規制緩和の最終ライン

「こんな報道がされてしまいました。今後どうなっていくんでしょうか。子どもの気持ちを誰も考えない。現場はどうしたらいいのでしょう」

というメッセージと共にリンクが届きました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/79b585ee916db4647fc94d473c67ea91c771a771

(政府は今月末にまとめる少子化対策の「たたき台」に、全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度を創設し、出産後の「育児休業給付金」を受け取れる非正規労働者を拡大するとの内容を盛り込む方向で調整に入った。複数の関係者が22日、明らかにした。)

異次元の少子化対策は、結局、この方向に動く。一度超えると元に戻れない、規制緩和の最終ライン。間に合わなかった、止められなかった、という虚しさがつのります。

記事にある「無園児」という言葉に、失敗を重ねた雇用労働施策の本心が現れます。彼らの頭の中では、幼稚園児も無園児。無償化で公立の幼稚園が一気に消えていったことを思い出します。親たちに必要な負荷をかけていた幼稚園が、行事が多い、と避けられて、廃園になっていくのでしょう。もしくは、意識の高い親たちが集まって、頑張って、孤島のように守ってくれるのでしょうか。

「ママがいい!」という言葉と真剣に向き合う人が、これから、何かをきっかけに増えるでしょうか。

いずれにしても、その先にある義務教育が諸刃の剣になっていく。

 

保育をビジネスと考える業者と、大学や専門学校を「資格ビジネス」と見なし始めた「保育学者」、全員保育園で預かることを提唱した「社会学者」や経済財政諮問会議が施策を動かしているのか。それとも単純に、集票に幼児を利用する政治家たちの自分勝手な手法でしょうか。自分が選挙に受かるために、引き受けられないと知りながら、引き受ける。

過去十五年、選挙のたびに、与党も野党も母子分離を、宣伝カーのスピーカーで、「待機児童をなくします」と票を得るために進めてきたのですから、「保育は成長産業」「福祉はサービス」と誤魔化した閣議決定を今更、引っ込められない。現場が疲弊し、保育も教育も人材が枯渇しているのに、「全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度」などと、言って、子どもたちの願いを踏みにじる。利用しているのは親たちではなくて、子どもたちなのです。その気持ちを裏切ることが、反作用として、どのように社会に返ってくるか理解しない、しようとしない。

今年になって、二人目(第二子)から保育料をタダにする、そうすれば「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と小池都知事が記者会見で言った。

その言葉に、思考経路を蝕まれた社会を感じるのです。

体験に基づかない「情報」のせいでしょうか。想像力の著しい退化が見える。

何よりも、その論法が「通る」と、知事は思っている。

そして、それが通りそうな社会になっている。そこが問題なのです。

 

幼児の「働き」を理解する人たちが、再び一定数に達してこないと、この流れは変えられない。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。周りに薦めてください。この国も、戻れない一線を越えようとしているのです。

三歳以上児はすでに無料で、都知事の「チルドレンファースト」は三歳未満児が対象。

この年齢の人間との会話は、人間社会が成り立たつか、成り立たないか、という瀬戸際の体験、学びです。その原則を傍に置いても、明らかに保育の質が規制緩和で崩れ、園児虐待が問題視され、保育士に続いて、教員のなり手が足りず、学校が機能不全に陥っているときに、さらなる母子分離を進めようとする。一体、この人たちは何を考えているのか。

俯瞰的に見れば、この、子育てに値段をつけるやり方は、アダム・スミスが言っていた、損得で不安を煽りネズミ講のねずみを増やす「資本主義」のエネルギー源、誘導だと思います。

金額に換算できない価値観から、人々を遠ざけようとする。

体験としての子育ての価値が下がり、実の両親に育てられる子どもが少数派になっている欧米社会、その犯罪率の高さを見れば、この「不満」と「不安」で競争に駆り立てるやり方の先に、どういう社会が来るかは一目瞭然です。

欧米の幸福度の測り方は驚くほど偏っている。幸福度が高いと言われるフィンランドの犯罪率は日本の20倍ですし、徴兵制もある。http://www.anzen.mofa.go.jp/m/mbcrimesituation_169.html  私は徴兵にかかる年齢ではありませんが、子どものことを考えると、そういう国には住みたくない。20倍の犯罪率、若者の麻薬汚染率などは、年齢を超えて、あらゆる人々の幸福度に関連してくるはず。子どもや孫との関係が維持されていれば、そうなる。

「平等」という言葉が、 人々を競争に駆り立てます。

欧米社会における「平等」は「機会の平等」(equal opotunity)であって、強者が勝つための免罪符。そこから、平等も調和も生まれない。「自由と平等」を掲げるアメリカで、5パーセントの人が九割の富を握り、極端な富の偏りが過剰な分断と断絶を生んでいるのはご存知の通りです。去年から今年にかけて、四人以上が殺傷される「乱射事件」が、一日平均二件起こっている。人種偏見に基づくヘイトクライムの増え方は尋常ではない。大人たち(強者たち)が、自分たちの自由と平等を掲げ、乳幼児たちの価値から目を逸らしていったことが根底にあるのです。自由と平等という利権(りけん)を争う過程で、「利他」の幸福論を手放していった。

人間は、公平に、幸せを手にする道筋を与えられている。

それに気づくために、幼児たちが存在する。彼らの、大人たちから平等に自由を奪う「働き」が、社会に、モラルや秩序を生んできた。そう考えると、三割から六割の子どもが未婚の母から生まれるという欧米の数字は、もはや修復不可能とさえ思えます。日本は、まだそこまでは行っていないのに、「欧米では」という言葉を掲げる人たちがいる。

最近、日本でも急速に、「平等」を目指すことで、幼児たちの「働き」から親たちを遠ざけようとする動きが進んでいます。この「罠」は巧妙で、タチが悪い。

汚れたオムツを処理するのも保育園の役割とする動き。0、1、2歳児を11時間預かることもそうですが、税金を使った政治家の人気取りが、子育てを損な役割、「イライラ」の原因とイメージづけていくのです。

乳幼児は毎日排泄をします。しかも、自分でトイレにいけない。人類はその現実から絶対に「自由」にはなれない。言い換えれば、それが人間を人間らしくする、親身な絆を作るための「負荷」だったのではないか。それを受け入れられない親たちを、福祉と市場原理で増やしていったらどうなるのか。児童虐待過去最多、不登校児の急増、保育士や教師の不足、という結果を見れば明らかなように、「子育て」に関わる「仕組み」が、あっと言う間に崩れていく。そして、結婚しない人、子どもを産まない人が増えていく。

「チルドレンファースト」という本来の人間性、幸福感の牙城が、政治家の嘘、大人の都合、マスコミの怠慢によって壊されようとしている。皮肉にも、その過程で「チルドレンファースト」という言葉が使われる。

運営(延命)を考えれば、その嘘に加担せざるを得ない保育界は、これを続けることで、いよいよ「いい人材」を失っていく。政府の指示に従って「保育科」を作ったものの、学生が集まらず、存続が脅かされている資格ビジネスを維持するために、「保育学者」は保育の多様化、などと言い、預ける親を増やそうとする。「ママがいい!」という子どもの願いを置き去りにした人たちの、持ちつ持たれつの関係が限界を超え、悪循環を生み、冒頭の政府の施策となって現れているのです。

それで、数年生き延びたとしても、子ども優先でない保育施策のツケは、あらゆる分野でこれからの社会を苦しめる。

「ママがいい!」という言葉が、再びその価値を取り戻し「輝かないと」、この国も、欲の資本主義に呑み込まれてしまうでしょう。方法は、あるのです。

「三歳未満児を毎日十一時間」、「標準」と名付けて親から引き離そうとすることは、子どもの権利条約違反です。明らかな「人権侵害」。そのくらいのことは、マスコミも含め、学者や政治家たちはわかっているべき。

なぜ、こんな都知事の記者会見が、ニュースで「普通に」流されるようになってしまったか。ここ二十年間の、国の「子育て支援」施策の積み重ねに問題があったのです。(七冊目の本「ママがいい!」に、条例や閣議決定をあげ、代替案も含めて、詳しく書きました。)

口コミ、SNS、友達リクエストやシェア、ツイッターのフォロー、リツイートでいいのです。「ママがいい!」という幼児たちの言葉を広めて下さい。学校教育が追い詰められ、さすがに流れが変わり始めている気がします。ブログの更新もしています。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

「犬も宇宙の一部ですね…」

先日、茨城の(こども園を返上した)幼稚園で講演した時のこと。

子どもを優先に考える園長先生が、しっかり親たちに守られている、そんな園でした。こども園を辞めたのも、子ども主役の風景が、壊れるのを警戒してのことでしょう。

自分の子どもに親身になってくれる人を大切にする、その人が年配であれば、信じて、まずは従う、そんな人類の知恵というか、カタチが垣間見えます。子どもたちを中心に、身近な「伝承」が「社会」をつくる。幼稚園は、村のような単位で社会が整うための「練習」に丁度いい。

園長先生に頼まれていたので、最後に、演奏もしました。音楽で終わるのは、いいものです。講演会というより「祭り」の終わり、子育てが「祈り」へ還っていく感じがします。

しばらくして、講演の感想文が送られてきました。その中に一つ、思わず笑ってしまうのがありました。ああ、こんな風に理解してくれた……。

講演で、いつものように、

「私が一人で公園に座っていれば、変なおじさん。でも、二歳児と座っていれば、『いいおじさん』です。この仕掛けに気づいてください。そして感謝しないと人生の目標がわからなくなる」

と説明します。

私が一番大事に伝えようとしている、古(いにしえ)の法則です。

幼児と過ごしているお母さんたちは、うんうんと頷きます。

素晴らしい仕掛けを、何度も、体験している。知らず知らずのうちに、体験していたことに気づく。ともすれば忙しくて忘れそうになるのですが、幼児の不思議さを実感した、自分だけの秘密を思い出して笑顔になるのです。

横に座っているだけで、宇宙の相対性の中で、二歳児は人間を「いい存在」にする。子育ては、宇宙の「働き」そのものですから、その「働き」に気づくことが、生きる目的でもあるのですね。あとの人生は、時々その思い出に浸って過ごせばいい。

子どもを(孫を)可愛がり、自分の価値が高まっていることをはっきりと意識する。その時期が、人類には必要なのです。関係性の中で生きていることが、嬉しくなる。三歳までに、子どもはすべての親孝行をする、と言いますが、あの教えですね。様々な文化で、この同じ教えが伝えられていた。

不思議な感想文に、こう書いてありました。

自分は一人で散歩しながら、他人の家の形を眺めたり、庭をキョロキョロ覗き込んだりするのが好きで、いつも怪しまれていました。でも、柴犬を飼い始めて、犬を散歩しながら同じことをしても、怪しまれないことに気づいたんです。

犬も宇宙の一部ですね……。

私が講演しているのは、この柴犬を含んだ「仕掛け」の話なんです。

社会学者が見過ごしている、柴犬の「位置」づけの話。芭蕉や世阿弥が愛で、賞賛してきた、日本人には馴染みの深い「仕掛け」の話なんです。その主人公が、〇歳児たち、というのが私の主張です。

言葉を発しない者たちとの会話、たとえそれがお地蔵さんであっても、盆栽であっても、風の音であっても、逝ってしまった両親であっても、その会話が、「生きていること」の大切な一部であって、人生という道はその会話で方向づけられていく。そのことに気づかせるのが〇歳児を育てるという、人間が避けることができない行いで、その人たちの「寝顔」なのだ、と思うのです。

その後、しばらくして子どもが1歳になり、言葉による会話が、少しずつ始まり、言葉の意味よりも、それを発した人の「心持ち」を知ることの方が大切、と教えてくれる。そして、2歳児がとなりに座ってくれる、そんな風に考えています。

(犬の話では、私はインドの野良犬について、随分考えてみたことがあります。足すと一年半くらいインドで過ごしているのですが、夜、吠えるのを聞きながら、同じ空間に彼らがいること、彼らとの関係などを考えたのです。

野良犬はペットではありません。かと言って外敵でもない。大自然と人間社会の中間点でウロウロしている、不思議な位置にいる連中です。彼らは、自由なのだろうか。

昼間はダラダラ、面倒臭そうにしているのですが、夜中に俄然活気づく。強いリーダーに煽られて……。

彼らの存在が、人間と大地の橋渡しをしているような気がする。でも、油断すると喰われるかもしれない……。

明け方、それにカラスの鳴き声と羽ばたきが加わったりすると、謙虚になるべき、自分の位置を感じる。)

「ママがいい!」という幼児たちの言葉を広めて下さい。その言葉に向き合わないと、会話にどんどん深さがなくなっていく。口コミ、友達リクエストやシェア、ツイッターのフォロー、リツイートお願いいたします。

流れが、少し変わり始めている気がします。ブログの更新もしています。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

児童文学と私

 

銀座の教文館で父、松居直の回顧展が始まりました。そのイベントの一つとして、「児童文学と私」という題名で講演をします。4月5日、6時。教文館9階ナルニア国店内 定員:40名 参加費:1000円 申込み電話番号:03-3563-0730(午前10時~午後7時)。配信もされるそうです。ぜひ、お問い合わせください。

 

内容に関しては、ちょっと心配です。

話したいことがあり過ぎる気がする。うまくまとまると良いのですが。思い出語り、のようになるのかもしれません。

 

父の仕事上、児童書の出版社から新刊が出ると献本があり、次々に読んでいった子ども時代は恵まれていました。大人の理屈、まやかしの論法に誤魔化されない視点を、児童文学がくれた。

去年出した七冊目の本、「ママがいい!」もそうです。そう発言しているのは子どもたち。その意図に駆け引きがないから価値がある。その価値、その信頼から、目を背けてはいけない。時に叫びとなってきているこの言葉は、「慣らし保育」という、奇妙で、不可解な舞台に現れる、古(いにしえ)の法則からの抗議なのです。今、日本中あらゆるところで抗議の声が上がっているのに、気づかない、気づこうとしない。

最近の学問や政治、損得勘定が生み出した法則に支配され、その向こうに隠されている、はるかにパワーのあるルールを意識しなくなっている。アスランがそれによって蘇り、チョルベンが体現し、ドレムがノドジロと確認しあった、あの古(いにしえ)の約束事が蘇ってくる順番なのです。

児童文学の作家には、ちょっと変わった人が多いわけです。学校に行けない人。子どもの頃、長く天井を眺めていた人。往々にして会話の次元が普通とは違う、いわゆるグレーゾーンの人と言ってもいいかもしれませんね。世間で活躍する人たちとは一味違う人たちがこの分野では活躍する。

感受性を運命として引き受け、時には仕方なく、あちら側と交信し、慎重に「古の法則」を探る人たち。世間では弱い人に見えても、だからこそ真実が見える人たち。自分の幼児期をそのまま体の中に据えている人たち。

 

特に触れたい本、講演当日、準備してもらおうか、と思う本をリストアップしてみました。

「ママがいい!」の論旨や、三十年間話し続けてきた講演内容、インドに取材したドキュメンタリー映画を支え、十五枚出した自分の音楽アルバムに影響を及ぼした児童文学が、いっぱいある。でも、読んでいない人には通じないかもしれない。こうして、これを書いているだけで、もう自分の世界に行ってしまってる気がします。

でも、会場が、教文館のナルニア国ですから。

この空間は、圧倒的に条件がいいのです。願えば、リストアップした本が揃ってしまう。書いた人たちの魂が、背中を押してくれる。

この場所が選ばれたことに、すでに意味がある気がします。ナルニア国に入れば、そろそろ「児童文学と私」という講演をしてもいい。父と母に感謝です。

三十五年前、義務教育が普及すると家庭崩壊が始まり学校が成り立たなくなる、と本に書きました。

高卒の二割が満足に読み書きができない、三割の子どもが未婚の母から生まれる、そんなアメリカの状況を目の当たりにし、リンドグレーンの「長くつ下のピッピ」、ワイルダーの「農場の少年」、そして「わが魂を聖地に埋めよ」にあるジョセフ大酋長の発言に照らし合わせ、すぐにそう理解したのです。義務教育が人類にとって諸刃の剣だということ。それを書いて日本で話し始めると、保育者たちが、「福祉」もそうです、と強く訴えてきたのです。

欧米の、半数近い子どもが未婚の母から生まれるという状況が、児童文学の世界から見ると、あってはならないこと、に思えた。保育士たちの「施策」に対する憤り、利権争いを繰り返す人たちへの絶望感が伝わってきた。この人たちもまた、子どもたちに教えられた人たちなのだ、と思いました。

声なき声、〇歳児との会話が、自分との会話であり、同時に宇宙との会話でもある。人類を祈りの方角へ導くものだと思うようになったのも、「太陽の戦士」に登場するノドジロ、「カラスが池の魔女」の湿原の老婆、バンビにでてくる「死にゆく枯葉」、メアリー・ポピンズに出てくる窓際の雀たち、に影響を受けたからでしょう。

それに、ガンジーの非暴力、親鸞の他力本願が重なると、絶対的弱者の存在意義が歴然としてくる。三歳未満児との会話を怠ることが、人間性の維持にとっていかに危険か、見えてくる。

ピーターパンの話でも、調子に乗って、自己肯定感で傲慢になる男の子の際どさが、せっかく田園詩的な風景に感動し、立ち去ろうとするフックを立ち止まらせ、毒を仕掛けさせた。一方、フックはハープシコードの名手ですし、物語の中心には、ほぼ神格化に近い「母親」のイメージが主題としてあります。(私が、「ママがいい!」というタイトルの本を出しても、何ら問題ない。☺️)

ジェンダーフリーなどと安易に唱えていると、やがて「ピータパン 」も燃されてしまう気がする。ミロのビーナスも壊さなければならなくなる。そんなことは、人類は絶対しないだろうから、そういう流れはやがて消滅していくのですが、その過程で、陰陽の法則に基づく調和を失い、どれだけ弱者が追い込まれるか、が心配なのです。ナルニア国という小さな本屋さんが、どういう役割を果たすのか。

お爺さんは柴刈りに行って、お婆さんは洗濯に行くのはだめ、みたいな理屈が、教科書には入り込んでいるのです。(子どもたちには、真実の情報を得る異なる経路がたくさんあるので、学校教育など大したことではないのですが、)この手の平等論が、政府の経済政策に隠れ蓑のように利用され、保育施策に名を借りた母子分離が人々の意識を操り始めている。そのことが、欧米を見てしまった私にはかなり怖いし、児童虐待、不登校児が過去最多という報道に、ああ日本もいよいよ、と恐ろしくなります。

以前、ジェンダーフリー的な主張をする絵本を書いた女性との興味深い会話が、ロサンゼルスでありました。

六十年代の人種差別撤廃運動が、女性差別に反対する運動につながっていった中で生まれた、世界的にも有名な絵本なのですが、私が、その流れの先に、これほどまでの家庭崩壊がこの国に起こると知っていたら、この本を作りましたか?、と質問したのです。

その女性が、とても正直で、いい人だと直感したので、訊けたのです。

彼女は、私の言っていることをすぐに理解しました。

しばらくじっと考えて、作らなかったと思う、と静かに言いました。言い訳はしませんでした。その時、私は、児童文学を共有する、古(いにしえ)の法則の側から返事をもらった気がしたのです。この女性の電話番号を私にくれ、訪ねるように言ったのは、父でした。

 

ワイルダーの「長い冬」を読んで、包装紙代わりの新聞紙を、しばらく読まずにとっておくことで簡単に幸せを創造できること、貧しさがその道を照らすこと、をインガルス一家から教わりました。幸せは、「物差し」の持ち方で決まるのであって、格差や損得に関わる問題ではない。その持ち方は、損得勘定から離れた「絆」から得るもの。

ですから、子どもたちは必ず親と一緒に過ごさなければいけない、ということではないのです。それが子どもたちの「願い」だという意識が強く存在していれば、利他の幸福感は「願い」や「祈り」の次元で、より強く育っていきます。家族という形は、手紙一本でも、お互いの「思い」だけでも成り立つ。それを、ケストナーの「飛ぶ教室」から学びました。などなど。

 

今回、内容に触れてみたい本のリストです。

リンドグレーン:長くつ下のピッピ、わたしたちの島で、やかまし村の子どもたち

ワイルダー:長い冬、はじめの四年感、農場の少年

ルイス:ナルニア国物語シリーズ

ケストナー:飛ぶ教室

ザルテン:バンビ、バンビの子どもたち

スピア:カラスが池の魔女

ピアス:トムは真夜中の庭で

中川李枝子:いやいやえん

バリー:ピーター・パンとウェンディ

トールキン:指輪物語

サトクリフ:太陽の戦士

イェップ:ドラゴン複葉機よ 飛べ

ヘップナー:急げ 草原の王のもとへ

そして、たくさんの宮沢賢治、新美南吉、椋鳩十。

好きな本、となるともっとあります。「ちびっこカム」「ムーシカ・ミーシカ」「ながいながいペンギンの話」「龍の子太朗」「わらいねこ」「かえるのエルタ」寺村さんの「王様シリーズ」「点子ちゃんとアントン」「エミールと探偵たち」「二人のロッテ」「アーサーランサムシリーズ」「ドリトル先生シリーズ」「ハイジ」「あしながおじさん」など、など。

二十歳くらいまでは主として児童文学を読んでいた気がします。ある年齢までに読んで、その中から好きなものを、繰り返し読む、それがいいのだと思います。ほぼ実体験として、体の一部になるんですね。物語に入り込まないと読めないのが児童文学の特徴です。ピーターパンが飛べると実感できなければ、読む意味がない。でも、考えてみてください。「千と千尋の神隠し」が、「鬼滅」が来るまで、長い間、興行収益一位だった国です。ドラゴンボールは、心が清くなければ雲に乗れない。日本人は、こちらの方に真実がある、と見抜ける人たちなのです。

「学術的な本」は、まず読みません。一見、真実のように見えても、物差しに誤魔化しがあったり、本能的に実体験の引き出しに入らない。(私の場合は。)出だしがつまらないと入っていけない。

ですから、保育や子育てについて話しながらも、モンテッソリーとか、シュタイナー、とかは知りません。フロイトなんかは、ふーん、そうだろうな、と思う部分はあっても、病的すぎる。(感じがする。)親身な「相談相手を失う手段」くらいにしか思わない。

 

(児童文学ではないですが、以下の四冊も、考える支柱をくれました。)

ブラウン:わが魂を聖地に埋めよ

ヘリゲル:弓と禅

ガンジー:わたしの非暴力

渡辺京二:逝きし世の面影

絵本については、好きだった作品、そして、作者との交流が人生に影響を及ぼした、という視点で語りましょうか。でも、時間があるかな。

こんとあき、かばくん、ぴーうみへゆく、ペニロイヤルのおにたいじ、三匹のやぎのがらがらどん、くろうまブランキー、12のつきの おくりもの、ねずみじょうど、ねこのごんごん、フレデリック、まるのうた、あまがさ、からすたろう、きんいろのしか、こすずめのぼうけん、とべ!ちいさいプロベラき、わにわにのおふろ、

私を孫のように可愛がってくれた人。インドへ呼んだ人。パリで居候させてくれた人。アウシュビッツへ連れて行ってくれた人。ロサンゼルスで俳句の会に入れてくれた人。人生の紆余曲折の度に、絵本関係者に救われていた気がします。

親父の人脈のお陰です。人間は、「自立」なんて出来るはずもない。

 

(衆議院で参考人をした時に読んだ、小野省子さんの詩集も、お配りしようと思います。これは、私のホームページからダウンロードできます。:http://kazumatsui.com/genkou/014.html  省子さん、いつも伴走してくれて、ありがとう。)

そして、作った映像作品と最初のCDは、持参します。

CD「Time No Longer」は1枚目のアルバムで、当時の4大ギタリスト、リー・リトナー、ラリー・カールトン、スティーブ・ルカサー、ロビン・フォード、が参加しています。さて、超難問です。「このアルバムのタイトルは、どの児童文学から来ているでしょうか?」

 

 

DVD作品

 シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち ~インドで女性の人権問題で闘う修道女の話~:http://kazumatsui.com/sakthi.html 

一人でカメラを回し、簡易ソフトで編集した作品ですが、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。こんな内容です。

南インドのタミルナード州で、ダリット(不可触民)の少女たちを集め、裁縫や読み書き、権利意識について教えているカソリックの修道女が、彼女たちにダンスを教え、カーストや女性差別反対のための公演をしている。それが素晴らしいという友人の話に引き寄せられ、私はそれを映像に残そうとインドへ行きました。

ダリットの少女たちのダンスの美しさ、強さ、潔さに魅了されテープを回し、話を聞き、カースト制がいかに人々を抑圧差別しているかを知りました。最下層の娘と結婚しようとした男が兄弟に殺されるような事件が起こり、カースト内の人に出すコップでダリットにお茶を出したお茶屋さんが、焼き討ちにあったりする。現実に起こっているカースト制度の凄まじさに驚きました。

しかし、私が出会ったダンサーたちは美しかった。「ダンスの素晴らしさ」から「カーストの問題」へとテーマがシフトしかけていた私の視点は、踊り手たちと親しくなるにつれ、「絆」の方に向いていきました。少女たちの村に招待されてその世界に入って行くことによって、再度「人間の美しさ……」に引き寄せられました。

「園長先生と刺しゅう」

保育士は、資格を取る際、「福祉(保育)はサービス、親のニーズに応えよ」と政府の方針を教えられます。経営者の中にも、そう思っている人たちがいる。

これは、体験に基づいていない情報です。

(「情報は知識ではない、体験が知識なのだ」と、アインシュタインが言いました。政府がつくる「仕組み」や高等教育によって、「智の退化」が進んでいる。)

人間を管理しようとする作為的な情報に保育士が支配され、子どもの「願い」、「古(いにしえ)のルール」が見えにくくなっている。優先順位を忘れる人が現れ、保育現場における不信感が広がっている。

共感が遮断され、子どもの気持ちになれる人たちが「子育ての現場」に居づらくなっているのです。その悲しみがネット上の告白から伝わってきます。

保育者養成校では、政府の保育施策における優先順位が、「子育て」のそれと完全にずれていることを学生たちに教えていない。「社会で子育て」という言葉でごまかして「仕組み」の維持を優先している。そこに、園児虐待のような、常軌を逸した行動が起こる原因があるのです。

保育現場は、いまや、多くの子どもにとって生まれて最初の五年間になっています。人類にとって一番大切な、「輝くべき」「驚くべき」「感謝すべき」五年間が、社会が「利他」という人間性を失っていく場所になりつつある。

保育室における心の分断は、親のニーズと子どもたちの願い、その食い違いから起きています。

本来は次元の異なる、あってはならない矛盾の板挟みになった保育士たちの、自分は「どう生きるか」という選択が、「子育て」という最小単位の「社会」に亀裂を生んでいるのです。

 

 

「園長先生と刺しゅう」

全国あちこちに師匠と思っている園長先生たちがいます。先進国社会特有の家庭崩壊の流れを止められるとしたら園長先生たちが鍵を握っている、と思っています。

親が、まだ親として初心者のうちに幼児としっかり出会わせることが一番自然で効き目のある方法です。長く、こういう講演をしていると、達人のような園長先生に出会うのです。

 

もう三十年前になるかもしれません。こんな人に会い、こんな文章を書きました。一見無駄のように思える「刺しゅう絵」という作業が、親たちの人生に深みを与え、その感性を豊かにする。こういう園長たちが大地の番人のように、居た。

 

先日(注:30年前)、横浜南区のあゆみ幼稚園で講演しました。

講演の一週間前に、30年間の園の歴史をまとめた一冊の本が送られてきました。「育ちあい」という本でした。感動しました。

母親たちに毎年、園長先生が子どもが描いた絵を一枚選んで、その絵を元に、刺しゅう絵を作らせているのです。布を一枚渡し、子どもの絵を丁寧にトレースし、布の上に写しとり、そっくりそのままに刺しゅう絵に刺してゆくのです。

園長先生は言います。

「子どもがどこからパスをスタートさせたかを読みとり、パスの動きを追いながら一針一針進めます。そして約一ヶ月をかけて完成し、原画と共に園に提示して家族そろって鑑賞しあいます。もちろん祖父母のみなさんも大勢・・・」

子どもたちが10分ほどで描いた絵でしょう。

普通だったら幼稚園から持って帰ってきた絵をちょっと眺めて、ああ上手だね、と誉めてやって終わってしまったことでしょう。その絵を母親が何日もかけて同じ大きさの刺しゅうに仕上げてゆくのです。

本には、子どもの絵と母親の刺しゅうが上下に並べられたカラーのページがあって、それは見事でした。筆先のかすれているところまでちゃんと糸で表現してあるのです。

そして、その絵の下に、母親たちの感想が載っていました。私はそれを読んで、園長先生の達人ぶりに驚かされました。

 

「『やった!やった! ああよくやった』13日午前1時30分、一人で声をだしてしまいました。この4~5日、深夜に集中できました。子どものために、こんなに一生懸命になれることって何回あるでしょうか。さあ、今夜はゆっくり・・・」

「鳥の後ろ足の部分は主人が刺してくれました。刺し終えた時は、主人と二人で思わず『できたね』と声をかけあいました。いい思い出になると思います。」

「どんな巨匠が描いた絵より『ステキ、ステキ』と自画自賛しています。刺しながらどんどん絵の世界に引き込まれていきました。試行錯誤しながら作る過程は、まるでキャンバスに絵の具をおいていく楽しさでした。」

「できました! 3枚目です。もう最高です。産みの苦しみも赤ちゃんの顔を見たとたん忘れてしまう、今、そんな気持ちです。息子は左利き、私は右利き、同じような線にならず何回もほどきました。もうこの子のために、こんなに長い時間針を持つことはないだろう・・・、そう思いながら刺しました。今、一つのことをやり終えた充実感と三人分無事終えた安堵感でとても幸せです。」

「『お母さん、まだ、こんなところなの? ボクなんて、サッサと描いたんだよ』と息子が横目でチラリ。私だってどんなにサッサとやりたいか・・・。眠い目で遅くまで刺し、目を閉じると絵の線が、はっきり浮かんで夢にまででてくるのです。やっと終わった!という喜びと、もうこれで最後なのだという寂しさと・・・。この素晴らしい刺しゅうを持っている子どもたちは幸せだと思います。」

「途中でめげそうになった時、主人が少し手伝ってくれ、その姿を見て子どもも目茶苦茶ではありますが『手伝っておいたよー』と。よい思い出と、よい記念ができました。」

「この一ヶ月睡眠時間を削り、家族には家事の手抜きに目をつぶってもらい本当に大変でした。でも苦労した分だけ満足感も大きく主人から『ご苦労さま!』と声をかけられ、こどもからの『ママとても上手だよ。そっくり!』のひとことでやってよかったと思いました。」

「先輩のお母さまが相談にのってくださり、前年度の作品を参考にと貸してくださいました。『私だって初めの時は、同じように先輩にしていただいたから』のことばに胸が熱くなる思いでした。くじけそうになった時に応援してくれた主人と子どもたちにも感謝の気持でいっぱいです。」

「一針一針刺していると小さな針先から子どもの気持が伝わってくるのです。こんな素敵な、あたたかい気持との出会いができた刺しゅうに感謝します。」

「でき上がりました。目の疲労を感じながらも心は軽やかです。刺しゅうをしていくうちに、だんだんとこの絵が好きになっていくのです。とても不思議なことでした。いとおしいとまで思うようになりました。」

「すてきな絵を描いてくれた娘に・・・。家事を協力してくれた主人に・・・。アドバイスや励ましをくれた友達に・・・。何よりこの機会を与えてくれたあゆみ幼稚園に心から感謝を込めて。」

 

人間社会を家庭崩壊の流れから救う鍵がここにある。教育論や社会論、子育て論や福祉論、保育論を吹き飛ばす、すべてがある。

母親たちを動かすのは園長先生の人柄でしょうか。(祖母のような方です。)

 

園長先生にたずねました。「強制的に全員にやらせるのは大変でしょう」

すると園長先生は「いえいえ、強制じゃないんですよ。やりたい人だけなんです。でも100%志願なんです。それが嬉しいです」

私はハッとしました。そうなんだ。まだ日本の母親たちはすごいんだ。こんな園長先生の心を生き続けさせているのは、それにしっかり応えている母親たちなんだ。

「もう30年もやっているんですが、最近になって母親たちの間に、刺しゅうのやり方を伝えるノートが代々受け継がれていることを知ったんです。先輩の母親から、本当に詳しく、少しずつ書き加えていったんでしょうか。このクレパスの赤い色を出すには、何々社製の何番の糸がいいとか、かすれている部分をうまく表現するテクニックとか色々あって、そのノートが伝承されていくんです。子育てもやっぱり伝承ですから、先輩から次の世代のお母さんへ、受け継がれてゆく大切なもの、気持ち、がその中にあるような気がして嬉しかったんです」

 

わが子の絵を刺しゅう絵にする。

この一見意味のないように思える妻の無償の努力を傍らで見つめる夫。自分の描いた絵が時間をかけて少しずつなにかとても立派なものになってゆくのを、わくわくしながら見つめる子ども。一枚の刺しゅうを囲んだ家族の心の動き。

 

自分の手で再現されてゆくわが子の絵を見つめ、針を運びつづける母親の心。針の先に見えてくる絆・・・。

将来この一枚の布を見るたびに、母親の心に一ヶ月の凝縮された過去の時間がよみがえるのでしょう。

こんな課題を母親に与えてくれる園長先生がいた。

これは理論ではないな、と思いました。

 

子育ての「負担」を軽くしようと、延長保育やエンゼルプランを園に押し付けてくる文部省や厚生省の役人には、こういう大自然の摂理は理解できない。

 

発想が全然違う。

幸福感の次元が違う。

宇宙に対する見方が違う。

魂に対する理解度が違う。

 

園長先生が、幼児を見つめながらこれほどまでに心眼を磨いて真理を見ている。

親たちに「親」というひとつの形を舞わせている。その様式美に夫と子どもがちゃんと気づく。

「かたち」から入る日本の文化の真髄がここにあるのでしょう。理屈ではなく、かたちなのです。

人生は出会いだと言います。こういう人に出会える親たちの幸運。子どもたちの幸運。私の幸運。

さっそく次の日、鹿児島でこの話を園長先生たちにしました。

 

「すごい!」

「鳥肌がたつわ」

「私も頑張らなきゃ!」

 

口コミやSNSで、「ママがいい!」に書いた子どもたちの願いが少しずつ、広がっている気がします。保育士会からもっと聴きたい、と講演依頼が来ます。

マスコミも、保育施策に対する見方が変わってきているように思えます。義務教育における教師不足と、不登校児の異様な増えかたが、もう待ったなし、という感じです。やっと、みんな幼児の願いに耳を傾け始めている。

幼児期の体験の重要性が言われますが、昨今の母子分離(広く、幼児と過ごす時間の欠如)が仕組みによって行われていることを考えると、様々な形で、「幼児を体験すること」の方が重要になってきていると思います。

小学生、中学生から「幼児と過ごす」機会を増やしていく。やり方については、「ママがいい!」に実践例を書きました。

 

「ママがいい!」と、言っているのは、私ではありません。子どもたちなのです。その言葉に素直に反応していけば道筋は整うのです。

 今、世界中で、人間社会の土台になっていた「共感」の断絶が、進められている。

どんなに予算を使っても、保育も学校も、児相も養護施設も人材的に限界が来ています。共感に幸せを感じる人間の本能が、「社会で子育て」、実際は「仕組みで子育て」という学者(強者)の言葉に背を向け始めている。

子育てを、親に返していくしかないのです。それが、子どもたちの願いです。

FBの友達リクエスト、シェア、ツイッターのフォロー、リツイートなど、どうぞよろしくお願いします。このままでは、学校教育が持ちません。子どもたちが導き、その存在が社会を鎮める。その感覚を取り戻せばいいのだ、と強く感じています。

ブログの更新もしています。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

児童文学と私 (教文館、ナルニア国での講演です)

4月5日、午後6時から、銀座の教文館ナルニアで講演します。3月15日から4月12日まで行われている父、松居直回顧展の一部です。

「児童文学と私」というタイトルで、私の思考、「ママがいい!」を書いた土台にある児童文学や絵本について話してみようと思います。初めての試みですが、楽しみです。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0UZQG2hjMBi6NRai22mzxiNecV3KJSYp2iqTZQ9KsrpsJ7ppMKxHHAAAxugY4CnDtl&id=100057827763167

 

 

松居直追悼展関連イベント

 

松居和さん(松居直氏次男)講演会

“児童文学と私 ~考える道標としての児童文学~”

アメリカの音楽界で尺八奏者として多数のハリウッド映画に参加、プロデューサーとして100枚近いアルバムを制作し、同時に日本で長年教育・保育の問題で発言してきた、松居直氏の次男・松居和さんに、児童文学から学んだことや考え方の秘密についてお話をしていただきます。

また、今回の追悼展では息子にとっての父・松居直はいかなる存在だったのか、和さんの子どもの頃の読書やその後の人生にどのような影響を与えたのかなど、ご家族から見た松居直氏の姿もうかがってみたいと思います。

皆さま、ぜひご参加ください。

日時:2023年4月5日(水) 午後6時~7時半

 

※当日は午後5時までの短縮営業となります。

受付は5時40分頃からです。

会場:教文館9階ナルニア国店内

定員:40名(大人対象・託児なし)

参加費:1000円 ※現金のみ、当日受付でお支払いください。

●お申込み方法●

参加ご希望の方はお電話でナルニア国までご連絡ください。

申込み電話番号:03-3563-0730(午前10時~午後7時)

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

【講師紹介:松居和(まつい・かず)】

1954年東京に生まれる。20歳でインドに行き、シルクロードを1年半旅する。カリフォルニア大学民族芸術科卒業。スピルバーグ監督の太陽の帝国ほか、多数のアメリカ映画に尺八奏者として参加。

日本では保育・教育関係の講演を行っている。元埼玉県教育委員長。7冊目の著作『ママがいい!』がアマゾンのジャンル別で1位に。

pastedGraphic.png

「保育者体験」と「読み聞かせ」

 

逝った父(松居直)の、福音館書店主催の「お別れ会」があって、会社が作ってくれたパネルに、懐かしい絵本に囲まれた父の幸せそうな笑顔がありました。

私が好きだった本。読んでもらった本、自分が子どもに読んだ本、小学校の授業で使われたものもありました。

元々、金沢の書店だった福音館は、母方の祖父が起こした会社です。

東京に出てきたとき、父が編集長として絵本の出版を始めたのです。(その前に、同志社大学の学生だった父と母の恋愛という出来事があり、それがなかったら、絵本の福音館はなかったわけですが……。それどころか、私も、なかった。)

小さい頃、家にいろんな人が下宿をしていて(今江祥智さんとか、学生服姿だった藪内さん)、祖父の家に編集部があった時期は、学校帰りに「お邪魔」し、夏休みには、母や祖母が、大きな釜でご飯を炊いたりするのをながめたり、昼休みに路上で社員の方がするバドミントンに入れてもらいました。

ですから、この本たちは、私の人生の一部でもありました。

(その後、ミュージシャンやプロデューサーとして、私自身もカタログを作っていきました。デジタルドメインに滑り込んだお陰で、ネット上で「Kazu Matsui」や「Kazu Matsui project」で検索すると、まだ生きています。Google Musicやアップルストアでも扱っています。まるで、子どものような気がします。)

 

私は、三十年以上日本で講演をしてきましたが、松居直との関係については特に言わなかったので、知らない人も多いと思います。いま、父が逝ってしまったことをきっかけに、もう一度、読み聞かせの素晴らしさ、その不思議な力、重要性について、発信しなければと思っています。

 

インターネットを使う幼児の低年齢化が進み、二歳児の平均利用時間が一日六十五分だそうです。https://www8.cao.go.jp/youth/youth-harm/chousa/h28/net-jittai_child/pdf/gaiyo.pdf 。これは、「平均」です。

使わない子どもも居るでしょう。でも、2時間、3時間という子どもも、相当数いるはず。二歳児です。つまりこれは、親たちの選択なのです。

「失われた時間」と見なすには、この時間がもし「読み聞かせ」に使われていたら、と想像し、質を比較するか、なぜ、失われたのかという「動機」を考えてくしかないのですが、幼児と過ごす時間に対するイメージと価値が、急激に変化している。

少子化に煽られ、0歳児保育を税金を使って増やしていった政府や経済界の意図を考えれば、操られている、と言ってもいい。

「ママがいい!」と言おうとした声が、ゲームや映像、機械によって封じられて、やがて、それが「子どもたちの選択」になったとき、コミュニケーションの中心から「心」が欠けていく。

ある保育園の理事長が、0歳児を預けに来た親たちに言っていたフレーズが聞こえます。

「いま預けると、歳とって預けられちゃうよー」。

 

「可愛がる」ことの価値が希薄になってきている。

利他の幸福感や、優しさの肌ざわりが、双方向に親子の時間から奪われていく。それが、社会全体のモラルや秩序の欠如につながっている。

幼児期の親の意識の格差が、「集団で行われる保育や教育」に確実に影響し、「二歳児のインターネットの平均利用時間」の増加から、それが読み取れる。「失われた時間」が連鎖し、幾人かの子どもが流れを遮ることで学級崩壊が起こり、教師の精神的健康が保てなくなる。

二千人と言われる教員不足が、二倍三倍になっていくのでしょう。その原因を文科省は、特別支援学級を増やしたこと、と言うのですが、増やさざるを得ない状況にしたのは、就学前の母子分離に基づく政府の労働施策でしょう。

一体、どうするつもりなのか。

先日、私学会館で、私の講演の前に、子ども家庭庁を進めている内閣府の責任者が講演しました。子ども真ん中、とか、子どもたちの意見を聴く、とかパワーポイントを使って説明するのですが、願いの一番はじめにあった、「ママがいい!」という叫びを未満児保育・長時間保育で封じておいて、何を言っているんだ、と腹が立ってきました。私の番になって、講演で爆発してしまいました。

政府が、0歳から預けることを「補助金の出し方」で強引に推し進め、労働施策を「子育て安心プラン」と名付けたあたりから、(それを世論が、受け入れたあたりから)、この国も、危うい一歩を踏み出したのです。

0歳児の「願い」が、唐突に視界から消えていった。

その流れの中で、人間の脳が育つ環境が、「利便性」や「損得勘定」で汚染されつつあります。それが、学級崩壊や家庭崩壊につながっている。

「出会いの場」としての絵本の存在意義を見直すときです。

 

前回のブログにこう書きました。

よく、講演の後で、子どもが言うことを聞いてくれない、どうしたらいいでしょう、と質問を受けることがある。そんな時、絵本の読み聞かせをしてみてください、と言います。

絵本から始めて、パディントンや寺村さんの王様シリーズにつなぎ、リンドグレーン(長くつ下のピッピ、やかまし村、わたしたちの島で)、インガルス・ワイルダー(長い冬、はじめの四年間、農場の少年)、そして、サトクリフの「太陽の戦士」にまでつなげるのが、私の「オススメ」です。

小学校を卒業するまで、いや、中学生になってからも……。自分自身に語るのでもいい。いい児童文学には、人生を計る「ものさし」が生きています。

親子の体験の絶対量が減り、様々な問題が起こっている。だからこそ、読み聞かせ、という双方向への「体験」が、親子の絆にいい。就学前に、この習慣を身につければ、この国の、あの雰囲気が戻ってくる。

「お別れの会」に展示されたパネルを見ながら、絵本は子どもが読むものではなく、語ってもらうもの、という父の主張が、今こそ、生き還る時だ、と思いました。私たちにとっては、「別れ」ではないのです。これからが、ともに生きる、共同作業です。(前回からの引用、ここまで)

 

文章をブログに上げてから、私の保育や子育てに関する考え方や、七冊目の著作「ママがいい!」を書いた土台になっている児童文学が、我も我もと浮かんできて大変です。

スピアの「カラスが池の魔女」、ピアスの「トムは真夜中の庭で」、ルイスのナルニア国物語、トールキンの「指輪物語」、ブラウンの「わが魂を聖地に埋めよ」。児童文学ではありませんが、幼児の存在意義と重なった、ガンジーの「わたしの非暴力」。

そして、読み聞かせながら、背後にある静けさ、宇宙を親子で感じる、新美南吉と宮沢賢治。

 

児童文学から受け取ったものさし、それは即ち「子どもの目線」ということですが、そういう基準から私は考えることができます。

「ママがいい!」と子どもが言ったら、そうなのです。

これは、正直な、大地の宣言。

それを覆すことはできないし、その言葉から耳を塞ぐことで、人間は「人間らしさ」を自ら封じ込めていく。自由だとか自立、なんて言葉は児童文学では、絶対に通用しない。

(「わたしたちの島で」のチョルベンから、それを教えてもらいました。)

このくらいにしておきますね。とりあえず。

 

(銀座の教文館で3月15日から4月12日まで行われる父の回顧展、4月5日6時、「私と児童文学」というタイトルで私も講演します。児童文学からもらった「感覚」について、話します。)

 

「こどものとも」は、月刊という仕組みが良いのですが、岩波の「はなのすきなうし」「ちいさいおうち」「ひとまねこざる」「おかあさんだいすき」なども、石井桃子さんがご自宅でやっていた「桂文庫」で、一人ずつ応接間に呼ばれて石井先生に読んでもらいました。(石井桃子さんは、松居家では「石井先生」です。安野(光雅)先生は、本当に私の小学校の工作の先生でしたから、安野先生です。)

その後、自分で読む方に移って、岩波書店に、よりお世話になりました。

 

「読み聞かせ」という習慣を、子どもたちのためだけではなく、親たちが「気づき」「育つ」ために、もう一度習慣づけていければ、「親子の愛着関係が土台になる」社会が蘇ってくる。政府が進める母子分離政策に対抗するとしたら、「保育者体験」と「読み聞かせ」、この手段しかない。

このやり方で耕せば、「学校が成り立つ社会」が返ってくる。「ママがいい!」という言葉が尊ばれる社会が復活する。

「義務」である九年間が、多くの子どもにとって「いい時間」であってほしい、いま、それを強く感じています。

 

中学生くらいから、幼児に読み聞かせる「喜び」を体験させていくのがいいのです。幼児と過ごす体験が、いいもの、という感覚を取り戻せば、人生における利他の幸福感を味わえるようになる。

(「ママがいい!」に、中学生の保育者体験について書いた文章です。)

長野県茅野市で家庭科の授業の一環として保育者体験に行く中学二年生に、幼児たちがあなたたちを育ててくれます、という授業をして、保育園に私も一緒について行った。

生徒たちは、図書館で選んだり自宅から持って来た幼児に呼んであげる絵本を一冊ずつ手にしている。

昔、運動会の前日てるてる坊主に祈ったように、絵本を選ぶ時から園児との出会いはもう始まっている。

男子生徒女子生徒が二人ずつ四人一組で四歳児を二人ずつ受け持つ。四対二、これがなかなかいい組み合わせなのだ。幼児の倍の数世話する人がいる、両親と子どものような関係となる。一人が座って絵本を読み、二人が園児を一人ずつ膝に乗せる。もう一人は自分も耳を傾けたり、園児を眺めたりウロウロできる。このウロウロが子育てには意外と大切なのだ。

園児に馴染んできたところで、牛乳パックと輪ゴムを利用してぴょんぴょんカエルをみんなで作って、最後に一緒に遊ぶ。

見ていてふと気づいたのは、十四歳の男子生徒は生き生きと子どもに還り、女子は生き生きと母の顔、お姉さんの顔になる。慈愛に満ちて新鮮で、キラキラ輝きはじめる。保育士にしたら最高の、みんなが幼児に好かれる人になる。中学生たちが、幼児に混ざって「いい人間」になっている自分に気づく。女子と男子が、お互いを、チラチラと盗み見る。お互いに根っこのところではいい人なんだ、ということに気づけば、そこに本当の意味での男女共同参画社会が生まれる。

帰り際、園児たちが「行かないでー!」と声を上げる。それを聞いて、泣き出しそうになる中学生。一時間の触れ合いで、世話してくれる人四人に幼児二人の本来の倍数の中で、普段は保育士一人対三十人で過ごしている園児たちが、離れたくない、と叫ぶ。その声に、日本中で叫んでいる幼児たちを聴いた気がした。涙ぐんで立ち去れない幾人かの友だちを、同級生が囲んでいる。それを保育士さんと先生たちが感動しながら泣きそうな顔で見ていた。