「日本の本当の姿を、欧米人が伝えてくれる」

 

保育士不足が深刻化し、資格を持つ潜在保育士を掘り起こせ、60万人いる、と国が指示したのが十年前。都内で行われた行政主導のマッチメイキングで、集まった園長設置者の数が潜在保育士より多かったと噂された、閑散とした会場を思い出す。その風景がエビデンスなのでした。国は、問題の本質を理解していない。

人が、なぜ「潜在保育士」になるのか。

子育てにおける「資格」とは?

大学や専門学校が与える「資格」と、子どもたちの側から見た「資格」との差は、いつ、どこで生まれたのか。専門家たちも、政治家たちも、それを理解していない。だから後手に回る。さらに、失敗を認めず誤魔化すから、親たちの「子育て」に対する意識が迷走する。

無資格でいい、パートで繋いでもいい、認可基準を満たさなくても補助金を与える、次々に規制緩和をし、閣議決定された数値目標を追えば、現場における人間関係の質は下がっていく。本来の保育とは程遠い、幼児にとって安全とは言えない状況だけが増えていった。いくら子どもが好きでも、心ある人なら、そんなことに加担したくはない。

最近、運営はうまくいっているように思えた歴史ある保育園が、突然親たちと市に来期の廃園を通告し話題になった。「故郷」になっていた場所が、ふと消えていく。緊急保護者会で、閉園します、という園長設置者の言葉が保護者にも行政にも寝耳に水で、理解できない。

「(市の)保育課も本年度末での閉園については知らされていなかったため、急きょ理事長と園長から事情を聴き、『段階的な閉園』を申し入れた。しかし理事長らの閉園の意思は固く、現在も話し合いは平行線のまま」と報道は書く。

保育園は、理事長か園長、主任、誰か一人、子どもの幸せを強く願う者がいて成り立ってきた。その一人が辞めるだけでバランスは崩れる。そのバランスは、慢性的な保育士不足の状況では簡単に修復できない。経営でも、運営手法でもない、人間関係のバランスが保育園運営の鍵になっていた、そこを理解しないと、もう本来の姿は戻って来ない。

保育者不足の検証がきちんと行われないまま、今度は、文科省が「潜在教員」活用へ、と言う。学校は、サービス産業ではないし、市場原理が通用する仕組みでもない。選択肢がますます狭められていく。

子育ての目標は、「成果」ではなく、体験です。自分が必要とされている、という体験です。

教育も、そうでなければいけない。

教員不足深刻「潜在教員」活用へ:文科省 https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20220713-OYT1T50181/

残業月90時間 学校がもう回らない… 教員不足全国2800人の現実(NHKニュース)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220802/k10013747241000.html

 

三十年前、「ロサンゼルスでは700の学級に担任の先生がいません」と本に書いた。この現象が起こった時、実際は、どこで何が崩れてしまっていたのか、その後、どんな手を打っても公教育の質がなぜ戻らなかったのか、アメリカというかなり過激なフィールドから学んでほしい。

1984年、アメリカ政府は学校教育の質の低下を「国家の危機」(Nation in Crisis)と位置付け大論争をしました。高等教育が普及し高卒の割合が親世代に比べて五割増えたにもかかわらず、子の世代の学力平均が下ってしまった。原因に「伝統的家庭の価値観」(Traditional  Family Value)の喪失があると言われ、大統領夫人が、テレビの官制CMで、「絵本の読み聞かせ」を盛んに薦めたのがこの頃。

当時、ロサンゼルスに住んでいた私は、奇妙なコマーシャルが深夜テレビから流れてくるのに気づくのです。不特定多数の「誘拐犯」に語りかけるCMでした。

「もし、あなたが子どもを誘拐してしまったなら、この電話番号に連絡して下さい。警察には届けません。相談にのります」。

全米で一年間に誘拐される子どもが10万人、多くが養育権を失った親によるものでした。州を越えると連邦警察(FBI)しか捜査できず、誘拐された親の九割が一生自分の子に会えない。その恐怖と、悲痛な叫びが、親たちが買ったCMという形で深夜流れてきたのです。

当時、アメリカで幼稚園に子どもを行かせると、「指紋を登録しておきますか?」と聴かれ、書類を渡されました。何年も経って見つかった時の確認手段でした。

学校という、子育てを代行せざるを得なくなった仕組みで、担任が足りなくなる、その流れの向こうに、人類未体験の「家庭崩壊」と「不信」がありました。

「平等」という言葉は誤魔化しに過ぎない。「欲の資本主義」の中で、社会の最小単位である夫婦が子どもをめぐって世の中の不信感を決定的にしていたのです。男女共同参画(競争)社会という言葉の先には、男女共同参画(子育て)社会が崩れ去った、強者が弱者を支配する社会がありました。

三人に一人の子どもが未婚の母から生まれていました。(現在イギリスで四割、フランスで五割、スエーデンで六割。)「伝統的家庭観」は、(競争者を増やすために)意図的に消されていきました。「子育て」の幸福感は経済活動の妨げになる、市場原理とはこういうことだったのだ、と思いました。

「自由」という言葉さえ、子どもたちの側から見れば、自分たちを捨てるための合言葉でした。そして馬鹿げたことかもしれませんが、発砲事件が起きる可能性が最も高い裁判所が、家庭裁判所なのです。法律が古(いにしえ)のルールに踏み込むと、人間は暴力的になる。

両親がいても、四割の子どもが十八歳になるまでに親の離婚を体験し、小学校での話題の中心が、今度のお父さんは、今度のお母さんは、なのだと、その頃五年生に教えられました。学校という新たな仕組みに入れられた子どもたちの日常会話の中で、親子という関係が、その価値を下げていく。

大人たちの都合、選択による父子分離は、義務教育の休み時間に交わされる会話の中で当たり前になっていく。

首都ワシントンDCで、母親に恋人がいれば父親像となり得ると計算しても、六割の家庭に大人の男性がいない。実の父親という単語はすでに歴史の中に葬られ、しかし父親像を持たない子どもは五、六歳からギャング化する、という研究発表があって、公立の小学校で父親像を教える「プロジェクト二〇〇〇」が始まりました。あれから二十五年経ちます。

それでも、人間は、時に、死にものぐるいで子どもを取り戻そうとする。

孤独だから、執着し、自立の果てに絆に飢え、犯罪を犯してまで、子どもをもう一人の親から奪おうとする。一人の子どもの「父母」という感覚は「自分の人生」という言葉で隅に追いやられ、一家、一族、血縁という概念は、移民一世、辛うじて二世、以外には通用しない、意味をなさないものになっていました。祖父母から永遠に孫を奪い取る、ということへの思慮や、躊躇は、ほぼ存在しない。孫が産まれたことさえ知らない祖父母が、多分、二、三割いるのです。だからこそ、親子という関係だけが残される。最後の命綱のように思えるのでしょう。

子どもには、それほどの魅力があるということです。

信じること、というより、「育てること、支配すること」の可能性を見るのかもしれません。自分が救われる一縷の望みがそこに見える。少女の五人に一人、少年の七人に一人が近親相姦の犠牲者という歪んだ親子関係も、「家庭」という絆が足かせとなって、子どもたちを追い詰めた結果でした。

インタビューで、

「そういうことをされている時は嫌だった。でも、土曜日や日曜日に動物園や遊園地に連れて行ってくれるお父さんは好きなんです」。

「学校の先生や福祉の人に言ったら、お父さんを取り上げられてしまうのがわかっていたから言えなかった」、「お母さんが、悲しい思いをするのがわかっていたから言えなかった」、と答える子どもたち。一人では生きられないから、必死に家族、家庭という絆を、自分を犠牲にしてまで守ろうとする。その声を聴き、姿を見て、呆然とするしかありませんでした。

「絆の核になる」という彼らの本来の役割が果たせなくなった社会でも、子どもたちは本能的に、懸命に役割を果たそうとする。

欧米と日本の違いに目を向けてほしい。なぜ、長い間維持してきた伝統的家庭観が欧米ではこれほど簡単に崩れてしまったのか。

目標を見失った時は、来た道を振り返れ、と言います。

以前も書きましたが、まだ持ちこたえている日本の根っこが伝わってくるような、欧米人が書き残し、伝えてくれようとするメッセージがあります。ここに書かれた「違い」が、いま、私たちを支えている。

朝日新聞のコラム「折々のことば」に、哲学者が、いい言葉を指摘してくれました。新刊「ママがいい!」の一つ前の著書「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」に書いた言葉です。

「赤ん坊が泣いていれば、その声を聞いた人の『責任』です。」:松居 和

媚(こ)びる、おもねるといった技巧を赤ん坊は知らない。いつも「信じきり、頼りきり」。それが大人に自分の中の無垢(むく)を思い出させる。昔は、赤ん坊が泣けば誰の子であれ、あやし、抱き上げた。未知の大人であっても、泣く声を聞けば自分にもその責任があると感じた。そこに安心な暮らしの原点があったと音楽家・映画制作者はいう。『なぜわたしたちは0歳児を授かるのか』から。(鷲田清一

 

渡辺京二著「逝きし世の面影」を読み、書いたのです。(江戸が明治に変わる頃、来日した欧米人がこの国の個性に驚き、書き残したものを集めた本です。)

欧米人たちが時空を越えて、私たちに「ほんとうの日本」を伝えようとする。人間のコミュニケーション能力の不思議さ、守り合う絆を感じます。いま先進国社会で起こっている混沌の中で、日本という国がどういう役割を果たすべきか、彼らは伝えようとしている。

第10章:子どもの楽園、にこう書いてあります。

『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。(モース)』

当時、アジアの他の国、アラブやインド、中国などを見ていたはずの人たちが、日本の特殊性に気づく。

英国の紀行作家イザベラ・バードは、

『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ』と書きました。子どもを育てる、教育する、ではないのです。「喜びをおぼえる」のです。そして、「子どもがいないとしんから満足することがない」人々だったのです。

江戸は玩具屋が世界一多い街、大人も子どもと遊んでいる。朝、男たちが集まり赤ん坊を抱いて自慢しあっている。日本の子どもは父親の肩車を降りない。父親たちがいかに幼児と一体で幸せそうかが、繰り返し強調され、絵にも描かれます。

日本の男、冬、と夏が描きわけられ、冬は着物で幼児を抱き、夏はふんどし姿で幼児を抱いている。父親と幼児は一体だった。

日本人は子どもを叱ったり、罰したりしない。教育しない。ただ大切にしているだけで、いい子が育ってしまう。

日本の日常、風景、私たちがいまだに持っている「時の財産」が、上手に説明される文があります。

『ワーグナー著の「日本のユーモア」でも「子供たちの主たる運動場は街上である。・・・子供は交通のことなど少しも構わずに、その遊びに没頭する。彼らは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担った運搬夫が、独楽(こま)を踏んだり、羽根突き遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、凧の糸をみだしたりしないために、少しのまわり路はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者や駆者を絶望させうるような落ち着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する。」

ブスケもこう書いている。「家々の門前では、庶民の子供たちが羽子板で遊んだりまたいろいろな形の凧を揚げており、馬がそれを怖がるので馬の乗り手には大変迷惑である。親たちは子供が自由に飛び回るのにまかせているので、通りは子供でごったがえしている。たえず別当が乳母の足下で子供を両腕で抱き上げ、そっと彼らの戸口の敷居の上におろす」こういう情景は明治二十年代になっても普通であったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって座っている太った赤ちゃんを抱き上げながらわきえ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤードごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ」のだった。』(「逝きし世の面影」から)

 

単に時代がそうだったのではないのです。ヨーロッパではもちろんあり得ない風景ですが、欧米人が知っていた他のアジアの国々と比較しても、この国の風景は驚くべきものだった。

私たちは、幼児を抱き上げながら、命を一つずつ救い、進む人たちだった。そうする「価値」を知っていた。みんながそうだったから、幼児たちはその役割に没頭できた。信じ切って、頼り切って、幸せそう、という、人間の完成した姿がそこにあった。

欧米人は、神の国を見たのでしょうね。

イエスは弟子たちに、言ったのです。

「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

神の国、では赤ん坊の泣き声がしない。

赤ん坊が泣いていたら、そこにいる人が「自分の責任だ」と思い、抱き上げる。それが、人間が調和し、安心して暮らしていく秘訣だった。それで全てが整い、解決した。人間であることの「資格」を、抱きしめるのです。

責任を感じたとき、人間は、自分の価値に気づく。

幼児と自分の「関係性」が人生における一番の相談相手になる。

それを知る者たちの気配が、いまでも懐かしい記憶の中に、(トトロやドラゴンボールの中にも)たくさん残っているのを、私は感じる。

幼稚園や保育園を使って、父親たちを本来の日本人、子どもと一緒に嬉しそうに笑っている男たちに還していくことは可能なのです。父親たちも薄々気づいていて、その道筋を探している。数日、園児に混ぜてやる。それだけでいい。

週に一度、昼休みに、園児たちが中学校の中を並んで行進するだけでいい。それだけで、この国は本来の姿を取り戻し始める。

新聞のコラムを読んだ奈良の竹村寿美子先生(私の大師匠。元真美ケ丘保育所長)からメールが来ました。

 「以前、心の清らかな人が保育園へ来て、子どものなき声を聞いて『あっ、誰かが泣いている!どこ?どこ?』と慌ててうろうろされたことがあった。なき声に慣れていた私たちは反省しきりでした。ありがとうございます!

(追伸)

 その人は少し障害を持っていらっしゃる方でした。保育士たちと心が洗われた気になりました」

(ここから私です。)

仕組みによる子育てが広がると、社会全体が「子どもの泣き声」に鈍感になる。竹村先生はそれを言いたかったのです。「慣らし保育」によって、または「保育の存在に慣れること」によって、人類に必要な感性が薄れていく。そして、ある時「ママがいい!」という言葉が苦痛になったりする。

「心の清らかな人」の存在が一番輝く時に、その存在に気付かなくなると、進むべき道筋が、わからなくなる。

保育に心を込め、人生を捧げてきたひとの自戒の念がそこにありました。

 

(新刊「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。

「学校を、なんとか維持しなければいけません」

「学校を、なんとか維持しなければいけません」

 

 「発達障害」児童を急増させる社会風潮の正体:少子化でも特別支援学級が増える真の理由(東洋経済On Line:https://toyokeizai.net/articles/-/604154) という報道がありました。様々な問題の核心に迫るタイトルです。見方によって道筋が変化します。ゴールをどこに置くのかが重要です。

『文部科学省や各教育委員会が教員不足の大きな要因として挙げるのが、障害のある子どもが通う特別支援学級(以下、支援学級)の増加だ。直近10年間で小中学校全体の児童・生徒数は減少しているにもかかわらず、支援学級の在籍者数は2011年度の約15万人から2021年度には約32万人に倍増している

学級全体に占める支援学級の比率が全国的に高い沖縄県の教育委員会担当者も、教員不足の一因について「支援学級が増えすぎた」と話す。同県で顕著に増えているのが、自閉症など発達障害の児童が通う「自閉症・情緒障害」支援学級の在籍者数だ。

支援学級急増の要因について、「障害に対する理解が進み、保護者も支援学級に入れることに抵抗がなくなったからだ」と文科省や県教委は口をそろえる』

 

政府が経済政策として進めた「子育て支援」を、立場上否定できない文科省や県教委は、記事の背後にある要因に向き合おうとはしない。

少子化対策と言い、0、1、2歳児保育を普及させ、逆に少子化を進めてしまった経済施策と似ている。現場を知らない専門家の助言で手を広げ、質の低下が起こっているのを知りながら、数値目標を掲げて規制緩和を繰り返した。結果、「児童虐待過去最多」というとんでもない事態を生み出してしまった。

視点が一方的に過ぎるのです。乳児保育において、「理解が深まって、預けることに抵抗感がなくなる」と言う道筋は、幼児たちの願いに反していたこと。その願いから遠のけば遠のくほど、学校教育は蓄積された不満と、先送りされた負担に耐えられなくなって、選択肢が狭まっていく。

「新年度も各地で厳しい『教員不足』の状況が発生しているとして、文部科学省は教員免許がなくても知識や経験がある社会人を採用できる制度を積極的に活用するよう全国に緊急で通知しました。」(NHKニュース) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220421/k10013592721000.html

「てめぇら!」響く保育士の怒鳴り声 “ブラック保育園”急増の背景(週刊朝日) https://dot.asahi.com/wa/2017052400011.html?page=1

この二つの記事を結びつけることは、そんなに難しいことではなかったはず。

そして、もう一つ。これは全国紙の一面でも報道されたのですが、

<保育士逮捕>退職恐れ虐待注意できず 背景に人手不足 千葉市の認可外施設(千葉日報2014年8月)https://www.chibanippo.co.jp/news/national/209909  

園長が、退職されるのを恐れて、子どもを虐待する保育士を注意できない。八年前、すでに保育士不足はそこまで蔓延していました。

 

支援学級急増の要因は、障害に対する「理解」が進んだからではなく、0歳児を躊躇なく預けるように仕向けた、雇用労働施策がその根底にある。ここで言われる「理解」が、専門家に任せた方がいい、ということにつながるのだとしたら、それは理解とは言えない。学問が仕掛けた「誤解」と思った方がいい。

乳児保育と似て、支援学級は「手法」ではなく「人間性」(人柄)で成り立つもの、学校は絶対に受けきれない。専門家に子育てはできないという現実に必ずぶつかる。

「手法」で対処していると、子育ての本来のあり方、育てられる側が、育てる側の人間性を育て、幸せにする、というルールに沿わなくなるのです。

母子分離主体の「子育て支援」を経済施策の柱とするなら、支援学級の在籍者数が十年で15万人から32万人になることを予測し、準備しなければならなかった。「支援学級に入れることに抵抗がなくなった」、と「0歳児を躊躇なく預けるようになった」が、危ういところで重なることは想像がついたはず。

アメリカでは小学生の十人に一人が学校のカウンセラー(専門家)によって「薬物」を処方されます。「薬物」に対する理解が進んだのではない。学校が勧める薬物が、将来、麻薬中毒、アルコール中毒につながっている、背後にあるのは製薬会社の利権、という研究さえ、すでに終わっていた。

子育てのたらい回しが行われ、それが、「薬物」で行き止まりになっただけなのです。

義務教育を維持するため、教師の精神的健康を保つため、子どもに薬物を使っても、政府が一生支給し続けてくれるわけではない。どこかで何かがキレて、壊れていく。

コロナウイルス騒動が始まり、日本でトイレットペーパーやマスクが品切れを起こしていた頃、アメリカでは、まず拳銃と弾薬が品切れを起こしていた。

そして、最近の世論調査で、アメリカ人の三人に一人が「政治的な目的をかなえるために、暴力は必要だ」と答える。子育てのたらい回しを容認する社会で、人種差別による分断と不信を土台に、連邦議会襲撃につながった一連の流れが肯定され始めているのです。

ここ数年、警察官による暴力や殺人が、あれほど問題になり批判されてているのに減らないのです。ボディーカメラの装着が義務付けられ、指導や訓練を実施しても、警察官による暴力的な事案が増えている。いま毎日三人、警察官によって殺害され、犠牲者の三分の一から半数が精神的に問題がある、と分類される。

器具(カメラ)や薬物、法律、教育ではもう取り締まれない、異次元の崩れ方が始まっているのです。これに、解釈が定まらない「民主主義」が加わったら、どうなるのか。アメリカ人でさえ、固唾を呑んで見守っているのです。

支援学級急増と教師不足が、向精神薬に頼ろうとする「子育て」に拍車をかけ、その場しのぎの「教育」が「社会で子育て」の本質を暴いた頃には、すでに後戻りができなくなっている、そんなことにならないように、子どもたちの信頼に応えることを優先しなかった先進国から、日本は学んでほしいのです。

確認です。

私は特別支援学級に子どもを入れることを問題視しているのではないのです。

手厚い配置と責任ある人選ができるなら、支援学級はいい教師が育つ、集団から離れて子どもが安心し、集中できる、親と教師が心を一つにする、本当の学校の姿がそこに出現してくる不思議な場所になる、と思っています。

私が問題視しているのは、在籍者数が十年で15万人から32万人になったことの意味を考えない、それに対処しようとしない国の「子育て支援」施策のいい加減さ、なのです。「保育は成長産業」という閣議決定で、「安易なビジネスチャンス」のようにしてしまった経緯については、「ママがいい!」に書きました。

そしてもう一つ、大事なことがあります。

「支援学級で、少人数の子どもに教えていたい」と願う教師もいる。保育士の中に、0歳児と居るのが好きな人がいるように。

俯瞰的に見ると、無理なこと、やってはいけないこと、でも、この先生や保育士の気持ち、私にはわかるのです。人類を支える、根っこのような気持ちですね。別の命と無心に一体になる充実感を知っている。一人では生きられない人と過ごし、静かに自分の心を手直ししていく。こういう、0歳児と満ち足りた時間を過ごせる人、親のような「心」を持つ人たちを大切にしなければいけない。

子育ては、「成果」ではない。体験です。自分が必要とされている、という体験です。

教育も、そうでなければいけない。

 

20年、30年前、保育士の大会によく呼ばれました。欧米の例を挙げ、家庭崩壊が福祉によって始まり、その結果、福祉や教育を追い詰めていく、という話を私はしていました。

「福祉」が親たちを変え始めたことに、保育士たちは気づいていました。「子育て支援」が「子育て放棄支援」になる、エンゼルプランは虐殺プランです、と公言する保育士会の幹部たちがすでにいました。だから、あれほど多くの大会に呼ばれたのです。

現場の危機感は、「ママがいい!」と言っている子どもたちの側にあったのです。

なぜあの時、私が会った政治家たちの中に、もう少し、ことの重要性に気づく人がいなかったのか、と悔しい思いでいます。自民党の少子化対策委員会、厚労部会、当選一回の議員の勉強会、党大会の女性局で講演した後は全国十七県連で呼ばれ、講演しました。あの人たちは、それなりに理解しようとしていたんです。でも、乳幼児期の母子分離は経済政策に不可欠なもの、と見なされ、様々な閣議決定がされていった。

親であることの充実感が、子どもたちの、「人を信じる力」につながります。

この「人を信じる力」を特別支援学級で育てることができるのか。そこを真剣に考えて欲しいのです。

可能性はあると思う。

保護者と教師が常に心を一つにする仕組みをつくっていくこと、が鍵ですが、できると思います。

子どもが言葉も喋れず、まだ寝たきりの幼い頃から、親たちの意識を「子育て」における連帯感や充実感を感じる方向へ導いていくことは可能なのです。やっている保育者たち、保健士さんたちがいますし、人間の遺伝子はそのように仕組まれているのです。ほんのちょっとしたヒントや導きで、親心という人間性は生き還ってくる。すると、親子の「気配」が変わってくるのです。0歳児からの「ママがいい!」というメッセージを、まだそれが言葉になっていないのに、勲章として受け取るようになるのですね。

その「気配」が変わる瞬間が特別なものだから、もし学校を立て直そうとするなら、保育園のあり方、幼稚園、子育て支援センターの役割が重要になってくる。

学校を守るために、子どもを優先する親たちの絆を耕すことは、そこでしかできないと思う。教員不足がこれほど早く限界に達してしまったら、親たちの子育てに対する意識、視線で、バランスをとって行くしかない。(環境づくりに関しては、「ママがいい!」に詳しく書きました。)

 

「母親を叱れなくなったら、それはもう保育ではない」、と園長先生に言われたことがあります。保育所保育指針にも、そう書いてある。でも、急速な保育の市場化とマスコミの論調が、それを不可能にしてしまったんですね。

このままでは特別支援学級が「親へのサービス」という位置付けにされていく。

 

席に座っていられない子を指導する不思議な塾があって、そこの先生が言ったんですね。連れてくる親に、まず挨拶の仕方、礼儀作法を教えるんです。それで、ずいぶん子どもは座っていられるようになります。

もう亡くなりましたが、忘れられない私の同志、宝塚の中学で校長をしていた中村諭先生という凄い人がいて、ひたすら靴箱の生徒の靴を揃えて、荒れている学校を鎮めるんです。私が「家庭崩壊、学級崩壊、学校崩壊」という本を出した頃、先生は「学校崩壊?それがどうした」という本を出していて、大笑い。一緒に講演し、お宅に伺ったりしていたのです。「学校」を守る番人、守護神のような人でした。

亡くなった時、私は泣きました。葬儀には教え子や親たちが数千人集まりました。

公教育の一部でもある特別支援学級で、今、もう一度、形(かたち)を整えていくことができるのか。

特別な役割の子どもたちがそこにいるからこそ、ひょっとして、「教育」を根底から浄化することが可能かもしれない。そんなことを思うのです。

学校教育を「欲の資本主義」から解放しなければいけません。

先日、区役所で「原爆展」を見たのです。

そこで、「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれている正田篠枝さんの短歌を知りました。

思い出し、泣きそうになり、胸がドキドキするのです。

「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」

学校を、守らなくては。

 

 

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浦和の紀伊國屋で、店長さんが並べてくれました。

紀伊國屋新宿本店のディスプレイです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

「何が起こっているか、知って欲しい」

「何が起こっているか、知って欲しい」

知り合いのお友達の赤ちゃんがこの園で亡くなりました、と教え子からメールが来たのです。ホームページに怒りさえ感じます、と書いてありました。

現在休演中と書かれたそのホームページには可愛らしい子どものイラスト付きで、良さそうな(よほどの保育士を揃えてもとても無理な)ことがたくさん書かれていました。

事故(事件)の概要を、まだわかっている範囲ですが、報道で読んでいた私は、料金値下げの部分を見て驚きました。一体どうしたら補助金の支給条件が監査されるはずの認可外保育でこんな値段が可能なのか。それとも、補助金とは無関係の、異常な自転車操業だったのか。

国の保育施策の底辺のところで、こういうことが起こっている、その危険性が人材不足でますます高まっている、それを知っているからこそ辛いのです。防げたのではないか、様々な思いが交錯します。

「○○保育園のホームページへようこそ!」

当園では常に保育内容の充実と向上心に心がけ、経験豊富な教育の専門家が作成したカリキュラムに基づき独自の教育を行っています。特に情操教育には力を注ぎ、こども音楽教室や知育あそび教室等を通して、脳の活性化はもちろん「やさしさ」や「思いやり」の心をはぐくむよう指導しています。

また、認可外保育園では珍しい日曜・祝祭日の保育もご相談に応じ、ご利用しやすい環境を整えています。

勤務時間が夜までで昼間だけの学童に預けられない、急な用事で夜まで預けたい…

そのようなお困りごとがありましたら、ぜひご連絡ください。急な預かり・深夜の受け入れ大歓迎です!

夜間預かり料金・対応時間改正のお知らせ

預かり時間を伸ばし、フレックスの料金を下げてご利用しやすくなりました!

一時預かり:500円→200円/1H フレックス(チケット)50H 7000円(1名:140円/1H)

急な用事で子ども預けるところがない… そのようなお困りごとがありましたら、ぜひ、ご連絡ください。料金を下げてご利用しやすくなりました!

(以上、ホームページから)

国が閣議決定で期限を定めた待機児童解消のために、認可外の保育施設に認可と同様の補助を出そうとした時に、質を心配する声はすでに上がっていました。認可外や小規模での死亡事故率が高いにも拘らず、監査方法も罰則規定も明確に示されなかった。劣悪な認可外施設は存在していることは報道でもわかっていた。それでも、厚労省はその反対を押し切ったのです。

「社会で子育て」を主張してきた「保育の専門家」が今年になって、少子化と園の作り過ぎで定員割れを起こし経営が危ぶまれる保育施設に関する報道で、インタビューに答えて言っていました。

保育園の数を増やし待機児童がなくなったので「一定の成果はあった」。「家庭で子どもを育てることに不安や疲れを感じる人たちにも、保育が必要になってきている」、「保育園の柔軟な活用が求められている」と、更なる規制緩和を提唱したのです。簡単に言えば、働いてなければ入れないという垣根を取り払え、ということ。定員割れしないように保育業界を守れ、ということなのでしょう。(著書「ママがいい!」にも書きましたが、子どもたちの立場に立ちつつ、保育業界を守る方法は規制緩和以外にもあります。)

学者の言う「一定の成果」の裏には、無資格でもいい、パートで繋いでもいい、十一時間保育を標準とする、そして、監視が行き届いていないにも関わらず認可外に補助を出す、など、子どもたちの安全と安心を二の次にした様々な規制緩和がありました。そして、この学者の言う、これからすべき「柔軟な活用」にはすでに、1時間140円という料金で夜間も預かる、(ホームページを見る限り、補助金を受けられるはずがない、報道で知る限り規則を守っていなかった仕組みで)生き残りをかけた危ない自転車操業ともいえる保育をする園が含まれている。

イラスト付きでホームページを作った「保育内容の充実と向上心に心がけ、経験豊富な教育の専門家が作成したカリキュラムに基づき独自の教育を行っている」園の経営者は、その料金の下げ方を見れば、「充実と向上心に心がけ」ている人には思えません。政府の子ども・子育て支援新制度を「ビジネスチャンス」と宣伝するビジネスコンサルタントやフランチャイズ型の株式会社の勧誘で、マネーゲームのように、または気楽に、保育園を作った人かもしれません。

少子化の実態などまったく知らずに、起業を薦められ、いつの間にか追い詰められた「保育施策の犠牲者」かもしれません。でも、それは一人の子どもの命に対して、まったく何の言い訳にもなりません。

数年前、ネット上にこんな宣伝がありました。政府の勧める新たな補助事業に目をつけ、マニュアルを廉価で売ることだけが目的だったのでしょうか。

「保育園開業・集客完全マニュアル」

起業したい、独立したいというあなたの夢をかなえます。今ビッグチャンス到来の保育園開業マニュアルです。コンサルティング会社に依頼する百分の一の価格で開業ノウハウ全てが手にできます。

*独立・起業を考えているが、何から、どう始めたらよいかわからない。

*自己資金がなくてもできる起業を探したい。

*自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいだ。

起業をしたいと思った時がチャンスです。ネットビジネスも儲かるのでしょうが、やはり安定した収入は確保したいものです。

(以上、引用)

これが政府の言う「日本再興戦略」(平成二十五年六月十四日閣議決定)、保育分野は、「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」の実態です。

保育園は、何から、どう始めたらよいかわからない、自己資金がなくてもできる起業を探している、不安がいっぱいな人が始めるものではない。国が言うように、「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」ではないのです。

そこで起こった出来事が、子どもの命に関わるだけでなく、見えないところで、一生の心の傷、PTSDとして記憶に残る、または後天的発達障害として表れる可能性を持っている、一家の人生やその先にある学校教育の在り方をも左右する分野なのです。仕組みの形作りには細心の注意を払って、心を込めなければいけない。安易なビジネスチャンスにしてはいけない分野だったのです。

「ママがいい!」、ぜひ、ぜひ、読んでみてください。何が起こっているか、知って欲しいのです。よろしくお願いいたします。

 

 

(写真)「ママがいい!」、紀伊国屋新宿本店に並べてくれました。右上に長くお付き合いのあった佐々木正美さんの本が見えます。ある講演会でご一緒し、楽屋で長時間、楽しく、険しく、様々に話し合ったことを懐かしく思い出します。先生が、最後の力を振り絞っていた頃でした。

 

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「自然治癒力」は、あちこちに形を変えて存在している

「自然治癒力は、あちこちに、形を変えて存在している」

奇妙な試算と報道が、人間性を奪っていくことについて書きました。

「出産退職年20万人、経済損失は1.2兆円:民間研究所試算」この試算は人間の愚かさの金字塔です、と書きました。

しかし、それを受け入れていくのはやはり個人の意思と選択なんですね。

いつ、人類はこういう視点に慣れ、こうした報道に首を傾げなくなったのか。ごく最近です。「損失」の定義が偏っていることに気づかない。「社会進出」における「社会」の定義と同じで、価値観を簡単に「経済」に委ねる。

そして、乳児と過ごす時間を「損失」と感じる親が増えているのです。エビデンスは、説明の仕方でフェイクニュースの根拠になる。

「欲の資本主義」の反対側にいるのが、「園庭で遊んでいる幼児たち」だと私は思っています。だから彼らは、幼児たちと人間を引き離そうとするのでしょう。

 

こんな記事もありました。

「日本は、女性の教育レベルが高いにもかかわらず、労働市場でうまく活用されていないため、教育投資に見合うほどの利益が出ていない」(世界経済フォーラム)

母親であることを「教育レベル」と対比させ、活用と利益で人生の価値を計るように仕向ける。彼らの言葉を借りれば「教育」は「投資」なのです。馬脚を露わすとはこの事。いつの間にか、「教育」が「欲」に支配されている。欲が、動機になってしまうと、子育てが行き詰ることに、彼らは気づかない。

人間が感性を失っていく過程に、「乳児の存在意義」VS「学校教育の存在意義」のせめぎあいがあるのですね。

 

学問」と「欲の資本主義」が人間の本来の思考とアイデンティティーを抑圧している。

それに、「福祉」が母子分離という強行手段で加わった。彼らの言葉を借りれば、「労働市場でうまく女性を活用するために」。

その混乱の中で、「保育園落ちた、日本死ね!」と誰かが叫ぶんです。

国会議員たちが、その言葉を聴いて、興奮して口論をする。しかし、彼らの視点からは、とっくに乳幼児たちが消えている。

(政府によって行われてきた経済優先の母子分離策は、二割の自治体に幼稚園という選択肢がない状況で進められたことを、みんな意外と知らない。政府や子ども・子育て会議には、それだけ重い責任があったということ。保育を「投資」と考える人たちは、一人一人の人生、一つ一つの自治体の置かれた状況をほとんど想像しない。大雑把な仕組みと枠組みで考える。「0歳児を預けることに躊躇しない親をつくり出すこと」が、学校教育の崩壊につながるということさえ、いまだに理解できないでいる。)

乳幼児期の母子分離が子どもの人生にどう影響するか、はっきりとは誰にもわからない。

学校でいい担任に当たれば、その一年は人生の中で永遠に価値を持つでしょう。一冊の本に出会ったり、ある歌手のファンになる、親友が一人寄り添ってくれるだけで、人生は守られ、変化する。一編の「詩」、母の涙、祖父の笑顔、夕陽が沈む光景と島の伝説の組み合わせ、ペットとの会話に救われることだってある。

尺八の演奏もそうですが、私は、そういう瞬間にならないだろうか、と自分の講演に願いを込めます。いい伝令役、橋渡し役になりたい、と本を書きます。

自然治癒力は、あちこちに、形を変えて存在しているのです。

しかし、「子育て支援」と名付け国が行った母子分離策が、親たちの「子育てにおける幸福感の減少」と、「子どもと過ごす時間を損失と感じる傾向」につながり、若者たちの生きる力の衰退、アイデンティティーの喪失に繋がっていったのは確かだと思う。引きこもりや、結婚しない、家庭を作ろうとしない若者が三割に近づくという数字にそれが表れている。

男女共同参画社会という掛け声で、男女がお互いの価値とアイデンティティーを確かめ合う機会や、補い合う「生き方」が減らされていったのですから、子どもを欲しいとは以前ほど思わなくなる。当然だと思います。

それでいいのです。

ここまで進めば、それが自然でしょう。

自らした選択です。

 

「おひとりさま」という選択は、それができる人たちにとっては気楽でしょうし、「引きこもり」という日本特有の現象も、親が親らしい時代の残照であって一概に悪いことではない。何より「自分で育てられないなら、産まない」という選択は、「人間らしい」と思う。

けれども、経済界や政府、社会学者までもが、「少子化は困る」「致命的だ」と言う。子育てのイメージを散々悪くしておいて(責任の所在をすっかり曖昧にしておいて)、いまさら何を言ってるんだ、と腹立たしくなります。

専門家のフリをしながら原因と結果を直視しない。少子化対策で少子化は加速したんでしょう。失敗を反省しないどころか、破綻した論理を、保育という仕組みに押し付けるから、保育も破綻してくる。そして、いよいよ学校が破綻し始めている。いい人材が去っていく。

私が、一番危機感を覚えるのは、政府主導のこの「生きる力の衰退」「アイデンティティーの喪失」が、あちこちで対立や軋轢を生み、調和を壊し始めていること。

少子化が進んでいるのに「児童虐待が過去最多」という数字にそれが表れている。

 少子化と児童虐待は連結します。利他の道を選ばす、損得勘定で人生を歩むなら、多くの人たちが子どもを産まなくなる。その結果、自然治癒力や自浄作用が働く機会が減っていく。

(その先にある、福祉が人材的に限界に達し市場原理に走った成れの果ての状況を、「ママがいい!」に書きました。NHK BSドキュメンタリー「捨てられる養子たち」:https://www6.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/?pid=161027  が良い例です。番組の紹介にこうあります。

「比較的簡単に父母になり、簡単に解消できるアメリカの養子縁組制度。毎年養子となった子どものうちの2万5千人が捨てられているという。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く」。https://www.facebook.com/satooyarenrakukai/videos/20161027-bs世界のドキュメンタリー捨てられる養子たち/1820006938239263/

報道も警告も、すでにされている。

「比較的簡単に父母になり、簡単に解消できる」社会がすでにある。家庭を「簡単に解消できる」社会の入り口に何があるのか、よく考えてほしいのです。その道筋を見極め、日本は踏みとどまってほしい。私の願いは、ただそれだけです。)

大人たちの心の貧困を「子どもの貧困」と名づける無頓着さも、実は非常に問題です。

子育てを「社会」の責任にした上で、その「社会」の正体を曖昧にし、たらい回しのように責任を回避している。子どもにとっての「社会」の主体は母親です。子どもに聞けばわかること。幼児たちの「神性」を守っている人たちをみんなで守って、「社会」というものの輪郭が定まってくる、それが人類の歴史なのです。

0、1、2歳児と時間を過ごすことは、「人生をどう生きるか」という問い掛けが、懇切丁寧に行われることでした。

言葉の領域を超える「詩的」な問い掛けは、感性を保っていなければ聞こえない、美学の領域での語りかけなのですね。

私が、親や、中学生、高校生、場合によっては教師たちにまで「保育士体験」を進めるのも、一日幼児たちに囲まれることで、自分が持っている感性、この詩的領域におけるコミュニケーション能力を取り戻すきっかけになるからです。「どう生きるんだい?」という問い掛けが聴こえてくる。その問いかけが、すなわち自然治癒力だった。

いい保育者に守られ集団になった幼児たちは、詩的領域そのもののように生きていて、砂場の砂でさえ幸せになれる。

信じ切って、頼り切って、幸せそう。宗教が示唆してきた道筋、利他の幸福感を育てるこのフィールドに立てば「子育てとキャリアの両立」なんて言葉は、もはや成立し得ない。

人間は、生きているだけで喜ばれる。

新美南吉の書いた「手袋を買いに」という話があります。この話を、五歳になった我が子に読んだ時のことを覚えています。二人で雪の中で過ごした時間、あーっと思わず顔を覆ってしまい、母子狐とホッと胸をなでおろした瞬間が人生の中心にあって、そこを基準に、私は考えている。そうしていれば、「社会進出」や「自立」などという言葉の罠には引っかからない。

一日保育士体験を市の方針として進めていた茅野市の公立園長先生、主任さんたち三十人くらいと、年に一度の経過報告を兼ねて、輪になって話し合っていた時のことです。

一人の主任さんが、「保育士も一日保育士体験をやるんですか?」と質問したのです。幼稚園が一つしかない茅野市では、幼児を育てている保育士さんはみな自分の子どもを公立の保育園に預けているのです。

すると、一人の園長が間髪を入れず、

「当たり前だよ、子どもが喜ぶんだから」と言ったのです。

みんな、一瞬ハッとして、「そうだった」と納得です。

保育の心が定着して来た、と私は嬉しくなりました。横で聴いていた役場の部長さんに、もう大丈夫ですね、と囁きました。

(日本という国は、人類にとって大切な選択肢です。その価値をわかってほしい。そして、人間は子どもを可愛がっているだけで、幸せに生きられる。そのことに気づいて欲しい。)

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混乱の中、竹の笛を吹く。

混乱の中、まだ竹の笛を吹く。

その方法が残されていることは、すごいこと。感謝すべきこと、と自分に言い聞かせます。

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8/15(月)IAM「グレート・Re・スタート」~終戦記念の日に~

Open 18:00 Start 19:00 21:30終演予定

予約・当日¥6,000

Jz Brat HP予約はこちら≫https://www.jzbrat.com/liveinfo/2022/

Knob(ディジュリドゥ,石笛,祝詞)

松居 和(尺八)

菅原裕紀(per)

塩入俊哉(p,synth)

 

77年前のこの日、この国は戦争を終えました。

しかし、世界では依然争いの火種は拡がりつつあります。

戦争、原爆、地震、津波、火山噴火、、、様々な苦難を超えて今ある日本。

先人たちへの祈りを響きとし、これからも命を尊重する人間性を持ち続け

共に在る今より、、、ご一緒いただけたら有り難いです。

IAM YouTube動画      https://youtu.be/nybuILclzK8

「子育てしているフリをする人」に対する子どもたちの怒り

「子育てしているフリをする人」に対する子どもたちの怒り

 (「ママがいい!」、ぜひ、読んでみてください。読んでくれそうな人に薦めてください。賛同できない論旨があっても、保育という仕組みと学校教育がこれ以上持ちこたえられない、という「からくりの崩壊」と、その背後にあった強者の身勝手な論理は理解してもらえるかもしれません。)

「先生」と名のつく人をまったく信じない、始めからその人を疑っている子どもがクラスに一人居れば、学級崩壊は起こります。他にも数人いる大人を信じない予備軍たちの引き金を引いてしまう。

あの子さえいなければ大丈夫だったのに、何とかやり過ごせたのに、と思っても、次々に「あの子」たちが現れる。担任が、その理不尽さに追い詰められていく。

突然、先生の言うことを断固として聞かなくなる。白といえば、黒、右といえば、左、拒否の仕方が尋常ではない、理屈がまったく通用しない子が現れているのです。優しい「いい先生」に対してもそう。母親の言うことは聞く。勉強もできないわけではない。

この現象に、「子育てしているフリをする人」に対する、子どもたちの怒りを感じるのです。

彼らの短い人生で、いつ、反発や悲しみが、絶望や怒りに変わったのか、人間不信が決定的になったのか、誰も知りえない。その「誰も知り得ない」ことが許せないのだろう、と思います。

誰も責任を持たない、責任を共有できない仕組みの中で育ってきて、決定的な負の「記憶」が行き場を失い彷徨い始めている。

幼い頃にあった、「先生(保育者)」によって行われた、たった一日、たった数分の、「有ってはならない」出来事を一生抱え、苦しみながら生きていく子どもたちがいる。(場合によっては、その子たちが保育士や教師になって陰湿なイジメを繰り返す。義務教育という仕組みの中で、親が絶望的になる瞬間が増えている。教師不足という足かせで、校長先生もそれを止めることができない。)

愛そうとした人に繰り返し裏切られた体験を心に(PTSDとして)刻まれ、強者によって弱者が苦しめられる光景を「子育て」の原風景として見続けた子どもたちが、相当数、学校にいる。その中から、救われることさえ求めない子どもたちが現れている。

熱意と努力ではどうにもならない、「傷の記憶」を共有できない子を数人受け持ったら、幼児期を知らない担任にはどうしようもないのです。もし、担任がそこで努力をやめ、人生を諦めてしまえば、その子たちの存在は周りの子どもたちの人生をも変えていく。

義務教育が諸刃の剣になろうとしている。

保育士の虐待「見たことある」25人中20人 背景に人手不足、過重労働…ユニオン調査で判明(東京新聞):https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/8494/

この状態がいまだに続いているのです。

それから四年、先日も、「トイレ閉じ込め…:娘の心に傷。保育園、数は増えたが」(朝日新聞)という記事が載っていました。この状況を幼児に強い続ける限り、予算を増やして待遇を良くしても、保育・教育における人材確保はもうできないし、質の低下は続いていくのです。

学級崩壊という現象で、子どもたちが何を「伝えようと」しているのか、よく考えてほしい。質より量の、政府の馬鹿げた「子育て支援」「社会で子育て」施策が、その根本にあることを見極めてほしい。

「社会で子育て」を主張してきた「保育の専門家」は、それでも、作り過ぎで定員割れを起こし経営が危ぶまれる保育施設に関して、新聞のインタビューに答えて言うのです。

保育園の数を増やし待機児童がなくなったので「一定の成果はあった」。「家庭で子どもを育てることに不安や疲れを感じる人たちにも、保育が必要になってきている」、「保育園の柔軟な活用が求められている」と、更なる規制緩和を提唱するのです。

彼らの言う一定の成果、「保育園の数を増やし待機児童がなくなった」ことの陰には、無資格でも保育ができ、パートで繋いでもいいという、幼児たちの記憶を細切れにする規制緩和があった。補助金で誘い、幼稚園を保育園化する動きがあった。十一時間保育を標準と名付け、子どもの側からは「成果」と呼べない、母子分離の推進があった。

幼い兄が妹と、姉が弟と、過ごす権利が奪われていったことなどには、誰も目もくれない。兄弟姉妹という一生の「縁」が、この時期に結びつくことの大切さを、誰一人言わない。その時、何が失われていったのか、想像力を働かせる者たちはほぼ皆無だった。

「こんなのは『子育て放棄支援』です」と保育士たちが憤った、国による保育界の良心の破壊が、その「成果」の陰にはあった。

その上での「柔軟な活用」は、いま以上に保育をサービス産業化していくだけ。「こども家庭庁」が、保育学者とサービス保育の生き残りのため、票集めに子どもたちの日々を犠牲にした政治家たちの延命作戦の場にならないことを祈ります。

「教員不足深刻、潜在教員活用へ(文科省)」読売新聞

https://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyoiku/news/20220713-OYT1T50181/

潜在保育士を掘り起こせ、と厚労省が動いた時、行政主導のマッチメイキングで、集まった園長設置者の方が潜在保育士より多かった閑散とした会場を思い出します。なぜ、心ある人間が「潜在保育士」になってしまうのか理解していない。資格があれば保育ができると思っている「保育の専門家」たちが、親の意識の変化が問題の根底にあるとわかっていない。

「ママがいい!」という言葉に目を背けているかぎり、流れは変わらない。

教師不足も止まらない。

 

 

姉弟

 

「幼稚園でもらっためずらしいおやつ、

こうちゃんにもあげたかったの」

お姉ちゃんがそっと小さな手を広げると

にぎりしめたワタアメが

カチカチにかたまっていた

 

「ひかりちゃんがいないと、つまんないわけじゃないよ

ただ、さびしいだけ」

私と二人だけの部屋で

弟は たどたどしくうったえた

 

人間は

かたわらにいる人を 愛さずにはいられない

幼い子供から それを教わる

 

by 小野省子

 

 

『ママがいい!』重版出来! の知らせをもらいました。

「ママがいい!」、出版社から、重版出来、の知らせをもらいました。

色んな方に読んでもらいたい。これだけは知ってもらいたい。なぜ学級崩壊が止まらないのか。教師の成り手が減っているのか。少子化が進んでいるのに「児童虐待が過去最多」の現実。

日本の将来をここから考えてほしい、という思いで書きました。反響が嬉しいです。推薦、どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

『ママがいい!』重版出来!

本書は、何人もの方から「良い本を出してくれた」とのお言葉をいただきました。わざわざこうした言葉をくださることは意外に少ないんです。

幼児教育に携わる方はもちろんですが、

作家先生、大学の先生、研究者、ソーシャルワーカーさんなど、世の中を俯瞰的に見ておられる方が共感してくださったことも、嬉しいことでした。

ある名刹の老師の奥様は、この本の内容をもっと多くの人に知ってほしいと、たくさん買われて自ら手紙を添えて方々に送ってくださいました。

著者の松居先生は、できるだけ多くの方にこの現実を知ってほしいとSNSで発信されてます。

それをシェアしていただいた方のおかげでもあります。心より感謝いたします。

グッドブックス:良本 和恵

https://good-books.co.jp/books/2590/  

 

守り神

 

守り神(数年前の話です)

車で2時間ほど走って、ある公立保育園に講演に行きました。お父さん2人お母さん20人くらいに話をし、その後、お昼に給食を食べました。

園長先生が用意してくれた私の席は、ダウン症で知的障害を持っているK君と、自閉症のR君、そしてR君のお母さんと四人で食べる席でした。K君は両親が離婚して父親がいない家庭で過ごしていることもあってか、園についた時から私にくっついていました。

K君は、実はほとんど職員室に住んでいて、主に園長先生が見ているのです。私を園に迎えてくれたのも園長先生とK君でした。

お母さんはあまり園に寄り付かず、園に預かってもらえるかぎりの時間、預けていました。園長先生が熱心に薦めてくれたのですが、講演会にも現れませんでした。R君のお母さんが、K君とK君のお母さんの世話を色々やいてくれているそうです。二人とも来年学校へ行くので、色々しらべて、特別支援学校に二人で行こう、とK君のお母さんを誘っているのです。

K君と過ごす、お昼を一緒に食べる。ほんの1時間くらいだったのですが、私が10歳くらいから色々身に付けてきた世渡りの術は、ほとんどK君には役に立ちません。私の本質しか見られていないような気分です。磨いてきた技術や知識ではどうにもならない、裸にされたような感覚。たぶん、園長先生はこの時間を私に過ごさせたかったんだ、と思います。

すべての人間がパズルのように組み合っている。そう言葉で言うだけでなく、実感させたかったんだな、と思いました。 

保育園とK君が、ギリギリのところで、人間が助け合う絆を育てている。

障害児、障害者、認知症のお年寄り、三歳未満児、どんな時代にも、この人たちは社会の一部として居ました。「専門家」が現れ、名前がつきましたが、以前は名前をつけて分類しなくてもいいくらい、普通に居ました。人間社会は様々な命の組み合わせで成り立ってきた、その証しだったのです。

古典落語の重要な脇役「よたろうさん」は、いまの分け方から言えば障害者でしょうか。そして、昔話や民話の主人公に多いのが怠け者です。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見負担になったり、一人ではなかなか生きられないような登場人物と、パズルのように組み合わさってみんな生きてきた。その人たちの重要性や役割がそれとなくわかっていたから、度々昔話や民話に主人公になって現れたのでしょう。

パズルの組み方を学ぶために、0歳1歳2歳児とのゆっくり時間をかけた付き合いが必要だったのではないか。歩けない、喋れない、トイレに行けない、一人で食べられない0歳児と全員が落ち着いて付き合うことで、寝たきりのおじいちゃんにも存在意義があることや、人形や子守唄にも独特な意味があることを感じる。まだ発達していない1歳児2歳児と不思議な時間を過ごすことで、認知症のおばあちゃんや障害を持っている人たちの役割に気づく。この人たちを理解すること、というより、「理解しようとすること」が命の存在意義と理由を人間たちに教えてきたのだと思います。

だからそれは最近まで、逃れられない、選択肢のない、人類には必須の責任だった。

そのあと東京に戻り、自民党のK代議士の「励ます会」に行きました。

年に一度くらいですが、こういう会の招待状をもらいます。四期目のK代議士には内心期待しているので、都内のホテルへそのまま運転して行きました。元総理大臣、元防衛大臣二人、いつもテレビで見る方々が次々に面白おかしく反対政党の批判をし、挨拶をしました。会場は、ほとんど背広にネクタイ姿の男たちで埋まっていて、熱気が立ち上っています。知り合いの代議士の方も数名いました。

テレビのカメラが来ていました。問題発言でも起きないかねらっているのでしょう。かなり、可笑しな風景です。こういう関係の中で、誰かが儲けている。

いまこの瞬間、保育園で園長先生とK君とR君のお母さんがこの国を浄化しようとしていることを、ここにいる政治家やマスコミ、背広にネクタイの男たちは知っているはずがないのです。

立食の食べ物をもぐもぐ食べながら、ブツブツそんなことを考えていると、司会をしていた、K代議士の親友の熊本のK代議士が、わざわざ私を探しに来てくれて、友人という香川の代議士を紹介してくれました。そして、香川でも講演することになりました。

両界曼荼羅。K君がK代議士を照らす時がいつか来るでしょうか。

守り神はそこにいる。

私に反射した関係であっても、K君はみんなを照らすはず。

(あれから十年が経ちました。その間、保育界がどれほど仕組みとして傷つけられ、学校が追い込まれていったかを、私は7冊目の本に書きました。「ママがいい!」という本です。)

K君、園長先生、R君のお母さん、みんなどうしているでのしょうか。

背広にネクタイの男たちは、いまだに同じことをやっている。あの熱気に担がれる時間が長くなると、世界中のリーダーたちの抑止が効かなくなってくる。

知り合いの代議士たちの顔を時々テレビで見ます。いまだに国防の本当の最前線を守っているのは、K君や園長先生、R君のお母さんのような人たちなのだ、ということを理解していないのでしょうね。

長時間保育の推進と、質を下げる規制緩和で状況はますます悪くなっています。前線は広がるばかりで、K君、園長先生、R君のお母さん、の三人ではこの国を守りきれない。

 

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