら」やはり同じ振袖姿の客たちを迎えた。

 彼女らは「暗くなるまで、非常に静かで礼儀正しい遊戯をして遊んだ」が、

それは葬式、結婚式、宴会といった大人の礼儀のまねごとで、バードは「子どもたちの威厳と落ち着き」にすっかり驚かされてしまった。』

 

『日本人が子どもを叱ったり罰したりしないというのは実は、少なくとも十六世紀以来のことであったらしい。十六世紀末から十七世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている。「子供は非常に美しくて可愛く、六、七歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである。」。日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、「子供たちを罰することは残酷だという」。かのフロイスも言う。「われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである」。』

講演のあとで

 先日、私立の保育園で講演しました。講演が終わって、一人の母親から相談を受けました。子どもが言うことをきかない、と泣いています。聴くと、園ではいい子で大丈夫。家で、お母さんと一緒になると我がままになる、まとわりついて離れない。父親は、子煩悩でいい親らしいのです。

 「あなたはいい母親だから、子どもが一緒にいたいんですね。仕事を辞めることは出来ないのですか?」とたずねると、看護士ですから辞めてもいつか復帰することはできます、生活に困っているわけではないです、と言います。
 遠慮していたのか、部屋から出ていた父親が問題の2歳の男の子を抱っこして近づいてきます。父親にしがみついているその子を見て確信しました。なぜ、母親が泣いていたのか。自分も気がつかない心の底で、母親も、息子と一緒にいたくて仕方なかったのです。
 「いい機会でしたね。2年くらいでいいですから、いつも一緒にいてあげて下さい。今日ここで私に質問したのが運命だと思って。この園を辞めても、子どもをおぶって園に手伝いに来てください。この子を知っている人たちと縁を切らないように。もうその人たちはこの子の大切な財産ですから」
 それを聴きながら、父親が少し笑顔になります。

 園長先生に、あとで「どんな質問でしたか?」ときかれ、その会話を伝えると、園長先生が本当に嬉しそうな顔をしました。

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竹中平蔵/スプーンの速さ/慣らし保育

竹中平蔵氏がNHKのニュースで、日本人は「自由競争がいい」という人が49%しかいない、欧米はずっと高く中国は8割です、と嘆いていたのです。自由競争がいい、という信念から経済を見ているのでそうなるわけですが、彼の、日本は欧米を見習うべきという姿勢が、私には理解できない。戦後これだけ独特な仕組みの中で経済成長を続け、欧米がこの不思議な国を賞賛し見習おうとしていた時代が長かった過去を、どのように評価しているのか。現在でも、欧米が経済的に日本より良いとは思えません。EUは危ない状況ですし、中国にいたっては、あまりにも不自由だから自由競争に憧れているだけでしょう。

自由と競争の対極にあるのが、結婚、出産、親子、子育て。

本来、そのためにあるのが経済だと私は考えます。どうも,話が最近本末転倒になってきています。経済を良くするために、本来人間の意欲や生き甲斐の元になっていたものを失おうとしている。

竹中平蔵氏は同番組で、既得権を守ろうとするから自由競争が妨げられると批判していました。

親子関係は大自然における重要な既得権。

結婚は既得権を守る宣言のようなもの。欧米で3割から6割の子どもが未婚の母から生まれ、親子、結婚、ともに存在理由が希薄になっている。そして、競争に無縁の乳幼児が黙って既得権を失ってゆくのです。哺乳類として数億年持っていた既得権を、自由競争、市場原理を助けるために。

 

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保育の質は、乳幼児に給食を食べさせる時の、保育士のスプーンを口に運ぶスピードにあると思うのです。時間内に全員を終わらせようとすれば、幼児の求める速さを越える。それに慣れると、やがてオムツを替える間、話しかけなくなる。

そうした風景が、人間たちから生きる力を奪ってゆく。それが自由競争・市場原理の一番の恐ろしさかもしれない。

介護福祉士が老人の口にスプーンを運ぶ速度が、幼児に対するそれ以上に人間を苦しめる。老人にはもう未来を変えるチャンスがないから。自由競争の中で介護が仕事化すればするほど、親身な人間たちが現場を去ってゆく。心ある学生たちが、実習を体験して進路を変えてゆく。社会を優しく育てる風景に必要な彼らは、たぶん二度と戻っては来ない

自由競争の対極に「心のこもったお弁当」があり、「一日保育士体験」がある。(お弁当に心を込めるのは神との対話。一日保育士体験は神々との交流。)

「子どもが喜びますよ、子どもが喜びますよ」一日保育士体験を進めるために、親に、保育士がその言葉を繰り返すことで、保育士と親の心が一つにすなってくる。損得勘定が薄れ、心を一つにするために生まれてきたのだ、心を一つにするために、みんな違っている、と気づく。(するといつかスプーンの速さが遅くなる。保育園だけでなく介護施設や乳児院でも。)

子育てで、親がスプーンのスピードを速くしても、子どもは親を愛し続け、許し続け、いつか救ってくれるでしょう。(時間がある。素晴らしく選択肢がないし、既得権は守られている。)1人で6人の子どもを相手にする保育士がスピードを速めると、子どもはそれを許し、救う時間さえ与えられないまま、やがて担当は変わってしまう。子どもたちの心が行き場を失う。天命が果たせなくなる

 

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(子どもが園に慣れるよう、徐々に預ける時間を長くしていく「慣らし保育」)

先日、2代目若手男性園長が私に言いました。彼は、家で保育の風景を見ながら成長したのです。

「中学生の頃、慣らし保育で、『ママがいいー、ママがいいー』と泣き叫ぶ子どもたちを毎年見ていて、こんなことを人間がして良いはずがない。絶対保育の仕事には就くまいと思いました」と。中学生はまだ感性の人たちです。してはいけない妥協を本能的に知っています。

「一週間の慣らし保育で泣き叫ぶ幼児の映像をまとめて編集し、政治家に見せれば、保育はサービスだ、親のニーズに応えよ、などと安易に言わなくなるのではないでしょうか」とある園長が言っていました。

慣らし保育。何に慣れるのか。「ママがいいー、ママがいいー」という叫びに慣れるのか、慣れて言わなくなることに慣れるのか。

0歳から預ければ「ママがいいー」という言葉さえ存在しなくなる。一つ一つ消えてゆく。それに慣れようとしている社会がある。それに慣れた世代が、いつか「家がいいー、家族がいいー」と叫ぶのでしょうか。

慣らし保育で「ママがいいー、ママがいいー」と叫ばれた母親は、自分がいい親だったから叫ばれたことを憶えていてほしい。

そして、その時流した涙は、人生で一番美しい涙だったかもしれない。毎日、子どもを保育園に置いてくるたびに心の中で涙してほしい。保育士たちはそう願っています。

サウンド・トラックCD/Legend of the fall 果てしなき想い

 私が以前尺八を吹いたサウンドトラックの中で、一番気に入っているのが、ブラッド・ピット主演の「Legend of The Fall」。共演がアンソニー・ホプキンス、エイダン・クイン。監督はエド・ズウィック。音楽はジェームス・ホーナーです。このCDは映画がもう20年以上前の映画であるのに、いまだに手に入ります。それくらい音楽がいいんだと思います。

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訴えかけてくるものがあります。映画のテーマ、背後にある自然と魂の関係に作曲家や演奏家の心が反応しているのかもしれません。
 オーケストラはロンドンシンフォニー・オーケストラ(LSO)で、アビーロードかAirスタジオで録音したのだと思います。一ヶ月ロンドンに滞在し、ミックスまで付き合った作品です。ミックスの時にジェームスが、音楽と映像を一緒にプレイバックしながら、泣いていたのを思いだします。他にもLSOと共演した作品には「ウィロー」「マスクオブゾロ」があります。ですが、サウンドエフェクト的な役割りが多いこれらの作品に比べて、「レジェンド・オブ・フォール」は三つあるテーマの一つを尺八で吹いているので、サントラの中ではやはり一番好きです。いまだに、よく車の中で聴いています。英語版のライナーノーツに監督のエドが私のことをわざわざ書いてくれたのも嬉しかった。ストーリーの中で、アメリカインディアンの魂が漂うところに尺八が出て来ます。お薦めです、絶対。音楽だけCDで聴くのもいいです。
 この映画の中には、言葉を介さない会話がたくさんあって、その部分を風景や沈黙、そして音楽が少し離れた次元で語るのですが、一体感を感じることが生きることなのだろう、と思わせます。
 幼稚園や保育園を使い、男たちに、自分の中にいる3歳4歳、神だったころの自分を思いださせる、そのための一日保育者体験、と私は言ってきました。それを思いださせてくれる、一番の伝令役が幼児なのだろう、という考え方のもとに。
 昔、幼児園や保育園が無かった時代。男たちは年に数回、祭りの場で、幼児期の自分がまだ居ること、全て自分次第だということを確認していた。祭ることで人間は安心する。

ツイッターからです。(養護施設光りの子どもの家の菅原哲男先生の本)

 永遠の課題、保育、1対3か3対9かを考えていた時、養護施設光りの子どもの家の菅原哲男先生の本に、「職員が旅行に行ったら担当している子どもにしかお土産を買わない、そうでなければならない」と書いてあった。「みんなと一緒を子どもたちは極端に嫌う」。平等の対極に親子がある。そうだろうな。

 菅原哲男理事長の「誰がこの子を受けとめるのか」を読む。「『仕事で子どもを愛せるか』これは光りの子どもの家の当初からの課題である。」「養育に最も欠けてはならないエッセンスは労働とは次元の違う無償の行為なのである。」児童養護施設で過ごす人間たちの時間が社会に向かってそう語っている。

 「何よりも愛されることへの飢餓感、ある者は不感を疑わせるほどに愛を知らないできてしまった時間の長さに、関わりの手がかりさえ見当たらない」と菅原哲男さんは書きます。私が先月中学校で感じた子どもたちの幼さも、この延長線上にあるのでしょう。道徳教育なんて浅い次元の問題ではない

 菅原さんがこれを書いたのが十八年前。これほどの証言が児童養護施設という、最後の砦からされているのに、厚生労働大臣が去年「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言ったのです。そして、中学の先生が「私たちは保育をしている」と私に言い、園長が「保育園は仮養護施設状態に追い込まれている」と言うのです。

 このままでは学校がもたない。保育園ももたない。共倒れになってゆく図式はすでに見えているのに、「待機児童をなくせ」というかけ声だけが響く。0、1、2歳児は保育園の前で「ここに入りたい」と言って待機はしていない。そのことだけは確認しあわないと、誰も自分自身が見えてこない。

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 菅原さんの本、ぜひ読んでみて下さい。実は私は33ページまでしか行っていないのですが、数行読んで立ち止まってしまう、立ちすくんでしまうような感じです。私も同じようなことを長年言ってきたのですが、菅原さんの言葉は臨場感が違う。人類の叫びが聴こえる。

 再び、保育士一人対0才児三人が良いのか、3対9かという永遠の保育課題に戻って考える。保育が最後の砦なら1対3。家庭という形に希望を失わないのなら、やはり3対9か。1対1は、人類を見捨てないのなら、母親の権利として守る。守ることによって真の絆が生まれる。そんな感じでしょうか。

 仕事だとわかっていても乳児院で愛着関係は必ず生まれる。そうでなければいけない、しかし辛い事になる。辛い別れの繰り返しが子どもの心を支配する。保育園でも毎年担当は変わる。子どもたちは健気だが、よほど親子関係がしっかりしていないと、不信と不安が重なってゆく。そして、体験した淋しさは数年経って現れる。

 1対3か3対9か。国基準には何も書かれていない。保育士と園児の割合しかない。何を感じ、思い、願っているか、知る事のできない0才児は割合でしかない。それが現在の施策と制度。未来は見えないし愛着関係に正解はない。でも、正解を探そうとすれば心は育つ。制度に乳児を任せることはなくなる。

 自治体によっては1人でも認定された障害児がいれば1人加配してくれるところもありますが、まだまだ追いつかない状況です。年齢が上がるにつれて幼児はお互いに引き金を引き合ってしまいます。常に軽軽度の候補者を抱え、保育士も足りず、全国で限界に近づいています。

 保育士の絶対数が足りないことと、派遣会社や大手の株式会社の青田買いが市場競争に慣れていない保育界を突然崖っぷちに追い込んでいます。派遣保育士が当たり前になってくると、保育の概念そのものが崩壊し、ただの託児所になって行きます。

 自治体によって保育格差が大き過ぎます。だから国基準があり、それは最低基準だったのですが、それさえ待機児童解消のために崩され、東京都の認証保育所、横浜市の横浜保育室、子どもの成長や保育士の気持ちは二の次です。都は13時間開所させて、早寝早起き朝ご飯、と言うのですから、もう支離滅裂です。

 政府の市場原理導入で派遣会社が保育界に加わった。全国の保育園に「雇いませんか?」というファックスが毎週送られてくる。子ども第一に考えない未熟な園長をなんとか抑え、指導していた主任やベテランの首が簡単に切られてゆく。まだ未成熟な意識の中に市場原理を入れると自浄作用が働かなくなる。

 派遣会社に登録し保育人生するほうが確かに気楽かもしれない。しかし、それでは幼稚園保育園は親子の故郷になれなくなる。社会は一層根無し草化する。園単位で絆を取り戻すしかない、と園長たちにお願いしてきましたが、派遣会社の参入を許した施策はかなりきつい。保育がただの仕事になってしまう。