「子育て」という神秘体験

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。それを自覚していない。

だから、母子分離を雇用施策の中心にして、少子化を進め、自らの首を絞めるようなことをしている、と、前回書きました。

日本の女性の「女性らしさ」が、とても自然に存在してきたので、気づかないのか、幼児の子育てを経験しなかったためか、政財界には、人間として大切な感性が(たぶん後天的に)欠落している、幼児との切っても切れない関係性において、想像力と感謝の念が足りない。

それとも、ただ単に男たちの集まりだからなのか。

「女性の社会進出」という言葉が象徴的です。

経済活動をしていない「おんなこども」は社会の一部ではないという視点が見え隠れする。子どもたちの日々が、「社会」という概念から置き去りにされている。「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)を読めば分かります。

それがさらに進んで、学校教育や、時には法律など、様々な手法を使って、「女性らしさ」の価値を下げようとする。そうすることで、自分たちの足元、この国の「利他の伝統文化」を壊していることに気づいていない。

ジェンダーフリーを言う人たちと、経済界が、本当は心の中ではバラバラなのに、「利権争い」という次元で一体になっている。それでもいいんですが、双方とも、「ママがいい!」という言葉からは、絶対に逃れられない。

子どもたちに、パパはどうなんだ、と言っても通用しない。

私が三、四十年前、保育について色々教わった園長先生たちは、皆、年配の女性でした。

「祖母の心」で保育を見ていた。「戦略」という言葉など絶対に使わない人たちだった。

戦いの土壌で子育てを考える人たちではなかったのです。戦う人を育てるつもりもない、楽しそうな子どもたちに喜びを感じる、「教育」と「子育て」の違いを理解していた人たちでした。

祖母の心は、小さい子の気持ちを優先します。

ああ、早くいい人にならなければ、という人生の動機があって、子どもの幸せを願えば、「親たちを育てなければいけない、自分は長くない」と、次世代に「託す」気持ちが生きがいになっていた。祈りの世界ですね。

ちょっと考えれば、誰にでも分かりますが、経済競争だけが「社会」ではないのです。

初めての笑顔を喜び、泣きやませようとオロオロし、はじめの一歩を祝うこと、輪になって踊ることの方が、よほど大切な「社会」だった。日本人は、その小さな「やりとり」に「宇宙」を感じ、敬い、愛で、表現するのが好きなのです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

欲得に縛られると、本当の世界が見えなくなりますよ、気をつけなさい、という警告が常に存在していた。

「古池や、蛙飛び込む水の音」

二十代の頃、この俳句を、アメリカ人の友人に英訳した時、「だから、どうなの?」(So, what?)、と言われ、笑ってしまいました。日本の文化は、「だからどうなの?」という次元を密かに楽しみ、受け入れ、共有する。損得勘定から離れることに、自由の広がりを見る。

(私なんか、母校が甲子園に出て、勝って、テレビから校歌が流れたりすると、もう泣きそうになるんですね。馬鹿だなぁ、とは思うんです。たかが野球でしょ。でも、そんな「魂が震えてしまう」瞬間が、好きなんですね。けっこう音楽が絡んでくる。

ベートーヴェンの第九を生で聴いたりしたら、もう涙が止まらなくなって、ただただ、「人類は、凄い!」と心の中で叫びます。この曲を、いつでもヘッドフォンで最高の音で聴ける時代に生きている人は、それだけで、感謝すべき、と思うことがあります。

甲子園に話を戻すと、どういう仕掛けで、どの次元のコミュニケーションが交錯すると泣いてしまうのか、考えていたんです。すると、あの頃、つまり高校生の頃、私の一番の相談相手は、可愛がっていた犬だったんです。喋れない。でも、いつも寄り添って、優しい目をして。ふざけようとしたり、一緒に走ったりして、いまでも心の片隅で相棒です。

サトクリフの児童文学「太陽の戦士」に、その辺のことが詳しく書いてあります。石器、青銅器、鉄器、と道具や武器が進化する過程で、人間が順番に失っていくもの、「古(いにしえ)のルール」、みたいなことが書いてある。戦う武器、教育もそうですが、競う道具、が進化すると、「優先順位」に変化が現れるんです。その時失うもの、失ってはいけないものに気づくために、喋れない相談相手がいる、そんなことが書いてあって、私には哲学書です。〇歳児は、人類の相談相手なんだ、と気づく。もっと遡ると、私の相談相手はクマのぬいぐるみでした。

そして、行き着くのは、「おなじ阿呆なら、踊らにゃ、そん、そん」という、掛け声なんですね。社会とは、人間が大自然と踊ること、踊りに、踊らされることで成り立つ。魂を震わせ、その後に、鎮まる。)

そろそろ「社会進出」という言葉の「罠」に気づくべきです。

共働きを助けるための施策と、共働きを広めるための施策は、違います。

動機、出所が違う。「動機の違い」を見極めないと、母子分離を「欲の経済学」の中心に置く連中に加担することになる。

共働きを助けようとする人たちと、共働きを広めようとする人たちとでは、その「生き方」に決定的な違いがあるのです。

 

「子育て」という神秘体験

眠っている幼児を眺める時間の大切さを思い出すときが来ています。

そういう時間から、注意を逸らすものや、仕掛けが溢れているから、意図的に、義務教育なんかで、その大切さを子どもたちに伝えていくべきです。もし、もう一歩進みたいなら、眠っている我が子に、そっと歌を唄う時間を、自らの意思で創り出す。その積み重ねで、社会は、じゅうぶん整っていく。

この国には、「千と千尋の神隠し」を、あれだけ長い間興行収益第一位にし続けた土壌と「伝統」がまだある。それがあるうちに、感性を手放さないようにしないと、と思います。

人間は、生まれた時が「社会進出」です。

それを一番よく知っていた国が、何、騙されているんだ、しっかりしようよ、「教育」など、子育てのほんの一部分でしかないのだから、と思うんです。

生まれてから三年くらいの間に、それは、脳が発達する時期と重なっているのですが、幼児は人間社会を「利他の心」で整えるという、何者にも代え難い役割を果たします。ほとんど自己犠牲のような行いです。普通にやっていれば、「育てあい」「育ちあい」が安心への道筋になる。

可愛がって、食べさせて、世話をして、その過程で言葉が喋れるようになっていく。これは、凄い。

驚くべき体験で、その神秘体験を繰り返すために、人間(魂)は生まれてくる。

 

私は、トイレに入っていた小さな息子に、「どう、出そう?」とドアの外から訊いた時のことを覚えています。

中から、「ビミョー(微妙)」という、いくぶん不安げな声が聞こえたんです。

ああ、息子は、「微妙」という言葉を知ってる。得体の知れない感動でした。人類の進化を見たような、視野が一気に広がっていく感じがしたのです。

魂が、言葉を手に入れていくことを考えると、ドキドキします。それを目撃した「自分の存在」が、嬉しくなります。魂に、言葉を教える時期は、人生における体験としては、教える側、教えられる側、双方にとって、極めて貴重な特別な「時」なのです。部族という単位にまで発展する。

「ビミョー」は、たぶん、私が教えたのではない。でも、ああ、育っている、育ってる、と思う。みんなに育てられている。ムーミンかも知れない。「すべてがむだであることについて」という本を愛読するジャコウネズミが言ったのかも知れない。私たちは、守り合っている。

私が、公園に一人で座っていたら、「変なおじさん」。でも、二歳児と座っていたら、「いいおじさん」なのです。横に座っているだけで、二歳児は宇宙の相対性の中で、私を「いいおじさん」にする。その仕組みに気づき、感謝するために人生がある。

二歳児は、私を「いいおじさん」にしようと思って座っているのではないのです。ただ、座っている。ただ、座っているだけで、これほどのことが出来る。それは、すなわち、宇宙の大原則がそこに座ってらっしゃる、ということ。

すべてが役割を持っていることに気づけば、孤独が人生から遠ざかっていきます。

 

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「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

最近、講演の最後に一曲演奏を頼まれることが増えました。音楽は、不思議ですよね。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。(#ママがいい)

 

「政財界の甘えと無自覚」

「政財界の甘えと無自覚」

 

政府の「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/001112705.pdf は、子どもの側には立っていない。愛が感じられない。

母子分離、「共働きを前提とした平等論」で、結果的に少子化を進めてきた「政策」にいまだに固執している。

この人たちは、「キャリアと子育ての両立」という言葉が、心情的にも、仕組み的にも、幼児の側からは成立しないことが理解できていない。

日本中で毎年聴こえる「ママがいい!」という叫びと、自分たちの思惑を切り離し、それが「子どもの未来」とは無関係だと思っている。元経済財政諮問会議の座長が、「〇歳児は、寝たきりなんだから」と言ったのを思い出します。誰が世話しても同じ、「飼育」くらいにしか思っていない。だから、子どものために仕組みの質を整えるより、女性の労働力を確保すれば、それが国のためなのだ、と思っている。そして、人間は皆、損得勘定で動くと計算している。悪い人ではないのは、話していてわかりました。でも、何かが極端に欠けている。

義務教育という歴史の浅い、未知の試みと言っていい巨大な仕組みは、親が親らしい、という前提のもとに作られている。親が、子どもを可愛がる、または、可愛いと思うこと、が自然で一般的だった時に作られている。それを忘れると、仕組みが新たな「常識」を作り出し、「人間性」との間に、不一致を生み出すことなってしまう。

預けられた一歳児が、お昼寝の時間に、ふと起き上がり「ママがいい!」とつぶやく。それを聴きながら、保育士たちは、ドキッとするのです。ここに来るようになって、数ヶ月経っているのに、夢を見たのだろうか……。隣にいた子どもが、その声を聴いたかもしれない……。つられて、しくしく泣き出す男の子もいる。

その風景の中で、一歳児たちの脳が育っていく。

そして時々、「進化」を止める。一日10時間、年に260日。人類未体験の不自然な状況で、子どもの未来が決まっていく。国連も、ユネスコも、WHOも、「乳幼児期の、特定の人間との愛着関係が、子どもの将来に影響を及ぼす」と繰り返し言っているのです。

それを知っている保育士たちには、その風景の中で、小さな「歯車」が一つ、二つ、と欠けていくような不安がある。一人ひとり、丁寧に相手をしなければいけないのに、それが許されない仕組みの中で、困惑するのです。

大人たちは、「男女共同参画社会」という言葉のトリックで誤魔化せても、子どもたちには、通用しない。納得しない。

「ママがいい!」と本気で、掛け値なしに、叫び続ける。

「誰でもいい!」とは、絶対に言わない。

 

戦略会議は、「性別役割分担意識からの脱却」を「働き方改革を正面に据え」実施していく、と宣言しているのです。「常識」が思考から欠落している。子どもたちの願いが、はじめから視野に入っていない。

「性別(性的)役割分担意識」なしで人間社会は成り立たないのです。

結婚が、人生の主目標から外れてくるし、子孫を作ろうとする意欲は薄れる。しかし、この会議は、「それは困る、少子化は困る」という会議なのです。そして再び、「子育て」の苦労を減らしてやれば産む、として母子分離を薦め、それを懲りずに、「異次元の少子化対策」と呼ぶ。論理が破綻している。

でも、放っては置けない。こういうやり方を許したら、保育園、幼稚園、学校という、この国の生活に不可欠な、いわば逃げられない「仕組み」が共倒れになり、壊れていくから。

 

分かりきったことですが、芸術も、音楽も、文学も、演劇も、人間が楽しむものの中心に性的役割分担「意識」が存在していて、そこから、喜び、悲しみ、苦悩が生まれ、様々に表現されてきました。想像力というコミュニケーションの領域で花開き、次世代に伝授されてきた。

「祭り」は、その意識を陰陽の法則における「調和」への道筋とし、祝います。それは、生命の持続性を賛美することでもあって、人間たちの魂は、それを見て、震える。

「ママがいい!」、この言葉は人類にとって、はじまりであり、勲章なのです。

 

本気で「性的役割分担」を批判し、時代遅れと言う学者がいると、

阿波踊り、とか、リオのカーニバル、小学校の運動会や、中学の合唱コンクールでもいい、何かを感じてくれ、遺伝子をオンにしてくれ、と言いたくなります。「鯉のぼり」や「ひな祭り」、「七夕祭りは、いずれ廃止ですか?」と尋ねたくなる。

「千と千尋の神隠し」やトトロ、「男はつらいよ」もそう。こうした、祭りや儀式、映画がなぜ支持されるのか、「性別役割分担意識からの脱却」と軽々しく言う前に、戦略会議は、一度、なぜ子どもたちは「ママがいい!」のか、真面目に考えてほしい。

「父親の育児参加」、これはいい。進めてほしい。しかし、「共働きを前提とした」平等論では、本当の対応にはなっていないのです。子育てに、平等はない、そこをちゃんと理解し受け入れないと、子どもに真剣に向き合ったことにはならない。共働きを薦めるための「父親の育児参加」では、動機の段階で本末転倒なのです。(結果、オーライのような気もしますが。)

確かに、人間社会は、理不尽な役割分担に満ちています。

歴史的に見て、男たちの傲慢さは目に余るものがある。是正すべきことがたくさんあるにもかかわらず、アラブや、インドや、アフリカの現状を見ていると、「慣習」では済まされない差別が権力と武器を手にしている。民主主義の脆さが、次々と露呈している。先進国といわれる国でも、平等論を利権争いに巻き込むことで男女間の対峙は拡大しているように思えます。子どもたちを置き去りに、家庭という「愛着関係の行き場」が急速に失われていく。

「性的役割分担」は人間にとって、生きる「動機」です。それを対立のきっかけにしていくのは、非常に危険です。

災害やストライキが簡単に暴動となって広がる「欧米の犯罪率」もまた、私たちに強く警告している。

地球温暖化で乾き切った山林が、あっという間に山火事になるように、犯罪の広がり方や、その質が人間性を逸脱し始めている。母子分離によって乾き切った人々の心は、いつ火がついてもおかしくない枯れ草の下生えとなって社会に溜まっていく。

前回、1980年代前半に、二万六千人だった米国で収監されている女性の数が、四十年後、二十三万人になり、増加率は男性の二倍、母親が半数を超えていることについて書きました。同じ時期に、親による虐待で重傷を負う子どもが六倍になり、ホームスクールで教育を受ける子どもが百倍になっているのです。

一方、日本では、こんな声が保育現場から聞かれるようになっていました。

「週末、四十八時間子どもを親に返すのが心配です。五日間せっかくいい保育をしても、月曜になると、また噛みつくようになって戻ってくる」

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。四十八時間オムツを一度も替えない親たちを作り出しているのは私たち(保育士)ではないでしょうか」

週末を挟んで現れるこうした兆候が、将来の児童虐待や犯罪、いじめや不登校の広がりを示唆していることに保育の現場は気づいていた。当時の子どもたちが、いま親になり、保育士や教師になっている。最近よく言われる、長続きしない保育士や教師の多くは、二十年前、保育士たちが違和感を感じた、長時間の母子分離の結果ではないのか。もし、そうだとしたら、教師不足は止まらない。加速していく。

子どもたちは、誰を育てるのが自分の役割か本能的に知っています。

その子たちを、少しでも納得させたいなら、(キャリアと子育てを、少しでも、両立させようと思うなら)、保育士たちの「女性らしさ」、園長先生の「祖母らしさ」に「頼る」しかない。そこで行われる女性から女性への「利他の幸福」の伝承に依存するしかなかったのです。

この時期の子育ては、理論でも理屈でもない。可愛がること、寄り添うこと。それに幸せを感じること。

政財界は、いままで保育士たちの「女性らしさ」に甘えてきた。

 日本の女性の「女性らしさ」と言ってもいい。

それを自覚していない。

その無自覚さが、強者たちが、自分で自分の首を絞める現象を生んでいる。

(続く)

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

幼稚園、保育園単位で「親心のビオトープ」を作ることは可能です。やり方は、「ママがいい!」に書きました。心強いのは、一度回りだすと、それが、嬉しそうに回ること。一学年ずつ卒業していくので、代々引き継がれ、伝承が行われていくこと。)

 

「女性らしさ」のおかげ

前々回、金沢市での講演会のお知らせの、一つ前に、

「男女平等、日本125位=順位落とす、先進国最下位―国際調査」~政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった~。https://sp.m.jiji.com/article/show/2966296?free=1という報道について書きました。

政治や経済の分野に参加する女性が少ないことを「遅れている」として、それに疑問を抱かせない。マスコミのこうした姿勢が、国全体に欧米コンプレックスを植え付けてきたように思います。

遅れていることがいいこと、とは誰も言わない、

男女平等、日本125位の国が、GDP世界第三位なら、国のあり方としては、逆に良かったのではないか、と考える方が論理的なはず。

しかも、日本の女性の平均寿命は世界一です。

「政治や経済の分野で遅れが目立ち、先進国では最下位だった」と記事が指摘するように、この「国際調査」が示す順位や平等の概念は、「欲」の強さの順位づけであって、利他の幸福感とは真逆にある価値観が働いている。

だから、「子育て」「母性」と対峙するのです。

平等を目指す道筋には、欲を満たす方向性と、もう一つ、欲を捨てる方向性がある。

経済は、前者の物差しで活性化しようとし、成功に安心を求めますが、結論から言えば、例えばアメリカなら数パーセントの人が95%の富を握ることになってしまう。極端な格差を生む。多くの人が不安を抱えて生きる社会になる。アダム・スミスは、その不安と不満が資本主義のエネルギーと言ったのですが、そんな呑気なことを言ってられないほど負のエネルギーは蓄積し、人類は、「欲望の時代」と呼ばれる対立の「時代」に入ってしまった。

一方、仏教など、主要な宗教は、後者の道筋、欲を捨てる方向性を教えの基本とします。「利他」の心構えを、より確かな、万人に可能な、平等への物差しとして勧めてきたわけです。

前者が、獲物を求めて狩りに出る男たちの手法とすれば、後者は、子育てをする母性的な道筋と言ってもいいかもしれない。

古人類学では、男が狩りに出かけ、女が残って子どもを育てるという「性的役割分担」が人類に家族という定義を与えた、と考えるそうですが、言い換えれば、「性的役割分担」が薄れた時、人類は、家族、家庭という定義を失っていくのです。そして、この「家族」という単位が維持できなくなると、個々の欲を鎮めるのが困難になり、「欲の資本主義」にさらに惹かれていく。

子育てに時間を使っている女性を、生産的でない、と見下す欧米の「調査」など無視すればいい、日本の文化と伝統を愛したスティーブ・ジョブスが天国でそう言っている気がします。

保育科の学生が、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いたら、勉強不足、と不合格になったそうです。

私が師と仰ぐ園長先生たちは、言っていました。

「保育は五歳まで。二十歳くらいまで見るなら別ですが、一生続く親との関係が一番大切です。長時間預かるなら、そのことを親に言い続けなければ、保育ではありません」。

「子どもの最善の利益を優先する」という保育指針の柱が保育科の授業で壊されていきます。福祉はサービス、親のニーズに応えるのが保育、と学生たちが市場原理の一部になるように仕向けられている。

一部の学者が、保育に、ジェンダーフリーという「大人の利権争い」を持ち込んだことで、「女性らしさ」で成り立ってきた保育界が「心の根腐れ」を起こし、混乱している。

子どもたちは「ママがいい!」と毎年、慣らし保育の度に言っている。「子ども真ん中」と言うなら、まず、その願いの尊重からスタートすべきでしょう。

政治家や学者たちは、どうしてその叫びをここまで無視できるのか。それに慣れることは、私たちが幼児に見捨てられることです。

子どもの権利条約に、「できる限り父母を知り、父母によって養育されること」が権利として書かれ、

児童の権利宣言:第六条には、

「児童は、その人格の完全な、かつ、調和した発展のため、愛情と理解とを必要とする。児童は、できるかぎり、その両親の愛護と責任の下で、また、いかなる場合においても、愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てられなければならない。幼児は、例外的な場合を除き、その母から引き離されてはならない」と書かれた。

その権利が、家庭崩壊の流れを「機会の平等における『進歩』」と解釈する学者たちによって、子どもたちから奪われていく。

「もう、そういう時代じゃない」「日本は遅れているんです」、「もっと勉強しなさい」と言って、「なるべく母親が育てたほうがいい」と答案に書いた学生の心が、保育科で教える教授によって、不合格とされる。「社会で子育て」など出来ないことは、すでに結果が証明していて、それが義務教育に連鎖していると報道されているのに、母子分離を目指す政策が止まらない。こども未来戦略会議が言う、「こどもを安心して任せることので きる質の高い公教育を再生し充実させること 」など、もう無理なのです。親に返し、子どもたちが親を育てる力に望みを託すしかない。公教育は、親が親らしい、という前提の元に作られているのです。

権利宣言にある「愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てる」ことは、パートで繋いでいい、五日間で取れる「子育て支援員」の資格でいい、それさえもなくていい、という規制緩和の元で、できるわけないでしょう。それが、わかっていて、

人間性の本質に関わる問題に、一律に「合否の判定」を下す教授がいる。

この仕組みは一体何だろう。時の政権、政策の都合で動くのが学問の常とはいえ、この教授のやり方は傲慢であるだけでなく、稚拙だと思う。

人生は思うようにはなりません。

母親が育てることができない場合もあるだろうし、子育てから離れ、違う道筋を、自らの決断として選ぶ人がいて当然だと思う。ダーウィンの法則の一部でしょう。

しかし、

保育科にくる特別な、と私は思いたい、女性たちの、新鮮な、いわば一年目の母にも似た願いが、一律に「学問」で打ち消されるところを目の当たりにすると、腹立たしくなり、寒々しさを感じる。

「勉強なんかしなくていい」と思わず、教室から連れ出したくなる。

私が尊敬する園長たち(女性たち)の半数は保育資格を持っていなかったと思う。土地を提供することで始まることが多かった草創期の事情で、園長先生に資格は要らなかったのです。オルガンで一曲だけ弾けますよ、と笑う人も居ました。子ども好きな女性が、子どもたちに鍛えられ、親たちを見張り、様々な人生に寄り添い、日々一緒に育っていった。

やがて、その一帯の守り神のようになって、歩いているだけで、親たちが鎮まる、そんな光景にあちこちで出会いました。

その道祖神のような方々が、日本の保育界と「子どもたちの願い」を重ねていたのです。

11時間保育を標準と名づけた上に、就労規程を取り払い、「誰でも入れる保育園」を目指す政府の戦略、慣らし保育なしで最長7日間まで預けられる「子どものショートステイ」(生後60日から十八歳未満対象。育児疲れ、冠婚葬祭でもOK。一泊二千円から五千円)を、「圧倒的に整備が遅れている」と言ってしまう「方針」の背後に、この道祖神たちとは別次元に住む、学問でしか子育てを見ない、子どもに同情しない「専門家」たちがいて、「こども未来戦略」を立てている。

内村鑑三は、「教育で専門家は育つが、人は育たない」と百年前に言いましたが、産業化した高等教育は、すでに市場原理に取り憑かれている。

保育界には、その物差しを持ち込まないでほしい。

 

私が渡米した1980年代前半、米国で刑務所に収監されている女性は二万六千人でした。四十年後の現在、二十三万人になっている。そこから、人類に何が起こっているか感じてほしいのです。

増加率は男性の二倍、そして、母親が半数を超えている。

未婚の母から生まれる子どもが四割、首都ワシントンDCでは、六割の家庭に「大人の男性」がいない。実の父親という言葉はすでに歴史の中に葬られ、父親像を持たない子どもは五、六歳からギャング化する、という研究発表もありました。

仕組みが子育てを代行することで、男たちが無責任になり、心を鎮めるチャンスを放棄してゆく。そして、優しさや忍耐力が社会から欠けていくと、貧困、薬物戦争、性差別、が女性たちを直撃するのです。

そのフィールドに三十年住んでいた私には、そこで起こっていることが、日本の保育現場と重なって見えるのです。

 

「こども未来戦略会議」は、「こどもがいると今の趣味や自由な生活が続けられなくなる」といった背景を指摘するより、平等という言葉に隠された大人たちの「利権」争いが、子どもの人生をどう巻き込んでいくか、アメリカの女性の囚人の増え方から、考えてほしい。

(「自由な生活」が何を意味するか知りませんが、子育ては自由を失うこと。その、自由を失うこと、自由を捧げることに、喜びを感じるのが人間でしょう。それを体験的に知るために、幼児を可愛がる機会を増やしていくべき時代に、この「こども未来戦略会議」は一体何を目指しているのか。この国から人間性をなくしたいのか。)

一人ひとりの欲が、自分の子どもを可愛がることによって抑えられないと、家族という単位が機能しなくなる。福祉や教育では絶対に補いきれない。一時的に経済が活性化しても、自由が手に入ったように思えても、次にあるのは、不満が一瞬のうちに暴動につながっていく、自浄作用を失った社会なのです。

アインシュタインもドラッカーも指摘したように、日本は特殊な、選ばれた国です。

アインシュタインはその民族性を調和の美しさ、と言い、ドラッカーは経済発展にもそれが有効だったと指摘した。しかし、二人は外国人ですから、私たちが知っているこの国の真髄までは感じ取れない。その真髄は、子どもたちとの一体感なのです。そして、この国をまとめる力は、母性、そして祖母の視点だった。

調和の原点が元々そこにあったから、保育という領域で、この国の特殊性は際立ち、「女性らしさ」によって維持されてきたのです。

 

いま、政府が進めている母子分離による経済政策の愚かさは、この国の民族性、美しさと柔軟性を、税金を使って葬ろうとしていること。一度失ってからでは、手遅れになる。

幼児たちは「ママがいい!」と言っている。この子たちの偽りのない「警告」を聴くだけの文化と伝統が、この国には残されているはず。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。

日本の魅力を理解する外国人が増えています。アニメやJ-popの影響もありますが、落ち着いた「文化」そのものに惹かれる。風景とか空気感が、世界中の国々と比べて穏やかでバランスが取れているのです。それほど欧米の状況が不安定になっている、ということでもあるのです。欲の資本主義に支配されていない、この国の個性が、世界中の混沌の中で際立ち、人間を魅きつけるのです。

いい国、なのです。

遅れていたって、構わない。この国を大切にしなければいけない。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまで、どうぞ。

 

 

父の遺品と言葉

 

 

先月13日の読売新聞夕刊に、去年逝った、父の遺品と言葉が載っていました。
「母親が自分に読んでくれると言うのは、子どもにとって最高のことです。」(「私の言葉体験」から)

妹、「わにわに」の小風さちさんが、「人形に、幼い頃の自分と母親を重ねていたのかもしれません」とコメントしていました。
絵本も、児童文学もそうですが、何度も何度も読んでもらえる、繰り返し読めるのは、それが「体験」だからです。情報だとしたら、一度でだいたい覚えてしまうし、話の筋も、会話も知っている。
何度も読めるのは、生きた「体験」だからなのです。
私も、ドリトル先生などは、一冊につき5、6回は読みました。「秘密の湖」のあの神秘的、哲学的深さは、いまでも肌触りとして残っています。長靴下のピッピもそうですし、「飛ぶ教室」「太陽の戦士」「農場の少年」「トムは真夜中の庭で」「カラスが池の魔女」、私が思考する中核に、繰り返し読んだ児童文学の体験がはっきりとあります。
児童文学をたくさん読んでいれば、大人の誤魔化しには騙されない、そんな感じです。

アインシュタインが、情報は知識ではない、体験が知識なのだ、と言いました。わかる気がする。

その体験の根っこに、母親に読んでもらう(もちろん父親でもいいのですが)読み聞かせの体験があって欲しい、と父は思っていたのです。
こういう時代だからこそ、もう一度「読み聞かせ」を復活させてほしい。幼稚園、保育園で、親たちに薦めて欲しい。「一日一冊読んであげても、十分くらい。それが母親の言葉として記憶に残っていくんですよ」と教えてあげてほしい。それを、毎日積み重ねていくと、親子でした「体験」の土台が作られていく。こんなに便利な「道具」はないのです。

この時期の体験は、この時期しかできない体験です。お母さん、お父さんも新米で、子どもは、もうキラキラして親を信じている。そういう時に、人間社会の基本が出来上がっていくのです。

 

講演会のお知らせです。

石川県の金沢市て行われる、日保協青年部の研修会です。

対象者限定ではありますが、「県内外の各施設の施設長・園長、副園長、主幹保育 教諭、現場の保育士など 」となっています。申し込みが必要ですが、無料です。ぜひ、ご参加ください。

日保協の青年部が動いてくれるのは嬉しい。二代目三代目の若手園長たちに、母上、祖父母園長からの伝言を伝えるのは、四十年前から様々に教えを受けてきた私の役割りのような気がします。

今、保育界は政府の「保育は成長産業」とか、「誰でも保育園」とか、パートで繋いでもいい、11時間保育が「標準」などという規制緩和で揺らいでいます。

この仕事の「心」を、伝承しなければなりません。

子どもの最善の利益を優先する、という保育指針ならびに国連の子どもの権利条約を真ん中に置いて考えれば、混乱している保育界に必ず道筋が見えてくる。園と家庭が一体になって子育てができるように、子どもたちのために、保育士たちのために、現場が、立ち上がってほしいのです。

(講演依頼は、matsuikazu6@gmail.com まで、どうぞ。)

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日本保育協会石川県支部青年部研修会

   ママがいい! ~園と家庭の相互協力を目指して~

令和 5 年 10/6(金)15:00~16:30 

金沢市文化ホール二階 大集会室 〒920-0864 石川県金沢市高岡町15 

県内外の各施設の施設長・園長、副園長、主幹保育 教諭、現場の保育士など 100 名

https://forms.gle/txkW8xYQwnraeYgG7 :1 名につき 1 回お申し込みください