今年もありがとうございました。

 今年も暮れて行きます。いろいろありましたが、アッと言う間でした。
 お世話になった方々、ありがとうございました。
 話に耳を傾けてくれた方々、ありがとうございました。
 北海道から沖縄まで、熱い思いの方達と出会うことが出来ました。国会で話すことも出来ました
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=41883&media_type=fp

 いまインドで起こっている暴動、シスター・チャンドラが長い間闘ってきた問題が長い年月を経て、やっと国民運動になろうとしているのかもしれません。これは何かの始まりかもしれない。経済発展しても、核兵器を持っても、足元が揺れている。アラブの春以上の何かが起こるかもしれない。カーストの壁は警察の捜査の壁、裁判所における壁でもありました。性犯罪において、それは性的差別が加わった二重の壁になっていました。ダリット(不可触民)の保守的な母親が、小学校に娘を入れようとしないのも、娘を守ろうとする母の願いでもありました。何かあったら、娘の人生が壊されてしまう。母たちの子を守る必死な気持ちが、ダリットの少女たちが普通に教育を受けることの壁になっていたのです。
http://www.youtube.com/watch?v=dhRtB4DkDhk

 宗教を含む問題の根の深さは、生き方の問題であるだけに、計り知れないものがあります。
 最近、シャクティセンターでも頻繁に停電があり、コンピューターが思うように使えなくなっているようです。貧富の格差がますます広がっているようです。

 ひとはなぜ踊るのか。人生の営みは、それでも途切れることなく続きます。
http://www.youtube.com/watch?v=HQzmRCO_vTw

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 ミンダナオ島で「ミンダナオ子ども図書館」という児童養護施設をやっている兄が、一月四日の夜のテレビ番組、「こんなところに日本人がいた」テレビ東京で紹介されるみたいです。
    ーーーーーーーーーー
 今年は、「親心を育む会」著で、「一日保育士体験のすすめ」という本が大修館書店から出ました。「育む会」は毎月集まるようになって、もう4年になるのです。継続から生まれた結晶です。「一日保育士体験」もうこれしかない、という保育者たちの決意結論です。
 新年早々、共励保育園の長田先生の一冊目の本、
 「便利な保育園が奪う、本当はもっと大切なもの」
 が、幻冬社から出版されます。力作です。ここ20年間の保育施策が子どもの視点に立ってこなかった、という園長先生からの強烈なメッセージです。
 帯の推薦文を書かせていだだきました。毎週のように、様々な話題で先生と電話で話し合ったことを思いだします。もうすぐ5才になる長男は、私の電話が長いと、「長田せんせい?」と横から聞きます。

 ディジュリドウー奏者のKnob君に誘われて、新年1月11日にスイートベージルでKnob君のライブに2曲ゲスト出演します。久しぶりに練習しながら年を越します。



政権交代/そして、新内閣

 政権交代、新内閣、すべて人間のやることです。

 祈るような気持ち、そして、固唾をのんで見守っています。曲がり角をまがってしまう前の最後のチャンスかもしれない、と思ったりします。

 過去十年くらいの間に、個人的に話を聞いていただく機会があった人たちが5人内閣や役員に入っています。ですから、もう充分かもしれません。
 あとは、その人たちの判断と、選択と、意気込みに賭ける。そういうことなのでしょう。
 子育てが、人間社会に不可欠な「絆と信頼関係」の中心にあったこと。
 幼児と関わること、そして弱者と関わることが、社会に人間性を育んできたこと。優しさや責任感が幸福とつながることを教えてくれたこと。
 経済論ではなく、0才児との言葉の通じない不思議な会話が、何千年にも渡って人間の想像力と進む方向を決めてきたこと。その進む方向が土台の部分で実は経済そのものを支えてきたこと。
 自分のために頑張るよりも、誰かのために頑張る方が自然だということ。
 子育てに関わる施策がいま進んでゆく方向が、これから30年くらいの「日本の魂のインフラ」を左右する大事な要素、最重要問題です。その重要性がどれほど強く深く理解してもらえるか。いいところまで来ている、と思います。感謝です。
 社会(システム)が子育てを肩代わりすることの危険性、それによって保育も教育も成り立たなくなるということは、現場レベルではみな知っている。いくら引き締めを図っても、保育者、教師の「元気」「幸せ」がシステムの質なのです。そして、親との信頼関係、育てる者たち同士の信頼関係が、幼児の存在意義そのものなのです。
 どっちへ進んでも、それはこの国の運命でしょう。
 欧米諸国がみな進んで行った子育ての社会化と家庭崩壊への道。家庭崩壊というよりは、その定義の崩壊、という方が正しいかもしれませんが、日本が同じ道を選んだとしても、それほど不思議なことではありません。先進国社会の中で、これほどまだ子育てを実の親たちがやろうとしている国はないので、残念ではありますが、民主主義という仕組みの中で、日本人もそれを選択したのだとしたら仕方のないことだと思います。私の思考では及びもつかないところで、宇宙は動いているわけです。きっとこの選択にも意味があるはずです。
 民主主義は未完の実験ではありますが、私は好きです。この方法でなければ、究極の調和はないような気がします。
 私は仲間に勇気づけられながら、幼稚園・保育園を一つ一つ、園長・主任さんを一人一人、市長さん町長さん役人さんを説得し続ければいいのです。
 「人間を、ひとり一人幼児の集団に漬け込む場所」を増やしていけばいいのです。そして、祈り続ければいいのです。この国は、きっと大丈夫です。一歩、一歩。
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ゲスト出演のお知らせ。

 ディジュリドディジュリドゥー奏者のKnob君のライブにゲスト出演します。2、3曲?だと思いますが、よろしければいらして下さい。

 1月11日、PM7:30、六本木「スイートベージル」です。

 詳しくは、下記のページを御参照ください。

 http://www.knob-knob.com/2013111stb139.htm

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 一昨日、久しぶりに尺八の師匠の宮田耕八朗先生を訪ねました。お願いしていた「月の光りの神がアオタモの影の上をゆく」という曲の録音が見つかって、それをいただきに伺ったのです。師匠は75才になりますが変わらず、音楽、政治、世界情勢に関する会話が鋭く、楽しかったです。不肖の弟子ですが、弟子は弟子です。1月11日を目指して練習しています。

中学生の感想文、その2

 中学校から送られて来た感想文、繰り返し読んでいます。体育館であの人たちに囲まれた日、今年の一番の体験だったかもしれません。
 その日、以前より幼さを感じました。それは、まだ誰かを育てようとしている、幼児の本能によるものでしょう。誰に育てられているのかはっきりしない子どもたちが増え続けています。昔から、様々な理由で、そういう子が一割くらい居ても普通なのかもしれませんが、10年前、5年前、そして今年と、中学生たちの雰囲気が明らかに違ってきています。
 感想文には深刻な相談事がいくつか混じっていました。
 そして、いま生きている、私の記憶のずいぶん深いところにしまってある、あの懐かしい真剣な時間がよみがえってくる言葉から現在の私自身が見えてくるようでした。
 理性と感性が同居していて、しかし、まだ感性が理性に負けていない、直感の確かさを感じます。眩しい人たちです。
 そして、私は、実はこんなことまで言っていたんだ、と感想文を読んで教えられます。
 私の言葉はたぶん園長先生やシスターや本や自然や先生や、人生で出会った誰かから学んだこと。私は、伝令役、通訳、翻訳者なんだな、と思いました。
ーー「親になる幸せ」松居和さんの話をきいて〜感想〜ーー

 「私は、幼い子は苦手なので、今まで幼い子と関わらないようにしてきました。けれど、今日の話を聞いて、積極的に幼い子と関わろうと思いました。」

 「幸せは人によって違うけれども、幸せを見失った時、幼い子どもの幸せを眺めているだけで、幸せを得られる。その幸せこそが最高級の幸せであり、その幸せを感じられることもまた幸せである。
 今、まさに幸せの形を追い求め始めていたので、とても参考になりました。今日のお話しで、今の自分に少し自信が持てました。少し、がんばってみようと思いました。」
 
 「僕は、今回の話を聞いて、幸せとはどういう物かっていう、自分のものの見方が変わりました。幸せは、人生の中で、どれだけ成功できるかとか、作り出していくものではなくて、その今生きている人生に幸せを生み出す=ものの見方を変えていくことでつかみとるものなんだなと思いました。その、ものの見方は幼稚園、保育園児に学ぶものであったり、他にもいろいろな人から学ぶこと、いろいろな物から学ぶことであると思うので、しっかりと自分とかを見つめ直して、初心を忘れないようにできたらな、と思いました。」
 「自分の考えを変えれば、なにかが変わるんじゃないかな、と改めてわかりました。」
 「僕ははじめは、話をきいて、とても難しいはなしでよく分かりませんでした。でも、せっかく講演会を開いていただき、意味も分からないままでは、もったいないと思って、一生懸命話をきいていたら、だんだん松居さんのはなしの意味がわかるようになっていきました。マサイ族が一人で立っている草原をイメージして集中していると、30秒でピタッと泣きやんだ、なんてはなしは、普通にきいていたらきっと信じませんが、松居さんが話しているのをきくと、すごく気持ちがこもっている話で『本当なんだろうな』』と思うことができました。
 今日の講演会では、松居さんの気持ちのすごくこもったいい話をききました。家に帰ったら親におしえてあげたいです。自分が大人になって子どもを持つようになったら、この話を思いだして、子どもといっしょに”立派な人間”になっていきたいです。今日の講演会はとても自分のためになったと本当に思います。
 小さな子どもと遊ぶときなどに、今日の話を思いだして、やさしく対応してあげたいです。」
 「今日、松居先生の話を聞いて心にのこったことは、園長先生がうさぎになってくださいと言ったとたん、お父さんたちがうさぎになったことです。園長先生は、お父さんたちをうさぎに変えることができてすごいし、お父さんたちは子どものために、はずかしがらずにうさぎになるのもすごいと思いました。ぼくは、この話を聞いて、弟がほしくなりました。」
 「私は、『親になる幸せ』を聞いて、不思議な気持ちになり、同時に、早く大人になって子どもを産んでみたくなりました。私が今生きている。それだけで周りの人たちが笑ってくれる。それだけで幸せだと思いました。」
 「ぼくの妹はダウン症候群で、上手く話せません。いろいろ困ることがありますが、ぼくは妹がいてとてもよかったと思いました。」
 「ぼくは、親に幸せをあたえていると聞いて、安心しました。僕もはやく親になって、子どもから幸せを受けてみたいです。」
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中学生たちとの対話

講演した中学生からの感想文が届きました。一年生から三年生まで、様々です。さっそくお礼のメールを先生に送りました。

         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 感想文ありがとうございました。

 私のために選ばれた言葉の数々で、本当に感謝です。

 こんなにわかっていてくれたのか、と安心するやら嬉しいやら。

 封筒あける時は結構ドキドキしました。

 「あの人の話を聞いて、久しぶりに聞く気になった。すごく人の事を考えてるなって思った。自分が4才の時を思い出した。もう一度ききたい。 ためになった! 言葉じゃ表せない!」

 は、音楽家でもある私には特に嬉しかったです。

 いままでもらった感想文集の中で、一番響いてきて、温かかったです。いい子たちですね。

 OOさんの私への質問ですが、本人に会わずに答えるのは難しいので、どのように答えるかは先生のご判断にお任せします。(離婚した母が再婚する。本心では継父と一緒にいたくない、でも、本当の事を言えません、という質問です。)

 とても素直な悩みと質問です。

 文章を読んでいると理解力のある人ですし観察力も分析力もあります。でも、この状況に正解はありませんね。どういう行動が良い結果を生むのか誰にもわからない、ということです。継父が良い人である事を祈るばかりです。

 こうしてほしいなと思うのは、良い自分を保つために、できるだけ幼児と接する時間を作ってほしい、ということです。卒園した幼稚園や保育園を訪ねて手伝いをしたり、幼児と遊んだりしてあの人たちと接する時間をとれば、この子はちゃんと答えのようなものを見つけていくはずです。すべて相対性のものですから、母親がどう変わってゆくかによって、継父との関係がどうなってゆくかによって、この子は、様々な苦しみや安らぎを体験するのでしょう。どんな時でも彼女が精神的に安定していることが、一家にとって、たいせつな柱になるはずです。彼女の存在が一家に安心と癒しを与えて、みんなを落ち着かせるのです。

 それには意識的に幼児と接していること。自分の価値を鏡になって見せてくれる人たちに囲まれていること。

 そして、常に相談相手をまわりに持っていることです。

 この人は理性と感性のバランスが良く、研究心があって学ぼうとする力が強いので、自分の相談相手を育てるタイプの人です。友だち、先生、祖父母、親戚、相談すればするほど相手を育てます。

 私もちょっと育てられている感じがします。

         ーーーーーーーーほかにもーーーーーーーー

 「よくわからなかったけど、聞いてよかった」

 「いつでも無言の愛というやつはとてもいいと思っております」

 「話が難しく思えましたが、生きていくうえでは大切なことだと思いました」

 「自分も小さい子たちにはげまされて、育てられたいです」

 「自分が親になって困ることより『いいな』と思う方が多くなる日が来ると思うと、とても楽しみになりました」

 「幸せについて、きちんと語る人はめずらしいです。ぜひ、次の講演も頑張ってください」

 「親になりたいと思いました。今日のお話しは、私の成長につながったと思います」

 「私たちは親に育てられているだけではなく、私たちも親を育てているとゆう話を聞いて、なんていえばいいかわかりませんが、話にひきつけられました」

 「松居さんが一年生からの質問の答えを、全て精神的なことで答えていたので、子どもを泣き止ますためには、まず自分が落ち着いて、それから自分でどうすればいいか考えるのが大事なんだなあ、と思いました」

 「非常に実になるお話を聞くことができ、とても嬉しいです。『幸せのものさし』という言葉をよく使われていましたが、あれは自分の価値観ということなんでしょうか。自分も職場体験で幼稚園に行き、園児たちが自分の行動一つ一つに笑顔を見せてくれて、松居さんの『幸せのものさし』というものがよくわかった気がしました。子を育てるという行為が、逆に自分を育てることにつながるという話が一番お話の中で共感でき、印象に残りました。松居さんの色々な経験談を聞けて、本当に自分の物事を見る目が変わりました。とても良かったです」

        ーーーありがたい言葉をたくさん、いただきました。ーーー

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Merry Christmas!!

 メリークリスマス!! 

 クリスマスソングを三曲(私も吹いています) にアップしました。選択してプレイを押すと聴こえます。昔つくったクリスマスアルバムからです。Jesus Loves Meは、祖母の愛唱歌、子ども賛美歌の「主われを愛す」です。


中学生に講演/試され、助けられる。追悼ラビ・シャンカル

 中学生に講演しました。

 全校生徒500人が体育館に集まっています。

 私は、五年に一度くらいの割合で中学生に講演する機会を与えられます。自分が試される日なのだ、と思って引き受けます。一番緊張する聴き手たちです。まだ神様のしっぽを引きずっている、感性が生きている、ごまかしは効かない、魂の次元で交流を求めている人たちです。
 講演の一週間前から考え、想像し、ドキドキします。
 まだ出会っていない彼らが、私を育てようとしているのがわかるのです。
 5年前より一段と幼さを感じます。
 先生が講演の前に、私たちは保育をしているようです、とおっしゃいます。中学生たちはいま、教師にも親を求めている。誰かを探している。
 家庭と社会の区別がつかなくなっているのです。
 1年生、2年生、3年生と成長するにつれ、何か、生きていることにがっかりしている感じがわかります。気持ちがバラバラになりそうなのが話をしていてわかります。3年生にもなると、いよいよどうしていいかわからないのでしょう。あっち向いたり、こっち向いたり。先生たちの大変さがわかります。
 どんなことでも許してくれる人を造ろうとしているのでしょうか。生きてゆくために、安心の土台がほしいのでしょう。
 話している途中で、難しすぎるのかもしれない、何を話したら良いのだろう、どうしたら魂に触れることができるのか、と私の中で不安がよぎります。10年前は、大人に話すのと同じ話で通じていたのに。
 私は、正直にオロオロしようと思いました。そう決心した瞬間に、中学生が一つになって、私に集中したのです。私を助けようとして一体になった彼らを、そのとき確かに感じたました。彼らの優しさを感じ、彼らは悪くない、役割を果たしているだけ、とわかりました。
 「あなたたちの親に、私は話したい」と彼らに言いました。
 最後は拍手で見送ってくれました。
 あの子たちが、私に伝えたかったのは何なのか、今日も考え続けています。
 無償の愛を探している、絶対的な拠り所を求めている、大人たちが、親たちが、親と教師たちが、信頼関係で結ばれることを望んでいる。彼らはそれを求め、望むことによって社会の中で役割を果たしている。それが彼らの天命でしょう。その天命が空回りをしている。
 そういうことなのでしょうね。

松居先生

 

今日は心のこもった講演をありがとうございました。

彼らから教えられてる、育てられているというものさしを持つことが自分自身のためにも必要だと改めて思いました。

 

魂の言葉や想いは通じるのですね。

そのことがわかってうれしかったです。

ありがとうございました。

ーーーーーーーーーー

こちらこそありがとうございました。私を助けようとしてくれた彼らの優しさを、いつまでも憶えていようと思います。

ーーーーーーーーーーー

 帰宅すると、新聞にラビ・シャンカルが亡くなったという記事が載っていました。インドのシタール奏者です。ビートルズのジョージ・ハリスンの師、歌手のノラ・ジョーンズの父、と書いてありました。 私は、コンサートで二度、彼のアルバムで一度共演したことがあります。懐かし時代が確実に終わってゆく感じです。

 できるところまでやってみよう、と思います。ご冥福を祈ります。

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安野先生/言葉のない絵本

息子の幼稚園の先生が、朝、「和さん、安野光雅さんがこんなこと書いていたわよ」と教えてくれました。月刊絵本に一緒について来る「絵本の楽しみ」という小冊子でした。

 安野先生が絵本をつくることになった頃の経緯が書いてあって、
 (前略)「明星(学園)には、校門のそばに『自分たちの巣』を作っている子どもたちがいました。もう何日もかかっている様子で、それはバラックとも言えないほどの変な小屋でしたが、自分たちにとっては御殿のような砦だったらしいのです。
 (中略)砦を築いていたのは、和くんという活発な子でした。お父さんは松居直さん(『こどものとも』初代編集長)でした。(中略)松居さんから『絵本を描いてみませんか』と言われたのです。『わたしは、お話がないから」と言うと、『お話しはなくてもいい』と言われたのです。これは驚天動地です。それで『ふしぎなえ』という文字のない絵本ができたのですから、人生とはふしぎなものです。松居さんにも恩義を感じますが、和くんにも感じないわけにはいきません。」
 砦を築いていた、子どものころの私にまでこう言ってくれるのが安野先生です。小学生の時の先生には、いまだに見守られている気がします。
 文章は続きます。
 「わたしたちは言葉を通じてわかりあっている世界に生きていたのです。でも、たとえば、ゴッホの絵にも、ふつうの山や川の風景にも、言葉による説明はありません。
 このことを忘れて、言葉がなくても理解できる世界があること。むしろ、そのほうが多いことを考えてみなければなりません。」
 講演や本で、0、1、2歳児との会話が、言葉を介さないコミュニケーションの世界に人間を導く、それが感性を育て、自分自身をより深く体験できる、と私は言ってきました。
 赤ん坊と話していれば、歳をとってからお地蔵さんや盆栽とさえ会話ができる、と書いてきました。だから、安野先生の言葉が嬉しいのです。先生は、授業を生徒と一緒に喜んでいる先生でした。
 「すごいなー、すごいなー」という言葉が、心からの言葉だということが、子どもたちにはビンビン届きました。
 先生は続けます。
 「いろいろ説明して結婚するのが見合い結婚です。はじめはなにもわからないのに、好きになって結婚するのが、恋愛結婚です。どちらがいいか考えるのは、本人が決めることですが、このごろは『感性』が鈍い人が多いらしく、説明を聴きたがる傾向があるように思います。」
 だから少子化なんですね、と思います。信頼関係が薄いですから、当然、見合い結婚は少ないですし、説明を求めていたら恋愛結婚にもなかなか進まない。理屈ではない、言葉では説明のつかないのが人生なんだ、という感覚がもう一度行き渡るには、海や山や川を眺めるのも良いのですが、0、1、2、3歳児あたりとみんながつきあうのが一番いいのです。
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キャリアと子育て/政権公約と保育現場の思い(長い付録)

 前回、キャリアと子育て/政権公約と保育現場の思いという文章を書いたのですが、これはその付録です。


「結婚・出産が女性のキャリア形成に不利にならない社会を創出」という新聞に載っていた日本未来の党の公約から書き始めたのですが、一応、一段落書き終わってからも考え続けました。

 「男性のキャリア形成に不利になること」それはなんだろう、と考えていて、思い出したのが徴兵制度です。法律でこういうことをされると男性はいきなり不利です。キャリアどころではない、生死に関わってくる問題です。
 私がアメリカに渡ったころ、ベトナム戦争が終わって数年というころ、ギタリストのロビン・フォード(Robben Ford)の家で、人生について話していたのです。私の一番最初のアルバムに参加してもらっていた時で、たぶん打ち合わせのあとワインを飲みながら、夕暮れ時だったと思います。

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 ロビンは、終戦間近だったけど、徴兵番号がかなり近づいてきてヒヤヒヤしたんだ、と言いました。
 その頃のアメリカの徴兵制度は、ある年齢層が番号を渡され、順番が近づいて来ると覚悟を決めなければならない、という仕組みでした。彼の盟友でもあるピアノのラッセル・フェランテもかなり危なかった、と言うのです。私が人生で最初に徴兵制度を身近に感じた瞬間でした。
 穏やかで哲学的なロビンは、チベット仏教の信者で家に小さな祭壇がありました。ブルース系のギタリスですが、フュージョンジャズの草分けでもあり、マイルス・デイビスのバンドにも居たことがあります。一か八かの個性的な巨大なソロをライブで弾くことがあり、いまでも根強いファンを世界中に持っています。
 当時の私にとっては音楽上のソウルメイトのような存在でした。
 「徴兵されても戦場に行かなくても住むように、一流のミュージシャンは軍楽隊に志願したんだ」とロビンは笑いながら言いました。
 当時のロサンゼルスの軍楽隊にはハービー・メイスンやトム・スコット、マイク・ベアードも居たんだよ、と教えてくれました。軍楽隊の隊長は一流のミュージシャンに囲まれて鼻高々だったそうです。
 徴兵、これほど男たちのキャリア形成にとって不利なことはないかもしれません。音楽家としてキャリアが一番伸びる時に軍楽隊で行進曲や国歌を演奏し続けるのはあまり喜ばしいことではないでしょうし、戦場に駆り出され、負傷したり、戦死したら、キャリア形成どころではありません。

(http://sakthi.luci.jp/pg80.html このページの「Farther On」という私の一枚目のアルバムの曲の中で、ロビンのソロを聴くことができます。スケールの大きい背後に沈黙を感じさせる、スピリチュアルで哲学的なソロです。私の尺八も一緒に、ぜひ、聴いてみて下さい。)

 私の想像上の思考は、そこで、再び子どもたちのキャリア形成、で不利になることは何だろう、という方向に飛びます。幼児期の親との体験については前回書いたのでそれ以降のことを考
えてみました。
 まず思ったのが、学校の担任や保育士、保育者の当たり外れの問題です。これが子どもたちのキャリア形成に不利になる可能性があるから、モンスターペアレンツや「担任外し」などが起こるのでしょう。でも、親たちのそういう行動は、育てる側同士の信頼関係を崩し、めぐり巡って教育や保育の質の低下につながるわけです。ますますキャリア形成に不利になるのです。
 学校で同じクラスに障害児がいることを露骨に嫌がる親もいます。授業の進み具合が遅くなるというのです。その通りだと思います。でも、授業の進み具合は子どものキャリア形成には悪い影響を及ぼすかもしれませんが、クラスに障害を持った子がいることが子どもの人格形成に良い影響を及ぼすことも当然あるのです。あらゆる命が意味を持つことを知り、受け入れようとする能力は、真のリーダーを生むことにつながるかもしれない。優しさや忍耐力は、子どもが親になった時に、とても役に立つのかもしれない。いい人間になることは、ひょっとしてキャリア形成に不利になるかもしれませんが、人生にとってはとてもいい事です。キャリア形成に失敗しても幸せになれます。人間が一番確実に幸せになれる方法が、いい人間になることです。人生は自分自身を体験することでしかないのですから。(もちろんいい人間になることは、キャリア形成に有利になることもあるし、そんなキャリアであってほしいものです。)
 ここまで考えると、例えば、生まれた家の貧富の差、先天的な病気を持っていること、結婚して授かった子の体質、性格、結婚相手の性格、その両親の性格、親の信じる宗教、もう不利なる可能性のある要素に関しては、上げればきりがありません。それが人生だだ、というしかありません。
 女性のキャリア形成の不利になるから、と授かった幼児だけ、なぜ政府がお金をかけて預からなければならないのか。こんなことは人類がまだ一度もやったことのないことです。しかも0歳児を預かるのに税金を一人当たり月20万円から40万円かけているわけです。直接7万円母親に渡せば、キャリア形成より良いかもしれない、と思う女性は結構いると思います。

 当然、私の思考はインドに飛びます。インドでは、結婚と出産と子育ては「人生の形成」(注:キャリアの形成ではありません)にほぼ不可欠なこと、と考えられています。それが良い悪いではなく、そうなのです。だからインド人のほとんどが親の決めた相手と結婚します。(ほぼカーストの範囲内で……。これはあまり良いとは私は思いません。恋愛が命取りになることがあります。ずっと以前このブログにも書きましたが、私は友人を一人カーストを跨いだ恋愛で亡くしています。)
 この、結婚・出産を中心に人生を考えるやり方は、いまこの瞬間、同じ人間がやっていることなのだ、と思わないかぎり、先進国で育った人には、論理的に中々受け入れ難い仕組みです。しかし、この仕組みには、親子の信頼関係を維持しなければ結婚さえできない、という家族を維持するための足かせの役割もあるのです。
 シャクティの映像を撮ったとき、ダリット(不可触民)の村で、モルゲスワリというメンバーの両親にインタビューしました。彼女の家には村では珍しく電気が来ていました。電球の光の下、とても興味深いインタビューだったので、ぜひご覧になってください。このアドレスに映像がアップしてあります。
http://www.youtube.com/watch?v=xCFYYAUjbXU&feature=youtu.be
 ドキュメンタリーで使った映像の他にもこの家で一時間くらい話していたのですが、最後に「私に質問はありますか?」と両親に聴くと、「結婚しているか?」と聴くのです。している、と答えると頷いて、「子どもはいるか?」と聴くのです。いる、と答えると、とても安心したように頷き、笑ったのです。
 質問はその二つだけでした。
 セルバという結婚相手が決まったメンバーのインタビューからも、命をつなげてゆく仕組みが、親子の信頼関係を土台に、結婚・子育てを経て、男女の信頼関係につながってゆく流れが見えてきます。
http://www.youtube.com/watch?v=h3OpPP_JY_g&feature=youtu.be

 キャリア形成に不利なことが、一家の生活という視点からは有利になる。相対性、陰陽の法則のようなものを感じます。
 そして、人類は「家」という単位でものごとを考えていた時代がつい最近まで続いていた、だからそこに相対性が生じるのでしょう。私たちの遺伝子は、その単位で進化して来ました。だから気をつけなければいけない。
 そういうことだと思うのです。

 絆や信頼関係が人間の「生きる力」、すなわち幸福観の中心にあった。

 だからこそ、「女性のキャリア形成」という言葉を使うときは、それが限定的な幸福観を持つ人のキャリア形成、または限定的な状況にある人のキャリア形成だということを同時に言わなければならない。少なくとも「働きたい女性の」とするか、「どうしても働かざるを得ない状況にある女性の」と言えば、少しはイメージがはっきりしてくると思います。
 「キャリア形成における不利」と「幸福感」は別物であることを常識として社会全体が持ち続けなければ、自分自身が弱者になってハッと気づいた時はもう遅い、なんてことになってしまします。
 人間は弱者という形で生まれ、弱者という形で死んでゆく。キャリアはその間の40年くらいのことでしかありません。幼児という弱者がいかに美しく幸せそうか。なぜ、そうあるべきか。彼らを眺める時、人間は、弱者であることがいかに幸せなことか、それを感じて生きてゆくのが人間の本来の姿なのだ、と気づくのです。老人になって、なお幸せを感じれば、それが人類が求める一番納得のゆく姿です。

 公党が選挙公約で単純に「女性の」と言ってしまうと、そこからいつの間にか「子どもたち」がこぼれていってしまう。それが見えるから、心ある保育士が辞めてゆく。保育士になるなり手がいなくなる、そして、子どもたちが不安のなかで生きるようになってゆくのです。
 シャクティの風景に出てくる登場人物たちは、いまこの瞬間を生きています。
 どちらが安心感に包まれているか、絆と信頼関係に守られているか、それを考える機会を私たちは与えられています。彼らが持っていない「選択肢」があるために、私たちが不幸になっているのだとしたら、私たちは幸福になる選択肢も与えられているということなのです。



カズ・マツイ・プロジェクトの入手困難盤がタワレコ限定復刻/だそうです。びっくり



カズ・マツイ・プロジェクト

 
私の心の中では名盤なので、復刻されると嬉しいです。28年前のプロジェクトです。良いものを創ったから復刻されるんだ、と人生におけるご褒美をもらった気持ちです。

1月11日、ディジュリドゥー奏者のKnob君のコンサートで久しぶりに尺八少し吹きます。場所は、スイートベージルです。

宇宙の相対性の中で/公園に幼児と座っていると






 私が一人で公園のベンチに座っていたら「変なおじさん」で、

 三歳児と二人で並んで座っていたら、「いいおじさん」です。

 宇宙の相対性の中で、三歳児は、そこにいるだけで私をいい存在にする。

 それが、人間を進化させる一番揺るがない絶対的な法則のはず。

 その繰り返しが、人間たちを育ててきたのだと思います。

 

 幼児たちは、自分がいれば、周りの人間がいい人間になるんだ、ということを感じ、その感覚を身につけて育ってゆく人たちだった。ひとをいい人間にする、という役割りを身につけ、できればそれを感じ、理解し、社会は成立していた。

 

 世論調査で動く政治家、ところが世論調査は乳幼児の思いを反影していない。

 有識者は情報を学んだり数字を分析しますが、幼児の願いを知識として持ち合わせていない。幼児の願いは感性、つまり想像力の領域に存在するものだからでしょう。

 弱者を見つめ、人間は想像力を磨かれ、その想像力の積み重ねで生きる指針と心を得てきました。


 以前、経済財政諮問会議の座長をやっていた学者が「乳児は寝たきり、幼児は野蛮人」と私の目の前で言った。

 厚生労働大臣が、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言ったり、25万人の乳幼児を母から引き離す施策を、総理大臣が国会で「党の真骨頂」と言う。

 子育ての仕組みを変える「新システム論争」の中心にいて、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言っていた学者が、今度は国民会議のメンバーに選ばれる。

 選挙のために、テレビの討論が繰り返され、次の世代を育てることではなく、年金の多寡で将来の幸せを量ることが当然のように意識のなかに広がってゆく。選挙という闘いが、人々の意識を利権争いに導いてゆく。

 弱者というのは貧しいひとたちを言うのではないのです。貧しき者は幸いなれ、と聖書にもあります。欲を捨てて貧しさに釈迦は身を投じました。弱者というのは、一人では絶対に生きられないひとたち、そこにいるだけで人間をいい人間にするひとたちを言うのだと思います。