犬にはちゃんと法律ができたのに/詩の力

「生後56日までの子犬子猫、販売引き渡し禁止へ」

 ペット店での幼い子犬や子猫の販売を規制する動物愛護法の改正を巡り、民主党は22日、生後56日(8週)まで販売目的の引き渡しを禁止する方針を固めた。

 自民党や公明党などとともに改正案を提出し、今国会での成立を目指す。

 ただし、ペット店に対する移行措置として、施行後3年間は規制を生後45日までに緩和する。その後も子犬や子猫を親から引き離すことについての悪影響が科学的に明確になるまでは、規制を生後49日までとする。

 環境省によると、ペット店では年々、幼い犬や猫を販売する傾向が強まっており、動物愛護団体は「親から離す時期が早すぎると、かみ癖やほえ癖がつく」として規制強化を求めていた。

(読売新聞 2012年8月23日

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 寿命が人間より短い犬にとっての56日は、人間にしてみれば一年くらいになるのかもしれない。生まれて56日目の子犬は、もうちょこちょこ歩いていますから、ひょっとすると人間の2才くらいかもしれません。

 人間の幼児にもしっかりこういう法律を作ってほしい。同じ哺乳類ですから。母子の愛着関係に関しては、三歳くらいまでは配慮する、と法律で決めてもおかしくないはず。

 霊長類の親子の愛着関係はとてもデリケートで繊細なも、とチンパンジーの研究で知られるジェーン・グッデルも言っています。成長過程や生活習慣におけるちょっとしたバランスが崩れることによって、霊長類の暴力的行為、子ども虐待が、始まることがあるのです。ジェーンの場合、それは「餌付け」でした。観察をしやすくするために、野生のチンパンジーに餌付けをしたことで、ジェーンの研究した群れにだけ、小猿殺しや共食いが始まった可能性が強いのです。平等に餌をもらうこと、競争を無くすことによって、その遺伝子が何十万年に渡って育まれて来た「条件」が変わる。そして、それが突然いままで起きていなかった、種(群れ)の存続に関わるような負の行為に発展するのです。


 もちろん簡単に比較するわけにはいかないのですが、国会で論議されたように、子犬に、親から早く引き離すことにによって「かみ癖やほえ癖」がつくのなら、75%の遺伝子を共有する人間にも似たような可能性があるかもしれない、そう考えるのは的を外していないと思います。最近、日本の保育園で、以前はなかった一歳児の噛みつきが不自然に増えている問題、そして、ほえ癖とは言いませんが、ひょっとして人間でいうところの「いじめ癖」が将来顕著になるのも、早くから親子を長時間離し過ぎるのがその一因かもしれない。

 一歳で噛みつく子に、一人の保育士が一日10時間一週間、一対一つきっきりで保育すれば噛みつかなくなる。その時に対応しないと、4才、5才になってからでは遅い、と言われる園長先生もおられます。保育施設の普及から来る親子の愛着関係の不足は、やがて子どもたちが必ず入ってゆく学校教育を成り立たせなくするような気がしてなりません。

 最近、学校の先生やPTAの役員のひとたちに講演したのですが、いじめの質、ということではここ五年くらいちょっと尋常ではないような気がすると、何人もの方が言われます。私も実際にいじめる子たちの顔つきを見て、異様さを感じることがあります。特別暴力的になっているというよりも、子どもたちの表情に、冷たさを感じるのです。


 子犬に関する法律が現場の意見を反映し、与野党一致で法律として通り、なぜ人間の乳幼児の親との愛着関係を守る法律は提出されないのか。人間が豊かさという環境の変化の中で、本能(人間性)を忘れ、選挙とか民主主義、法律という、部族を超えたパワーゲームと経済活動が生んだ人工的なルールに判断を委ねようとしているのではないか。


(民主主義は、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとにつくられています。同時に選挙権が成人(親)にしかない、という重大な欠陥を持っています。しゃべれない乳幼児が何を望んでいるか、願っているかイメージする想像力が欠けてくると、この制度はいまのままでは、人類の存在を揺るがすような負の連鎖、絆の崩壊に導きます。)

 人間は、時々、動物や植物や大自然をよく観察し、自分たちの進化してゆく方向性を大自然の一部として考え、起こっている不自然な出来事を注意して見極めないと、結局自分で自分の首を絞めるようなことになってゆく気がします。

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 この報道を読んだ時、ふとインドの野良犬たちのことを思いだしました。インドでは、都会でも田舎でも、「飼い犬」はあまり見かけません。たぶん、犬を売り買いするひとたちは、人口の1%もいないかもしれない。

 犬たちは人間社会と古い自然界の中間あたりをうろうろし、昼間は暑さと闘わずにぐったりと寝そべっている。そして、ときどき身の回りに昔からある人間社会と必要に応じて交流する。夜になると野生の血が騒ぐのか、元気に走り回ったり縄張り争いをしたりして、満月の晩などは遠吠えをしたりします。ふと思ったのです。この犬たちが今度日本の国会で審議され。通るであろう法律のことを知ったらなんと吠えるだろうか。ありがとう、と言うのか。

 親犬の気持ちはどうなるんだ、と言われたら人類は応えようがない。

 そのあたりまで想像力を働かせないとはっきり見えてこないではないか、と「動物会議」という児童書で主張したのは詩人で思想家のケストナーでした。

 こちらからも必要に応じて私たちの母体である自然界の法則とは交流し続けなければいけません。



 (国会で0増5減、定数削減、そんな些細な問題で大騒ぎするより、子犬の将来を心配してつくった法律を、人間の子どもにも適用するような法律をつくることの方がはるかに重要だということを、この国の政治家やマスコミはいつ理解するのでしょうか。)


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こんにちは。


今日、さいたま市在住の子育て中のお母さんから、メールが届きました。

子育てジャーナル(埼玉県私立幼稚園連合会が11万家庭に配っている機関誌)で、松居さんが書いて下さった私の詩を読み、泣いてしまったという内容でした。

第三者から見ればほほえましいような、でも当人にはとてもつらいのだろうと思える悩みがせつせつと綴られていました。

そして、最後は、メールを書いてすっきりしました、としめくくっていました。

私はこういうお母さんに詩を読んでほしかったんだ、ととても嬉しくなりました。

松居さんがあちこちで私の詩を広めてくださり、私のやりたかったことが実現できて本当にありがたいです。

ありがとうございます。

メールを送ってくれたお母さんは、同じようなお母さんにこの詩を広めたいと仰って下さいました。



                                        小野 省子


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小野さんの詩二つ



自分のために

 

トイレのドアをたたく

よちよち歩きの小さな手

「ままーままーままー。どこーどこー?」

 

一分間だけ・・・ 耳をふさいだために

今日一日が・・・ 罪悪感で埋まる

 

ああ 不満や不安はこぼれ落ちて

手の平には 喜びだけが残りますように

涙やため息は結晶となって

胸の中で メダルのように輝きますように

 

子供のためだけに過ごした

今日一日の最後に

私は 自分のためだけにお祈りをした

 


姉弟

 

「幼稚園でもらっためずらしいおやつ、

こうちゃんにもあげたかったの」

お姉ちゃんがそっと小さな手を広げると

にぎりしめたワタアメが

カチカチにかたまっていた

 

「ひかりちゃんがいないと、つまんないわけじゃないよ

ただ、さびしいだけ」

私と二人だけの部屋で

弟は たどたどしくうったえた

 

人間は

かたわらにいる人を 愛さずにはいられない

幼い子供から それを教わる

 

 小野省子HPhttp://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm

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 子どものためだけに過ごした一日。信じきってもらい、頼りきってもらい、最後に祈る一日は、私たちの魂を清めるのかもしれない。