母乳のアレルギー予防効果「なし」 厚労省が新指針:(乳児の視点が欠けている?)

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母乳のアレルギー予防効果「なし」 厚労省が新指針:

『赤ちゃんへの授乳に関する国の指針に、母乳によるアレルギーの予防効果はなく、粉ミルクを併用する混合栄養でも肥満リスクが上がらないことが明記されることになった。母乳の良さの過度な強調が養育者を追い詰めている、との指摘を背景に、粉ミルクを使う親へも支援を求める内容になっている。(中略)

「3歳までは常に家で母親の手で育てないと、その後の成長に悪い影響がある」という考えは、3歳児神話と呼ばれてきました。でもこの考え方は、以前にコラムで触れた通り、すでに否定されています。(中略)

 98年の厚生白書では、「少なくとも合理的な根拠は認められない」と言及されました。』

(以上のような新聞報道がありました)

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少子化による税収減に対応する「労働力掘り起こし施策」(「新しい経済政策パッケージ」)に基づいた恣意的な指摘だと思いますが、母に抱かれての授乳という体験を望んでいるであろう乳児にとっては、迷惑な話です。

「授乳の良さ」が「母乳の良さ」にすり替えられている。

人間同士の愛着関係の育みの場をアレルギーの予防効果の有無にすり替えるなど、学者や政府による「人間の想像力や、絆という幸福感」に対する冒涜のように思えてならない。こういう手段を使って親子を引き離し、人間同士の生きる動機を希薄にし、果たして彼らの思惑通り経済は良くなるのか、甚だ疑問なのです。

子育てにおける授乳は、「母乳によるアレルギーの予防効果はなく」と学者が言ったから母乳で育てなくても大丈夫、という話ではまったくない。アレルギーの問題は、母子間で「授乳」という、男性には絶対にできない体験を1、2年するかしないかということとは別次元の問題です。

記事には、「『3歳までは常に家で母親の手で育てないと、その後の成長に悪い影響がある』という考えは、三歳児神話と呼ばれ」と書いてあるのですが、これは政府の経済優先施策に沿って「女性の就労率」を上げる(M字型カーブをなくす)ための誘導的な言い回しで、まず、常識的に考えて「常に家で母親の手で育てる」など人間には不可能なこと。いくら想像しても、ありえない。

さらに、「成長に悪い影響がある」と意図的に「悪い」を加えて書くから話が本題からずれていく。単に、「成長に影響がある」と書けばいいのです。それなら、だれも反論しない。

保育園で他人である保育士に、保育士一人対乳児三人の関係で育てられた子どもと、家で親や祖父母に育てられた子どもの体験には明らかに違いがあり、「成長に影響がある」。脳の発達時期でもある乳児にとって、これほど異なる体験はないはずです。福祉や学校教育の歴史の浅さを考えれば、同年齢の子どもたちを毎日繰り返し集団にすることさえ、人類がほとんど経験したことのない体験です。遺伝子との関係を考えれば、生態学的にも文化人類学的にも、なんらかの影響はある。

さらに、子どもの「成長に影響がある」だけでなく、親の人生(成長?)にも影響があるはず。それがどういう「影響」かは分かり難いし、その影響が「悪い」かどうかは測るものさしによって違ってくるのでしょう。(優しさで測るか、安定感で測るか、学力や競争力で測るか、犯罪率で測るか、いろいろです。)

題なのは、政府が、乳幼児を保育園に標準11時間預けても「影響がない」という印象を親たちに与えようとすること。確たるものさしも提示せずに、雇用労働施策の観点から、子どもの願いを無視して、もっと踏み込めば授乳という「風景」が人間社会に与える影響を無視して、「国がそれを言ってしまうこと」が問題なのです。

3歳未満児をもう30万人保育園で預かるという数値目標を国は立ててしまっている。(3歳以上児は幼稚園と保育園でほぼ全員預かっていますから、国の言う「もう30万人」は3歳未満児です。)ですから、「影響がない」と言いたいのでしょうが、影響はもちろん、様々な形で、ある。これほど多くの無資格者を保育の現場に規制緩和で入れれば、その日の保育士の当たり外れによってその影響はさらに大きく、不透明に、深刻になってくる。

自分の子どもの脳の発達過程を他人に委ねるという賭けにも似た行為が、当たり前のことのように、国の経済施策によって親たちの間に広がっていこうとしている。

例えば、お祖父さんに育てられた子と、お婆さんに育てられた子では、当然そこに影響の違いがある。美しい景色の中で育った子どもとそうでない子では、感性が違う、絵を見ればわかる、と以前芸大の先生が言っていましたが、だからこそ、ゴッホやゴーギャンのように住む環境を芸術家は選ぼうとする。建築家やインテリアデザイナーなどという職業が成り立つ。「アルプスの少女ハイジ」やワイルダーの「大草原の小さな家」、リンドグレーンの「やかまし村」シリーズや「パディントン」を読んでも、人間関係も含め、環境と育ちの関係については分かりやすく繰り返し書かれています。いわば当たり前のこと。

極端な例を挙げれば、以前アメリカの連邦議会に提出された「タレント・フェアクロス法案」は、犯罪率を下げるために母子家庭への援助をやめ政府が孤児院を作ってそこで子どもを育てようというとんでもない法案でした。予算の膨大さもあり否決されましたが、法案を提出した議員だけでなく下院議長も賛成していた。背後にあったのは、学者たちの環境と育ちに関する調査でした。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1054

乳幼児期の環境と育ち、特にその時期に親子を引き離すことの弊害については、キブツ(イスラエルの共同体)を研究したイスラエルの学者や、旧ソ連の共同体を研究した学者からも国際会議において色々聞きました。幼児期の不十分な愛着関係と犯罪との関連性はNHKのクローズアップ現代でも取り上げられ、現場の人や専門家が繰り返し証言しています。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=267

百歩譲って、国が「影響がない」と言い続けたいのであれば、保育士不足が決定的になる前に、保育の質を規制緩和で下げていくような施策を続けるべきではなかった。養成校の学生の質、保育のサービス産業化に伴う園長設置者の意識の変化、多様化を考えれば、保育界全体の質を、幼児の最善の利益を優先する方向へ回復することはもはや不可能で、何をやっても手遅れです。子育てを、親に返していくしかない。

(直接給付や子育て支援センターの拡張、土曜日保育の就労証明提出義務化など、保育士不足からくる「親へ返す動き」は自治体レベルではすでに始まっています。これは、日本だからできること、です。)

自ら子育てをしている人たちが損をしているのではないか、と思うような「保育の無償化」もそうですが、社会における絆や人間性を犠牲にしながら進んでいく政府の雇用労働施策が、最近あまりにも露骨です。エンゼルプランや子ども・子育て支援新制度といった、自分で自分の首を絞めるような「少子化対策」がいよいよ行き詰まっているからでしょう。マスコミがその報道姿勢の中で、もう少し本質を見極めた論議を展開してくれれば、と思います。

話を「新聞記事」に戻します。

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厚生白書では、「少なくとも合理的な根拠は認められない」と言及されました。』と記事が言及するように、白書自体は、三歳児神話が間違っているとは言っていない。「少なくとも合理的な根拠は認められない」と言っているだけ。

そして、「少なくとも合理的な根拠は認められない」ものは世の中にたくさんあって、ピノキオやスーパーマン、スターウォーズやドラえもん、「犬も歩けば棒に当たる」や聖地巡礼などもそうですが、そういうものの存在はそれなりに大切なのです。(当たり前のことです。)

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0、1、2歳児との不思議な関係、時に言葉を介さない会話は、私たち人間をバーチャルな祈りの世界に引き込む入り口でもあって、言ってみれば自分との会話、宇宙との会話のようなもの。このあたりの「会話」で、人類は自ら主体的にモラル・秩序を保とうとする。

子守唄という音楽の分野がなぜ成り立つか、逆に、子守唄という音楽の分野が先進国社会でなぜ存在感を失いつつあるのか、私たちは真剣に考えてみる必要があるのです。先進国社会の子育てに「祈り」がなくなってきている。学力や競争能力が子育ての目的になりすぎて、育てる側に生まれる「祈る心」や「優しさ」「忍耐力」の大切さが忘れられ始めている。幼児との会話が「人間性」を培ってきたことを忘れている。

我々が気をつけなければいけないのは、こういうことを白書で言及する政府が「鯉のぼりには、少なくとも合理的な根拠は認められない」とも、「初詣には、少なくとも合理的な根拠がない」とも言わないこと。もっと突飛な出来事から主張を展開する「法華経」や「聖書」の合理的な根拠についても言わないこと。

最近の「子育て支援」施策に関して言えば、「合理的な根拠」という都合のいい言葉を使って、御用学者や学問を盾に意図的に労働力を増やす方向へ社会を誘導しようとしている。

政府によるこうした扇動にも似た意識の操作は、過去にもたくさんありましたし、現在でも様々な国で行われています。いわばよくあること、それが人間社会の宿命ですが、今回の場合は、人間の進化の根底にある意識・常識を変えようとしている、だから見過ごせないのです。

日本という国が、文化的に「合理的な根拠は認められない」様々なことをよく理解し、神話がまだ成り立ち、実の親に育てられる確率が欧米に比べ奇跡的に高く、悪くなってきたとはいえ子どもたちにとって非常に安全な国だからこそ、この動きは見過ごせないのです。こんなことをしていては、この国の存在意義がなくなってしまう。

『母乳のアレルギー予防効果「なし」』と言う政府の意図は、乳幼児と母親が11時間離れることには何の問題もないという、すでに閣議決定された施策を正当化させるための常識の書き換えにあります。しかし、これをやったら、福祉どころか、保育界も学校教育も成り立たなくなってくる、その兆候はすでに保育士・教員不足に現れているのです。

ある時から、親に子育てを返そうとすると犯罪が増える、という欧米社会が30年前に越えてしまった一線の前で、日本はまだ踏みとどまっているのです。

一度超えると戻れないこの一線を、この国ももうすぐ越えようとしています。3歳未満児と母親が過ごす時間を減らすことによって、少子化による税収不足を補おうとする場当たり的な経済学者、一部の社会学者、そして政治家たちによって、社会全体が大切な常識を失おうとしているのです。

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虐待:高齢者施設最多 10年連続増加 人手不足が一因 https://mainichi.jp/articles/20180310/dde/041/040/017000c、という報道がありました。

「人手不足」この言葉が殺伐としてきた社会や学級崩壊の原因だということに気づいてほしい。人間の絆や、子育てによって育まれる信頼関係は「人手」によって補えるものではない。

衆議院内閣府委員会で「保育の無償化」について、参考人として意見を述べました。

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衆議院内閣府委員会で「保育の無償化」について、参考人として意見を述べました。

「親心を育む会」にも度々出席して、保育園のあり方、そこで親心を育てるにはどうしたらいいか意見交換してきた森田俊和衆議院議員の指名でした。感謝です。

無償化で助かる親たちがたくさんいます。しかし、俯瞰的に見て、保育の無償化が、すでにぎりぎりまで来ている保育士不足による保育崩壊の最後の一撃になるような気がしてなりません。そして、子育てを損得勘定で考えることを国が助長しているように思えます。それが「待機児童」という言葉とともに隅々まで広がってゆく。

過去15年くらい行われてきた少子化対策、エンゼルプランや子ども・子育て支援新制度もそうですが、子どもを「負担」と捉える風潮を国が作り出している。その究極のところに「無償」という言葉があります。

負担を軽減すれば子どもをたくさん産む、という考え方は経済学者やごく一部の社会学者たちの視点であって、この人たちは子育ての本質を見ていない。宗教学、倫理学、人類学的視点が著しく欠けている。この視点で行う少子化対策はこれまでことごとく失敗しているのです。

子育てを「負担」と位置付ける施策で、出生率が上がらないどころか、結婚しない男がますます増えている。子どもたちの成長を「喜び」、子育てを「人生の美しい負担」「生きがい」と感じる人間本来の姿を取り戻さなければ、義務教育の崩壊どころか、この国のモラル・秩序が崩壊していく。

今回の無償化は、子どもの最善の利益がまったく優先されていない、その点を必死に訴えました。それが保育士たちにはわかってしまう。もし、子どもを可愛がる、子どもの心に寄り添う保育士であれば、「11時間保育を『標準』と名付けた」時点で、政府の施策に反発する、背を向ける。

「無償化」という言葉自体が、児童福祉法、子どもの権利条約、保育所保育指針に書いてある「子どもの最善の利益を優先する」という人類存続の決まりに反しているのです。「弱者を優先する」そこに人間社会の「成り立ち」があったはずです。

 現場では、無償化をすることで預ける子ども、預ける時間が必ず増えると言われています。もしそうなった場合、すでに限界を超えている保育士不足に拍車がかかって対処しきれない。すでに、ほとんどの保育園が現場にいるべきではない保育士を抱えている状況が、幼児たちの目に晒されることによって保育士たちを苦しめている。多くの子どもたちが、強者が弱者をぞんざいに扱う風景を幼児期に見ている。その体験をする。それが「いじめ」や小一プロブレム、学級崩壊につながっている。保育の質の低下がますます進んでしまうどころか、これでは学校教育がもたない。

一度この無償化が実施されると後戻りできないのです。子育ての「無償化」という奇妙な言葉が、「幼児たちが、信じ切ることによって親たちを育てる」という人類本来の存続の形を根本から覆していく気がしてなりません。

(「幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591」)

参考人に決まってからの数日間、幾人かの人たちに電話で無償化で起こりうる状況について確認してみました。30年間も家庭崩壊や保育の問題について毎年100回近く講演してきたので、忌憚なく話せる知り合いが全国にいます。

状況の異なる自治体の役場の福祉部長、保育課長(ほとんど公立の保育園で保育をしている市もあれば、私立の幼稚園と保育園主体の市もある)、保育士会の前会長、保育団体の青年部長、元保育課長で現在私立保育園の主任をしている人、私立幼稚園連合会の幹部などですが、一様に預ける人数の増加、預ける時間の長時間化が起こるであろうこと、それに関して今の体制では人員的にまったく対応できないという認識です。すでに無資格者が保育現場にこれだけ多く入っているにもかかわらず、(政治家が選挙公約にした)「無償化」に対応するため、さらなる規制緩和が行われれば、質の低下による人間関係の不信感が、どれほど混乱と無理を現場に強いるかが目に見えているのです。

私がいう「現場」は、子どもたちを含む現場です。子どもたちにとっての現場と言ってもいい。3歳までは、脳の発達に充分な話しかけをしてもらえるか、抱っこしてもらえるか、5歳までに、どれだけ可愛がってもらえるか、寄り添ってもらえるか、その「現場」です。経営の現場、条例の現場、仕組みや制度の運営の現場ではありません。

幼児との「現場」が人間を優しくし、社会に忍耐力を生んできたことは、ちょっと考えれば誰でもわかるはず。どれだけたくさんの人たちが、どれだけたくさんの時間をこの「幸せそうな絶対的弱者」と過ごすかで社会の質が決まってきた。経済なんていうものも、この社会の質の上に成り立ってきた。

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これだけ、現場で「無理だ」と言っていることをなぜ政治家は進めようとするのか。自分たちの選挙やキャリアよりも、日本の未来でもある、子どもたちの日々のことを優先的に考えるべきではないのですか。

親になるということは、損得勘定を捨てることに幸せを見つけること。仏教やキリスト教など、主要な宗教が薦めてきた「利他」の道を歩むこと。遺伝子という、すでに持っている幸せのものさしを体験し、自らのいい人間性に気づくこと。

参考人を終えた後、幾人かの議員たちが、右も左も、与党も野党も超えて「そうですよね」と言って寄ってきてくれたのが嬉しかった。旧知の顔も幾人かいました。子どもたちの願いを優先する、それで心は一つになるのです。