ジョン・ルイス下院議員が亡くなった

ジョン・ルイス下院議員が亡くなった。連邦議会に掲げられた国旗が半旗になっている。

キング牧師と行進し、「血の日曜日」で負傷し、マハトマ・ガンジーのアヒンサー(非暴力)、サティヤーグラハの思想をアメリカ連邦議会で貫き通した人。https://www.bbc.com/japanese/53453905

60年代の初頭、反戦運動は、徴兵制を挟んで国と対峙することでもあった。そして、人種差別に反対する人権運動は、憲法を挟んで国と対峙することだった。

目標への近道は、国という概念を捨てること。しかし、ジョン・ルイスは下院議員として闘い、民主党だけでなく、共和党議員からも一目も二目も置かれ、いまその死を悼んで、惜しんで、半期が掲げられている。優しく、力強く歩く、哲人が、逝った。

Unknown

いい人になること:「非認知能力」

2020年7月

いい人になること:「非認知能力」

アメリカで自由と権利を叫び、マスクをつけず集団で騒ぎ、賭け事を楽しむように感染を広げている若者たちの姿をCNNやABCのニュースで見ます。人間は自暴自棄になった時「自由とか権利」という言葉を使い自らの「責任」を回避するのだな、と思います。高等教育の普及と豊かさによって、人間の絆は本来の方向性を失う。

一連の「Black Lives Matter」の運動でもわかるように、南北戦争の決着はいまだについていないのです。

憲法で平等をうたいながら、人種差別は歴然と続いてきた。その矛盾は時を重ね、澱のように溜まって日常となり亀裂はここまで深くなっていた。

「Make America Great Again」(アメリカを再び偉大な国に)と大統領が叫んでも、多くのアメリカ国民にとって、特に有色人種や貧困層、差別される側や弱者にとってアメリカが偉大だったことなど一度もない。

自己中心的で無責任な人たちの行動によってウイルス感染が爆発的に広がっている。逼迫していく医療現場の絶望感が、医師や看護師の証言から伝わってきます。自身や、家族を感染のリスクにさらしながら、人を救うことが虚しくなってくる。ウイルス対策と言うよりも、人間同士の「絆」の崩壊との闘いに多くの人たちが呆然としている。

そこに人間性を失った「仕組み」の限界が見えるのです。経済という言葉でごまかしてきた、「欲の結末」、「人間性の喪失」が様々な形で露呈してきているのがわかるのです。

ロサンゼルスで教師をしている友人から、「日本はどうなっている?」とメールがきました。

「八月に学校を再開しなければ予算を削減するとトランプは言うけれど、感染者や死者は学校が閉鎖された4月よりも増えている。体の弱い教師もいれば、60歳を超える人も現場にはたくさんいる。いま再開するのは無理だと思う。彼(トランプ)は、子どもや教師たちの命より、経済を優先している。しかも論理が破綻している」

これを機に退職を考えている、と彼女は言うのです。子どもたちに人気がある、全米Teachers of the Yearにまでなった、私にとって大切な人です。

とにかく安全に過ごして欲しい、とメールを返しました。

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その後、自治体の権限で八月はとりあえずオンラインによる授業再開を目指すことになりましたが、心を失った仕組みに嫌気がさし、彼女のように辞めていくベテラン教師が、大統領の現場無視の発言のあと急に増えている、とニュースが伝えていました。

数年前に日本で、政府が子ども・子育て支援新制度で十一時間保育を「標準」と名付けたとき、そして保育を「成長産業」と閣議決定したとき、あきらめ顔で辞めていったベテラン保育士たちを思い出します。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2822)

保育も教育も、しょせん人間が子どもたちの幸せを願って行うもの。人材の質と心がその中芯であり、伝わっていくべきものは「魂」です。

アメリカの学校教育は日本以上に、家庭の補完的な役割を負っています。

家庭内暴力や子どもたちを取り巻く貧困も日本の比ではありません。毎年、親による虐待で病院に運ばれる子どもが80万人。人口比で計算すれば、日本で毎年30万人の子どもが親による虐待で重傷を負うということです。毎年、なのです。フードバンクも破綻しそうな状況では、学校給食の果たす役割は大きい。国家が用意する仕組み(福祉や教育)と、「家庭」との境界線は、ますます曖昧になっています。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1062「『プジェクト2000』国が用意するシステムと家庭の境界線」)

私には、日本という国の今の不思議な落ち着きが嬉しい。もちろん、無責任な光景は小さな規模ではあるでしょう。モラルの崩壊は、日本でも確実に進んでいる。医療現場の困惑、教育、保育現場の不安は、目の前にある明日の現実を直感しています。

場当たり的で、無感覚とも思える政府の対策に、私も、不満はあります。でも、再選のために分断を煽るアメリカの現政権よりは、はるかにマシ。このやり方には、与党共和党の中からも反発が起こっています。大統領選挙を秋に控えた「反発」は異例中の異例です。

内包する不正と差別意識で信頼を失墜しているアメリカの警察で退職する警察官が急増しています。そして、コロナウイルス騒動が始まった頃、日本でトイレットペーパーやマスクが品切れを起こしていた時期に、アメリカでは拳銃と弾薬が品切れを起こしていた。

予測通りに銃の発砲事件、子どもが巻き込まれる悲劇が頻発しています。警察のみならず、機能が滞っている司法制度がまったくこの状況に追いつかない。陪審員を集めることさえ困難になっている。こんな状況が続けば、あの「法と秩序」という言葉が息を吹き返し、勢いを取り戻してくるかもしれない。

EU(ヨーロッパ共同体)も、これから人種間、宗教間で起こる様々な問題が山火事のそばの火薬庫のように弾けるのを待っている状況です。ウイルスの感染が既存の軋轢、イライラと不満に一斉に火をつけそうです。

独裁の方が儲かる、と人々が思い始めているようなロシアや、格差を利用して国家的損得勘定で動く新しい形の資本主義を進める中国、シリア難民に代表される強者の身勝手によって作られた貧困層の惨状を考えると、世界の混沌は収拾のつかないところまで進んでいます。

ひしひしと、日本で生活している「運の良さ」を感じます。

この国だけでもバランスを保ってほしい。もうしばらく、時間を稼いで欲しい。制度や仕組みが限界にきているいま、人間らしさを仕組みに取り戻す試行錯誤をしてみて欲しい。だからこそ保育なのだと思います。乳幼児の存在感を人々がふつうに意識し、あの人たちとの接触を極力増やしていくことしか対策は残されていないと、私は思う。

子どもを優先に考えていれば、人類はだいじょうぶ、と繰り返し言いたくなるのです。

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「非認知能力」

日本で、「非認知能力」という言葉が流行った時期がありました。

幼児教育とか保育の現場でも盛んに使われるようになり、私の耳にも入っていました。

その日の保育は担当する保育者の当たり外れ、つまり人間性による。知識や手法で子育てができるようなことを言ってはいけない、この時期に親たちがどう育つかの方が重要、と言い続けてきた私は、また専門用語のようなものを流布し誰かが儲けようとしている、くらいに思い、気にはしていなかったのですが、幼稚園の園長先生たちの勉強会で、

「非認知能力について、松居先生の意見を伺いたい」という質問を講演前にもらい、一応調べてみたのです。去年のことです。

ネットで調べると、こんな説明が出てきました。

「非認知的能力とは、『忍耐力・社会性・感情コントロール』の3つを中心として、さまざまな要素がある。幼児期に非認知能力を高める教育を受けると、成人後もその効果が続き、社会的な成功や健全な生活につながるという研究(ノーベル経済学賞受賞のジェームズ・ヘックマン)が有名」とあります。

数字で測れない能力が大切だという趣旨で使われているようです。

分かりやすく言えば、「我慢すること、仲良くすること、カッカしたり、イライラしないこと」でしょう。昔の親がよく言っていた「人に迷惑をかけない子に育ってほしい」という願いと重なる。

私は、勉強会で言いました。

「とても大切なことです。いい人なりなさい、学力を身につけるよりもその方が安定した人生が送れますよ、ということで正論だと思います。宗教やことわざが繰り返し言い、人類が次世代に常識として伝えてきたことでもある、当たり前のことです」。

そして、付け加えました。

「非認知能力に、いま最も欠けると思われるのがアメリカのトランプ大統領です。我慢できない。感情を抑えられない、他人の気持ちを理解しようとしない、協調性がない。アメリカで競っていると気づくのですが、この非認知能力に欠ける人は競争社会で成功する確率が高い。政治家もそうですが、モラル・秩序に欠け、人を押しのけてでも勝とうとする人たちは金持ちや権力者になりやすい。でも、それで幸せになれるかというと、そうでもない」

そして、

「聖書や仏教の教えなどは、そういう人にならないように、薦めてきました。トランプ大統領のような人物を成功者と見て、アメリカン・ドリームという、夢ではなく『欲』を追求する空気が社会を覆い始めると、社会全体に非認知能力が欠けてくる。殺伐として、弱者に辛い社会になっていく。弱者の存在をないがしろにすると、あらゆる社会の仕組みから非認知能力が消えていく」

そこまで説明すると、園長先生たちも、とても、よくわかりました、と大笑い。

私は、もう一つ問題点を指摘しました。

「ただし、『非認知能力を高める教育』という言い方は危ないと思います。専門用語や横文字を使うと、自分たちにはそういう教育ができないのではないか、と親たちが思うかもしれない。そこが怖い。親たちが幼稚園に子どもたちの『人間性」を育てて欲しいと要求するようになったら幼稚園は受けきれません。それでは親たちの非認知能力が育たない。親たちの非認知能力が、子育てをしながら育つことの方が、子どもの安定と将来の幸福には重要です」

日本でこうした言葉が流行るとき、その多くに「欧米では」という前置きがあって、それが「成功する秘訣」のように語られます。「教育」と「成功」という言葉が重なり過ぎると、教育が社会から人間性を奪い始めるのです。しかし、元々これを言い出したアメリカの学者は、非認知能力が高いほど経済的に安定した健全な人生が送れる確率が高いと言っているのであって、「幸せになる秘訣」という解釈の方に近い。簡単に言えば、「いい人になれば、幸せな人生を送れる可能性が高いですよ」ということです。

ノーベル賞を受賞した学者が、こんな当たり前のことを言わざるを得ないほどに、アメリカ社会は経済主体、強者優先、個人主義が定着してしまって、社会として生きる方向性を失い、混迷を極めているということ。

(国を挙げて「Black Lives Matter」と人種差別撤廃の方向へ動いているように見えますが、その言葉を避け、ラテン系の移民を一律犯罪者のように言い、女性蔑視の言動や行動を続けてきた大統領が、いまだに四割近くの国民に支持されている。平等論や人権尊重よりも、経済優先、それどころか、格差こそが経済を動かすという論理が根付いている。それが危ない最近の「現実」です。)

そして、この学者は幼児教育の重要性を説くのです。

それを長く受けた人間は非認知能力が高い水準で維持されるというのですが、ここに困ったトリックがもう一つある。

乳幼児期に幼稚園や保育園に長く行くと「いい人」になる、社会的に成功すると言っているように聞こえます。しかし、実はそうではなくて、それほどアメリカ(欧米)では「家庭における子育て力」が落ちてしまった、ということ。実の両親に育てられる子どもが半数を下回っている。近親相姦の多さなどに現れていますが、幼稚園や保育園の方が、子どもの育ちを考えると「家庭」よりマシということ。それは、多分この学者がいう通りなのだと思いますが、実は人類にとって取り返しがつかない、とんでもない問題なのです。

非認知能力は、人間が、互いに人生を重ね合う中で、悲しみと喜びの共有から自然に生まれるものです。社会を形成するために大切な遺伝子がオンになってくるプロセスと言ってもいい。非認知能力は、悲しみと喜びを一緒に背負うことによって身につくのだと思います。

家族という運命共同体がそれを育む土壌そのもので、必須になっていた。

幼稚園や保育園で、または学校という仕組みで、子どもを良い子に育てることはできません。親が、教師や保育者を信頼し、お互いに心を一つにすれば可能かもしれませんが、そんな状況は、七十年くらい前に一度訪れ、あっと言う間に過ぎ去ってしまった。「親が子どもたちの幸せを願い、それを優先すること」と、「義務教育の普及」が、かろうじて重なった瞬間がその頃この国であった。民主主義が可能かもしれないと思われる瞬間は確かにあった。

いや、個々のケースで考えれば、今でも、幼稚園、保育園、学校が、子どもたちを「良い人」に育てている例はたくさんあります。担任の先生や、部活の顧問、園長先生たち、保育者、そして同級生や友だちに心から感謝です。しかし、それも親子関係というベースがしっかりあってこそ可能なのです。

すみません。私が言いたいのは、制度としてそれを引き受けることはできない、人材的に無理がある、だから安易に引き受けようとしてはいけない、と言う意味です。制度として引き受けようとすると、制度を支える「家庭」が崩れていく、それによってニーズが増え人材確保が追いつかなくなる、そのことの方が致命的だと言いたいのです。

欧米を追いかける家庭崩壊がこの国でも始まっています。だからこそ、保育士や教師という仕事は大切で、やり甲斐のある仕事で、頑張ってほしい。この人たちの幸せを必死に支えなければいけない。それには、「あんたの子だろ」と、必要な時に園長が親に言える雰囲気を現場に残しておかなければいけない。

募集しても倍率が出ない、保育士の給料がすべての職種の平均より月10万円も低いなどという仕組みでは到底無理だということを、まず、最初に親たちが認識して欲しい。

丁寧に書けなくて、すみません。

衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号にもう少し丁寧に書きました。ぜひ、読んでみてください。

本来、非認知能力が育つ土壌は、子どもの周りで生きている人々が心を一つにして、「可愛がる」という風景であって、子どもを拝み、楽しみながら受け継がれていくものでした。

私が以前インドで見た風景が、今でも語りかけてくるのです。

親が子どもの幸せを願い、子どもが親の願いをかなえようとする、それが世代を超えて糸車のように回っていく。

私の作ったドキュメンタリー映画からです。

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http://youtu.be/HQzmRCO_vTw

この風景を見て、貧しい村人の親子の「持参金」をめぐる発言を、無教養だから、教育を受けていないから、と言う人もいるでしょう。それは確かにそうでしょう。しかし、学問よりも深く、より単純な法則がそこにはあって、DNAの中に仕組まれた伝承の力が「子育て」を柱に、その法則をつないできた。これを忘れるとすべての制度や仕組みが人間性(非認知能力)を失っていくのだ、ということも事実です。

「いい人」とは? と言う問いかけが残ります。

キリスト教では「愛にあふれた人」と言い、仏教では「慈悲深い人」という言い方になるのでしょうか。普通の人、ふつうの親、ということです。

欧米の家庭崩壊に関しては以下のリンクを参照にしてください。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1413 (捨てられる養子たち)

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428 (米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊)

衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号 2019.12」

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/2019ron16.pdf/$File/2019ron16.pdf

世界中が未曾有の体験をしている

コロナの問題が始まって、今年の私の講演会は見事に、すべて一旦キャンセルになりました。(嬉しいことに、仮押さえが秋に入ってはきていますが、これからの状況次第なのでしょう。)こういうことが起きるんだ、と驚いています。世界中を見渡しても大変な出来事が起こっているわけですが、自分の人生においても、これほど長い間人前で講演をしないのは、過去40年間一度もない不思議な体験です。

自粛という言葉を修行と捉え、元々のんびり過ごすのが苦にならない質なので、文章を書いたり、本を読んだり、テレビを見ながら過ごしていました。特に、アメリカのCNN、ABC、CBSのニュースはほぼ欠かさず見ていました。トランプ大統領の発言があまりにも子どもじみていて、それにニュースキャスターや評論家があきれ返り、大統領補佐官や学者が次々に内幕を暴露し、もう論理が破綻するどころか、子どもの喧嘩、支離滅裂といってもいい状況です。しかし、40%の支持率は中々崩れない。人間社会は実はこのくらいの次元で動いていたんだ、と驚きながらも、妙に納得です。

そうだ、こういう時は音楽をやろうと思い付き、旧知のディジュリドゥ奏者のぶ君に電話をかけました。

ただ演奏すればいい、そんな体験を彼とは今までにもしてきました。水を汲みに行って、山に向かって感謝の演奏をしたり、無住の、しかし(のぶ君曰く)保育界にはとても重要な神社で奉納演奏していると、山からカモシカが出てきたり(北陸の瀬織津姫神社です)、観客がいる設定とは異なる、音楽をする「場」を体験してきていました。尺八とディジュリドゥにはそういう場がことさら似合うのです。

世界中が未曾有の体験をしている時、音楽家は、音楽の本来の役割を思い出すことができる。人類は、生きるために不可欠な、大切なコミュニケーションの領域をすでに授かっている。そんなことが表現できれば、ミュージシャン冥利に尽きます。主張を可能性につなげることができるインターネットやユーチューブにも感謝です。

https://youtu.be/bztoQmQfUUU

実相寺2

アボリジニーの楽器ディジュリドゥと私の尺八、それに大倉正之助さんの鼓を加えて、池上實相寺で即興演奏の第二弾です。

實相寺は以前からのぶ君が知っていて、私も彼のグループIamに加わって演奏したことがありました。住職の奥様が、私が三年に一度くらい講演にいく柴又帝釈天のルンピニー幼稚園の早崎園長先生と友人でもあったりして、縁を感じる場所でもありました。

お寺は祈りの場として先祖から伝えられて来た特別な空間です。ここで行われる、一見人間の想像力の中に存在しているように思える特殊なコミュニケーションの領域が、今、必要とされている、と強く思います。そんな想いを込めて、吹きました。

人々が祈ろうとする時、それは自己中心的であることを放棄しようとする瞬間でもあります。利他の心が人間を支える、仏教でもキリスト教でもイスラム教でも儒教でも、人間の智慧は皆同じことを言いますが、人それぞれが自分中心に生きては人間社会は成り立たない。人は、自分の幸せを欲という形で追求しても、なかなか幸せにはなれない。宗教や哲学が繰り返し言って来たことが、いま人類が直面している大きな災いを鎮める鍵になっています。

誰かのために生きること、それは人類の遺伝子の中に組み込まれている法則ですから、やがてそうなっていくのだと思います。

人間は一人では生きられない形で生まれてくる。乳児、幼児たちを見つめることが利他の心の出発点です。彼らの存在意義がますます重要になってきています。彼らが私たちを導く、それが人間社会の本来の姿だと皆で気づく時なのです。

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去年、依頼を受け、衆議院調査局「RESEARCH BUREAU 論究第16号 2019.12」に「子供を優先する、子育て支援」を書きました。ぜひご一読ください。衆議院、論究、松居和、で検索しても出てきます。アドレスはこちらです。推薦、拡散していただければ幸いです。経済主体か人間性主体なのか、その優先順位を見極めておく時が来ているのだと思います。

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwieipSTu7DqAhXPc3AKHQkACEgQFjAAegQIAhAB&url=http%3A%2F%2Fwww.shugiin.go.jp%2Finternet%2Fitdb_rchome.nsf%2Fhtml%2Frchome%2FShiryo%2F2019ron16.pdf%2F%24File%2F2019ron16.pdf&usg=AOvVaw3j57h-lsSZV_vE0_s9Tpmm

 

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/Shiryo/2019ron16.pdf/$File/2019ron16.pdf

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