時間どろぼうの罠

人類は、母親無しでは生きられず、その制約は数年間続く。その条件を克服することが、進化の過程で脳の発達をうながし、他の種に比べ、格段に高度な社会性を築いたのだと言う。わかる気がする。

他人には任せられない。でも、一人では育てられない。

生まれて数年、絶対に「自立」できないこと、その先も、子孫を残すためには家族だけではなく、「部族」が必要であることが、大自然の一部でありながら、超自然ともいえる「優位性」を人類に与えたのです。逆算すれば、絶対的弱者たちを「育てる」、「可愛がる」という体験をしなければ、高度に発達した社会を維持するための「人間性」が獲得できないということ。だから、国連やユネスコ、WHOも、人生最初の千日間は、できる限り「親と引き離さないように」と、それを、子どもたちの「権利」として説く。

子どもたちが、親たち(人類)を育てる「権利」と言ってもいいでしょう。:人類の存続は、子どもたちの「承認」を前提とする

欧米先進国で、「家族の形」がこれほどまでに崩れ、責任の所在が曖昧になり、実の「父母」と言う言葉が、いつの間にか避けられるようになってさえいる。「特定の人との持続的な関係」などと言い代えられたりする。これは、優位性を武器に「豊かさ」に溺れた、意図的な「退化」です。

仕組みが、人間の思考を支配し始めている。地球温暖化の原因になった「驕り」(おごり)に似ています。「個人の夢」(主体制)によって、「絆」という持続性が後回しにされ、社会全体が集団としての方向性を見失い、破壊に向かおうとしている。(アメリカは子どもの権利条約に署名していますが、批准はしていない。批准できる環境では既にない。)

先進国という言葉に騙されてはいけない。「多様性」とか「平等」いう言葉で越えてはいけない一線がある。

人間が哺乳類である限り、原点、出発点は「ママがいい!」です。

「第一義的責任」

発達心理学者の草分けエリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳がある、と指摘し、それは世界中どこへ行っても、ことわざや言い伝えを通して、誰でも知っていたこと。それが最近、日本でも言い難くなっている。

学問も、政治も、マスコミも「市場原理」に操られ、強者の「権利」(利権)が優先され、「子育て」が、「可愛がること」から、「戦力をつくること」にシフトして行った。「体験」であるべきものが、「手法」になろうとしている。保育とか福祉、教育という仕組みで代替できると思い始めていることに、それが現れる。

以前、幼稚園の保育園化を進める政府の「幼保一体化ワーキングチーム」の座長を務めていた発達心理学者が、『保育の友』という雑誌のインタビューに答え、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせない時に社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言ったのです。これには驚いた。一人の学者が、こういうことを言うのは仕方ない。でも、このポジションにいる学者が言うと、仕組みが動く。三歳未満児を長時間預らないと民間の保育が生き残れないように、補助事業の仕組みが巧妙に変えられていったのです。

幼保一体化は、「女性の就業率80%」という数値を目標にしています。そこに至る論理性が、これほど稚拙で、非現実的でも構わない、という政府の姿勢が驚きだったのです。

五歳までしか関われない保育士に、第一義的責任は負えない。毎年担当が変わり、一歳児は一対六、三歳児は一対二十、五歳児は一対三十という条件で、どの保育士がどの子の第一義的責任を負うというのか。

この座長は、ただの(たわいも無い)学問、思いつきで発言している。「第一義的責任」の理解が浅いばかりか、「子どもの権利条約」違反でしょう。こういう学者の軽々しい発言が、言葉から質量を奪い、報道によって、人間の会話から、深みが抜け落ちて行く。法令とか条例を作ることで、社会全体が薄っぺらいものになっていく。

この発言に誰も異を唱えなかった。

報道は、「待機児童」という言葉を使い、むしろ母子分離施策を「権利」として支持した。

一つの園、ひとクラスでも実行できるはずのない空論を「保育の友」で語った学者も、それに異論を挟まなかったマスコミも、政治家も、豊かさの中でポピュリズムと言う「市場」に反応している。親たちが何を聴きたがっているか、嗅ぎ分けている。

子どもたちだけが、正直に、「ママがいい!」と、叫び続けた。

子どもを保育所に置いて行く時に、「いってきます」も「じゃあね」、も言わない親が現れ保育士を悩ませている。荷物を置いていくように、子どもを置いていく。それを叱れない。

親身なコミュニケーションを奪われた「仕組み」の中で、保育士は「子育て」をさせられている。そして、「親身さ」を捨て始めている。

その風景が、日本の教育現場の崩壊を暗示している。

一人では生きられなかった、という「気づき」と、それでも、(母がいれば)生きられた、という「意識」の「相対性」の中に「子育て」(愛)は存在する。

 

講演に行き、幼稚園・保育園での「親の一日保育者体験」をお願いしています。

園で、幼児の集団に一人ずつ親をつけ込むと、遺伝子の動きが活発になって、「親心」が覚醒する。親たちの感想文から、それがわかるのです。希望者のみ、では駄目。実際には無理でも、「全員を目指します」とハッキリ言ってほしいのです。子育てに選択肢はない、という意思表示をしてほしい。選択肢がないから、より深く、内側に、自分自身を発見し、体験する仕掛けだった。そこに、「いい人間」はちゃんといる。宇宙は、私たち人間に、自信を持って0歳児を与えている。

しつこく、当たり前のように、淡々と、「子どもが喜びますよ~」と園長先生が言い続ければ、ほとんどの親がやりますね。特に、父親は、子どもたちに囲まれ喜ばれると人生が変わる。

(やり方は、「ママがいい!」に書きました。中学生たちの感想文と一緒に。)

 

「こども未来戦略がいう『安心感』」

配置基準を変え、待遇を良くしても、政府の意図と宣伝で、乳幼児を躊躇なく預ける親が増え続ければ意味がない。仕組みを良くする以上に、悪くする動きが「子育て支援」「安心プラン」の名の下に進められているから、学校教育への「負債の先送り」が止まらない。

異次元の少子化対策を進めている「こども未来戦略」(令和5年6月13日閣議決定)に、「どのような状況でもこどもが健やかに育つという安心感を持てる」戦略、と書いてある。

しかし、よく読むと、これは、「こどもが健やかに育つという安心感」ではなく、「いつでも誰かに子どもを預けることができる安心感」であって、母子分離が根底にある。知らない人に自分の子どもを預けることを「安心」と結びつける。こんな馬鹿げた論法が、閣議決定で、いつまで通るのか。

戦略の中に頻繁に出てくる「両立」という言葉は、子どもの側からは成り立っていないのです。そればかりか、この十年間、様々な規制緩和で、「保育の質」は著しく下がってきている。

義務教育が「義務」であることが、諸刃の剣となっていく。親の「責任感」が弱まれば、特別支援学級を増やすしかない。それによって教員不足はさらに進む。0、1歳児保育を国策で増やし、それによる保育士不足を規制緩和で誤魔化し、保育界から良心を奪っていった同じ過ちを、国は再び繰り返している。体験に基づかない「戦略」で、「こどもが健やかに育つ」環境は、さらに遠のいていく。

(これまでの経緯については、「ママがいい!」を、ぜひ、読んでみてください。心ある保育士たちは、三十年間、必死に子どもたちを守りながら、政府の母子分離策に抵抗してきた。)

 

 「子育て安心プラン」https://www.kantei.go.jp/jp/headline/taikijido/pdf/plan1.pdf(首相官邸ホームページ)に、こう書いてあります。

「『M字カーブ』を解消するため、平成30年度から平成34年度末までの5年間で、女性就業率80%に対応できる約32万人分の受け皿整備。(参考)スウェーデンの女性就業率:82.5%(2013)」

これが「子育て安心プラン」の正体。

「子育て安心」=「いつでも預けられる」。誰が、どこから、こんな論法を持って来たのか。学者や専門家のお粗末な欧米コンプレックスが原因だとしたら、あまりに情けない。しかし、この論法がいまだに政府の保育施策の中心にある。それでも〇、一、二歳児を手離そうとしない日本の六割の母親に対する苛立ちか、作り過ぎた保育施設と、増設した養成校の延命、生き残りのためか、「誰でも通園制度」(異次元の少子化対策)で、国は、預ける親を増やすことに、いまだに躍起になっている。

(『M字カーブ』解消の「参考」に国が挙げたスウェーデンでは、三十年以上前から半数以上の子どもが未婚の母から生まれている。伝統的「家庭観」が消える一方で、五年前に徴兵制を「女性も含める形で」復活させた。徴兵し、女性に銃を持たせることが本当に「平等」なのか。貨幣で計られる「平等」の行き着く先、M字カーブ解消の正体がそこに見える。

「女性らしさ」が応えようとする「子どもたちの願い」が、いつの間にか価値基準から外されているのです。

外務省、海外安全ホームページの勧告:「犯罪統計によると、スウェーデン国内では、2020年に約157万件の犯罪が報告されています。2020年の日本の犯罪件数は約92万件(犯罪白書)であり、人口規模(日本:約1億2000万人、スウェーデン:約1000万人)で比較すると、スウェーデンでは非常に多くの犯罪が発生しています」。

犯罪率が、日本の二十倍。50年前、「福祉」という概念で家庭崩壊を進めた社会の、これが「結果」です。親子の絆という「安心感」が、教育や保育、学問を過信することで失われていくと、大体こうなる。)

「母子分離との戦い」

「欲の市場原理」に基づいた母子分離を「進歩」とすることで家庭崩壊が加速し、モラルや秩序が失われていく。欧米がたどった道筋について考えると、その向こうに、家族から引き離され、読み書きや、算数や、「所有」の概念を寄宿学校で教え込まれようとしたアメリカインディアンの子どもたちが見えてくる。カナダ政府とアメリカ政府は、ネイティブアメリカンの子どもたちを家族から引き離し、人類普遍の「伝承」を「学校」という仕組みで断ち切ろうとした。(過去、現在、日本も含め、様々な権力によって繰り返された手法です。)

伝承の世界で幸せだった子どもたちに、競うこと、欲をもつことを教え、アダム・スミスが言う資本主義のエネルギー「不平や不満の概念」を植え付けようとした。しかし、親から離された多くのインディアンの子どもたちが戦力にならず、一部は虐待され、学校内で殺されていった。

(カナダでは、1881年から1996年までに15万人の先住民の子どもが政府によって親から引き離され、「同化」を目的にカトリック教会が運営する寄宿学校に送られた。:ロイター)

去年、そのことでローマ教皇がカナダまで謝りに行ったのです。

「カナダを訪問中のローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、かつて先住民の同化政策にカトリック教会が関与し虐待が行われた問題で、先住民らに謝罪しました。」

【ローマ教皇】カナダ先住民への虐待謝罪 「謹んで許しを請いたい」

https://news.ntv.co.jp/category/international/584e91f97f9743f6a4b6592af5597a5e#

 遺体は「1000以上」、暴行、レイプ、……先住民の子どもを大規模虐待、~カナダ寄宿学校の闇

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/109871?display=1

宗教と国策からみの母子分離と、子どもの「遺体は1000以上」という大規模虐待は、それほど昔のことではない。虐待された子どもたちは、まだ生きている。「家族と、暮らしたかった!」と叫び、踊り狂っている。

教皇は、どんな気持ちで飛行機に乗っていたのだろうか、と考えるのです。

カソリック信者にとって、教皇は特別な位置にいる。その人が謝りに行けば、もう、言い訳はできない。しかし、ネイティブアメリカンにとって、「教皇」という地位は意味を持たない。

信仰は、一人一人と神との問題であって、それだからこそ美しいし、尊ばれなければいけない。それを忘れ、宗派とか教会という仕組みの単位で考えると、心の中に領域(テリトリー)が生まれ、必ずと言っていいほど、紛争や争いごとになってしまう。

「ママがいい!」(神がいい!)という声が遠のいていく。

国家や民族という単位、国境線という縛りもまた、人類が、高度な社会性を身につける過程で作られたもの。いつか、乗り越えなければならない縛り。

「Imagine all the people, Living for today」(ジョン・レノン)

だから、と再び思う。強者たちによる「母子分離をベースにした労働力確保」、そこに「教育」が介在する手法は、現在進行形のものであり、危険だということに気づいてほしい。「ママがいい!」という叫びは、どこの国、どんな時代でも、人間が人間であるために尊重されなけばいけない。それが、「古(いにしえ)」のルールだ、ということを忘れないでほしい。

ネイティブアメリカンの子どもたちには、白人の政府が掲げた「基本的人権」は適用されなかった。そればかりか、最近になって、子どもたちの遺体が次々に発見されるまで、その事実が隠蔽されていた。理念としての「自由と平等」を「教育」で押し付けられ、子どもたちは必死に叫んだのです。「ママがいい!」と。

その主張は、大地からの警告でした。

彼らの声が、慣らし保育で日本の子どもたちが言う「ママがいい!」と重なるのです。人類を導く者たち(子どもたち)の「健気さ」、神話を形づくる響きが、その中にはある。母親が、その言葉で輝き、女性たちの「その輝き」を守るのが「社会」(部族)であるべき、その原点が思い出されないかぎり、いまの混沌は収まらない。

人間本来の、「可哀想」という感覚を、強者の自己肯定感(自己中心)で無視しようとする動きを、「異次元の少子化対策」「こども未来戦略」から感じとって欲しい。こんな「戦略」に騙されてはいけない。

この時間が、親子にとって、二度と返ってこない、選択できない「時間」であることだけは確かでしょう。政府の「戦略」で、それが大量に奪われようとしている。「伝承の時間」が盗まれていく。

1980年代に世界中で出版され、映画にもなった、ミヒャエル・エンデの児童文学「モモ」を思い出します。あの物語りがあれほど支持されたのは、「幼児という存在」を見つめる意味を、誰もがすでに知っているからです。自分自身がエビデンスであることを知る道筋が遺伝子の中には既にある。

(トールキンの指輪物語が二十世紀に最も読まれた文学作品の一つ、と言われ、その遺志、内的欲求は、「トトロ」や「千と千尋」に継承され、支持されている。この巨大な共感が、エビデンスであり、真実だからです。あとは、政府の「戦略」に気づき、みんなで排除していけばいいだけ。)

「伝承」が「神話に過ぎない」と言われても、ああ、そうですか、と言えばいい。本来、神話の世界で人間はコミュニケーションをするのです。人類をその次元に導くために、0、1、2歳との会話があるのです。

親たちが、この時間を守るのです。子どもたちは、親たちを「守る人」に育てることはできますが、「私の人生」が、「私たちの人生」になる、その選択をするのは親たちです。その権利を与えられただけでも、充分に「生き甲斐」になる。

二歳児と二人で歩いていると、すべてが完璧に思える。それは錯覚だ、と誰かが言っても、その錯覚は、確かに二人だけのものだった。

政府の言う「子育て安心」が、「時間どろぼう」が仕掛けた罠だということを理解してほしい。慣らし保育で、子どもたちがそれに慣れても、原因をつくった親たちが、慣れてはいけない。社会全体がそれに慣れてはいけない。

自分が、人間性のビオトープの一員と考えられる仕組み。子どもたちを母親から引き離すのは「可哀想」という気持ちが、ふつうに言葉になり道筋を決める。そんな場所と時間を取り戻さないと、様々な仕組みが、明らかに限界に近づいているのです。

幼稚園、保育園が、幼児たちの存在意義が宣言される場所、親心を耕すビオトープになって欲しい。政府や学者が、自分たちの失敗を覆い隠すために言う「現実」とは別の現実が確かに存在すること、そこで「古」(いにしえ)のルールが働いていることを、遊んでいる幼児たちから学んでほしい。砂場の「砂」で幸せになれる者たち、頼り切って、信じ切って、幸せそうな人たちが、人生の「目的」を大人たちに教えることができる場所を増やしていってほしい。

よろしくお願い致します。

(この文章を、友人であり、笛の仲間でもある、Douglas Spotted Eagle=スポッツに捧げる。)

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。「ママがいい!」を、ぜひ、口コミで広めてください。「親心のビオトープ」の作り方が書いてあります。最近また、Amazonジャンル1位に復活しました。「武器や道具にされたくない」「時間を盗まれたくない」という願いが、伝わり始めているのかもしれない。

親の1日保育士体験をやっている公立園の園長先生が嬉しそうに報告してくれました。一人の女の子が、「お誕生日プレゼントいらないから、来て」と母親にお願いしたそうです。自分もお母さんを自慢したい。園長先生にとってその言葉は、自分たちが「いい保育」をしている、という証しでもありました。部族の勲章です。

国という時間どろぼうに奪われた「時間」を取り戻す方法はあります。エンデさんの書いた「モモ」を読んで、時間どろぼうたちの存在に気づき、幸せそうに生きる若者たちが増えてくれれば、と思います。みんなが、「時間」を自分のものにするために、モモは、いつも身の回りにいる。

私の家の居間には、エンデさんが座ったソファーがあります。

ちょっと自慢です。)

 

『生命尊重ニュース』への寄稿

「生命尊重ニュース」8月号、に原稿を依頼され書いたのですが、嬉しいメールをいただきました。ブログにも載せます。コピーペースト、拡散などしていただければ幸いです。。

松居 和先生

先生のお原稿はお蔭様にて大変好評を頂き、「『生命尊重ニュース』を10部送って下さい、保育士仲間に送ります」とか、「先生の『ママがいい!』の御著書を10冊購入して配らせて貰いました」等々、たくさんの反響を頂きました上、先生の掲載号は在庫がなくなってしまうほどでした。

今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。    『生命尊重ニュース』編集長

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「生命尊重ニュース」8月号

ママがいい!

―宇宙は、なぜ0歳児を与えるのか

音楽家・作家・元埼玉県教育委員長 松居 和

 

私が30年住んだアメリカでは、3人に1人が未婚の母から生まれ、20人に1人が一生に1回刑務所に入ります。少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲者と言われています。

25年前、タレント・フェアクロス法案という法案が連邦議会で審議されました。二十一歳以下の未婚の母には補助金を出さず、その予算で孤児院を作り、そこで子どもを育てようという法案でした。まだ起きていない犯罪を裁くこと。これほどの人権侵害はない、と思いました。

孤児院で育てば犯罪者になる確率、虐待される確率も少ない。否決されましたが、当時の下院議長が、「24時間の保育所と考えればいい」と言ったのを忘れません。「福祉」はそこまでいく可能性を持っている。

子育ては親が親らしく、人間が人間らしくなっていく道筋です。そのことを忘れては人間社会は成り立たない。

0歳・1歳・2歳児の存在意義

結婚しない、子どもつくらない若者が増えています。「結婚」は自ら進んで不自由になること。子どもを産むことは、それに輪をかけて不自由になること。そこに幸せがなければ人類は滅んでいる。

なぜ宇宙は我々に0歳児を与えるのか。立ち止まって、考えてほしい。「不自由になれよ」「幸せになれよ」と言って与えるのです。私たちが生きているのは、私たちの親たちが、私たちに自由を奪われることに幸せを感じたから。自由を捧げることに喜びを感じてくれたからです。

生まれて初めて赤ん坊が笑う。それを喜ぶ自分を体験し、人間は、自らの人間性を知ります。その笑顔を分かち合って、社会の土台ができるのです。

赤ん坊が泣く。私は、ある時、1分以内に泣きやむ方法があるはず、と色々試したのです。泣きやんでほしいと思うと、泣きやまない。そこで、赤ん坊を抱きながら1つの風景に集中してみました。アフリカの大草原に、マサイ族が1人立っている。この風景に私が集中すると、1分以内に泣きやむのです。

その話をしたら一人の園長先生が、そのくらいの赤ん坊は、認知症のおばあちゃんが抱くと泣き止みますよ、と教えてくれました。認知症のおばあちゃんと赤ん坊が二人ひと組になって、何かを伝えようとしている。人間のコミュニケーションの次元を深くするのは、一人では生きられない人たちとする体験なのです。

言葉を話せなくても、生きられる。ご飯を食べることができなくても、お母さんがいれば、生きられる。そこに人間としての道が現れます。社会にその風景が満ちていること、それを繰り返し目にすることの大切さを思い出してほしいのです。

 

子どもは誰が育てるのか

「待機児童」という言葉があります。が、実は待機している児童などいない。待機させられているだけ。0、1、2歳は哺乳類。お母さんといたいのです。

去年、「ママがいい!」という本を書きました。

アマゾンのジャンル別で一位になっているのですが、このタイトルを見て涙が出ました、と言う保育園の園長先生がいました。これは「慣らし保育」の時の子どもたちの叫び、ひと月も続くすすり泣きです。母親にとっては勲章なのです。それなのに、私たちを信じようとする幼児たちの願いから、みんなが目を背け、耳を塞ごうとする。保育学者が「社会で子育て」と言い、政府の母子分離策を支える。自己肯定感、自主性、などと訳のわからないことを言って、子育てをわかりにくくする。園長先生はそれに手を貸しているのが嫌になっていたのです。

慣れてはいけないことがある。

「ママがいい!」と主張することを、子どもが諦め、黙った時、私たちは大切なものを失っていく。ひとを信じる心、利他の心、助け合う絆が、営みから抜け落ちていく。少子化であるにも関わらず幼児虐待過去最多、不登校児童過去最多、という現象にそれが現れます。そして、無理難題を押し付けられた、いい保育士、いい教師たちが辞めていく。

これ以上規制緩和しても、仕組みは復活しません。子育てを親に返していくしかないのです。

幼児たちは、誰でもいい、とは言っていない。古(いにしえ)のルールを忘れてはいけない。

七年前、千葉で保育士が園児を虐待し、逮捕された。その時、園長が警察の取り調べに「保育士不足のおり、辞められるのが怖くて注意できませんでした」と言い、新聞記事になった。保育士の資質の問題が、政府の施策の問題に変化している。園長が悪い保育士を注意できないなら、0、1、2歳を預かってはいけない。3歳以上なら「先生に殴られた」と親に言える。乳幼児は言えないから、みんなで心を一つに、大切にする。それが人間社会の出発点でしょう。

国が、11時間保育を「標準」と名付けたのは、子どもの権利条約違反。それを保育学者は指摘しない。そればかりか、「可哀想」と誰も言わない、言えない雰囲気になっている。平等とか、権利だとか、経済だとか、両立だとか、大人の都合ばかり優先され、社会全体が感性を失っていく。

スウェーデンで50%の子どもが未婚の母から生まれるのは福祉が進んでいるから、と良いことのように言った専門家がいました。福祉が進めば家庭は崩壊する。幼児虐待、女性虐待が爆発的に増える。それは欧米の数字を見れば明らかなのに。日本のマスコミや学者は未だに日本は遅れているなどと言い、厚労省がエンゼルプラン、文科省が預かり保育、もっと預かれと保育者たちに言い続けたのです。雇用労働施策で、社会のモラル・秩序が崩れていきました。

保育の無償化は“子育ての社会化”です。これだけ保育士が不足し養成校が定員割れを起こしている状況で、できるわけがない。国の制度と位置付けるには、保育士の当たり外れが酷すぎる。それを知っていて言わない学者たちは、資格ビジネスの維持に必死なのです。

全国で保育者が悲鳴を上げています。これ以上預かったら親が親でなくなる。二十年前、子育て支援は子育て「放棄」支援、と保育士たちは言っていたのです。しかし、マスコミは子どもたちの側には付かなかった。

五日間せっかくいい保育をしても、月曜日また噛みつくようになって戻ってくる。せっかくお尻がきれいになっても、月曜日真っ赤になって戻ってくる。48時間オムツを一度も替えないような親を作り出しているのは自分たちではないか、このジレンマの中で日本の保育士は30年やってきたのです。今、異次元の少子化対策で、国は就労規定さえ外そうとしています。もう限界です。心ある保育士たちが去っていきます。国の少子化対策(雇用労働施策)で少子化は一気に進んだことを、マスコミを含めみんな知っているのに、保育の質、子どもたちの願いは、後回しにされ、今、学校教育の崩壊という逃げられない「現実」が突きつけられている。

 

幸せのものさし

親が子どもに殺される確率はアメリカの50分の1、犯罪率は欧米の20~60分の1。

この国には、子どもを可愛がる「伝統」がある。欧米に比べ状況は奇跡的にいい。「ママがいい!」ぜひ、読んでみてください。これからどうすべきか具体的に書きました。

0歳児を預けることに躊躇しない親が増え、学級崩壊が手に負えなくなって気づき始めましたが、子育てを自分の責任、生きる動機、喜び、と感じる親が急速に減っているのです。人生の始まりに、「ママがいい!」と叫ぶのを「諦めた」子どもたちが、親になり、教師になり、保育士になっている。

子育てはイライラの原因、預かります、と選挙対策で政府が言えば、結婚しない、子どもを産まない若者は増えるのです。でも、少子化は困る、と言う。滅茶苦茶です。こども家庭庁が、「子ども真ん中」とか言って、小学生、中学生の意見を聴く、と「やったフリ」をしますが、子どもの意見を聴くなら、「ママがいい!」と泣く幼児たちの声をまず聴くべき。人間性を支えるその言葉を無視し、社会から「利他の気持ち」を根こそぎ奪う一層の母子分離を政治家たちは進めている。二人目は保育料無償にする、「子どもが輝く」と最近都知事が言いました。

私が提唱してきた幼稚園や保育園における「1日保育者体験」、一人ずつ親を園児に漬け込むことで、親たちに「感謝」の気持ちが芽生えます。県で取り組むところが四県、自治体や、園単位でも広がっています。父親たちを幼児に混ぜることで家庭内暴力が止まったりします。

アメリカで高卒の2割が読み書きができず、26%が高校を卒業しない。4割の子どもが未婚の母から生まれる。親の半数が子どもに無関心という現実がすでに可能性としてあるのです。子どもたちが「親を育てる」という役割を果たせない。

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と言われた。内村鑑三は、教育で専門家は育つが、人は育たない、と言い、アインシュタインは、情報は知識ではない、体験が知識だ、と言いました。

 

父親をウサギにする権利

日本は、“祈ること”を背景にした非論理的な国。『男はつらいよ』という映画は、欲を捨てた時に幸せになれるという仏教の教えが土壌にある。キリスト教も「貧しき者は幸いなり」と言います。親になる事は、損得勘定を捨てること。その利他の道筋が意図的に市場原理によって壊されようとしている。

11時間保育を国が「標準」と名付け8時間勤務の保育士に押し付けた時、朝、預ける保育士と帰りに返して貰う保育士が別人になりました。親身になるな、と言われたようなもの。親たちも、この人に預ける、から、この場所に預ける、という感覚になった。育てる側の心が一つにならない人類未体験の状況が、この時始まったのです。

0歳から園に来ると、保育士は、子どもが初めて歩けるようになる瞬間に出会うのです。そんな時、園長は「親に言っちゃいけないよ。『もうすぐ歩けますね』と言うんだよ」と教えた。「親が見ていないことを許したら、私たちの仕事が親子の不幸に手を貸すことになるんだからね」。これが本当の保育士心。そうやって親たちを導いてきた園長たちが、「保育は成長産業」とした閣議決定でサービス産業化させられ、消えていった。

ある時、保育園で父母に講演したあと、「はい、お父さんたち、ウサギになってくださーい」と、園長先生がウサギのかぶり物を渡しました。1人も断れないのです。驚きでした。園長は、父親をウサギにする権利を持っている。幼児という神様・仏様、精霊の前では、人間は正しい方向に進むしかない。強張っていた父親もかぶって3分もしたらウサギです。父親も、実はウサギになりたかった。(「逝きし世の面影」(渡辺京二著)という本を読むと、150年前、日本の父親たちがいかに幼児と一心同体だったか、欧米人が驚きを持って書き残しています。)

昔、男たちは年に2、3回、祭りの場でウサギに還っていた。自分の中に四歳だった頃の、砂場の砂で幸せになれた自分はいる。それに気づけば、「自分次第なのだ」と確認できる。父親をウサギにして一番喜んでいたのが母親たち。日本の、全ての幼稚園・保育園で、月に1回父親をウサギにすれば、世界平和もあるのではないか、とふと思いました。予算はほとんどいらない。

 

お母さん、どこ

「ヒカリちゃんのお母さん、どこかしら」/「ここにいるじゃない」/「それはコウちゃんのお母さんでしょ」。弟を抱いた私に、娘は言った。長いまつげの小さな目は、悲しげにも見えたし、何かをためしているようにも見えた。

「じゃあ、ヒカリちゃんのお母さんはどこにいると思うの」/「病院に寝ているんだと思う。バアバが言ってたよ。ヒカリちゃんのお母さんは、病院に行ったよって」。娘は、私が弟を出産した日のことを言っているのだ。

「お母さんをむかえに行かなくちゃ」玄関でくつをはこうとする娘の小さな背中を見ていたら、私は夕闇の中で、大切な人に置き去りにされたように、心細くてたまらなくなった。同時になぜか、動揺している自分がくやしくもあるのだった。

娘はふり返って、私が泣いているのを見て、

「あっ、ヒカリちゃんのお母さん、やっぱりここにいた」と、無邪気な風に言うのだった

 

私の講演を聞いた母親が送ってくれた「詩」です。

三歳の娘に「お母さん、どこ」と聞かれたら答えようがない。でも、このお母さんは、泣く、という、魂に寄り添うやり方を知っていた。教えたのはヒカリちゃんです。

生きる力は、信頼の連鎖に身を置くこと。それを幼児が体現している。

人間は、自分を「いい人間」にしてくれる者たちを自ら産み出すのです。頼り切り、信じ切って、幸せそうにしているその人たちがいれば、私たちは大丈夫なのです。

保育は、他人の子どもを複数、油断なく、心を込めて可愛がること。遠くを見ながら、幸せを願うこと……。生きる動機、天性の資質が問われる役割です。そういう人は、自然界における「伝承」であり「現象」。社会全体に、子どもを可愛がる雰囲気が満ちていないと成立しない。

先進国の中で奇跡的に家庭崩壊が進んでいない日本なら、間に合うかもしれない。

幼稚園や保育園、自主的な集まりでもいい、幼児を使って「親心のビオトープ」を増やして行くのです。親や生徒たちを園児に浸す、家庭での読み聞かせを習慣として広め、耕す。同窓会を繰り返して、みんなで祝えば、園が心の故郷となる。

お互いの子どもの小さい頃を知っている人たちに囲まれ、子どもは育っていくのです。いくつか行事を組み合わせれば、学校が成り立つ絆を復活させることは可能です。

社会を鎮めるために、幼児と過ごす時間を増やすのです。

宇宙は、我々を信じて、0歳児を与えている。伝令役たちを大切に守らなければいけません。

 

PROFILE

まつい・かず

1954年東京生まれ。慶應義塾大学哲学科からカリフォルニア大学民族芸術科に編入、卒業。尺八奏者としてジョージ・ルーカスやスピルバーグ監督などの多数のアメリカ映画に参加。1988年アメリカにおける学校崩壊、家庭崩壊の現状を報告したビデオ 「今、アメリカで」を制作。1990~98年東洋英和女学院短大保育科講師。家庭崩壊や幼児教育のあり方に関する講演を行い、欧米の後を追う日本の状況に警鐘を鳴らしている。2006年より埼玉県教育委員、2009~2010年同委員長。著書に『なぜ、わたしたちは0歳児を授かるのか』(国書刊行会)『ママがいい!』(グッドブックス)他がある。ブログ「シャクティ日記」に連載執筆中。

 

11月10日、渋谷のJZ-Bratで演奏します。

 

11月10日(金)19:30、渋谷のJZ-Bratで演奏します。ピアノの塩入さん、ディジュリドゥーのKnob君、パーカッションの菅原さん、いつものメンバーで即興主体にやります。

(この日は、午前中に大田区私立幼稚園連合会主催の「子育て講演会」で、保護者の方たちに十時から別のところで、話します。区長も来るようです。)

音楽と子育て、両方とも、見えないけれど確実に存在する次元での、不思議な交流です。0、1、2歳児との会話が、人間を「祈り」に導き、そこでは音楽と沈黙が調和している。

それを即興演奏で表現できたら、嬉しいです。

「園長も喜びますよ~」:日保協の石川県支部、青年部主催の研修会で、今週、講演します。

日保協の石川県支部、青年部主催の研修会で、今週、講演します。(10/6(金)15:00~16:30  金沢市文化ホール二階 大集会室 )

県内外の保育関係者であれば、参加できるようです。申し込みフォーム:https://forms.gle/txkW8xYQwnraeYgG7)

金沢は、去年逝ったお袋の故郷。祖父が、小さな本屋さん「福音館書店」を始めた街。そのお袋が、京都の同志社大学で親父と出会わなければ、「ぐりとぐら」も「ぐるんぱ」も、この世に生まれなかったかもしれない。私もこういう話を始めなかったし、「ママがいい!」と言う本も書かなかった。人生は物語ですね。

日保協の青年部が主催してくれることが、嬉しくもあり、心強い。チラシに「ママがいい!」を載せてくれています。子どもを優先する、という保育指針の精神を、もう一度、取り戻そうとしているのだと思います。

懇親会を楽しみにしています、という連絡も入りました。二代目、三代目の園長、後継者たちに、彼らの御母堂たち(私の師匠たち)から教わった、保育の筋道を伝えるチャンスです。

可愛がり、寄りそう、「保育は、祖母の心持ちでやるものです」という神話の伝承をしなければ。

私は、時空を超えた、伝令役なのです。

保育を成長産業と位置付けた国の施策は、行き詰まっています。人間性を無視するから、こういうことになる。

子どもの願いに興味のない、「家庭」の成り立ちを理解していない「こども家庭庁」は迷走状態で、「ママがいい!」という叫びに耳を貸さないばかりか、子ども未来戦略(令和5年6月13日閣議決定)で、「キャリアや趣味など人生の幅を狭めることなく、夢を追いかけられる」ように、とまで言っている。

親が「夢を追いかける」には、乳幼児が障害物だと言う。それは、そうかもしれない。でも、「こども家庭庁」がそれを言ったらお終いでしょう、と腹が立ってきます。同時に、ネグレクトの奨励とも思える(慣らし保育なしの)「子どものショートステイ」を、「圧倒的に整備が遅れている」と言うのですから、稚拙で、強引な「洗脳」の危険性が見えてくる。

「今後、インド、インドネシア、ブラジルといった国の経済発展が続き、これらの国に追い抜かれ続ければ、我が国は国際社会における存在感を失うおそれがある」と書く。

冒頭に、そんな杞憂を掲げ、預ける先の「質」が二の次、三の次になっているのですから、この「戦略」は思慮の浅い経済施策、「子ども真ん中」を掲げるこども家庭庁が出す施策としては、明らかに本末転倒なのです。

「国際社会における存在感」など、どうでもいい。慣らし保育における、幼児たちの「ママがいい!」という叫びを真剣に聴く姿勢こそが、この国の国際社会における存在感でなければいけない。

国の「戦略」通りに進めれば、少子化がさらに進むでしょう。いじめや不登校がもっと増えるに違いない。その程度の想像は、みな付くようになっている。「子ども真ん中」などいう言葉では、騙せなくなっている。

私は、幼稚園、保育園を「親心のビオトープ」に、とお願いします。そうやって、子どもたちの「願い」を優先すれば、道筋はついていく、と園長たちを説得します。

金沢行きの新幹線の中で、窓際の席に座って、講演を聴きに来た人のいく人かが、園で一日保育士体験を始めてくれたら、と考えるのでしょう。それに、一日一冊、読み聞かせの習慣を定着させることができたら、それだけで、この国は立ち直る。

親たちから文句が出たら、「ここは私の園です。私が楽しく園長をできなければ、子どもたちは良い感じに育ちません。ですから、私のやり方に従ってもらいます」と言えばいい。

福祉はサービスだ、当然の権利だと思っていた親は、目を白黒させるかもしれませんが、小さい子どもを育てている親たちは、たいてい理解しますね。最終的に、園長の人気も高まります。親たちは、親身な人を、本能的に探しているからです。

子育てをしている親たちの「財産」は、周りに親身な人がいるかいないか、なのです。

親を一人ひとり、順番に、「楽しそうな」子どもたちに漬け込む。世界を信じようとしている人たちに、委ねる。子どもたちが親を育てる力を信じる時が来ています。

全員を目指してください、とお願いします。

目指す目標が「全員」だと、それが、一つの意味を持つ。子育ては、希望者だけやればいい、というものではないのです。そこに選択肢はない、という常識が、利他の心を育ててきた。

親は子どもを選べない、子どもは親を選べない。選択肢がないことが、人類を支えてきた。

それがわかるための「一日保育者体験」です。

夫婦が、それぞれ別々の日に、がいい。

「子どもが喜びますよ~」と、笑顔で、言い続ける。それだけのことです、とお願いします。子どもたちが、我々の味方ですから、だいじょうぶ、と次の世代の園長たちに言うのです。そして、小さな声で、「園長も喜びますよ~」と付け加えれば、もっといい。

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。よろしくお願いいたします。「ママがいい!」、ぜひ、口コミで広めてください。「親心のビオトープ」の作り方が書いてあります。最近また、Amazonジャンル1位に復活しました。)