Y市の試み・そして「鳥取県が家庭保育への給付金」

「家庭で乳児の子育てをする人への給付金」、同様の制度を始めようとしている市の行政の方から、

『今日のニュースで鳥取県が県レベルで家庭保育への給付金を創設するというニュースがありました。』という知らせがありました。

http://www.sankei.com/west/news/170118/wst1701180086-n1.html …

鳥取県は18日、0歳児を保育所などに預けていない「在宅育児世帯」を対象に、現金給付を含めた支援制度を平成29年度から開始する意向を各市町村に示した。県によると、1億~2億円を予算案に計上する。都道府県レベルでこうした制度を導入するのは初めて。

県が作成した制度案では、事業主体は市町村とし、児童1人当たり月に3万円程度の給付を想定。県は1万5千円を上限に助成する。現金給付の他に一時預かりサービスの利用補助や子育て用品などの現物給付も選択可能とし、所得制限を導入するかどうかも含めて各市町村に判断を委ねる。

子育ての経済的負担から出産をためらうケースを減らす狙いもある。各市町村長らが出席した行政懇談会で、平井伸治知事は「子育て支援に厚みを出し、ぜひ多くの子育て世帯を応援したい」と理解を求めた。

市町村長らからは「家庭での子育てを促す」「保育士不足対策としても効果がある」など肯定的な意見が多数を占めた。

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この方法が、全国に広がることを期待しています。0歳だけでなく、2歳児くらいまで広がってほしい。保育界を追い詰めている保育士不足と、市場原理がもたらした急速な保育環境の質の低下に対応するには、なるべく親が育てる、この方向しかないと思います。

全国的に見ても、3歳未満児を育てる親に月額5万円の直接給付をしても、いま未満児保育に使っている税の総額より安く済むかもしれない。保育料を払っている親たちの多くが、自分で仕組みを支えていると思っているようなのですが、東京都などでは0歳児の保育に月額50万円近い税金が使われている。そして現状は、どんなにお金があっても保育士が足りない。もっと深刻なのは、いい保育士がいない、育っていない。子育ては究極お金でその良し悪しが決まるものではないのです。

家庭に子育てを返してゆこうという鳥取県の施策は、保育士不足という緊急事態と、いま3歳未満児保育を増やすと市町村も恒久財源が必要になることへの危機感、先を見通した具体策かもしれませんが、同時に、幼児の願いに沿っている。幼児という弱者の願いを優先すると、福祉の質の低下に歯止めがかかるだけでなく、学校も含めて、社会全体にいい循環が生まれてきます。全国に少しずつ広がってきている「一日保育者体験」から生まれる感想文を見ても思うのですが、弱者の幸福を優先すると、社会に人間性が蘇ってきて、自然治癒力、自浄作用が働き始めるのです。

 

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経済施策と子育ての施策を混同してはいけない

少子化の先にある税収減を見越して、財政諮問会議が小泉政権の時に始めた、女性の労働力を掘り起こすという「雇用労働施策」が、いまの「50万人幼児を保育園で預かれば女性が輝く」という施策の本質です。保育の質が後回しにされている。それが後回しにされていることによって、保育界に様々な悪循環が生まれている。

未満児を預かる保育所、小規模保育、家庭保育室、そして子ども園を、ここまで意図的に増やしてしまうと、親に子育てを返そうとした時に、既存の保育施設の生き残りという問題が出てきます。生き残ろうとする過程で、一層子どもたちの存在感が薄れてくる。保育施設を増やしても、基本的に流れは「少子化」です。出生率が上がっても、分母になる母親の数が減り続け、結婚しない男性が増えている状況で少子化は止まらないのです。

しかしここで忘れてはならないのは、いまの保育の仕組みは、人工的に作られた仕組みであって、絶対的なものではないということ。(0歳児を預からないと、私立の保育園の経営が成り立ちにくい、という現在の仕組みは、母親を乳児から引き離そうと、政府によって意図的に作られたものです。政府の考え方が変われば、どうにでもなる。政治家が、国の在り方を長期的に考え、幼児たちを大切にすることで起こるいい循環が、将来この国のモラルや秩序、学校教育の質にとてもいい影響を与えると思い直せば、方法はいくらでもあるのです。)

園児減少を心配する私立保育園・幼稚園には、子育て支援センターとしての機能を持たせて、経営の心配をしなくていいように、しっかり補助を出せばいいだけのことです。

少子化を背景に、保育園と幼稚園を競わせ節税しようとするいまの施策は、幼児の生活の質を蔑ろにした姑息な手法です。これでは、保育のサービス産業化を招くだけ。その向こうに、「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定が見え隠れしています。親へのサービスを優先するといい保育士が去って行く。保育士という道を選んだ人たちの心の仕組みを、政府も経済学者も理解していない。ここが一番怖いのです。

保育士たちが「子育て」をしている限り、幼児たちは保育士の良心を育てます。すると、子どもたちの声、願いがよりはっきりと聞こえてくる。いい保育士は、自分たちが政府から押し付けられた「仕事」(役割)と子どもたちの願いの間に矛盾があることに気づいてしまう。程度の差こそあれ、保育士やめるか、良心捨てるか、ということになる。

母子手帳や乳児検診の延長線上に、乳幼児の母親たちが集まる場所を、例えば年配保育者やベテラン園長が常に居る幼稚園や保育園に併設して作る。すでにそうしている園もあって、園庭に小さな小屋とキッチンもあって、そこで簡易料理教室が自主的に開かれたり、ママ友の会が開かれたりしています。一緒に子どもを育てているという環境が、人間社会に絆が生まれる基本ですから、相談相手が自然にできてくる。本当は、ビルの一室などではなく、心が落ち着く森の中や、見渡すといい景色が見える静かな所などがいいのです。子育てに大切なのは風景、親たちの心の落ち着きですから。

(鳥取の取り組みついてツイートすると、こんなツイートが返ってきました。)

「私も同じように思います。一時保育や家庭保育の親向けの支援事業など、園児がいなくても地域が園に求めている必要な子育て支援事業はたくさんあると思います。家庭で保育したいけど経済的にできない家庭が待機児童って、子育て支援の方向として本末転倒のような気がしました。」

同感です。「家庭で保育したいけど経済的にできない」という状況は、最近、意図的に作られた意識、環境です

子どもたち、特に乳幼児が家庭の中心に居て、その状況が成り立つようにサポートすることで「人間社会」が存在してきた。そうした進化にとって当たり前のこと、(遺伝子の)「働き」が、薄っぺらい経済論で覆い隠され、みながいつしか競争に追い込まれ、騙されている。

みんなで、当たり前のことをできるようにすればいいだけなのです。それだけの税金はもちろんある。それを国や自治体が馬鹿げた施策に使って無駄にするのであれば、幼児を眺めて話し合えばいい。幼児に視線が集まっていれば、本来「その絆」でなんとかできる。様々な状況でそうしてきた。そういう真実を学校でも教えてほしいと思います。貧しくても、幼児の幸せを優先に考えていれば、絆が生まれ、育てる側も幸せになれること。そして、この国は、そういうやり方が得意だったこと。それがこの国の美しさだったこと。

 

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松居 和 様

遅ればせながら、新年おめでとうございます。

また、旧年中は2度もご講演を頂き本当に世話になりました。

さて、当町では平成29年度から、生後7ヶ月から1歳11ヶ月まで(17ヶ月間)の子どもを保育園等に預けず家庭で子育てする保護者(祖父母でも可)に月額3万円を給付する「家庭保育支援給付金事業」を創設することが決まりました。

実は、この施策は数年前から密かに温めていたものなのですが、制度設計をする段階で鳥取県の自治体(伯耆町、大山町、湯梨浜町)で既に似たような施策が実施されていることが分かり驚いた次第です。(世の中には同じことを考える人がいるんだなぁ〜と素朴に思いました(笑)

とはいえ、全国的には珍しい施策であることと、それなりに予算がかかるこの施策提案が執行部に通ったのも、松居先生のご講演のおかげだと感じています。

国の経済政策や子育て支援政策が迷走するなか、子育てを取り巻く環境はますます厳しい状況ですが、当町の子育て支援のポリシーを示す施策として定着させていきたいと考えています。

先生には、今後ともご支援を賜りますようお願いいたします。また、今後のご活躍を心からお祈りいたします。

時節柄、くれぐれもご自愛ください。

 

主任さんの教え・保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も・政府は、潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見ています。

主任さんの教え

 

ある保育園の主任さんが教えてくれました。その園では、平日であっても、「休みの日はなるべく自分で子どもを見てください」と親たちに言います。そういうアドバイスを嫌がる親にも繰り返し、はっきりと言うのです。それが子どもたちのため、そして親の将来のため、と思うからです。

粘り強く説得し言い続けると、そのうち、その気持ちが通じて、園の意図や方針を少しずつ理解し、できる限り子どもと過ごすように努力する親もでてきます。そういう親たちの子どもは、病気になっても治りが早いのだそうです。欠勤日も減って、結局、親たちにとってもその方がいいのです、と自分も働く母親だった主任さんは言います。

そういう子育てにおける大切な法則、隠された子どもたちの存在意義のようなことを親身に説明してくれる主任さんが、最近とても少なくなりました。森の中から聴こえてくるような言葉を伝える人たちが、沈黙の方に還って行こうとしています。世間の常識が、利便性やサービス、権利といった言葉の方に行ってしまい、「子どもたちの気持ち」や「祈り」から離れてしまっているから、自然を感じ、本当に子どもの気持ちを優先している人たちが、呆れ、あきらめかけているのです。

土や水、木々や草花と接する機会が減って、人間の遺伝子がオンにならなくなってきている。保育という子育ての現場で、保育士と保護者が「一緒に育てている」という感覚が、政府の「保育はサービス、成長産業」という掛け声と施策によって失われていっている。それが、いま保育士と保護者との対立という図式にまで進もうとしているのです。その始まりに、親にアドバイスできなくなった主任さんたちの辛そうな顔が見えるのです。

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学校教育や学問と離れた場所に、生きてゆくための、人間が「社会」を築いてゆくための本当の教えがたくさん散らばっていた。それは時に言葉による教えでもありましたが、幼児のように、その存在感だけで、私たちを育ててきたものもある。それが、忘れられ始めている。

それを伝える人たちの存在が気づかれなくなってきている。

 

 

そういう流れの中で、児童虐待やDVが増えているのです

真実や真理を伝える人たちがそこにいるのに、政府やマスコミに相手にされなくなって、学者なんてものが「専門家」と言われるようになって、政府が乳幼児の願いを新しい保育制度で考慮しないし、優先もしない。だから、社会全体がこういうことになってくるのです。「社会で子育て」「仕組みや制度で子育て」などと宣伝される中で、親身な人たちのネットワークが子どもたちの周りから少しずつ減ってゆく。悩んでいる人たちの周りから親身な相談相手が少しずつ消えてゆく。それが、政府の経済中心の施策で行われるから崩壊の進み方の速度が常識を超えている。

言葉を発しない乳児たちの願いを日々想像しながら、人間社会にモラルや秩序が生まれていた。そのことをもう一度、早く、思い出してほしい。

「児童虐待防止法」など作っても、家庭内の問題はそれが表面化するまでは行政や法律で取り締まれるものではない。そして表面化した時にはすでに遅い。幼児の人生を左右し、社会全体の未来を左右してしまう出来事は起こってしまっている。児童虐待やDVは、幼児と接し、共に幼児を眺める人たちが双方向へ絆を作り、その繰り返しで実感する「人間性」でのみ取り締まれるものなのです。

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「貧困問題」

 

いま、これだけ国が豊かになって、「貧困問題」が起こっている。物質的豊かさで日本の上にいるのは、GDPで比べればアメリカと中国だけ。手法は異なりますが、意識的に作られた極端な格差社会。様々な問題を抱えた、子育てに関しては絶対に真似してはいけない二つの国です。EU諸国だってそうです。経済的にも、家庭崩壊や犯罪率でも日本に比べ、はるかにうまくいっていない国々。私は、日本は世界一豊かで安全な国だと思います。(夜、小学生が外を歩ける。)それなのになぜ、貧困問題、特に子どもの貧困問題が起こるのか。

実は、人類は豊かさに慣れていない。豊かさの中で進化してきていないから、遺伝子が豊かさに慣れていない。聖書や仏の教え、たぶんコーランや儒教にもあるように、貧しくても助け合って、祈って、感謝して、お互いの存在を感じて幸せになることのほうが上手だった。

いまの先進国社会特有の貧困問題は人類未体験の、日常生活の中で親身な助け合いが不必要になり、義務養育の普及に伴い子育てが「仕組み」に移り始め、信頼の絆が切れてゆくことによって生まれている「問題」なのです。だから、不幸と直結してしまう。「親身」という言葉は、親の身、と書く。親心の喪失(幼児の役割の喪失)が先進国社会の貧困問題の核にある。

 

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政府は、潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見ています。

そして、それは、保育の実情を正面から見ない、「子育てをすること」の社会における本当の意味に気付かない少数の素人たちの希望的観測でしかない。

「保育の受け皿」「女性が輝く」などという言葉をつかい、親が幼児と離れることをこれだけ政府が薦めるから、「日本、死ね!」などと逆に罵倒される。そして、それが「流行語大賞」の候補になったりする。

政府の思惑とそれに煽られた親たちの不満の狭間で、子どもたちが徐々に行き場を失っている。安心感を失っている。そしてそれが義務教育によって連鎖する。

子育てに対する親たちの意識の変化によって保育界が追い詰められている。その先に、学級崩壊よって追い詰められている学校がある。こういう現実は、すでに明らかで、はっきりしているのです。なぜ、政府はこの無理な流れを止めようとしないのか。

 

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(東京)保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も:http://www.asahi.com/articles/ASJD26HDDJD2UTIL05X.html:

新聞の記事ですが、まったく馬鹿げた話です。誰にでも予測できたこと。保育士不足がすでに解決不可能な状況にあることを、少なくとも私は二人の厚労大臣や安倍首相の側近と思える人たちにも直接伝えました。

杉並区や世田谷区でこれだけ無理をして保育園を作っても、いま、この段階で4月に必要な保育士が集まるか不明なのです。保育園は箱を作ればなんとかなる、というものではないのです。

杉並区では、今年の夏、子どもの気持ちや親の気持ちを無視するようなかなり高圧的なやり方で、区長が子どもに人気の公園を半分潰して保育園を作りました。待機児の来年度の予測が500人と言われているのに2017年4月までに2000人の受け皿を作る、供給は需要を喚起する、となどと言って、人気の公園をつぶさなくても500人分は十分確保できていたし、時間をかければ別の候補地を見つけることができたはずなのに、一気に進めたのです。その拙速なやり方に子どもを持つ親たちが署名運動までして反対したにもかかわらず、強引に進めた。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=556)その結果がこれです。

地下に保育所をつくれるように、東京都の区長会が国に緊急要望を出しています。彼らには、そこで幼児を育てる保育士や、そこに通って育ってゆく子どもたちの気持ちや日常が見えていない。保育士や幼児にとっての「景色」など、選挙や税収に比べればどうでもいいことなのです。人間として、常に思い出してほしいのは、保育における環境は、年に数日とか一日1時間というような次元の話ではないということ。一日平均10時間(政府は11時間を「標準」と名付けた)、年に260日という膨大な時間に関わる話なのです。子どもたちにとって、選択肢のない「日常」なのです。「風景」は、とても大切なのです。生きてゆく「風景」の大切さを知ることは人生を知ること。それがこの国の文化だったはずです。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060:

こんなやり方をしておいて、こんな要望を出しておいて、「感性豊かな子どもを育てる」とか、「国を愛し、地域を愛する」子どもを学校教育で育てる、などと言っているのですから、政治家たちは自分の生き方から考え直した方がいいのではないか。政治家たちこそ、まず感性を磨き、真の愛国心を持ってほしいと思います。国を愛することの始まりは、幼児を愛することです。

 

都が居住手当を月に8万円援助し、区が5万円の商品券を用意し、地方の保育士育成校へ出掛けて行って青田買いをして、必死に人数を揃えようとしています。ですが、実は、保育園で何年も過ごす幼児たちのことを考えれば、本当の問題は、4月に保育士資格を持っている人を人数分揃えればいい、ということではまったくない。

保育士資格を持っている人の多くが、現場に出てはいけない人たち、資格を与えてはいけない人たち、保育の意味を理解していない人たちです。それはいまの保育現場に来る実習生や、専門学校や養成校の授業の質、その先に居る幼児たちのことを考えようともしない資格の与え方、一度も現場に出なかった、政府が言うところの「潜在保育士」たちのことを少し調べればわかります。その現実こそが、幼児にとって最重要問題なのです。よほど園長や主任がしっかりしていても、3人募集して6人応募してくるような倍率がないかぎり保育士の質はもう揃えられない。そこまで、国の施策に保育界が追い込まれている。それが、保育園を新設することの恐ろしさです。

公立でも、正規、つまり地方公務員で雇わない限り、もう保育士たちが定着しない時代になってきた。数人まとめて簡単に辞められたら、その時点で保育は国基準を割るのです。園長は、いつ辞められるかビクビクし、悪い保育士に注意もできない。(以前、園児を虐待した保育士に対する警察の取り調べに、辞められるのが怖くて注意できなかった、と言った園長のことをこのブログに書きました。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=465)

最近は、待機児童問題を自園の人気と勘違いし、「嫌なら転園しろ」と親に言う乱暴な保育士や園長さえいる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1400

政府が進める保育の市場原理化によって、絶対に入ってきてはいけない業者や素人が、ネット上の誘いに乗って「儲けよう」という意図で保育界に参入してくる。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1478 そんな保育指針も読んでいない業者のやっている職場へ就職した「いい保育士」が1、2年でやめていって、二度と戻ってこない。こんな状況を何年続けるのか。「保育は成長産業」という閣議決定だけでもすぐに取り下げてほしい。いままで保育の質を保ってきた、次の世代を育てるべき人たちがどんどん辞めていっているのです。

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一方で、いい保育士がいないから、と、来年は0歳児をやめて、しかも定員を減らします、という良心的な園長もいます。3歳未満児の保育単価の高さを考えると、これは園の経営を危うくする相当重い決断です。それでも、良くない保育士に乳児を保育させるわけにはいかない、と園長は言うのです。能力のない保育士に3歳児20人、4、5歳児30人など任せられない。脳の発達ということから考えると、3歳未満児の保育こそ、きめの細かい心づかいや声がけが大切なのです。

政府の施策によって、一緒に育てる、という信頼関係が保育現場で揺らいでいる。仕組みがすでに限界を超えている。

マスコミや親たちがそこを理解しない限り、幼児にとっての保育士不足の問題は解決しないのです。

 

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長年にわたる政府による保育の質の軽視や長時間保育の薦めの結果と言ってもいいでしょう、企業が戦力にならない労働力に戸惑っています。そして、為替差益というギャブンブル以外に税収が増えないとわかった時、政府はしまったと思うのかもしれません。そのとき、福祉は、すでに「精神的に」成り立たなくなっている。経済界も、「潜在的労働力」の質の低下に呆然とするのです。

なんでもお金で解決出来る、という意識が生んだ負のスパイラルに、この国も急速に引き込まれつつある。

乳児、幼児の役割、存在意義を政府やマスコミが思い出して欲しいと思います。

 

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地球上で起こっていることは、それぞれの国や社会を比較することで明らかになってくる?

いま、地球上で起こっていることは、それぞれの国や社会を比較することで明らかになってくることが多い気がするのです。異なるやり方で、命が同時進行している。お互いに学びあうために。

部分的に再掲ですが、並べてみました。

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子どもは社会の騒音? 

去年、東京版の新聞に、

「騒音」に苦情/悩む保育園:ペアガラス「開かずの窓」・園庭使用制限、

という記事が載りました。

保育園に対する騒音の苦情が多く、待機児童をなくすために園を新設しようとしてもなかなかできない、という世田谷区長の嘆きが反響を呼んでいるというのです。

周囲に畑でもあれば、またちがうのでしょうが、家屋が密集している地区では、毎日子どもたちの声を聴いているのが苦痛なのかもしれません。100年ほど遡って、社会の原点に還って考えれば、幼児をこれほどたくさん一カ所に集めることが相当不自然なことです。人々の日々の生活、身の回りの風景から、日常的に幼児の声が聞こえなくなって久しい。

幼稚園・保育園は以前からありました。保育関係者から聴くと、ここ二・三年、近所からの苦情が増えている。いまほど幼稚園・保育園が迷惑がられる時代はない、というのです。学校もそうですが、運動会を開くにもびくびくし、ピアノを弾くのも何時から何時までと決めて近所に伝え納得してもらう。園庭でお芋でも焼こうものなら届け出を提出していても通報されてしまう。近所づきあいが希薄になった都会ではそんな話も頻繁に耳にするのです。だから、地下に保育所を作れるように東京の区長たちが国に要望したりする。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060)

現代社会、という不自然にゆがめられた現実を踏まえたうえで、あえて別の視点で私は言いたいのです。

『幼児たちを保育園で一日平均十時間、年に260日も「人類」から隔離して、そのことが普通に受け入れられるようになると、神様たちが「騒音」に聴こえるようになっても仕方ないのではないか、幼児と接する機会が、すべての年齢層で激減していることが現代社会の人間関係を冷たく荒々しくしている。』

 

ある夕方のこと

子どもの発達を保育の醍醐味ととらえ、保育士たちの自主研修も月に一回やり、親を育てる行事をたくさん組んで保育をやっている保育園で…。

園長先生が職員室で二人の女の子が話しているのを聴きました。

「Kせんせい、やさしいんだよねー」

「そうだよねー。やさしいんだよねー」

園長先生は思わず嬉しくなって、「そう。よかったわー」

「でも、ゆうがたになるとこわいんだよねー」

「うん、なんでだろうねー」

園長先生は苦笑い。一生懸命保育をすれば、夕方には誰だって少しくたびれてきます。それを子どもはちゃんと見ています。他人の子どもを毎日毎日八時間、こんな人数で見るのは大変なのです。しかも、園長先生は保育士たちに、喜びをもって子どもの成長を一人一人観察し、その日の心理状態を把握して保育をしてください、と常日頃から言っています。問題のある場合は、家庭の状況を探ってアドバイスをしたりしなければなりません。子どもの幸せを考えれば、親と一緒に子育てをしているという意識は常に忘れてはいけない。そして、良い保育をしようとすれば、それは日々の生活であって完璧・完成はありえません。

保育士に望みすぎているのかもしれない…、と園長先生は思いました。それでも、いま園に来ている子どもたちのために、選択肢のなかった子どもたちのために、できるところまでやり続けるしかないのです。

そう思いだした時、職員室での子どもたちの会話が、保育士たちへの励ましのように聴こえたのでした。

 

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トルコからの手紙

ご主人の海外勤務で、トルコに4年間住んでいた教え子が帰ってくることになりました。

保育と子どもの発達をテーマに博士論文を書いている彼女は、本来理論派ですが、独特な感性があって、トルコ語も積極的にマスターし「昔から続いてきた子育てと、人間社会における子育ての役割」について貴重な報告をイスタンブールから送り続けてくれました。人間同士の育てあいや絆の役割りを、祈りの次元で眺めることが出来るひとでした。学生時代日本にいたころから討論を重ねたこともあって、私は彼女の報告を、自分がその場に居て見ているように実感したものでした。ご主人が、一流企業に勤めているにもかかわらずトルコ人とのサッカーに熱中しているような人だったことも、彼女の日々の感性を助けたのだと思います。

一時帰国することも出来たのに、彼女はトルコで第一子を出産しました。おかげで、トルコ人の(または昔の人の?)赤ん坊に対する目線を肌で感じ、その目線に囲まれて育つことの意味を日々の生活の空気の中で感じ報告してくれました。これが、最後の手紙かもしれません。

 

(最後のメール?)

菜々はすっかり、「全ての大人は自分を愛してくれるもの」だと思っています。

トルコ人から愛情を受けるのが当たり前になっている彼女。

ありがたいやら、今後がおもいやられるやら。

そして改めて、トルコ人がどんな状況でも、祖国や自分、家族といった自分の基盤となる部分を積極的に肯定し、是が非でも守る理由がわかります。幼い頃、こんなに誰にでも愛されていれば、何があっても自分を否定しない。人や自分を愛する力がつくんですね。

里映

 

(二年前のメール)

トルコで菜々を抱えていると、1メートルもまっすぐ歩けない位、沢山の人に声をかけられます。皆、菜々に話しかけて触って、キスをしてくれます。トルコの人たちは、赤ん坊がもたらす「いいこと」をめいっぱい受け取っていると思います。菜々のお陰で、私は沢山の人の笑顔に触れられて、沢山の人から親切にされて、幸せです。日本に帰るのが少し怖いです。

里映

 

(四年前のメール)

「トルコ語に『インアシャラー(神が望むなら)』という言葉があります。イスラム圏全体で通じる言葉でしょうか?

停電がしょっちゅうあるので、私が近所の人たちに色々聞きに行き、『あと少しで回復するかな?』と聞くと、『インアシャラー』と言われたりします。この言葉がよく使われるように、トルコでは、自分(人間)がどうにもできないことがあるという前提で物事を考え、そういうことが起こったら、じたばたせずに神様が導いてくれるのを穏やかに待っているようなところがあります。その分楽天的で、ひやひやすることも多いのですが」

やはりポイントは、自分、というより人間には、自分自身で解決できないことがあるということを前提にしているというところでしょうか。何もできないということと、幸せであるということは、裏表なのでしょう。松居先生の、0歳児が完璧な人間である、ということと近いと思います

里映

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教え子がしている体験が、肌に伝わってきます。そして、なぜか伝えてくる「文字」の存在に少し感動します。人間は絆を深め、時空を越えて体験をわかちあい守りあうために「文字」を創ったのだ、と実感します。そして、これを書きながら,彼女の体験を日本の保育者とわかちあえることの不思議ささえ感じるのです。

社会に、信じること、祈ることがもっと存在していたら、大学も専門家もこんなに必要ではなくなるし、学者も要らなくなるのではないか、そんなことを考えます。

先進国社会において、神の作った秩序と人間の作った秩序が闘っています。本来次元の異なる、住み分けが出来るはずのものたちが闘い始めています。

子育てで一番大切な言葉が、「神が望むなら」なのかもしれません。「神が望むなら」という生き方を親たちが身につけるために、幼児、特に未満児が存在するのではないでしょうか。

 

(帰国半年前のメール)

こちらでは、列車は発達しないです。どんな遠くへもバスで行きます。丸一日かけてバスを乗り継いで帰郷します。一説では、マフィアがバスに関する権利を持っていて、電車の普及を邪魔しているから発達しないらしいのですが、それ以前にトルコ人が、電車を必要としていないということなのでしょう。

バスではまず、コロンヤ(すっきりする香水みたいなもの)が配られ、バスの係の人が1人ひとりの手にかけに来ます。1時間毎くらいにトイレ休憩、ごはんの時間にはごはん休憩があります。途中チャイやお菓子も振る舞われます。

バスに乗っている人は貧しい人もいるので、バスの中での持ち込み飲食は禁止。トルコではこういう考え方があります。目の前に食べられない人が居るのに、自分だけ食べるのはとても悪いこと。

男女が隣同士に座らないように、バスの停留所で人が新たに乗り込んで来ると、しょっちゅう席替えをします。ただ、ひたすらバスに揺られて、故郷や、リゾート地や、仕事を求めて新しい場所へ。

チグリス・ユーフラテス川を通ったことがありますが、周りはただ茶色の大地で、時々数軒の民家、商店が見られるようなところに、細い川がひっそりとありました。バスは川を気に留めることもなく、ただ走っていきました。

松居先生のメールで、アナトリアを旅したことを思い出しました。

里映

 

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「目の前に食べられない人が居るのに、自分だけ食べるのはとても悪いこと。」だからバスに食べ物を持ち込めない。

発想の原点が他人の気持ちを想像すること。それが日常的にあるのです。そして、想像する方向性が子どもたちの目線によって守られている。祈る方角が決まっているように。一応民主主義のトルコという国で、人々の意思によっていまも守られている。こういう人たちの意思の力を見誤ると大変なことになる。先進国社会が抱えている問題点を理解し、学ぶべき相手を間違わないことです。日本はいまどっちの方向から学ぶべきか、学問とか経済競争の視点を離れて、もっと古い、いにしえの法則について、立ち止まって、ゆっくり考えてみる時だと思うのです。

 

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そろそろ、近年で最悪の(?)難関、真夏のラマザン(断食)に入ります。ラマザンは毎年一ヶ月ずつ日程がずれるので、いつかは真夏に当たってしまうのです。真夏は、気候条件だけでなく時間の長さも最長。断食は、夜明けのお祈り(真夏は朝5時前!)から日が落ちるお祈り(夜8時頃。)の間行い、唾も飲み込めません。

そして皆、長い一日の断食に備えて朝3時に起きて(太鼓をたたいて街中を歩き、皆をこの時間に起こす係がいる。迷惑。笑)食事をするため、寝不足。それでも、「この状況でイライラしたり仕事が手につかない人は、断食をする資格が無い」と考えられるため、いい人間性を保たなければなりません。

去年の断食月もかなり暑く大変そうでしたが、皆変わらず親切でした。

断食の目的は、「食べることが出来ない人の状況を理解するため」ということで、それはトルコの基本的な考え方の一つです。でも、それ以上に、断食という苦しさを共有してものすごい一体感を得ているのだと思います。そして断食明けに訪れる砂糖祭では貧しい人に施しを行いまくりますが、断食を行うことにより、この施しが大変気前良く行われるのです。自分がつらさから解放され、増々神に感謝できるというか。本当に、この断食が、社会をいい方向に運営するシステムの基軸を担っていると思います。

このシステムは、本来人間は不平等な立場にあるということを認めないと成立しません。富める者と貧しい者は平等ではないというのは、民主主義国家では大失言にあたるような文言ですね。でも、人間平等じゃないし、自由なんかないって、トルコの人たちは知っています。知っているから、神のもとに集まり、富める者が貧しい者を助けるというシンプルな構造で生きているんです。

里映

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日本で、社会に絆を取り戻すために「断食」を法律で決め実行することはもう絶対にできないでしょう。進歩の名のもとに人間はずいぶん大切なものを一つずつ捨て始めている。

0歳1歳2歳児という、毎年違う特別なひとたちとしっかりつきあうことさえ、政府が施策を使って捨てさせようとしている。だからこそ、いま幼児たちと人間たちが意識的に一人ずつ交わる「一日保育者体験」の普及が必要で、これからこの体験がますます一人一人の人生の中で生きてくるのだと思います。

幼児との体験を記憶の中で共有することで一体感を社会に取り戻す、ある程度法律の範疇内にある仕組みの中でこれなら出来る。この国がどちらの方角に行くか、境界線上の行事です。

一日保育者体験でなくても、園や学校で、すべての親が毎週一緒に踊る、歌う、みたいなことでもちろん構わないのですが、そこまで根源的な一体感を求めようとしても、それが祈りの領域に近すぎて、いまの仕組みや常識の中では理論的説得力に欠けるのかもしれません。

こうした一体感の復活を取り戻す努力をしないと、義務教育や福祉がもちません。そのうち、「共に闘うことによる一体感」という古代の手法が復活するかもしれません。兵器がこれだけ進化している状況で、これは人類にとって非常に危険です。

断食を行うことで施しが気前よくなる。人間は自分の体験から学び反応する。そして、一体感を感じようとするのです。

 

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(こんな記事がありました。)

東京)保育士不足深刻化 来春開園なのに「まだゼロ」も:http://www.asahi.com/articles/ASJD26HDDJD2UTIL05X.html:

保育士不足が深刻化している。待機児童対策として、来春には都内で多くの民間保育施設がオープンするが、必要な保育士数がまったく確保できていない事業者もある。

来春に民間の20認可園などが開園し、保育の充実を急ぐ杉並区。計2220人分の子どもの受け入れが新たにできるようになるが、新規で300人の保育士が必要と見込む。

11月末、各施設の求人活動を後押ししようと、隣の中野区やハローワーク新宿と合同で「保育のおしごと 就職相談・面接会」を開いた。会場のホールに保育事業を営む26業者がブースを開設。「うちの話を聞いてほしい」と来場者を必死に呼び込んだ。

杉並区で来春、定員約100人の認可園を開く都外の社会福祉法人は17人の保育士が必要という。今年1月から求人を続け、確保できたのはまだ12人。求人はこの4年でどんどん厳しくなっているといい、採用担当者は「来てくれる保育士はもう『神様』です」とため息をついた。

来春に杉並区で新たな保育施設を開設するが、必要な保育士の確保は「まだゼロ」という区内の社会福祉法人もある。担当者は「4月ごろからずっと募集しているけど、全く集まらない」と話した。

この日の就職相談・面接会の来場者は105人。来春に区内で「山吹あさがやきた保育園(仮称)」を開園する社会福祉法人・山吹会は、3人と今後の面接の確約をとった。採用担当者は「とりあえず必要な保育士は確保できそう」とほっとした表情だ。都が保育士の家賃を1戸あたり月8万2千円補助する制度を導入することや、区が新規の保育士に5万円の商品券を配る方針を決めたことで、「地方から集めやすくなった」という。

杉並区保育課によると、区内で保育施設を営む事業者に求人状況のアンケートをしているが、11月末現在、保育士を完全に確保できたのは新設施設のうち数施設という。民間保育施設の求人のピークは、公立保育施設の採用が終わる11月以降といい、渡辺秀則課長は「これからの追い込みに期待したい」とする。

来春、約2千人分の保育定員増をめざす世田谷区。うち約1600人分(新規園など20施設)について、入園申し込みの受け付けを始めた。保育施設ごとに担当する区職員を固定し、保育士の確保状況などを細かくチェックしている。

区子ども・若者部によると、新設園の3分の1が必要な保育士をまだ確保できていないという。保育士集めに苦戦しているのは、都外から進出してきて知名度がまだない事業者や、久々に新設園を開く事業者。同部の担当者は「保育士が確保できたと言っても、その保育士が複数の内定をもらい、二股をかけているケースもある。必要な保育士が集まるか、来年2月まで心は休まらない」と話した。(別宮潤一)

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インドのシスター・チャンドラから、新年のメールが届きました。タミルナード州のシャクティセンターでも、日々の生活は続いています。新しい建物がなんとか出来上がりました、今度来た時はホテルに泊まらないでくださいね、というメッセージがありました。

(シャクティの活動に関してhttp://kazumatsui.com/sakthi.htmlから、映像を、ぜひご覧になってください。)

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