「心の清らかな人」が輝く時に、その存在に気付かなくなっている

以前、著書「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」に書いた私の言葉が、朝日新聞の「折々のことば」というコラムに紹介されました。

高名な哲学者に、いい言葉を指摘していただきました。

「赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の『責任』です。」:松居 和

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一

 

 

渡辺京二著「逝きし世の面影」を読み、書いた言葉です。(江戸が明治に変わる頃、来日した欧米人がこの国の個性に驚き、文献に書き残したものをたくさん集めた本です。)欧米人たちが時空を越えて私たちに「ほんとうの日本」を伝えようとする意図、人間のコミュニケーション能力の不思議さ、動機を感じます。

第10章:子どもの楽園、にこんな風に書いてあります。

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。(モース)』

英国の紀行作家イザベラ・バードは、

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ』と書きます。

江戸は玩具屋が世界一多い街、大人も子どもと遊んでいる。朝、男たちが集まり赤ん坊を抱いて自慢しあっている。日本の子どもは父親の肩車を降りない。日本人は子どもを叱ったり、罰したりしない。教育しない。ただ大切にしているだけで、いい子が育ってしまう。そして、江戸という街では赤ん坊の泣き声がしない、と言うのです。

赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思う。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく原点です。その責任を感じたとき、人間は、自分の価値に気づく。

新聞のコラムを読んだ奈良の竹村寿美子先生(私の第一師匠。元真美ケ丘保育所長)からメールが来ました。

 「以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて『あっ、誰かが泣いている!どこ?どこ?』と慌ててうろうろされたことがあった。なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。ありがとうございます!

(追伸)

 その人は少し障害を持っていらっしゃる方でした。保育士たちと心が洗われた気になりました」

(ここから私です。)

仕組みによる子育てが広がると社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。竹村先生はそれを言いたかったのです。人類に必要な感性が薄れていく。そして「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなってくるのです。保育に心を込め、人生を捧げてきたひとの自戒の念がそこにあります。

しかし、そういう現場の自戒を無視するように、保育施策が進んでいきます。これほど仕組みが壊されても、乳幼児を40万人保育園で預かれば、「女性が輝く」と首相が国会で言ったことの検証を、誰もしない。

「ママがいい!」という本を書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/  

「ママがいい!」という叫びを聴いたら、それは聴いた人の責任です。聞き流したり、理屈をつけてその響きに慣れてしまうと、人間社会を支えていた「絆」が薄れ混沌としてくる。

いま、幼児という弱者の扱いが国中で粗雑になっている。それを知って欲しいという思いで書きました。

子どもの貧困などあり得ない。大人たちの「絆」の貧困が広がっているだけ。政府(野党も含め)が、待機児童という言葉を使ってこれだけ積極的に乳幼児期の親子の分離を進めれば、社会全体に優しさや忍耐力が欠けていく。絆の中心にあった幼児の姿が見えなくなって、責任の所在が曖昧になって、一層弱者が追い込まれるということなのです。幼児たちの役割を思い出してほしい。そうしたことを、わかりやすく書きました。シェア、拡散、お願いします。

魂の震え方を、幼児たちが男たちに教える

「ママがいい!」https://good-books.co.jp/books/2590/  より。

父親の一日保育士体験:若い男性園長に言われ、渋々参加したその父親がお昼寝の時間に、息子の背中をトントン叩いて寝かしつけていた。

すると、息子の小さな声が、「おとうさん、ありがとう」。

突然、父親の目に涙が溢れる。

……こういう瞬間に人間が育っていく。父親が一人生まれる、というべきか。父親は、帰り際、園長に向かって、「やって良かった、やって良かった」と繰り返したそうだ。

父親は、自分自身を体験したのだ。自分のいい人間性に気づいた。自分の中には、いい人間がいる。幼児だった頃の自分もいる。(男たちが、園児たちに混じってそういうことに気づくと強い。魂の震え方、信頼を呼び覚ます共鳴の仕方を、幼児たちが男たちに教える。)

男性園長は、その話をしながら、とても嬉しそうだった。

(こうして幼児が父親を育てる時、自立とは対照的な真の「強さ」が、いともたやすく社会に満ちていく。「教育」とは別の次元のところにある「子育て」が、涙とともに目を覚ます。)

コロナ禍の中、「ママがいい!」という本を書きました

コロナ禍の中、「ママがいい!」という本を書きました。https://good-books.co.jp/books/2590/ 

「子育て」によって支えられ、育まれる信頼関係が、「社会で子育て」と言いながら、実は経済施策で母子分離を進める政府の誘導によって希薄になっていく。子育ての現場で責任転嫁と不信感が生まれ、それがコロナ禍で増幅されている。このまま政府の思惑通り子育てのシステム化が進めば、利他という人間性、絆という自然治癒力が働かなくなってくる。

幼児が「ママがいい!」と言ったら、ママがいいのです。その言葉に真剣に向き合わないと、保育や学校、そして家庭が共倒れになる。限界が近づいています。

幼児の願いを尊重し、幼児たちの側から考える。保育の現場で具体的に行われている信頼関係を取り戻すやり方、例などを本の中に書きました。良いことはすでに行われています。どう広げていくかは現場の決意次第だと思います。

子どもたちに必要なのは、「大人たちの信頼関係」という環境なのです。

子どもたちの役割りは、絶対的弱者であることを宣言し、社会に優しさと絆を生むことなのです。

幼児の保護者に直接講演すると、その反応から、まだ大丈夫とも思えます。説明すれば、幼児と暮らす人たちは理解する。この特別な時間を吟味することの大切さを肌で知っている。本来、子育ては「イライラ」の原因にはなり得ない。

就学前にいくつか行事を重ねれば、幼児たちが「利他」という「幸せの見つけ方」について、親たちに教えてくれる。そこからもう一度「親心」を耕して行くのが一番自然だと思うのです。ぜひ、ご一読ください。

リンクを拡散していただけるとありがたいです。どうぞよろしくお願いします。

https://good-books.co.jp/books/2590/ 

「ママがいい!」その言葉を覆すことはできません

7冊目の本がでました。目次はこのリンクで見ることができます。https://good-books.co.jp/books/2590/ 

 

  「ママがいい!」、この言葉に背を向ける時、人類は監視資本主義の枠組みに組み込まれていきます。デジタル化できない情報発信源、「願い」が、幼児たちの笑顔、はじめの一歩にはあって、それを見て嬉しくなり、それを守るために心を一つにする。

幼児たちの意志は、監視できない次元にあるのです。なぜなら彼らは、無欲だからです。「無欲な人たちが一番幸せそう」その発見が人間社会を調和に導いてきました。

大人の都合が子どもの願いに優先すると、社会からモラル・秩序が失われていきます。欧米先進国で起こっている家庭崩壊についても少し詳しく書きました。

 

2歳児が「ママがいい!」と言ったらその言葉を覆すことはできない、そこに調和への道筋がある。持続可能な社会への鍵があるのだと思います。

イノベーション(合理化、組織改革)という言葉で一層深まる「欲望」への落とし穴が、人間性の変質を目論んでいる。それを止められるのは、「「ママがいい!」という言葉だけ。