いじめとバンジージャンプの意味

 いじめについて、講演で話して下さい、と言われます。一月にも小学校のPTAで話します。

 いまこの国で、いじめに会った子どもの悲しさは、ひょっとすると親子の絆が強く存在する状況での戦時体験よりも、深く大きいのだと思います。子どもたちにとって毎日がすべてで、貴重な人生体験です。自分の小学生時代を思い出しても、大人の一日とは質量が違うのだと感じます。ですからやがてこの子たちが30年40年この国を支えてゆくのだと思うと、これはいま一番重要な問題と言ってもいい。そこから現在のすべてが見えてくるし、解決方法が経済競争やシステムにコントロールされつつある人間社会を救う道でもあるのです。

 いじめをあってはならない、と見ては意味がありません。子どもがこういう良くない行動をする時は、取り囲む環境、だいたいは大人の社会(人間関係)に問題があって、それを治そうとしている、警告を発しているのだと考えるべきです。子どもはいつも誰かを育てようとしている。そして、育つことで誰かたちの心を一つにしようとしている。そう考えなければいじめが存在する意味がありません。
 風邪をひくと熱が出る。熱をたた下げるだけでは風邪は治らないですし、熱が出るから風邪がわかる。

 なぜバンジージャンプを人間はするのか。なぜ、エベレストに登ろうとしたのか。なぜ、0才児に話しかけるのか。自分を発見し、体験し、絆をつくるためでしょう。
 いじめは社会の一部であると同時に、ひとり一人の人間の一部、そして人間の命は社会全体としても命、と考えなければなりません。社会全体に欠けてきていることが何かを考えれば、そこに解決策があるのに、大人たちは、誰かのせいにしようとする。子どもたちを叱っていじめがなくなるわけではありません。教師を責めてなくなるのでもない。教育委員会を批判するなど馬鹿げている。教育委員会や教師たちの隠蔽体質と言いますが、親と教師の間に信頼関係がないからそういう体質が生まれるのであって、信頼と絆をつくろうとせずに体質を責めても本末転倒、意味はない。ますます信頼関係が希薄になるだけです。

 「誰かの責任にしようとしている」これが、子どもたちからの警告の中身なのでしょう。

わかちあうこと
http://www.youtube.com/watch?v=SUaQXFUp1_M&feature=youtu.be

シャクティ震災日の丸.JPG

 先週行った講演会で講演後、ひとりの保育士さんが、「みんなでシャクティのドキュメンタリーを見ていたら、字幕もわからないのに、年中の子どもたちが来て、最後まで集中して一緒に見たんです。びっくりしました」と報告してくれました。
 嬉しいです。人間がやはり、あの風景の中には未来や過去とつながる何かがあるのだと思います。その風景を見て、子どもたちは育ってきたのだと思います。言葉や文字がわからなくても、感性はいつも働いている。育っています。だからこそ、大人たちは、子どもたちと、たとえそれが乳幼児であっても、時空を共有しているんだということを忘れてはいけません。聴いていないようで、聴いている。見ていないようで、見ている。感じている。

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