児童虐待がニュースになる度に思います

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児童虐待がニュースになる度に思います。

対応すべき児童相談所も、受け皿になるべき児童養護施設も保育所も、人員・人材的にも施設・予算的にもすでに限界を超えている。

一昨年始まった「未就学児の施設入所を原則停止」に見えるように、一般の人が気づかないところで財政削減が幼児の福祉を脅かす方向に進んでいる。ほとんど議論されないまま「施設入所、原則停止」に変えられている。

子育て支援員、地方限定保育資格、小規模保育、企業主導型保育事業、次々に作られた新しい制度は、15年前の認可保育園の基準から考えれば常軌を逸した、量を増やすための安易で危ない規制緩和でしかない。これに追い打ちをかけるように、保育の無償化が加わろうとしているのです。「待機児童対策」「雇用労働施策」「少子化対策」という面ばかりが強調され、幼児たちの「願い」どころか「安全」さえもが脅かされている。

そうした政府の「子育て」に関わる施策の乱暴な姿勢が家庭にまで影響し、それが浸透し広がっているように思える。

「週末、48時間子どもを親に返すのが心配です。せっかく五日間いい保育をしても月曜日、また噛みつくようになって戻ってくる」。

「せっかくお尻が綺麗になったのに、月曜日、また真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親たちを作り出しているのは私たちなのではないでしょうか」。

そういう声が頻繁に保育現場から聞かれるようになって久しいのです。エンゼルプランあたりから、すでに保育界は親たちの意識の変化に気づいていた。こうした週末に現れる兆候が将来の児童虐待を示唆していることに現場は気づいていました

親の子育てに対する意識の変化を、ほぼすべての保育現場で聞くようになったのが新エンゼルプランが、民主党政権が提唱した「子ども・子育て新システム」に移ったころでしょうか。現象や兆候があったにもかかわらず、政権が変わっても、三党合意の「子ども・子育て支援新制度」によって、「子育て」が以前にも増して保育現場に押し付けられるようになっていった。同時に、親たちが「子育て」を自分の責任と思う意識が薄れていった。総理大臣が3歳未満児をさらに40万人親から引き離せば女性が輝くと言えば、「子育て」は損な役割りのような気がしてもおかしくはない。そして、すべての政党が「待機児童をなくせ」と親子を不自然に引き離す施策を公約に掲げ続けたのですから、乳幼児を11時間預けることに躊躇しない親たちが増えてもおかしくはないのです。

しかし、その親たちの意識の変化を保育所も、こども園も受け切れないのです。保育士がいない。いい保育士がいない。子育てを「代行」する保育所の質を、これほど急速に悪くしておいて、同時に家庭においても、子育てがイライラの原因になるような状況を国が作っている。

「過密(かみつ)が噛みつきを生んでいる」、「一歳児を10人以上一部屋に入れると噛みつくようになる」と心配していた保育者たちが、「一歳児は噛みつく頃なんだから」と平気で言うようになってきたのです。

乳幼児にとって噛みつく体験、噛みつかれる体験が将来どういう行動に発展するのか、はっきりはわかりませんが、通常起こり得ない体験であることは確かなのです。

(2017年の記事です。)

「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞:https://mainichi.jp/articles/20170801/k00/00m/040/119000c

この記事にある「家庭に近い環境」という言葉は、政府の保育施策の失敗と財政のつじつま合わせをするための、厚労省や有識者の誤魔化しに過ぎない。

本当にそれがいいと信じるなら、子ども・子育て支援新制度で11時間保育を「標準」とは名付けない。8時間勤務の保育士に11時間保育を「標準」として押し付け、最後の2、3時間は無資格者でもいいとすることは、保育士に親身にならなくていい、と言っているようなもの。本来「家庭に近い環境」とは、親身さに囲まれている環境です。

新制度によって、無資格者や営利を目的とした業者が保育現場に携われるような規制緩和が行われ、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定がそれに拍車をかけていった。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような、「家庭に近い環境」からますます遠ざかる施策が、0、1、2歳児をもう40万人預かれという政府の数値目標のもとで行われていった。そして、養護施設が予算的にも人材的にも破綻し始めると、今度は7年以内に75%を里親に委託せよ、と言う。

政府の子育てに関わる施策は制度疲労を起こしているどころか、論理的に破綻している。経済優先の「無責任な施策」と「場当たり的言い訳と対処」の繰り返しが、家庭も含めた「子育ての現場」を急速に荒廃させている。それがすでに義務教育にまで達している。

当時講演先で、「未就学児の(児童養護施設、乳児院)施設入所原則停止」について、現場で関わる役人たちに、「こんなことして大丈夫ですか?」と聞いてみました。すでに市町村をまたいだ地区の児童相談所から説明を受けた課長もいます。まだ知らない人もいました。

数値目標を挙げて「里親を増やす」ことに関して、実の親の元へ帰る道、還す道を安易に閉ざしていいのでしょうか、という原則論を言う声が上がりました。

施設入所がいいのか、里親を探すのがいいのか、危うくなっていても何とか家庭を維持し実の親子関係を細心の注意を払いつつ見守るのがいいのか、一つ一つのケースに異なった事情と判断の難しい複雑な状況、そして何より「子どもたちの未来」があるのです。簡単には判断できない。一概には何も言えない。それが子育てに関わる福祉の現場です。そして、虐待があるからすぐに親子を引き離せるだけの仕組みには、予算的にも人材的にもなっていない。

(園長先生が、いま親を叱ったほうがいいのか、ここは見守ったほうがいいのか、悩むのが保育でした。それが最近では、親から「プライバシーの侵害だ!」と怒鳴られるのを恐れて、口を閉ざすようになっている。「保育園落ちた、日本死ね!」あたりから、連絡帳に書いてくる親たちの暴言が急増している。一緒に「子育て」しているという意識がなくなってきている。)

「里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とする」、こうした数値目標を掲げた欧米志向の施策を上からの指示で進めることによって、施設に居る間に親に立ち直ってもらう可能性を追求する努力が薄れ、なるべく実の親が育てるように行政が指導する姿勢が崩れます、という危惧の声があがりました。

この辺りが、実は「これからの福祉」全体の「姿勢」が問われる、重要な問題なのです。

いま問題になっている虐待死の悲劇は、児相や教育委員会の連携によって、確かに防ぐことができたのではないかと思います。

しかし欧米で起こってしまった現実を見ていると、福祉や教育に家庭の代わりはできない、というのが私の結論です。

(荒れている社会の象徴として、「傷害事件」の発生率を比べると、ベルギーが日本の30倍、フランス、オランダ、オーストリアが15倍、アメリカが11倍、ドイツ、カナダが7倍です。その背後に、実の両親揃って育てられる確率が半数を切っている異常な家庭崩壊率が存在しているのです。福祉国家と言われる国ほど家庭崩壊は進んでいる。欧米を目標にするなどあってはならないこと。比較すること自体が間違っている。)

未来の不確かな国家予算に頼る「福祉」より、親子という育ちあい、そこで育つ「人間性」、「幸福感」に頼るほうが確実ではないのかと思うのです。この国は、先進国で唯一その方向に進む可能性を残した国だと思います。「子育てを通して育まれる人間たちの絆」を信じることがこの国の使命ではないかと思うのです。

仕組みをしっかり整備すると同時に、「子育て」を、人間社会の心を一つにする、人間たちが自分のいい人間性に感動する、素晴らしいものという意識を、常識として取り戻していかなければならないと思うのです。

 

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一ヶ月後の謝恩会

 若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。
 「卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する」と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくるのだそうです。
 なるほど、という指摘です。(学校と保育園は、その趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。)
 ですから、卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている。相談相手がまだいない。
 そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付づき合う。お互いに相談し始める。親身になることの幸せに気づく。
 お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。
 一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。
 
 (人類に必要なのは「相談相手」。時にそれは、お地蔵さんだったり、盆栽だったり、海や山や川だったり……。0歳児が、その橋渡しをするのです。)
 
 (一ヶ月後の謝恩会が、DVや児童虐待に歯止めをかけるかもしれない。学級崩壊やいじめを減らすかもしれない。教師たちの精神的健康を保つのに役立つに違いない。それが当たり前になるような環境づくりが、社会を温かくするのだと思います。)
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 義務教育に「子育て」を引き受けることはできません。

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義務教育に「子育て」を引き受けることはできません。子育てを社会(仕組み)に依存しようとする親を、政府が経済施策として意図的に増やしている限り小一プロブレムや学級崩壊は止められない。そのことに気づいてほしい。子育てと「教育」を混同すると、心をともなわない「仕組み」はその責任を負えなくなる。

福祉や教育で壊された「心」を福祉や教育では補うことはできない。それが私が30年住んで欧米社会に見た結論でした。虐待防止と言って政府がチェック機能を強化しても、一度子育てに対する意識が変わってしまうと焼け石に水。価値観の変化、などと言っているうちに進む人間性の欠如は、本来、法律で取り締まれる問題ではありません。(家庭崩壊が進んだアメリカで、人口の140人にひとりが刑務所にいて、そこに市場原理が働く。刑務所が成長産業になっています。)

日本の保育(子育て)も、こういうことが起こりやすい仕組みに政府の施策によって作り変えられつつあります。欧米より安定していたこの国の家庭を、福祉によって親子関係が育ちにくい仕組みにしている。そうしておいて虐待防止ダイヤルとか、乳児期における身体検査、法律の強化を進める政治家のやったふり施策が、この国の義務教育のみならず、未来のあり方を追い詰めているように思えてなりません。

「人が仕組みをつくるのであって、仕組みが人をつくるのではない。」

保育の無償化を「人づくり革命」と名付ける人たちは、人間性の根元に流れる「生きる動機」、「人づくりは、人が自分自身を発見し体験すること」だということを忘れている。労働力を得るために親子を引き離しても、保育や教育で「人づくり」が出来るという発想は、「新しい経済政策パッケージ」を書いた「子育てを教育と勘違いしている人たち」の思い上がりだと思う。

子育ては、育てる側が人間性を身につけ(人間性を引き出され)、育てるもの同士が心を一つにすることが第一義でした。そして、一人で子育てはできないからこそ、人脈や絆が生まれ、弱者を見つめる思いの絆が社会の土台となって、人間は助け合うことに幸福を感じ進化してきた。

保育にしても学童にしても、「子育て」を市場原理に任せて誰でも参入できる仕組みにする方向に国は動いています。保育に理解のない人たちの参入を国が促しています。

子どもたちが利益追求の対象にされている。子育てはもう国に任せられるものではない。みんなで、それに気づいてほしい。