両界曼荼羅

K君のこと/両界曼荼羅

以前、こんな文章を書きました。

車で2時間ほど走って、ある公立保育園に講演に行きました。お父さん2人お母さん20人くらいに話をして、「保育士体験を始めて下さい、それを園の伝統にして下さい」とお願いし、その後、お昼に給食を食べました。

園長先生が用意してくれた私の席は、軽度の知的障害を持っているK君と、自閉症のR君、そしてR君のお母さんと四人で食べる席でした。

K君は、園についた時から私にくっついていました。

K君はほとんど職員室に住んでいて、主に園長先生が見ています。私を園に迎えてくれたのも園長先生とK君でした。お母さんがあまり園に寄り付かず、園に預かってもらえるかぎり預けていました。園長先生が薦めてくれたのですが、講演会にも現れませんでした。でも、R君のお母さんが、K君とK君のお母さんの世話を色々やいてくれるそうです。

二人とも来年学校へ行くので、色々しらべて、特別支援学校に二人で行こう、とK君のお母さんを誘っているそうです。

保育園が助け合う絆を育てていました。

K君と過ごす、お昼を一緒に食べる。

ほんの1時間くらいだったのですが、私が10歳くらいから色々身に付けてきた世渡りの術はK君には役に立ちません。私の本質しか見られていないような気分です。磨いてきた技術ではどうにもならない、裸にされたような感覚。

園長先生はこの時間を私に過ごさせたかったんだな、と思いました。

そのあと東京に戻り、自民党のK代議士の「励ます会」に行きました。年に一度くらいですが、こういう会の招待状をもらいます。四期目のK代議士には内心期待しているので、都内のホテルへそのまま行きました。元総理大臣、元防衛大臣二人、いつもテレビで見る方々が次々に面白おかしく挨拶をしました。会場は、ほとんど背広にネクタイ姿の男たちで埋まっていて熱気が立ち上っています。知り合いの代議士の方も数名いました。

テレビのカメラが来ていました。問題発言でも起きないかねらっていたのでしょう。

立食の食べ物をおいしく食べていると、司会をしていたK代議士の親友の熊本のK代議士が、わざわざ私を探しに来てくれて、友人という香川の代議士を紹介してくれました。

両界曼荼羅。K君がK代議士を照らす時が来るはずです。

すべて双方向への関係です。私に反射した関係であっても、K君はきっとみんなを照らすはずなのです。

数年が過ぎて、自分で書いた文章を読みながら考えるのです。

この先、どうなっていくのか。希望を捨てるわけにはいきません。まだまだ、可能性はあるはずです。

毎年、赤ん坊が生まれてくるかぎり、だいじょうぶなのです。

そして、あの時、園長先生が私のために用意した席のことをもう一度意識し直してみるのです。
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もう一つ、不思議な次元が交錯する席に座らされたことがあります。

ベーシストのラリーから電話がかかってきて、奥さんのジョニのアルバム(Dog eat Dog)で尺八を吹いてくれ、と頼まれた時です。ジョニ・ミッチェルは、大地と上空を舞う魂から音を選び、言葉を発信する詩人であり、歌い手です。チャネラーなのでしょうね。炭鉱の中のカナリアかもしれない(ジョニ)。インターネット上のユーチューブで、その時私が重ねた音がまだ鳴っているのです。「エチオピア」という曲ですが、あれからますます亀裂が深まってきているように思える。

誰かがつけた映像でしょう。たくさんの子どもたちの顔と共に、人間の様々な思いが意思となって交錯します。ミステリーが形となり、提示される。せっかくバーチャルな空間で意志がなり続けているのに、このままでは、ミステリー自体が意味を失ってしまう。

 

ETHIOPIA Joni Mitchell  

https://www.youtube.com/watch?v=Tp4xv8S0jYk

 

ジョニが多くのアーティストたちに影響を及ぼし、それだけではなく親身な存在として慕われるのは、天から降ってきたような人だからです。ボブ・ディランと双璧と言われることもあるのですが、ディランとは次元の違う、宇宙からの贈り物のような存在、要素なのです。ディランの主張より、はるかに不思議で根源的です。贈り物を「生かし」たのは人間たちで、だから自分たちの魂を祝える、そんな感じがいいのだと思います。

エルトン・ジョンが崇拝している、と言い、チャカ・カーンが命を救われたと言う。

一人では生きられないジョニ。それがなお人々を嬉しくする。描いた絵を見ていると、ゴッホに似ている。
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人間は、幼児をどう見てきたか

「幼な児(おさなご)のような心にならねば、天国には入れない」

「幼な児(おさなご)を受け入れることは、神を受け入れること」

そして、「裕福なものが天国に入るのは、とても難しい」

どれもイエスの言葉だと言われています。

天から授かった幼児たちが人間たちを導く、宗教はだいたいそんなことを言います。

二行目は、もっと端的に「幼児の存在意義」を表します。この思いと認識で、人間社会は成り立つはず。そして人類は存続し、進化してきた。

三つ目は「貧しきものは幸いなれ」という言葉でも表されます。

聖書の言葉を2000年くらい、生きる指針にしてきた人たちがたくさんいて、今も世界中にいる。経済競争を薦め、豊かになることを目標と決める経済学者たちは「神話に過ぎない」と言うかもしれません。三歳児神話は神話に過ぎないと、以前誰かが言ったみたいに。しかし、神話であってもことわざであっても、そこに幸せになるための、人間が世代を越えて絆をつないで行ける「鍵」が存在するから、多くの人たちが伝承し、そうした言葉を生きるよりどころにしてここまで来たのです。

 脳の発達を考えれば、3歳未満児は何を教えられたかより、どう扱われたかが人生を決める。丁寧に『可愛がる』が基本。保育士の人間性がより問われてくる。保育士不足で、現場が保育士を人間性で選ぶことができなくなっている。政府が幼児の「扱いかた」をわかっていないからこういうことになる。

(という私のツイートに)

 心にささりました。資格持ってるだけでいいので、是非うちの園に来て下さい状態です。発達障害が疑われる職員でさえ、是非!と受け入れなければ、保育士が足りません…。

(という現場からの返信。)

 

 

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小一プロブレムや学級崩壊の広がりに端を発し、12年前にスタートした就学前の発達障害児の早期発見施策は机上の論理で現場が混乱させられる典型でした。保育士不足の現実を知らなかったのか、すぐに露わになった加配の限界と「専門家」の力不足、人員不足が現場に新たな問題を引き起こしました。

専門家に見せたがる親、見せたがらない親、子育てに対する意識が微妙に変化し、「加配」という数の論理に現場の実情(ニーズ)が加わって、小さな亀裂、分断があちこちで始まりました。それに個人情報保護法や不信感を助長する権利意識と損得勘定が重なった。走り出した市場を回すための乱暴な規制緩和も追い打ちをかけました。

人間を仕分けすることばかりが先走り、その先が見えていない。仕分けでは解決策にならないのに、一緒に「子育て」している保育士や園長先生たちが少しずつ「子育て」に口を挟めなくなっていきました。(これがいかにこの国にとって損失だったか、損得勘定で考えてもかるはず。もし、この段階で親たちが親身な相談相手をつくっていれば、その先にある「子どもの貧困」「虐待」「引きこもり」「犯罪」などがかなりの割合で止められたはずです。)

その子を直接知らない「専門家」の介入がきっかけになり、昔気質の園長が「あなたの子ですよ」と、時に強く、心を込めて親たちに言えなくなっていった。子どもに寄り添うのではなく、分析し、仕分けしようとすることで子育ての主体が誰なのかが曖昧になり、子どもたちの不安が増していった。

誰も、真剣につき合ってくれない……。誰を愛せばいいのかわからない。まわりを信じることができない。

炭鉱の中のカナリアが泣いていても、その声がとどかない。

誰かが「こころのケアなんて言葉は薄っぺらで、傲慢なんだよ!」と吐き捨てるように私に言いました。「一番大切なものの定義が揺らいでいるだけじゃないか」

たとえ「心のケア」の動機が良いものでも、「ケアしてくれるべきなのだ」という権利意識が広がれば、それは生きる力の妨げになります。不安を煽るばかりで、やがて「保育園落ちた、日本死ね!」というような言葉が正論であるかのように国会で取り上げられるようになる。すると現場に必要な調和が一気に遠ざかっていく。誰も、「保育園落ちた、万歳」と言っているかもしれない、まだ言葉にならない「小さな声」に耳を傾けようとしない。

専門家の薦めと、親の要望で、行動や発達に問題のある幼児、いわゆる「手のかかる子」に薬を与えておとなしくさせるケースが現れると、絆のネットワークはいよいよ形骸化していきます。意識のレベルがますます噛み合わなくなるのです。

子どもが初めて体験する社会(保育園、幼稚園)で信頼関係が崩壊し始めている。それが保育士による園児虐待という状況にまでつながっている。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591:幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。)

(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2801:衆議院内閣委員会:国会議員用レジュメ「保育の無償化について」)

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前回、手のかかる子どもの魂を「抱っこ」で鎮めようとしていた保育士が、薬を処方された子どもにある日突然「抱っこはもういい」と言われて涙する話を書きました。

そのとき私に、その保育士を育てた園長先生の悲しみが伝わってきました。抱っこはもういい、という言葉の陰で失われていく「大切な伝承」が見えたのです。

子どもや親たち一人一人を観察する余裕もなく、その体制もできてない「専門家」が、役割を果たして薬を処方する。この新たな道筋の欠陥は、専門家たちに、子どもたちと一番長く時間を過ごしている保育士たちの存在が見えていないことなのです

薬物が必ずしも悪いわけではないのでしょう。ここまで絆が希薄化してくると、専門家でもいいから相談相手なってくれた方がいいのかもしれない。しかし、学問をベースにした専門家が増えることで絆が希薄化してくることの方がはるかに怖い。学問は、すでに資格ビジネスと一体化している。

以前、ある厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言ったのを思い出します。この人の言っている「子育て」は保育士たちがやる保育ではなく「仕組み」がやる保育です。そして、その仕組みは利権がらみ、選挙がらみの「仕組み」なのです。

子育ては、その場限りの「対策」ではない。

カウンセリングもそうですが、寄り添った観察と、心を合わせておろおろする「心情」が伴わないと、相談相手としてはあまり意味がない。子育ては人間の心を重ねることが本来であって、お互いを知らない人たちが知識や技術に基づいて分業でやるものではない。役割分担ではあるのだけれど、心が一つになっていなければ「役割分担」の意味がない。

絶対に避けられない「性的役割分担」の象徴が「子育て」です。そこに人間たちが心を一つにする意味がある。そのことを、素直に、考える時がきています。

(ネイティブ・アメリカンの言葉:「隣人を判断するなら、その人の靴(モカシン)を二ヶ月履いてからにしなさい」)

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小学生の10人に一人が学校のカウンセラーに薦められ薬物を飲んでいるというアメリカ社会。その構造に関して時々マスコミで取り上げられることはあっても、大統領選挙の争点になることはもはやありません。薬物で画一教育を可能にし教師の精神的健康を維持しようとする。ここまで進むと流れを止めるのが非常に難しくなってしまう。

画一教育を可能にする条件を整えるのは本来親たちの役割でした。その責任を果たそうとすることで親たちが成長し、感謝の気持ちが表明される。それが「義務」教育を存続させるための大切なルールだったのです。

誰が責任を果たすか、ではなく、誰が責任を果たそうとするかで流れは定まってくる。それが人間社会の仕来たりです。

しかし、4割の子どもが未婚の母から生まれ、18歳になるまでに40%が親の離婚を体験するという土壌では、親子が育ち合う環境を耕し直そうとしても手段が限定されてしまいます。男女平等論を叫んでも、父子家庭より母子家庭の方が絶対的に多い。構造的に、男たちが父親として育つ体験が減っている。突然の、激減といってもいい。(地球温暖化に似ている。)自業自得と言えばそれまでですが、これは人類未体験の異常な状況なのです。

並行して「祖父母心」が育つ機会が失われ、その欠如が進みます。

孫が生まれたことを知りようのない(特に父方の)祖父母たち、自分の父親や祖父母が亡くなったことさえ知らない子どもや孫が普通に存在するようになる。それが意識の中で当たり前になる。

これは決して進歩でもなければ、発展や成熟でもない。

私たちは、いまテクノロジーの進歩によって自分たちの何が退化していくのか見極めなければいけない。機会を逸すると存在が危うくなる局面にきています。

「祖父母の心」には親心とは一味違う働きと、調和を生み出す作用がありました。

人生の終わりに近づき、「そろそろいい人になりたい」という潜在的な目的意識が、幼児(孫)の本来の役割とうまく合致し、それを際立たせてきたのです。祖父母が幼児を可愛がる姿が人間の生きる目標になり、幸せへの手本になっていた。

先進国社会で、「幼児を可愛がる」ことの欠如が人間の精神の不安定化を招いています。文化人類学的に考えれは、薬物と司法に依存する社会が生まれる要因に「祖父母心」の急激な減少があると言ってもいい。よく、考えてみてください。地球上に祖父母のいない人間は存在しないのです。すなわち祖父母の役割が社会には必要なのです。過去だけではなく、未来にも。高等教育を一つのテクノロジーとして捉えれば、それが広まって「機会の均等」などと言い出すと、反比例して最も大切なものが育つ「機会」が失われていく。高等教育がモラルと秩序の優先順位を間違えてとらえている。政府の「新しい経済政策パッケージ」を読むとよくわかります。そして、その結果は、様々な現象に現れています。

アメリカで、学校のカウンセラーが薦める薬物が、将来、麻薬中毒やアルコール中毒につながるという研究がすでにされ、学校における薬物使用の背後に製薬会社の利権がある、とさえ言われて30年。当時私がこうした問題について書き始めた頃すでに分析はそこまで終わり、報道もされていたのです。

アメリカでは、毎年5万人が薬物の過剰摂取で命を落とします。その年だけのことではない、続いていく数字です。十年間で50万人となれば、二つの世界大戦における米軍の戦死者をはるかに上回っているのです。しかし、80年代にコンゴの内戦で四年間に死んだ人の数はその10倍。何が連鎖しているのか。誰が犠牲になっていくのか。

(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428:米国におけるクラック児・胎児性機能障害(FAS)と学級崩壊)(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2004:インドとアメリカ・様々なものさし。そして学者の調査。)

本来「学校教育」は子育てとは異次元、異質のものでした。「教育」は弱者が強者を育てようとする最近のもので、経済活動やパワーゲームの一端を担うという要素が強い。「子育て」は弱者が強者の人間性を育てる「進化」の過程に属するもの、受け入れる力を育む、そんな違いでしょうか。共存が絶対条件になってくる。

家庭における「子育て」が揺らぐと学校教育は成り立たなくなる。このシンプルな構図を、福祉にも当てはめて仕組みを組み直さないと、日本でも同じように子どもたちが行き場を失い始めています。このままでは欧米社会の二の舞になってしまう。兆候は、保育現場だけでなく、児相における対処の限界や、子どもの貧困という形ですでに現れているのです。

 

10年前に比べて、小学校教員の応募倍率が10分の1になっています。高等教育への道筋が、遺伝子の中に存在する「モラル」によって否定され始めているのだと思います。就学前の「子育て」の時間が、教育への道筋に組み込まれることによって幸福感を失いつつある。すると、大切な人をつくることへの恐れが社会を覆い始める。

「保育園をたくさん作ることが、子育てしやすい環境を作ること」と新聞が書き、保育者養成校の学生がその報道を信じたら、日本の保育はその時点で崩れ始める。

子どもを見つめる親たちの目線に「感謝」がなければ保育も教育も成り立たない。その感謝のきっかけをつくるのが乳児たちから向けられた私たちへの信頼の眼差し。そうした基本的な知識を保育者養成校で、政府の施策に優先して、繰り返し学生に教えてほしいのです。義務教育が存在する限り、学校は子どもたちにとって最後のセーフティーネットであって、それを支えるのが保護者であり保育者、そして何よりその両者の一体感。その論法で優先順位を整えていけば、まだこの国は大丈夫だと思うのです。

(NHKのクローズアップ現代『~「愛着障害」と子供たち~(少年犯罪・加害者の心に何が)』https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3613/index.html)

(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1560:引きこもり・愛着障害・幼い中学生)

どんな形であれ「抱っこはもういい」と幼児に言われたら、それは人類にとって強い警告です。

去年のアメリカ大統領選挙あたりから毎日CNN、ABC、NBC、CBSのニュース報道を見ています。同じ国に住んでいながら人間たちが競争原理の中で創造してしまった「亀裂」の深さ、分断の深刻さをひしひしと感じます。分断はどんな社会でもあるのでしょう。しかし、それを覆い、包み込む、亀裂にいくつか橋をかける「何か」大切なものが欠けてきている気がしてならないのです。新大統領が言う「ユニティー」という「言葉」が心に響かなくなっている。教育とか理念では埋まらなかった亀裂、そして仕組みが広げた分断が信仰と化し露わになる。暴れ始めている。

私が、その主張に同意できなくてもRBG(亡くなったルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事)に強く惹かれ、彼女を守護神のように感じるのは、彼女の果たした功績や社会的役割の向こうにある、「育ち」に共鳴するからだと思うのです。

以前、山に囲まれた保育園で双方向への治癒力「抱っこ」が消えてゆく場面に出会いました。

最前線に、ひとりの保育士がいたのです。

「問題児だったけど、毎日あんなに甘えて抱きついてきた子が、突然『抱っこはもういい』と虚ろな目で言うんです」それが悲しい、と保育士が言う。そんな保育士が可哀想で、と園長が私に言う。

もともと1対3とか1対6では無理なのです。3歳児は1対20です。それでも、頑張ってきたのです。

毎日「抱っこ」で子どもの魂を鎮めようとしていた保育士が、親から何も相談されずに、処方された薬で心を抑えられた子どもにある日突然、「抱っこはもういい」と言われたのです。

保育という仕組みの切なさ、虚しさを感じます。

心療内科に連れて行くこと、薬を飲ませることを保育士に一言も相談してくれない。長い時間面倒を見て、毎日抱きしめているのに、まるでサービス業のように見なされて、口を挟もうとするとプライバシーの侵害だと役場に駆け込まれたりもする。そうした日々が積み重なって、心を込める保育士たちが使い捨てになっていく。保育士は仕組みの一部のように見えるかもしれませんが、そうではないのです。

実はその子の育ちに一番長く関わっている人たちが知らないところで、子育ての「方針」が決められていく。

「抱っこはもういい」と言われた保育士の誰にも訴えるすべのない悲しみの陰で、この国を支えてきた利他の心が麻痺していく。子どもたちを支えるはずの絆がほどけて行く。

母親が心療内科に子どもを連れて行ったのも「愛」、保育士の悲しみも愛。しかし社会全体の仕組みを考える人たちの心に愛が欠けている。だから、こんなことが起きてしまう。

子どもが「抱っこはもういい」と言った瞬間に、人類が拠り所にしてきたモラルと秩序が壊れていく気がしてなりません。

山の麓の保育園で起こった出来事から、その保育士の悲しみを察し、それを真摯に受け止めないと、この国が修復不可能なほどに壊れていく。誰も気に留めない一人の保育士が感じた切なさから、人類全体に起こっている異常な流れを感じ取ってほしいのです。生きるための「動機」が重ならなくなっている。

なぜそうなるのか。

幼児たちの居る風景を想像し、矛盾を根元から解決していかないと、最近作られた巨大なポピュリズムの陰で、幼児たちと肌を合わせる意味が忘れられていきます。

今、幼児たちの存在を認め、彼らを再認識することに本当の社会改革がある。

私が小さな保育園にも喜んで講演に出かけていくのは、こうした訴えかけてくる風景に出会うからです。ガラス玉を覗き込むように、大切な次元が見えてくる。福祉の向こう側に常にあるべきこの国の民俗学的美しさ、それを保育士や園長先生たちの笑顔から感じるのです。この国はまだ大丈夫。「子育て」という小さなガラス玉の集まりで人類は成り立っているのがわかるのです。

そのガラス玉の反対のところにある話。

東京都の認証保育所に勤め始めた保育士が、園長から抱っこするな、話しかけるなと指導され驚いたという話を思い出しました。確かめると、地方の公立保育園でも似たような話がある。

子どもが生き生きすると事故が起こる確率が高くなる、と園長が言ったそうです。

この説明が迫っている「保育の限界」を表しています。

小規模保育は3分の1資格なしでいい、パートで繋いでもいい、そうした規制緩和が行われ、13時間開所や0歳児保育が補助金を質に推し進められ、意図的に保育単価が決められていく中で、信頼できる保育士を確保できない状況に追い込まれている園長も可哀想ではあるのです。事故が起きないことが最優先になって、それを責められないほどに危なっかしい現場が増えている。

子育てに必要な「ゆとり」がなくなってきている。

子ども6人を一人で受け持って子どもたちの望み通り「抱っこ」しようとしたら保育士が腰を痛めてしまいます、絶対に無理です、というベテラン保育士の指摘もまったくその通りで、普通に保育をしていても、子どもが「抱っこ」される時間は家庭で育っていた時に比べて極端に減っていた。それが、ここ数十年やってきた国基準の保育なのです。そのあたりがそろそろ認識されないと、手の掛かる子の増加に歯止めが掛からなくなってくる。

幼児期の子育てに不可欠なのが心の「ゆとり」でした。人間の心にゆとりを与えるために幼児期の子育てがあったと言い換えてもいい。乳児と不思議な沈黙を共有することで、人類は、未来を創造する瞬間を体験し、思いやりの心を育てていく。絆に必要な静けさを身にまとうための道が、「抱っこ」にはあった。

「抱っこしなければ、落とさない」、その次元に保育がなってきているのに、それでも預かれと政治家たちは言う。「質より量」優先の施策を「子育て安心プラン」と名付けて進めている。保育を子どもの数とお金で計った「仕組み」としか見なしていない。これでは、格差と分断によって、その先にある学校がもたなくなる。そして、欧米を見ればわかるように「教育」でこの分断を是正することはできない。

安全最優先が「抱っこしない保育」につながる。これは見かけ以上に危険な現象です。子どもの成長には決定的と言ってもいい。

それでも、保育という仕組みの空洞化が市場原理によって進められる。「福祉」が人間性を失い、一線を超え始めている。

「子育て安心プラン」は構造的に破綻している「生産性革命と人づくり革命」(安い労働力の創出)の無理と矛盾、男性の引きこもりや未婚化に象徴される次世代の無気力化を覆い隠そうとする短絡的な手段であって、そのための命名です。子育てをしないことで「安心」しようとするという奇妙な論理が「抱っこしない保育」という形になって現れ、この「抱っこしない保育(子育て)」が無理と矛盾をさらに少子化という形で増幅させていく。「子育て」の中心に存在する「安心」は「子どもたちの安心」でなければいけないのです。

仕組みとしてのコーディネーションを完結させずに矛盾を抱えたまま、雇用労働施策によって「生産性」と「人づくり」が重ねられる。しかし、人間の生きる意欲、自己肯定感における幼児たちの役割を考慮しないから歯車が噛み合わない。すぐに行き詰まる。

どんな形であれ「抱っこはもういい」と幼児に言われたら、それは人類にとって強い警告です。

ウィルスという試練が世界中に広がり異なる状況の下で人類の忍耐力を試し、絆を試し、利他の心の有無を問い続けています。欧米で、コロナ禍の中で若者たちがロックアウトに反抗し、マスクもつけずにパーティーを開いたり暴徒化する様子を見て驚いた日本人は少なくないと思います。でも、欧米の犯罪率が軒並み日本の10倍以上と知れば、それなりに納得するはず。弱者に辛い、思いやりに欠けた格差社会がすでに広がっていて、家庭という定義の崩壊がその背景にあるのです。実の両親に育てられる子どもの方が少数派になり、家庭における親子の関係が希薄化し共に過ごす時間が減少すれば、親が子どもの面倒を見ようとする期間は相対的に短くなります。自立をうながすと言えば聞こえはいいのですが、早めに見離すと言い換えてもいいでしょう。制約や連帯責任を嫌うことで、「絆」という利他のネットワークがほどけていく。そこで生まれる子どもたちの孤独感や不安感が4、50年前から蓄積し、限界に近づいているのです。

子育てを優先しない、強者に都合のいい「男女平等論」は責任回避の口実になっていく。「平等」どころか、より一層社会における格差を広げ深刻な不平等を生む。そのことを、アメリカでますます露わになる亀裂と分断から私たちは学ぶべきだと思います。

血のつながり、家族の定義、家庭という制約と連帯責任が、社会のモラルや秩序の維持に果たしてきた役割は確かに大きかったのです。

自由を失うことはそれ自体怖いことではありません。幼児を育てていれば、それが喜びであることさえ理解できます。怖いのは、自由を失うことを恐れること。失うのではないかと思うこと。そう思い込まされること。そして、その思いを利用されること。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=976:デンマークの幸福度・デンマーク在住の日本人と、日本在住のデンマーク人の文章

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2743:幼児を扱う「作法」を、仕組みを動かす政治家や専門家たちは忘れてはいけない。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2851:“虐待入院”と愛着障害