社会の常識が、崩れてゆく

日本でも変な事件が増えています。今まで暮らしていた社会の常識が、崩れてゆくような事件が、最近、繰り返し報道で流されています。

こんな事件が今の十倍になって欧米並み。欧米社会は、すでにそれに慣れ、その営みを続けている。そして、時々この国を批判するのです。平等ではない国だと言って。

欧米と日本の違いは、日本では「自分で育てられるのなら、子どもは自分で育てたい」という母親が、15年間まで9割居たこと。それがいま、7割にまで減っている。政府主導で減らされている、と言ってもよい。誰かが育ててくれて当たり前、と思う親が現れ、「社会で子育て」などと言って保育園に子どもを入れることを薦める学者さえ出てきました。

去年から今年にかけて、あちこちの役場の子育て支援課の人たちが言うのです。「0歳児を預けることに躊躇しない親たちが、急に増えてきた」と。

その先にあるのが、学校という仕組みなのです。義務教育が「義務」である限り、すべての親たちの子育てが、互いの子育てに影響する、そして、学校教育は「親が親らしい、という前提に元に作られている」。

アメリカの小学生の十人に一人が、学校のカウンセラー(専門家)に勧められて薬物(向精神薬)を飲んでいます。その薬物でかろうじて保つ画一教育で、義務教育に不可欠な教師の精神的健康を維持しようとしている。しかし、最近の「学問」が作った「専門家」が薦める薬物や保育・教育で、人間社会を維持することはもうできない。

幼児たちを眺めること、守ろうとすること、愛でること、祝うこと、そこから人間社会が始まるという、そのあたりの約束事を政治家たちが思い出してほしい。理解してほしい。この国もいま、とても危ないところに来ているのです。

 

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変な事件のニュースを聞くと思い出すのです。野生のゾウの群れが、突然サイを殺し始めたドキュメンタリーと、チンパンジーのカニバリズムについて。

 

ゾウがサイを殺すとき

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=290

サイを殺し始めたゾウのドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。もちろん殺して食べるわけではありません。ただ、殺す。

巨大なトラックがなければゾウは運べなかった。それが可能になり、人間の都合で、その方がいいと思って、若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。すると、ゾウがサイ殺しを始めた。

考えたすえ、試しに、年老いた一頭のゾウを移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しが止まった。

 

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チンパンジーとバナナ 

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=234

文化人類学者ジェーン・グドールのチンパンジーのカニバリズム(共食い)について研究は、その後新たな展開を見せ、餌付けという人為的な不自然な行為に問題があったのではないか、という推測を生むのです。仲間同士の殺しあい、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ち、その原因が、何十万年にわたって大自然が育ててきた遺伝子が、「平等に餌を与えられる」という突然の環境の変化によって、いままでの常識から外れた行動を誘発していったのではないか、というのです。理解に苦しむ事件が増えてきた時に、考えなければいけない考察がそのあたりにあります。

そして、もっと具体的な報道もすでにされているのです。

 

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クローズアップ現代(NHK)~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=267

クローズアップ現代は有名ですし、私は質の高い報道番組だと思って見ています。ここまではっきりと報道されている三歳までの愛着関係と「応答性」の大切さの指摘を、子ども・子育て支援新制度でもう40万人三歳未満児を親から引き離そうとしている首相はなぜ理解しようとしないのか、と思います。

十年以上前、厚労省が「長時間保育は子どもによくない」と保育界に向けて研究発表した時の長時間が8時間だった。それをいま13時間開所を保育所に要求し、11時間を「標準」保育、8時間を「短時間」保育と名付けて進める新制度の意図が、子育ての現場を追い込んでゆく。

政府が、この国の親子間の愛着関係を土台から壊し始めている。繰り返しますが、薬物や学問で子育てはできない。学校や保育という仕組みでもそれはできない。人間が、「育てること」から自らの人間性を学び、遺伝子の働きを理解すること、それが生きる力です。

地下で保育所可能に:区長会、緊急要望・公設民営で問われる質・心の傷はあまりに深い

 

「1歳児まで育休を 地下で保育所可能に 区長会、緊急要望」:

東京23区の区長でつくる特別区長会は19日、待機児童対策について厚生労働省など関連省庁に緊急要望書を提出したと発表した。1歳児までの育児休業を原則義務化するような制度改正と、地下でも保育所を開設できるような規制緩和を求めた。 http://www.nikkei.com/article/DGXLZO06273830Z10C16A8L83000/

という新聞記事。

「1歳児までの育児休業を原則義務化」、いい動きだと思いますが、1歳までではなく、真剣にやるなら「3歳まで」でしょう。1歳まででは、保育士不足と財源不足に困った末の緊急「対策」に思われます。区長さんたち、いい加減に目を覚ましてください。子どもたちの気持ちを優先して考えたら、3歳まででしょう。

雇用労働施策に根のある思考、こうした無感覚さが、「地下で保育所可能に」などという発想につながるのです。窓から眺める外の風景も、人生の一部です。生きてゆくには重要なことなのです。

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子どもたちにとっても、保育士さんたちにも、「お日様」は必要です。大切です。たとえ雨が降っていてお日様が見えない日でも、保育室から、窓を通して、ふと雨の降る園庭を眺められることが保育士にとってどんなに大切だったか。園児と一緒に、黙って「雨上がったら外で遊ぼうね」と静かに心を合わせることが、保育の心を育てた。風景やたたずまいが、子どもとの信頼関係を整え、育てるのです。

 

「でてきて、おひさま」という絵本がありました。堀内誠一さんの絵でも出ていますが、私が馴染んだのは丸木俊先生の絵のほうです。スロバキアの民話ですが、お日様は、人生の中心にいてほしいですし、小さい頃から子どもたちにそれを感じてほしい。大人たちと、親たち、保育士たちと一緒に、お日様を待ち望んでほしい。

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3歳まで、どれだけたくさん優しさと触れ合うか、心を重ねるかがその子の人生を左右する、みたいな当たり前のことが「三歳児神話」のような言葉で一時的に壊されても、結局当たり前のことが少しずつ「科学?(実験?)」でも証明されてゆく。当たり前の世の中を失ってゆく苦しみに耐えられなくなって。

 

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東京新聞:『品川の保育園 開園1年で事業者の契約解除 公設民営で問われる質』という記事:http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201608/CK2016081802000129.html

財政削減が背景にある公設民営化の怖いところは、それを受けようとする業者が、現在の保育士不足と設置者・責任者・保育士の精神的健康が保てなくなっている状況、養成校から資格を与えらる保育士たちの質が異常に低下してきているのを知っていながら、儲けや、生き残りをかけて、なりふり構わず必死に受注しようとすること。行政が、市長の意向を汲み取って、それに見て見ぬ振りをすること。

政府の「保育は成長産業」という閣議決定にも煽られ、株式会社の参入だけでなく、「業者化する社会福祉法人」という、その成り立ちに逆行するような現象さえ起こっているのです。

そういう中で、杉並区のように、すぐに必要ではないのに、子どもに人気のある、学童や児童館の役割を果たしていた公園をつぶしてまで保育園を前倒しで増設する首長が現れる。しかも、いいことをやっているつもりで。

「供給を拡大することが需要を掘り起こす」というとんでもない理論を保育に当てはめようとする業者、経済学者、政治家たちが子どもたちの気持ちを踏みにじる。そして、「幼児の気持ち」を優先しない経済論が、ますます保護者と保育者の溝を深くしてゆく。だから、いい保育士にそっぽを向かれ、保育士の次世代育成が行き詰まってくるのです。

保育は産業ではない。子どもたちの日々の生活だということを大人たちが思い出さなければ、子どもが幼児期に受ける心の傷はますます広く、深くなってゆく。

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毎日新聞:「子供への虐待 心の傷はあまりに深い」という記事がありました。

http://mainichi.jp/articles/20160818/ddm/005/070/035000c

こういう実験や研究は、欧米でも以前から繰り返されていた。幼児期に、ほとんどの子どもたちが手厚い絆に囲まれ、安心して育つことが、人間社会の土台となっていた。それが当たり前の風景だった。

最近、虐待の定義が広がっています。心理的虐待のセーフティーネットの役割を果たしていた親身な絆が、「仕組みで子育て」(社会で子育て)を広げることで失われてきているからです。それによって傷がより深く、回復が難しくなっている。

以前は、虐待するような親に心を傷つけられても、親身な親戚が居たり、いい担任の先生に出会ったり、友だちに助けられたり、自浄作用を助ける役割を果たしてくれる様々な出会いが「可能性」として散らばっていた。その可能性が「社会で子育て」(=「福祉や学校への子育て依存」)の方向に向かうことによってどんどん低くなってゆく。幼児を一緒に眺めるという原点が少しずつ失われ、それによって、自浄作用、自然治癒力が発揮される機会が社会全体から失われていっている。しかも、それが政府の経済施策主導で行われている。そこが一番の問題です。

 

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母子の風景を大事にする国・「人権? 」(家庭と社会の境界線?)・ジェンダー

母子の風景を大事にする国
i mages
(ツイッターにこうツイートしました。)
: ブログに「何かが麻痺している・『子どもショートステイ』宿泊型保育」を書きました。大人の都合が子どものニーズと錯覚され、経済上の女性重視、女性の活用、多くの女性が(競争)社会進出を望んでいるように語られる。しかし施設・仕組みが壊れ始めている。
(すると)
 
:「 母乳で育ててたら、子どもと3時間以上も離れていられないはずなんですけどね。」
(という返信があって)
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:父親と母親の違いというのは、たぶんその辺りで決定的になるのでしょうね。男たちが一生懸命追いつこうとする、それが子育てのあり方かもしれません。追いつかないけど、頑張る。追いつけないから、母子の風景を大事にする。そんな順番でしょうか。
 
(という私の返信に、別の方から)
 
「母子の風景を大事にする、夫がまさにそんな感じです。母乳以外なら自分の方が上手いくらいだと一生懸命子育てしながら「ママじゃなきゃ嫌」と私にくっつく子供たちを、それが子供の自然な姿だよねと言うかのように、目を細めて微笑んでいます。」
 
(私も)
母子の風景を大切にすることでは、先進国社会で日本はピカイチです。できちゃった結婚という言葉があり家族に実の親が居る確率が高い。父親が犠牲になっているとは思いますが、母子の過ごす時間がまだ守られている。それが犯罪率や女性・児童虐待の低さに現れています。
 (と書きました。)
 何が正しいとかいうことではなく、子育てにおいて、どういう選択をする人たちがどのくらいの割合でいるか、ということが鍵を握っている。その割合で福祉や学校教育という「子育て」に関わる仕組みが維持できるかどうかが決まってくる、そんな感じがします。多くの親たちが自分で育てるという選択をする、それを維持できるかどうかが、先進国社会において、人々の幸福に一番直接的な影響を及ぼすことを理解してほしい。
 福祉や義務教育という、人類史上最近の、とても新しい仕組みを成り立たせるために必要な、家庭における幸福感のバランスというものがあって、そのバランスによって、そこで「仕事」をする人たちの心の質を保てるかどうかが左右される。
 あえてここで「仕事」という言葉を使うわけですが、この「仕事」と「子育て」の境界線が曖昧であることに細心の注意を払わなければならない。「仕事」にしてしまうと、「子育て」の見えにくい部分、つまり乳幼児が人間の感性やコミュニケーション能力を育ててきたという働きが徐々に失われ、家庭崩壊が始まり、それが福祉・教育の質の崩壊につながり、それがまた、なお一層の家庭崩壊に連鎖してゆく。
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 日本でも最近歪みが出はじめた「子育て」の問題が語られる時、「欧米では、親の働く時間が限られている」とか、「休暇を家族でしっかりとる」とか、言われることがあります。それは確かに良いことだと思いますが、だから日本はダメなんだ、という言い方で言われると反論したくなります。
 親が(母親が)幼児と過ごす時間をこれほど守ってきた国は、欧米にはありません。いくら休暇をたくさんとっても、勤務時間を減らしても、誰が子育てしているのかわからない状況の国と日本を比べてほしくない。
 性的役割分担という言葉が25年くらい前にジェンダーフリーを提唱する学者や評論家から「悪いこと」のように言われたことがありました。しかし、ある時期、特に子どもが小さい時に、母親が「子育て」という役割にまわり、男が経済的にそれを支えるという性的役割分担があった国の方が、結果的にとても治安がいいし、弱者に対する虐待が少ない。社会全体の安心感につながるという側面では、こちらの選択の方が良かった。
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(以下は、25年前に書いた文章からです。この頃、保育は8時間で、園長先生たちは、私の話す欧米での出来事と家庭崩壊に関する警告を、海の向こうのことと感じていた。最近、よくそのことを言われます。回教原理主義と資本主義のぶつかり合いの根本に「家庭像」「子育て観」が存在し、それが広がってゆくという予測はより一層現実となってきています。)

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6章 「人権? 」 (家庭と社会の境界線?)

 富士町文庫の30周年記念講演会は一般の人に宣伝して聴き手を募る、文化講演会的集まりでした。私の講演対象は通常保育者か幼児を育てている親達ですから、富士町文庫の講演会で久しぶりに「一般の」人達を相手に喋ったのです。
 二週間ほどして、お礼の手紙が来ました。
 「受験戦争を肯定した事への疑問(当日、お答えいただきました)や、『子育て』の大切さ、子どもへの無関心への警告には同感だが、母親に家庭に帰れということに結果的になるのではないか、性的役割分担の押し付けにならないか、等など質問は絶えず、いくら討議しても時間が足りないほどでした。」と書いてありました。
 私は、親達にもっと家庭に目を向けてほしい、子育てに幸福感を見つけてほしい、その方が社会的成功を目指すよりはるかに容易で、幸福感としても現実的ではないでしょうか、という話をします。そのことを説明するために、欧米の失敗例をあげ、「女性の社会進出」という名で呼ばれる不明瞭な言葉が、人権、税収といったレベルの論争に利用され、これを盲目的に「進歩」、「良いもの」と信じていると、いずれ社会的規模の家庭崩壊が始まる、と言います。それが結果的に「母親は家庭に帰れ」と聴こえたのだとしたら、それはその通りでいいのです。
 ここで大切なのは、私の言っていることが、結果的に「母親は家庭に帰れ」ということになるかならないか、という次元で討論せずに、そう言っているんだ、と決めてしまって議論をする方が、より深い議論が出来るということです。その一歩手前の議論で終わっているのは、すでに「母親は家庭に帰れ」という言葉が不正義だ、という意識が日本の女性の間で常識になりつつあるということ。少なくとも文化講演会に来るような人達の間ではそうなのです。これは少々恐ろしい。
 「母親は家庭に帰れ」という言葉が何を意味するか、しっかり考えてみる必要があると思います。心を澄まして考えれば、こんな言葉が存在することがそもそも変なのだ、と気づきます。「家庭に帰れ」という言葉が意味する状況は、母親は「家庭にいない」ということです。「帰れ」を否定することは、「いないほうがいい」を肯定することになるのです。
 「母親は家庭に帰るべき」なのでしょうか。それとも「母親は家庭を出るべき」なのでしょうか。
 人にはそれぞれの人生や運命があって、すべての生き方が違い、一律に論じることは出来ませんが、社会の常識、空気としてこの問題を考えることは大切です。空気は幸福観に関わるからです。
 「母親は家庭にすでにいる」ものなのでしょうか、「すでにいない」ものなのでしょうか。いま本当にマスコミなどで言われるように、「日本の父親達は家庭にいない」のでしょうか。
 「家庭に帰れ」「女性の社会進出」などという言葉を、夫婦で農業や漁業をやっている人達、商店を営んでいる人達が同じようなニュアンスで口にするでしょうか。どこからどこまでが「家庭」の内側で、どこからが外側なのでしょうか。境界線を実際に見た人はいるのでしょうか。「家庭」に屋根はついているのでしょうか。心の中の問題なのでしょうか。
 「女性の人権」を声高に叫ぶ人達が「家庭」や「社会」という言葉を使って議論する場合、結局その要求は「女性も大多数の男達がやっているような生活がしたい」という生活スタイルに関する要求であって、それを言うために「家庭」「社会」という言葉をうまく利用しているに過ぎないのです。「人権と平等」を叫ぶ人達の言う「母親は家庭に帰れ」と言う言葉の本質は、「母親は家事をやれ」という職種に関わることなのです。そして、仕事の種類を男女平等にすべきだ、というのがその主張の根底にあります。
 家庭の定義はそんなに単純なものではない。しかし、仕事の種類と考え始めると、学歴が高ければ高い程肉体労働、家事が馬鹿馬鹿しく思えるようになり、そのうち「子育て」という役割分担でさえ家庭内の「低級な役割」に見えてきます。この「子育て」を低級な「仕事」と見始めるところに、人間社会を根本から揺るがす危険がある。そこには明らかに次元を超えた混同があるのですが、言葉に縛られ、空論の積み重ねの中で生活している人達にはそうした次元の違いが見えなくなっています。意識的に見えなくなるように議論を進める人達も多いのです。
 地位の向上や経済的成功、「換金できるもの」が幸福論の中心になって来ると、それは既にパワーゲームの呪縛にかかっているということ。
 (私は独裁国家、全体主義国家、軍国主義国家を脱却した日本という国の状況に応じた人権論を論じているのであって、「人権」という言葉を使うことを否定しているわけではありません。人権と言う概念を使って社会改革をしなければいけない国や地域はまだまだ世界中にたくさんあります。その使い方もまた、バランス、落とし所の問題なのです。)
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 実は、外で稼いでくる男性が、きちんと収入を家庭に入れていれば、それはとても重要な「子育て」の分担をしているわけですし、その役割ですでに男性は立派に「家庭」に居る。「家庭」というのは主に人間関係であって、これは三次元に限られたものではなく、心とか魂と言われる次元の関係を大いに含むわけです。私達が亡くなった祖父母を覚えているとしたら、その人達もいまだに私達の「家庭」の一部です。それが具体的に現れるのが、仏壇であり、先祖を祭る祭礼です。世界各地に見られるミイラ信仰は、家庭の概念が、魂と遺体という次元を越えた存在であることを示しています。
 家庭は記憶や習慣、意識や文化という目に見えない要素を含んでいる。そう考えて、あらためてこの「母親は家庭に帰るべきだ」という言葉を思うと、私の言う「次元」「空論」「言葉遊び」「言葉に縛られる」という意味が見えてくると思います。
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 さて、家に居るよりも、男達主体でやってきたマネーゲーム・パワーゲームの方が楽しそうに見える。重要そうに見える。なぜでしょう。たぶんそれは外で働いていた方が、より沢山の情報に接しているような気がするからでしょう。自分が苦労して学校で習った情報が役に立つのではないか、と思うからでしょう。言葉の上に言葉を重ねてみたい、知識の上に知識を重ねてみたい、と思うのです。これはすでに言葉に支配され始めている考え方です。
 情報を沢山知って死んで行く方が得、満ち足りた人生なんだ、という錯覚はどこから来たのでしょう。これには義務教育の普及が関係がしています。自分で考える習慣を持っていれば、一生楽しめる情報や体験を既に持っているにもかかわらず、情報を得ることそのものに価値があるように思いはじめる。知識がパワーゲームの道具にされる近頃の風潮から来ているのでしょう。
 ここまで考えを進め、次に、誰が幸福か、幸福とは何か、という具合に考えを進めなければならないのです。
 そして、その幸福の比重を社会全体の幸福に置くのか、家庭、親子関係に置くのか、または個人に置くのか、ということを考え、これはバランス・落とし所の問題なのだ、と気づくわけです。それに気づけば、ただ単に「家にいるのは不幸だ」という風には思えなくなります。
 「権利」や「平等」という言葉を強く意識して、多くの男性たちが競争社会でやっているような暮らしを私達もしたい、働き方における男女平等こそが良い目標なのだ、という具合に一度洗脳されてしまうと、これは個人の幸福が優先することになってきます。そのように女性たちが考え、人生の幸福を仕事に見つけるようになることを否定するつもりはありません。幸福のものさしは人それぞれですし、過去の歴史から考えれば、いまこそ尊重されなければなりません。しかし、長い間やってきた「子育て」に重きを置く母親達の幸福論もまたいまこそ尊重されなければなりません。ましてや、腹を立ててはいけません。
 子育ては誰かがしなければいけない。これは我々が進化・存続しようとすれば逃れられない絶対条件です。太陽が毎日昇るようなもの。幸福の多くがここから生まれなければ、大自然の法則が狂ってくる。問題はここです。大自然の法則が狂ってきた時に何が起こるか、ということを少なくとも私達は欧米の状況から学ぶことが出来るではないか、というのが私の主張です。
 親が子どもの犠牲になることを嫌うと、子ども達の幸福が徐々に後ろの方に押しやられて行きます。大人達の方が子どもより強者だからです。そのうち、子ども達の幸福を社会やシステムが「福祉」や「法律」で考えなければならない状況まで進んでしまうと、もう手遅れです。
 子ども達の幸福と大人達の幸福が重なり合っていないと、それは本当の幸福、種の保存の理に適った幸福ではありません。しかもこれが重なり合っていないと幸福という概念の伝承ができない。子どもはやがて大人になる、ということを、花を見ながら、空を見ながら、ジッと考えてみれば、なぜ子ども達と親達の幸福がバラバラであってはいけないか、が見えてきます。
 私はいま、6歳までの幼児が親から虐待される悲しみを、もっとも許されない悲しみと決めて、親子関係に比重を置いた幸福論、そして、子どもを育てやすい社会を維持するための幸福論の重要性を主張しています。言い換えれば「家庭」に比重を置いた幸福論を推薦しているのです。大人達が自分達の「人権」を叫んで、大人主体の幸福を追求することが、結果的に大人達自身の不幸につながる、ということをアメリカ社会に見てしまった以上、子ども中心の幸福論を社会が支えることが大人達のためにも大切なのだと信じています。子ども中心の幸福論は、大人達を優しくするからです。
 あれほど女性の人権運動が進んだアメリカで、なぜ女性虐待が増えているのか。女性の4人に1人が一生のうち一度はレイプを経験する。毎年二千人以上の女性が夫に殺される。そして何よりも、3人に1人が未婚の母となり、ほぼ男の助け無しで子どもを育てて行かなければならない重圧は計り知れないものだと思うのです。大人達の個人的な幸福論は自分勝手な強者の幸福論だと思います。
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 古人類学における「家族」の定義

 富士町文庫の方からの手紙にあった「性的役割分担の押し付け」という言い方。困った現象なのですが、「性的役割分担の薦め」とか、「性的役割分担の人間社会における機能」、「性的役割分担が子育てに果たす役割」と言えばそれほど抵抗なく聞けるのに、「押し付け」と言われれば誰だって嫌な感じがします。人権屋とか弁護士、昔の左翼の生き残りが好んで使う手口で、言葉のニュアンスで事実を曲げるのです。「ラーメンの押し付け」と言われれば急にお腹がいっぱいのような気がしてきますし、「親切の押し付け」という言葉からも、あまりいいイメージは沸きません。でもラーメンも親切もそれ自体は悪い物ではないのです。こうした言葉遊びレベルの議論をしている暇は、私にはありません。どうぞご勝手に、という感じなのですが、実はいまマスコミと、それを囲む論客達のほとんどがこの実感の薄い空論に空論を重ねるレベルでエネルギーの無駄使いをしているわけです。
 最近は母親達でさえこうした人権言葉遊びをします。面倒なことです。保育者や教育者は是非このレベルの議論に巻き込まれず、子ども達の幸福、親子の幸福を親身に思いつづけてほしいものです。言葉のやりとりではなく、心のコミュニケーションが人生を豊かにするのです。
 私の講演が「性的役割分担の押し付け」かどうか、という議論にエネルギーを費やすくらいなら、「性的役割分担の押し付け」なんだ、と決めて、なぜこの人は「性的役割分担の必要性」を言うのだろう、という方向へ進んでいただければ良かったのに、と私は主催者の方に電話で言いました。そして、男女の違いがある人間の遺伝子は、自然界からの性的役割分担の押し付けではないか、と進み、これに反発すると、「親子の役割分担」が崩壊するのではないか、という所まで是非考えてほしい。
 親の役割は子どもを守り育て「犠牲」に幸福感を感じることを学び、それを次の世代に伝える。子どもの役割は親達の精神を浄化し、幸せの見つけ方を大人に教えることです。それが最近、親が幼児虐待をし、子どもが親をイライラさせる役割に転換してきている。この役割分担のずれが、言葉遊びから始まっているということ。人間が与えられた「子育て」における幸福感が、強いものが勝つ競争原理にしたがって、「平等」という言葉を起爆剤に大逆転現象を起こすかもしれない、という所まで考えを進めてほしいのです。
 「性的役割分担の押し付け」「母親は家庭に帰れ」、こうした言葉を聞いただけで、頑なに「不幸」の殻に閉じこもってしまう傾向がすでに社会の中に空気としてある。これが一番不幸なことだと思います。言葉に支配されるようになると、人間は不幸を指摘することにばかり気をとられて、幸福を感じる感性・感覚を失うのです。
 「性的役割分担の押し付け」に反発することが人間の遺伝子の中に組み込まれたいわば人類の運命だ、という風に私も考えないではないのです。そう考えると地球全体を見た時に、平等の名の元に「家庭」から崩壊しつつある欧米に反発するように、回教原理主義が「家庭」を基盤にいま非常に力を得、アフガニスタンやイランで、20年前まで解放に向かっていた女性達がベールを顔にかけはじめている、という現象が、地球全体の自然と人為的なものとのバランスをとる動きのようにも見えてきます。この両極へ進む動きがいつか正面からぶつかるのではないかと思うと、大自然の法則が一体どこにあるのか不安になるのです。
 「性的役割分担の押し付け」という言葉にひっかかって頭だけの理論、人権、平等、民主主義といった言葉に縛られた知的論争方法にいつまでもこだわっていると大変なことになるのではないでしょうか。こうした議論は確かにある時期、独裁とか全体主義、共産主義とか人種差別といった多くの人を不幸にしてきた人類の集団としての負のプロセスを打開するには必要でしたし、常にどこかで社会正義として、ある一定の水準で行われなければいけないのですが、いま、欧米の家庭崩壊を目の当たりにしてみると、そろそろ一歩後退して、幼児の幸福を家庭の基盤に考えた幸福論に戻らなければ、人為的な言葉と大自然の和解は不可能になってしまうのではないかと思うのです。先進国社会の中ではまだかろうじて「家庭」に幸福の基盤を置いている日本は、文化的歴史的に「大自然との和解」の機会を与えられています。
 欧米レベルの人権論議をしていると、いつの間にかアメリカのように「母子家庭じゃ駄目だから政府が孤児院を作って子どもを育てよう」「養育費を払わない父親からは運転免許証を取り上げよう」などという法案が議会に提出されるところまで進んでしまうのです。
 「大自然との和解」が不可能なところまで一旦行ってしまうと、やはり仕組みの中に答えを見つけようとするしか手段がない。私達は、人間社会が人権論議の果てにそうした極端に非人権的な方向に進むことによって軌道修正を図ろうとする可能性を欧米社会に見ているわけですから、その二の舞いだけは避けましょう。
 類人猿や原始人を研究する古人類学では、「家族」という概念は、男は狩りに出、女は子どもを育てるという労働の分業化が行われるようになって生まれた、と考えられています。これは言い換えれば、性的役割分担が薄れる時、家族という概念が薄れるということなのです。
 親の子育て観を変えることは社会全体の幸福論を書き直すことに他なりません。
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ジェンダー

 進化の過程で、ジェンダー、つまり雄雌の差を手に入れたとき、私たちは「死」を手に入れました。

それまで、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのだと思います。

いま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっています。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴でしょうか。

性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という生を支えてきた意識を少しずつ失う。人類が注意を払わなければいけない、先進国社会で起こっている一つの流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な次世代に譲る幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい現実を生んでいる。

男らしさ女らしさがあって、「親らしさ」が存在する。親になることは、明らかに性的役割分担の結果です。子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ、「親らしさ」に移行するために必要なのが、「子育て」。しかし、パワーゲームに組み込まれた子育ての社会化が、親らしさという視点で心を一つにするという、古代の幸福感を揺るがしている。

死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は意味が異なります。死への恐怖は競争社会を生み、死への理解は人間を謙虚にし、調和に向かわせる。

何かが麻痺している・「子どもショートステイ」宿泊型保育

公立の保育園が9割の街、1割の街、幼稚園が一つもない街、ほとんどの子どもが幼稚園を卒園する街、地域によって保育士不足が生み出す問題は様々ですが、去年から今年にかけて、各地で役場の人たちが共通して私に言うのは、「0歳児を預けたいという親が突然増えました」(だいたい倍くらい?)と、「0歳児を預けるのに躊躇しない母親が増えました」の二つです。預けることに躊躇しないから預けたい親が増える、当たり前といえば当たり前ですが、長く保育課にいた人からすれば相当違和感がある現象なのです。人間の本質に関わる違和感です。新制度で、政府がもう50万人乳幼児を保育園で預かる、そうすれば女性が輝く、と言い、マスコミが待機児童問題を「政府は何をしているんだ、もっと保育所を整備しろ」という論点で繰り返し扱い、親としての子育てにおける常識が、「権利」とか「利便性」という言葉で突然崩れ始めている。その矢面に立っているのが、役場の保育課の人たちと現場の保育士たちです。

そして、保育課長から三番目によく聞くのが、「ベテラン保育士が辞めて行くのを止められない」なのです。

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友人からのメール:

「『子育てを他人任せにした後ろめたさ』、忘れないようにと思いながら、0歳から子ども二人を預けてしまうと、実際、麻痺している部分があります。 結果的な麻痺、意図的な麻痺、社会的な麻痺、麻痺への麻痺。子育てという営みとは何か、に結局行き着いてしまうと思いました」

このちょっとした麻痺が、待機児童という真実とは無関係の(待機しているのは児童ではない)言葉を作りだし、それを受け入れ、幼保一体化や規制緩和が進んでいる。大人の都合が子どものニーズと錯覚され、経済活動の上でにしか過ぎない女性重視、女性の活用がいい事で、多くの女性が(競争)社会進出を望んでいるように語られ、知らぬ間に、宿泊型保育が国のニーズ調査に載せられている。

 

「子どもショートステイ」宿泊型保育

国の、子ども・子育て会議・保育のニーズ調査にも項目として載せてあった「子どもショートステイ」。すでに数年前から始まっていて、四年前に幼稚園で配られた可愛いイラスト入りのチラシにびっくりしたことがあります。杉並区から配られたチラシでした。育児疲れ、冠婚葬祭でもOK、二才未満児一泊五千円、一日増えるごとに二千五百円、一回7日まで、子育て応援券、使えます。預かる施設は乳児院と児童養護施設です。数時間預かってもらう「ひと時保育」とは違うのです。一回7日まで、という仕組みです。

二才未満児を7日間、よほどのことがない限り親が知らない人に預けてはいけないと思う。日本は戦場でもないし、飢餓に苦しんでいる国でもない。それほど貧しく、それほど絆や助け合いが無くなってしまった社会だとも私は思わない。むしろ世界で一番豊かで、弱者に優しく、安全な国だと思う。欧米を追いかけるように数字が年々悪くなってきてはいます。それでも犯罪率や幼児虐待・女性虐待の発生率は欧米の十分の一以下。豊かさの中で、絆や助け合いを作ることが面倒になっているだけで、子どものために本気で信頼関係を身の回りに作ろうと思えば必ずできる国。子育て支援センターもあるし、祖父母との関係だって欧米社会ほど断ち切れているわけではないのです。

こんなことを政府や行政が少子化対策を目的に、チラシを配って薦めること自体おかしい。根底にある趣旨に、強い違和感を感じるのです。子育ては、誰がやっても同じというものではない。誰に預けてもいい、というものでもない。そのあたりの感覚を忘れ、施策を作る側、実行する側で何かが不気味に麻痺している。だから、躊躇せずに、知らない人に、乳児を数日間預ける親が出てくる。これだけたくさん区議会議員がいて、都議会議員がいて、国会議員がいて、誰も異論を唱えないのはどういうことなのか。

子どもショートステイ、預かる側の乳児院や児童養護施設は親の虐待が増えた上に人手不足もあって、余裕を持って子どもを預かれる状況ではとっくにない。それは行政が一番よく知っている。議員もマスコミだって数日調べればすぐにわかること。「慣らし保育」もせずに、知らない子どもの気持ちを汲みながら数日間面倒を見れる施設職員などどこにもいない。そういうことは子育てを体験した人ならわかるはず。

そうした現状と子どもの願いを考え合わせれば、こういうやり方は最後の最後の手段であるべき。のっぴきならない事情で、どうしようもなくなった、追い詰められた親が区役所に相談に行き、こういうのがありますよ、と教えてもらう種類のもの。チラシを配って、自慢気に宣伝することでは絶対にない。いったい誰が、このチラシで何を得ようとしているのか、みんなでよく考えたほうがいい。チラシに生活保護世帯、非課税世帯は費用免除とある。こういうチラシで親の意識を変化させてゆけば、乳児院や児童養護施設は一層、火の車になってゆく。

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人間は窮地に陥り絆を深める。そもそも信頼関係や相談相手がいなければ生きていけない。絆をつくることが人生の目的と言ってもいい。幼児を抱き、絆をつくることの目的を実感し、天に向かって本気でオロオロし、祈り、助け合って、幸せになる方法を覚えていった。しかし、最近、子育てから生まれる、人間に必要な親身な絆が出来る場面を福祉が奪ってゆく。それをすれば選挙で票が集まるとでも思っているのだろうか。

こういう仕組みを最後のセーフティーネットとして作るなら、まず、早急に乳児院や養護施設の現状を改善し、子どもを宿泊保育に預けたい人たちには、まずふだんから絆を作り、幼児の笑顔をたくさんの人々に見せ、自分で考え対処することの大切さをよく説明し、また子育て支援センターなどで友だちを作る機会を作るように促し、どうしても無理なら、それからでもいいと思う。

宿泊型一時保育(子どもショートステイ)、チラシを配っても、実際使う親はまだそんなに居ないと思う。このチラシにあるいくつかの状況を重ね合わせると、これはほぼネグレクトと言っていい。非常事態、大災害に見舞われた時ならともかく、これを行政が薦めることは、子どもの権利条約違反だとさえ思う。

 

数年前、「子どもショートステイ」に私がその時こだわったのは、子どもたちが子犬と笑っているイラスト入りチラシに、見過ごせない異常さを感じたからです。そして、それが政府の子ども・子育て会議が作ったニーズ調査に、「自治体が外してはいけない項目」として載ったからです。福祉はサービスだ、と厚労省は言います。しかし、このサービスに慣れることが、子育ての意識を一気に変えてゆく。社会全体で、何か大切な感覚が麻痺していく。

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カリフォルニア州ストックトン市、とてもいい街だったのに投資の失敗で破産宣告。警官を25%削減し一気に犯罪都市に。税収と福祉、教育、司法などの仕組みに頼る人間社会の危うさと脆さがそこに読み取れます。絆で保たれる安心感、人間性から生まれるモラル・秩序が失われた国の宿命ともいえる風景です。弱者の存在意義を忘れ、力で抑えても、力を失えばあっという間に、無秩序になる。

(母子家庭から子どもとりあげて政府が育てようとしたタレント・フェアクロス法案を思い出します。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1054)

家庭への回帰・新制度の矛盾と危うさ・「子育ての市場原理化」からの方向転換・日本の役割

福井県議の中井玲子さんからメールをいただきました。
県議会での中井さんの質問に対する教育長答弁です。
:保護者の「一日保育士体験」につきましては、家庭教育の向上にも役立つということで進めているところでございまして、昨年度、県内の約65パーセントの226園で実施され、約14,000名の保護者の方がご参加いただいて、年々増加しているところでございます。
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14,000人は素晴らしい数字です。
県のホームページを見ると、アンケート調査で、やった人の97%が「とってもよかった」と「よかった」と答えています。親たちがそう答えていることが、この国の救いになる日がきっとくる。保育園や幼稚園で、幼児たちに囲まれば、ほとんどの人が自分のいい人間性を思い出して、それを嬉しく思う。それがスタート。そして、自分も昔、そこに居たことがあって、その時どんなに幸せだったかを思い出すはず。
こうした幼稚園・保育園を使った原始の魂の復活がまだできることが、この国の素晴らしさだと思うのです。
早く、子育てに関する施策の方向転換を、子どもの方に視線や心が向く方向にしてほしい。
「頼りきって、信じきって、幸せそう」な幼児たちの遊ぶ姿を眺めれば、経済競争や「自立」とはかけ離れたところに「幸福感」があることに気づき、男たちも、子どもの気持ちに還って、あっという間に楽になれると思うのです。自分の遺伝子の働きに、自信を取り戻せると思うのです。

          2016/ 6/24 15:33

イギリスのEU離脱という選択は、これから様々な不幸な問題を引き起こすかもしれません。しかし一方で、経済主体ではない、国の心持ち、あり方の方が大切だ、という意思表示でもあると思うのです。そういう時代になってきている。
移民による安い労働力を使って国が儲けるより、日々の生活が信頼関係に囲まれることの方が幸せかもしれない、という昔に帰ろうという選択でもあります。しかし、すでにこれほど多様な人種や宗教が入り混じった欧米諸国で、この動きは同時に排他的な民族主義につながってゆくのです。引き返そうとしても、その道はすでに混沌でしかない。
日本人は、一歩進めて、国のあり方ではなく、人生のあり方、という方向に向かうことができるはずです。

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この国は、まだ家庭への回帰ができる

保育、つまり「子育て」に関わる、政府による規制緩和と待機児童対策がすでに行き詰まっています。

各地で、急速に進んだ保育士不足が、保育界を窮地に追い込んでいます。今回の「子ども・子育て支援新制度」は施策の組み合わせ、その進め方が現場の実情とかけ離れ、乱暴過ぎた。何よりもこども優先ではない。元々消費増税を財源にし、それを上げても毎年四千億円足りないと言われていたのです。二年目に入り、矛盾と歪みが噴出しています。危ない領域に入ってきました。

親にとっての利便性と、政治家にとっての選挙が結びついたのか、それとも政府主導の経済成長を念頭に置いた市場原理化によって、損得勘定が保育界を支配し始めたのか、本当に保育が必要な人たちを飛び越えて、親たちの子育てに対する意識が予想以上に変わり始めているのです。

「保育園落ちた、日本死ね」ブログのように、自分の子育てを簡単に他人の責任にする風潮が加速度的に広がっています。これには保育界も、保育者も対応できない。政治家たちが、乳幼児たちの思いを想像していないところに根源的な問題があります。

 

「幼な児のような心にならねば。天国には入れない」

「幼な児を受け入れることは、神を受け入れること」

キリストの言葉と言われますが、人間は「幼児と心を重ね合わせること」で、その人間性を持ち続けようとした。仏教にも、インド哲学にも、ネイティブアメリカンの神話にも、それと似たような教えや伝承があって、人間は、幼児に寄り添うことで人間だった。

 

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先日、地方で、園舎建て替えの補助金が必要で、市の方針に沿って幼稚園を認定こども園にした園長先生に、これから先どうしたらいいのか、深刻な相談を受けました。

(認定こども園:幼稚園が3歳未満児を預かったり、長時間こどもを保育できるようにし、保育園もこども園化することによって、預かり方の規制緩和をした仕組み。こども園に移行すると施設補助が出るなど様々な特典がある。待機児童対策の柱でしたが、実勢は広がりが鈍く、政府は施策の柱を園児数6人〜19人で保育士の半数が無資格者でいい小規模保育に切り替えている。)

子ども・子育て支援新制度は改革の規模や方向が多岐にわたりますが、表紙を取り繕っても、根底にあるのは労働力を増やそうという経済施策です。政府が意識的に、その意図を放棄し、止めない限り簡単には止まりません。

当然のように、いまだに末端で、子ども・子育て支援新制度の矛盾や無理に気づかず、それを進めようとする市長や役人がいます。改築費や増築費など、国からの補助金をチラつかせて無理やりにでも(表向きは)待機児童対策としての「こども園化」を進めようとする。しかし、国の言う「保育園のいいところと、幼稚園のいいところを併せ持つ」などという仕組みは、そう簡単にできることではない。現場が運営方法を熟知していないと、税金を使って、国が子育て環境を壊しているようなもの。困るのは、おかしいな、できるのかな、と思っても建て替え時期と重なったり、園児数を増やしたいという流れの中で、こども園に仕組みを切り替える園長・設置者もでてくる。

 

「今、認定こども園を始めても、0、1歳を預からないならいいですが、もう探してもいい保育士がいませんよ」

私が、そう説明するだけで、現実を感じ始めている園長は頷くのです。幼稚園の先生だっていいひとを見つけるのが大変になってきているのです。

「都市部では、小規模保育や家庭的保育事業など、規制緩和で始まった新規参入組と既存の保育園との間で、保育士の取り合いが激しくなっています。募集しても応募が一人もなく、仕方なく派遣会社に頼ると、資格を持っているだけのとんでもない保育士を平気で派遣してくることだってあるのです。派遣会社はどんな保育士でも三ヶ月続けば派遣料がとれます。そんな派遣会社でさえ、保育士を集めるのに苦労しています。そこに市場原理が働いて派遣料が上がり、時給二千円という地域も出てきて、市の補助だけではもたなくなってくる。退職金をつぎ込んで、小規模保育や障害児のデイなどを始めた人たちが、屋根にあげられてハシゴを外されそうになり、必死になっているのが現状です。

0〜2歳児の保育は保育士の人間性が一番問われます。複数の未満児を一部屋で見るには、優しく温かい保育士がいて、同時に、緊急の場合を想定して、しっかりと対応ができるベテラン保育士も必ず一人は居てほしい。救急車を呼んでいたら手遅れになる場合もあるし、モンスターペアレンツが怒鳴り込んでくることもある。0〜2歳の保育は教育ではありません。子育ての代行です。幼稚園とは責任の種類が違います。くれぐれも、そこを間違わないでください。

 

人間は、幼児と関わることによって自分のいい人間性を体験しようとする。だからこそ信頼関係がないと、保育士たちの保育に対する気持ちの温度差が、同じ部屋にいるいい保育士たちに辛い状況を生む。他の保育士のちょっとした子どもの扱い方、声の掛け方に、とても心を痛める保育士がいる。毎日続くと、いい保育士からやめていく。保育士の就職口はいくらでもありますから、もっといい雰囲気の保育所を探そうとする。でも、その時子どもたちが残される。

まず基本的な状況説明をします。そして、もう少し本質的な問題を説明します。

「3歳まで家庭で親に育てられた子どもと、0歳1歳から園で保育士に長時間集団で育てられた子どもでは、出来ることがずいぶん違います。まわりの人間との体験の質が違うのです。それは異文化、異宗教で育った子どものような違いで、政府の都合、大人の都合で安易に混ぜてはとても残酷なことになります。いきなり一緒にしては絶対にいけない。

親や家族に育てられた子どもは、乳幼児期という脳の発達に一番影響が出る三年間を、通常いくつかの同じ目線に囲まれ、限られた、しかし安定した環境で育ってきている。自分が王子様王女様、それが普通です。その自然な家庭での積み重ねが無意味になるどころか、逆に、保育園育ちの子どもたちとの間にギャップがありすぎて、幼児には理解できない戸惑いと混乱を招くことがあります。半年間は一緒にしない配慮が必要です。この時期の子どもの悲しみは、言葉の問題があって、察知するのが難しい。そして、おかしいな、と思った時にはすでにかなり辛い思いを体験していることがある。

親たちも幼稚園組と保育園組では、感じがずいぶん違う。なかなか混じろうとしない。プライドの置きどころが違いますから、園全体の一体感を保つのがとても難しくなります」と、新しい仕組みの、まだ解決方法さえ定まっていない問題点を説明します。

私にしてみれば、状況は確かにいろいろにありますが、一般的に言って、3歳まで家庭で育った子どもと保育園で育った子どもをいきなり混ぜる可能性のある「認定子ども園」を、独自の指針もできないうちに始めようとした段階で、国は保育のことも子育てのことも知らないか、関心がないかのどちらかだと思っています。経済優先で新制度を始めていると思います。専門家と呼ばれる人たちが居ながらそれを認めてしまった、11時間保育を「標準」と名付けてしまった「子ども・子育て会議」の責任は重いと思います。

「幼稚園をやっていたから保育園はできる、という考えを持っているなら捨てた方がいい。危ない。保育士を募集しても倍率が出なければ人を選べない。そこが乳幼児保育にとっては致命的なのです。派遣会社を絡めた、悪い保育士のババ抜き状態になっている。良くない保育士を雇わなければならなくなると、園長にとっても地獄です。園長やめるか、良心捨てるか、みたいなことになって、長年保育園を運営してきた園長でさえ、自分自身の感性を抑えるか、失ってゆくことになる。そうなっては、この仕事をやってきた意味がないと思います。子どもたちの幸せを願って園を始めたはずです」

しかし、もう建て替えも始まっていて引き返せない。

園全体の雰囲気、質を落とさないためにも、

「いい保育士がいなければ、3歳未満児を預からないこと」、「なるべく派遣には手を出さないこと」、「保育園でも、いい保育士が揃わないため、すでに来年0歳児をやめるところ、定員を減らす園が出ていること」、などをお話ししました。

幼稚園経営をしてきた人たちの中には、親との関係も含め、愛着障害が原因の噛みつきの問題など、保育園が直面している難しい現実、現状をまだ知らない人が結構いるのです。国や学者が薦めているから大丈夫、いいこと、と思ったらとんでもない落とし穴がある。

 

3歳未満児を保育していて、一番困るのは、年度途中に保育士が辞める場合です。これがいま頻繁に起こっている。そこで、国基準を割ったからといって、突然園児にも退園してもらうことができないのが「保育」です。そのあたりをしっかり説明せずに、自分たちの思惑と思い込みで綱渡りのような施策を進める市長や行政には、通ってくる幼児たちの生活が見えていない。

(新制度の矛盾と危うさは、市長が保育の大切さを感じ、数人でいいから、その街の園長先生たちに「新制度をどう思いますか?」質問すれば見えてくることです。しかし、それをしない。毎年、何人か市長を説得する機会をもらいます。保育団体の勉強会で講演する時の前後に保育者たちがそういう場を作ってくれるのです。園長先生たち、役場の保育課長さん立ち会いの元に、三十分も説明すれば市長たちはすぐに理解します。)

確かに、少子化が進み、幼稚園という形では生き残れないという地域があって、親の子育てに対する思い入れや意識が変化してきたいま、こども園という長時間保育の形が「園存続の手段」になるのも仕方ない場合があります。しかし、国全体の保育人材と財源のめどが立っていない状況では、子育て支援センターや子育てサークルなどを増やし、その質を向上させ、家庭への補助を充実させることで、「できる親は自分で育てる」という方向に転換するしかない。すでに待機児童を預かるやり方で保育の質を保つのは不可能な状況です。老人介護が、なるべく在宅で、という方向に向かっているではありませんか。同じこと。福祉には限界がある。財源が無限でも、人材とその質という面で必ず限界はくる。それが人間性というものです。

保育と老人介護の違いは、保育者と親との「子どもを、一緒に育てる」という関係が、老人介護の一緒に世話するという関係よりもっとずっと大切で、場合によっては、ほぼ、「園が、親を育てる」という関係に近い、ということなのです。

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「三年前、すでに保育士を見つけるのは困難だったのですから、今の状況は誰でも予測できたはず。自民党の少子化対策委員会でも、厚労部会でも説明させてもらったし、衆議院の税と社会保障一体化特別委員会でも、公述人に選んでもらいました。それでも『経済優先』で新制度は始まった。そして、マスコミの報道も手伝って、0歳児を預けることに躊躇しない親たちが確かに増えてきている。政府はそれを目指したのかもしれませんが、この意識の変化が国全体の福祉や教育に与える影響は計り知れない。首相が国会で女性が輝くためにもう40万人未満児を預かれ、と言った時点で、なぜ厚労省の役人たちは、それは無理です、と真面目に、真摯に反対しなかったのか。そこが、どうしてもわからない。」

 

政府の緊急対策

政府の緊急対策の一つ、保育士の待遇改善で月額六千円(?)アップ。焼け石に水の金額です。この金額で保育士不足を補えると本気で思っているのでしょうか。

ここ数年、待機児童を減らそうとしたいくつかの施策の結果、待機児童はますます増えている。しかも25〜44歳の女性の就労者数は横ばいで、増えなかった。イメージだけの税収増対策だったことに政治家も気づいたから、本気で待遇改善する気がないのではないか。つまり待遇改善しても、保育士が増えても、女性の就労者が増えなければそれを賄うだけの税収増にはならない。だから躊躇しているだと思います。

撤回すべき政策は撤回すべきです。「起業家たちや学者が薦めた、幼児の育ちを無視した」考え方だけは、早く改めてほしい。子育てに関わる施策は、将来のこの国のモラルや秩序に関わる問題です。経済施策の失敗よりはるかに将来にわたってのダメージが大きいのです。

もちろん今の政府の方針は、主に民主党政権から三党合意で受け継いだもので、民進党だけでなく、その他の野党も、同様に保育の問題を「子育ての問題」とは捉えずに、「待機児童をなくすこと」「女性の就労支援」と見ているのですから、自民党政権だけを責めるつもりはまったくないのです。政治家は「保育の質」の意味と大切さを本気で学んでほしい、そして、思惑と結果の違いに気づいてほしい、それだけです。

 

マスコミも、政府が保育士不足が危機的になるほど保育所を作り小規模保育、家庭的保育事業、子ども園制度と矢継ぎ早に規制緩和をして、結局、25〜44歳の女性の就労者は思い通りには増えていない、ということをしっかり報道してほしい。

保育の新制度を雇用労働施策、就労支援と位置付けた政治家の読み違いが、保育崩壊を生んでいることを検証し、報道してほしい。

15年前に始めた少子化対策「エンゼルプラン」も、結局出生率をより下げることにしかならなかった。「子育て」を、政府が保育園を増やして代わってやれば、子どもをたくさん産むだろう、などという考え方は、日本人を馬鹿にしている。「自分で育てられないなら産まない」という考え方のほうが、日本的だと思うし、この国を支えてきた美学がそこにあると思うのです。

なるべく親が育てる、方向へ転換しなければ、待機児童の問題は解決できない。直接給付、子育て応援券、支援センターの充実や子育てサークルへの補助、方法はいろいろあります。いま保育施策にかけている税金の範囲内で、親も納得し子どもも喜ぶ「待機児童解消方」を積み重ねていけば、学級崩壊やいじめ、不登校や犯罪などの問題が将来にわたって改善されてゆくはずです。

 

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「すくすくジャパン」

知らない人が意外と多いのですが、3、4、5歳児は幼稚園と保育園でほぼ全員預かっています。首相の言う、あと50万人保育園で預かる、は実は「0、1、2歳児をもう50万人預かる」ということです。ですから、預けられる当事者の人たちの「願い」が見えにくい。言葉がうまくしゃべれないからです。だからこそ、その人たちと関わることによって、人間は他者の「願い」を想像し、それに気を配ることを学んだ。その「気配り」が社会全体の安心につながっていた。

 

子ども・子育て支援新制度の、内閣府がつくったパンフレット「すくすくジャパン」の表紙に、「みんなで子育てしやすい国へ」と書いてあります。

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「子育てしやすい」が保育園を増やすことなら、政府は、子育ての意味がわかっていない。

子育てはもともと「損得勘定を捨てることに幸せをみつけること」。

子育ては「社会の最小単位である男女が、お互いのいい人間性を眺め、実感すること」だった。

子育ては「他人の気持ちを理解しようとすること」。

それは、資本主義の「成長」を求める仕組みとは、相容れない。経済学者がいまだにそれに気づかない。もういい加減にしろ、と言いたい。愚かとしか言いようがない。

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この「すくすくジャパン」、表紙の絵、そのコンセプトがあまりにも稚拙です。こんなイメージで内閣府の役人たちと内閣が保育園を見ているのだとしたら、保育士たちの現実とは離れすぎている。このパンフレットを作った人たちは、四月の慣らし保育の時の幼児たちの叫びを一度聴いてみるといい。「ママがいい、ママがいい」と泣く子どもたちの悲鳴に人間として接してみるといい。その時の保育士たちの心の痛みを経験してみるといい。

この絵が、幼児たちが、お母さん、お父さん、祖父母の膝に向かう姿ならわかる。しかし、この意図と構図はあまりにも人間離れしている。

この表紙を見た親たちが、赤ん坊を保育園に預けても大丈夫なんだ、いつも楽しい時間を過ごせるんだ、と勘違いしたら、これは国によるひどい誤魔化し・誘導です。厚労省が報告しているのです。立ち入り調査をすると、「指導監督基準に適合していないベビーホテルが50%、それ以外の認可外保育施設が37%」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=274。にもかかわらず。ベビーホテルもその他の認可外も、立ち入り調査未実施数が26%。その現実を、この表紙の絵は現わしていない。

「ジャパン」という英語を使えば進歩のように聞こえる、と思うのは子ども騙しで、姑息、国辱的です。この表紙によって、より多くの母親たちを誘導して経済競争に参加させようという意図的な洗脳なのであれば、これはもう愛国心のかけらもない施策です。もう少しこの国のいまの在りように誇りを持たないと、やがて、家庭崩壊が「欧米並み」になってしまいます。

「ジャパン」などという英語を使うのも、「欧米並み」に女性を働かせよう、という意思がそこにあるからでしょう。そうすれば「女性の地位」が欧米並みになって、日本も国際化する。国際社会(欧米社会)で日本の政治家が後ろめたさを感ぜずに済む、ということかもしれません。でも、国際化なんてする必要はない。国連などでいう「女性の地位」は、パワーゲー、マネーゲームの中のことであって、位置付けの仕方としては偏っている。主に経済競争における勝ち負けの視点で、幼児たちの視点からは大きく外れている。だから、欧米では、女性虐待と児童虐待が人口比率で、日本に比べこれほど極端に多いのでしょう。(だいたい、10倍から30倍。)これで、本当に女性と子どもが幸せなのか、国連に向かってそう言い返してあげる方が、よほど敬意を払われるはずです。現在行われているアメリカの大統領選とEUの混迷を見れば、欧米が歩んだ道を真似するのは躊躇しなければいけない。この国の個性を日本人が理解し、それに誇りを持ち、福祉や教育において欧米とは異なる道を自ら選択した方が、混迷する世界全体に良い影響を及ぼすことができると思うのです。

 

マザー・テレサの言葉・死を意識すること・専業主夫歴13年の方のツイート・メール二通、と返信

この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、「自分は誰からも必要とされていない」と感じる事なのです。~マザー・テレサ~

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(幼児を育て、全身全霊で信じ頼ってくれることに感謝していれば、それが実感できる。)

 

死を意識する

以前、インドの村に居て感じました。いまほど豊かでもなく、医療も発達していない状況の中で、幼児に頼られ、信頼され、親心という人間性を育てられた親たちは、自分はいつ死ぬかわからない、ということを強く意識するようになる。そして、自分が死んでも子どもが生きていけるようにまわりに、信頼関係の絆を作るのだと思います。人類が進化してゆくための本能の絆です。

「死」が「生」に貢献する。人類はこうして、「助けあう絆」「頼りあう絆」「信頼しあうきずな」を常に日常生活の中で育てながら一緒に生きて来ました。その出発点に、乳幼児から私たちに向けられた無心の信頼があった。

 

親たちが、子育てを自分でしなくなってくると、この人間が信じあおうとする本能が働かなくなってくるのです。

 

専業主夫歴13年の方のツイート:本当にそうですね。

『子供は親の笑顔を見ることが幸せ』という言葉をよく聞く。私はこの言葉が好きではない。何故なら『親が好きなことをやるのが子供にとっても幸せ』と解釈する人が多いから。子供が親の笑顔を好きなのは『一緒に笑いたいから』なんだ。そして時には『親と一緒に泣く』ことだって子供にとっては幸せだ。

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自分自身を体験する

男性園長に、いやいや一日保育士体験を命ぜられた体育会系の父親が、お昼寝の時間に、寝付かせようと娘の背中をトントンしていて、ふと「おとうさん、ありがとう」と言われて、涙し、「やってよかった」と言って園長に言って帰っていった。父親が、自分のいい人間性を体験する。子育ては、親たちが自分の良い人間性に感動すること。こういう体験を積み重ねて、人間社会は成り立っている。

 

メール二通、と返信

講演会を聴講させて頂いたM.Hと申します。

先日は、茅野市立北部中学校での講演をありがとうございました。実は、私は松居さんの講演は、2回目でした。茅野市立北山保育園に子供が在園中にも一度聴講させて頂いておりました。

最後に本当は質問がしたかったのですが、あの場でこういった質問をしてよいものか疑問に感じた為、松居さんのホームページから、質問させて頂く事にしました。

夏休み明け前から、全国的に中学生などの自殺のニュースなどが飛び交っていました。

学期始めなので、不登校などいろんな問題が起きる時期ではありますが、日にちが変わろうとする前のニュースの最後に「明日学校へ行きたくないと思った君たちへ」(すみません、おそらくタイトルは違うかもしれませんが、このようなニュアンスの題名でした)といった感じで、何らかの理由で不登校になってしまった子供たちへ向けたメッセージが流れていました。「学校へ行きたくなければ、行かなくていいです」と言う内容がとてもひっかかりました。

 

ある図書館の司書の方が、学校へ行きたくなければ図書館へいらっしゃいとおっしゃっていらっしゃいました。図書館なら、一日居ても誰も何も言いませんと。私は子供が一人で学校へ行く時間に、違う場所に居たら、声を掛けるべきだと思っていたので、そのメッセージもしっくりと来ませんでした。他人様の子供であっても、悪い事や危ない事をしていれば、少なからず注意をしたいと常日頃考えていて、やってきました。

これらのメッセージが「今ある辛い事から逃げる事は決して悪い事ではないよ。今見えている世界が世の中全部の事ではなく、生きていれば違う世界だってあるんだよ。」という事が言いたいのだろうな…、という事はなんとなくは分かるのですが、学校を無断で休むことはいけないと言う認識の中で教育を受けて来ている私の様な親や子供たちに、「学校へ行きたくなければ行かなくて良いのだよ。」と、突然言われても、その認識を取り去る事が出来ない限り、罪悪感に襲われる事は間違いないと思うのです。

私の様な親は考えが古くて、不登校の子供を傷付けてしまうのかもしれませんが、わたしはやっぱり不登校は原因が学校の中にあったとしても、一番は家庭の、家族の問題なのかなぁ…と感じてしまうのです。

学校へ行かずに逃げて、また次の所でもうまくいかずに逃げて…結局、立ち向かう事を学ばないで大人になった時、苦労するのはその子供自身なのではないかなぁ…と感じてしまいます。

だから酷な事だとは思っても、自分の子供には立ち向かう事をついつい、勧めてしまいます。

パパもママも一緒に戦うよ!と。

もちろん、自分の子供が加害者になる事だってあると思っているので、その時の事も考え、子供とそういった事も話したりします。

友達にそういった事を話すと、「でも、子供によって強くいえる子と、そうでない子も居るから、一概に立ち向かえ!と言うのは難しいよね…」と言われ、自分が子供に教えている事は子供には酷な事なのかなぁ…と、感じる事もあります。

話が長くなってしまい申し訳ないのですが、松居さんはこの子供たちの自殺問題や世の中の対応の仕方について、どの様に感じ、どの様な考えをお持ちでしょうか?

お時間のある時で構いません。お聞かせ頂けたら、有難いです。最後までお読み頂いてありがとうございます。そして、講演をありがとうございました。

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M.H様

ご指摘の違和感、私も感じていました。

大人たちが、懸命に対処しようとしているのはわかりますが、子どもたちの悩みは質も深さも種類も様々で、一律にこうすればいいのでは、ということは出来ません。だから私は、「子育ては親がオロオロしていれば、だいじょうぶ」といういい方をします。「オロオロ」に無限の可能性と余韻を求めて…。

最近、多くの人々がどこかに正解があるように教え込まれ、それを仕組みの中に探そうとします。それをマスコミが、とにかく色々報じようとする。ところが、親たちだけでなく、仕組みも混乱している。

(学校に行きたくなければ図書館があります、という語りかけは、元々アメリカで始まったものですが、アメリカの公教育ではイジメも暴力事件も日本とはその規模と次元が違います。都市部では、殺された友人が居る、と答える高校生がクラスで半数という学校があります。そういうことも同時に報道されるといいのですが。)

学校教育ははじめからかなり不自然な仕組みで、それを絶対的に認めてしまうと永遠に答えは出ない。その対処が、逆に問題を大きくしてゆく場合が多い。特に、学校教育や福祉といった人間性を補う最近出来た仕組みは、親が親らしいという前提のもとに作られているので、それを忘れると負の連鎖に入ってしまいます。

私には「親がその子の幼児期、本質を知り、本気で心配していれば、どういうやり方でもいい」、という答えしか出ない。子どもにとっての環境は主に他の子供たち。すなわち、他の子どもたちの親たちがどういう親か、が「環境」です。ですから、親たちが幼児期の自分の子どもになるべく接し、成長をみんなで「祝う」機会を復活させてゆくのがいいと思います。

幼稚園や保育園の卒園式に来る父親が増えています。みんな気づき始めている、求め始めている、と考えるようにしています。

不登校の問題に関して、親が子どもに何をどう薦めるか、は親にとっては「賭け」のようなところがあって、やってみて「祈る」しかない。昔からそうだったと思います。この「祈り」が通じるためにも、子どもが生れて数年間親はその子の成長を『祝い』続けなければならない、そんなことが隠された法則のような気がします。

そして、もし親が児童文学に興味があれば、時々「長くつしたのピッピ」(リンドグレーン作)や「農場の少年」(ワイルダー作)を読んで、学校の位置づけを思い出すといいのかもしれません。いい児童文学は子どもの視点を憶い出させてくれます。読み聞かせると、感性をシェアすることができます。

少し書きにくいのですが、自殺について。

太宰、川端、三嶋、ヘミングウェー、未遂も含めれば、シューマン、チャイコフスキー、ベートーベンも危うかった。

「感性豊かな子ども」を教育が求め、自殺の多さを問題視するのは、たしかに矛盾していると思うのです。その辺に、「教育」のごまかしや浅さ、限界を感じます。もし真剣に生きなければ、感受性が強くなければ、そこまで追い詰められることはないかもしれない。いい加減に、適当に、鈍感に生きていれば、そんなことにはならないかもしれない。

知恵として、手段として、時々「いい加減に、適当に、鈍感」になることは大切だと思うのですが、そういう言い方はあまりしない。

学校に行きたくない、というのは、学校の不自然さに社会全体の感受性や責任感のなさが加わった現在の環境に対する、感性ある、ある種のことに敏感な子どもたちの「反応」なのだと思います。私たちの育った時代とは、すでに学校の雰囲気や、人々の心の中での学校の位置づけが違うのだと思います。だから、それをリアルに体験していない者としては、助言がとても難しい。

ただ、多くの子どもたちが新学期を楽しみにしているわけで、そのことに対して親たちがもっと感謝すれば、それが一番いいことなのだと思います。

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松居 和 様

 

早速のお返事ありがとうございます。松居さんに頂いたお返事を、先日の講演会に一緒に参加した主人と共に読ませて頂きました。

感受性豊かな子供達が、今の社会に敏感に反応している…ずっと閊えていたものが一瞬にして消えました。

そうですね。確かに。

繊細が故に、沢山の事を想い感じ、考え、自分で苦しくなっていってしまう。

松居さんのお話を受け、主人と話したのですが、やはり親の在り方が一番おかしくなり、それに応えようとおかしな仕組みが出来、子供ではなく自分達を守らなくてはいけなくなった学校の在り方もおかしくなった。学校の先生はどんどんと追い込まれていき、先生方も苦しい環境に考え方がおかしくなる。表面上では親も、先生も、学校も「子供」を守るとしているものの、蓋を開けてみれば子供は守られていない。まさしく、松居さんのおっしゃる負の連鎖ですね。

私の中学時代も今とは異なるものでしたので、時々子供に話はするものの、時代背景が違うので言葉や内容を選びながら話す事が多々あります。

私は部活は剣道部に所属し、とにかく稽古がきつかった。部員全員が一致団結していないと、精神的に崩れてしまう様な気がして、とにかく部員の絆は深かった。顧問の先生はとにかく「怖い」という印象しかなく、先生が用意した遠征試合などに「行きたくないなぁ…」などという態度が少しでも見られれば、頬をビンタされていました。礼儀と志についてはとにかく厳しかった。皆で、「絶対にあいつ(顧問)には負けない!」という思い一心で中学の三年間を過ごしたのが懐かしいです。

それでも、顧問の先生は夏休みの10日間を除いて、毎日の朝、午後の練習、土日の練習、そして公式試合が試験期間に近ければ、親に向けて稽古の承諾書と、試験期間は子供たちの勉強は自分が見ますというお知らせを書いてくれ、試験前、期間中の部員の勉強は集中して2時間稽古をした後に、お弁当を食べ、顧問の先生と一緒に試験勉強をするなど、とにかく剣道と子供たちにずっと目を向けていてくれました。

「私たちが一生懸命に剣道に打ち込めるのは理解してくれる親御さんが居るからだ!だから、お前たちが剣道の練習量のせいで学業の成績を下げるという事は許されない。」という事を三年間ずっと聞かされていました。

そして、親もそういう状況に物申さず、承諾してくれてお弁当を作ってくれたり、朝早く送り出してくれたりと、私達子供に目を向けていてくれました。顧問の先生はそれを私達子供にだけ「やれ!」という形ではなく、自分が子供達と一緒になって苦労する事をしてくれていました。剣道で怪我をすれば、病院へ連れて行ってくれたり、どうやったら怪我が少しでも早く治るかなど考えてくれたり…。おそらく、親よりも長い時間一緒に居た様な気がします。

そして、学校の先生方全員が、生徒の色んな情報を共有してくれていたのも覚えています。怪我や病気をすれば、学年の違う先生から声を掛けられたり、けがをした時に、病院へ付き添ってくれたり、剣道部では無いのに、手が空いていれば学年、部活の垣根を越えて生徒の為に、他の先生の為に動いてくれていたのだと思います。だから本当に大嫌いな顧問でしたが(笑)愛情を感じていて、高校生になっても中学校へ足を運んでいました。もちろん、親に反抗もしましたが、何かあれば親がついていてくれる…という安心感が心のどこかにずっと有った気がします。そして感謝しています。

現在、顧問の先生は神奈川県の中学校で副校長先生をやられていると伺いました。

卒業する時に、「君たちはこの三年間、この厳しい稽古に耐えて来られたのだから、これから先ちょっとやそっとの事でへこたれる事は無いと思う。恐らく、大学生位までは大丈夫なはずだ。だから、やって来た事に胸を張って前に進んで行きなさい。」と言われたのを今でも覚えています。ですから、本当に子供時代は幸せだったと感じています。

今はこういった経験を子供たちにさせる事はほぼ出来ないので、自分達親がこういった環境を作ってやろうね…そんな風に夫婦で話しています。

またニュースの話になりますが、2020年の東京オリンピックに向けて日本の「おもてなし」を子供達にもしっかり学んでもらおう…という事で、各小学校に、おもてなしのプロフェッショナルを迎えて講義をして頂く…というのがやっていました。一瞬で終わったニュースでしたが、疑問がいっぱいです。

本来ならそんなもの親が教えていくもの。近所の人達で教えていくもので、「元気に相手の目を見て挨拶をする」なんて事は、小学生に上がる前にはできる事だったはず。

それを税金を使って全国教えて回るなんて、一体何事だろうと…。

親の存在は一体なんなのか?

子供の前に、親を教育する必要があるのではないか?

日本には「おもてなし」の心が有ると、オリンピック招致スピーチの時にプレゼンしたはずなのに、おもてなしの心は日本に浸透していないではないか…。後付けの内容で呆れてしまいました。世界中に嘘のスピーチをしたのも同然です。こんな世の中であっても、望みを捨てずに講演を続けていらっしゃる松居さんに感謝しています。

松居さんの講演を聞いての、学校の先生方の意見や感想も親としては聞いてみたいなぁ…という思いが有ります。そして、松居さんの講演は学校関係者だけでなく、命の産声が上がる、医療機関の方々にもぜひ聞いて頂きたい内容だと強く感じています。

私自身、どちらかというと白黒つけなくては気が済まない性格が災いする事が有るので、子供達にも少々その気があるな…と、感じ反省する事もあります。中学生の娘には、自分の事を棚に上げて、「こうでなければいけない!と常に周りの物事に対してイライラしていると、自分が苦しくなってしまうよ!」なんて助言をしたりしています。

私も、「オロオロ」して子育てに、自分育てに奮闘します。

「長くつしたのピッピ」や「農場の少年」、私も購入して読んでみます。

以前、スウェーデンへ訪れた際に、長くつしたのピッピは本当に国内中に溢れていて、国民に愛されているのだなぁ?という事を感じました。私は子供の頃読書はあまりせず、得意ではありませんでしたが、自分たちの子供には小さな頃から絵本の読み聞かせをしてきました。そしたら親の半面教師でしょうか…本が大好きな姉弟になっています。おもちゃやゲームの類はほとんど買いませんが、本は財産になるから良いよ…と、家族で共有しながら本を楽しんでいます。

お時間を作ってお返事を下さり、本当にありがとうございます。

H.M

 

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松居和様

 

いつも「シャクティ日記」を拝読し、参考にさせていただいております、大阪市在住のK.I.と申します。

今年に入ってから、なんとなく手に取った「愛着障害」についての本をいくつか読み、ネット上でも「愛着障害」について色々検索していく内に「シャクティ日記」と出会いました。

私は子どもを0歳児から保育園に預けて働いていましたが、愛着障害についての本や「シャクティ日記」に出会ったことをきっかけに、先月末で退職して現在2歳4ヶ月の子どもと、家で過ごしています。保育園では概ね楽しく過ごせていたようで、大好きな先生方やお友達を作ることができました。私と二人だけで過ごしていては経験できなかったことも沢山ありました。

保育園に通わせているお母さん方の中に、「子どもと家でずっといるのは私には無理」だとおっしゃる方が沢山いて、経済的な理由で預けていらっしゃる方の方が少ないのではないかと思いました(厳密に言うとうちもそうです)。

また、専門職で、子どもを産む前からその分野で社会貢献することに強いこだわりのあった先輩もいて、現在二人目を出産したばかりですが、子育てだけに「縛られる」ことは良くないと考えていらっしゃるようです。

私自身、仕事を辞めるにあたって相当悩みましたが、結局何が正解なのか見えてこず、人によって外で働くことでバランスが取れているのであれば、それはそれで間違った選択肢ではないように感じています。

でも、あくまでもこれは身近な現実のみを見て感じていることなので、このままでは将来、松居先生が危惧されているような事態が起こってくるのでしょうか?

末筆ながらますますのご活躍をお祈り申し上げます。

K.I

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お手紙ありがとうございます。

とてもよくわかります。

保育園で0歳から育ったから、必ず子どもがこうなる、ああなるということではないのです。たぶんもっと不自然な環境で、例えば貧困とか、戦争とか、不慮の事故とか、思いもよらない環境で立派に育つ子どもはいくらでもいました。でも、それは社会にそうした状況を補いあう人間関係があれば、ということだった気がします。

いま先進国社会で起こっている状況、特に親心の希薄化が原因になって起こる保育の質の低下はブログに繰り返し書いている通りで、そういう保育士の当たり外れが激しくなっている状況を知れば、三歳未満児は預けない親たちは相当数いると思うのです。社会全体の変化のことを言えば、カナダで行われた調査などを見ると、やはり保育施設の普及による愛着関係の不足は、社会全体が荒れてゆく大きな原因になっているのだと思います。

http://itsumikakefuda.com/child_Quebec.html

私の視点は、どちらかと言うと、子育てを、子どもがどう育つかということより、「親たちの体験」と捉えて、子育てとキャリアの両立ということはあり得ない、その体験をするか、しないか、であって、出来ることなら乳幼児とのこの体験だけはなるべく多くの人たちがした方がいいのではないか。そういう空気が感じられる社会であってほしい、ということなのです。

確かに、子どもとずっと二人きりで一緒にいるのは、不自然だし、無理と思っても普通だと思います。3、4人の大人たちが一緒に、または入れ替わり立ち替わり、見守る、それが人類の歴史だったと思います。子育て支援センターを中心に、親子を引き離さない施策を中心にやっていけばいいのだと思います。そういう方法で、幼児たちの願いを優先して未満児保育を行って行けば、保育はまだ成り立つ可能性を持っていると思います。

このままでは、家庭も保育も学校も、共倒れのようになってゆく。それだけはなんとか防がないと、という気持ちでやっています。

二歳四ヶ月、羨ましいです。

松居

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(親たちにハッキリ発言し始めた、ある下町の園長から)
昨日、全体保護者会・父母会を行ったのですが、参加が出来なかった数人の親御さんから「参加できずにすみませんでした。」との言葉を初めて頂きました。
保護者会では家庭にとって厳しい話もしましたが、「我が子のため」が伝わると皆さんうつむきからうなずきに変わりました。
父母会では、ただただ親御さんのご苦労と感謝の意、加えて大人の繋がりが子どもの安心に繋がる話を述べさせて頂いたら、今年度の役員を受けてくださる方が直ぐに決まりました。
27年度の利用者アンケートでは、初めて不満が0になりました(もちろん細かい部分でのご意見は頂いていますが(笑))
和先生と出会い、JCを通じて一緒に事業を行い、平行して園の組織改革を行い、親心を喚起する意識を職員に植え込み、親御さんには敢えて入園前に厳しいことを伝えさせて頂くことで、子育て環境(家庭と園との両輪関係)がこんなにも変わるんだということが実感に繋がっています。
先生には本当に感謝しております!
今後ともご指導のほど宜しくお願い致します。

(サンキュー、嬉しいです。現場のちょっとした積み重ねで、ずいぶん国の空気が変わってくるのだと思います。よろしくお願いいたします。)

 

より良い生活(Better Life)の幻想

25年前に書いた文章に少し加えます。日本で、状況がここまで進むには、まだこれから20年くらいかかるかもしれません。日本の状況は欧米に比べまだそれほど、いい。ひょっとして、こういう状況になることは避けられるのかもしれない。そうあってほしいと思います。いま、欧米の失敗に学んで、「民主主義も、学校も、幼稚園・保育園も、そして福祉さえも、親が親らしい、という前提の元に作られていること」そして、「その親を育てるのは、子どもたち、特に幼児期はその働きが強いこと」を思い出せば、この国なら、「先進国における社会現象としての家庭崩壊の流れ」はくい止められるかもしれない、と思うのです。

 

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「より良い生活(Better Life)の幻想」

こんなことはアメリカに住んでニュースでも見ていないと知らないことだと思うのですが、(25年前)すでに、シカゴの公立学校で働く教師の45%が自分の子どもを私立学校に通わせていました。私立学校にかかる費用の高さを考えると、これは公立学校に対する大変な不信です。公立学校の学級崩壊や治安の悪さを目の当たりにし、公立学校の先生の半数近くが公教育を見限っていたのです。

自分の子どもを私立学校に行かせるために、公立学校で共働きをしている夫婦がインタビューに答えていました。

ここに米国政府発表による、1992年共働きに関する調査結果があります。一般的な家庭における、共働きと家庭経済、そして子育ての相関関係をよく表している調査でした。

 

共働きが社会に定着する前、人々(特に中流家庭の人々)は主に「より良い暮らし(Better Life) がしたい」という理由で共働きを始めました。

やがて共働きが社会に定着すると、多くの親達がごく自然に子育てを学校に依存するようになりました。親子が過ごす時間が減り、子どもに無関心無責任でいられる親達が増えると、家庭で行われていたはずの躾けがいつの間にか、学校の役割になっていきます。結果的に(教師の精神的健康を守るための)画一的教育が出来なくなり学級崩壊・学校崩壊、「公立学校の極端な質の低下」を招いてしまいました。学校教育という仕組みが、これほど脆いものだったことに誰も気づかなかったのかもしれません。学校が教師の精神的健康で成り立つという実感が足りなかったのかもしれません。

その結果、子どもの将来に関心を持つアメリカの親達は、環境の選択として、子どもを私立学校に通わせざるをえない情況に追い込まれました。そして、私立学校に対する需要の増加は「私立学校にかかる費用の増加」につながっていきました。需要と供給の関係です。

(今から三十五年ほど前にアメリカで、金儲けをしたければ私立学校を開け、といわれるほど私立学校が増えた時期がありました。その多くが、厳しい校則、躾けと道徳教育を宣伝文句にしていました。親の子育て力が弱ってきていたのです。そこに市場原理が働き、やがて大学のサービス産業化を促し、現在の一流の大学なら年に500万円といわれる授業料の高騰に連鎖していきます。)

 

子どもに、より安全で質の高い教育を受けさせようと思えば、私立学校に行かせるために夫婦で共働きをせざるをえない。家庭で子育てをしたいと思う母親であっても、それが出来ない、という悪循環を招いてしまったのです。

私立学校に子どもを通わせるための教育費の増加は、共働きが今ほど盛んでなかったころの父親だけが働いていた家庭よりも、結果的に家庭の経済状況を悪くし、社会的に見ればそれが家庭崩壊にもつながってゆくという、非常に皮肉な結果を招いてしまったのです。

「より良い暮らしがしたい」

「共働き」

「親子関係の質の変化。愛着関係の希薄化」

「子育ての学校依存」

「教師の精神的健康が保てなくなる。教師の不足」

「公立学校の質の低下」

「私立学校に行かさざるをえない」

「私立学校にかかる費用の高騰」

「共働きをしないと私立学校に行かせることが出来ない」

「自分の手で子どもを育てたくても、出来ない」

「子どもの将来を考える親にとっては、共働きをしても、良い暮らしにならなかった」
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ここで、その調査は問うのです。「良い暮らし」とは一体何だったのか?

たとえそれが、経済的に豊かになることであっても、人間関係が豊かになることであっても、アメリカにおける共働きという手段で行われた「より良い暮らし」の追及は失敗に終わっているのです。米政府の発表したレポートは主として経済的な点に焦点を合わせ、「共働きによって我々の台所は豊かにならなかった」と結論づけていましたが、その背後に生まれた新たな問題、失ったものは、経済的なもの以上に大きかったのだと思います。

(アメリカの失敗を知っているからこそ、いま日本で政府が進める、4万人しか待機児童がいないのに、保育園で三歳未満児を預かる受け皿をあと50万人用意する、そうすれば女性が輝く、という労働施策が危うく見えるのです。20年前経済財政諮問会議が言った「保育園で子どもを預かって全ての女性が働けば、それによる税収の方が保育全体にかかる費用ようりも大きい」という進言は、あまりにも単純で浅い。欧米志向の学者が机上の経済論で進めようとする施策にはよほど気をつけなければいけない。経済的豊かさを求めても、「子育て」という、「人間の生き方に深く関わってきた行為」を軽んじると、結果的に、多くの人たちが経済的にも、より貧しくなる可能性が高いのです。)

 

60年代、70年代に、マスコミや進歩派が作ったイメージを大衆が追いかけ、気づいてみれば家庭という社会基盤を失いかけているアメリカ社会は、いま苦しみの中で自問しています。「より良い生活(Better Life)」とは何だったのか。

確かにアメリカが好景気と言われたこともありました。しかし国としての経済状況が良くても、中流以下の生活レベルはここ三十年間で確実に落ちています。(私がこの文章を書いた時、10%の人が86%の富を握っていると言われていました。)アメリカ社会における好景気は、あくまでも強い者が勝つというパワーゲームの論理が、格差社会を生みつつも、社会全体の景気という面では時々機能するという資本主義の一面を見せているに過ぎません。日本の経済学者が「アメリカはこうだから、日本も真似しなければいけない」と言い、当時、自由競争、市場原理、実力主義、起業家精神といった強者の論理を景気対策として政府に薦めているのを見る度に、私は、この人たちは、本当のアメリカを見ていない、と思ったのです。

 

(数字で考える経済学者や、場当たり的なタレント評論家の話を鵜呑みにし、終身雇用を廃止し、リストラや年俸制といった欧米式の実力主義を都合に合わせて取り入れていった経営者達は、実力主義の社会では、先輩が後輩を育てない、というごく初歩的な現実にさえ気づいていなかったと思います。

将来自分の敵になる可能性を持つ新入社員に、一生懸命仕事を教える人はそんなにいないのです。日本が国として、精神的にも経済的にもそれまで成功して来たのは、社会の隅々にまで浸透していた次世代育成能力、疑似親子関係、という欧米社会にはあまり見られない特殊な生活習慣のおかげだったのです。自分の地位が確保されてこそ、人間は次の世代を育てる、この日本独自の伝承基盤を失うことの危険性に経営者達はその頃気づいていたのでしょうか。

実力社会における師弟関係の崩壊と、家庭における親子関係の崩壊がパラレルであることは欧米社会を見れば明らかです。実力社会になって日本の経済が国として一時的に上向いたとしても、それによって家庭崩壊が加速し幼児虐待が増えたのでは、将来に負担を残すことになる。社会としては不幸な状況です。経済的に「より良い暮らし」を求めない方が、経済的にいい結果が出ることもある。数字だけを見ずに、欲を捨てることに教えの中心を置いた仏教的理念を、もう一度「子育て」を通して思い出す時が来ているのではないでしょうか。)

アメリカの 中流家庭が、この「より良い暮らし」という抽象的な言葉に踊らされ何を失ったかを考える時、景気が悪くても、貧乏をしていても、多くの人達が親子関係を軸にした家庭を守っていた日本の状況が、私には輝いて見えました。人権とか平等とか言いながら、幸福度を、地位や豊かさで計ろうとする欧米流のやり方に、この国の文化はよくここまで抵抗してきたと思います。経済的に状況が悪くても、内側から崩壊しない国の方が堅固で、より多くの幸福者を生み出すのだと思うからです。

 

(いま、子ども・子育て支援新制度という「雇用労働施策」に、日本の魂のインフラが揺るがされています。11時間保育を「標準」と名付けたこの制度は、日本の親子関係の定義を根本から変えようとしている。その危険性に、政治家達が早く気づいてほしい。)

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もう一つ、社会において家庭という幸福感の土台が崩れた時に起こる悪循環の例を挙げましょう。これは主として「自立」という言葉に社会が踊らされることに始まります。

六割以上の結婚が離婚に終わるアメリカで、子どもの将来を心配する親達が娘に送るアドバイスの一つに、「経済的に自立していなさい。離婚しても困らないように手に職を持つとか良く考えて、夫の収入に頼ることのない人生を心がけなさい」というのがあります。この考え方はすでにアメリカ社会では常識と言っても良いでしょう。

当時、すでに三割が未婚の母から生まれ、子どもが18歳になるまでに40%の親が離婚するという現実がありました。社会の流れを見れば、その確率は引き続き高くなるはず。離婚や、娘がシングルマザーになることを前提としたアドバイスも、子どもの幸せを願う親としては仕方のないことだと思います。

しかし、こうした親達のアドバイスがますます家庭に対する価値観、家族同士の絆意識を弱めていくのもまた現実です。悪い方向に向かっている社会現象に子どもの将来を思って親が対応することが、その社会現象の進み具合をより早めてしまう。この悪循環の根底には常に、子育てをシステム化(社会化・産業化)しようとした経済の仕組みと、子育てが親の幸福感で成り立っていた家庭との根本的矛盾、すれ違いがあるのです。

人間は一人では生きられない、絶対に自立できないことが「家庭・家族」という社会の基盤となる幸福論を支えてきたことを思い出す必要があると思います。この国の個性や存在意義を守ることはできないと思います。

 

似たような悪循環のサイクルが、幼児虐待や、歪んだ愛情表現でもある近親相姦の急増、幸せを求め、子どもを産みたくて産む少女たちの増加、生活保護を受ける家庭の増加、といった現代アメリカを象徴する数々の現象の中に見られます。(ヨーロッパでも同じようなことが起こっています。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=976)

孤立が自立を余儀なくし、自立が一層の孤立を生む社会構造がそこにはあります。そして結果的に、「自立」という言葉がもてはやされる時、必ず犠牲になるのは「自立していないことで、その社会的役割を果たそうとする」子ども達です。

親たち、特に父親たちと幼児たちとの付き合いが希薄になると、「子どもの幸せを優先する」という人間社会の求心的な力が弱まっていきます。これは欧米社会に私が見た現実であって、どんなに美しく賢いことを言っても教育を使って「自立」を目指すことは、やがて次の世代の子育て放棄につながって行きます。

 

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ーーーーーーーーーーーここからは、子育てにおける損得勘定がいまに続く話、現在の話です。ーーーーーーー

 

いま、アメリカの中流・高学歴層の女性の間で専業主婦回帰が進んでいます。すでに、専業主婦になれる環境、つまり両親が揃っていて、父親にある程度の収入がある、という家庭が全体の半数を切っていることを考えると、専業主婦になれる環境にある女性の一割以上が、ここ10年くらいの間に、新たに専業主婦に回帰しているのです。豊かさを目指すだけでは幸せになれないことに気づき、子育てに新たな魅力を感じる人が増え、それに伴いマスコミでも専業主婦の幸福論が堂々と語られるようになったこともあります。しかし、独特な損得勘定もそこに働いているのです。

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母親が、自分のキャリアよりも子育てに専念して、子どもに丁寧に、しっかり無理なく、将来に意欲を持つように勉強させ、子どもが大学に行った時にフルスカラシップ(全額奨学金)を獲得できれば、それまでに夫婦共働きで一家が得る収入より「お得」という計算が成り立ち始めている。それほど、アメリカの大学は費用が高騰していることがその背景にあります。

親が支払うか、卒業後に子どもが数千万円の借金を抱え込むより、トップ5%くらいの成績に子どもを高校卒業までに押し上げ、返済不要の奨学金を内申書で勝ち取ったほうが得だと気付いた親たちが、いわゆる「サッカーママ」「ティーパーティー」に代表される保守といわれる主婦層をつくりはじめている。しかも、その時点の損得勘定だけではなく、子どもが意欲を持っていい大学を優秀な成績で卒業すれば、いい就職ができる可能性が高くなり、後々の人生も安定する。子どもの一生を考えればその利権は計り知れないというのです。その経済的価値は、夫婦が共働きをして得る収入よりはるかに大きい。しかも、そうしているうちに、親子の絆が自然にしっかりと育てば、ひょっとして、親の老後も、三世代一緒に輝くかもしれません。これは、とても現実的かつ合理的選択だと、私も思います。

三十年前に「金儲けがしたければ、私立学校を作れ」と言われた時代の「親の子育て依存」が、貧富の格差の急速な広がりとともに大学の学費の高騰を招き、その結果、市場原理、損得勘定が働いているとはいえ、人間の幸福の見つけ方としては原点回帰が始まっている。大学教育を一つの利権とし、勝ち組の中で伝統的家庭観が一周し、戻ってきているのです。

 

しかし、格差社会で取り残された層は、いつまでもそこから抜けられない。競争原理や市場原理が機能する余裕さえもうそこにはない。そのイライラが、犯罪やテロ、トランプ支持現象にも現れいる。共和党の大統領候補に選ばれたトランプ氏があれだけ女性蔑視や、異教徒、異人種に対する偏見をあからさまに発言しても、支持率が4割近くあるのです。

底辺から抜けられず、しかも「自分の人生に納得が行く方法」(子育て)を奪われた階層の怒りが、そこに表れてきているような気がしてなりません。

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(八月四日、今日は、俳優・渥美清さんの命日です。私も寅さんにはずいぶんお世話になった人間です。もちろん、映画を通してです。ですから、時々帝釈天のルンピニー幼稚園で講演させていただき、参道の鰻屋さんで園長先生(帝釈天のお嬢さん)にうなぎをご馳走になったいすると、つい嬉しくなります。その寅さんが逝って20年になります。寅さんが守ろうとしてくれた美しい日本が、政治家達の閣議決定によって壊されようとしている。そんな気がしてなりません。)

ホームスクール(学校教育システムの否定)・第三世界型学校教育・ベトナム難民の子どもたち

2016年8月
ここ数回、ブログに以前著書に書いた文章にいく行か足して、再考し、書いています。いまの日本は、家庭崩壊・学校崩壊という側面から数字的に見ればアメリカの60年くらい前の状況だと思います。だから、20年前に書いた文章が、日本のこの先20年後を暗示しているような感じがするのです。

 

ホームスクール (学校教育システムの否定)

義務教育があるかぎり、子供たちはある年齢に達すると、親の手を離れ、学校で友達から様々な影響を受けるようになります。良い影響もありますが、当然、悪い影響もあります。義務教育が普及した国では、親の趣味や意志どおりには子育てができ難くなったのです。これは、人類にとって初めての経験です。同年代の子ども達を長期間一緒にすれば、場合によっては、友達から受ける影響の方が、親から受ける影響より強くなっても不思議ではない。年頃になって、そこに恋愛感情が入ればなおさらでしょう。子どもの成長が、家族ではなく、これほど社会状況に影響されるようになったのも、巨大な伝達媒体として機能する「義務教育」が存在するからです。

(義務教育が普及すると子育ての社会化によって家庭が崩壊し始め、それによって義務教育の崩壊が始まる。これは以前にも書いた、私が最初に書いた本のテーマだったのですが、1984年、米国政府は教育の問題を「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義し一年間大騒ぎしました。義務教育が普及し親の世代に50%だった高校の卒業率が72%になっていたにも拘わらず、子ども達の平均的学力が親のそれを下回った。国の歴史始まって以来初めての出来事でした。目的としたことの反対の結果が出たのです。しかもその年、高卒の非識字率が20%を越えたのです。義務教育や福祉が子育てに関わるようになることによって、「家庭」の機能を弱めてゆく。それに気づいて、うまく対処してゆかないと、経済活動という欲をエネルギーにする勝者の幸福論に引き込まれる。しかし、そのやり方では、一握りの人しか目的を達することができない。しかも、目的を達したとしても、「子育て」の環境が崩れてゆくと、結局幸福にはなれない。)

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義務教育が普及してからも、ホームスクールという形で、親が子どもを家庭で教育するやりかたは、常にアメリカ社会に存在してきました。

学校がダーウィンの進化論を教えることが、聖書に書かれているアダムとイヴの話に反するという宗教的理由で公立学校に子どもを通わせない親達の存在は、大統領が聖書に手を置いて宣誓する国で、ある種の賞賛を以て容認されてきました。

1970年に12500人の子どもが、家で親から教育を受けていました。この数字が、1990年には30万人に急増し、それが2000年に150万人、30年間に100倍以上に増えたのです。(この30年間の変化は、児童虐待の数とか、少年犯罪の増加など、様々な変化と連動しています。現在の日本はその数歩手前に居る、と私は考えています。)

1.5%、65人に一人の子どもが学校に行かず、親から学問を学ぶ、これはもはや宗教的理由ではない、親達の学校に対する強烈な不信感を物語っているのです。

自分の子どもに教えるという非常に忍耐力のいる役割を自ら引き受ける、それだけでも相当な覚悟がいるでしょう。共稼ぎが主体になっている社会で、経済的な面を考えても、また、社会進出が当たり前という女性心理から言っても、加えて、シングルペアレントの割合いの多さを考慮しても、これは日本人が考えるよりはるかに大変な数字なのです。ホームスクールをやりたくても出来ない親、そして教育が「義務」であることを考えれば、数字に現われない、潜在的な学校不信は想像以上のものでしょう。

1993年、全ての州で、親に直接子どもを教育する権利が認められました。ほとんどの州で、親の学歴は問われません。親達がホームスクールを選択する主な理由は、30年前は宗教的理由でしたが、いまは子どもの身の安全、親子関係の深まり、望まない交友関係などです。その他特殊事情、例えば学校の授業進行が遅すぎる、早すぎる、身体的事情、精神的事情なども上げられていました。

ホームスクールをより現実的な選択肢に発達させた環境の変化として挙げられるのが、インターネットの普及、公立学校の施設利用が容易になったこと、教則本の発達、小グループの集まりを斡旋するシステムの発達などです。現在、ほとんどの州が、ホームスクーリングコーディネーターを用意し、家庭で子どもを教育したい、学校に子どもを行かせたくない親達の要求に、積極的に答えようとしています。

親達の学校否定の理由の中心が、学校の教育内容に対する不満から、「他の子ども達」という環境問題に移っている。「他の子ども達」は即ち「他の親達」、「他の親達の子育て」です。これは実は、学校の問題ではなく、親同士の問題なのです。学校はこの問題を構造的に生み出した要因であり、広まりを進める媒介役となっていますが、本質的には親達の問題なのです。

当時(20年前)日本で、日教組の教育研究全国集会がテレビで報道されていました。子ども達の代表を招いて意見を聴いたり、学校を魅力的なものにしようと論議していました。アメリカに住み、その現場を知っていた私は、本当に学校が子育てを引き受けちゃっていいのですか、という思いで見ていました。子ども達の要求のほとんどは、本来、人間関係としては、親に求められる種類のものであって、30人40人の子どもを相手に、1人の担任が応えられるものではないように思えたのです。

子どもをこういう討論会に参加させること自体が、私には理解出来ませんでした。その頃、NHKもよく子どもの意見を聞く番組を作っていました。子どもを参加させることで子どもの人権に理解があるのだという姿勢を見せているのでしょう。でも、こんな風に公共の電波を通して子どもに媚びを売っていいのでしょうか。子どもの人格を尊重すると言えば聞こえは良いですが、子どもの背後にいる親達のイメージを切り離していることがすでにとても不自然でした。

番組に出てくる子ども達が自分で働いて、食べているなら構いません。欧米のホームレスの子ども達のように、親に捨てられ、自分で生きようとしている子ども達の発言であれば懸命に聞くべきです。しかし、養ってもらっているのなら、親達も一緒に出すべきです。「ここに居る人に食べさせてもらっています」とお辞儀をして、それから、親の前で喋らせるべきです。それが本来の社会構造だと思います。「養う」「養われる」というのは、平等ではなくても、美しい関係です。それを子どもに意識させる、教えることは大切なのです。番組を見ていて、責任を伴わない空論の中に子ども達を呼び込んで、自分たちの人権意識の高さに酔っている識者たちが、ますます子ども達を甘やかしているように見えました。

「子どもの権利条約」は、それがなくては子どもを守れないほど子どもを囲む環境が悪化している国々の集まりで作られました。「受験戦争は子どもを苦しめている」などと呑気で平和な論争が行われている、世界で一番子どもを囲む環境が良い日本に、この条約を「進歩」の名で持ち込んだら、結局子ども達と人権屋さんを増長させ、個人主義を誤解した子どもが、やがてとんでもない親に育ってゆくのではないか。そんなことをしていたら、「子どもの権利条約」で子ども達を本当に守らなければならない社会に日本もやがてなるのかもしれない、と思いました。今は、「親としての幸福論」を社会から失わない努力をすべきではないでしょうか。欧米に対しては、条約で縛られなければ子どもの幸せが守れないレベルまで、日本はまだ落ちてはいない、と毅然とした態度で言うべきです。それが欧米に対しての日本の役割だと思います。

同じ全国集会で、叱らないで、まず誉める、という研究発表がされていました。叱った方が良い子どももいれば、叱らない方が良い子どももいるでしょう。叱るのが得意な先生もいれば、下手な先生もいるのです。おとなしい先生も、気の弱い先生も、まあまあ授業が出来る「形」を親たちが作る。それが義務教育のルールだと思います。どんな先生でも、まあまあ授業が出来る形を作るために必要なのは、親達の意識と、「形」を守ろうとする社会の厳しさです。おとなしい先生や気の弱い先生との出会いが、子どもの人生に良い影響を及ぼすことだっていくらでもあるのですから。

翌朝の新聞に載った見出しが、「固定観念捨て学校の改革を」です。いまこそ学校が本来の固定観念を再確認し、親達に学校というのは本来こういうものですから、と言わなければいけないのに、泥沼へ自分から入り込んでゆく観がありました。

「生きるちからをつける」なんて抽象論をまた教育要綱で言う。自分の子どもを育てるときに出てこないような言葉を、担任に押しつける、机上の空論もここまで来ると圧巻です。そんなことは私には出来ないと思う親達が、保育者や教師という一見「専門家」のように見える人たちに、ますます子育てを頼るようになるのです。「生きるちからをつける」「自主性」などという言葉を使って、子ども達を野放しにしたら、子ども達の「生きるちから」がますます弱まっていくことがなぜわからなかったのでしょうか。その結果、いま一生に一度も結婚しない男性が3割になろうとしています。

画一教育に順応できる子どもを親が育てないのなら、家庭に突き返すくらいの意志を学校が見せないと、いずれ心ある親達が学校に見切りをつけなければならない時代が、すぐそこまでやってきています。それとも、子育てに関する常識や秩序が崩れつつある今、もう親達に子育てを返すのは無理な社会状況なのでしょうか。それほど、日本の親達の意識の中で、家庭崩壊は進んでしまっているのでしょうか。

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第三世界型学校教育

学校教育と家庭の崩壊が一気に進んだ1990年代、中途退学者の急増、校内犯罪の増加、教師の質とモラルの低下など、あらゆる面で学校教育が崩壊寸前の危機に追い込まれていたシカゴで、何でもやってみるしかないという市長の決断で、周囲の反対を押切り、それまで学校の運営とカリキュラムの決定を行っていた教育委員全員を解雇し、教育委員会を解散、それぞれ個々の学校が父母と相談して各学校独自のカリキュラムの作成、運営を行っていく、という試みが実施に移されました。

長年のシステム化に次ぐシステム化によって硬直化してしまった学校教育を小規模に分割することで活性化しようというこの試みを、彼らは自ら、Third World School System(第三世界的-発展途上国的学校システム)と呼びました。ちょっと自虐的な、開き直りともいえるこの動きには、子どもを教育する責任は誰にあるのか、責任を誰がとるのか、教育委員会かなのか、教師なのか、親なのか、子ども自身なのか、という教育の原点をもう一度考え直してみようという、せっぱ詰まった危機感がありました。

カリキュラムの作成を任せ、学校の運営に参加させることによって、親達の役割をより大きなものにして行こうというこの試みは、親達の関心を即す具体策として興味深いものでした。

父母たちは、カリキュラムの作成、学校の運営に関しては素人です。それまで専門家が研究し、行ってきたことを、現場の教師たちとの協議の上とはいえ父母(素人)に任せることが、教育内容や運営の改善につながるとは思えません。しかし、そうした教育内容や運営形態の善し悪しよりも、父母達の目を子ども達に向けることの方が重要だ、とこの市長は考えたわけです。専門家達による様々な改革や試行錯誤の末、どうやってみても親達の関心なくしては学校は成り立たないということが明らかになったため、専門家の集まりである教育委員会の解散という象徴的非常処置をとったのです。

「専門家からの脱皮」ともいえるこの動きは、学校教育の内容よりも、「形」、在り方を重視しようというもので、学校教育システムが人間社会の形態をも変えようとしているいま、注目すべき象徴的試みでした。

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ベトナム難民の子どもたち

40年前、私がアメリカに住み始めた時のことです。ロサンゼルスの公立高校を成績優秀者で卒業する子ども達に、ベトナム難民の子どもが異常に多い、という報告がされていました。数年前まで英語も満足に喋れなかった難民の子ども達が、20%の非識字率を出すアメリカの公立学校を、成績優秀で次々に卒業して行くのです。アジア系の子どもは一般に勉強が出来ます。アイビーリーグなどは既に四人に一人がアジア系の学生と言われています。これは別に頭が特別良いわけではなく、家庭がしっかりしているからなのですが、その中でもなぜベトナム難民の子どもに偏ったのか。ベトナム難民の親子は、戦争、難民という辛い体験を親子で乗り越えてきた人達です。親子で苦労したことによって家族の絆が強くなっている。「言葉」というのは人間関係によって質も重さも変わってきます。ベトナム難民の親が言う「勉強しなさい、頑張りなさい」という言葉は、普通の親が言う言葉よりはるかに重みがあるのです。そして、ここでもう一つ見過ごしてはならないのは、子どもが親の言うことをある程度無条件に受け入れる親子関係があれば、アメリカの学校がそのままでも機能する、ということなのです。