「義務教育の根幹が、保育施策によって揺らいでいる」

2019年5月

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「義務教育の根幹が、保育施策によって揺らいでいる」

 

 去年国が待機児童対策として始めた「企業主導型保育園」をネット上で検索すると、以下のような検索結果が出てきます。

最初の二つは、「この新たな仕組み」をビジネスチャンスとして奨励するコンサルタント会社の宣伝で、その次が、この仕組みを進めるために政府が作った公益財団法人「児童育成協会」の周知願いと、たった一年しか経っていないのに、すでにかなり後手に回った「整備着手はお控えいただき」という告知です。

曰く、「新規助成の申請を検討している事業者様におかれましては、新たな実施方針、募集時期等の内容を十分にご確認いただきますようお願いします。特に、施設整備費助成金の申請を検討されている事業者様におかれましては、整備着手(契約や工事等)はお控えいただき、着手時期等について、今後、新たに作成する実施方針を十分にご確認いただきますようお願いします」

国は、この財団を作ることによって、自治体の権限を飛び越えてこの形の保育園が認可され、補助も直接受け取れるようにしました。自治体の意思や、それぞれの実情を飛び越して、政府が首相の「あと30万人、保育の受け皿をつくれ」という施策を実現できるように画策したのです。

(こうした新しい制度をビジネスチャンスとして宣伝するコンサルタント会社に勧められ、起業した人からの相談を数年前にブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=269。また、同じことを繰り返している。)

あとの三つの検索結果は、すでに1年目で「企業主導型保育園」は「子どもを安心して預けられる仕組み」としては体をなしていないという報道です。忘れてはならないのは、こうした報道の向こうに幼児たちの日々の生活が存在する、すでに存在したということ。3歳未満児の場合、たとえそれがたった一日でも、その時起こったことはその子の一生に影響する後天的発達障害や愛着障害につながる可能性がある、ということなのです。

記事を見れば明らかですが、保育の現場とその意味を知らない「専門家」や政治家たちがつくったたった一年で崩れそうになる安易な仕組みが、逃げ場のない子どもたちの「人生」を混乱させ、保育士の奪い合いで保育界全体の質を落とし、保育所保育指針の「子ども優先」の精神を形骸化させている。結果、学校教育の現場を荒廃させる。こうした乱暴なやり方を見ていると、保幼小連携などという掛け声が、まったく無意味にさえ思えてくる。

たった一年で少子化担当大臣が「質の確保、十分でなかった」と謝って済む問題ではない。報道で「助成金詐欺の闇」とまで指摘されるような仕組みを、「安易に、作るな!」「首相の言った数値目標を達成するためにゴリ押しするな!」と言いたい。幼児たちがそこで時間を過ごすことさえなければ、誰がどうやって儲けようと、公益財団法人を作って天下ろうと構いません。しかし、その時幼児に起こったことはほぼ誰にも知り得ないから、特別に細心の注意を払って仕組みを構築しなければならないのに、こういうあまりにもいい加減な施策が、いま保育関連の施策にあふれている

「保育は成長産業」という閣議決定が、日本の保育の形のみならず、義務教育を崩壊させようとしています。

義務教育で何を学ぶか、勉強ができるようになるか、そんなことは大したことではありません。勉強に向いている子もいれば、向いていない子もいる。しかし、学校で子どもたちが教師と「いい時間」を過ごすこと、友達と楽しく過ごすこと、(学校という形に向かない子もいますが、なるべく、嫌でない時間を過ごすこと)人生の相談相手を見つけること、そんなことの積み重ねがこの国の未来を形づくるのです。学校の安定が、先進国社会の安定には絶対不可欠なのです。

そのためにも、就学前の子どもたちの過ごした日々、親たちの子育てに喜びを感じる日々が、落ち着いた学校をつくりあげるという意識を持ってほしい。

その前提が、著しく崩れ始めている。義務教育の根幹といってもいい「子育てによって生まれる絆、善循環」がいま、政府の保育施策によって揺らいでいるのです。

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内閣府から、今後の企業主導型保育事業の募集等についてのお知らせがありましたので、以下のとおり周知いたします。 〇 企業主導型保育事業については、 現在、「企業主導型保育事業の円滑な実施に向けた検討委員会」において、質の確保、  …

通知・様式ダウンロード · 制度紹介 · 助成金額1 · 制度概要

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企業主導型保育所、定員の40%に空き 内閣府が全1420施設を調査 …

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 待機児童対策として、政府が整備を進める「企業主導型保育所」の全1420施設の定員に占める利用児童の割合(充足率)が、平均で6割程度にとどまることが内閣府の調査で分かった。2016年度の制度開始以降、経営状態の悪化などで突然 …

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問題相次ぐ企業主導型保育所 「質の確保、十分でなかった」と少子化担当 …

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政府が待機児童対策の切り札として導入した「企業主導型保育所」を巡り、各地で休園や定員割れなどのも問題が相次いでいることを受け、政府は17日、制度の課題を検証する有識者会議の初会合を内閣府で開いた。本年度中をめどに結論を …

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企業主導型保育所に巣食う「助成金詐欺」の闇 | 子育て | 東洋経済 …

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10月末、東京都世田谷区の企業主導型保育所「こどもの杜」で保育士が一斉退職し、 休園に追い込まれた。これを受けて、立憲民主党は11月13日、「子ども子育てプロジェクトチーム」会合を開いた。この会合に出席した…

全国で相次ぐ「保育士大量退職」:保育のサービス産業化は義務教育とは相容れない

2019年5月29日

(こんな報道がありました。)

全国で相次ぐ「保育士大量退職」 園新設に供給追い付かず…「取り合いみたいな状況」運営会社も苦渋:https://www.j-cast.com/2019/03/30353581.html?p=all:

 ここ数年、こうした状況が続いています。歴史のある認可保育園がハローワークに求人を出し、一人も応募がない、そんな話を全国で耳にするようになって十年以上になります。政府の待機児童対策の結果、保育士不足はますます深刻になり、保育という仕組みの崩壊が間近に迫って、やっとマスコミが保育のあり方、質について警告的に報道し始めている。

遅すぎる、と思います。当事者が幼児たちという認識がない。いまだに、当事者は親たち、親たちの必要性が第一だと見なす報道が多すぎる。

政府が、幼児の願いを優先せず安易な規制緩和と量的拡大を進める。ここまでくると、幼児たちの暮らしの安全性を考えていない、と言ってもいい。そして、現場には実行不可能な、学者たちが考えた施策を「雇用労働施策」「生産性革命と人づくり革命」「新しい経済政策パッケージ」と言って押しつけてくる。保育士たちも「子どもの最善の利益を優先する」という保育所保育指針の原則に背を向けるようになっても不思議ではない。「保育士大量退職」は、担当し日々暮らしている幼児たちに保育士たちが背を向けるということでもある。保育者たちにとっても、保育がただの「仕事」になりつつある、ということなのです。

それに加えて、自分たちが一生懸命保育をするほど、親たちも「子どもの願い」を優先しなくなっていく気がするのです。「なんで『慣らし保育』をしなければいけないのか。なぜ初めから11時間預かってくれないのか」と気色ばむ親まで現れるようになった。親たちが、保育という仕組みに慣れることによって、子どもの「気持ち」「願い」に気付かなくなってくる。自分たちがいることによって、生涯にわたって子どもを支えていくべき親子の愛着関係が薄れていく。それで、子どもたちの幸せが保てるのか、どんどん大人優先の社会になっていくのではないか、そんな疑問を心ある保育士たちは抱いているのです。この疑問はすでにエンゼルプランあたりから、保育界には歴然とある。

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幼児たちの存在意義が薄れることによって、社会全体から「利他」の幸福感が消えていく。モラル・秩序が保てなくなってくる。「道徳教育」などではもう誤魔化せない。

この報道にあるような出来事が、全国で、保育園だけでなく幼稚園でも起こっています。園長・設置者が保育者の動向に怯えている。

「保育は成長産業」というとんでもない閣議決定がつくりだした小規模保育や企業主導型保育、学校教育の崩壊に乗じた放課後等デイサービスなどの現場でも、報道されていないだけで、子どもに理不尽な短期的な人員の変動が日常茶飯事になっています。安定した一定の愛着関係を、誰とも築けない子どもが増えている。1歳児で噛み付く子が増えている。4、5歳で暴れる子が増えている。

それが直接、小一プロブレム、学級崩壊、教師の早期退職、いじめや不登校につながっていくのです。もう明らかでしょう、保育のサービス産業化は義務教育とは相容れない。このままでは、遅かれ早かれ、学校許育が修復不可能になっていく。(「保育士にしつけられた子どもは、4、5年生でキレる。その時に親子関係が育っていないと、糸の切れた凧のように中学、高校へ進んで行く」そんなことを私に言う園長がいました。)

動機の良くない「経済競争を扇動する」仕組みが、福祉という「弱者を救済」する仕組みの本来の目的を見失わせています。同時に人間本来の生きる動機をも見えにくくしている。

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この記事にある、苦渋している「運営会社」はもともと利益を目的としている。会社ですから。子ども優先ではなく、親へのサービスが優先になる。(保育士も、子ども優先ではなく、自分優先になってきても不思議ではない。)

毎日子どもたちの表情を見ている保育士たちが、「会社」の経営方針と子どもたちの願いとの板挟みになって、「保育士やめるか、良心捨てるか」という状況に追い込まれている。「運営会社」と現場の保育者の、「子育て」に対する動機、意識が違いすぎるのです。だから「保育士大量退職」が全国に広がっていくのです。ごく自然な流れでしょう。そして、この自然な流れに、やがていい保育園が巻き込まれ、いい保育園をやっていた園長たちが呑み込まれていく。そうした「市場原理」の負の部分を行政も保育の専門家もまったく理解していない。

資格を持っていれば保育ができると思っている経済学者や社会学者は、もうこれ以上、子育てに関わる施策に口を出してはいけない、と思います。

(以下は、内閣府で先日私が「保育の無償化」について参考人をした時の記録です。)

第198回国会 内閣委員会 第9号(平成31年3月27日(水曜日))

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000219820190327009.htm

内閣提出、子ども・子育て支援法の一部を改正する法律案を議題といたします。

本日は、本案審査のため、参考人として、中京大学現代社会学部教授松田茂樹君、元埼玉県教育委員会委員長・元埼玉県児童福祉審議会委員松居和君、社会福祉法人桑の実会理事長桑原哲也君、弁護士・社会福祉士・保育士寺町東子君、以上四名の方々から御意見を承ることにいたしております。……。

(動画)

http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=48872&media_type=

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衆議院の委員会室で意見を述べながら、思いました。

目の前にいる40名ほどの国会議員の人たちが、専門学校の保育科を受験すればたぶん全員合格するでしょう。入学し、二年後には保育資格をとることができるでしょう。本を買って勉強し、国家試験で一発合格できる人も多いはず。でも、その中に何人、他人の三歳児を20人、8時間、「保育」できる人間がいるかといえば、たぶん数人でしかないはず。私には、できない。

保育は子育てです。しかも他人の子どもを複数、油断なく、心を込めて可愛がること。幸せそうに。

商品と顧客を管理すればいいコンビニの店員とはちがうのです。生きる動機、天性の資質を問われる、不思議な役割なのです。

そのことを理解しない人たちが、「資格」という言葉で現場の実態を誤魔化しながら、経済政策パッケージの一部として「子育て安心プラン」という子どもたちを不安にし義務教育を成り立たせなくするような政策を作る。無償化などと言って、子育てを親から切り離そうとする。だから、現場からこれほど背を向けられるのです。

「子育ての無償化」は、人間社会から生きる動機、絆の中心となる「責任」を奪っていく。

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(参考までに)

「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2498

「保育の無償化」国は責任を持てるのか。

 「保育の無償化」:「子育て」を損得と考える流れを象徴するような言葉が施策となり、この国のモラル・秩序が壊れていくような気がしてなりません。
 「タダで子育て」、「無料で子育て」そう言い換えてみると違和感がはっきりする。
 背後には「無料にすれば、もっと子供を産むだろう」という幸福論とは無関係な少子化対策がある。あまりにも人間性を馬鹿にした発想です。たぶん経済学者(経済財政諮問会議に出るような)や社会学者(保育の公教育化などと出来もしないことを言うような)が思いつくのだろうと思いますが、これは即ち、「子育て」を国が引き受けると言っていることでもあるのです。そんなことが出来るわけがない。人材的にも財源的にもすでに限界を超えている。「保育は成長産業」という閣議決定の危うさは、市場原理化された老人介護の惨状を見ればわかるはず。
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 子育ては、親が育ち社会に絆が生まれることの方が、子どもがどう育つかよりも大切で、「子はかすがい」ではなくて「子育てがかすがい」だった、人間の生きる動機だった。そういう原則論をとりあえず横に置いたとしても、最近の保育界の追い詰められ方は、子育てを責任を持って引き受けられる限界をとっくに超えている。
 ここ十数年間、国の保育施策が、保育の質を上げる方向に動いてきたならまだしも、規制緩和や市場原理の導入によって、質より量の乱暴な施策を積み重ね、保育士不足と保育の質の低下はどうにもならない状況まできている。保育施策は、少子化対策、経済施策を装ったその実は選挙対策だったのではないか、そんな疑問さえ湧いてくる。票の獲得を意識するあまり、幼児たちの「願い」が無視されてきた。そして、乳幼児を保育園で預かることが「乳児たちの願い」のように勘違いする政治家さえ現れている。
 
 「0歳児は寝たきりなんだから」と言った経済財政諮問会議の座長や、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った厚労大臣の無知さは論外としても、いまだに保育という仕組みを根本から揺るがしかねない施策が、現場の不安をよそに進められる。
 
 「保育の公教育化」などと馬鹿げたことを言うならば、その前に学校教育も無資格者が3分の1という状況でやってみたらいい。
 資格を持っていれば「子育て」ができるという学者の思考自体が相当おかしいのですが、それさえなくてもいい、という政府の姿勢は、福祉全体の良心の崩壊につながります。
 待機児童をなくせという掛け声のもとに行われた「保育の壊され方」は、あっという間だった。保育界の状況は15年前とはまったく異なります。「公教育化」など不可能な状況をすでに生み出している。社会全体の子育てに対する意識だけでなく、親たちの子育てに対する意識がすでに相当変わり始めている。
 児童福祉法や保育所保育指針の骨格でもある「子どもの最善の利益を優先する」という意識を保育界に取り戻すためには、サービス産業的、市場原理的な発想を捨てるという、原点から耕し直す発想がなければ無理だと思う。そして、親たちの意識が相当変わらないと、つまり自分の子どもの子育ては自分に責任がある、という方向に意図的に戻っていかないと、保育界の修復は不可能になっている。
 
 「誰が子どもを育てるのか」(その責任を感じるのか)、この根本的な疑問に答えない政府の経済施策に呑み込まれ、愛着関係の土台(主体)を失い、根無し草のように義務教育に入っていく子どもが増えています。義務教育が義務である限り、それはすべての子育てをしている親たちの人生に影響を及ぼし、様々な形で連鎖する。他の親たちがどういう親たちか、ということが「他人事」ではなくなってきている。
 子どもの集団を支える優しさや温もりがなくなり自浄作用が働かなくなっている。子ども同士のいじめが増え、それが陰湿になり、同時に、授業中座っていられない子ども、他人の話に耳を傾けられない子どもを抱え、教師も授業が成り立たないことへの苛立ちを募らせている。そんなザラザラと荒れた空気の中で、感性の豊かな子どもや幸せを土台に育ってきた子どもたちが不登校になっていく。不登校になる子どもの方が、感性の豊かないい子なのではないか、と思われるケースが最近増えています。嫌になって辞めてしまう教師や保育士の方が、普通の人間性を持った人たちなのではないか、と思われるケースも増えています。
 
 子育ては、信頼関係のもとに成り立つ行いです。子どもは人間社会に信頼関係を生み出すために存在するのです。
 保育士が、場合によっては0歳の時から子育てに長時間関わりながら、保護者との間に十分な信頼関係が育たない、そんな「仕組み」を国が作り、そこに預けることを「雇用労働施策」として奨励すれば、子どもたちの不安や不満が増すばかりです。そいういう子どもたちが義務教育の中で集団を作れば、いじめや不登校が増えて当たり前です。乳幼児たちの「声なき声」を無視し続ければ、保育から学校教育へ受け継がれた温かさや落ち着きの感じられない日々が義務教育という形で子どもたちを苦しめる。
 そこで育った子どもたちが大人になって経済競争をより殺伐としたものにし、「ひきこもり」という現象を生んでいる。「経済施策」の名のもとで進んでいくこの心の荒廃へ向かう流れが、この国の個性でもあった「絆と安心」という幸福の基盤を崩していく。早急に「子育て」と「経済論」を切り離さないと、戻れなくなる。
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(以下は、内閣府で先日、参考人をした時の記録です。)
 
第198回国会 内閣委員会 第9号(平成31年3月27日(水曜日))
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000219820190327009.htm
内閣提出、子ども・子育て支援法の一部を改正する法律案を議題といたします。
 本日は、本案審査のため、参考人として、中京大学現代社会学部教授松田茂樹君、元埼玉県教育委員会委員長・元埼玉県児童福祉審議会委員松居和君、社会福祉法人桑の実会理事長桑原哲也君、弁護士・社会福祉士・保育士寺町東子君、以上四名の方々から御意見を承ることにいたしております。
(動画)
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=48872&media_type=
 
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衆議院内閣委員会:国会議員用レジュメ「保育の無償化について」
http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2801
 
 このレジュメは、衆議院内閣委員会:国会議員用に配ったものです。ブログの内容と重複しますが、これまでの経緯を知ってもらうために作りました。簡単に無償化と言いますが、子育てに「誰が責任を感じるか」、「福祉が、それをどこまで引き受けられるか」は国のあり方の根幹に関わる問題だということを国会議員の方たちに理解してもらいたかった。右とか左、保守とか革新、与党とか野党、そんな最近のイデオロギー主体の争いごとはこの問題に関しては置いておいて、もっと真剣に、深くこの国の未来を考えて欲しいのです。
 仕組みに絡む大人たちの利権(権力)争いに巻き込まれ、意見も言えず、選挙権も持たない小さな人たちの「思い」「願い」が考えられていない。
 簡単なことなのです。子どもたち、特に乳幼児は何を願っているか。それを想像し、声なき声に耳を澄まし、その願いを優先する人たちが普通に、社会に多く存在していればいいのです。そうしないと学校教育がな成り立たなくなってくる。政治家が優先順位を間違わなければ、まだ、この国は大丈夫。間に合うはずです。
 
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「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2498

衆議院内閣委員会:国会議員用レジュメ「保育の無償化について」

衆議院内閣委員会:国会議員用にレジュメとして配ったものです。過去のブログの内容と重複していますが、これまでの経緯を知ってもらうために作り、配りました。簡単に無償化といっても、子育てに「誰が責任を感じるか」、「福祉がどこまで引き受けられるか」は国のあり方の根幹に関わる問題なのだ、ということを国会議員の方たちに理解してもらいたかったのです。

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第198回国会 内閣委員会 第9号(平成31年3月27日(水曜日))「保育の無償化について」

(資料1)

日本教育再生機構用原稿 機関誌「教育再生」2014年、11月号から

「育てること、育つこと」

元埼玉県教育長 松居 和

来年4月から、「子ども・子育て支援新制度」が始まります。内閣府のパンフレットの表紙に「みんなが子育てしやすい国へ」とあります。私はこの制度と、今の日本の保育をめぐる流れに強い危機感をいだいています。「待機児童」対策において、そのほとんどである三歳未満児の願いが反映されていない。乳幼児が保育園に入りたがっているのか、その次元での想像力が働かなくなってきたことが先進国社会特有の道徳心の欠如を招いているのではないのか。NHKで次のような報道がされていました。

厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で二万一三七一人で、去年の同じ時期より一三七〇人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、今年中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。

4年連続で減っている「二万一三七一人の待機児童」を解消するために、「40万人の保育の受け皿を確保する」。この数字の裏に何があるのか。このような言葉や数字が繰り返されているうちに、「待機児童は問題」で「解消しなければいけない」という印象が人々の記憶に刷り込まれていく。それは本当に私たちの願いであり、望んでいる社会の姿なのでしょうか。

「受け皿」という言葉は、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」ではなく「子育ての受け皿」というべきでしょう。そうすれば、家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、毎年入れ替わる派遣や非正規雇用の保育士でいいのか、「待機児童」解消は実は3歳未満児を母親から引き離すということではないか、と気づく人が出てくるはずです。

二つの問題があります。

一つは、待機児童を解消することが主目的となり、社会が健全であるために、子供はどのように過ごし、親はどのように子育てに関わるのがいいのか、その時期に親らしさや夫婦・家族の絆がどう育ってゆくのが自然か、ということが二の次になっていること。保育が雇用労働施策として繰り返し語られるうちに「子供は国や社会が育ててくれる」という考え方が広まってきた。「地域の子育て力」が人々の絆を意味するものではなく、保育や教育という仕組みの整備と見なされ、親子関係(社会の土台となるべき家族の連帯意識)が薄れてゆく。それは子供にとって不幸なだけでなく、社会全体から一体感が失われモラル・秩序が消えてゆくこと。誰がどのように子どもを育てるかという問題は、国家のあり方の問題なのです。

もう一つ、「計画通りに保育所の整備が進めば七万四千人の保育士が不足する」とある。一万人であろうと五千人であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。他人の三才児を二十人、一人で八時間育てられる人間はそう多くはいません。一日平均十時間子育てを保育という仕組みに任せるのであれば、この選べない状態こそが子供にとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても一番深刻なのです。保育の質が低下し、親の意識が育たないと学校教育がもたない。

保育士の質

今年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で逮捕される事件がありました。

千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)

危機的なのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と警察に述べたこと。この状況が、程度の差こそあれ全国の7、8割の保育園で起っている。悪い保育士を解雇できない。その風景に耐えられず、いい保育士が辞めてゆく。致命的な負の連鎖が始まっています。

地域の保育園保護者連絡協議会会長から手紙をもらいました。公立保育園の民営化、保育への市場原理導入が進む中、民間委託を希望する法人園に、行政と一緒に行った視察先での話です。

民営化の選定で都内の園を計4園視察しました。2社が株式会社、2社が社会福祉法人です。株式会社は酷い有り様でした。建物は広めの一戸建てという造り。床面積を稼ぐためか、収納は全て吊戸棚。保育士が主導権を握って、子供の気持ちに関係無く時間配分で変えていました。0歳児クラスでは、離乳食の時、スプーンに入れたおかゆを上あごにこすりつけて食べさせていました。食べづらいだろうに……と涙が出そうになりました。別の子は泣いてコットに寝かされていましたが、保育士は全く見ず、手だけ後ろに回してバスケットボールのドリブルのようにコットをボヨンボヨンとバウンスさせてあやしていました。見ていられず、別クラスへ移動しました。その10分後に覗いてもまだ同じことをしていて、胸が痛みました。

 給食の試食では、会社のマネージャーが自慢げに「うちの園の給食ははっきりいって美味しくないです。親がマズイと思うのが狙いなんです」と言っていました。ごはんも堅すぎで、私でも食べるのに苦労したぐらいです。あんな給食を毎日食べさせられて本当にかわいそうでした。

子供の気持ちを考えず自分の都合で〝あやす〟保育士。心のこもらない保育が日常になってきています。子どもが活き活きしたら事故が起きるから三歳未満児には話しかけない、抱っこしない、と指示する園長まで現れています。こうした一日一日が、この国の将来を決めてゆく。

全国的にみれば、公立園でさえ保育士の6割が非正規雇用化され、民間でも資格を持たないパートや派遣保育士を雇わなくては成り立たない状況が起っています。これ以上「待機児童の解消」を至上命題として、「受け皿」の(掘り起こせば現場が迷惑する)「潜在保育士」を掘り起こし、規制緩和で性急に「保育士」を作り出せばどうなるのか。

私は講演で毎年全国を回っていますが、今年ほど保育界が混乱し、次の世代を育てるべき中堅保育者たちが定年を前に辞めてゆく年はないと思います。家庭保育室という名で百人規模の認可外保育園があります。役場の保育課長が諦め顔で「概ねで始まり、望ましいで終わるような規則で、乳幼児は守れません」と私に言います。子どもの安全を犠牲にした規制緩和に行政が対応しきれなくなっている。

実は、子はかすがいではなく、子育てが社会のかすがいだった。いま子育ての社会化で家庭崩壊はますます進み、DVや児童虐待が増え児童養護施設も乳児院も限界を越えています。

なぜこんなことになってしまったのか。十数年前に「サービス」という言葉が民間保育園の定款に入れられた時から親の意識が変わり始め、「子供の最善の利益を考え」と明記する保育所保育指針と矛盾し、摩擦を起こしているのです。「保育は成長産業」と位置づけ市場原理を導入し、その中核をなす新制度における「小規模保育の促進」で保育士の質はこれからますます落ちてゆくでしょう。保育で儲けようとする人たちが客を増やそうとするほど、本当に保育を必要とする子供たちの安全さえ守れなくなってきているのです。

先日、知人の議員が株式会社の運営する保育園に視察に行き、「お金さえ払えば24時間あずかるのですか」と尋ねると、「もちろんです」と説明に当たった社員が自慢げに言ったそうです。悲しげに言うならまだ分かりますが、社員がすでに人間性を失っている。市場競争において、保育「サービス」は幼児に対してのものではなく「親に対するサービス」と躊躇なく解釈されている。

志をもって一生懸命に取り組んでいる保育士の方々もたくさんいます。しかし、そうした保育士さんたちとお話をすると、「悪い保育士を良くするにはどうしたらいいでしょうか」という質問を受けます。保育士のイライラから起る「問題」や、本来はすぐに逮捕されるべき「犯罪」が日常化しているというのです。厳密に言えば、幼児の口に食べ物を運ぶスプーンの速度が幼児の願いを超えたとき保育はその良心を失う。親の知らない密室でその対象とされた子供たちが、この国を支えていくことができるのでしょうか。待機児童が増えようと、親たちから文句が出ようと、市長が選挙で何を公約しようと、良くない保育士はすぐに排除するという決意を社会全体が持たないかぎり、子供たちの安全を優先する保育界の心を立て直すことはできません。この国の未来である子供たちを守ることはできないのです。

大人の「教育」としての保育

そして一つ目の問題につながっていきます。

「子育てしやすい国づくり」が「待機児童の解消」=「保育園を増やすこと」とする考え方に、日本人が違和感を覚えなくなっている。「子育てしやすい」という言葉を使って、親が「子育て」よりも「仕事」を優先できるように、国が望んでいるのです。長い目で見て、本当にそれが経済対策になるのでしょうか。愛着関係の土台を築けなかった子どもたちが、将来戦力になるのでしょうか。

「子育て」は時々大変です。しかし、0、1歳児をみることは、数人の絆と信頼関係があれば、人々の心を一つにする喜びであり拠り所だったはず。子育ては目的や目標というより、人間が自分のいい人間性を知る、人類としての体験だった。一緒に子どもの幸せを願い、損得勘定を離れることに幸せを感じる、社会の安定に欠かせない学びだったはずです。その「大変な」子育てを社会化・システム化すれば、「絆」は薄れ、生きる力が失われ、学校教育や経済にまで影響し始める。この国の少子化の原因は現在二割、十年後三割の男が一生に一度も結婚しない、生きる力、意欲を失っていることなのです。人間を進化させてきた親としての幸福感が崩れつつある。男女共同参画の本質だった「子育て」が欧米並みに崩されつつある。このままでは男女間の信頼関係さえ育たなくなる。

「子育ての外注化」が欧米先進国社会の仲間入りであるかのように喧伝され、一方で、知らないうちに親に見せられない保育が広がっている。半数近くの子どもが未婚の母から生れ、犯罪率が日本に比べ異常に高く、経済的にもうまく行っていない欧米型社会は、けっして真似るべき社会ではない。

子供を、自分で育てられない事態に遭遇した親たちは、過去にもいた。これからもいる。人類は困難を乗り越え「絆」を手に入れて来た。しかし、積極的に子供を人に預け、それがあたかも普通の「子育て」と見なす社会はありませんでした。「子育て」は、子供を「育てる」という側面だけではなく、大人が親とし「育つ」機会でもあったからです。

私が、「3歳未満児はなるべく親が育てた方がいい」と言う時に、土台にあったのは「幼児たちの人間社会における特殊な役割を忘れてはいけない、幼児たちが社会に人間性を満たし、心を一つにする」という考え方でした。「子育て」を通して育つのは、他でもない大人の「親としての心」です。幼児を眺め、一緒に育てることが人間にとって最大の「教育」なのです。人間の心は、子を産み育てることで(産まなくても幼児に代表される弱者に関わることで)、忍耐力や優しさを身につけ、人間らしくなっていた。

幼稚園や保育園で幼児を眺めながら思うのです。頼りきって、信じきって、幸せそうな幼児たちの姿こそ、宗教の求める人間の姿ではなかったか。遊んでいる幼児たちから、人間は心のものさし次第で自分はいつでも幸せになれることを教わってきた。特に、この日本という国はそうだった。だから状況が欧米に比べ奇跡的にいいのです。利他の心が伝統的に生きているのです。

あるべき「保育」にむけて

最近「愛国心」という言葉がよく聴こえてくるようになりました。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる調和だったはずです。その幼児を蔑ろにしながら、「愛国心」という言葉でまとまってもやがて限界がくるでしょう。

人生は自分自身を体験すること、しかも、たった一度だけ。だからこそ、過去の人たちの意識を重ねあわせることによって、より深く体験することができる。多くの人間が選択肢なしに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり向き合うこと、そしてそれを楽しむこと。これが人類にとって何よりも重要なことではないでしょうか。

まつい かず

昭和29年、東京生まれ。慶応義塾大学から、カリフォルニア州立大学(UCLA)民族芸術科に編入・卒業。尺八奏者としてジョージ・ルーカス、スピルバーグをはじめ多数のアメリカ映画に参加。元東洋英和女学院短期大学保育科講師。元埼玉県教育委員長。日本小児科学会、日本小児保健医学会、乳幼児教育学会、厚生労働省児童家庭局、自民党少子化対策委員会、東京都青少年健全育成会、各県保育士会、私幼連PTA連合会等での講演などを積極的に行い、保育・教育関係者、父母を対象に、幼児をめぐる日本の現状に警鐘を鳴らしている。著書に、『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか・親心の幸福論』(国書刊行会)、『子育てのゆくえ-子育てをしないアメリカが予見する日本の未来』、『学校が私たちを亡ぼす日-アメリカの失敗それを追う日本』(ともにエイデル研究所)他多数。

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(資料2)

日本の論点 2004年版 (文芸春秋社)

モラルと秩序は「親心」から生まれた:子育ての社会化は破壊の論理 :松居 和

なぜいまが母性に思考の軸を置く時代か

幼児という絶対的弱者に関わり、人は優しさ、忍耐力、善性を引き出される。そして、大人達から一定の善性が引き出されない限り幼児は存在できない。これは私達が宇宙から与えられた進化のための法則であった。もう一歩進め、「宇宙が我々に自信を持って0歳児を与えた」のは人間が引き出されるべき善性を持っている証し、と私は考えたい。しかし、この善性は引き出されるべき善性であって、引き出されるプロセスに幸福が伴って初めて人類は健全に進化できた。強者(親)が弱者(幼児)と関わることで人間社会にモラル・秩序が生まれた。

義務教育が普及すると、家庭におけるモラル・秩序の伝承が薄れ親心が育たなくなる。すると画一教育が困難になり学校が機能しなくなる。犯罪が急増し司法システムがモラルの崩壊にやがて追い付かなくなる。今や先進国にとって避けられない図式である。米国で今年生まれる子供の20人に一人が刑務所に入るという。学校や福祉といった仕組がいかに親子を不自然に引き離し、「親心」が育つ機会を奪っているかを考えれば自然のなりゆきではある。

親心が社会から薄れると、「愛」という幸福に不可欠なものが歪み、逆に不幸を生み始める。米国で少女の二割が近親相姦の犠牲者といわれ、虐待を受けた少女たちが温かい家庭に憧れ未婚で出産し幼児虐待の連鎖を繰り返す。現在地球を覆う非人間的な出来事の多くが、「親心の欠如」という人類史上かつてない異常な環境問題から起こっている。

私は日本の保育者達に講演し始めて15年。欧米の状況を伝えながら、「これ以上預かったら親が親でなくなってしまう」という保育士達の叫びに女性達の魂を感じた。いま、「女性らしく考えること」が人類の進化の鍵を握っていると確信した。論理ではない母性に思考の軸を置く時代が来ている。

親から子を引き離した結果、生じる危険

8年前米国連邦議会に、犯罪を減らすため母子家庭から子供を取りあげ孤児院で育てようという法案が提出された。孤児院はコストがかかるが刑務所よりは安いという論議がされた。福祉はここまで行く可能性を持っている。(当時法案に賛成していた下院議長は、今回のイラク戦争を支持した国防最高諮問会議の5人のメンバーの一人である。ここに人類の未来の危険性を私は見る。)孤児院は虐待を受ける確率が少なく子供には良い。しかしこれでは「親心」が育たない。人間の善性が引き出されない。社会に親心が満ちることこそが「子育て」の最大の意味であり、弱者に優しい社会が形成される土台だということを忘れてはならない。欧米は子供の安全を考え親子を政府が引き離すという危険な一歩を踏み出そうとしている。システムが壊してしまった「人間性に依存した人間社会」を、システムを使って応急処置し続けるしか方法がないのだ。しかし欧米式応急処置には宇宙が我々に与えた幸福論が関わらない。親であることの幸福論、善性を引き出される幸福論、自己犠牲の幸福論が、勝つことに幸福を求める「強者に都合のいい幸福論」に呑み込まれつつある。

日本でも、自由、自立、個性を大切に、自己実現、社会進出、共同参画などという、競争に多くの人間を巻き込む意図で生まれた「危険な言葉遊び」が広まりつつある。人類存続に不可欠な親心、親身といった善性に関わる幸福論が、弱者の幸福論として排除されつつある。結婚は自ら不自由になることであり、出産はさらに不自由になること。そこに幸せがなかったら人類は進化出来ない。宇宙は私たちに「不自由になれ。幸せになれ」と言って0歳児を与える。そして、始めの数年間、完全に頼って生きる人生を全ての人間に平等に与えた。人は幼児と接し、自分も一人では生きられなかったことを思い出す。そうした頼り頼られる記憶の伝承が人間社会には不可欠だった。それが自由、自立という現実味のない言葉で排除されようとしている。

欧米で3割の子供が未婚の母親から生まれていた時、日本は1%台だった。日本は選ばれた奇跡の国だった。それが、この5年急速に崩壊に向かい始め、保育園では母子家庭が3割近くになり、幼児虐待も急増している。母子家庭が悪いと言うのではない。女性より攻撃的な男達に親心が育たない、幼児に関わる時間が減ることによって女性らしさ(母性)が社会から消え始めることが危険なのだ。

女性の社会進出は強者の幸福論に行きつく

「囚人の95%が幼児虐待の犠牲者と言われ、虐待を受けている子供たちを全員収容しようとすると、200万人の子供を収容しなければならない」(Time誌)という米国の現実を見つめ、欧米とは違った道、親心を社会に取り戻す道を模索することが日本に与えられた使命だと思う。アメリカンドリームという言葉に代表される強者の幸福論の対極にある、欲を捨てることに軸を置く「親心」に近い仏教的幸福論を土壌として持つ私たちの役割だと思う。地球には多くの軍事政権や独裁者が存在し、自由、自立、平等という言葉を武器に闘う必然性があり、それを教えるために学校が必要なことも分る。しかし、この自由、自立、平等という言葉が「親子」という社会の基盤となる人間関係と相容れないということ、学校が、親心が育つ機会を奪うことを私たちは、先進する人類の一員として考えはじめなければならない。

冷静に考えれば、国際化、グローバリゼーションという言葉が、欧米流競争社会に日本を引き込む強者の策略であることが見えてくる。競争社会は参加する人間、欲(夢)を持つ人間が増えるほど富が強者に集中する。国際化とは国境を越えて利潤・利権の追求が始まること、国際人とは、国境を越えて儲けようとする人のこと。幸福論の国際化は無国籍化を招き、人類が日本という選択肢(オプション)を失うことに他ならない。なぜ今米国の学校が日本に学び制服を取入れ始め、団地で川の字になって寝ている日本の親子を発達心理学者が研究し始めたか。日本という選択肢が遅蒔きながら欧米の学者たちの視野に入ってきているのだ。

「女性の社会進出」という言葉も強者の幸福論に行き着く。欧州人がアメリカ先住民を征服した手法を思い出してほしい。彼らはインディアンたちに土地の所有、権利という概念を「学校」を使って教えようとした。欲と不満(不安)を植えつけ、それをエネルギーに競争者を増やして行くのが資本主義の方法だからだ。待機児童は解消しようとすればするほど増えてゆく。親心を否定する方向へ動く幸福論の書き換えは、子育てをイライラの原因に変える。少子化対策も現時点では欧米並に女性を働かせようという経済学者の増税対策でしかない。これでは将来刑務所をいくつ作っても追い付かなくなる。孤児院で子供を育てよう、ということになりかねない。

経済競争に負けた「強者」による幼児虐待

親達のシステム依存は既に始まっている。専門家(学者)依存が進むと子育てに祈りがなくなる。人は祈ることで精神的健康を保つ。その原点が子育てだった。夫婦が親になり、共に祈り最小単位の社会が形成されていた。

心理学者への過度な期待とカウンセラーの普及が社会に致命傷を与える。育ちあいが消え、システム依存は薬物依存へと進む。米国の小学生の20人に一人が画一教育を維持するために精神安定剤を飲まされている。子育てを損な役割と定義し幸福論を書き換えてしまうとシステムは薬物と共に崩壊へ向かう。

砂場で遊ぶ幼児を眺め、人は幸せが物指しの持ち方にあり、簡単に手に入るものであることに気づく。だからこそ、強者たちは人間と幼児を引き離そうとするのだ。

今、強者であることに快感を感じる米国型幸福論の国際化が、利子さえ許さない回教とぶつかり、野心を捨てることを幸福の柱とした仏教文化を呑み込もうとしている。経済競争に負けた強者たちが家庭でやるパワーゲームが幼児虐待である。保育者が日々幼児の集団を使い親心を耕すことによって、弱者が強者の善性を引き出すというガンジーの非暴力主義が人類存続の真理として再発見されることを私は祈っている。なぜなら部族間の闘争もまた親子の絆を深める伝統的手法であるから。

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(3)

保育の現場で起こっていること

(企業主導型保育所について)

 

新聞記事と現場からのメール:「子育て安心プラン」の中で、子どもたちが不安に怯えている。

(最近、こんな新聞記事がありました。)

世田谷区:企業主導型保育所2園、全保育士7人が一斉退職(毎日新聞)

東京都世田谷区にある保育所2園で7人の保育士全員が10月末に一斉に退職し、園児が転園を余儀なくされたり保護者が出勤できなくなったりしている。1園は休園し、もう1園は受け入れを続けるが、「保育の質」に不安を持つ声が出ている。

(ブログhttp://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2643:に記事全体を書きました。参照してください。企業主導型保育所の危うさも報道されています。)

記事の要点を抜粋すると:

「運営する会社の経営者の男性(47)によると、10月上旬に上北沢園の保育士全員から退職希望があり、保育士の派遣や他業者との提携を模索したが見通しが立たなかった。」

「この混乱でしわ寄せを受けているのが子どもたちだ。下高井戸園に通う子の母親は『安心できないので仕事を休んでいる』と憤る。」

「厚生労働省から企業主導型保育事業の運営を委託され、助成金支給を担う公益財団法人『児童育成協会』(渋谷区)は『保育士が一斉に辞めることは通常は考えられず、利用者のことを考えると非常識』と話し、利用者に新たな受け入れ施設を案内するなどの対応に追われている。」

「協会は下高井戸園の新しい保育士が有資格者かどうかを確認するため職員名簿の提出を求めているが、経営者は名簿の提供を拒み続けているという。園には栄養士はおらず、給食の献立をパソコンソフトで作成している。2日朝には経営者が自らスーパーで食材を購入していた。予定していたケチャップ煮用の赤身魚が店頭になく、経営者は白身魚を購入し、「煮物にする」と話した。記者が『大丈夫か』と問うと、「『大丈夫ですか』って僕も言いたい」と困惑気味に答えた。」

(関連記事)

<企業主導保育所 長男死亡の母、安全管理の改善訴え>

<企業保育所の7割、基準満たさず>

<企業保育所 定員半数空き 助成金厚く乱立>

<待機児童解消へ政府推進 企業主導保育所の効果は?>

<職場に保育所、広がる  女性採用の「切り札」 基準緩く「質」不安も>

この記事の向こう側に、もう一つの現実、報道されず忘れられていく乳幼児たちの日々があります。そこに、日本の未来が深く関係していることに気づいてほしいのです。

「雇用労働施策、少子化対策」と称しなりふり構わず「保育制度の拡張と規制緩和を進める」政治家や学者、専門家たちが考えもしない、子どもたちの悲しみや苦しみ、怯え、心ある保育士たちが現場から去ってゆくあってはならない風景が「全国で」日々繰り返されている。世田谷区の別の園のベテラン職員からこんなメールが来ました。

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松居先生、お久し振りです。お元気ですか?

今週水曜日に保育課から電話があり、「近くの企業主導型保育園の経営困難により、今いる園児たちの受け入れ先を探しています。緊急一時枠でお願いできないか」なんて、今でさえ長時間保育の乳児で、基準は満たしているけれど安全に保育するギリギリラインなのに、区や都、国で責任取れ、現場に押し付けるな、待機児童政策は大失敗なんだと言えばいいのに、園長は何も言わず。ただ受け入れは難しいとお断りしました。

そこの園とは、よく散歩先の公園で出会い、見かけましたが、正職員と思われる保育士は卒業したてという感じの若い子ばかり。それに年齢のいったパート職員が子供達を怒鳴り散らしていて、若い子は何も言えず子供達に声かけもできず、ぼんやり砂場に座っているだけでした。

うちの園の子どもも、その怒鳴り声に怯え遊べなくなり、仕方がなくその場を離れました。いく先々でそこの園と鉢合わせると場所を変えるという、お散歩難民状態になりました。

そこの園は皆お揃いのポロシャツ(しかも白)とブカブカのビブスを着せられ、多分お洗濯もしなくていいとかが売りだったのでしょうか。

うちの園の子が泥水遊びをしているところに、その園の子たちが次々やってくるのを必死で抱え連れ戻すので、ご一緒にどうぞと声をかけると、ありがとうと言いながらも、子どもを遠ざけていました。

ある日、新顔のパートの先生(主婦っぽい)が、ありがとうございますと言い、一緒に泥遊びに参加しました。

暫く振りにまたその先生と子どもたちに会い、子どもたちも嬉しそうに私たちのところへやってくると、その先生は悲しそうに「今日は、あっちで遊ぼう」と声をかけていました。すると、若い正職員が、「この前、泥遊びをさせたからシャワーを浴びさせる目にあった、ホント参るよ」と言うのが聞こえ、泥遊びをさせてしまった先生は、もう子どもたちと声を交わすこともなく、ボンヤリ砂場に座っていました。

こんな現場のことなんて、行政は何もわかっていない。憤りを感じます。

今、うちの園では、モンスターペアレントととの戦いで、保育課とも戦っています。園長が何も言わないので、聞き取り調査に来た保育課の職員にうちの職員が、保育課は保護者の苦情に対応はするのに、保育士たちを理不尽な親から守ろうとはしない。保育士を守るのは一体誰なんですか、クレームがそちらに行く度に、書類提出を求められますが、その時間も無いし、だいたい保育中に何故聞き取り調査や電話対応をしなければならないのか、と反論していました。

また先生にお会いしたいです。取り敢えず、保育崩壊中の近況報告まで。

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「他園の子どもが、その怒鳴り声に怯え、遊べなくなる」ような環境で1日10時間、一週間も過ごせば3歳未満児は萎縮していくでしょう。自分でそれを親に訴えることもできない。幼児たちの表情の変化を読み取れる親も少なくなっている。一ヶ月も続けば、2歳半までに一生に影響すると言われる脳の発達がどうなっていくか、怖いくらいです。

(WHO『世界保健機関』やユニセフは、「人生最初の1000日間」がその時期に最も発達する人間の脳にとっていかに大切かと言い続けています。30年前に、フランス議会は「両親が共働きになった時、子どもの発達は大丈夫か」と問題提起し、それに対し、世界乳幼児精神保健学会の理事たちは「ビジネスの原理では子どもは育たない」と警告しています。)

こういう風景に将来の学級崩壊の根っこがある。学者はすぐにエビデンス(証拠)はあるのかというけれど、エビデンスが出てからでは遅いのです。義務教育という仕組みは家庭という仕組みの上に成り立っている。その家庭と学校の連携、それ以上に役割分担が一度壊れてしまうと修復はほぼ不可能に近い。学校の現状が未来の「家庭」に連鎖していく。

新聞報道の「この混乱でしわ寄せを受けているのが子どもたちだ」という言葉が虚しい。状況の把握があまりにも浅いのです。毎日保育士に怒鳴り散らされている子どもたちにとって、「この混乱」は救いだったかもしれないのです。報道する側は、しっかり状況を調べ親の利便性に重点を置いた恣意的な報道をやめ、政府の安易な保育施策の「しわ寄せ」を受けているのが子どもたちの日々であること、保育士、教師、親たち、この国の未来であることに気づいてほしい。

「泥遊びをさせてしまった先生は、もう子どもたちと声を交わすこともなく、ボンヤリ砂場に座っていました」。

ここに本当の意味での保育崩壊がある。仕組みを担うべきふつうの人から優しさや、思いやりの心が奪われてゆく。

乳幼児たちの役割は「育てる側の心を一つにし、社会に信頼関係を生み、人間たちの親身な絆をつくること」。それなのに無理な仕組みと良くない動機で子どもを人間たちから引き離そうとするから、「もう子どもたちと声を交わすこともなく、ボンヤリ砂場に座っている」しかない状況が保育の現場で増えている。

「保育士やめるか、良心捨てるか」という言葉が現場から聞かれるようなった久しい。

親も、行政も、保育士も、保育園経営者も、心が一つにならなくなるような仕組みを、保育をサービス産業化することによって政府が進めている。しかもそれを「人づくり革命」と呼ぶのだから、まったく理解できない。

前述した新聞記事の中で、企業主導型保育所の認可と助成金支給を担う公益財団法人「児童育成協会」(渋谷区)が保育士たちを非難して、「保育士が一斉に辞めることは通常は考えられず、利用者のことを考えると非常識」と言う。この公益財団法人にとって「利用者」は親でしかない。本当の利用者が「子どもたち」であることをわかっていない。「通常考えられない、非常識な」状況をつくりだしているのが自分たちだということを理解していない。ここが一番の問題。しかも、この閣議決定された「人づくり革命」を進めるために新たに作られた「児童育成協会」は市町村の意思・意向を飛び越えて、規制の緩い保育所を、内閣の意向に従って認可し助成する権限を持っています。これはもう経済優先の巧妙な策略か、天下り先確保なのか、と疑いたくなります。

一年も経たないうちに、保育士に逃げられた経営者が、「『大丈夫ですか』って僕も言いたい」と言いながら食材探しをする。乳幼児とって極めて危険な、素人の参入を促す仕組みを助成金を支給して増やしているのは、「子育て安心プラン」という経済政策パッケージなのです。

 「子育て安心プラン」の中で、子どもが不安に怯えている。

「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2498

 

幼児を可愛がる、という大自然の作った一つの「かたち」が土台にあれば、人間の作った福祉や教育という「かたち」は崩れない。でも、そこが欠けると「人間性」という生きる動機そのものが壊されてしまう。人間が、自分自身のいい人間性を体験できなくなってくる。

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(4)

政府の「新しい経済政策パッケージ」について

「少子高齢化という最大の壁に立ち向うため、生産性革命と人づくり革命を車の両輪として、2020 年に向けて取り組んでいく 」(中略)、

  「20 代や 30 代の若い世代が理想の子供数を持たない理由は、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が最大の理由であり、教育費への支援を求める声が 多い」

少子高齢化という「最大の壁?」の実態が見えていない。過去15年間やってきた「少子化対策」(エンゼルプランや預かり保育など)の結果ますます子どもは減ってきているのです。この国の経済だけでなくモラル・秩序が危うくなってきている。負担を軽くすれば子どもをたくさん産む、という幸福論はこの国では成立しない。この国の個性、成り立ちである「利他の心」「和の心」を耕すという幸福論の書き換えをするしかない。

子どもを産み、育てるという行為が、親身な絆が生まれるための人類必須の行い、生きる動機、幸福論と重ならなければ、人類はとっくに滅んでいる。「子育て」で心を一つにする。その結果として「経済」が存在する。この順番を間違えてはいけない。(中国とアメリカという絶対真似すべきでない二つの国を除けば、日本は経済的に世界で最も成功している国なのです。それは「子育て」が親たちの手から離れない、子ども優先の国だったからです。)

「子どもを全員保育園で預かって、母親が全員働けば、それによる税収の方が保育園にかかる費用より大きい」という馬鹿げた計算が経済企画庁の諮問会議から発表されて15年以上。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=78 その時も、「だからどうなんだ」と誰も言わなかった。当時、ジェンダー学者や経済学者から目の敵にされた女性の就業率のM字型カーブが、実は乳幼児の願いをかなえようとするこの国の美学、美しいカーブなのではないのか、と誰も強く言わなかった。自分で育てられないのなら産まない、という意識も含め、この国特有の、子ども優先の常識や考え方が、欧米思考の経済学者たちの「子育て観」とずれていることを指摘しなかった。

子育てという「負担」は人間社会の基盤を育てる大切な負担で、そこで得られる幸福感の伝承が人類をここまで進化させてきました。先進国社会(豊かな国)に共通する少子化の原因は選択肢が増えることで起こる、人生を支えてくれる根源的な幸福論の喪失にあります。アメリカと中国を除けばGDPが世界一位という豊かな国日本で、3割の男が一生に一度も結婚しない。「子育て」という、人類の進化に必須の幸福感が人生の目標となり難くなっている。

理想の(?)子供数を持たない理由は、「子育て」の幸福感を体験的にも、情報としても、しっかり知らされなくなってきていることが第一でしょう。そんな姑息なやり方でネズミ講のねずみを増やそうとするような経済論を押し付けようとしても、日本の文化がそれに抵抗する。しかし、その抵抗が限界にきている。

政府が「子育て」を、女性を輝かせない「負担」と位置付け喧伝すれば、家庭を持ちたいという男たちが減って当たり前です。彼らの意欲、存在する動機が希薄になってゆくからです。

子育て支援、というより子育て代行が雇用労働施策として進められている。そして、同時に叫ばれる「一億総活躍」という掛け声が、この国の思考や議論を現実離れした色あせたものにしている。

(内閣府の調査で若者の引きこもりが54万人。3割超が7年以上で、長期化、高齢化しているという。注目すべきは「引きこもりの状態になった年齢」。20~24歳が増えトップで34.7%。次が16~19歳の30.6%。結婚して家族を持とうと思い始める時期に、引きこもりが始まっている。幼児という絶対的弱者の存在意義を理解していない、パワーゲームを土台にした平等論が学校教育を支配し、男女共同参画社会の土台が「性的役割分担」で、社会を構成するためには必須だという文化人類学的に考えればごく当たり前のことが「高等教育」の中で言えなくなって、少子化は進んだのです。)

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(5)

「子育てをしないと人類は滅びます」:先進国社会で起こっていること。子育ての社会化は家庭崩壊、人間性の崩壊につながる。

長い間「子育て」は、人間社会にモラルと秩序を生み出すための「道筋」でした。幼児を抱き上げたり、一緒に散歩を繰り返すとそれが見えてくる。

そして、哺乳類という条件が課されている人類はこの「道筋」から逃れられない。子育てをしないと人類は滅びます。ほとんどの人間が子育てを体験しないと、人間が社会を構成するのに必要な忍耐力と優しさを保つことができない。社会の基盤になる「家族」「家庭」が維持できなくなる。

遺伝子学の権威、村上和雄筑波大名誉教授(「生命の暗号」他)が繰り返し言う、「人間の遺伝子がオンになってくる」ための、「子育て」は必須のプロセスだった。必須ゆえに、「保育」「学校教育」に代表される「仕組み」で肩代わりしようとすると人間性を維持するための「体験」のバランスが崩れてくる。そして、モラル・秩序の崩壊という歪みが現れる。「保育」「学校教育」「福祉や司法」という仕組み自体が成り立たなくなる。

こうした仕組みが「資格」ではなく、個々の人間の「人生」によって成り立っていることを忘れてはいけないのです。市場原理に組み込まれた「資格」は、人間性を失う入り口になるばかりではなく、社会全体が人間性を失っていく原因となる。

日本でも盛んに言われるようななった「子育ての社会化(仕組みに頼る子育て)」の危うさは、義務教育(公教育)が普及すると家庭が崩壊し始め、犯罪率が異常に上がるという欧米先進国が通った道、陥った状況を見ればわかるはずです。

(福祉国家の代表的存在とも言えるスウェーデンでは、女性がレイプされる確率が日本の50倍。強盗に会う確率が12倍。強盗に入られる確率も12倍。そして、子どもが誘拐される確率の全世界トップ5にベルギー、フランス、ドイツ、カナダが入っていて、確率は日本の数十倍。

こういう数字を挙げた上で、「欧米に比べ、日本は遅れている」という論議がされるべきだと思う。

日本という国が人類にとって大切な選択肢になる可能性があるということが議論されないまま、

「従来からヨーロッパ先進国では、年齢、性別や障害の差別を改善して女性の就労と子育て環境を整えてきた。子どもを一人の人格をもった権利主体として認めるとともに、よりよい環境で育てられる権利を保障してきた」

などと書かれる。

権利を法律で保障しても、それは学者と政治家のやった振りでしかなく、実際に欧米で起こっている家庭崩壊は、家族という形の市場原理化にまで進んでいる。

昨年末参議院本会議で「成育基本法」が全会一致で可決されました。医療という側面で見れば確かにいい法律だと思いますが、法律の中に「心身の健やかな成育」「子どもの尊厳」という言葉がある。「親心」という人間性が育つ環境を取り戻さずに、言葉だけの立法では意味がない。

哺乳類の本能でもある「子育て」は法律を作ることで確保・維持できるものではない。雇用労働施策で幼児期の子育てを親から仕組みへ移そうとしながら、この法律の目指す「安心して産み育てる環境を整備する」ことはできないのです。

本気で「子どもを一人の人格をもった権利主体として認める」気があるのなら、012歳をもう40万人保育園で預かれ、11時間保育を「標準」と名付けるような数値目標を、子どもの人格を無視して設定することはできないはず。)

欧米社会の市場原理、強者の原理(パワーゲーム、マネーゲーム)に基づいた幸福論を掲げ、日本で管理職についている女性、議員に立候補する女性の数が少ないことを「良くないこと」のように言う人たちがいます。それは、まだこの国では、多くの女性が「子育て」という選択肢を子どものために選んでいるということでもあって、その比率を比べれば、先進国社会では稀有の状況なのです。(3割から6割の子どもが未婚の母から生まれる欧米に比べれば、出発点から状況が異なるわけですが。)

その、途上国なら当たり前、先進国では奇跡の状況を、女性に対する「抑圧」とか「洗脳の結果」という安易な括りで解釈せず、尊重されるべき自らの選択肢となぜ捉えられないのか。

少なくとも村上教授の言う幸福の原点、遺伝子がオンになる条件、「利他」の精神を身につける選択肢として、それを受け継いでいこうとする日本の女性の直感、賢さは大切にされるべきものであるはず。いま、この国の稀有の安心と安定を守っているものは、こうした女性たちの直感だと思います。こういう自然の摂理にかなった弱者優先の選択肢が存在しているからこそ、この国は、犯罪率も欧米社会の一割以下なのだと思います。

それがいま経済優先の政治家たちによって壊されようとしている。

「日本の女性は洗脳されている」というような、子育てに幸せを見出そうとする多くの女性の選択をバカにするような発言はさて置き、母親としての選択が「伝統」という抑圧の縛りのなかで行われているとか、男性たちの過去の横暴さに対する反発であるとか、私も、「そうだろうな」と思う様々な議論があるのはわかります。「平等」という名のパワーゲームが「利他」の幸福論とぶつかっているのが全世界的にまさに「現状」なのですから、日本にも当然その波が押し寄せてきている。

しかし、少なくとも「子育て」や「親子関係」に価値を見出そうとする母親たちの選択が、子どもたちの希望には沿っている、という論議があっていいはずです。そして、「子どもたちの希望・要望」、「それに応えようとすること」に人間社会の成り立ちを見てもいい。調和や絆が育つ「真理」を見てもいいと思う。「子どもたちの希望・要望」をかなえようとすることで「欲」が抑えられ、「利他」の幸福論が本筋として選ばれる。これが村上教授の言う「遺伝子がオンになってくる」ということだと思う。人間社会が「親心」を中心に「人間性」を維持する、それが人類が生き残るための究極の性善説、唯一の手段だと思うのです。

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マスコミや政治家は正論のように、本当に軽々しく「待機児童をなくせ」と言う。それは同時に乳幼児期の成長過程の主体を家庭から保育園に移すことでもあって、子どもたちから長時間「親と過ごす時間」「親を体験する時間」を奪うことでもあることを忘れてはいけない。

乳幼児を長時間預かることは、親たちが「成長」という大自然の流れを眺め、自身の成り立ちを理解する機会を逸することでもあると思う。幼児の成長を通して自己の存在理由に気づくだけではなく、性的役割分担の結果を「絆」へと発展させ、人類の進化を受け入れる道筋を見失うことでもある。

こうしたことに気づかなくなることで、変えてはいけない人間社会の常識がいま急速に変わりつつある。政府が掲げた3歳未満児をもう40万人保育所で預かり労働力を増やすという数値目標が、子育てに対する意識に限らず、人間が生きるために必要な様々な条件、摂理に対する意識を変えようとしている。この道筋は非常に危ない。欧米のように、一度一線を越えると、戻れなくなる。

「乳幼児期の成長過程」、就学前に人間が親子という特殊な関係の中で過ごす時間の質は、学校教育という新しい巨大な仕組みが成り立つかを左右する要因です。その現実がこの国でも、学級崩壊やイジメ、不登校などによって一層明らかになってきている。突きつけられている。

保育資格を持っていれば「子育て」ができる、と考える、「学問で思考する」人たちの思い上がりが、将来の日本の教育の質だけでなく、「思考」や「感性」の質を落としている。

「待機児童をなくせ」という言葉の危険性は、その言葉を受け入れることによって、保育園に預けてもらいたくて自ら「待機」している乳児(0、1、2歳児)は一人もいない、という事実が忘れられていくことにある。弱者の気持ちを想像し「利他」の幸福観を育てるという、進化する動機そのものが不明瞭になっていくこと。

(一時的にではあっても、育ち、育てられるという相互関係が生み出す調和への道が遠のいてゆく。縦軸、横軸双方向への「時間の共有」という調和の軸になる要素が意識から遠のいていく。)

肉親、血の繋がり、家庭、家族というごく最近まで人生において重みを持っていた言葉の意味をもう一度思い出し、「成長」を共有することの価値をいま一度確認し、それを大切にする習慣を残しておかないと、やがて福祉や義務教育は「子育て」という重荷を背負いきれなくなる。法律で人間性の欠如を補うことができなくなる。

親に虐待されたり、家庭環境が崩壊するなどして、身勝手な大人たちによって追い詰められた就学前の弱者たちにとって、人生の岐路ともなる選択肢を「未就学児の児童養護施設入所を原則停止」という形で政府が一方的に決めてしまっている。権限のないことに対し権限があるかのように振る舞い、責任の所在さえ明確にしないまま、「律法」という形で采配している。その采配が、保育や学校という「仕組み」に関わる人たちを精神的に追い詰めている。

親から引き離すべきなのか、否か。一時的に施設を使って引き離すのがいいのか、一生の絆になるべく里親に任せるのがいいのか。親身になるほど神の役割にも似た重要な判断を迫られる人たちがいる。政府が安易に、大した議論もなく「やり方」を変更していく仕組みの中で、心ある人たちが葛藤している。(または、とっくに諦め、感性を捨てている。)(法律で守り、守られているという錯覚が、人間同士の幸福論に基づく絆を希薄にしてゆく。)

いい施設長がいても、いい職員を揃えられなければ意味がない。(家庭で子育てを通して親たちが育てられていた、というプロセスは、保育の専門学校で代替わりできるものではないのです。)すべての福祉施設に共通した問題、人間性の欠如、またはその欠如の連鎖はすでに10年以上前から始まっています。人間が、弱者に「寄り添えなく」なってきている。

そんな中、先日一人の児童養護施設施設長が命を奪われました。仕組みに恨みを持った人によって。

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(6)

児童虐待 (里親制度、養護施設など福祉の限界)

親による児童虐待が増えています。児童相談所を増やせばいい、という問題ではないのです。もっと根源的なところで、政府も含めて「幼児の扱い方」がぞんざいになってきている。「子どもの最善の利益を優先する」という、子どもの権利条約にも保育所保育指針にも書かれている人類としての基本的優先順位が崩れてきている。そこに真剣に取り組まない限り、死まで行かなくても、こういうことをする人はこれから増えるばかりです。それを法律で取り締まり続けることはできない。親の子育てに対する意識の変化が問題なのです。(それは、いま児相で働いている人たちに聞けばわかります。)

そして、こういうことをする人たちが、子どもの気持ちを優先するという社会常識の中で、「相談相手」や「絆」を持っていれば、たぶん歯止めはかかったはずなのです。

児童相談所を増やせばいい、という問題に焦点を持っていかないでほしい。

虐待防止ダイアル、189(いちはやく)の時とまったく同じです。

あちこちの児童館や支援センター、市の施設の壁にこのポスターが貼ってあるのを見ます。しかし、これが進められた時、ダイヤルした先の仕組みの改善はほとんど行われていなかった。いわゆるやったふり施策でした。イチハヤク連絡しても、イチハヤク対応できるようにはなっていなかった。

子どもの生死に関わるキャンペーンを国が本気でやるなら、電話を受ける人員を増やし、そこで相談にのる人、児童相談所の仕組みをより充実させ、虐待の疑いがあった場合に子どもたちを受け入れる施設、乳児院や児童養護施設の量的質的改善、人材の確保を先行させてから(または並行して同時に)行わなければならなかった。

それをせずに、いきなり「虐待ダイヤル」を作ってしまったその一年後に、今度は唐突に「未就学児の養護施設入所を原則停止」が決められた。

なるべく里親で、家庭に近い形で、欧米に比べて日本は里親制度が発達していない、という欧米の「里親」の(本当の)実情を知らない学者の言葉を鵜呑みにし、専門家の言葉を利用して施策が進められてしまった。乱暴すぎる、を通り越して、流れとしては支離滅裂です。

ダイヤルしてから、子どもがいい「里親」のもとで落ち着くまでの道のりが不可能なほど遠すぎる。子育てを囲む信頼関係の希薄化によって、それはますます遠くなっていく。預かれ、預かれという施策の元、保育士と保護者、教師と保護者の信頼関係さえ保てなくなっているのです。掛け声ばかりで、まったく現実的ではない。「未就学児の養護施設入所を原則停止」は、最近の政府のビジョンのない福祉施策の典型のような気がします。そして、裏では予算削減=市場原理への方向へ密かに動いている。(アメリカの里親制度が市場原理に頼らざるを得なくなった福祉の成れの果て、人身売買のようなもの、というドキュメンタリーの紹介と、文章を以前ブログに書きました。https://www.youtube.com/watch?v=Pke65F7Hb00(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413)

これは非現実的だと始めからわかっているから、児童相談所も慣れっこになっていて、各市町村の課長に一応「里親を見つけてください、75%が目標です」と指示します。そんなものどうやって探せばいいかわからない課長(数年の任期で移動する?)は、送られてきたポスターを保育園や公民館に貼って、おしまい。

そして、「未就学児の施設入所を原則停止」という現実だけが残るのです。誰も気づかないうちに無防備な人たちが人生の生き場所を失ってゆく。

そして一番良くないのは、ただでさえ保育士不足で追い詰められている保育所に仮児童養護施設の役割を黙って押し付けてくること。

親に守られなかった子どもたち。自分を守れない年齢の子どもたち。家庭という生きる場所を失った子どもたち。だからこそ、福祉が心を込めて助けなければいけないひとたち。政府の言う「福祉の歳出削減」の最初の犠牲者になってはいけない人たちが、ますます窮地に追い込まれている。

欧米に比べれば日本の状況はまだ奇跡的にいいのだから、発言できない幼児たちの願いに、気づいてほしい。

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児童虐待がニュースになる度に思います。

対応すべき児童相談所も、受け皿になるべき児童養護施設も保育所も人員・人材的にも施設・予算的にもすでに限界を超えている。一昨年始まった「未就学児の施設入所を原則停止」に見えるように、一般の人が気づかないところで財政削減が幼児の福祉を脅かす方向に進んでいる。ほとんど議論されないまま「施設入所、原則停止」に変えられている。

子育て支援員、地方限定保育資格、小規模保育、企業主導型保育事業、次々に作られた新しい制度は、15年前の認可保育園の基準から考えれば常軌を逸した、量を増やすための安易で危ない規制緩和でしかない。これに追い打ちをかけるように保育の無償化が加わろうとしているのです。「待機児童対策」「雇用労働施策」「少子化対策」という面ばかりが強調され、幼児たちの「願い」どころか「安全」さえもが脅かされている。

そうした政府の乱暴な姿勢が家庭にまで影響し、それが浸透し広がっている。

「週末、48時間子どもを親に返すのが心配です。せっかく五日間いい保育をしても月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる」。

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは私たちなのではないでしょうか」。

そういう声が頻繁に保育現場から聞かれるようになって久しいのです。エンゼルプランあたりから、すでに保育界は親たちの意識の変化に気づいていました。こうした週末に現れる兆候が将来の児童虐待を示唆していることに現場は気づいていました。

親の子育てに対する意識の変化を、ほぼすべての保育現場で聞くようになったのが新エンゼルプランが、民主党が提唱した「子ども・子育て新システム」に移ったころでしょうか。兆候があったにもかかわらず、三党合意の「子ども・子育て支援新制度」によって、「子育て」が以前にも増して保育現場に押し付けられるようになっていった。同時に、親たちが「子育て」を自分の責任と思う意識が薄れていった。総理大臣が3歳未満児をさらに40万人親から引き離せば女性が輝くと言えば、「子育て」は損な役割りのような気がしてもおかしくはない。そして、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を不自然に引き離す施策を公約に掲げ続けたのですから、乳幼児を11時間預けることに躊躇しない親たちが増えてもおかしくはない。

しかし、それを保育所もこども園も受け切れない。保育士がいない。いい保育士がいない。子育てを「代行」する保育所の質を、これほど急速に悪くしておいて、同時に家庭においても、子育てがイライラの原因になるような状況を国が作っている。

「過密(かみつ)が噛みつきを生んでいる」、「一歳児を10人以上一部屋に入れると噛みつくようになる」と心配していた保育者たちが、「一歳児は噛みつく頃なんだから」と平気で言うようになってきた。

乳幼児にとって噛みつく体験、噛みつかれる体験が将来どういう行動に発展するのか、はっきりはわかりませんが、通常起こり得ない体験であることは確かです。

(2017年の記事です。)

「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞:https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/119000c

この記事にある「家庭に近い環境」という言葉は、政府の保育施策の失敗と財政のつじつま合わせをするための、厚労省や有識者の誤魔化しに過ぎない。

本当にそれがいいと信じるなら、子ども・子育て支援新制度で11時間保育を「標準」とは名付けない。8時間勤務の保育士に11時間保育を「標準」として押し付け、最後の2、3時間は無資格者でもいいとすることは、保育士に親身にならなくていい、と言っているようなもの。本来「家庭に近い環境」とは、親身さに囲まれている環境です。

新制度によって、無資格者や営利を目的とした業者が保育現場に入れるような規制緩和が行われ、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定がそれに拍車をかけた。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような、「家庭に近い環境」からますます遠ざかる施策が、012歳をもう40万人預かれという政府の数値目標のもとで行われていった。そして、養護施設が予算的にも人材的にも破綻し始めると、今度は7年以内に75%を里親に委託せよ、などと言う。

政府の子育てに関わる施策は制度疲労を起こしているどころか、論理的に破綻している。経済優先の「無責任な施策」と「場当たり的言い訳と対処」の繰り返しが、家庭も含めた「子育ての現場」を急速に荒廃させている。それがすでに義務教育にまで達している。

当時講演先で、「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」について、現場で関わる役人たちに、「こんなことして大丈夫ですか?」と聞いてみました。すでに市町村をまたいだ地区の児童相談所から説明を受けた課長もいます。まだ知らない人もいました。

数値目標を挙げて「里親を増やす」ことに関して、実の親の元へ帰る道、還す道を安易に閉ざしていいのでしょうか、という原則論を言う声がありました。

施設入所がいいのか、里親を探すのがいいのか、危うくなっていても何とか家庭を維持し実の親子関係を細心の注意を払いつつ見守るのがいいのか、一つ一つのケースに異なった事情と判断の難しい複雑な状況、そして何より「子どもたちの未来」があるのです。簡単には判断できない。一概には何も言えない。それが子育てに関わる福祉の現場なのです。そして、虐待があるからすぐに親子を引き離せるだけの仕組みには、予算的にも人材的にもなっていない。

(園長先生が、いま親を叱ったほうがいいのか、ここは見守ったほうがいいのか、悩むのが保育でした。最近では、親から「プライバシーの侵害だ!」と怒鳴られるのを恐れて、口を閉ざすようになっている。「保育園落ちた、日本死ね!」あたりから、連絡帳に書いてくる親たちの暴言が急増しました。一緒に「子育て」しているという意識がなくなってきている。)

「里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とする」、こうした数値目標を掲げた欧米志向の施策を上からの指示で進めることによって、施設に居る間に親に立ち直ってもらう可能性を追求する努力が薄れ、なるべく実の親が育てるように行政が指導する姿勢が崩れます、という危惧があがりました。

この辺りが、実は「これからの福祉」全体の「姿勢」が問われる、重要な問題なのです。

いま問題になっている虐待死の悲劇は、児相や教育委員会の連携によって、確かに防ぐことができたのではないかと思います。

しかし欧米で起こってしまった現実を見ていると、福祉や教育に家庭の代わりはできない、というのが私の結論です。

(荒れている社会の象徴として、「傷害事件」の発生率を比べると、ベルギーが日本の30倍、フランス、オランダ、オーストリアが15倍、アメリカが11倍、ドイツ、カナダが7倍です。その背後に、実の両親揃って育てられる確率が半数を切っている異常な家庭崩壊率が存在している。福祉国家と言われる国ほど家庭崩壊は進んでいる。欧米を目標にするなどあってはならないこと。比較すること自体が間違っている。)

未来の不確かな国家予算に頼る「福祉」より、親子という育ちあい、そこで育つ「人間性」に頼るほうが確実ではないのかと思うのです。この国は、先進国で唯一その方向に進む可能性を残した国だと思うのです。「子育てを通して育まれる人間たちの絆」を信じることがこの国の使命ではないかと思うのです。

仕組みをしっかり整備すると同時に、「子育て」を、人間社会の心を一つにする、人間たちが自分のいい人間性に感動する、素晴らしいものという意識を、常識として取り戻していかなければならないと思うのです。

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マスコミや政治家は簡単に、それが正論のように、みな「待機児童をなくせ」と言う。でも、それは同時に乳幼児期の成長過程の主体を家庭から保育園に移すことでもある。子どもたちから長時間「親と過ごす時間」「親を体験する時間」を奪うことでもある。

変えてはいけない常識が変わりつつある。

親子の絆、就学前に親子が過ごす時間の質は、学校教育が成り立つか成り立たないかを左右する問題です。肉親とか血の繋がり、家庭、家族という言葉の意味を真剣に考え、その存在意義や価値を大切にしておかないと、やがて福祉や義務教育は「子育て」という重荷を背負いきれなくなる。

親に虐待されたり、家庭環境が崩壊するなどして、身勝手な大人たちによって追い詰められた就学前の弱者たちにとって人生の岐路ともなる選択肢を、「未就学児の児童養護施設入所を原則停止」という決定で政府が決めてしまっていいのか。この問題については前述しましたが、親から引き離すべきなのか、否か。一時的に施設を使って引き離すのがいいのか、一生の絆になるべく里親に任せるのがいいのか。

政府が安易に「やり方」を変更していく仕組みの中で、現場で、親身になるほど、神の役割にも似た重要な判断を迫られる人たちがいる。その人たちの、悲鳴、葛藤が聞こえます。そういう仕組みの中で、いま人材不足による子育ての質の低下が急速に進んでいる。いい施設長がいても、いい職員を揃えられない。すべての福祉施設に共通した問題、人間性の欠如が始まっています。弱者に「寄り添えなく」なってきている。

「未就学児の児童養護施設入所を原則停止」を政府が決定したのが二年前。しかも、二歳未満児を対象に児童養護施設を利用する「子どもショートステイ」と名付け、宿泊型保育を国が積極的に薦めていたのがつい六年前。行き当たりばったりの、その場の思いつき施策に、現場や行政が振り回されている。そして社会から「子育て」の実感、その幸福論が忘れられていく。

(「子どもショートステイ」宿泊型保育:

国の、子ども・子育て会議・保育のニーズ調査にも項目として載せてあった「子どもショートステイ」。杉並区の私立幼稚園で配られた可愛いイラスト入りのチラシにこう書かれていました。

「育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二才未満児一泊五千円、一日増えるごとに二千五百円、一回7日まで、子育て応援券、使えます。」

預かる施設は乳児院と児童養護施設です。様々な事情の子どもたちを保育している現場です。1時間預かってもらう「ひと時保育」とは違うのです。そこで「慣らし保育」もなしに、「一日24時間、一回につき7日まで」という仕組みです。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1150

なりふり構わぬ国の「子育て支援策」の典型だと思いました。さすがに利用する人はいなかったのではないか、と思いますが、突然数日、会ったこともない人に預けられる二歳未満児の心的外傷を考える専門家は、国の子ども・子育て会議や政治家たちの周りにはいないのでしょうか。これはもう政府によるネグレクトの薦め、子どもの権利条約違反だと思います。)

何気なく進められる国の施策の陰で、実際に現場でその子たちと関わり、懸命にその子たちの幸せを考えようとする行政の人や指導員が追い詰められている。真剣な人たちが心を病んでいく。そして、やる気を失ってゆく。11時間保育を「標準」と名付けた施策もそうですが、こんな乱暴なやり方をしているから、行政や福祉という仕組みに「心」がなくなってくるのです。いい人材が去ってゆくのです。

家庭型養護施設「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の著書「誰がこの子を受けとめるのか」(言叢社2003/02発売)。この本を読んでいると、主観的に「子育て」を捉えなおす指針になる。

子育てを仕組み(保育、教育、施設、福祉)の中で考え、待機児童、学力、少子高齢化、年金、税収といった数字を元に施策が進められようとしている時に、「育ち」の意味を、もう一度、仕組みの中でさえも原点に戻し、一個人の人生とそれに関わる人たちそれぞれの思いとして伝えようとしている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1684

202頁に「子どもと関わる」という章があります。

三才までの人生を乳児院で育った子と、いい環境とは言えなくても乳児期に家で親に育てられた子が家庭型養護施設で育てられ高校生になり、乳児と関わった時の実話と菅原先生の考察が綴られています。

それを読んでいると、三歳未満児の保育園での保育を雇用労働施策の一環として安易に奨励する国の施策が恐ろしくなってくるのです。保育園児は毎日家に帰ります。乳児院や養護施設のように日々の生活が親と離れている環境とは異なります。でも、そこで行われる「子育て」の限界、その意味や意図、理由が似ている。これだけ長時間、しかも乳児の時期から預かれば、保育園は「家庭の役割」を果たさなければならない。しかし、何か遺伝子の中に深く組み込まれている、人間が社会というパズルを組むときの隠された法則のようなものが、「光りの子どもの家」の試行錯誤、その限界の中に垣間見えるのです。人間の作った仕組みと、家庭はやはり違う。

人間にとって、乳幼児期に愛着関係や独占欲を満たされないことがいかに決定的か。それが決定的であることが見えにくいから、「光りの子どもの家」からの証言が重要な原点になってくる。八年前に、当時の厚労大臣が「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った発言が対極に見えてくる。

 「専門家」が言う、専門家という言葉に騙されてはいけない。彼らの思考の中には、菅原さんが書くような決定的瞬間は一瞬たりとも存在していない。

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一ヶ月後の謝恩会

若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。

「卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する」と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくるのだそうです。

なるほど、という指摘です。(学校と保育園は、その趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。)

ですから、卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている。相談相手がまだいない。

そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付づき合う。お互いに相談し始める。親身になることの幸せに気づく。

お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。

(人類に必要なのは「相談相手」。時にそれは、お地蔵さんだったり、盆栽だったり、海や山や川だったり……。0歳児が、その橋渡しをするのです。)

(一ヶ月後の謝恩会が、DVや児童虐待に歯止めをかけるかもしれない。それが当たり前になるような環境づくりが、社会を温かくするのだと思います。)

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以前フログに、「幸福度1位と51位・国連のものさし、この国のものさし」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1990を書きました。

「国連の幸福度1位のノルウェーでは、女性がレイプにあう確率が日本の20倍。殺人事件の被害者になる確率が2倍、泥棒に入られる確率が4倍。14ヶ月の徴兵もある。」「そして、13歳から始まる低年齢のシングルマザーが問題になり、傷害事件の被害者になる確率が日本の15倍、ドラッグ汚染率が5倍というデンマークが、この幸福度調査では第2位になっているのです。」

政府は、こういう強者の幸福度でしか見れない国連が決めた「日本に女性の地位の低さ」を気にしているようです。

「政治家になる女性が少ないこと」で、その「地位」を決めるような愚かなものさしをなぜ真に受けるのか。

経済的に成功すれば「幸福」、欲が満たされれば「幸福」という欧米的なものさしから、幼児たちが「女性が輝く」ための障害になっているという考え方が生まれるのでしょう。こういうひとたちは、砂場で遊んでいる三歳児四歳児が一番幸せそうなひとたちだ、ということにさえ気づかない。

政府が主導する「仕組みとしての里親制度」は、実の親、血のつながりという言葉にまだ価値を見出している日本では制度として定着しない。誤解を恐れずに言えば、この定着していないことを、「いいこと」と考える人がなぜ政府にいないのか。欧米ではこうだから、(こうしないと国連の幸福度調査が上がらないから、)という欧米コンプレックスが未だに日本の福祉施策(雇用労働施策)の土台にあるような気がしてなりません。

日本の文化、弱者を優先する伝統的家庭感、価値観が崩れてゆく。施策で家庭崩壊を進めながら、福祉で支えきれなくなると、「家庭に近い環境」と言って逃げようとする。歳出削減の犠牲者が抵抗できない幼児たちであることを誤魔化そうとする。日本の美しさが消えてゆく。

最近常套句のように言われる、「生活スタイルの変化や価値観、多様化するニーズに応えること」より、いまこそ、将来福祉が成り立つために、「変えてはいけない価値観」がある。そう考える政治家が現れて欲しい。

現在、制度としてはまだ定着していない日本の里親制度は、実は欧米よりも心がこもった、子どもたちの安全に細心の注意を払おうとした、より真剣な人たちによって支えられている制度ではないのか。だからこそ、広がらない。高いハードルをクリアできない。希望者が少数しか見つからない。そう考えるほうが自然です。

保育士不足対策として行われている「資格者半数でいい小規模保育」「基準を下げた地域限定保育士資格」「家庭的保育事業」「保育補助員制度」などを見ればわかるのですが、今の子育てに関わる施策は、子どもの安心安全が置き去りにされた、大人の都合と雇用労働施策主体の危険な規制緩和です。学童の指導員、ファミサポ、民生委員や保護士もそうですが、半分ボランティアのような仕組みに頼れる時代はもう終わりかけている。真心が、福祉という仕組みの中で「裏切られる」状況に拍車がかかっている。善意を裏切られると、一番福祉に向いている「その人たち」はもうなかなか返ってこない。

私が現実的問題として最も危惧するのは、「未就学児の施設入所を原則停止」が、すでに疲弊してきている保育所に、仮児童養護施設的な役割をさらに押し付けてくることです。

その傾向はすでに7、8年前からありました。

「認可保育園を増やせと簡単に言いますが、保育園は以前から、最前線の児童相談所、仮児童養護施設の役割さえ果してきたのです。児童虐待やDVを一つでも止めようとすれば、園長は家庭に踏み込んで行くだけの気力と決意を必要とされる。それをしないと他の児童とその人生に直接影響が出てしまうのが保育園なのです。規制緩和で保育園という牙城が崩れたら児童福祉全体が危ない。」と以前ブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=211

「保育の質の低下」は単に幼児が過ごす時間の質、保育士の質の問題だけではありません。最近特に著しいのは、園と家庭、保育士と保護者の信頼関係の質の低下です。私立保育園の定款に「サービス」という言葉が入れられたころから、親が役場に保育園に対する苦情を言うと、役場が保育園に「文句が出ないようにしてくれ」と言い、親身な園長たちが次第に口を閉ざしていった。役場と現場の保育者の信頼関係さえも危うくなっている。

十年ほど前までは、問題のある親子を長時間引き離すために保育園を使う場合、行政から園の方にそれなりの説明がありました。でも、ここ数年、行政が問題のある親子を黙って「措置」(昔の言い方ですが)してくる。4月の親との面談で、園側は初めてその状況を知る。様々な問題のたらい回し、先送りの終着点が保育園になりつつある。確かに5歳までの子育て・親育てが人間社会の土台をつくってきたのですから、当然なのかもしれない。しかし、「保育界」は、それを受け入れる、引き受けるだけの仕組みにはもうなっていない。

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先日、福岡の300人規模の40年続いている認可保育園で、日常的に行われていた保育士たちによる園児虐待が報道されました。

28年前、まだ保育士が保母と呼ばれていた頃、すでに「保母の園児虐待―ママ たすけて!」という本が出版されています。私が、親の一日保育士体験を広めようとし始めたきっかけになったのが、15年前に「実習先の園で、保育士による虐待を見る」という保育者養成校に通う多くの学生たちからの「告発」でした。これは法律で取り締まることができる種類の問題ではない。あってはならないこの問題にブレーキが掛かるとすれば、保護者と保育者が一緒に「子育て」しているという実感を取り戻し、信頼関係を作り直すしかない。一日保育者体験はある程度の広がりを見せていますが、まだまだ先は遠い。最近増えてきた密室型の小規模保育施設まで広めるとしたら、法律で保育所の義務とするしかないでしょう。

しかし、告発できない3歳未満児は、最新の注意を払って絶対に守られなければならない。それをしないと、必ず、義務教育の存続に関わる問題になってくる。

(参考)

保育士の虐待「見たことある」25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明:https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591

主任さんの涙 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1983

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5年前、2014年8月、千葉市の認可外保育施設で保育士が内部告発で警察に逮捕される事件がありました。

 「千葉市にある認可外の保育施設で、31 歳の保育士が2 歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。

警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている2歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。 (NHKONLINE 8月20日)」

悪い保育士は昔から居た。内部告発も繰り返しあった。しかし危機的なのは、この施設の施設長が虐待を認識していたにもかかわらず、警察の取り調べに対し、「保育士が不足するなか、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と述べたこと。この証言によって、保育士個人の資質の問題が、この国が抱えるいま最も重要な社会問題、政治姿勢の問題に変容するのです。

失政から生じた保育士不足が直接的に保育園内の信頼関係や保育の質に影響を及ぼす状況が、全国の保育園で当時すでに起っていた。現在も起こり続けている。

明らかに保育現場にいるべきではない保育士を排除できない。その風景に耐えられず、心ある保育士が辞めてゆく。発言できない乳幼児たちの周りで起っているこうした出来事を放置することで、子育ての現場から人間としての「常識」が消えていく。福祉や教育にとって致命的な、この国の将来のあり方に関わる負の連鎖が始まっている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=465

しかし、もっと危機的なのは、この施設長の保育士不足が原因で「注意できなかった」という発言が全国紙の一面に載ったにもかかわらず、政府や政治家たち、その後の保育施策に関わった有識者たちが、保育の質の低下に直結する量的拡大と規制緩和を止めようとしなかったことです。

「保育園落ちた、日本死ね!」という親の発言が、もっとたくさん預からなければ駄目でしょう、という趣旨で国会で取り上げられたのがこの報道の3年後です。政治家たちはいったいどこを見て、何を考えているのか。新聞報道を通して聞こえてくる幼児たちの叫びを「この国の叫び」と捉えてなぜ耳を傾けないのか。国旗や国歌よりはるかに大切な、この国の本質が崩れようとしているのです。この国が欧米先進国に比べて奇跡的に犯罪率が低く、モラル・秩序が保たれてきたのは、幼児を大切にし、彼らの成長に喜びを見出してきたからです。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1047 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=976

この千葉市の保育施設で起った事件が、学校教育という仕組みの中で起こっていたら、と想像してみてください。

教師が生徒の口に無理やり食事を詰め込み、頭を叩き、それが繰り返されていたとして警察に逮捕される。警察の取り調べに校長が「教員不足のおり、辞められると困るので強く注意できなかった」と答えたら大問題でしょう。校長はマスコミから非難され、国会で取り上げられ発言の責任をとって辞職するかもしれない。同時に、これは校長個人の資質の問題ではない。学校教育という「子育て」に関わる仕組みが成立していないということに皆が気づき、少なくとも、再発を防ぐ手立て、校長がそこまで追い詰められないような対策がとられるはず。

口に無理やり食事を詰め込まれ、大人に叩かれる相手が自ら主張できない2歳以下の子どもたちで、福祉という(「経済活動に必要な」と思われている)仕組みの中で起こった場合、その根本的な原因を追求し止めようという真剣な動きが起こらない。それどころか事件後、もっと012歳を預かれ、小規模保育や企業内保育は資格者半数でいい、11時間保育を「標準」と名付けるなど、保育士不足に拍車をかける方向へ動いていったのです。

園長、主任が保育士を叱れなくなっていっている。保育士に辞められ国の配置基準を割っても、子どもたちは毎朝登園していくる。連絡帳に書いてくる親たちの言葉は、ますます乱暴に、容赦ない感じになってきている。「子育て」の意味は、人間がお互いに育て合う、育ちあうということ、信頼を築くこと。その原理が、保育園で機能し難くなっている。

「保育(子育て)は成長産業」という閣議決定のもと、「いま、儲けるなら保育に関われ」というビジネスコンサルタントの無責任な言葉がインターネット上に溢れます。保育の意味さえ知らない、保育所保育指針さえ読んでいない素人の園長、設置者が参入してきています。数百万円の投資で小規模保育を始めた人たちが、一年も経たずに自転車操業に追い込まれるようなことが全国で起こっている。少子化により定員割れを起こしている社会福祉法人や、園児確保のために子ども園化した幼稚園も含めて、経済学者のいう競争原理によって生き残りに必死になっている。「私たちが預かっているから、土曜日も夫婦で遊びにいってらっしゃい」という本末転倒のサービス産業化さえ起こっている。 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1292

数年間良くない保育をされた子どもたち、過密状態の中で噛みつかれるなどの異常な体験をした子どもたち、そして乳幼児期に特定の人間と愛着関係を築けなかった子どもたちが確実に義務教育に入っていくのです。教師たちの生きる力も弱っています。その影響が学級崩壊という形で現れれば、クラスの子どもたち全員の人生に連鎖していくのです。親の責任だけでは、もはや子どもの人生を守れなくなってきている。

家庭内暴力、保育士による虐待、小一プロブレム、学童の質の低下、様々な子育てに関わる問題が双方向に誘発しあっている。すべてが連鎖していることを忘れてはいけない。このままでは、社会全体がもっと殺伐としてくる。幼児たちが本来の役割を果たせなくなる、家庭、家族という浄化作用、自然治癒力が失われるということはそういうことなのです。

もし、政治家や専門家たちの言う「保育園でもっと預かれば女性が輝く、経済が良くなる、少子化問題が解決の方向に向かう」という思惑が外れたら、もしこの国の経済力がこの先落ちていって、財源が枯渇していったらどうなるのか。

「女性が輝く」と首相が国会で言った意味、輝き方については確かに人それぞれで、正論はない。しかし、15年来の政府の「少子化対策=保育の量的拡大」の施策の元で、少子化がますます進んでいることは確かなのです。韓国の例を見るまでもなく、経済財政諮問会議の予測は完全に外れている。

一生に一度も結婚しない男性が3割になろうとしています。

男たちが「生きる力」「幸せになる方向性」を見失ってきている。無責任になってきている。親になる幸福が伝承されていない。人類をつないでゆく「動機」がわからなくなっているのです。これで本当に経済が良くなるのか。

3歳児だったら親に、保育士に叩かれた、と報告ができます。だからほとんどの保育士が叩かない。012歳は親に訴えられない。だから、よけいに注意し、気を配り、「みんなで心を一つにして親身な絆を作って、彼らを大切にしなければいけない」、それが人間社会の原点。この原点さえ守っていれば、紆余曲折、困難があっても人類は「利他」(弱者のために生きる)という幸福感の伝承をつないでいくことができる。いつかより良い方法で社会を作っていくはず。

幼児は、人間を信じることによって存在し、輝く。その光に照らされて、人間たちが輝く。自分の「価値」を知る。

幼児を扱う「作法」を、仕組みを動かす政治家や専門家たちは忘れてはいけない。

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ある市の保育課の係長からのメール、そして

 悩みは尽きませんが、そこにこどもたちがいる限り、諦めないでがんばります。

 問題が発生したとき、こたえは、いつもこども達の中にあって、「こどもたちにとって、どうあるべきか」を考えると、保護者対応も市の方向性も答えはひとつなんです。

 待機児童対策に翻弄するあまり、行政の使命である「いのちを守ること」を見失っているのかもしれません。

 新制度という泥船が沖にでてしまい、行く先を見失っているいま、船に乗っているこどもたちをどうやって守っていくのか、なんですね。

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施策を実行する立場にいる係長の「泥舟」という言葉が象徴する、政府の「乳幼児を親から離して労働力を確保する」という「子ども・子育て支援新制度」。「新しい経済政策パッケージ」の方針から来るこの施策が、保育と家庭の質、社会全体の人間味の質の低下を一気に進める原因になっています。

保育士不足は決定的で、施行されて二年で急速に顕になる施策の綻びに、いくら対処しても問題は増えるばかり、それが係長には見えるのです。だから「泥舟」という。

3法令改正がいい例です。幼稚園にも保育園の機能、保育園でも教育を、といかにも質が上がるようなことを言っておきながら、一方で、私が住んでいる杉並区でも区の広報の保育士募集に「資格なし、未経験もOK」と平気で書かれる。未経験で資格なしの保育士に「保育園でも教育を」などという「保育改革」と言ってもいいような質の向上を拓せるはずがない。みんなもう知っている。保育の3法令は労働力確保のための餌、数合わせに過ぎない。保育が、保育者の心持ち、そして親との信頼関係で成り立つということをまったく理解していないか、無視している。

「出産によって退職した母親が20万人、これによる経済的損失が1.2兆円:第一生命経済研究所」という報道がありました。

母親が授かった子どもと一緒に過ごしたい、生まれたばかりの子どもが母親といたいという本能ともいえる願いを「損失」と計算する人たちの意図、考え方が私には解らない。否、わかる。感性が麻痺している。人間性という常識が欠け始めている。幼児たちを人間として扱う姿勢が消えかかっている。こういう人たちが政治家を動かし保育施策を操っている気がしてなりません。

一方で、夫婦で子どもを虐待していた母親が殺人罪で起訴され、その母親が子ども園の保育士として働いていたという報道もありました。そして、ブラック保育園、企業主導保育所での死亡事故、保育士による虐待や猥褻事件、いくら報道されても、0歳児をこれほど不安定な仕組みに預けることに躊躇しない親たちが確実に増えているのです。そこに、この国始まって以来の危機を、私は見るのです。

もちろんいい保育士もいる。それは、わかっています。しかし、4年前に千葉で保育士が園児を虐待し警察に逮捕され、園長が警察の取り調べに、保育士不足の折、辞められるのが怖くて注意できませんでした、と答えた記事が新聞の一面に載った時すでに何が起こっているか、この国はわかっていたはず。その向こうに多くの幼児たちの悲しみを読み取り、すぐに対策を立てるのが国の役割、政治家の役割のはず。国民がそれに気づかなければいいのだ、という倫理は政治家には通用しないはず。

保育士たちが、これ以上預かるのは無理と悲鳴を上げている中、乱暴な規制緩和をして保育崩壊を招いておきながら「もっと預かれ」という方向へ施策は動いています。だからこそ、守らなければいけないもの、譲れないことがあるはず。このままでは、家庭も保育も学校も、経済活動や人生さえも共倒れになってしまう。

児童福祉法

(改正児童福祉法:第2条)

2: 全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野において、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益が優先して考慮され、心身ともに健 やかに育成されるよう努める(同法第2条第1項)。

この法律に「児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され」とあります。これは0歳児1歳児も含むのです。0歳児の意見、願いや思いを想像し尊重することで人間は「人間性」を身につけた。

そして、冒頭に「全て国民は」と書いてあるのです。昨今の「乳幼児を親から引き離そうとする」国の保育施策(雇用・労働施策)を見ていると、政治家たちだけ「国民」でなくてもいいのか、と問いたくなる。彼らの思考の中で、「子どもたちの最善の利益が優先し考慮」されていない。

知らされていないだけ

(共励保育園の長田先生のツイートから)

 「本年度の入園説明会が終了した。0歳児保育を希望する人が34名もいた。そこで、0歳から6歳までの発達の特徴と、012歳児における母子関係の大切さを説明した。

 世の中0歳児から預けようとする風潮が広がっているけど、それは間違いですと伝え、なぜ育休を取らないのか?と訴えた。

 説明会終了時、拍手が起きたのには驚いた。夫婦が寄ってきて『説明会を聞いて本当に良かった!』と感謝された。その目には、自分で育てようとする意思がはっきりと見て取れた。」

園長先生が「子どものために」、心を込めて、気合を入れて(必死に?)説明すればわかってくれる。

012歳を他人に預けるには特別な決意と意識がいること。幼児期の発達は丁寧に関わらないと取り返しがつかないこと。その時期の環境、特定の人との愛着関係が子どもの将来に大きな影響を及ぼすことなど、ほとんどの親たちは丁寧に説明すれば理解してくれる。中には心を閉ざそうとする人たちもいますが、多くの場合、知らないだけ、知らされていないだけ。

拍手が起こったという風景が嬉しいです。自分の中にある「人間性」、遺伝子の法則のようなものを、本能的に感じるのでしょう。

説明すれば理解する親たちがまだまだたくさんいることが、この国の素晴らしさだと思うのです。

 幼児を育てている人たち、幼児と一緒に暮らしている「親たち」は、人間を、自分自身を理解しようする感性が育とうとしている人たちです。「幼児と一緒に、自分のいい人間性を体験してください」、と説明すれば直感的に理解してくれます。

私は、説明するのに90分くらいもらいますが、講演しながら感じます。学生よりも、教師や政治家、行政の人に話すよりも、幼児を育てている親たちに話す方が話しやすい、と。

問題なのは、「子どもの最善の利益を優先する」はずの保育という仕組みが、子どもの願いに沿うように機能しなくなっている、国の保育施策が「もっと預かれ」という方向に、補助の出し方で保育界を誘導していることなのです。

そして、国の進める規制緩和やサービス産業化の中、様々な問題が起こっています。

先週も、追い詰められて児童養護施設を辞めてきた保育士に会いました。去年進められた就学前児童の原則入所停止(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2520)あたりから、現場の混迷に歯止めがかからなくなっていること。精神的に限界がきてしまったことなど、講演後に残って話してくれました。

保育資格を持っているから保育できるのではないし、教員免許を持っているから教師が務まるわけでもありません。子どもたちにとって、感性や手法は違っても、常識で手をつなぐ「いい人」たちが「環境」でなければ結果的に「義務」教育は成り立たない。そして、その「いい人」たちを育てるのは子どもたちの笑顔と、親たちの感謝。保育界に不可欠なこの「自然循環」が最近成り立たなくなってきている。

現場から提言を

埼玉県のなでしこ保育園の門倉文子園長が、保育の無償化は危ない、もう決まっているみたいですが、何とか現場の思いを伝えたい、どうしたらいいでしょう、と私に聞きました。「子ども・子育て支援新制度」の時もそうでしたが、保育団体や保育の専門家と言われる人たちが真剣に反対しないまま、いつの間にか政府の言う通りに無償化が進んでしまったことに我慢ならないのです。無償化は親の子育てに対する責任意識を希薄にし、長時間預ける人を増やす。限界に来ている保育士不足に拍車をかけ保育の質の低下につながるのは目に見えている、と言うのです。

現場からマスコミや政治家に手紙を書いて下さい。誰かが聞いているはず、生の声を届けてください、とお願いしました。

現場の思い、意見を、率直に書いた手紙(主任さんも含め)がマスコミや知事に送られました。すると、全国知事会の会長をしている上田埼玉県知事から返事が来ました。

(「親心を育む会のホームページ:https://www.oyagokoro-hug.jp/plan-report/知事への提言-と-知事からの返事/」に門倉先生の手紙と知事の返事が掲載されています。)

知事は私の本の推薦文を書いた人。全国知事会で、このままでは自治体は保育という仕組みを支えきれないと伝えてくれるかもしれない……。そんな微かな希望もあります。とにかくあらゆるレベルで、政治家たちが、幼児期に子どもがどう過ごすか、親がどう育つかが国の未来にとって大切なのだという意識を持ってほしい。

三歳くらいまでは乳幼児から離れてはいけない。信頼関係が強い家族とか、昔の村社会のように人生を共有している隣近所の人に頼むならまだしも、子どもから目を離してはいけない。親たちにとってそれが当たり前、人類には不文律であり常識でした。進化の過程がその原則で成り立ち、遺伝子が進化する条件、「幸福」の原点と言ってもよかった。

2、3歳児に無心に愛され、頼られることに「感謝」を覚えた人間は、強い。その時に、揺るがない「生きる指針」を身につける。

心を込めて説明すれば、親たちは理解してくれます。

(十数年前、自民党の少子化対策委員会で講演した時、感動しました、と握手を求めてきた委員長が厚労大臣になりました。何とかならないか、と思います。)

(7)

国は、幼児たちを守ろうとしていない

ネット上の質問サイトに、「保育士の虐待ではないですか?」と心配する親の質問がありました。2歳児を罰としてトイレに閉じ込めた保育士への疑問です。それに対する「答え」を重ねると、この国の子育てに起こっている状況が見えてきます。信頼関係を生むはずの「子育て」が、仕組み化することによって不信を生む原因になっている。国が、幼児たちを守ろうとしない。そこから、子育てに対する恐れと不安が始まっている。

(質問)

 保育士の虐待ではないですか? 昨日、息子を保育園に迎えに行ったところ教室に息子の姿が見えませんでした。延長保育ですが、いつもより少し早く迎えに来れたので、どこかまだ違うところにいるのかな…と思っていたら、先生が私に気づき、「ちょっと待ってて下さいね。さっき○○くん(息子)が私の手にたまたまブロックを当ててしまって痛くて赤くなって、先生痛かったよ。わざとやったわけじゃないと思うけど、相手が痛いって言ったら謝らないといけないよ。と言ったんですが、いやだと言って泣いて謝らなかったので、今トイレのお部屋に謝るまで一人でいてね。と言ってあります。泣いて許されると思ってもいけないので…」と言われました。

 トイレからは息子の大きな泣き声が聞こえてきました。

 そして、先生がトイレの中へ行きしばらくたって息子とでてきました。息子は私に気づいて泣きながら飛びついてきました。私はいたたまれない気持ちでギューとしてあげました。先生は「ごめんなさいを結局言えなかったので、頭だけでも下げなさいと言ったら頭だけ下げてくれました」と言っていました。

 帰ってきてなんか腑に落ちず、主人にこの話をしました。主人はかなり怒って、

 それって虐待じゃないの? お友達に何か故意にやったならまだしも、先生にわざとじゃなくたまたま当たっただけだから、なんで謝るかがわからなかったんじゃない?まだ2歳だしそこまでする必要ある?せっかく今トイトレも順調なのに、これがトラウマでトイレ嫌いになったらどうするんだ。担任でもない延長保育の先生がそこまでやる必要はあるのか?閉じこめることでしか、理解させれないのはおかしい!園長先生に電話した方がいい。

と言っていました。

 私もなぜ2歳の子に頭を下げるまで閉じ込めをやるのか。息子は言葉の理解も言語力もある方で、普段なら自分がわざとじゃなくて当たってしまって、痛っと言うと素直に ごめんなさい と言ってくれます。

 私はモンスターペアレントと思われたくないし、保育園とのいざこざは避けたいのですが、このことはどうとらえたらいいのか戸惑っています。

 保育園ではよくあることなのでしょうか?

 たまたま私がいつもより早くお迎えに言った為、親にバレてしまった…という感じなのか…

 公立保育園で、その保育士は60すぎの人です。

(答え1)

 ありえません! 2歳に対するやり方ではないと思います! 私なら延長保育辞めますね。役所や園長に相談しても仕返しはありますよ。親の見えない所で。擦り傷が多くなったり、とにかくイジメが始まります。女ですから。状況かえてあげるべきです。

(答え2)

 保育園で延長の保育士で60オーバー… それでその対応なら、他の方に代わっていただく事案です。人手不足なのでしょうか… 「子どもはみんな孫のようなものですから…」とか言って採用された人ではないでしょうか… 齢がいってから、感情的な比率の高い人は職業人には向きません。子育てがしんどい虐待親のやり方ですよ。延長を使わないか、公立なので管轄の部署に通報でいいと思います。安心して預けられないが、今後子どもに何かされるといけないので…と添えてください。

 ちなみに保育士の子どもいじりは、延長時ラスト1人の子に「もう、お母さん迎えに来ないかもね…」とささやくとか、1人の子とだけ遊んであげない(返事だけはしてあげる)とか、結構やってます。知らないのは親だけです。女性の社会進出が当たり前の時代ですが、そんな思いをさせてまでも…と思ってしまうのは私だけでしょうか… 親の知らないところで子どもはかなり頑張っているんです。まして2歳とか… 批判しているのではありません。仕事も大事です、子どもも大事です。保育士批判もわかります。預けている後ろめたさから余計に息子さんを愛しく思っているのもわかります。男性も女性も選択を迫られていますが、欲というテーマを外したら、仕事も取り返し出来ます。(欲:職種・収入額の問題だけですから)しかし、子育ては取り返せない。このかわいい時期、少しの時間と寝顔だけがあなたの思い出になってしまいます。大きくなれば、反抗期…小さい時の記憶や写真で親は思い返し、子どもと向き合えます。親の手助けが必要な時…それがいつだか、どの程度だかわかる自信がありますか?

 実際、この件が発覚するまで、自分たちや園の息子さんへの対応は大丈夫だ!と思っていたわけでしょうから、ショックの度合いでここに書き込んでいるわけですよね。これが警鐘です。それをどう捉えるかは、親御さんの判断です。

 保育士の問題は、園と役所の問題です。 園に言ったから!とか役所に言ったから!息子さんの問題が解決するわけではないことは忘れないでください。心のどこかで、そんな思いをさせたのは自分たち…という思いも忘れないで欲しいなぁ…と思います。

(答え3)

保育士をしています。2歳のお子さんが謝らないからと言ってトイレに入れるなんてありえないです。2歳では謝れない子もいるし、まして、自分が納得していないとなんで謝るのかわからないですよね。。ただ、保育士も人間の集まりなので、いろいろな人がいます。子供の成長発達に関係なく謝らないと納得のできない保育士なのでしょう・・ 今後お子様がまた、同じような目に合わないためにも、園長にはしっかり伝えた方がいいと思います。モンスターペアレントといわれることはないと思いますよ。お子さんの為ですから・・・ 私でも、納得できないと伝えます。

(答え4)

モンスターペアレントと思われたくないなら何も喋らず口を噤みましょう。どう思われていいなら言いたい事を言いましょう。自分の中で何が大事かの指針をつくらないと、なあなあに人に流され、時間に流され物事はただ過ぎていくだけです。今後の教育を考えれば保育園のその出来事よりも、物事が起きたときのあなたのどっちつかずの対応に、子供は大きくなるにしたがってより戸惑いと疑心を感じていく事でしょう。子と共に親もしっかりと成長していきましょう。

(答え5)

お話の通りであるなら、ちょっと今時考えられない園ですね…。2歳の乳幼児に反省を促すためトイレに閉じ込めるなんて。にわかに信じられません。保育園ではなく、役所に相談してみては? 園では埒が明かないかもしれませんし。職員同士で事実を隠す恐れもあります。トイレに閉じ込めてパニックになった子供に何かあったら大変です。閉じ込めたら保育者の目が届かなくなりますから非常に危険です。普通は有り得ないことです。2歳だと当然トイレもドア閉めないでさせますよねこればかりは、モンペとかのケースには当てはまらないし、子供を守るためにも即行動するレベルです。

(質問者がベストアンサーに選んだ答え)

ほっときましょう

ただそういう一件があったことを担任の保育士さんに言っておきましょう

60すぎのおばはんに何言っても聞きませんよ

トイレに閉じこめるのはやめてもらいましょう

Yahoo! JAPAN 知恵袋」より

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12134722572

(私の意見)

「答え」を読めば分かりますが、この状況に「あり得ない」と憤る保育士は多くいます。同時に、頻繁に起こっていると見る保育士もいる。自園での風景か、他園で以前見た風景かわかりませんが、保育関係者からと思える「答え」に未来とつながる社会全体の心の動き、「今」が現れている。ベストアンサーを読むと、大したことではない、という主張さえ見えてきます。

親が知らない環境で起こっている偽りのない現状だと私も思います。報道もされています。(https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html?page=1「てめぇら!」響く保育士の怒鳴り声 “ブラック保育園”急増の背景)

書き込みは2014年のものですが、保育士不足はさらに進み、無資格で指導できる児童発達支援事業、規制緩和による地域型保育事業など、保育に名を借りたありえない風景、現場が増え続けています。

「いつもより少し早く迎えに来れたので」偶然、この母親はその実態を見たのですが、「実際、この件が発覚するまで、自分たちや園の息子さんへの対応は大丈夫だ!と思っていたわけでしょうから、ショックの度合いでここに書き込んでいるわけですよね」、という指摘は親たちへの警告です。

みんな、「大丈夫、役場で手続きしたし」、「政府が計画し厚労省が薦めている仕組みだから」と思っている、そう思っていたいのでしょう。現実は違いますよ、正規職員が研修を受けていい保育をしても、一日の最後の3時間に無資格と思われる人がこんなことをしていては「いい保育」がその意味をなさない、その時点で保育という仕組みは成り立っていないのですよ、という警告です。

ここに書かれているような風景は昔から保育の現場にはありました。

『保母の子ども虐待:虐待保母が子どもの心的外傷を生む』という本が1997年に出版されました。しかし、20年前の当時と比べ園の雰囲気、空気感は明らかに違ってきている。サービス産業化させられることで、保育士の子どもに対する思いが変質してきている。現場で保育士を育てにくくなっている。親との関係も含め、一様にマニュアル化してきている。

親をサービスする相手「お客」と見たら、助言したいことが言いにくくなります。営利目的の参入が激しい小規模保育や駅ナカ保育などでは、親の利便性、ニーズに応えることが主目的になってしまった。放課後等デイサービスなどでは、障害児の保育が中心なのに、欠かせないはずの親との信頼関係が育ちにくくなっている。保育者からの助言を嫌う親が増え、「規則正しい生活を心がけてください」と主任が言うと「プライバシーの侵害だ!」と役場に駆け込む親さえいます。

預けて当たり前、当然の権利という意識の広がりが、親と保育士の間の「一緒に育てる」という「連体感」を失わせているのです。この「連体感」がなければ、子どもたちの成長に必要な「安心の土台」は育たない。保育者たちも、生きがいを感じることができずに疲弊してゆく。

現実をしっかり知らせずに、もっと預かれ、と言い続けたマスコミ、「福祉はサービス」と選挙に利用した政治家、仕組みで子育てができると言った学者たちの現場の思いとは懸け離れた姿勢が、子どもを長時間預けることに躊躇しない親を生み出している。これ以上、誰かが育ててくれるという意識が広まると学校教育が難しくなる。

14年前の公立保育所運営費一般財源化あたりが転換点で、その時「子どもの最善の利益を優先する」という保育指針にも書かれていた、人間社会が成り立つ原則を国が放棄し、それに政治家も行政も学者も、国のため経済のためと言って慣れていった。子ども・子育て支援新制度で加速した市場原理の導入、労働力確保のため親子を引き離す目標値を設定した上での規制緩和が続き、経費の8割が人件費であるはずの保育所に関する国の建前が国自身の施策で崩されていった。便乗するように、自治体による財源不足の補填、株式会社や社会福祉法人などの利益確保が元々十分ではなかった保育士の人件費を削って行われていった。そういう操作ができる仕組みを国が施策で作っていった結果が、家庭や保育現場における優先順位の書き換え、そこから生まれる双方向への疑心暗鬼、(学校も含め)子どもを育てる者たちの間の信頼の欠如を生んでいる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=257。要は、「保育」の重要性に誰も気づいていなかったということ。

幼児が見る風景

12年前、3カ所の大学、専門学校、養成校で学生に、「実習先の園で保育士による親に見せられない光景を見たことがあるか」と質問しました。福岡、神戸、埼玉、地域の違う三校ともに学生の半数が「見た」と言った。実習生を受け入れる園でそうなら、受け入れない施設では…、と想像すると怖いくらいの現実でした。

その光景を見て、「保育士になるのをやめた」学生がいました。「あの園に実習に行くと保育士になる気がなくなるよ」と先輩から伝達された園が三つある、と教えてくれた学生もいました。涙ながらに訴えた学生たちは実習に行く前に、実習先であったことは口外してはならない、と誓約書を書かされていた。「個人情報保護」が目的だとは思いますが、実態を知られたくない「保育に責任を持つ側」の意図があったのか、とさえ思います。その誓約書が、20年間心の縛りになって苦しんだ、という主任さんがいました。

冒頭に挙げたネット上の問いと答えを読めばわかるように、2歳児が、その子の生い立ちを知らない他人によって、こういう「泣きながら母親に飛びついていく」体験をさせられるということはあってはならないこと。あったとしても、繰り返されてはならないこと。

3歳までに育った環境や体験で、脳の発達、将来の思考を左右する脳細胞の仕組みが決まってくることはすでに定説です。幼児期の安定した環境や特定の人との親密な体験は、子どもの一生を左右すると認識されているから、親(特定の人)を知り、親と十分な時間を過ごすことが国連の子どもの権利条約にも「権利」として挙げられている。乳幼児期の不自然な体験の積み重ねが、最近の小一プロブレム、いじめや不登校の増加に影響していると考えてもおかしくはないのです。

そして、学生が実習先で、保育士になる気がなくなるほどショックを受け、最近ではベテラン保育士でさえ耐えられずに辞めていくような光景を、同じ園に通う子どもたちが日常的に目撃していく現実。その扱いを直接受けずとも、他の園児、「お友だち」がそういう扱いをされる光景を幼児期に繰り返し見ることが子どもたちの将来にどう影響するのか、心的外傷になって残るのか正確にはわかりません。しかし、強者が、言葉もまだよく話せない弱者を威圧したり、思いやりに欠ける仕打ちを繰り返す姿を見ることが、見ていた子どもの人生に影響することは容易に想像できます。それが、集団保育というものなのです。

政府が責任を持つ制度によって、不信感がこの国を覆っていくような気がしてなりません。社会としての心的外傷がはっきりわからないからいい加減にできない。学者が言う「エヴィデンス」(証拠)が出てからでは遅い。道徳教育などで修復できることではない。異なる次元で連鎖してゆく心の問題なのです。

「あってはならない風景」を無くすとまでは言いませんが減らしたい、それが、私が推奨している「親の一日保育者体験」の出発点でした。年に1日8時間、親が、父親も母親も一人ずつ園児に囲まれ保育の現場で過ごす。(幼稚園の場合は5時間ですが。)親と保育者の間に波風を立てずに、自然に育つ信頼関係で「親に見せられない風景」を封じてゆく。これしかないと思いました。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=897 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

「標準」と「無償化」

質問への回答にある、「ちなみに保育士の子どもいじりは、延長時ラスト1人の子に『もう、お母さん迎えに来ないかもね…』とささやくとか、1人の子とだけ遊んであげない(返事だけはしてあげる)とか、結構やってます。知らないのは親だけです。」という警告を、保育という仕組みに責任がある国や政治家や学者、マスコミも、なぜ真剣に取り上げなかったのか。この問いと答えに対する閲覧数は2万6千回を超えています。

4年前、延長保育の保育士は無資格者でもいいことになり、財政削減で公立の保育士の6割が非正規雇用になっていた。そうした質における規制緩和を進めておきながら、3年前、新しい保育施策で国は「11時間保育」を「標準」と名付け8時間勤務の保育士に押しつけた。親として初心者である乳児の親たちが、この「標準」という言葉をどう受け止めるかは予想できたはず。預けて当たり前、「標準」なんだという意識が確実に広まっています。

この「標準」が保育士不足をさらに進め、それを維持するための3時間のパートに資格者を雇うことはほぼ不可能になり、公立の正職でもない限り募集しても倍率が出なくなった。人を選べない。乳幼児の保育で大切なのは人間性。倍率が出ないことで、本来の保育の「心」と「かたち」が失われてゆく。

そしていま、保育の無償化。

首相は、それを「人づくり革命」の第一歩と言う。ここで言う「人づくり」の意味がわからない。この人は、いったい「人づくり」のイメージをどう捉えているのか。産めばいい、というわけではないと思うのですが、そのまわりにいる、この人の「革命」を支えている学者や専門家たちは何か大切な感覚か視点を失っているのではないか。

政府主導で、子育てに関してとんでもない勘違いが始まっている。(野党もまったく同じ。)

無償化で、幼児を保育園に長時間(8時間以上)預ける人が増えれば、親が育てるより人づくりになる、それが「革命」だと言う思考が私にはまったく理解できない。保育士不足と、親の意識の変化を考えれば、これほど馬鹿げた話はない。

子育てを制度や仕組みに任せることで社会に信頼関係と絆が失われつつあるいま、「人々の心を一つにする」という幼児たちの存在意義を見失いながら(見失わせながら)、それを政府が「人づくり革命」の第一歩と言う。彼らは、私たちをどういう「人」にしたいのか。経済競争の歯車、感性を失い、情報の組み合わせや稼いだ金額で人生を計り、「地位」を得ることに目標を持つような「人」にしたいのか。子ども・子育て支援新制度を提案した人たちは、母親を働かせて場当たり的に労働力の確保を目指しているだけで、実は子どもの幸せも、親の育ちも、「人づくり」のことも考えていないのではないか。乳幼児期から11時間預けられた子どもが本当に将来「労働力」(戦力)になると思っているのだろうか。学校や職場も含め世の中はバランスを失い殺伐とするばかりで、人間の生きる力、生きる動機はさらに失われていく。少子化の原因と言われる、結婚したがらない男たちという現象にそれが現れている。

保育を無償化すれば、「子どもは誰かが育ててくれる」という意識が広がります、と保育士たちが心配します。「親が無責任になれば、結婚という形が成り立たなくなる」、「保育士がますます疲弊します」と園長が言います。三人目を産めば保育料無料という施策を進めた自治体で、タダだから0歳から預けるという親たちの出現に園長たちが呆れていたのがつい数年前。親たちの意識は30年前とはもう随分ちがってきています。無償化によって、実は、保育や教育で「人づくり」がますますできなくなるのではないか、現場はそれを危惧している。

ネット上の質疑応答の中にある「子育ては取り返せない」「これが警鐘です。それをどう捉えるかは、親御さんの判断です」という保育士からの警告を社会としてどう捉えるのか。政府の施策によって、実は、働く母親たちが、これからますます窮地に陥っていくのです。

子どもが優先ではない保育施策で、子どもを足かせのように感じる親が増えている。愛着関係の土台が作られないと、学級崩壊やイジメの問題に歯止めがかからなくなる。義務教育が存在する以上、その時点で政府の保育施策は誰にとっても他人事ではなくなっているのです。

先日、ある私立保育園に講演に行きました。笑いあり、涙あり、熱心に耳を傾けてくれる母親たちに、幼児といるこの特別な時間をどう過ごすといいか、子育ては親たちが自分のいい人間性に感動することです、と話しました。70歳になる園長先生は気合の入った方でした。70人定員の園で、お泊まり保育と、キャンプには親も含めて200人が参加するそうです。国が仕切っている今の仕組みの中で、逆風の中、こういう方が親心を耕し、信頼関係を育てている姿をみるのは嬉しいし、励みになります。数日後、素晴らしい感想文がたくさん送られてきました。

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(8)

私が本に書いた言葉が、朝日新聞、12月15日の朝刊「折々のことば」に載りました。

『赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です』

松居和

鷲田さんのことば

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一

(これを読んだ奈良の真美ケ丘保育所元所長の竹村寿美子先生からメールが届きました。私の30年間の師匠です。)

そう❗その通り❗です。

以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて「あっ誰か泣いている!どこ?どこ?」と慌ててうろうろされたことがあった。

なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。

ありがとうございます❗

追伸:

その人は少し障害を持っていらっしゃるお方でした。保育士たちと心を洗われた気になりましたよ。

(ここから私の文章)

子育てが「仕事」になったり、「仕組み」になったりすると、「心の清らかな人」たちの役割が見過ごされていきます。

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(9)

保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について:(保育者向け資料から。)

 私はこういう講演を始め30年になりますが、すでにそのころから園長先生たちは言っていました。保育園で預かれば預かるほど、親たちから親らしさが消えてゆく、と。

 それでは、保育園で親心を育てるにはどうしたらいいのか。

 10年前、保育園の園長先生たちと「親心を育む会」という勉強会を始めました。

 そこで提案されたのが「一日保育者体験」。年に一日、保育園の場合は八時間、幼稚園の場合は五時間、親が一人ずつ、園児に囲まれ過ごす。

 三つの園でやってみました。その結果は、会のメンバーを驚かせました。普段から親たちとの信頼関係が育っていたのでしょうか。親が全員参加しました。文句がほとんど出なかったのです。感想文に、判で押したように、保育園への感謝の気持ちが書かれていました。(「親心を育む会」のホームページに感想文が千以上積み上げられています。園長先生たちが作った「保育士体験」のマニュアルもダウンロードできます。)

 始めは、半数の親が嫌がります。会社を休んで8時間(幼稚園なら5時間)。しかも一日ひとり、または一部屋にひとり。でも、半数の親たちが、何月何日私が来ます、とスケジュール表に書き込んでくれました。つられて残りの3割が書き込みます。最後の2割は、もう他の親たちの保育者体験が始まっていますから、子どもたちが「お母さんは、いつ来るの、お父さん、来るの?」と聞いてくれます。

 保育者は、「子どもたちが喜びますよ」「子どもたちが喜びますよ」と、繰り返し薦めます。園は親子の幸せを願って取り組んでいるのです。園に対する信頼があれば、一年かければほぼ全員参加します。説得できないなら、まだ信頼関係がないのだ、と思い、親たちと心を一つにする努力する。そして、子どもたちを可愛がり、「子どもが喜びますよ」を、心を込めて言い続ける。

 それでも駄目なら仕方ない。そういう親はたぶん室町時代にもいたでしょう。気にすることはありません。人類の進化に必要なのでしょう。

 一日保育者体験は、父親母親ほぼ全員が参加した時、園と親たちの信頼関係ができた、ということなのですが、一組でも参加し、その一家の人生が変わるなら、それだけでも実は素晴らしいことです。全員は無理でも、全員を目指す。その決意に意味がある。

 お母さんがやったら、お父さんも、お父さんがやったら、お母さんも。夫婦が、別々の日に、卒園までに3回か4回、これで一家の人生が変わります。参加した親の感想文を園だよりに載せたり、玄関のところに写真を張り出したり、参加人数が少なかったら、参加した人、やって良かったと思った親に、祖父母もいかがですか、もう一度どうですか、と薦めます。幼児と居て楽しそうな人を一人ずつ増やしていけば良いのです。(特に父親。もともと男子は大人になっても子どもです。素直になると幼児と波長が合います。)

 埼玉県では、三年以内にすべての幼稚園保育園で、を目指すことになりました。当時の厚生労働副大臣に頼んで、新しい保育指針の解説DVDに、保育参加の例として「保育士体験」を入れてもらいました。保育参観ではなく、参加を、これは、保育指針に書かれ、法律として決まった保育園の役割です。そのことは、堂々と親に言っていいのです。法的裏付けもあるのです。でも、やはり親を説得する言葉は、「子どもがよろこびますよ」が一番良いのです。

☆保護者アンケートより抜粋

・紙芝居を子どもに家で読んであげるのと、たくさんの子どもの前で読むのとでは、今日のほうが緊張しました。一日保育参加にきてとてもよかった。

・本人に生活習慣を学ばせるのは、すごく難しくて、保育者の先生の手法がとても勉強になりました。お洋服のお着替えも、あのくらいできるんだと感動しました。それにしても先生はすごい! と、息子のときもそうでしたが、改めて感じ、感謝いたしました。

・とにかくエネルギーにあふれていて、パワーに圧倒されてしまいました。先生は本当に大変ですね。すごい‼ と改めて感謝しました。保育参加できてとてもよかったです。読み聞かせは、もっと子どもたちの表情を見ながらやればよかったです。

・保育者の先生方の日々のご苦労を実感しました。わが子のしつけだけでも毎日疲労してしまうのに、多くの子どもに囲まれつつも、教育と安全と、調和を考慮しながらの保育の姿に頭が下がる思いと、紙芝居を読むことが、会社で上司や同僚の前で行うプレゼンより緊張するのだなと驚きました。

・最初は皆と仲良くできるか不安でしたが、子どもが好きなので皆に『○○くんのママ~』って逆にかまってもらって嬉しかったです。

  • 平日は朝早くから夕方遅くまでお願いしており、忙しくしているので先生方の顔すらよく分からなかったのですが、今回の一日体験で園の中の様子や先生方もよく知ることができました。
  • 保育園での生活リズム・お友だちの顔・お散歩コース等々、いままで知らなかったことをたくさん知れて、いい勉強になりました。保育体験をするまでは不安でいっぱいでしたが、子どもたちが楽しく接してくれ、楽しい一日を過ごせました。でもやっぱり先生方の仕事は大変だなぁと改めて思いました。感謝、感謝です……。参加してよかったです。ありがとうございました。

 (一日保育者体験は、幼児に囲まれ、親が自分の中にある「よい人間性」に気づく日、自分の持って生まれた本質を体験する一日です。そして、親の感謝が保育者を育て、学校教育を支える。親の感謝が希薄になると、いい保育者から、いい教師から辞めていきます。)

 「一日保育者体験」は、保育者にとってもハードルです。いつでも親に見せられる保育をする、という意思表示。残念ながら、これに躊躇する園があって、このまま進み、保育がただの仕事・労働、サービス産業になってしまったら、そんな園が増えてしまうかもしれません。老人介護も含めて、福祉の怖い所は、それがただの「仕事」になった時に、現場から真心を持った人たちが去ってゆくことです。

 だからこそ、子どもたちを守るために、いま「子育てを中心にした絆の復活」を進めなければならない。

 (保育の質の低下は、保育者たちだけの責任ではありません。公立の保育士の6割が非正規雇用で、無資格の保育者を入れなければ11時間開所が成り立ちにくい状況を作っているのは政府です。新制度で11時間保育を「標準」と名付けた時点で、政治家はその馬脚を現しました。子どものための制度ではない。税収を増やすための雇用労働施策でしかない。小規模保育は半数が無資格でいい。「保育は成長産業」などという掛け声に合わせて、新たな保育の形体に利潤を追求する人たちが参入して来ています。子どもの幸せを考えない無理な規制緩和で、日本の保育から心が奪われようとしています。

 そうした状況に、大学や専門学校における保育科の定員割れが拍車をかけます。明らかに現場に出してはいけない学生に資格を与えるようになった時、保育者養成校はその存在理由を忘れてしまった。非正規雇用、無資格の保育者の質が必ずしも悪いわけではありませんが、政府や行政が保育(幼児の子育て)を軽視し続けると、国全体の子育ての質が低下し、学校が苦しくなり、障害者や老人を対象にした福祉も連鎖して、福祉全体がやがて限界にくる、ということなのです。)

 「一日保育者体験」で、子どもが嫌い、という親が変わり、父親の幼児虐待やDVが止まったりします。子どもたちの「お父さんが来てくれた」という素直な喜びと信頼が、男たちの「生きる力」になります。

 一回やったらもういいじゃないか、という父親がいます。しかし、3年続けると、我が子の成長だけでなく、他の子たちの成長も見えてきます。自分が園に行っただけで喜んでくれる。生きているだけで、喜んでくれる。我が子だけではなく、他の子も喜んでくれる。そんな体験が、父親の心に、自分は他の子どもたちにも責任があるのではないか、という気持ちを芽生えさせる。部族の感覚です。先進国社会が失いつつあるコミュニティーの原点です。

 友だちのお父さんお母さんに毎年一度出会い、世話してもらったり、読み聴かせをしてもらったり、遊んでもらうことによって、子どもたちの心に「みんなにお父さん、お母さんがいる」という意識が生まれます。子どもたちが、自分の親の他にも親身になってくれる人が存在することを小さいうちに肌で感じる。それはお友達のお父さんかも知れない、お母さんかも知れない。これもまた生きる力。部族の感覚。これで小学校でのいじめがずいぶん減るでしょう。

 頼ることができる人、信ずることができる人が世の中にはいる、と知ることで人は安心します。頼ろうとしなければ、絆は生まれません。信じようとしなければ、信頼関係も生まれません。子どもたちが大人を信じようとすること、そして大人たちがそれに応えようとすることが人間社会の原点です。

 本気でいじめを無くそうとするなら、親同士の絆を作り、親と教師が信頼関係を作ろうとする姿を子どもたちに見せることです。大人たちが子育てで心を一つにしようとしなければ、教育や力で抑制しようとしても、本当の解決にはなりません。

 社会が人間性を保つためには、預けたいという親のニーズに応えるのではなく、子どもと一緒にいたい、親と一緒にいたいという人間の本能に応えることが優先されるべきなのです。子どもたちの幸せを願う保育者たちは、現場の体験から、子どもたちの幸せは親子関係にある、と知っています。自分たちが預かれば預かるほど、親たちが親らしさを失ってゆくのではないか、というジレンマの中で生きています。それに気づかない人たちが、保育施策を作ってきた。

 ここ20年ほど進んで来た雇用労働施策中心の保育行政とそれに伴うシステム的考え方には、子どもと最も接する時間の長い保育士の幸福感(観)という関数が入っていない。それゆえ、いずれシステムとしても成り立たなくなる。

 

 品川区でも、8年前から全ての公立保育園幼稚園で「保育者体験」が始まっています。板橋区でも去年から始まりました。板橋区のホームページには、各園ごとに保育士体験の写真、親の感想文、保育士の感想文が載っています。長野県の茅野市では、市長が「一日保育者体験」をマニフェストに入れて当選し、父母から祖父母の一日保育士体験まで進んでいます。千葉県の市原市、石川県の小松市、横浜市、所沢市でも市長さん区長さんがやりましょう、と言ってくれました。高知県と福井県では県の教育委員会が主体になり県全体で始まりました。この方法で社会に感性を取り戻せば、人間社会に、自然治癒力、自浄作用が戻ってくるのです。

(10)

学校でできること

次の世代の親心、子育てにおける幸福論を育てる。)

「赤ん坊が人々の絆を育てる」

中学校で、家庭科の時間を使って赤ちゃんと触れあう体験を生徒にさせている学校があります。最近は、妊婦さんや乳児の定期検診サービスを保健所などでやっていますから、その時ボランティアを募って中学校に行ってもらいます。杉並区の場合、ボランティアにちょっとしたお礼が出ます。私が見学したのは母校の富士見ヶ丘中学校でした。妊婦さんが一人と、乳児を連れたお母さんが10人くらい。教室の前の方に並びます。赤ちゃんたちはあっちを見たり、お母さんを見たり、眠っている子もいます。一人ひとり、赤ちゃんを膝に置いてお産の時の体験談を語ります。大変だったけど感動しました。そう語るお母さんの顔には真実があります。

未熟児で本当に心配したんです、危なかったんです。そう話すお母さんの真剣な顔に、母の強さと優しさを感じます。人間の弱ささえ感じます。それを中学生が見ています。

5人ずつグループになっている中学生の机のところに赤ん坊がやってきます。お母さんが「抱いてみて」と言います。一人の中学生が、恐る恐る、でも嬉しそうに赤ん坊を抱きます。

その光景に私が嬉しくなります。お母さんは中学生を信頼して大事な赤ちゃんを手渡したのです。直感的に、次世代を信じている。信じてもらえた中学生が、誇らしげにクラスの友だちを見ます。いつか自分も次世代を信じる時が来るのです。

赤ん坊を抱くのが上手な男の子がいました。シャツがだらしなくズボンのそとへはみ出して、ちょっと不良っぽく見せています。その子には小さな妹がいて、いつも抱いていたのです。みんなが驚いて感心します。知らなかったことがわかったのです。彼は、家ではいいお兄ちゃんだったのです。昔の村だったらとっくに知っていたことなのに、いまの社会では、家庭科の授業がなければ知ることのできない、友だちの姿です。僕も昔はこうだったんだな、と誰かが思います。お母さんたちも、中学生を見て、私も昔中学生だった、と思います。この時、魂の交流が時空を越えるのです。

人が別々に歩いてきた道が、乳児によって結ばれる。生後3ヶ月の赤ん坊が存在する限り、人の心が一つになる次元が存在しているのです。

中学生の保育士体験2

長野県茅野市で家庭科の授業で保育士体験に行く中学二年生に、幼児たちがあなたたちを育 ててくれますよ、という授業をして、保育園に私も一緒について行きました。生徒たちは、図 書館で選んだり自宅から持って来た絵本を一冊ずつ手にしています。昔、運動会の前日てるて る坊主に祈ったように、絵本を選ぶ時から園児との出会いは始まっています。男子生徒女子生 徒二人ずつ四人一組で4才児を二人ずつ受け持ちます。四対二、これが中々いい組み合わせで す。幼児の倍の数世話する人がいる、つまり両親と子どものような関係です。もし中学生二人が一組だと、組み合わせや役割りに余裕がなくなるかもしれません。四人いると一人が座って絵本の読み聞かせをし、二人が園児を一人ずつ膝に乗せ、もう一人 の中学生は自分も耳を傾けたり、園児を眺めたりウロウロできます。園児に馴染んできたとこ ろで、牛乳パックと輪ゴムを利用してぴょんぴょんカエルをみんなで作って、最後に一緒に遊びます。

見ていて気づいたのですが、14歳の男子生徒は生き生きと子どもに還り、女子は生き生き と母の顔になる。お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮に、キラキラ輝き始める。保育士にしたら最高の、幼児に好かれる人になる。

そして、考えました。

同級生四人なら、幼児を守って旅が出来る。人類の法則を学んだ気がしました。

帰り際、園児たちが「行かないでー!」と声を上げます。泣きそうな子も居ます。ほんの一 時間の触れ合いで、世話してくれる人四人に幼児二人の本来の倍数の中で、普段は保育士一人 対三十人で過ごしている園児たちが、離れたくない、と一生懸命叫ぶのです。私はそこに日本中で叫んでいる幼児たちの声を聴いたような気がしました。

中学生が幾人か涙ぐんで中々立ち去れない。それを同級生が囲んでいます。保育士さんと先生たちが感動しながら見ています。

 

「小学生、高校生の保育者体験」

高校生、中学生、小学生に夏休みを利用して三日間の保育者体験をさせている園長先生が島根県におられます。もう二十年も前からやっています。

「1日や2日じゃだめです。3日がいいんです」と、先生は私に保育者体験をした子どもたちの文集を見せてくれました。文集に載っている子どもたちの率直な感想の中に、園の持つ不思議さ、園の人間社会に果たしうる潜在能力が書かれていました。

小学五年生の男の子が、こんなことを書いていました。

「僕は、保育園に行きました。どうしていいかわかりませんでした。黙って立っていたら、小さな男の子がきて、『あそぶか?』って言ってくれました。僕はとてもうれしかった」と言うのです。

ついこの間まで「園」にいた子どもが、「学校」に入って5年で、幼児の集団を前に、どうしていいかわからなくなってしまう。これはどういうことでしょう。知識や言葉に縛られはじめているのでしょうか。

「あそぶか?」と言ってくれた幼児は、良い子ぶって、そう言ったのではなく、かわいそうに思ったからでもありません。ただ無心に、「あそぶか?」と言ったのです。そこに駆け引きがない、ウラオモテや私利私欲がない。それを感じたからこそ、男の子はうれしかったのです。無心から出た幼児の言葉に、言葉に縛られていた魂が解放される。真理に触れる瞬間です。計算のない人間関係に私達は魅かれます。それに憧れるから、保育園の園庭は大人にとっていつも眩しい場所なのです。

(人間は「その言葉の意味」よりも、それを言ってくれた人の「心持ち」に幸せを感じる。言ってくれた人との「関係」に幸せを感じる。0歳から始まって、幼児との会話がそれを私たちに教える。)

別の男の子の体験です。やはり五年生です。二日目。「シャボン玉を吹いてあそんであげました。僕はちっとも面白くなかった。でも小さい子たちがよろこんでくれたのでうれしかったです」と書いてあります。

難しく言えば、他人の幸せを自分の幸せと感じること、そこに幸せがあることを体験した。自分自身の人間性を発見した、と言ってもいい。一番大切な、人類の進化にかかわる幸せの見つけ方を知ったわけです。「親」になる時に一番役に立つ種類の幸せのものさしです。週に1 回教会やお寺に通っても、こうした特上の幸福観の物差しは、そう簡単に見つからない。それを園に行って幼児と遊ぶだけで発見する。文部省は「心の教育」などということを言いますが、自ら発見する場を与えてやることが大切です。

三日目、別の男の子がこんなことを書いています。(小学生は男の子の方に新鮮な、素朴な感想が多く、高校生になると女の子が幸せになる感受性を発揮するようです。)

三日目になると小学生も幼児達もお互いに慣れてくる。

「だっこして、おんぶして、と言われて本当に疲れた。でも、僕も昔はこうだったんだなあ、と思った」と書いています。

幼児を見て、何人の大人が、「自分も昔はこうだったんだな」と思えるか。これは、実はとても大切なことです。子どもは純粋だ、と言う人がいます。そういう視点で、「自分も昔は・・・」と思う大人もいるでしょう。子どもは自由だ、という人もいます。子どもは大人がいなければ生きていけない、という運命を感じることもあるでしょう。色々な意味で、様々な思いで、「自分も昔はこうだったんだな」という言葉は今の自分に生きてきます。

自分の子どもを家で見ていてもなかなかこういうことは心に浮かびません。ところが自分の子どもが集団の中で遊んでいるのを1時間も見ていると、ふとこんなことを考えるから不思議です。人がものを考える時、「風景」というものが大切なのではないか、と思います。

親が月に一度でも、私も昔はこうだったんだなと思って子育てしていれば、子育てはまず大丈夫です。この国も大丈夫です。単に相手の気持ちを推し量るだけではなく、過去の「自分を通して」相手の気持ちを見る、ということが大切です。「子育て」は本質的には親が自分を見つめる作業です。子どもとの人間関係の中から、自分について、人生について深く考えるチャンスを与えられることなのです。それを小学生五年生がこうして作文に書く。理屈抜きに、フッとそれを言うのです。

誰もが昔、「だっこして、おんぶして」と言った経験がある。これはとても大切な経験です。つまり、一人で生きられなかった体験を皆が持っている。

親達に、「自分も昔は・・・」と感じさせ、気づかせることができたら、「園」はその役割をすでに果たした。親達は道を見つけて、それぞれのやり方で進んで行くでしょう。どんな親になるかは親達の選択であって、選択すること自体が、親らしくなっていくプロセスです。基本的なことに親達が気づけば、あとは運命です。自然にまかせるしかないのです。

そして、忘れてはいけないのは、「いい親になりたい」「いい親でいたい」と思った瞬間にその親は「いい親」だということ。いい親は、結果ではなく「心持ち」の問題だとということ。

親から子への、職業の世襲や生活技術の伝達がなくなって、親達が具体的な子育ての目標を持ち合わせていないという現代社会の欠陥を理解し、親が子育てから逃れようとするのを「園」を利用してうまく引き留めることができれば、人間の遺伝子の中には、大部分の親達が、まあまあの親に育ってゆく道筋がついているのだと思います。

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小学生、中学生、高校生の家庭科の時間は、保育園、幼稚園という不思議な場所を利用して、子ども達を親らしい人にすることを第一に考えて授業をすべきだと思います。大自然の法則に従って、幼児の集団は人間を育てる、ということを頭においてやったらいいと思います。

(親側に「自由に生きたい」という概念が身につくと、時として子ども達の「自由さ」が腹立たしく、虐待の原因になってゆくことがあります。自分もそうだった、ということを思い出すためにも、「園」という場所が生きてくる。自分も自由だったということを思い出すことによって、自由とは心の持ちようなのだ、ということに気づく。)

園児に混じることによって、小学生の不登校やいじめが止まります。信じてもらえる体験が、子どもたちに生きる力を与えます。ふだんはコンビニの前でしゃがんでタバコを吸っている茶髪の高校生が、園に来ると園児に人気が出る、という。不良高校生が保育園に来ると生き返るという。もともと、心が園児と近いのかもしれない。だからこそ一人でしゃがんでいたのかもしれません。

園児は駆け引きをしません。駆け引きをしない人たちに人気が出るということは、本物の人気。高校生もそれを知っています。自分のままでいい、生きているだけで喜ばれる、という実感が「生きる力」になる。幼児を世話し、遊んでやって、遊んでもらって、弱いものに頼られる幸せが新鮮に思えてくる。

以前、「悪い?」高校生がズボンを腰の下まで下げて悪ぶっていたころ、保育者体験に行って三歳児に、ズボンはこうやってはくんだよ、と注意されて慌ててズボンを上げたという話を聞きました。校長や教頭が三年注意して上がらなかったズボンが、三歳児に注意されると三秒で上がる。そこに宇宙の法則が動いている。「悪い?」高校生でさえ、こういう人たちがいるから自分はいい人になれると知っている。こういう人たちがいるから自分はすでにいい人なんだと、遺伝子のレベルで知っている。

幼児とのやりとりは、人間たちに、自分の本質は「善」である、ということを思い出させてくれます。本来の自分の姿に嬉しくなる。

家庭科の時間を使って、高校生が男女二人ずつ幼稚園でクラスに入っているところを見ました。高校生たちが、幼児に混ざって一緒に遊ぶことで「いい人間」になっている自分に気づきます。女子生徒と男子生徒が、幼児のいる風景の中で、お互いを、チラチラと、盗み見ています。男子生徒と女子生徒が、お互いに根っこのところではいい人間なんだ、ということに幼児を媒介にして気づくのです。

宇宙は、私たち人間に自信を持って0才児を与えている。人間すべてに幼児によって(または弱者によって、時にはペットや草花によって)ひき出されるいい人間性がある、と宇宙は信じている。私たちも、もう一度それを信じなければならない時期に来ています。

幼児と過ごすこと、そして子育てによって男女間、社会の最小単位であれ夫婦間に生まれる信頼関係、いい人間性の確認、本当の少子化対策は、こういうところから始まるのだと思います。頼る幸せ、頼られる幸せ、両方を知っていなければ社会の絆は育ちません。

(この国の少子化の一番の原因は、現在2割、十年後3割の男が一生に一度も結婚しないこ

と。時代の変化に男たちの遺伝子がついていけない。生き方、生きる動機を見失っている。そ

して、経済競争に巻き込まれているうちに、男女間の信頼関係が薄れてしまった。子はかすが

い、ではなく、「子育て」がかすがいだった。「子育て」で育まれる生きる力、充実感を取り

戻さないと、少子化に歯止めはかかりません。)

校長先生の一日保育士体験

ある園長先生の園の卒園児が、いまはもう中学三年生なのですが、学校でとんでもない「ワ ル」になったというのです。行っている中学の校長先生が園長先生の友人で、お前のところの卒園児だが、本当に困り者だ、と話したのです。

一度見に行ってみよう、園長先生は、中学校に出かけて行きました。

そして、私に言うのです。

「見に行ったら、ちゃんとあの子がそこに居ました」

園長先生が見たのは幼稚園時代と同じ、あの子でした。幼稚園時代を知っている園長には、中学生になってワルと呼ばれても、その子の本質が見えました。中学生は、幼稚園時代、自分が神様仏様だったころのしっぽをぶらさげています。園長先生の目はごまかせません。

その子の幼児期が見える、これが「親であること」です。保育園・幼稚園・学校と仕組みも 変われば担任も変わるシステムに親の肩代わりは出来ない。保幼小連携、と言いますが、それ によって子育てをより一層「引き受けること」なってはいけない。「連携して」できること、 できないことの区別は常に意識していないといけない。何よりも、子育ては育てる側がどう育つか、どう心を一つにするか、が第一義だということを忘れてはいけない。子どもが50歳になっても、親が子どもを叱っている時、親たちは幼児期の子どもを見てい ることがあります。それが、「親身」ということかもしれません。こういう時代だから、校長先生たちも親身になることを求められている。

子育て支援と言いますが、保育園が要求されているのは、子育て「代行」です。教育と言い ますが、教師たちが求められているのも、かなりの部分子育て代行になってきています。これをすると、ますます社会に親らしさ人間性がなくなっていくのですが、ここまで来てしまって は相対性理論かエネルギー保存の法則かわかりませんが、誰かが補填していかないと先進国社会は成り立ちません。いまの政府の施策のように積極的に推進されたらたまりませんが、望む と望まざるとにかかわらず「代行」するしかない。そして、お互いに育て育てられる関係だということにいつか気づくように、少しずつ意識的に、親に子育てを返してゆく。

校長先生たちにお願いしました。中学生の中に「その子の幼児期」を見て下さい。それに向 かって話しかければいいのです。それが見えないなら、見えるようになるために保育園や幼稚 園に行って幼児に囲まれて下さい。年に三日もいくとずいぶんちがいます。園で見た子たちが 中学生になる頃には、校長先生は引退しているかもしれません。それでもいい。これは人間の感性の問題なのです。

講演が終わって懇親会の席で、校長先生たちが私の席に来て笑顔で言うのです。

「松居先生の話、孫が居るので良くわかります」そう言って携帯電話の中に入れてあるお孫36さんたちの写真を順番に見せてくれるのです。

「これがご本尊様ですね」と、私も笑いました。

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欧米人が天国と呼んだ日本の姿:(私たちが守り伝えるべき日本の伝統)

「逝きし世の面影」渡辺京二著(平凡社)からの抜粋を掲げたいと思います。江戸の末期、明治の初期に来日した欧米人の証言です。日本人の日常の営み、風景を見て、欧米人が何に驚いたのか。いま、世界で一番安全な国(いまだに)と言われる所以が、そこに見えます。犯罪率や家庭崩壊、麻薬の汚染率が欧米に比べて奇跡的に低い国が成り立ちがそこにある。

ここに書かれている、日本人が、「子どもに囲まれ、子どもに育てられ生きてゆく」という自分たちの個性や役割を否定しては、私たちが私たちである意味がなくなると思います。

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街はほぼ完全に子どもたちのもの、日本の子どもは馬や乗り物をよけないのは、大事にされることになれているから、と欧米人が書き残します。朝から、幼児を抱えた男たちが腰を下ろして並んで、お互いの子どものことを話し合っている。父親たちと幼児たちがこれほど一体の国はない、日本の子どもはいつまでも父親の肩車を降りない、日本人の子どもへの愛はほとんど崇拝の域に達している、と言うのです。

玩具を売っているお店が世界一多い国。赤ん坊の泣き声がしない国。

赤ん坊を泣かせないことで、人間と人間社会が育っていた。

赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」とごく自然に思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点。そうすれば、大人でも子どもでも、老人でも青年でも、人間が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思うようになる。

最近は親が、泣いている自分の赤ん坊を見て、勝手に泣いていると思ったり、迷惑だと感じてしまったりする。抱き上げれば泣きやむことを知っているのであれば、泣いているのは自分の責任。よく考えてみれば、「産んだ責任」まですぐにたどりつく。その責任を感じたとき、人間は自分の本当の価値に気づくのだと思います。その仕組みに感謝して何万年も生きてきた。親が泣いている自分の子どもに責任を感じなくなった時、人間社会が長い間保ちつづけていた「絆」が切れていくのです。

赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の「責任」です。

街を離れ村へ行くと、日中すべての家の中が見渡せる。障子や襖、雨戸の開け放たれた家々は中が丸見えです。日本人にとって当たり前の風景に欧米人が驚き、その不思議さを書き残した。

「時空をわかちあう文化」がそこにある。時空の「空」をわかちあうことは、襖や障子を開けること。「時」をわかちあうことは、子育てをわかちあうことだったのでしょう。

私は保育者に「幼児の集団を使って親心を耕してください。信頼の絆を育ててください。家庭崩壊から学校崩壊に向かう人間社会をいまの状況から救えるとしたら、幼稚園・保育園が親を園児に漬け込むこと、それによって親心を育み、幸せのものさしを再発見することしかありません」と言いつづけてきました。

初めてこの本を読んだ時、私が幼稚園・保育園を使って日本に取り戻そうとしていたのは、この本に書かれている日本、この風景、この国の文明だったのだ、と感慨深いものがありました。

日本人にとって「夢」は、自分の幸せを願うことではなく、次世代の幸せを願うこと。幼い次世代の中に神を見、仏を見て、時々自分もそうだったことを思い出し、毎日笑いながら幸せに暮らしていた。「親心」と重なる文明が、この国の「美しさ」だったと思うのです。人間は、幼児を眺め、「貧しくても生きられる方法」を思い出す。

儒教的な背景から戦いの中で育まれた武士道、禅を基盤に、利休、世阿弥が書き残した日本の宇宙的文化は、確かに一人ひとりの人間のあるべき姿や宇宙との関係、欲を離れた安心の境地について、欧米とは違った道を示してくれています。しかし、欧米人が驚愕した「国としての本当の境地」は、幼児を眺める笑いの中にあった。

私は、日本を見て、その様子を書き残してくれた欧米人に感謝しています。たしかに時空を超え守りあう彼らとの「絆」がそこに存在するのです。

 

 

逝きし世の面影:第十章「子どもの楽園」から

 

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい(モース1838~1925)』

 

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊技を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子に誇りをもっている…(バード)』

 

『怒鳴られたり、罰を受けたり、くどくど小言を聞かされたりせずとも、好ましい態度を身につけてゆく』『彼らにそそがれる愛情は、ただただ温かさと平和で彼らを包みこみ、その性格の悪いところを抑え、あらゆる良いところを伸ばすように思われます。日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりはしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さず父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです』『それでもけっして彼らが甘やかされてだめになることはありません。分別がつくと見なされる歳になると―いずこも六歳から十歳のあいだですが―彼はみずから進んで主君としての位を退き、ただの一日のうちに大人になってしまうのです(フレイザー婦人)』

 

日本の子どもは泣かないというのは、訪日欧米人のいわば定説だった。モースも「赤ん坊が泣き叫ぶのを聞くことはめったになく、私はいままでのところ、母親が赤ん坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない」と書いている。イザベラ・バードも全く同意見だ。「私は日本の子どもたちがとても好きだ。私はこれまで赤ん坊が泣くのを聞いたことがない。子どもが厄介をかけたり、言うことをきかなかったりするのを見たことがない。英国の母親がおどしたりすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ」。

レガメは一八九九(明治三十二)年に再度の訪日を果したが‘神戸のあるフランス人宅に招かれた時のことをこう記している。「デザートのとき‘お嬢さんを寝かせるのにひと騒動。お嬢さんは四人で、当の彼女は一番若く七歳である。『この子を連れて行きなさい』と、日本人の召使に言う。叫ぶ声がする。一瞬後に子供はわめきながら戻ってくる。―–これは夫人の言ったままの言葉だが、日本人は子供を怖がっていて服従させることができない。むしろ彼らは子供を大事にして見捨ててしまう」。つまり日本人メイドは、子どもをいやいや服従させる手練手管を知らなかったのだ。日本の子どもには、親の言いつけをきかずに泣きわめくような習慣はなかった。』

 

『日本についてすこぶる辛口な本を書いたムンツィンガIも「私は日本人など嫌いなヨーロッパ人を沢山知っている。しかし日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」と言っている。チェンバレンの意見では、「日本人の生活の絵のような美しきを大いに増している」のは「子供たちのかわいらしい行儀作法と、子供たちの元気な遊戯」だった。日本の「赤ん坊は普通とても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けているほどである」。モラエスによると、日本の子どもは「世界で一等可愛いい子供」だった。』

『モースが特に嬉しく思ったのは、祭りなどの場で、またそれに限らずいろんな場で大人たちが子どもと一緒になって遊ぶことだった。それに日本の子どもは一人家に置いて行かれることがなかった。「彼らは母親か、より大きな子どもの背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り回し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるすべてを見物する。

子どもは母親の着物と肌のあいだに栞のようにはさまれ、満足しきってこの被覆の中から覗いている。

その切れ長の目で、この目の小さな主が、身体の熱で温められた隠れ家の中で、どんなに機嫌をよくしているか見て取れることが出来る。」

 

「ネットーは続ける「日本では、人間のいるところならどこを向いて見ても、その中には必ず、子どもも二、三人はまじっている。母親も、劇場を訪れるときなども、子どもを家に残してゆこうとは思わない。もちろん、彼女はカンガルーの役割を拒否したりしない」