良い仕掛け

最近、気になるのは、子育ての現場で保育士同士の信頼関係が揺らいでいること。辞めていく理由にもなっている。あえて「子育ての現場」と言ったのは、「仕事」と見なすことが、不信を生む原因の一つだからです。

考えてみれば、「資格」という言葉もまさにもろ刃の剣です。

 

子どもたちの視線を正面から受ける、子育ての最前線にいる人たちの生き方が揺らいでいる。

心が一つにならない。

子育ての存在理由、人間性の基本を鍛え、支えるはずの「信頼」が、子育ての社会化(仕組みで子育て)によって壊されようとしている。

 

 

同じ部屋で保育をしていても、他の保育士の保育には口を挟まないことが不文律になっている園があります。それが、「保育」を持続可能にするための「知恵」、手段なのです。

0、1、2歳児を挟んでの「見て見ぬ振り」、主任や保護者に対する「沈黙」、保育室で始まるこの断絶がどれほど危ないものなのか、気づいて欲しい。

 

同類の「心の動き」が、いま世界中に広がっています。様々な「分断」の根っこに、それがあるのがわかる。赤ん坊を育てる、という体験が、共通項として消え始めているからです。

この分断は、子どもたちにとって、異常な環境の変化です。

人間が、「社会」を形成する「動機」を自ら壊し始める。子育ては、絶対にお金では買えないし、買おうとしてはいけない。

 

マザー・テレサは、愛の反対側にあるのは憎しみではなく、無関心です、と言いました。そこには無関心を装うことも含まれます。

「親身な」絆を手に入れ、人間同士が信じて、守り合うためにあった「子育て」が、仕組みの手に移り、それを維持することで、存在意義を捨てていく。

(結果としての家庭崩壊と人生の孤立化が、地球温暖化にまで連鎖している。)

 

子育ては一人ではできない。性的役割分担がなければ始まりもしない。

これは良い仕掛けです。

 

その「良い仕掛け」を、イライラの原因、負担だ、不公平だ、と言って、政府が「福祉」の名で、(本質は「労働力確保」なのですが)肩代わりしようとした。三年離れると職場復帰が難しい、と言って、0歳から預けることを奨励した。

専門家や学者たちも、幼児を集団にする「この非常に新しい仕組み」を、それが進歩であって、いいもののようにいう。保育の質の低下を知っていながら、「ママがいい!」という言葉に耳を貸さない。

最初の三年間を大切にしないと、生きること、その後の人間関係を作ることさえ難しくなる、と国連もWHOも言っているのに、「エビデンスは?」とか、「神話に過ぎない」と言って「利他への道筋」を閉ざそうとする。

それなら最初から、子どもの権利条約など批准しなければいいのです。

 

最近の教師不足や、児童養護施設における子どもたちの荒れ方、苦境に立たされる保育士や指導員たち、政府の施策に憤る園長先生たちの姿を見ていると、学問が「子育て」に関わることの危うさを感じます。

自主性とか、自己肯定感などと、わけのわからないことを言っていてもいい時期は、とっくに終わっている。

こういう言葉は、親がそこそこ親らしかったから使えた言葉。個々の保育士の資質と、無資格やパートでもいいとした政府の規制緩和を考えれば、ほぼ机上の空論でしょう。むしろ、仕組みとしては言ってはいけないこと。親たちが、「私にはできない」「専門家に任せた方がいい」と思ったら、保育界は絶対に受けきれないのですから。

保育学者たちはいますぐにでも、無理です、予算があっても人材がそろいません、と正直に言って、十一時間保育を「標準」とした国の施策の撤回を求めるべき。少なくとも、どちらの味方か、立場を鮮明にすべき。

子どもたちが「ママがいい!」と言ったら、ママがいいのです。その叫びが、最近、悲鳴に聴こえます。

例えば、気の弱い子がいて、この子にはもっと自主性を、とか、自己肯定感を持って欲しい、そんな使い方ならわからないことはない。

でも、これ以上自主的にやられたら迷惑だ、集団保育が成り立たない、成長して、自己肯定感が強くなったら、第二子は保育料無料なんて言いかねない、場合もある。

「自己肯定感」を強くしたら傲慢になって、ウクライナに攻め込むかもしれない人間もいる。

 

「個性を大切に」と言う学者がいたのですが、個性の半分は明らかに短所です。「怒りっぽい」という個性は、あまり大切にしてはいけないですし、「のんびりしている」「涙もろい」「好戦的」なんていう個性は、大事にするかどうか、短所なのか長所なのか、賛否が分かれると思います。

「自分は生かされている、感謝しなければ」みたいな、仏教とか、キリスト教、ネイティブアメリカンとか、そういう人たちの、みんなで生きているんだ、という感覚を広める方がずっといい。それが、一番自然な「自己肯定」でしょう。

 

子どもの自主性をどの程度尊重するか、どの個性を大切にするか、それを考えることは親たちに与えられた役割で、特権。「趣味と都合」の問題だと思います。

子育てに正解などないし、正しい基準もない。「可愛がること」を土台に、親たちが、迷い、考え、オロオロと様々な決断をすることで、人生を見つめ、育っていく。家族が心を一つにし、特別な絆が育っていく。それが、「子育て」の一番大切なところ、中核です。

 

「子どもたちの自己肯定感」を心配するより、保育士たちの、「子どもを可愛がる喜び」を守ることの方が保育には重要なのです。

その姿に親が感謝し、自分ですれば良かったと思えば、そんな感じがいい。

 

いま、保育崩壊の一番の原因は、二十年近く続いている保育士不足です。保育士を人柄で選べなくなっている。それが、不信感を増幅させている。「三歳未満児保育」を、国がこれだけ進めれば当然そうなる。わかっていたはず。

保育や教育の無償化、と政治家は言いますが、預ける先の質がこれだけ落ちてきている時にそれをしたら、一番大切な「子どもたちの日常」を無視した、不良債権の先送りになってしまう。

保育も教育も、もっとも重要なのは、人材の質です。その問題を少しずつでも解消しようと思ったら、三歳までは、出来る限り親たち(または家族)でみる、直接給付と子育て支援センターの充実という方向に進むしかない。そこから「子育て」に対する意識の耕し直しをしないと、すべてが空回りというか、損得をお金で計った「やったふり」の積み重ねに過ぎなくなる。

 

すでに、予算や財源の問題ではなくなっているのです。もちろん待遇改善や配置基準の見直しはしてほしい。ですが、問題はすでにそこから離れている。人材の絶対量の不足は誤魔化せない。

可能な限り子育てを親に返していく。この道筋は、子どもたちの願いと重なっています。広まれば、乳幼児の、本当の役割にみんなで気づくことにもなる。

彼らとの時間は、静かで平和なもの。私たちの心が鎮まって、落ち着いてさえいれば、人間社会の土台となるもの。

取り戻せる時間の具体的なやり方については、「ママがいい!」を読んでみてください。まだ方法はあります。国が、母子分離に基づく経済施策を止めてさえくれれば、そこから立て直すことは可能です。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

(「ママがいい!」の感想をいただきました。励みになります。図書館で、順番待ちになっているそうです。子どもたちからのメッセージ、広がってくれるといいのですが。)

松居 和 さん、素晴らしい本をありがとうございます。

私の教育観、価値観、人生観と共通することが多く、とても共感しました。「人として生きる根源」だと思いました。

今多くの子育て本や成功ノウハウ本が出版されていますが、なんか違うなと感じていましたが、この本は納得できる、世の中の矛盾を的確に説明してあると思います。

社会や物事の見方考え方を見直すきっかけになると思います。

すくなくとも私がそうですから。

 

(そして、フェイスブックに、以前こんな書き込みがありました。)

熊本県私立幼稚園PTA連合会の理事会にて正式決定されましたので解禁です。

記念すべき

第40回の保護者大会が

令和5年2月3日(金)に開催されます。

講演は【ママがいい!】著者の

松居 和先生です。

働く親として

保育者として

ウチの園の先生たちも

一晩で読んでしまった!

と話していて

先生の著書からヒントを得た取り組みをどんどん展開しています。

実際にお会いしてお話をうかがうのを楽しみにしています。

#ママがいい #松居和 先生

逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます

明日、一月二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、昨年逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます。「絵本」は親子の出会いの場、についてです。

二十年前の姿、ご覧になっていただければ幸いです。子どもの私も写真ででます。

ネットでは、二週間、いつでも見れるみたいです。https://見逃したテレビドラマを見る方法.xyz/こころの時代/松居直/

 

 

父と一緒に最後に講演した時、サービスエリアで沼津湾を眺めてコーヒーを飲んでいる父の姿です。

2015/10/ 3 11:06

その頃、もう父は講演をやめていたのですが、和さんと一緒なら来るよ、きっと、という主催者の策略😀で、私は運転手兼講師でした。免許を取った時から、羽田や東京駅に送り迎えをするのが、私の役割でした。

講演で父は、三十分くらい話して、主に戦争体験の話だったかな、「あとは、和に任せる」と言って、笑いながら交代してしまいました。

 

人類にとってのカウンセラーの代表が、0、1、2歳児だった

 

こんな記事がありました。

相次ぐ保育所での虐待 保育団体と保育士会が緊急セミナーを開催

https://news.yahoo.co.jp/articles/e11b9e9279cb1ad8587fd2f8b9ac1e25ef657710 

記事に、保育協議会と保育士会の会長が「『こどもの最善の利益』を守る保育が実践できているかを改めて確認し、その姿勢や日々の保育活動を地域に発信していくことを呼び掛けた」とあります。

国の、十一時間保育を「標準」と名付けた無責任な量的拡大が、『こどもの最善の利益』をまったく優先していない、親たちも自分の都合を優先している、それを言わないと、保育士たちにだけ要求しても、ますます、保育の質は落ちていくばかり。

国は、「保育」を「飼育」程度にしか考えていない。

それによる幼児期のトラウマが、いま、学校教育を追い込む。教員不足が急速に進んでいますが、ここ数年の不登校児の増加は異常です。それを進めているのが、国の経済政策パッケージ:「子育て安心プラン」です。(この辺りのことは、ぜひ、「ママがいい!」を読んでみてください。)

幼児期のトラウマについて、一つの象徴的な例を上げます:人口の四人に一人がカウンセリングを受けるアメリカで、いい加減なカウンセラーが、人々の悩みや精神疾患の原因を「幼児期」の体験からくるトラウマ、親との関係、特に性的関係に原因がある、と診断してしまうのです。その確率が高いのですから、仕方がないとも言えますが、まったくそういうことがなかった人も、その診断で「良好だった」親子関係を壊されてしまう。

そして、父親との関係を、診断という洗脳によって壊された患者が、数年してから、時には父親が亡くなった後、今度はカウンセラーを訴え、損害賠償を請求するケースが起こっている。

人々の間で、子育てが人生の中心から外れることによって広がる、幼児期の体験をめぐる様々なトラウマが、歪んだ「市場原理」と重なって、修復が困難な分断と対立を、社会に生んでいる。

そんなアメリカから、去年、銃の乱射事件が一日平均二件、犠牲者は平均四人、というニュースが流れてきました。

(2020年、アメリカでは銃による死者が30%増加。近年は黒人への暴力が目立ち、対抗して武装する団体も登場している。 https://www.nhk.jp/p/wdoc/ts/88Z7X45XZY/episode/te/P38R5M86P9/ 

子育てに必要なのは、カウンセラーではなく、相談相手。しかも、相談相手からいい答えが返ってくるかはそんなに重要ではない。子育てに正解はないし、必ずうまくいく、という手法もない。

「親身な」相談相手がいるか、いないか、が大事なのです。みんなでオロオロする、そんな感じがいいのです。

強いて言えば、人類にとってのカウンセラーの代表が、0、1、2歳児だったのでしょうね。

0歳児との一方通行に思える会話が、一年掛けて、人間に祈ることを教える。1歳児との会話が、理解することではなく、理解しようとすることが、平和や秩序をもたらすことを知らせる。そして、2歳児との会話が、利他の気持ちと忍耐力を耕す。

人間がもっとも違った形で生きるこの三年間をしっかり見て、関わって、抱きしめて、自分を見つめておかないと、人生の可能性の半分くらいを放棄することになるのではないでしょうか。

政府の、幼児と人間を引き離す経済施策が招いた混乱を見ていると、せっかく、カウンセラーや弁護士をあまり必要としない、いい国だったのに、と残念を通り越して、悔しくなります。

「子育ては自由だから」

(「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。)

 

「嬉しいメール」

(障害児の施設で働くのが好きで、そこで子どもたちとかけがえのない時間を過ごし、でも、繰り返される指示語の強さと、それが発せられる風景に耐えられなくなってある日辞めていった、感性豊かな人からメールが来ました。

いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた世界を感じます。)

こんにちは!

春ですね!お元気ですか?

息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。

子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたんだなぁとしみじみしています。

施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。

働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)

寝不足だけどがんばります。

かずさんも講演がんばってください。

(「子育ては自由だから」という言葉が、すがすがしく、心に残ります。多分、私はそういうことを言いたかったのだな、と思います。

永遠とか、生き甲斐とか、責任とか、祈りとか、思い出とか、自分の価値を浮き彫りにする、「本当の自由」がそこにあって、人間は、幼児を抱き、守ってきたんだ、と読み取ります。

こういう言葉に接すると、いい翻訳者、伝令役にならなければ、と身が引き締まる思いがします。)

 

 

2015/10/ 3 11:06

一月二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、昨年逝ってしまった父(松居直)が出演した番組が再放映されます。「絵本」について、です。

二十年前の姿、ご覧になっていただければ幸いです。

いい親でいたい、そう思った瞬間、その親はいい親

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(FB、お友達申請から)

はじめまして。

4歳の娘の母ですが、仙台市で保育士をしています。

ママがいい!

凄く心に刺さりました。

まさに私が娘から泣き叫ばれて言われていた言葉でした。

泣き叫ぶ娘を置いて、職場で他のお子さんを抱きしめる毎日に、娘に対し、罪悪感がいっぱいの日々でした。

心臓がえぐられるようで、泣きながら運転して出勤したこともありました。

色々な気付きと確信をありがとうございます!

ぜひ、お友達申請させて下さいませ。

(ありがとうございます。本当に、ありがとう。)

 

つい十年ほど前まで、0歳児を預けに来た親に、「いま預けると、歳とって預けられちゃうよぉ」と、冗談交じりに苦言を呈していた園長が、いつの間にか、黙り込んでしまって、保育園がサービス産業になっていく。国の思惑通りに。

そして、学校教育が成り立たなくなってくる。

 

 

子育ては、人間たちが、大切な何かを確認し合うこと。

「ママがいい!」、これほどいい響きを持った言葉はない。音で奏でる、勲章です。

お互いに、生きている、という実感が湧く。

この言葉が発せられた時、それを喜んで感謝しなければ、自分自身が見つからない。

この言葉を軽んじると、様々なことがうまくいかなくなる。

そう思っています。

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もう一つ、小野省子さんの詩です。

小野さんの好意で、この詩集を講演で配り始めて十年になるのかな。何万部も配りました。国会でも朗読しました。板橋区が、八千部ほしいと言った時は、ちょっと驚きましたが、園で配ってくれるなら、と差し上げました。

省子さんが、三歳のヒカリちゃんとした会話は、ヒカリちゃんが中学生になったいまも、ずっと生き続けています。

 

お母さん、どこ   (詩・小野省子)

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」

「ここにいるじゃない」

「それはコウちゃんのお母さんでしょ」

弟を抱いた私に、娘は言った

長いまつげの小さな目は

悲しげにも見えたし、

何かをためしているようにも見えた

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんはどこにいると思うの」

「病院に寝ているんだと思う。バアバが言ってたよ。

ヒカリちゃんのお母さんは、病院に行ったよって」

娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」

玄関でくつをはこうとする娘の

小さな背中を見ていたら

私は

夕闇の中で

大切な人に置き去りにされたように

心細くてたまらなくなった

同時になぜか

動揺している自分が

くやしくもあるのだった

娘はふり返って

私が泣いているのを見て

「あっ、ヒカリちゃんのお母さん、

やっぱりここにいた」と

無邪気な風に言うのだった

 

(ここから私。)

三歳の娘に、「おかあさんどこ?」と面と向かって言われたら、母親は、立ちつくすしかない。一人、置き去りにされたように。

幼児の真剣さ、その一途さにオロオロし、寄り添おうとすることで、母親は、自分の場所を確認しようとする。

どんな説明も、理屈も通らない。

そう教えてくれたのは、ヒカリちゃん。

言葉での会話の、なんと虚しいことでしょう。

でも、母親は、泣くというコミュニケーション手段を知っていた。これを知っていれば人類はだいしょうぶ、それを教えてくれたのも、ヒカリちゃんです。

いい親でいたい、そう思った瞬間、その親はいい親です。心もちの問題です。立ち尽くし、泣くしかない時もあるのです。 

インドの田舎に何回か、都合1年くらい、住んだことがあるのです。気づくこと、学ぶことがたくさんありました。

ドキュメンタリー映画を一人で作って、いくつかのシーンがYouTubeに載っています。

「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」といいます。女性の人権の為に闘う修道女の話です。

美しいです。

ぜひ、風景に触れてみてください。

貧しき者は幸いなれ、という感じがします。私たちに必要な、不思議なメッセージが伝わってきます。ちなみに、シスターと私は同い年、です。

これがリンクです。

http://kazumatsui.com/sakthi.html 

こちらで受賞歴などが見れます。 http://kazu-matsui.jp/sakthi/2008.html 

上映会してくださる方がいらしたら、ご連絡ください。時間の許す限り、私の解説と、演奏付きです。人を集めていただければ、基本無料です。シスターの活動(ミッション)への献金を募ってくだされば、シスターに送ります。

連絡先 matsuikazu6@gmail.com

 

Sakthi_nhk 2

 

講演後、嬉しい感想をいただきました。

コロナで止まっていた講演会が、最近少しずつ戻ってきて、今週は、茨城の絹ふたば文化幼稚園に行きました。

「ママがいい!」の新聞広告を見て、いきなり連絡してきた元気な園長先生が、講演が短くなっても尺八の演奏が聴きたい、とおっしゃるので、講演時間を10分増やしてもらえたら吹きます、と言って、伸ばしてもらいました。

いい感じで演奏できました。

来週は、二十四日に新座市民会館、来月は、二日に私学会館(アルカディア)、三日に熊本県立劇場、十七日に鹿沼市民情報センターなど、幼稚園関係の大会が続きます。

(先月は、「ママがいい!」のタイトルを見た時、涙が出ました、と言う園長先生の保育園で、保護者と保育士、一緒に聞いてもらいました。)

 

絹ふたば中央幼稚園のPTA会長が、FBに感想をあげてくれました。とても、嬉しい文章です。

 

幼稚園で行われた松居和さんの講演会。

当日は、会場全体に先生の言葉を一語一句聞き逃さない。というママたちの一体感があり、なんとも言えない幸せな空間があった‼️

自分はおもしろいとおもっても、周りを気にして笑えない。泣けないときがある。

でも、先日の講演会では、みんなが素直に自分の感じるままに反応していて、それが主催としては嬉しかった‼️

園長が松居先生の講演会をやらないか?と声をかけてもらったとき、私はすでに「ママがいい」の本を読んでいたので、絶対やりたい。と思った。でも、それをみんなに共有できるのか?と少し不安もあった。

それでも、なんとか開催へこぎつけ、この空気。達成感でいっぱいだった‼️

松居先生の本の紹介を新聞で見つけ、すぐにコンタクトをとる園長の行動力に、感謝。感謝。

改めて、うちの園の園長すごい‼️と思った😄

松居先生の話は、当日は興奮。

次の日に少し落ち着いて噛み砕くことができ、

さらにその次の日にやっと消化して、

だんだんと身になり、力になり、

私を励ましてくれるお守りのようになっている。

私は潜在保育士。復職しないかとよく手紙がくる。でも、私は復職は考えてない。

子どもたちと関わることは大好き❤

子どものそばにいると幸せになれる。

でも、自分の子どもとの時間を大切にしたい。

自分の子どもに愛を注ぎたいと思っている。

でも、ママたちが孤育に苦しんでいる現状を少しでも解消して、子育てを楽しんでもらいたい。

その葛藤の中で、無制限あそびにたどり着いた。参加者さんの心からの笑顔、夢中で遊ぶ姿を見ると嬉しくなる❤️

無制限あそびは、私の子どもたちの大好きな遊び。子どもたちにみんなとやりたいと言われて初めて2年弱。

もっともっとたくさんの親子の笑顔に携われるように、幼稚園、保育園とは違うところから、

子育て支援をやっていきたいと強く思った‼️

普段はあまり私が進めるものを読まない夫も、

松居先生の講演会のレジュメは食い入るように読んでいた。

松居先生の父親も幸せになりたがっているという言葉を実感した。

もっともっと夫婦で、子どものことを共感して、夫を幸せにしたいなあと思った‼️

松居先生の著書、講演会。少しでも多くの人に届くといいなぁと心から思う‼️

みんなで子育てを楽しむ、笑顔の国。

そんな江戸時代の日本の姿に戻れたら、

どんなに幸せだろう‼️とおもった

 

(私の返信)

次回は、ぜひお父さん、祖父母たちにも、話させてください。親身な絆が世代を越えるために、幼児がいて、子育てがある。祖父母心は、利他の道筋に入っている。入りたがっている。

孫たちも天命を果たしたがっている。

 

(講演依頼は、いつでも、matsuikazu6@gmail.com までご連絡ください。)

子育て支援センター

 

0歳から長時間預けられ、親になり、保育士や教師になって、自分に自信が持てずに悩んでいる人たちに立て続けに相談を受けた話を、前々回書きました。

悩み方は様々ですが、子どもを授かり、または受け持って、自分との関係性がはっきりしない。どこかに不安がある、と言う。3歳までの脳の発達、親子の遺伝子が双方向にオンになってくるプロセスを考えれば、つないでいく原体験ができなかったのではないか。

幼児たちは、関わる人の心を照らし出す、鏡のような存在です。

(原体験:その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。)

 

子どもをどう育てるか、という意識から離れて、可愛がることに専念してみてください、甘やかすでもいいです、とアドバイスします。よほどのことがない限り、要求に応えてあげて、その瞬間の子どもの幸せだけを願う。

叱らない。

導かない。自分が導いてもらう感じで、と言います。自分が「いい人」だということを感じるために、形から入るんでいいんです。

これは、私が「逝きし世の面影」(渡辺京二著)で読んだ、150年前の日本の風景から逆算した方法です。親たちに「自分はいい人間だ」と感じさせる、その役割を子どもたちが、世界一果たしていた国。欧米人がパラダイスと呼び驚いた、安心感に満ちた国。後にアインシュタインが、神に感謝する、と言った、美しさへの道筋です。

http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=1047 

 

しかし、不安なことが一つ。

保育の仕組みは、私に相談した人たちが預けられた頃とはずいぶん違うのです。ひと昔前とは異質なものになっている。特に、ここ十年くらいの仕組みの変化が激しい。

公立園を退職後、市に促されて復帰した保育士が、こんなのは保育じゃない、と言って辞めていく。株式会社の保育施設長を頼まれた元園長が、会社の姿勢とぶつかり、三年後、「ここに預けちゃいけないよ」と、理解しそうな親にだけ耳打ちして、辞めていく。

 

私が、「ママがいい!」を書いたのは、「慣らし保育」のときの、子どもたちの叫びを、社会全体で真剣に受け止めてほしいからです。パパに比べて、ではなく、いや、それも少しはあるのですが、仕組みで育てるには限界がきている、という警鐘です。

保育は、どう親を育てるかが鍵になる。それが難しくなり、園長によほどの信念がないと続かない。子どもを十一時間も預けておきながら、家庭のことには口を出さないでくれ、と言わんばかりの親たち。その言葉づかいが、「保育園落ちた、日本死ね!」あたりから急に荒くなっている。信頼関係が育たないのです。

 

良くない保育士を排除できないことで、幼児期に、見るべきではない風景を見て、すべきではない体験をさせられ、「長時間保育」がトラウマの原因になり始めている。

ニュース見て泣く子も… 日野市保育園“虐待” 卒園児の保護者らから「新証言」 https://news.yahoo.co.jp/articles/36823a07c9d74790c526509e8535578a5f500a3b

「バカ」「ブタ」と呼ぶ、正座させる 吐き出した給食、口に押し込む: https://mainichi.jp/articles/20190215/dde/041/040/017000c

“恐怖の副園長” を傷害容疑で再逮捕 園児に続き同僚の保育士に暴力か: https://www.fnn.jp/articles/-/787 

 

無資格やパートで繋いでいい、十一時間保育を標準とする、など、乱暴な、ほぼ人間のすることとは思えない「規制緩和」が、「保育は成長産業」という閣議決定のもと、ここ十年くらいの間に一気に進められた。

背後にいた経済学者たちは、「信用」がなければ貨幣経済が回らないことを知っていたはず。保育も同じ。信頼関係がなければ「子育て」は回らない。こんな、簡単なことがなぜわからないのか。

子育てにおける「不信」が、不良債権化し、学校に先送りされる。

 

経済界や政治家たちの思惑通りに、0歳児を預けることに躊躇しない親たちが増えました。躊躇しない親たちの子どもに囲まれる時間、これは、そこに預けられた幼児しか知ることができない、人類未確認の不自然な体験です。その体験が卒園後、義務教育の場で増幅し、連鎖する。

子どもたちは、5歳までのその時期を一生に一度しか過ごせない。他に比べられる体験はないし、別の体験を選択する権利もない。

そう思うと、保育という仕事の責任の重さをひしひしと感じるのです。簡単に引き受けられることではない。

保護者や保育士、時には政治家たちにも話す機会を与えられてきた私は、だから必死になるのです。

 

これを書きながらニュースを見ていたら、小池都知事が出てきて、第二子の保育料を無償にし、「子どもが輝く」東京にする、と言う。

三、四、五歳は、すでに無償ですから、対象は三歳未満児。

「ママがいい!」と叫ぶ二歳児、それも言えない赤ん坊を母親から引き離せば「子どもが輝く」、しかも、東京都はチルドレンファーストだ、と言うのです。呆れるしかない。

もう40万人保育園で預かれば、女性が輝く、と以前首相が国会で言ったことがある。「社会進出」とか言って経済競争に参加することが「輝く」こと、子育てでは女性は「輝かない」と言わんばかりでした。

人間が哺乳類であることを踏まえれば、まったく同意できませんが、損得勘定で考えれば、この「女性が輝く」論は、わからなくはない。この手の考えに同調する人がいるのもわかる。しかし、その時点ですでに保育士は危機的に不足していて、それを首相は知っていた。(私が、直接言ったのですから、間違いない。)

閣議決定された目標のために、子どもの願いと安心を無視した規制緩和が少子化対策の名で進められた。それで出生率が上がったならまだしも、少子化はますます進み、結婚しない若者が増え、児童虐待も過去最多、不登校児がここ数年異常に増え、教師のなり手が減って学校教育が危うい状況になっているのです。

幼児と付き合うことを「幸せ」と捉えず、「負担」と定義する考え方が、この結果を生んでいる。原因と結果を単純に示せば、このやり方が間違っていたことは容易に理解できるはずです。

 

東京都は、過去にも、その財力を使って「子育て」をお金で解決しようとする施策を打ち出し、近隣の県が迷惑することが多かったのですが、虐待が次々と報告され、保育全体の質の低下が明らかになっているこの時期に、都知事が、より多く、長時間預ければ「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と言ってしまう。

この発言、発想は一体どこから来るのか。

企業型保育が新たに制度化され、たった一年で少子化担当大臣が「質の確保が、十分でなかった」と謝ったことを思い出します。謝って済む事ではない。幼児は、そこで年に260日過ごしたのです。

国は、五日で取れる新たな保育資格を作って誤魔化そうとしていますが、保育士不足だけでは済まない、教員不足をどうするのか。

学校は、保育園のように規制緩和できないのです。

都知事の、「子どもが輝く」発言は私の想像力、理解力を完全に超えている。もう馬鹿馬鹿しくって話にならない。

http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=2867  http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=2824 

(小池さんは、環境大臣の時に、私の講演をフルバージョンで聞いています。控え室で、先進国社会における家庭崩壊が地球温暖化の原因になっている、という説明に、うなずいていました。)

 

知事の「子どもが輝く」発言に、報道側が何も質問しない。

疲弊している保育、教育現場に一層の負担を強いる発言を、黙って許している。ワイドショーのコメントを聴いていると、子どもに税金を使いさえすれば、すなわち良い事と見る、浅はかな知見ばかりで、それに世論が操られている。

第一子が第二子と過ごす権利など、誰も考えないのでしょうね。

マスコミは、これ以上、子育てのイメージを落とさないでほしい。

 

派遣なしでは国基準を満たせないような状況で、子どもの権利条約が言う、「特定の人との愛着関係」など育ちようがないのです。

たとえ、その朝、いい人に当たっても、保育士は必ず交代する。

子どもが求める「誰かとの愛着関係」が、国策によって細切れになる。

いい保育士が、八時間向き合っても、同じ日に、良くない人と過ごす一時間が、より一層子どもにショックを与える。その「差」が、生まれてきた世界に対する不信となって残る。

 

0歳児は1対3、1、2歳児は1対6と言いますが、「母親像」を求めている三才未満児からすれば、保育は常に1対1です。それを忘れてはいけない、と私は師と仰ぐ園長先生から教えられました。

そういう視点で見ると、どんなに天才的な人が保育をしていても、子どもたちの悲しく、寂しい現実は見えてくる。

おとなしくていい子が、それ故に放って置かれたり、絶望的に、好きな保育士を目で追っている光景を目にします。保育士にも、好きな子、はいますし、手の掛かる子が一人いれば過ごす時間に差が出てきます。保育は、絶対に平等にはならないのです。

一人で絵本を広げていた二歳児が、手伝いのおばさんに腕を掴んで引きづられ、保育士による「読み聞かせ」の輪に入れられたり……。

おばさんに悪気はないのです。

 

保育士たちの気持ちが、ザラザラしたものになっていった原因の一つが、仕組みによる裏切りもそうですが、親たちの意識の変化でしょうね。

これが一番辛いかもしれない。

 

ずっと以前、八時間保育が十一時間開所になった時、朝預ける人と、帰り、返してもらう人が別人になった。親たちの意識が、「この人に預ける」から、「この場所に預ける」に変わった。

子育てが、人間から仕組みの手に移ったのです。

私は、それ以前、それ以後、というイメージを持っています。

その時、この国がどういう一歩を踏み出したか、それがどれほど致命的だったか、政治家や学者たちは気づいていない。保育士たちが、一日一度、全員揃ってお茶を飲める時間が永久に消えた時、仕組みに何が起こったのか、「専門家」たちは知らない。

千利休を生んだこの国が、そういうことに気づかなくなっている。伝統文化やこの国の個性が、「欲の資本主義」に踏みにじられようとしている。

 

 

子育て支援センター(詩・小野省子)

 

誰も知りあいがいない町を

知りあいをさがして 黙々と歩いた

首がすわらない娘を ベビーカーにのせて

公園のむせかえるようなセミの声が

こわれた機械の雑音に聞こえて

真夏のアスファルトは

ゆがんだチューインガムのようで

ただ 誰かと話がしたいと思った

その時 「おひさまサロン」とかかれた看板のむこうで

「よかったら遊んでいきませんか」と手をふる人がいた

「だれでも、遊べる場所なんです」

私はその晩 この町に

私を知っている人がいて

私の娘を知っている人がいる

そう思うだけで うれしくて眠れなかった

 

(ここから私です。)

方法は、まだある。

「私を知っている人がいて、私の娘を知っている人がいる」

「そう思うだけで」嬉しくて眠れなくなる。

その道筋が、用意されている。

 

幼児期に子どもが過ごす時間の質が、この国の将来に大きく影響することを一定数の人たちが理解すれば、必ず、仕組みに変化が起こります。

「ママがいい!」、ぜひ読んでみてください。

周りの人に薦めてほしいのです。家庭、保育、学校が、共倒れになる前に。

FBの友達リクエスト、ツイッターのフォローでも結構です。ブログの更新をおしらせします。どうぞ、よろしくお願いいたします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

 

一月二十二日(日)午前5時から、と二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、父(松居直)が出演した番組が再放映されます。ご覧になっていただければ幸いです。

 

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不思議な場所で、父、妹と、三人講演

 

父に来た「お悔み」のメッセージの中に、長野県の茅野、諏訪地方で長い間「絵本」の読み聞かせを普及させるために活動してきた人たちからの「感謝」の言葉がありました。

人生は様々に重なります、生きる動機がその重なりに映し出される。そして、励まし合い、助け合います。親が子どもに読み聞かせをする、その体験は、人生を変えるだけの力がある。

情報ではないのです、体験なのです、大切なのは。

 

私たち一家には馴染みの深い、特別な縁を感じる辺りです。私も、茅野市の行政アドバイザーをやっていたことがあり、50回くらい、父は多分それ以上講演に行っていたはずです。テーマは違いますが、言っていることは底辺でつながっている。

御柱祭り、に招かれ、森の中に縄文のビーナスも居たりして、その辺りには不思議な、長く続く、気配があって、コミュニケーションの主題となるべき、「神」がいます。

 

縄文のビーナスがある美術館は、しーんとした落ち着きがあって好きな場所です。こういう場所に子育て支援センターをつくればいいのです。駅前よりは不便かもしれませんが、ここまで親子でやってくる、その道のりにも意味があるはず。子育てには、森の音、川の音もいいはずです。

古い神社に、どぶろく祭りもあります。

父と私は、一緒に講演することは数回しかありませんでしたが、一度だけ、妹も混じえて、この地で、三人で講演したことがありました。

(一般に、この三人がつながっていることを、知らない人の方が多いのです。)

 

妹は、小風さち、といい「わにわに」という絵本のシリーズが有名で、独自の世界を持っている人です。私は、講演に行って、妹のサイン本を頼まれたことがあります。

その時の三人講演の、記念すべきチラシがあります。

父は八十五歳になっていました。

受け継がれた「時間」で、どこまで、何ができるのか。混沌とした保育や教育界の現状を見すえながら、考えます。

 

 

 

一月二十二日(日)午前5時から、と二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、父が出演した番組が再放映されます。ご覧になっていただければ、幸いです。

(妹について書いたブログは:http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4312)

自然治癒力は形を変えて存在する

 

講演後に、自分が愛されていたと思えない人から、子どもの頃から引きずっている「孤独な体験」、トラウマのようなものについて聞かされることが重なりました。本にサインをしながら、そういう男性と結婚した女性から相談を受けました。

講演後に送られてきた感想文の中に、二つ、道筋が見えないことへの不安と、心の葛藤が書かれていました。

0歳児保育を政府が補助金と公定価格を使って奨励し、仕組みが、そのように整えられ、預けられた子どもたちが親になり、保育者や教師になっています。保育、教育、にとっては未知の領域に入っている、人類未体験の連鎖が始まっている。

進化の歴史を考えれば、この規模の意図的な母子分離策が子どもにとっても、親にとっても、不自然な試みであることは明らかで、そのことは子どもの権利条約を読めばわかるはずです。

ユニセフの『世界子供白書2001』に、三歳までの、親や家族との経験や対話が、のちの学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、とある。WHO(世界保健機関)は、「人生最初の千日間」が、その時期に最も発達する人間の脳にとっていかに大切かを言いつづけてきた。

(アメリカで二十五年前に、父親像を持たない子どもは、五、六歳からギャング化する、という研究発表がされ、ワシントンD.C市が、公立の小学校を使って父親像を教える「プロジェクト2000」を始めた時のことを思い出します。すでに、首都で、子どものいる家庭の半数以上に大人の男性がいない、という状況がありました。)

 

乳幼児期における母子分離が人生にどう影響するのか、仕組みによる子育てが、どこまで通用するのか、はっきりとはわかりません。その子が生きていく過程で、絆という「環境」がどう変化していくかに左右されるのでしょう。

学校で、いい担任に恵まれたり、図書館で一冊の本と出会うとか、信仰を持つこと、親友が一人寄り添ってくれるだけでも、人生は守られ、救われます。

いい道筋は、無限の可能性として、いつもそこにある。

しかし、その無限の可能性を維持し、それがそこにあることを感じるためにも、幼児期に親子がともに過ごす時間が必要なのだと思うのです。

結局は、人生の幸福は、どういう物差しを手にするか、という、自身の決断でしかありません。その中でも、「子育て」に幸福感を見出す、という選択は、最も公平で、有効で、遺伝子的にも一番自然でしょう。子育てが「生き甲斐」でなければ、人類はとっくに滅んでいる。

頼り切って、信じ切って、幸せそう。そんな三歳児、四歳児たちの姿を羨ましく思い、拝みながら、生きていく人が多いのがいい。

弱者を守り、大事にすることで、自分の価値が一番高まっていることに気づけば、これほど確かな自己肯定感はない。

「自己肯定感」、最近教育や保育の分野でも使われる言葉です。キャリアにおける自己肯定感など、会社が倒産したらお終い、戦争になったらお終い。こんなものは偽物です。利権がらみの自己実現は、一握りの勝者しか生みません。

最近の世界情勢を見ていると、一部の権力者や独裁者の「自己肯定感と自己実現」のために、多くの人々が死んでいく。

自己肯定感は、簡単に対立する。忘れてはいけない、当たり前のこと。

安易にこういう言葉を使うことで、子育てが「教育」に乗っ取られるような気がしてならない。

他人との比較で覚える自己肯定感は、本物ではない、と思うのです。自己を肯定する、と言えば、なんとなくいいことのように思えますが、私は、とてもそんな境地に達することはできそうにない。しっかり神と対峙した上でなければ、安心には繋がらない気がする。

(全般的に、興味深い人生だったな、と思うことはあります。でも、それは自分を肯定できるものではなく、運に感謝する、というのに近い。)

しかし、幼児と過ごした「貴重な時間」は、親の記憶にも、子どもの心にも、穏やかな、優しさを伴った自己肯定感として残り続ける。その意識の中で伝承されていくものが、人類にとって大切な「何か」だと思うのです。

私も、数ある可能性の一つになりたくて、講演や演奏に願いを込めるようにしています。

伝令役になりたい、と思い、本を書きます。

自然治癒力は、あちこちに、形を変えて存在する。

 

ある日、講演に行った保育園で父親たちが「ウサギ」にさせられていました。

保育士たちが、ウサギのかぶり物を父親の人数分用意して、私の講演が終わると、「ハイ、お父さんたちは、ウサギになってくださ~い!」と手渡した。

すると、お父さんたちはウサギになるしかない。

これは衝撃でした。

宇宙の法則が突然目の前に現われた気がして、鳥肌が立ちました。

園長は父親をウサギにする「権利」を持っている。

社長や校長は持っていない。

宇宙から与えられた「権利」に違いない。すぐに、そう思いました。

 

最近「権利(けんり)」と 呼ばれるものは、そのほとんどが「利権(りけん)」です。保育も、預ける側の「利権」になり始めている。でも、園長が手渡された「これ」は、そうではない。

この「権利(けんり)」で、子どもが安心して幼児期を過ごせる環境を勝ち取る闘いに、勝てるだろうか。

勝てるかもしれない、と私は思ったのです。

いま起こっている保育の質の低下は、本当に必要な時だけ預ける、という親の意識と、三才未満児はなるべく親が育てられるようにする、という国の姿勢があれば止められる。

保育園でウサギにさせられたら、誰だって少しは変わる。

引きつった顔でいやいやかぶった父親も、三分もすればウサギです。保育園には、園児にそういう「働き」をさせる気配がある。競争社会で固まっていたお父さんたちの心が、いっせいに溶け出す。

みんなで、やればできるのです。

 

見回すと、みんながやっている。

その奇妙な「同志意識」が人生を確かなものにするんですね。

それを見て、喜んでいたのが母親たち。

父親たちも、実は、ウサギになりたかったのです。

幼児たちと一体になることで、人間は、自分の中にある「願い」を感じる。そして、この宇宙に不公平はない、と気づく。

「平等」というのは、勝ち取るものではなく、気づくもの。

 

昔、男たちは年に二、三回、「祭り」の場でウサギに還っていました。子どもに還ること、宇宙にもう一度近づくことを皆で祝っていた。自分の中に、三歳だった自分がいることを確認して、人間は、幸せは、自分の心持ちしだい、と思い出す。それを理解すれば、男たちは落ち着きます。

この仕掛けの素晴らしいところは、父親たちが全員、一人残らず全員、三歳だったことがある、ということ。

誰もが、砂場の砂で幸せになれたことがある。

保育園でウサギにさせられ、男たちがふと気づくんですね。「私は、以前、ここにいた」と。

自分は、絶対に一人では生きられなかったことを思い出し、「絆」は世代を超える。

お盆には、その絆が、死後の世界にまでつながっていく。

そこで、また、「踊る」んです。

この宇宙に不公平はない、と唱えながら。

「人間は幼児という神様、仏様、絶対的弱者の前では、正しい方向に進むしかない。たとえそれがウサギになることであっても」

父親をウサギにして母親が喜ぶ。これが自然で、いい。母親が産み、育てた仕掛けですからね。

 

「愛されていた」という確信が持てない、その記憶がないことが不安の原因になっている人に、言うのです。

「自分の子どもを可愛がっていればいいんです、思う存分に甘やかせば、いいんです」。

そうすれば、自分が「いい人間」に思えます。

相対性理論のようなもの。輪廻や運命の歯車は、そうやって回り始める。

 

ここ十年間の国が主導する保育の質の低下を見ていると、私でさえ、心が折れそうになります。

しかし、私たちには、園を使って、父親たちをウサギにするという方法が与えられているのです。

チャンスはある。

政治家たちの思惑から親を引き離し、経済活動のみを「社会」と定義し「進出」を促す「欲の罠」から少しのあいだでいい、距離を置き、別の物差しがあることに気づかせる。皆が、時々ウサギになって、自らが生み出した「命」と遊び、その命を守ることに「感性」を集中させれば、それが一瞬であっても、この国を耕し直すことは可能です。

日本のすべての幼稚園、保育園で、月に一度、父親をウサギにしていれば、シンクロニシティが働いて、世界平和も可能かもしれない、と思いました。

社会の働きを主導するのは「幼児たち」。

この時期にしかできない体験を親たちにさせて、その時間の価値を再び高めていけばいいのです。

予算など、ほとんどかからない。

学校に入るまでに、親たちを「まあまあの親」にしておけば、学校もずいぶん楽になるでしょう。それだけでも、教育システムのサステイナビリティ(持続性)に大きく貢献する。

私が見るかぎり、この方法は、さほどの抵抗もなく、どこの園でも園長たちが、その気になればできます。

似た方法をいくつか「ママがいい!」に書きました。父親の人生が変わる実話も書きました。一日保育体験は特に有効ですし、県全体で取り組んでいるところもあるのです。

ぜひ、読んでみてください。

経済学者や政治家たちの思惑や罠については、条例や閣議決定を引用し、詳しく書きました。一定の数の人たちがその危険性を理解すれば、必ず、仕組みに変化が起こります。

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年が明けて、東京新聞に載ってたよー、と小学校の同級生が父の記事を送ってくれました。

一月二十二日(日)午前5時から、と二十八日(土)午後1時から、NHK Eテレ こころの時代 アーカイブ「言葉の力、生きる力」で、父が出演した番組が再放映されます。