養護施設は休園できない

前回、東京新聞:https://www.tokyo-np.co.jp/article/245724 保育士の七割が出勤せず。市の担当者は、「公立園には今回のような緊急時の受け皿の役割が期待されていますが、各園の人員不足も深刻で…」と言葉を詰まらせた、と言う記事について書いた文章を読んだ、児童養護施設に勤める「熱い」友人からメールが返ってきました。

以前、役場で保育担当の役職にまで就き、限界を超えている児相の実態や家庭における児童虐待の問題をよく知り、必死に動いていた人。

国の「子育て支援」施策を以前から、どろ舟、と言い、公務員の立場に絶望して、突然、現場に飛び出して行った勇士、というか闘う女性。

おはようございます。

読ませていただきました、ありがとうございます。

小金井市のニュースを見て、一次休園する施設はまだましだと思いました。

不正受給を暴けない行政、配置基準を満たすための保育士の名前貸し、劣悪な保育環境、虐待を隠蔽する園、人間性を疑う保育士の増加…。

このニュースを見て、対岸の火事だと思っている行政がいたら、なお問題の闇は深い。

小金井市の二の舞にならぬよう、雇用契約書に自己都合退職には、違約金を求める法人もでてくるかもしれない。

待機児童ゼロ対策で、乱立した保育園が少子化で経営難になるのは想定内だったはず。しかし国は、保護者の声だといいながら、保育を金儲けにしてる輩の声しか聞かない。

小規模保育園に三歳以上を受入れを可能とする轍を踏んでしまった。

いまこそ、保育士が、自分たちは、チャイルドビジネスの立役者ではない!と声をあげるべき。

追伸

保育園は休園できても、養護施設は休園できない。

きょうも、戦場へ行って参ります!

追伸2

やりきれない怒りで煮えくりかえっていても、

仏心を忘れず。

だって、こどもたちの笑顔は最高だから。

(大丈夫かなあ、と心配になります。その生き方を見ていると、ただただ、尊敬します。私なんか、ほんとに大したことない、とドキドキします。そうですね。養護施設は休園できない。戦場に向かわないと、最前線で傷付いた子どもは救えない。「怒りで煮えくりかえっていても、仏心を忘れずに」。凄いなあ。)

いい幼稚園保育園で、人生が変わる

 

(こんなメールをいただきました。一つずつ、の積み重ねですね。)

 

☆☆☆

遅ればせながら、「ママがいい!」読ませていただきました。

電車の中で読みながら、昨年結婚した長男、今年成人式を迎えた次男の子育てを思い返し、涙が込み上げてくるのを堪えてました。

息子たちを通わせた保育園、学童保育はバザーやキャンプなど、親の出番が多くそれまで子育てに関わろうとしなかった夫が、子どもを中心とした場所に自分の居場所を見つけ役割を見つけ、我が子だけでなくみんなで子どもたちの成長を喜ぶようになっていった姿を思い出しました。

あの場所が私たちを親に育ててくれたのだと、今になって思います。

4月から、就職し三重に向かう次男が、家庭に事情を抱える友だちのことを案じ、

「〇〇ちゃんち、毒親で大変だから、時々呼んで一緒にごはん食べてあげて」と言うのです。

昔から、我が家は自然と人が集まる家でした。

息子にとっても、息子の友だちにとっても、安心できる場所だったんだ、と、子育てがひと段落する時にこの言葉がもらえたことは、最高のご褒美になりました。

 

しかし今、子育てを取り巻く環境は本当に厳しさを増す一方のように思えてなりません。

児童相談所に勤務する友人からは、本当に悲惨な状況を聞きます。

子どもが減っているのに保護される子どもは増える一方で、定員を超える子どもが昼夜問わず保護されるので、施設に来たとしても安心して暮らせる状況にはないと。

親は、我が子のことを生活保護費がもらえる金蔓としか考えていないとも聞きました。

和先生のおっしゃるように、子どもの存在が親を育てる仕組み作りが必要だと感じます。

子育てはお荷物じゃない。

うまく表現できず、すみません。

生まれてくる子どもたちがみんな、守られて愛されて生きられる世の中になりますように。

 

ーーー(ここから私です。)ーーー

避難所であるはずの施設が、安全な場所ではない。養護施設も「養護」できる状況にない。まるで、収容所のようになっていて、しかも、十八歳になれば出ていかなければならない。

養護施設に勤める友人が、最近の悲惨な状況を話してくれる。よほどの真剣さと、親身さがないと子どもたちを鎮めることさえできない。体を張って、負った心の傷に付き合うだけの気力と意識、そして覚悟を持った人でないと、精神的に生き残れなくなっている、と言う。

多くの人たちが「情報」として知っているはず。だからこそ、行き場のない絶望感が、日々あきらめに変わっていく。

(「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言った厚労大臣がいた。「0歳児は寝たきりなんだから」と言った経済学者がいた。経済財政諮問会議の座長をやった人だった。

その結果、養護施設だけでなく、保育園でも同じことが起こっている。https://www.tokyo-np.co.jp/article/245724 東京新聞:保育士の七割が出勤せず。市の担当者は、「公立園には今回のような緊急時の受け皿の役割が期待されていますが、各園の人員不足も深刻で…」と言葉を詰まらせた。)

「ママがいい!」という子どもたちの叫びに、最初から耳を傾け、その願いを尊重する仕組みを作っていれば、こんなことにはならなかった。

まだこの国なら間に合うかもしれないのに、この惨憺たる光景は何なのだ!、と選挙カーのスピーカーから流れる、政治家たちの、ありきたりで、無責任と言ってもいい、見せかけだけの決意を聴くたびに、暗澹たる思いになる。発言する機会を与えられてきただけに、憤りさえ感じる。

衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で口述人をし、人間性を失っては社会保障は維持できないと話した。衆議院のホームページに映像が残っている。保育の無償化について参考人として呼ばれたときは、すでに人材不足と質の低下は限界を超えている、無償化でますます責任の所在が曖昧になっていけば現場は受け切れない、と話した。しかし、与党も野党も、「子どもの気持ち優先」の方向には動かなかった。その結果、前述した小金井市のようなことが起こる。

無償化や三歳未満児保育の推進で既存の保育園の仕組みが壊れていった。一方で財政削減のために、セーフティーネットとなるはずの公立園を民営化していく。

記事には「一方、市内に本部がある別の保育園運営会社『コスモズ』の補助金不正受給問題や、前市長の置き土産である市立園の廃園手続きなど、保育園を巡る問題が多く」とある。簡単に言えば、「保育は成長産業」という閣議決定で「業者」のモラルが低下、前市長には、政府の経済優先の子育て支援が乗り憑っていた、ということ。その呪縛から離れないと、市長が変わっても意味はない。

子どもたちが毎日通ってくる園で、七割の保育士が、突然出勤しない。

職場における信頼関係が完全に崩れていて、その原因を市が放置していたということ。緊急対応するはずの公立園も「人員不足が深刻で」、と市の担当者が言葉を詰まらせる。もっと呆れるのは、そんな現状なのに、そこに乳児を預けることを都知事が「第二子は無償」と言って勧め、「子どもが輝く、チルドレンファースト」と記者会見で言ったこと。それも含めて、国の保育施策がいかに矛盾を抱えたいい加減な施策で、破綻しているか、茶番か、ということ。それが最近、学校に連鎖していく。

自民党の少子化対策委員会で講演したのが十五年前。当時の委員長が、感動しましたと握手を求めてきて、その人の地元でも講演した。厚労部会や女性局でも講演し、17の県連で呼ばれた。その時は、理解してくれた、と感じたのです。しかし、状況は変わらないどころか、悪くなる一方で、現場はさらに追い詰められていく。

ここまでくると、一斉に職場に来ないことが、子どもたちのため、と決意する保育士や指導員、養護施設の職員が現れても不思議ではない。これが、政府の言う「子育て支援」の結末です。

この破綻寸前の仕組みを、「異次元の少子化対策」で就労条件を取払い、誰でも預けられるように、さらにもう一歩進めると言う。

これから進めざるを得ない「痛みを伴う改革」の「痛み」が、子どもたちに直接及ぶだろうこと、人生を左右する傷、後遺症となって残るかも知れないことを考えると、忸怩たる思いがする。

私たちを信頼するしか生きる術を持たない人たちが、そこにいることに感謝し、その人たちによって救われることに幸せを感じる親たちが、この国にはまだたくさんいる。講演に行くとわかります。

冒頭のメールをくださった方のように、子育てに生きがいを見出し、子どもたちのために祈っている人がたくさんいる。

「バザーやキャンプなど、親の出番が多い」保育園と学童保育に、偶然かも知れませんが巡り合い、「それまで子育てに関わろうとしなかった夫が、子どもを中心とした場所に自分の居場所を見つけ役割を見つけ、我が子だけでなくみんなで子どもたちの成長を喜ぶようになっていった」、この人たちが作った家族が、一つ一つ重なり、この国を守っている。

 

いい保育園、幼稚園に出会うことで、人生はこうも変わる。

だからこそ、崩してはいけないのに、親を育てる「いい園」が次々と廃園になっていく。

私が住んでいる杉並区でも、七十年続いた私の好きな、「子ども園になることを断った」幼稚園が、隣に突然保育園を建てられ廃園に追い込まれている。政府は一体何をやっているんだ、この国をどうするつもりだ、と悔しくなります。

 

(泥棒に入られる確率Burglary rateが、ニュージーランドが日本の25倍、デンマーク20倍、スェーデン15倍。家庭に代わる役割を担うために作られた仕組みが破綻すると、犯罪率が一気に上がっていく。その経緯を「ママがいい!」に書きました。モラル・秩序の崩壊が始まる寸前に、私たちは立っている。)

口コミ、SNS、友達リクエストやシェア、ツイッターのフォロー、リツイートでいいのです。「ママがいい!」という幼児たちの言葉を広めて下さい。ブログの更新もしています。よろしくお願いします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui 講演依頼はmatsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。保育士や幼稚園教諭の研修会、保護者の大会、自治体主催のイベント、単体の園での勉強会など、コロナも明けて、講演の依頼が次々に入ってきます。現場で保育の心を立て直しましょう。親たちは絶対についてくる、そう信じて、子どもたちのために頑張りましょう。どこへでも、行きます。)

 

譲れることと、譲れないこと

AI(人工知能)やチャットGPTに関するニュースを見ながら考えます。

将棋や囲碁では、人間の思考力のみならず想像力さえも上回っているようで、千年先を打っている感じがする、という棋士の話を聞いた時は、ロマンを感じました。人間が千年かかる試行錯誤を超速でやってしまうらしい。

勝ち負けの世界では、いつの間にか、AIから人間が学ぶ、という道筋ができている。それに経済活動が重なったらどうなるか。

チャットGPTのように無料で誰でも相談できるアプリが登場すると、より多くのケーススタディがインプットされる。いまこの瞬間にも、眠っている間にも、精度というか、完成度ではないらしいのですが、その強さ、許容範囲が増している。

どの程度「頼れる」ようになるのか。いや、どの程度「頼る」ようになるのか。

「頼れる」と「頼る」の関係が微妙です。AIが、既存の情報、プラス「シミュレーション」によって成長し続ける特性が、諸刃の剣となる。

 

保育と子育ての関係を思い出します。市場原理の誘導で、常識をすて、仕組みを過信し頼ることで、仕組み自体が崩壊に向かう。頼れないものに「頼る」、まさに、その只中に私たちはいます。

ある一線を超えてしまうと、仕組みによって手にした利権を手放せなくなる。すると、強者に有利な格差社会へとますます進化していく。子どもたちの存在を傍に置いて、夢を(欲を)持ちなさいという教育の進言に身を任せ、格差が広がっていく。

いま、世界中に存在する独裁的な政権と、武器の進化のスピードを考えると、恐ろしい結末しか見えてこない。それでは、困る。

もう一度、視線を赤ん坊、私たちを全身、全霊で信じている人たちに戻さなければなりません。この人たちの「働き」で、利権の追求から意識を一度離さないと、と思うのです。(「ママがいい!」、図書館で順番待ちだそうです。園でも、回し読みが始まっています。)

AIやチャットGPTにおける言語をまたぐ利便性は、国境を超えて守り合う新たなネットワークになる可能性を持っている。先進国の物差し主体ではない、「学問」主体ではない、体験的な知恵の源泉が総意として生まれるかもしれない。そんな希望もあるのです。

が、一方で、声で答えてくれる臨場感は、「神との会話」に似た錯覚を起こさせる。これが、「欲の資本主義」に悪用されたら、と思うと、軽い恐怖を感じます。

AIが誘う、人類未体験の空間に、どこまで入り込むのが賢明なのか。空間の奥の本棚に、聖書や法華経だけでなく、論語や徒然草、宮沢賢治は置いてあるのか。その壁には、能面や伎楽の面を架かっているのか、窓際に、Katina人形は並んでいるのか。

情報量がすごいらしい。

でも、例えば、「人工知能」の範疇で、先日都知事が記者会見で言った、保育料を無償にすれば「子どもが輝く」という、実体験の不明な戯言が、表立った反論が起きない論旨、ロジックとして通っているとしたら……、最近の国の施策に見られる、0、1、2歳の願いが視界から消えた、偏った思考経路が成立していたらどうなるのだろう……、そんなことも考えるのです。

こんな小説を書いてくれ、と頼むと、文体や展開まで真似て書いてくれるという。そこまで進んだ人工知能に、0歳児を保育園に預けることをどう思いますか?、と尋ねたら、どう答えるのか。その答えが、どういう価値を持つようになっていくのか。

人間同士が相談しあっても、答えは一つではない。しかし、AIがAIであるゆえに、科学的に正しいこと、のような気分になって行ったら。政府が、「専門家」の意見を聞いたように、そこに正しさを求めたら。

まあ、相談相手としては、AIは、それほど薄っぺらくはない、と考えています。だから、専門家は恐れているのでしょう。

 

人間同士なら、その日の気分によって、相談した人の目つき、顔つきによって、さらに、お互いの立場や関係によって、答えは違います。だからいいのです。人間は五感で会話をする。人間は、「祈り」 のグレーゾーンを持っていて、そこにしばしば逃げ込むことができる。

そのグレーゾーンには、幼児期の泣き笑いや、人形、お地蔵様やトトロ、入学式、子守り唄が住んでいて、実は、意外と頼れる居場所で、亡くなった人も顔を出したりする。

グレーゾーンは、グレーだから価値がある。。

(思わずここで、だからガンダルフは、灰色だった、the Greyだったと書きたくなるのですが、飛び過ぎですかね。)

待機児童がいなくなったことを『成果』とする政府の姿勢、女性の就労率のM字型カーブがなくなることを「いいこと」とするマスコミの迷走、母子分離を仕組み論で肯定しようとする保育学者たちの認識、そうした諸々が、人間の思考に代わる気配を見せている「プログラム」に、正論として、または一般論として刷り込まれていたら、人類は大変な過ちを犯すことになる。

幼児たちの私たちへの信頼が、生きる主たる動機として考慮されていなかったら、私たちは、混沌への道を歩み始めることになる。

ああ、たぶん0、1、2歳児なのです、AIの対極に位置するのは。

人間は子どもを授かることで、自由を奪われ、そこに選択肢がないことに感謝する。

その、見返りを求めない道筋が、見失われつつあるのです。一緒に育てる、という機会を奪われ、結婚しようとしない若者が増加し、お互いの人生が重なっていかない。夫婦だけでなく、共に「育てる」ことの価値が「子育ての社会化」によって、下がり続けている。

この危険性を次世代に指摘しておかないと、と思います。きちんと説明すると結構理解する。(中学生は理解してくれる。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=726

子育てを幸せと感じる道筋が一つの人生の形だという情報を、筋道を立てて、魅力的に次世代に説明し、なるべく体験させておくことが、この時代に生まれた私たちの責任です。

説明の仕方にはいろいろあって、「トトロ」や「千尋」も頑張っていますし、ドラゴンボールも、心が清くないと雲にも乗れない、と警告する。流行り歌の歌詞にも、いい動きを感じます。私が知らない分野で、その責任を果たそうとしている人たちがたくさんいるのがわかる。密かに、自浄作用は働き始めている。みんな気づき始めている。

私は、端的に、直接的に、幼稚園や保育園における「保育体験」を勧めています。小学五年生くらいから始めて、高校卒業くらいまで、毎年夏休みに三日間くらい、幼稚園、保育園で過ごす。それを続けて、親になった時に再び、というのが、いいのです。これができれば、人類の進化に影響を及ぼす。「持続性」を再び手にすることができる。

幼稚園や保育園にはそれほどの、可能性と役割があると思っています。

 

これを書いている時、ニューヨークのライターから電話インタビューの申し込みが飛び込んで来たのです。

ジョニ・ミッチェルの本を書くという。私は、ジョニのDog eat dog(共食い)で尺八を吹いていて、「エチオピア」という曲。人間が作り出す「飢餓」を呪文のように表現し、告発する一風変わった曲です。トーマス・ドルビーも加わっている。

AIを考えていると、ジョニについて、ニューヨークから質問が来る。人生で稀にある、不思議なバグ、マトリックス的な出来事(ハプニング)を感じます。三十八年前に吹いた音が、ネット上でまだ生きている。

ジョニについて聴かれ、未知の領域、でも、そこにそれがあることを何万年も知っていた、そんな所に連れて行ってくれるから、みんなジョニの舟に乗りたがる、と話しました。

音楽関係者、スタジオのアシスタントなど、ミュージシャン仲間でも、ジョニのアルバムで吹いたと言うと、えーっと、驚かれ、羨望の眼差しで見られました。人生がワンランク上がったような、魔法使いに認められたような、奇妙な感じがする。音の重ね方が常識を越えていて、同時に、絶対的な感じがするんですね。

インタビューの前に辞書を調べていたら、「Absolute」という言葉に行き着きました。ジョニはAbsoluteなんだよ、と言ったら、ニューヨークでライターが笑いました。電話の向こう、海の向こうで頷いた気配がした。

AIの対岸にいる人かもしれない、ジョニは。とふと思いました。

古(いにしえ)の呪文を憶えている人。

私の尺八もそうです。

「ママがいい!」に保育体験について実例をあげ、園長先生たちが作ったマニュアルへのリンクも貼ってあります。ぜひ、読んでみてください。この繋がりを、薦めてください。

親を育てる役割を、子どもたちに返していけばいい。

リツイートとシェアで流れが変わる気もします。ブログの更新もし、発信も続けます。「ママがいい!」、また、Amazonのジャンル別で一位になっているそうです。コロナで滞っていた集まりが再開し、講演が少しずつ増えています。伝わりそうです、子どもたちの願いが……。

よろしくお願いいたします。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui。講演依頼は、matsuikazu6@gmail.comまでどうぞ。)

 

こんな文章を、Facebookを介していただきました

(こんな文章を、Facebookを介していただきました。)

📚福音館書店 松居直さんお別れの会・その後

2月22日に行われた「松居直さんお別れの会」に参列させていただいたことは、以前にも投稿しました。

東京の如水会館で行われたこの会は13:00からの開式だったため、少し時間に余裕を持って出かけました。

11:30頃、会館に到着。

バスを降りると、ふと物々しい警備が目に入りました。

とは言え、政府要人に付いているような屈強なSPではなく、どこか物腰の柔らかい(けど明らかに警護とわかる)SPで、何があるの?と不思議に感じていました。

如水会館のレストランで昼食を摂り、少し早いけど、もう会場を見られるかな?と階段に近づくと、SPに止められます。

「失礼します。もう少しお待ちください(ニコ)。」

お別れの会の会場は階段を上がった2階。

「あ、申し訳ありません。」と、その柔らかな対応に、こちらもやんわりと応えて待機することにしました。

時間となり、会場で献花を手向け、松居直さんの人生の足跡を記したパネル展示に見入っていると、どこからか「先ほど、上皇后様がいらしてたみたいですよ。」との声が耳に入ってきました。

なるほど、それでSPに制止されたわけか、と一人納得。

ひと月半ほど経った4月の半ば、知人から「女性セブン」(4月6日号)にこの時の様子が書かれていることを教えてもらいました。

記事中には美智子上皇后様が絵本に親しまれ、児童文学にも造詣が深かったことが記されています。

私は個人的にも美智子様の詠まれる和歌が好きで、歌会始では一番に目を向けています。

「ある時は私に根っこを与え、翼をくれました。(中略)

読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。

本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気付かされたのは、本を読むことによってでした」

記事中にある、このスピーチの心境は東北の震災時に詠まれた歌の中にも表れていたことを思い出しました。

誰彼をもってしても代替することのできないお立場でありながら、人としての心に深く想いを馳せる美智子様と、あの時間をご一緒させていただいたこと、あらためて素晴らしい会に参加させていただいたご縁に、心から感謝いたします。

子育ては、自分をも育てる時間。

子どもとの向き合い方は、すなわち自分との向き合い方でもあるように感じます。

0歳の子からも様々な学びや、生きるエネルギーをもらえる、そんな謙虚な心を常に持っていたいものです。

 

 

「子どもが輝く」

「子どもが輝く」

第二子の保育料を無料にすれば、「子どもが輝く」、「チルドレンファースト」と都知事が記者会見で言った、その奇妙さ、に気づいてほしい。

いつから、こんな発言を受け入れるようになったのか。

なぜ、そうなったのか。

 

慣らし保育で、子どもたちが「ママがいい!」と叫ぶ。毎年この時期に、これほど大量に一斉に叫ぶ。人類が一度も体験したことがなかった光景です。その「願い」を否定され、十一時間預けられた子どもたちが、どう「輝く」のか。

七年前、もう40万人保育園で預かれば「女性が輝く」、と首相が国会で言ったとき、譲りたくはないけれど、理解できなくはない、と思いました。それをすれば、保育も教育も仕組みとして成り立たなくなるのですよ、と何度も言いましたが、個々の人生の「動機」としてはあり得る。

欧米先進国が「欲の資本主義」にのみ込まれ、家庭崩壊へと進んでいった経緯を思うと、強者が輝くために、子どもの気持ちが優先されなくなる道筋は、人類が一度は通らなければならない「通過点」かもしれない。モラル・秩序の著しい低下を経て、子育ては、子どもを育てるよりも、乳児、幼児を親たち(人間たち)が体験することに意味があったと、再び、気づくのでしょう。

しかし記者会見で、都知事に言われると、さすがに唖然とします。

欧米で半数近くの子どもが未婚の母親から生まれていた時、この国は、1%台だった。弱者の存在意義を先進国の中では唯一理解していたこの国が、こうした発言で欧米化し、壊されていく。

記者会見の場で、「子どもが輝くとは、どういうことですか?」と、マスコミは即座に質問すべきだった。

それが、役割でしょう?

記者が、感性を失っている。聴き逃してはいけない、人間性を覆す発言に反応しない。子育ての丸投げが限界に達しているのを知りながら、ジャーナリズムが役割を果たさない。

本来の現場がどこにあるか、見極めが、できていないのでしょう。

政府の「異次元の少子化対策」は、「全ての子育て家庭が親の就労状況を問わず保育所を利用できる制度を創設し……」という方向に向かっています。

実際の「利用者」は子どもたちで、彼らは、十一時間そこで過ごすことを望んではいないし、「子育て」の当事者は「制度」ではなく保育士たちの「心」。そこに「現場」がある。

「子ども・子育て支援新制度」で、一日二時間働けば十一時間預けることができるようになっている。幼稚園がない自治体が二割あり、入園時に偽(ニセ)就労証明書を役場で書くことが日常だった、など、実は、「就労状況」の規制は綻びができ、かなり崩れていました。しかし、それを、正式に「問わず」とすれば、最後の防波堤が決壊する。

「第一義的責任は親にある」という本能、学校や保育を成り立たせるための「約束事」が形骸化してしまうのです。

子育ては国の責任、と思う親がこれ以上増えたら、すでに教師不足に晒されている学校は、「保育園落ちた、日本死ね」に象徴される責任転嫁の広がりを受けきれない。国が「社会で子育て」と言って押し付けても、保育者も教師も、学童の指導員も、児童養護施設の職員も、どんなに予算を積んでも絶対に受けきれない。子育てに対する「意識」の崩壊に追いつかない。

「子どもが輝く」のは、親をいい人に育てている瞬間、「可愛がられている」瞬間、社会に、利他の意識を広めている瞬間です。

(確認ですが、国会で、保育園を増やせという議論の中で「保育園落ちた、日本死ね!」という発言が取り上げられたとき、背後にあったのは、超・長時間保育が可能な、無資格でも保育ができる、しつけの名の下に園児虐待が起こり得る、保育士不足が限界を超えている制度だったのです。

議員たちの「子育て支援」論議は、0、1、2歳児には到底受け入れられない、保育士たちも納得しない、政治家たちのやった振り、パフォーマンスに過ぎなかった。しかし、それが報道で流され、預けることが権利だと思われるようになり、赤ん坊は保育園に入りたがっているようなイメージが定着していった。赤ん坊の笑顔を使った政党のポスターがあちこちに貼られ、それを裏付けし、親たちが0歳児を預けることに違和感を感じなくなっていく。躊躇すること自体が、悪いことのように言われ、子どもの権利条約にある、乳幼児が親と(特定の人間と)過ごす権利の方は、忘れられていった。「ママがいい!」と叫ぶ声が、その価値を失っていった。)

「預けたければ、誰でも(11時間を標準とした仕組みに)預ければいい」という最後の、「異次元の」規制緩和で、「子どもたちが喜ぶから」という、保育者として生きる動機、頑張れる足がかりが失われていく。

学校を支えてきた「保育」が「託児」、親への「サービス」になっていく。しかも無償で。

その結果、「負担軽減」の最前線で犠牲になるのは子どもたちです。機能不全で、安全な場所とは言えなくなっている児童養護施設や児童相談所に持ち込まれる案件の増え方を見れば、それがわかります。

ペットを、一日十一時間、年に260日預ける人はいないでしょう。

そして、子犬は、生後八週間は母犬と離してはいけないという法律が、与野党をまたぐ賛成で国会を通っている。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=174

犬の生後八週間は、もうちょこちょこ走っていますから、人間で言えば二歳くらいでしょうか。それより早く母犬から引き離すと、吠え癖や。噛みつきグセがつくというのです。一方、人間の保育園では、「一歳児二歳児は噛みつく頃ですから」と平気で説明する保育士たちが増えている。

(一対一の保育で、早期に噛みつきをなくす方法を「ママがいい!」に書きました。保育園では、噛みつかれた方もトラウマになるのです。)

「子ども家庭庁」が聴いて呆れる。

「子ども真ん中」など、ただの掛け声。小学生、中学生の意見を聞くと言いますが、政治家のパフォーマンスでしょう。小学生、中学生も含めて、みんなで、しゃべれない乳児を囲んで、じっとその言葉に耳を傾ける、それが何万年もやってきた「子ども真ん中」社会です。その時に湧き上がる不思議な連帯感が、人間社会の根元にあるべき「絆」です。

いま、戻れない一線を越えようとしている、その自覚を持って欲しい。

政府が、「保育は成長産業」とした時点で、勝負はついていたのかもしれない。

市場原理に任せれば、節税になって、競争を煽ることでサービスも向上し、経済も活性化する、経済学者が考えそうな手法です。しかし介護と違い、保育業者が親相手のサービスに走れば、子どもたちの気持ちが蔑ろにされる。それによる「負の経済効果」は、計り知れないのです。

(先生の質を保てない 公立2000校で欠員、1年で3割増加 :https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD258XU0V21C22A0000000/?n_cid=NMAIL007_20230116_A )

画一教育ができなければ、教師の精神的健康は保てません。「自主性」とか「自己肯定感」などという「競争社会に駆り立てる机上の論理」を保育学者が振り回しているうちに、教員が足りなくなり、担任の質が落ちてしまえば、元も子もない。記事にある「1年で3割増加」という異常な増え方が、最後の警告です。教師や仕組みに、親の代わりはできない。

親にとって、自分の子どもがよくない担任に当たったときの悲しみは、深い。自己肯定感など、何の役にも立たない。

 

政府は、保育界で起こったことを、学校教育の現場で繰り返そうとしている。

違うのはそれが「義務」教育だということ。国は、「質」に責任がある。逃げられない。現場の校長は、悪い教師を解雇できないし、国は、市場原理で誤魔化すこともできない。

「日本再興戦略」(平成二十五年六月十四日閣議決定)で、保育分野は、「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」、「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」とした経済学者、致命的な戦略を阻止しなかった保育学者たちは、いま、見て見ぬふりをしています。

働き手が減り、引きこもりが増え、同時に福祉や教育に一層の負担がかかり、実体経済が悪くなっても、彼らの人生には影響しない。大学で教え、評論をしていればいい。

 

しかし、子どもたちの心の傷は、一生その一家のトラウマとなって残るのです。

乳幼児期に受けたトラウマ、それに重なる愛着障害は、問題が複合的に絡んでいてハッキリとは見えない。その子の人生に寄り添えるのは、担任と、保育者と、親しかいないのかもしれない。

親友が出来れば、道は変わってくるのでしょう。

いえ、私が言いたかったのは、担任と、保育者と、親に、そこそこ恵まれれば、人生は大丈夫だということ。人生は助け合うものだから、そのうち一人でも、親身になってくれれば、セイフティネットになる。加えて、数冊の本と、数曲の応援歌があれば……。

そこまで考えて、この傷ついた子どもが、もし親になって、助けてくれ、癒してくれるのは、親を心から信じてくれる幼児たちだと、気づきます。もし、傷ついた子が、道を探しながら保育者や教師になっていたら、受け持った子たちの中に、その傷を癒し、救ってくれる魂が生きているはず。

でも、やはり子どもの頃に受けた傷は深い。可愛がって育ててきた人ほど絶望的になる。その傷の存在を知った親の苦しみは、自分自身に向かうのです。

最近、そんな親から悲鳴のような相談を受けます。事情を聞いて、不登校でいいと思います、と答えたくなることが増えました。

高校生になっても、夜、夢にうなされ、小学校の担任の名を「殺してやる!」と叫ぶ我が子に、なぜ、無理に学校に行かせたのか、と泣く母親。学童が信じられない、と、四人の孫の放課後をみている公立保育所の元所長から、毎年一人はハズレの担任に当たるんだわ、そのイジメ方が陰湿なんだよ、何か、とってもおかしいんだ、という怒りの声を聴く。

祖母であると同時に、保育の重要性、学校の事情をよく知っている人の発言だけに、教師の質の危うさ、深刻さが伝わってくるのです。

こういう問題を、ゼロにすることはできません。でも、今の不登校児、児童虐待の増え方を見れば、雇用施策主体に諮られた母子分離と、規制緩和による保育の質の低下、「絆の喪失」が原因としてあることは明らかです。

保育所保育指針に、五つ六つ「教育」という言葉を入れてどうなることではないっ!

「日本再興戦略」は、「日本を再興できないほど壊す戦略」にしか思えない。

慌てた文科省は、教員は無資格でもなれる、と宣伝します。

本当にそれでいいのか。

「資格」で教育ができるとは思いませんが、資格を取ろうと考え、その取得を試みた人たち、そういう種類の人たちが現場に来ない、来ても離れていく。無資格者で、その穴を埋められるのか。待遇で質を買えると思っているなら大間違い、保育の時の二の舞になる。非正規やパートが主体になり、やがて派遣に頼らざるを得なくなる。

配置基準を満たせばいい、という保育(=子育て)に対する甘い考えが、小一の壁を乗り越え、義務教育を劣化させていくのが見えます。

「担任」(子育て)という責任からの逃避が始まっているのです。政府主導の「子育てのたらい回し」が、行き止まりに近づいています。

流れが変わり始めている気もします。「ママがいい!」への、反響がいいのです。図書館で順番待ちができている、という話も聴きます。Amazonのジャンル別、また一位になっています。

教員不足の原因は、文科省の言う、特別支援学級が増えたため、ではない。特別支援学級をこれほど増やさざるを得ない状況にした短絡的な経済施策、「社会進出」という言葉で、子どもを可愛がる時間を奪っていった「雇用施策」に原因があるのです。読んでいただければその経緯はわかると思います。そこを理解しなければ、「子ども真ん中」というこども家庭庁の掛け声など、茶番に過ぎません。

「子ども真ん中」、はこの国の真骨頂です。この国そのもの、と言ってもいい。

よろしくお願いします。ブログの更新もしています。

(ブログ:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッター:@kazu_matsui)

 

追伸:

教文館、ナルニア国で行われた父、松居直の回顧展での「児童文学と私」講演、無事、終了しました。

子どもの本に囲まれ、書いた作家たちの「意図」に支えられ、児童書好きの方たちと、パネルになった親父の写真と向き合い、水を得た魚のように話せた気がします。

影響を受けた本、好きな本のリストは、ブログに書きました。http://kazumatsui.m39.coreserver.jp/kazu-matsui.jp/?p=4602

限られた時間の中で、改めて、児童文学が自分の考え方の原点にある、と確認しました。それは父がくれた環境で、その人生に、自分の人生を重ねさせてもらっていることがわかります。もちろん、あの強烈な母の影響も、大きいです。

児童文学には、0、1、2歳との会話が、半分あっち側との交わり、もしくは、古(いにしえ)のルールへの橋渡しとしてよく出てきます。メアリー・ポピンズの窓際のスズメたちや、「私たちの島で」のチョルベン、ピーターパンとウエンディ、そしてウエンディの母親との関係などについて「ママがいい!」との関係も含め、解説しました。

リンドグレーン、ワイルダー、ケストナー、トールキン辺りを話しているうちに時間が過ぎ、最後は、一曲、即興で父母に手向け、その日の会話を「沈黙」に返しました。銀座の真ん中で……。

絵本の話まで届かなかったのですが、それを描いた人たちに、節目、節目でアドバイスをもらい、少しの間、一緒に歩いてもらったことについて触れました。

小学校の工作の先生だった安野光雅先生には五十年以上お付き合いいただき、今でも、想像の中でアドバイスをもらいます。アウシュビッツに連れて行って下さった丸木俊先生、インドのシャンティニケタンに招き入れてくれたラマチャンドラン画伯は、私にとって灰色のガンダルフのような人。半分日本語が混じる不思議なインド英語を話し、洗濯までして下さった秋野不矩先生。パリで三ヶ月居候させてくれた堀内誠一さん、ロサンゼルスの俳句の会で鍛えてくれた八島太郎さん、本の帯に推薦を書いてくれた谷川俊太郎さん、美味しいものを食べさせてくれた今江祥智さん、動物をたくさん描いてくれた薮内正幸さん(ヤブさん)。

書いておいた方がいい、と思う懐かしい人、影響を受けた人たちがたくさんいて、その人が創った「絵本」を知っているから、関係に深みが足されるのでしょうね。

出会に、感謝。これからも、意識し続けなければ、と思っています。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=pfbid0UZQG2hjMBi6NRai22mzxiNecV3KJSYp2iqTZQ9KsrpsJ7ppMKxHHAAAxugY4CnDtl&id=100057827763167

 

 

教え子からのメール

(父の「お別れの会」に来てくれた、共通の教え子から来たメールです。ありがとうございます。日々がよみがえりますね。

授業で習ったことよりも、絵本を読んでもらった「体験」の方が教え子たちの印象に残っている。そこに、父の伝えたかった真髄が垣間見えるような気がして、嬉しいです。。)

 

本日は、お別れの会にお招き頂きまして、ありがとうございました。

先日、直先生のNHKアーカイブを拝見しました。 英和で学んだ頃から数年後の映像でしたので、生き生きと語られる先生を懐かしく思い出しました。 

献花の際、先生が今でも真っ直ぐなお言葉で話し出すのではないかと思う程、本当にいいお顔のお写真で、卒業してからもう一度、講演会などに足を運びたかったな、と思いました。

また、皆様に愛された直先生の軌跡を、展示より感慨深く拝見させて頂きました。改めて、素晴らしい先生にご教授頂けたことに感謝しております。

直先生、和先生から数多く絵本・児童書に触れる機会を頂けたことを嬉しく思います。

そして、本日、直先生の奥様の作品集を頂きまして、余りに美しく、明日から私のスマホの待ち受けにさせて頂きたく思います。

(母の個展の時に作った図録です。父が解説を書き、それぞれにタイトルを付けました。「お別れの会」でお土産に配りました。教文館で行われる、回顧展でも、数に限りはありますがお配りしています。)

松居先生

昨日の直先生のお別れの会、ありがとうございました。英和生や英和の先生とも久しぶりに再会出来ました。

私の勝手な思いではありますが、大きな直先生のパネルのお写真から「皆さん、これからもそれぞれの立場で、子どもたちに生きた言葉を伝えてくださいね、子どもの心を育んでくださいね」と励まされた気持ちがしました。

あの後、同級生と、直先生の授業中に読んでいただいた絵本について懐かしい談義をしました。

30年経っても皆の心の中に残っている絵本や言葉の種を直先生が蒔いて下さり、母、保育者、園長、支援者という立場で今度は種を蒔く側になっているね、と改めて感謝致しました。

素晴らしい機会を設けて下さり本当にありがとうございました!

 

ライブハウスで演奏します

 

 

久しぶりに、ライブハウスで吹きます。
まだ、セットリストは決まっていませんが、基本は即興演奏です。楽しみにしています。
不思議な組み合わせです。

パーカッションの菅原さんは、なんと、私が40年前 The Kazu Matsui Projectで来日し、渋谷公会堂で演奏した時、ご一緒してもらった人。
のぶ君は、元ジャニーズのチャチャというグループのメンバーで、ある日、ディジュリドゥという楽器に出会い、人生の方向転換をした人。塩入さんは有名歌手のプロデュースやアレンジだけでなく、羽生結弦の音楽監督などもしている人です。

人間は不思議なことをする。その、次元をまたぐコミュニケーション能力が、とても必要な時が来ている、そんなことを感じていただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。

 

 

四月五日の教文館での講演、「児童文学と私」、当日券は完売しましたが、ライブ配信があります。ぜひ、お問合せください。

児童文学と私