学童の支援員が投稿した、「親との会話」

 

ツイッター上に、学童の支援員が投稿した、「親との会話」がありました。

 

支援員:「お宅のお子さんがお友達を殴って泣かせてしまって…」

親:「殴らないように指導するのがそちらの役目ですよね?」(謝罪なし)

とか

支援員:「宿題を家ですると言って聞かなくて…」

親:「何で学童でさせてくれないんですか!習慣づけるのは学童の仕事でしょ!」

とか普通にあるから怖いよね。

 

 

この会話から受ける「印象」が、私を怯えさせる。

学校という新たな役割分担が普及した国で、こうした会話が日常になっている。考えれば考えるほど、修復の困難な、人類の存在を脅かす、末期的な現象がそこに現れている。

戦後、敗戦の苦しみや悲しみの中で、貧しくても人々の心がずっと豊かで、小さな命にも敬意が払われ、そこそこ助け合い、それが幸せだと感じ、苦労はあったけれど、同時に「子どもを育てること」が喜びや希望、生きる動機と直結していた時代、「Always 三丁目の夕日」に描かれたあの時代には考えられなかった会話だと思うのです。

親たちが「常識」や「作法」を知っていた。

私が幼稚園、小学校と過ごした、あの時代には、考えられなかった会話がネット上に溢れ、それに慣れ、「子育て」の価値が下がっていく。

「保育園落ちた、日本死ね!」も、そうでした。

「資格」とか「専門家」という言葉が生んだ役割分担の中で、「教育」と「子育て」の混同が始まって、人々は、こうもたやすく無感覚になっていく。国が三歳未満児の十一時間保育を奨励することによって、ここ五、六年、それが、一気に進められた。

「ここ五、六年」という言葉を、最近、保育関係者から頻繁に聞きます。

乳幼児と過ごす一瞬、一瞬の「印象」が人生から剥ぎ取られ、「絆」が急速に弱くなっている。すると、子育てが苦痛になり、より一層長時間預ける人の割合いが増えていく。

それ自体が生きる喜びとなる「親身な絆」、「利他のつながり」をつくるためにあった「子育て」が、「仕組み」によって、分断され、継続が難しくなっているのです。現在、世界中で起こっている「分断」の根っこに、この、親子の分断、男女の分断がある気がしてなりません。

 

「持続性(サステイナビリティ)」という言葉がよく使われます。

「子育て」が媒介する「親心」の継続性は、「人間性」の伝承と言い換えてもいいのですが、社会を整えるために不可欠な要素だった。その「伝承の流れ」を、政府や経済学者が母子分離に基づく施策で壊しておいて、(マスコミもそれをここまで許しておいて)いったい、いまさら何を言ってるんだ、という感じがするのです。家庭における人間性の伝承、特に乳幼児が親たちの遺伝子をオンにし、絆を育てるという働きを、短絡的な経済論で希薄にしておいて、SDGsなどと言っても、机上の空論、夢のまた夢のように思えてならない。

これでは、欲の資本主義に太刀打ちできない。

大人たちの権利や都合の陰で、幼児たちの安心が後回しにされ、人類全体から、利他の心、相互的「持続性(サステイナビリティ)」が著しく欠けてきているのです。この流れを変えない限り、人類は「自ら選択し、弱者を顧みない、争いの時代に入っていく。もう、その入り口に立っている。

流れを変えるためには、幼児たちの願いに耳を傾けるしかない、と思い、「ママがいい!」を書いたのです。先進国の中で、それができるとしたら、この国しかない、と自分に言い聞かせながら。

冒頭の会話に対し、人々がどういう「印象」を持つか、それが、子どもたちが生きていく「環境」をつくります。

しかし、いま、「愛されていると思う子どもに育ってほしい」という願いに照らした時に、聞き流してはいけない会話に疑問を抱かない人、回避できないはずの責任を、「そちらの役目」と、「仕組み」に任せることで回避しようとする人が増えている。

給食が出るというだけで、仕事は休みなのに八時間子どもを預ける人が増えているという。その人たちが、一緒に子育てをしている人たちを、「そちら」と呼び始めている。

いつどのようにしてこの感覚は、生まれたのか。致命的な「分断」は、どのように進んだのか。

 

イエスは弟子たちに、言いました。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

 

赤ん坊を抱くということは、流されないための錘(おもり)を抱くようなもの。幸せになるお守り札を握りしめるようなもの。

「そちらの役目でしょ」「学童の仕事でしょ」と、親たちが、躊躇せずに言うことで、人生の錘(おもり)が外れ、生きるためのバランスが失われていく。子どもたちの安心感が失われ、老人の安心感も失われていく。

元厚労大臣が、「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言った子育てにおける「責任回避の流れ」、雇用労働施策で「子育て」を考える政府の愚策によって、大切なものが社会から奪われようとしています。

「出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円:民間研究所試算」とエビデンスを挙げて試算した専門家たち。母親が、生まれたばかりの子どもと一緒にいたいと思う気持ち、子どもたちの「ママがいい!」という願いを、「損失」と計算する。

この試算は、まさに学問がたどり着いた「愚かさ」の金字塔です。

それを真実のように報道してしまうマスコミも、また問題なのです。

経済学者が言う「貨幣によって得られる選択肢と、自由」は、欲の資本主義が仕掛けた「罠」のようなもの。

 

 

繰り返すしかありません。

自分の子どもの寝顔を眺めているだけで、人間は、しあわせになれる。

子どもを可愛がってさえいれば、いい人生が送れる。

そういう簡単なことに気づけば、いいのです。

義務教育が存在する限り、子どもたちにとって大切なのは、それに早く気づく人の割り合いなんですね。

詩人の声に、耳を傾ける時なのでしょう。衆議院の「税と社会保障一体化特別委員会」で公述人を頼まれた時に、議員たちに、この詩を読みました。

 

 

「愛し続けていること」 詩/小野省子

いつかあなたも

母親に言えないことを

考えたり、したりするでしょう

 

その時は思い出してください

あなたの母親も

子どもには言えないことを

ずいぶんしました

 

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて

何もわからないあなたの細い腕を

思わず叩いたこともありました

 

あなたは驚いた目で私をみつめ

小さな手を

不安そうにもぞもぞさせていました

 

夜中、泣きやまないあなたを

布団の上にほったらかして

ため息をつきながら

ながめていたこともありました

 

あなたはぬくもりを求め

いつまでも涙を流していました

 

私は母親として 自分をはずかしいと思いました

だけど、苦しみにつぶされることはなかった

それは、小さなあなたが

私を愛し続けてくれたからです

 

だからもしいつか

あなたが母親に言えないことを

考えたり、したりして

つらい思いをすることがあったら

思い出してください

 

あなたに愛され続けて救われた私が

いつまでもあなたを

愛し続けていることを

 

~「愛されている」そう思う子に育ってほしい~

~「愛されている」そう思う子に育ってほしい~

赤ん坊が生まれ、その初めての笑顔や仕草で人々の心が和み、ひとつになる。それが、人間社会の始まりです。

小さな命は、生きて、そこに居るだけで、人々をいい人間にし、人生の道筋を示してくれる。

その命に話しかけ、言葉では返ってこない宇宙との会話が始まり、親たちは、自身の心の声に聞き耳をたてる。

その時の不思議な感覚を、ずっと覚えているといいのです。

親たちの「可愛がる」喜びが、子どもたちの、「人を信じる力」につながる。

父親が、眠っている我が子に、「カラスなぜなくの」でいい、一人で静かに唄いかける。そんなことを五日間も続ければ、父親の中である遺伝子がオンになり、人間社会は整ってくる。音楽にはそういう不思議な力が備わっていて、コミュニケーションの次元を深くする。子どもたちが示唆する調和への道筋は、いつもそこにあって連鎖するのを待っている。

本当は、道端に咲いている小さな花に歌いかけるのでもいいんです。でも、それではハードルが高すぎるでしょう。眠っている我が子に、という入り口は、自然で、意外と素直に通っていける。実は、「千と千尋の神隠し」があれほど支持されるこの国には、こういう次元を超えることを好む文化的土壌があるのです。

奥さんに言われて、ご主人が実行してみようという気になる夫婦関係なら、すでに大丈夫ですが、うちはどうかな? と思ったら、まずお母さんがやってみてください。眠っている子どもに一人で唄いかける。お母さんが不思議なことをやっている姿を父親が眺める。その姿には、父親が忘れていた「何か」があるはず。

夫婦という最小単位の「社会」には、「子育て」をしながら、こうして人類のコミュニケーション能力を維持していく大切な役割があった。

自分の子どもの寝顔を眺めているだけでしあわせになれる。子どもを可愛がってさえいれば、いい人生が送れる、そういうことに早く気づけば、いいのです。

子どもたちにとって大切なのは、それに気づく人の割り合いなんですね。

(いまだに、昔作った私のアルバムがネット上で生きています。嬉しいことです。)

 It is nice to know that my albums are still alive on the Internet. Thank you so much.

Wheels of the sun

「新聞の記事と保育現場からのメール」

四年前に書いた文章です。

いま、裾野の事件を発端に、現場で起こっていることの深刻さが伝わり始めていますが、保育界が追い詰められている現状については、すでに何年も前から繰り返し、報道されているのです。

問題なのは、この時期、特に三歳までにする子どもたちの体験が、どれほど取り返しのつかない、決定的なものか、という認識が欠けていること。この時期に、多くの子どもたちが、「愛されている」と思えることが、人間社会が整うことの条件だった。その一番基本的、常識的なところが、保育をビジネスと考え、成長産業と位置付け、雇用促進の道具と見なした政府の保育施策によって壊されいく。

保育の専門家と言われる人たちが、「社会で子育て」などという言葉でごまかし、現場の崩壊(保育の質の崩壊)に拍車をかける施策に歯止めをかけようとしなかった。学問や仕組みで子育てはできない。子どもたちは、心のこもっていない「保育」を見抜いてしまう。

不登校児の急増、児童虐待過去最多という数字、不自然な犯罪の増加、どれを見ても、幼児期の不完全、不自然な体験が、すでに世代を超えて連鎖し始めているのは明らかなのです。

 

(四年前の文章です。)

(全国ニュースに、こんな記事がありました。)

世田谷区:企業主導型保育所2園、全保育士7人が一斉退職(毎日新聞)

東京都世田谷区にある保育所2園で7人の保育士全員が10月末に一斉に退職し、園児が転園を余儀なくされたり保護者が出勤できなくなったりしている。1園は休園し、もう1園は受け入れを続けるが、「保育の質」に不安を持つ声が出ている。

一斉退職したのは、企業主導型保育所「こどもの杜(もり)」の上北沢駅前保育園(園児10人)の保育士5人と、下高井戸駅前保育園(同18人)の保育士2人。上北沢園は今月から休園。下高井戸園は今月から新たに保育士を確保し、上北沢園の2児を含む計20人を受け入れている。上北沢園の残りの8児の保護者は近隣園に問い合わせたり、世田谷区に相談したりしているが、待機児童が多く、受け入れ先は決まっていないとみられる。

2園は絵本の読み聞かせができるというロボットを導入するなど特色ある保育をしていた。運営する会社の経営者の男性(47)によると、10月上旬に上北沢園の保育士全員から退職希望があり、保育士の派遣や他業者との提携を模索したが見通しが立たなかった。下高井戸園では31日、保育士から退職の意向を告げられたという。

「保育士には給与の未払いがあったようで、これが一斉退職の要因の一つになった」と証言する関係者もいるが、男性は「給与は払っており、遅れたこともない。子どもの情報の引き継ぎもなく、愛情はなかったのかと悲しくなる」と反論する。

この混乱でしわ寄せを受けているのが子どもたちだ。下高井戸園に通う子の母親は「安心できないので仕事を休んでいる」と憤る。いつもの保育士が見当たらないことで泣き出す子どももいたという。上北沢園から転園した子の父親は「待機児童が多い地域なので、簡単にほかの受け入れ先は見つからない。怒っても仕方がない」とため息をつく。

厚生労働省から企業主導型保育事業の運営を委託され、助成金支給を担う公益財団法人「児童育成協会」(渋谷区)は「保育士が一斉に辞めることは通常は考えられず、利用者のことを考えると非常識」と話し、利用者に新たな受け入れ施設を案内するなどの対応に追われている。

協会は下高井戸園の新しい保育士が有資格者かどうかを確認するため職員名簿の提出を求めているが、経営者は名簿の提供を拒み続けているという。園には栄養士はおらず、給食の献立をパソコンソフトで作成している。2日朝には経営者が自らスーパーで食材を購入していた。

予定していたケチャップ煮用の赤身魚が店頭になく、経営者は白身魚を購入し、「煮物にする」と話した。記者が「大丈夫か」と問うと、「『大丈夫ですか』って僕も言いたい」と困惑気味に答えた。【小野まなみ、矢澤秀範】

企業主導型保育所

主に企業が自社の従業員向けに設ける認可外の保育施設。待機児童対策として国が2016年度に創設した制度で、整備費や運営費は認可施設並みに助成される。今年3月末現在、全国に2597カ所あり、今年度末までにさらに増える見通しだ。一方で、認可施設に比べて保育士の配置などの基準が緩く、行政の目が届きにくいことから、保育の質の低下や安全管理への不安を懸念する声も根強い。

「補助金持ち逃げビジネス」の温床に

保育制度に詳しいジャーナリスト・猪熊弘子氏の話 児童育成協会の対応にも問題があるが、国が丸投げしているのがおかしい。企業主導型は自治体が把握できず、補助金目当てで簡単に参入できるため、制度設計自体に問題がある。一番被害を受けるのは子どもと保護者だ。制度を見直し自治体が関与できる仕組みを作らなければ、企業主導型は「補助金持ち逃げビジネス」の温床になってしまう。

(関連記事)

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•<企業保育所の7割、基準満たさず>

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•<待機児童解消へ政府推進 企業主導保育所の効果は?>

•<職場に保育所、広がる  女性採用の「切り札」 基準緩く「質」不安も>

(この記事の向こう側に、もう一つの危ない現実があります。報道もされず、ただ忘れられていく乳幼児たちの日々。そこに日本の未来が存在していることに社会全体が気づいていない。「雇用労働施策」と称し「保育制度の規制緩和を進める」政治家や学者、専門家たちがもう考えもしない子どもたちの悲しみや苦しみ、怯え、心ある保育士たちが現場から去ってゆく、あってはならない風景が「全国で」日々繰り返されている。世田谷区の、別の園のベテラン職員からのメールです。)

松居先生、お久し振りです。お元気ですか?

今週水曜日に保育課から電話があり、「近くの企業主導型保育園の経営困難により、今いる園児たちの受け入れ先を探しています。緊急一時枠でお願いできないか」なんて、今でさえ長時間保育の乳児で、基準は満たしているけれど安全に保育するギリギリラインなのに、区や都、国で責任取れ、現場に押し付けるな、待機児童政策は大失敗なんだと言えばいいのに、園長は何も言わず。ただ受け入れは難しいとお断りしました。

そこの園とは、よく散歩先の公園で出会い、見かけましたが、正職員と思われる保育士は卒業したてという感じの若い子ばかり。それに年齢のいったパート職員が子供達を怒鳴り散らしていて、若い子は何も言えず子供達に声かけもできず、ぼんやり砂場に座っているだけでした。

うちの園の子どもも、その怒鳴り声に怯え遊べなくなり、仕方がなくその場を離れました。いく先々でそこの園と鉢合わせると場所を変えるという、お散歩難民状態になりました。

そこの園は皆お揃いのポロシャツ(しかも白)とブカブカのビブスを着せられ、多分お洗濯もしなくていいとかが売りだったのでしょうか。

うちの園の子が泥水遊びをしているところに、その園の子たちが次々やってくるのを必死で抱え連れ戻すので、ご一緒にどうぞと声をかけると、ありがとうと言いながらも、子どもを遠ざけていました。

ある日、新顔のパートの先生(主婦っぽい)が、ありがとうございますと言い、一緒に泥遊びに参加しました。

暫く振りにまたその先生と子どもたちに会い、子どもたちも嬉しそうに私たちのところへやってくると、その先生は悲しそうに「今日は、あっちで遊ぼう」と声をかけていました。すると、若い正職員が、「この前、泥遊びをさせたからシャワーを浴びさせる目にあった、ホント参るよ」と言うのが聞こえ、泥遊びをさせてしまった先生は、もう子どもたちと声を交わすこともなく、ボンヤリ砂場に座っていました。

こんな現場のことなんて、行政は何もわかっていない。憤りを感じます。

今、うちの園では、モンスターペアレントととの戦いで、保育課とも戦っています。園長が何も言わないので、聞き取り調査に来た保育課の職員にうちの職員が、保育課は保護者の苦情に対応はするのに、保育士たちを理不尽な親から守ろうとはしない。保育士を守るのは一体誰なんですか、クレームがそちらに行く度に、書類提出を求められますが、その時間も無いし、だいたい保育中に何故聞き取り調査や電話対応をしなければならないのか、と反論していました。

また先生にお会いしたいです。取り敢えず、保育崩壊中の近況報告まで。

(「他園の子どもが、その怒鳴り声に怯え遊べなくなる」ような状況で、一週間も過ごせば、3歳未満児はただ萎縮していくばかり、自分でそれを親に訴えることもできない。そういう幼児たちの表情の変化を読み取れる親も少なくなっています。これが一ヶ月も続けば、2歳半までに一生に影響すると言われる脳の発達がどうなっていくか、怖いくらいです。

記事の中に、

助成金支給を担う公益財団法人「児童育成協会」の保育士たちを非難する「保育士が一斉に辞めることは通常は考えられず、利用者のことを考えると非常識」という発言があります。この法人にとって「利用者」は親でしかない。本当の利用者が「子どもたち」であることをわかっていない。「通常考えられない、非常識な」状況をつくりだしているのが自分たちだということを理解していない。

一年も経たないうちに、経営者が、「『大丈夫ですか』って僕も言いたい」という乳幼児とって危険な、素人頼みの仕組みを助成金を支給して増やしているのは、「子育て安心プラン」という経済政策パッケージです。

「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』http://www.luci.jp/diary2/?p=2498 

政府の「子育て安心プラン」の中で、子どもが不安に怯えている。

「遊びをさせてしまった先生は、もう子どもたちと声を交わすこともなく、ボンヤリ砂場に座っていました」。

ここに本当の意味での保育崩壊がある。

乳幼児たちの役割は「育てる側の心を一つにして、社会に信頼関係を生み、人間たちの親身な絆をつくること」。親も、行政も、保育士も、保育園経営者も、まったく心が一つにならないような仕組みを、いま政府が進めている。しかもそれを「人づくり革命」と呼ぶのですから、まったく理解できない。

幼児を可愛がる、という大自然の作った一つの「かたち」が土台にあれば、人間の作った福祉や教育という「かたち」は崩れない。でも、そこが欠けると「人間性」という生きる動機そのものが壊れてしまう。)

(「ママがいい!」にも書きました。ぜひ、読んでみてください。)

講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。

裾野市の保育士による園児虐待事件

「絵本の読み聞かせ」の道筋を示した父が逝った今年、私は「「ママがいい!」という、七冊目の本を出しました。タイトルにした言葉は、人間社会の中心を耕してくれる幼児たちからの、メッセージです。

母親にとっては勲章ともいうべき、この言葉から「社会」という「体験」が始まるのだと思います。

この言葉に、真摯に向き合わないと、保育という仕組みに限らず、その先にある学校教育や様々な形の「福祉」が、連鎖して崩れていく、と書きました。

「ママがいい!」、この言葉が発せられる「動機」と、それが指し示す「道筋」を、うわべの論争や、損得に惑わされず見つめ、率直に受け入れ感謝する時が来ています。

 

裾野市の保育士による園児虐待事件。

「ママがいい!」にも書きましたが、この手の出来事は、もう三十年前から頻繁に起こっている。養成校の実習生に聴けばわかります。繰り返し、報道もされている。それなのに、なぜ、保育の質を下げる規制緩和と、量的拡大が国によって進められたのか。その仕掛けを、この本を読んで多くの人たちに理解してほしい。

裾野のこども園で起こった虐待のニュースを見て、ショックを受けた方達も多いと思います。

一歳児にこういうことをするのは、仕組みが破綻している以前に、人間としての常識を逸脱しているからです。

しかし、それ以上に、この事件で、園長が保育士たちに、口外しないように誓約書を書かせていたということに、保育界の現状を感じてほしいのです。

養成校で教えている教授たちは、その現状を知っていた。養成校が、実は資格ビジネスになっている実態についても書きました。

(「ママがいい!」より)

良心を捨てるか、保育士を辞めるか

かつて保育の現場で、こんな事件があった。

千葉市にある認可外の保育施設で、三十一歳の保育士が二歳の女の子に対し、頭をたたいて食事を無理やり口の中に詰め込んだなどとして、強要の疑いで逮捕され、警察は同じような虐待を繰り返していた疑いもあるとみて調べています。警察の調べによりますと、この保育士は先月、預かっている二歳の女の子に対し、頭をたたいたうえ、おかずをスプーンで無理やり口の中に詰め込み、「食べろっていってんだよ」と脅したなどとして、強要の疑いが持たれています。

(二〇一四年七月 NHK ONLINEより)

三歳未満児を、親しくない人に長時間預けることにはリスクがある。だから長い間人類はそういう仕組みをもたなかったし、そうしなかった。

問題なのは、保育士の逮捕後、施設長が警察の取り調べに、虐待を認識しつつ、「保育士が不足する中、辞められたら困ると思い、強く注意できなかった」と述べたこと。

この証言で、保育士個人の資質の問題が、国の政治姿勢の問題に変容する。

政府の保育施策(雇用労働施策)は、保育士の「心(人間性)」が保育の質であることを理解しない。そのことが保育士たちを「良心を捨てるか、保育士を辞めるか」という状況に追い込んでいる。

社会保障制度には致命的な負の連鎖が始まっている。

経済財政諮問会議の元座長が「〇歳児は寝たきりなんだから」と私に言ったことがある。誰が世話をしても同じ、と本気で思っているのだ。教育の義務化と高等教育の資格ビジネス化で「子育ての本質」が見えなくなっている。この人たちは、三歳未満児保育を生産性向上を目的とした「飼育」くらいにしか考えていない。

保育の規制緩和と幼保一元化を進めていた野田政権の厚労大臣が「子育ては、専門家に任せておけばいいのよ」と言い、三党合意で安倍政権がそれを引き継いだ。

千葉の事件で、施設長の発言が全国紙で報道されたあとも、政府は保育の量的拡大を進めた。

学校で教師が児童虐待を繰り返して逮捕され、校長が「教員不足のおり、辞められたら困るので注意できなかった」と答えたら大問題になるはず。

叩かれ、食べ物を無理やり口に詰め込まれる相手が二歳以下で、経済活動に必要な仕組みで起こると対策が取られないどころか、政府は保育士不足、保育士争奪に拍車をかけていった。

三年後「保育園落ちた、日本死ね!」という発言が、もっと預かれという趣旨で、国会で取り上げられる。乳児が親と過ごす権利、「保育園落ちた、万歳!」と子どもが思う可能性、悪い保育士を排除できなくなっている現実については国会では取り上げられない。

(引用ここまで)

日常的に行われる園児虐待を口外しないことで、保育士たちの魂が鈍化していったのです。

実習先の園であったことを言わないように、学生たちが学校から口止めされ、先輩から、あの保育園に実習に行くと、保育士になる気無くなるよ、と耳打ちされる。致命的な質の低下が、個人情報保護法、守秘義務、などという法律を隠れ蓑に推し進められていった。

人間社会を守るのは法律ではない。幼児たちを可愛がることによって引き出される「いい人間性」と「常識の共有」です。

(千葉市の事件については、衆議院で参考人をした時にも言いましたし、衆議院調査局発行「 論究 第16号 2019.12」に依頼された提言論文にも書いています。衆議院ホームページで閲覧可。)

私が、何より恐ろしいと思うのは、こういう風景を、日常的に三歳、四歳、五歳児が見て、成長していくこと。異常とも思える風景を繰り返し体験し、親が知らないうちに、トラウマやPTSDを抱えた子どもたちが、すでに親になり、教師や保育者になっているということ。

親と保育者との関係をここまで崩してきたのは、国の経済施策と、実習生たちの内部告発を抑えてきた学者たちだ、と思う。

「保育士辞めるか、良心捨てるか」という決断を迫られた、まったく同じ道筋が、学校教育を追い詰めています。

教師不足が進むほど、良くない教師を排除できなくなる。

「情報は知識ではない、体験が知識なのだ」とアインシュタインは言いました。

損得にからむ情報だけが、生きる手法、知識のように幅を効かせ、大人たちの子育てにおける体験の質が荒くなっている。それによって、子育てを押し付けられた者たちの「良心」が崩れていく。

子どもたちの体験の質も、当然、一緒に落ちていく。それが、様々に未来に波及していくのです。

義務教育は「義務」であるがゆえに、一層逃げ場がない。

良くない担任に当たった時の親たちの選択肢は非常に限られている。いい親であるほど、手段を失い、うろたえ、苦しみや悲しみが深くなる。それが、不登校児過去最多、という数字に現れている。

今回の事件は、流れを変えるとしたら、最後のチャンスかもしれない。

(保育の崩れかた、子どもたちを守る「常識」が、政府主導の市場原理と豊かさによって壊れていった過程について、ぜひ、「ママがいい!」を読んでください。背後にある「欲の資本主義」に気づけば、そして、保育界が「子どもの側に立って」動けば、まだ十分可能性はあると思います。)

 

 

 

 

(三日前の記事です。親父の最後の一踏ん張りのような気がします。)