子育てと保育、すれ違いと誤解の話/でもいい話

 長い間幼稚園や保育園を回って話をしたり、体験談を聴いたりして、時々自分は伝令役なのだと思います。以前書いたのですが、もう一度書きます。視覚障害の子を引き受けた理事長先生から聴いた悲しいけれどなぜか美しい話です。保育の難しさ、子育てを共有しながら、部族社会(運命共同体)にはなり得ない、三年間だけの宿命を象徴する話です。

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 私立の幼稚園の理事長先生の体験談です。男性ですが、子どもが大好きで熱血漢、県会議員もやっておられる年輩の方です。

 ある年、視覚障害をもっている子どもを引き受けたそうです。経験がなかったので躊躇したのですが、どうしても、と言われ、決心し、自ら勉強会や講習会に通い、出来る限りの準備をしたのだそうです。

 その子が入園して間もなくのころ、砂場でその子が一人で遊んでいて、自分の頭に砂をかけたそうです。その「感じ」がよかったのか、そっと、繰り返しかけたのだそうです。理事長先生は、注意することなしに「遊び」「体験」として見ていました。幾人かの子どもが集まってきて、その子にそっと砂をかけ始めました。それを理事長先生は、「育ちあい」として見ていました。長年保育をしてきた先生の経験からくる確かな判断がありました。その子のお母さんが見ていたことも、先生は知っていました。

 無事に3年が過ぎ、卒園が近づいてきました。そして、その子の母親が「あの日」のことを卒園の文集に書いたのです。砂をかけられ幼稚園でいじめられている我が子の姿がどれほど不憫だったか。それを先生たちは笑って見ていた、と。

 理事長先生は、あれほどびっくりしたことはなかった、悲しかったことはなかった、障がい児を預かるのはもうやめようかと思った、と話します。子どもに対する思い、保育にかける情熱に自信がありましたから、その気持ちが母親に伝わっていなかったことにびっくりしたのです。

 3年間そういう思いで過ごしてきた母親の気持ちを思うと、私はやりきれない思いにかられます。しかし、これは、いい理事長先生といい母親のエピソードです。

 その子は3年間、この二人に守られていたのです。


保育の深さ/選択肢のない幼児のために(けやの森学園)

 来週講演に行く、けやの森幼稚舎・保育園から「自然の教室」というカリキュラムが送られて来ました(ひとなる書房)。感動。

 保育はここまで出来る。
 保育=子育てを通して信頼がどう作られるか、という視点で私は発言してきたのですが、共励保育園の積み上げとごっこ遊びも凄いですが、けやの森学園の保育もまた別の観点で感動しました。大自然との関係が凄いです。

 けやの森学園のホームページを見ると、園が、いま私たちが一番必要としている小宇宙でもあるかのように、もしこれが全国の園の標準だったら、とかなわない夢にドキドキします。父の会から学童まで、「幼児と自然」という昔なら当たり前の風景が一つの柱としてあるからこそ、これほどまとまって来るのでしょうか。
 自然の中で得る感動を園長先生が信じています。直面する様々な問題に、幼い頃の自分の感動体験を重ねて考えているのでしょうか。カリキュラムの写真を見ていると園長の信心の中で、子どもたちが神のように遊んでいる感じです。

 年に一度の共励保育園の保育展に行ったり、けやの森のカリキュラムを読んでいて、保育はここまで深い、出来る、やっている園長がいる、とつくづく思います。
 平行して存在する東京都のスマート保育、家庭保育室。この格差、意図の差は異常です。おかしい。幼児たちに選択肢がないだけに、国がもっと真剣に保育の大切さを考え、国の土台、魂のインフラ施策として認識してほしいと思います。

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