2017年は忘れられない年でした。

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 2017年は忘れられない年でした。
 全国で120回講演、新制度による混乱の影響で保育士さんたちに話す機会が多かったのですが、行政の人や市長さんにも一緒に話せる機会が幾度かありました。
 いま保育にできること(してはいけないこと)、保護者の意識の変化がどう保育者を悩ませ、それがどう学校に影響してくるか、など説明します。
 市長が理解してくれるとずいぶん施策に影響します。子育てはなるべく親がやるもの、その意識が薄れると福祉と教育では財源的にも人材的にも社会のモラルや秩序を支えきれなくなる。そう説明する横で、福祉部長と教育長が頷いてくれれば、ずいぶんいいのです。
 保育者体験も少しずつ広がり香川県でも始まりました。
 県単位で取り組むのは埼玉県、福井県、高知県に続き4県目です。いつか一気に広まってくれることに期待しつつ、精一杯説明します。
 幼稚園や学校での講演も増えた気がします。幼稚園で講演すると、0、1、2歳児とゆっくり時間を過ごし、乳幼児の不思議な役割を肌で感じ理解した親たちが多くいて、間違っていなかったんだ、と自分の決断に頷いてくれます。高等教育が普及したいま、幼児と過ごす時間を正真正銘の「学びの時間」と認識することが難しくなってきている。大学を出ると、そこで得た知識も使わずに「子育て」をしていることに「迷い」や「躊躇」を感じる人もいます。そういう人たちが、私の説明に、笑顔になってくれる。私の講演を聞いて、三日間くらい子どもが神様に見えました、という感想もあって、三日間でもそれが見えればいい。それは自分自身を「見た」ことでもある。その感覚は何度も蘇ってくるはずです、そこに人生の目的があります、と励まします。
 
 幼稚園が一つもない市もありました。そうかと思えば、8割の子どもが公立幼稚園を卒園する市もありました。公立幼稚園は経費がかかりますから全国的には絶滅危惧種と言ってもいいのに、その市での講演会には千人くらい公立幼稚園の保護者たちが来てくれて、一ヶ月後に熱い感想文を送ってきてくれました。公立幼稚園という形は、様々ある保育の形の中では親にあまりサービスをしないので、親子の絆がよく育つ。親同士の絆も助け合うことによってよく育つ。本来の人間社会の姿が見えて来る。
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 既存の園をほとんどこども園にしてしまった市がありました。小規模保育は作らないという市もあれば、増やそうとする市もありました。
 お金がかかっても保育の質は落とさないと頑張る市もあれば、財政削減の手段として公立園の民営化や保育士の非正規雇用化を積極的に進めている市もありました。
 それほど全国的に(子ども子育て支援)新制度に対する解釈が違います。それほど市長さんたちの「保育」に対する理解度に大きな差があるということでもあるのです。
 現場を知らない政府や御用学者の保育(経済)施策によって各地で混乱がますます進んでいます。
 市長さんや保育課長さん、時には議員たちの意識の差で、保育の質の地域格差がどんどん広がっていきます。「保育」の定義や目的さえバラバラになってきて、その結果、義務教育が混乱し、小一プロブレムや学級崩壊、いじめや不登校という子どもの人生を左右する現実に教師たちが追い込まれてゆく。
 
 いまさら保幼小連携などと言っても遅い。
 小一プロブレムに対応するために「壁」を低くし連携をスムーズにしようなどというのは、子育ての意味を知らない人が考える、その場限りの姑息な手段です。子どもの成長に「壁」は必要。転ぶからと言って道をなだらかにしては駄目なのです。
 
 親子関係が安定していれば、「壁」が子どもを育て、親を育てる。家族の絆は遊園地で育つのではない。「壁」や困難でより一層育つのです。
 「オロオロしない親は育たない親」と以前園長先生に言われたのを思い出します。
 そのオロオロを見て、子どもたちの中に何か大切なものが育ってゆく。そう信じればいいのです。
 伝統的に存在した「小一の壁」を仕組み上低くしたら、やがて高校や大学を卒業した時、もっと大きな壁にぶつかってひっくり返るかもしれない。その傾向はすでに現れています。その時の挫折は、人生において取り返しのつかないものになる可能性が高い。
 保幼小連携を、まるでサービス産業のように「親に楽させるために」進めるのはもうやめるべきです。
 手をつないで壁を乗り越えていける「親子関係」を就学前に育てること、就学に備えることは親の責任だということをどのように親に自覚させるかを考えるべきです。
 子育てにおける親へのサービスが、親であることの力を弱め、親子の信頼関係を崩していることにいい加減に気づいてほしいと思います。
 
 共通して、役場の人たちが言うのです。0歳児を預けるのを躊躇しない親が急に増えました、と。それを心配そうに言うのです。怖そうに言う人も居る。その親たちが5年後義務教育をさらに追い詰めるかもしれない。「子ども・子育て支援新制度」、馬鹿なことをしたものです。これに様々な「無償化」が加わったら、親の自覚も育たなければ、子どもたちの感謝の気持ちも育たない。
 そして、保育所保育指針の改定で、保育界に「教育」もやれと言う。しかし、いまそれを押し付けられても、それを受け入れるだけの仕組みにはもうなっていない。
 ここ数年の間に、保育士不足によって安定した保育の姿は壊されてしまった。子育て・保育の原則「子どもの最善の利益を優先する」という人間性の根幹さえ、政府の「経済優先」の雇用労働施策によって見えなくなってきている。募集しても倍率が出ない状況で、仕方なく雇われた質の悪い保育士が、「教育」(実はしつけ)を他人の子どもたちにやろうとしたら、虐待につながってゆく可能性だってある。小規模保育ではすでにそれに似た風景が現れている。
 未満児に話しかけない保育のことを耳にします。保育士にとって都合のいい保育が、親の気づかないところに現れている。「子どもが活き活きしたら、事故が起きる確率が高くなるでしょ」そんなことを平気で言う人が園長をしていたりする。
 そんなことを絶対に許さない仕組みを作ること、それが政府がしなければいけないことの第一。
 親子の将来、子どもの長い人生を考えたら、絶対にあってはならないことなのです。話しかけられなかった子ども、抱っこされなかった子どもも、ずっとこの社会の一員でありつづけるのです。「子どもを丁寧に、育てる。みんなで心を一つにして育てる」。それは難しいことではない。むしろ、みんなが安心することなのです。

教育と子育ての両立

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教育と子育ての両立

「教育」と「子育て」が混同され、義務教育の普及によってそれがますます進んでいる。学校教育に「子育て」を任せようとする依存度が増してきているのです。これが加速すると学校教育自体が維持できなくなる。アメリカという国が50年前に通った道です。(それに関しては参考資料ブログを後述)

教育と子育ては、時に表裏一体ですが、本来その動機において著しく異なります。欲と無欲、教育は欲を動機とする道を薦め、子育ては欲を捨てる「利他」の幸せを追求する、幸福論としては正反対のところに位置する。暴力(パワーゲーム)と非暴力(サティアグラハー)ほどにも異なります。

政府が進める待機児童対策の裏に、経済論を背景にした「社会で子育て」(仕組みで子育て)という考え方があります。乳幼児期から親子を保育園を使って引き放せば、女性が輝く、とまで首相が国会で言い、マスコミもほとんどそれに異論を唱えない。このまま、子育ては誰かがやってくれるものという意識が広がると、その結果、保育や学校、福祉という仕組みが一気に疲弊してくる。

学校という形でする「教育」は100年ほどの歴史しかありません。人類未体験の新しい実験で、欧米先進国では「家庭崩壊」というモラル・秩序の崩壊につながる現象を生んでしまいました。一方、「子育て」は古代からの進化の過程に属するもの。人間性の原点が、双方向に、そこで培われる。その違いを思い出してほしい。

学校と家庭の両立、教育と子育ての両立が社会の調和には不可欠です。日本なら、まだ間に合うと思うのです。

 

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(以前、以下のような文章を書きました。現場を知らない文化人や学者によって政府の保育施策が進められることに苛立っていた頃です。言葉が乱暴ですみません。あれから、すでに十数年が経ち、現場はますます追い込まれています。)

(拙著:「21世紀の子育て」から)

教育改革国民会議という政府の諮問機関の座長に、江崎玲於奈というノーベル賞をとった学者がいて、この人が先日テレビ朝日のニュースステーションに出演して言うのです。(2012年当時)

「子どもの個性をのばさなければいけない。200人に一人は数学や物理に才能のある子どもがいるそうで、そういう子どもがのびるような教育をしなければならない。アメリカではちゃんとそれをやっている」

こんな発言をする人を座長にしている政府が作った「国民会議」。文化人や学者が首相官邸に集まってする会議だそうです。座長さん自体は人間的に、いい人だと思います。それは直感的にわかるのですが……、本当に問題の本質が見えているのでしょうか。

 「アメリカではちゃんとそれをやっている」と言うなら、その前に、アメリカの高校教育が200人のうち40人の、社会で通用するだけの読み書きのできない卒業生を生むこと、200人のうち3人の親がすでに学校を見離しホームスクールで子どもを家庭で教育していること、音楽や美術の授業はほとんどの学校で廃止されているということをどう考えるのか言ってほしいのです。高校の国語(英語)の先生の国語力が問われ、カリフォルニア州の司法長官が義務教育を指して「政府には子どもを強制的に危険な環境に送り込む権利はない」と言わしめ、大統領自ら率先して公立学校に制服を取り入れようと発言している現状をどう考えるのか……。

生番組の短い時間内で、アメリカの現状を語るのは無理だとは思いますが、理数系の学校教育が今、実際にはどうなっているか。

元宇宙飛行士のジョン・グレン上院議員が座長をつとめるアメリカ政府の教育諮問機関が、つい先日、数学と科学に関しては、先進国41カ国中アメリカの子どもたちの学力はほぼ最下位、しかも、学校で理数系を教える教師の20%が、理数系を教える教員資格を持っていない、理数系を教えることができる教員を増やすことが、アメリカにとっては死活問題、という報告をしていました。これが実態です。

なぜ実態を隠すようなことを日本の全国ネットのテレビで言うのでしょうか。その意図が私にはわからない。

ノーベル賞ももらったことだし、いまさら、自分の欧米体験を自慢して稼ぐ必要はないはずです。日本は確かに研究者には不利な国ですから、それに苛立って少々欧米かぶれの発言をする学者がいても仕方がないとは思います。私が言いたいのは、なぜ、国民会議の座長にしなければいけないのか。なぜマスコミで「アメリカを見習ったほうがいい」という宣伝をしなければならないのか、ということです。

この人は、音楽や美術の才能は「個性」と認めていないのでしょうか、数学とか物理とか、世の中で企業のお金儲けや競争に役に立つものだけが個性だと思っているのでしょうか。それは、とてもアメリカ的考え方かもしれません。

芸術は役に立たない、そうした片寄った考え方によって、アメリカの公立学校から音楽と美術の授業が消えていったのです。

 私は音楽家でもあるので、こういう発言には腹が立ちます。

音楽という「祈り」と重なる不思議なものが、こういう時代だからこそ必要なはず。

昨年アメリカでヒットし日本にも来たハリウッド映画「ミュージック・オブ・ザ・ハート」を見ていただければ、アメリカの学校教育の中で音楽がどれくらい軽んじられているか、その中で、音楽を愛する教師と子どもたちが苦しみ、絶望感を感じ、また損をしているかがわかると思います。数年前に上映された「陽のあたる教室」という映画も、オレゴン州で公教育から音楽の授業が廃止された時の話でした。

こういう映画をアメリカ信仰の日本人が見ると、情熱を持った素晴らしい教師の話になってしまうのでしょう。たしかに素晴らしい教師の話ですが、その背景に、音楽の授業が消えるというだけではなく、アメリカの学校教育システムの崩壊、教師の堕落、子どもたちの心の荒廃、画一教育ができなくなってしまった現実、そうしたものがたくさん映し出されているのです。

《ハリウッド映画のヒット作に「Pay it forward」(日本ではペイ・フォワード)というのがあります。是非見て下さい。本当のアメリカ社会が理解できます。主人公の少年を取り囲む環境、人間関係、家族関係、DV、児童虐待は、もはやこの国ではけっして特殊なものではないのです。》

 「学問」の対極にあるのが「芸術」なら、システマチックな幸福論と祈りの幸福論のせめぎ合いがそこにあるのかもしれない。しかしアインシュタインの写真をじっと見ていると、この人が「祈る人」であったことは間違いない。回り道をせずにシステムと祈りを直結できる人が「会議」には必要です。

The high school dropout rate in the United States is 27% – in Japan the rate is 5% and in the former Soviet Union the rate was 2%.

-U.S. Department of Education

Illiteracy is not a problem for just a select group of people. According to the National Education Association, 41% of illiterates are white, 22% are English-speaking African Americans, 22% are Spanish speaking, and 15% are other non-English speaking peoples.

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アメリカにおける学校教育やそれに伴う家庭崩壊について。ブログにいくつか書きました。

「ホームスクール(学校教育システムの否定)・第三世界型学校教育・ベトナム難民の子どもたち」

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1064

「米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊」

:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428

「より良い生活(Better Life)の幻想」

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1079

「プジェクト2000」国が用意するシステムと家庭の境界線

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1062

「“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実」

:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=276

帰って来れる場所

子どもにとって母親の仕事は母親の時間を争うライバルでしかありえません。それがどんなに素晴らしい、その母親にしかできない、社会的に意味のある仕事であっても関係ありません。そこで母親が輝けば輝くほどますます腹を立てるのが普通です。

母親が働くことが一家の生活に不可欠であることを繰り返し説明し理解させる。そして、働きながらも母親の心の中で優先順位はまぎれもなく子どもであることを感じさせるしか、子どもとの良い関係を保つ方法はありません。「あなたが優先なの」と子どもに感じさせようと思ったら、本気でそう思うしかありません。本気で悩む、本気で後ろめたさを噛みしめる、逃げずに本気で思えば結構通じるものです。

 時間がかかるかもしれません。伝わるのが、子どもが親になった時になるかもしれません。親が死んでしまってからかもしれません。しかし、通じるのです。親子関係というのはやり方でも成果でもなく、ましてやタイムリミットがあるものでもありません。心のあり方とコミュニケーションだということを忘れてはいけません。

(親として悩んだ時、いい親でいたいと思った時、子どもの幸せを願う時、優しい顔をしていない人のアドバイスや意見には絶対に耳を傾けないこと。強者の意見は子育てには向きません。)

(子どもに幸せになってほしければ野心を抱かせないことです。どうしても夢を追求する子に育てたいのなら、夢破れた時に帰って来れる場所、家庭という異なった幸福のものさしを用意しておいてやることが大切です。帰って来れる場所を作れる子どもに育てることです。)

 

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「夢」が奨励されればされるほど、不安やイライラが社会全体に蓄積し、子育てをしている母親たちに少しずつ伝染していく。

子育ては、まさに「現実」。

「自己表現」も「自己主張」も通用しない、思うようにならない「生活」そのものです。それを宇宙は私たちに与えたのです。そこから真の幸福論をつかみとれ、と。

 

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「一度しかない人生、自分らしい生き方」

「人生輝いていなくてはいけない」

「一人の女にかえれ」

こんな言葉が頭に浮かんでくると自分の人生が色褪せたものに見えてくる。

そして自分の「夢」(本当は「欲」の場合が多いのですが)をさまたげているのが子どものように思えてくる。

「欲」は持たないほうがいい、と言えばうなずく人が多いのに、「夢」は持たないようがいい、と言われれば納得できない。それで良いのですが、最近、「夢」のほとんどが社会的成功、経済的成功や有名になることになってきていることに気づきませんか?

「夢」は、もっと幸福論に近いものでなければいけないはず。

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「夢」と「欲」

「夢」と「欲」の区別はつきにくい。それはたぶん表裏一体のものでしょう。夢を持てば不安になって当然です。「夢を持って生きる」という言葉の響きは美しいけれど、「不安を手に入れよう」と言っていることと大差ない。その不安を克服しつつ、夢に向かって進み続ける強い人間もいるでしょう。しかし、よほどの強さか運を持ち合わせていないかぎり、現実はそんなに甘いものではない。

(アメリカでは5%の人が90%以上の富を握っている。競争社会で成功する、「勝つ」ことを目標にしてもその「夢」は、ほとんどかなわない。それが現実です。失敗する人が多いから、一部の人が儲かる。経済論というのはネズミ講のネズミをいかに増やすか、みたいなものなのです。)

学校教育は子どもたちに与える目標として、何かを達成する、成し遂げる幸福感ではなく、それに取り組む過程における「人間関係」に幸福感を見い出すように子どもたちを導かなければなりません。目標はあくまで目標であって懸命に努力さえすれば、たとえそこに到達しなくても、場合によっては共に失敗したからこそ、より一層親密な人間関係がまわりに生まれるのだということを体験させるべきなのです。(子育ての幸福感と重なります。)

学校を使って、親密な人間関係に幸福感の土台があるのだということを子どもたちに教えることが出来たらと思います。

夢破れた時に、帰るところがあればいいだけのことなのです。

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 夢を追いつつ人間関係を作ってゆけばいいのです。夢を追い競争する中で、逆に、競争に勝つことではない、人間どうしの助け合い、優しさに目覚めていけばいいのです。

 でも、それと同時に、わらしべ長者や三年寝太郎のような人たちの存在感、その意味、みたいなものを教えていく。それは、幼児と接するということでできます。誰が一番幸せそうか、と考えたときに、3、4歳児が一番幸せそう、幸せに簡単になれる人たち、ということを学校教育の中で、保育体験などをさせて、体験的に学ばせてゆくといい。

未就学児の施設入所を原則停止(返信)

(未就学児の施設入所を原則停止について書いた文章にコメントをいただき、それに対する返信です。)

ありがとうございます。乳児院の子どもたちに興味を持たれていること、嬉しいですね。以前、ブログに「愛されることへの飢餓感・荒れる児童」
http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1676 を書きました。とても難しい問題で、社会全体の流れの中で起こっていること、と捉えないと、個々の状況があまりにも違いすぎて解決策などありえないのですが、いきなり原則停止みたいなことが行われてしまう現状に、当事者たちは何も言えない。それを実行しなければいけない行政の人たちも何も言えない。

だからこそ福祉という仕組みに関しては安易な改革は危険だと思います。幼保一体化、無償化、保育の規制緩和、安易な待機児童施策、最近あまりにも早い速度で、学者と政治家(主にそう思われる)による無責任な改革が進んでいて、保育・教育の現場が混乱し疲弊しています。0歳児がしゃべれないからこそ、大人たちの想像力が大切です。保育・教育は「感謝」でなりたっていたことを思い出さないと、いい保育士、いい教師が去ってゆく。そこに気づいてほしいと思います。