#6 「資格」が学校教育を危機に導く

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#6 「資格」が学校教育を危機に導く

就職しても、年度途中に(あっさりと)辞めてゆく若い保育士が増えている。思い悩んで、精神的に追い詰められて、または直感的に良心に従って辞めてゆく人もいる。毎年3割の保育士が変わり、市議会で、いったいどういうことなのかと問題になったりする市もある。派遣保育士の値段がつり上がってゆく。

保育界に限らず様々な業界で、新卒者の忍耐力、責任感が希薄になっているというのはよく言われること。平均的に三年以内に3割の新卒就職者が離職をするという。

問題なのは、保育という仕事がただの「仕事」ではないということ。環境が安定していることが第一条件としてある。3歳未満児が親、または祖父母や親戚でも村人でもいいのですが、特定の保護者と継続的に愛着関係を育てることの大切さは、人間、誰でも知っていたこと。だから、ユニセフの子どもの権利条約にも「児童は、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する」と書いてある。

資格取得の段階で、ほとんど篩(ふるい)にかけられていない、園児たちのことを優先して考えられないような学生が、簡単に「子育て?」の「資格」を取れるようになっている。

そして、明らかに保育士の国家資格を「子育て」の資格とは認めてはいけない状況下に、国は「子育て」を保育士に任せるように親たちを誘導している

もし国が、11時間保育を「標準」と名付け(これも、子どもの権利条約違反だと思いますが)、これほど経済施策を急激に保育界に依存しようとしなければ、保育界はもう少しゆとりを持ち、その質をもうしばらく保てたのかもしれない。

いまさら、保育指針に「教育」という言葉を入れたり、3歳未満児の発達の重要性を書き加えても、保育士の質を資格取得の段階から落としているのだから焼け石に水、保育士を募集した時に倍率が出なければ、どんな人でも雇うしかない。資格を持っているというだけで雇わなければならなくなる、選べなくなる。政府の「やったふり政策」によって、悪循環が進んでいます。

保育士は、保育を「仕事」と考えることで辞めることができます。自分の人生を優先して考えることもできる。しかし、親はそうではない。基本的に、一般的に、「辞める」ことができない。それが私たちが進化するために、または安定的に社会を築くために、与えられた条件です。特に哺乳類の場合は、子どもを優先にしないと自分の本質を体験できないような仕組みになっている。そのことの意味と、違いを理解していないことに、いま政府が進めている保育施策の致命的欠陥がある。施策を決めている人たちが人間性と社会の関係性を知らない、子育てを包む心の動きを理解していない。

(子どもの権利条約に「子どもの最善の利益を優先する」ことと、子育ての「第一義的責任が親にある」ことが、同時に書かれていることには意味がある。この二つが尊重されなければ、人間社会は成り立たない。健全な状態を保つことが難しくなる。)

保育者養成校の学生の質の低下の問題は、実習生たちを受け入れている幼稚園・保育園に聞けばわかります。厚労省も当然知っている。養成校の教授たちは全員知っている。

真面目な学生たちが、同級生のいい加減な態度を見て、なんであんな学生に資格を与えるんですか?ちゃんと試験をしてほしい、と訴えてくる。伝統ある認可園に一週間実習に行っただけで、子どもを叩いたり、怒鳴ったりする習慣を覚えてしまう同級生を見て、保育園の格差の実態を知ってしまう。先輩から、あの園に実習に行ったら保育士になる気がなくなるよ、と園名の伝達が行われていたりする。そうした混乱の中で、保育「資格」が形骸化してゆく。それを親がちゃんと知らされていない。それを知らせると、政府が困るから。

資格を与えなければいい、だけのことです。でも、少子化も重なり、それをすると受験者が減って養成校ビジネスが成り立たなくなる。政府の経済施策で、高等教育を中心に、国全体が「弱者の最善の利益を優先する」「利他の心」を忘れ、子育てが自転車操業になってきています。

そうした状況の中で、火に油を注ぐように、ネット上に「保育園開業マニュアル」、いま儲けるなら保育園、といったビジネスコンサルタント会社の宣伝文句や、保育士転職の仕方マニュアルが幼児たちの頭越しに飛び交っている。

その先にあるもっと恐ろしいネット上の子どものやりとりが、市場原理先進国アメリカで、里親という形ですでに始まっている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2083

自分の園の保育士に、養成校時代の同級生、知り合いの保育士を引き抜いて来れば一人五万円出す、と園長が平気で言ったりする。他園の園児たちの日常などどうなってもいい、と宣言しているようなもの。東京のある区長が、税収や財源があるからと言って、月8万円の住居費補助で他県から保育士を青田買いしようとする。待遇改善と言いながら、実は強者に有利な、保育士の奪い合いが始まっている。これが政府の進める市場原理の結果です。「保育は成長産業」と位置付けた閣議決定のたどる保育界の姿です。それがすなわち、国の勧める「子育て」の姿を現している。

大人の都合を優先して、子どもたちの「気持ち」を考えない、自分たちの利便性と損得しか考えない、この強者本位の流れが迫っているのを、いい保育士は見抜いてしまう。子育てが社会の一部ではなく、ビジネスの一部になろうとしているのが見えてしまうのです。だから「いい保育士」も、あっさり辞めてゆくのかもしれない。

「あの人、変、」と幼児が怖がって寄り付かないような保育実習生が園をうろうろする。その風景が、学校教育という仕組みの終焉を示唆しています。

(毎年、保育関係者を中心に全国で講演しています。主に保育界で起こっていることを報告している私のツイッターに、こんな文が返ってきます。@kazu_matsui)

『うちの職場にも「(俗にいう)使えない人材」が採用されています。「子どもなら、自分の自由に動かせる」と非常に恐ろしい考えを、何の躊躇なく話してた彼ら。退職したり、配置転換し、現場から離れましたが一緒に仕事してる時は生きた心地しませんでした。』

『最近の実習生を見ていて、まさに実感しています。『子どもが好き』だと思えない学生が多い。新卒の保育士も同じ。なぜ保育士になったのか?と思ってしまう。結果、新人は注意されればすぐ退職していく。残された保育士の負担増であり、悪循環…』

『トイレから出てこなくなってしまった実習生を引き取りに来た母親の「保育士だったらなんとかなると思ってたのに」という一言は忘れられないけれど、一緒に来た担当講師の「なんとか二週間頑張れば資格とれたんですけどね」という言い草には腹立ちより呆れ。その講師はその養成校の卒業生と聞いて納得。』

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

#5 「高等教育」に「人づくり」ができるのか?

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#5

「高等教育」に「人づくり」ができるのか?

「人づくり革命」を目指す政府の「新しい経済政策パッケージ」「高等教育は、国民の知の基盤であり」という言葉が書かれています。本当にそうなのでしょうか。

幼児たちを保育する人を育てる保育者養成校は、高等教育の一つです。国の将来や、人々が安心したり、幸せを感じる社会を目指す、それに必要なモラルや秩序の存続を考えれば、四年生の国立大学よりもよほど身近で重要な役割を担う「高等教育」と言ってもいいでしょう。

いま、進んでいる「保育崩壊」の一番危ない現実は、保育士不足とともに、保育士養成校の授業と学生の質の変化が急速に落ちてきている点ある。国の言う「保育ニーズ」に反比例するように、何人も他人の子どもたちを長時間任せられる人たちがこの種の「高等教育」の中で育たなくなってきている。それは、実は保育士だけではなく、教師も、企業に勤める人たちも、親たちも、社会全体が、そうなのかもしれません。「教育」という言葉がもっと大切な「人間が育ちあう」「体験を分かち合う」という人生の意図を覆い隠し、わからなくしているからではないか、そう思えてなりません。

女性の社会進出という言葉が使われる時に、(本当はそれは「女性の経済競争への参加」に過ぎないのですが)子育てによって女性の自己犠牲が促されている、みたいなことが言われるのです。女性だけが、という不平等感に対する反発があるのかもしれない。しかし、文脈からは、「自己犠牲」が良くないもののような響きが聞こえる。もしそうなら、仏教もキリスト教も、長い間一体何を人々に「薦めて」きたのか。

「子育て」は、自己犠牲が幸せにつながるという「宗教」の教義を、その宗教が地球上に現れる以前から支えてきた進化の法則です。それがいま一般論として否定されようとしているから話がややこしい。高等教育が「経済」を支えようとするからこういうことになる。これではネズミ講のネズミが増えるばかりで、社会は安心と平和からますます遠のいてゆく。

定員割れしそうな養成校に、高校で進路を指導をする一部の教師たちが、様々な問題を抱えた生徒を送り込んでいる。「子ども相手ならできるでしょう」、「ここなら入れるよ、そのまま就職にもつながるから」と、安易に、または熱心に、薦める、指導する。それが仕事だから、「教育?」だから。

進路指導の教師たちが数年後その進路の先にいる幼児たちの時間の質をほぼ考えない。教育の分業化が進み、「子育て」という一本の筋が見えにくくなる。幼児たちがいま過ごす時間の質が、将来自分たちの「教育の質」に関わってくることを考えない。これが仕組みとしての「高等教育」の欠陥であり、実態になりつつある。

高等教育に関わる人たちが、子どもの幼児期における人間関係や環境がその子の人生に与える影響の大きさについて知らないのか、教えられていないのか、興味がないのか。

仕組みとしての高等教育が「子育て」から離れはじめ、人間の想像力を失わせてゆく典型的な姿です。

高等教育が自らを破壊し始めている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1478

3歳までは親が育てる、その後も子育ての主体が親という「幼稚園」ならまだ影響は少ないのかもしれません。園生活の中に悲しみや苦しみがあれば、3歳以上児は、たぶんそれを言葉で親たちに伝えることができる、そう思いたい。

しかし、政府が3歳未満児を保育園で預かることをこれほど強く奨励しているいま、誰でも養成校に入ることができ、ほぼ全員が国家資格を取得でき、誰でも採用する、採用せざるを得ない仕組みがその先にあって、そこに人間の信頼関係に包まれて成長すべき0、1、2歳児が居ることを、高等学校の進路指導の教師が意識しなくなっていることに社会として気づいて欲しい。「高等教育」という仕組みの中で、自分の立場と責任を高等教育をする人たちが理解していないということ。

教育や子育てにビジネスやキャリアが絡むと、必ずこういう現象が起こります。教育が産業に隷属し始める。

技術や情報を伝えることに加え、国が真剣に、「人づくり」を高等教育に求めるのであれば、その意図は、「保育資格」を巡って起こっている「この実態」によってすでに崩れている。

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー

ちびっこランドこやま園の記事

三年前なので、もう忘れている人も多い事件ですが、ちびっこランドこやま園の記事:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=263

園長は、調査に対し「たたいたことはあるが、虐待という認識はなかった」と話している。保育者が幼児をたたくということがどれほどの重さを持つか、それが幼児に対するどれほどの裏切りか、園長が理解していないような状況、仕組みを三年前からすでに国が作っている。(許している?)

こういう園長が存在できる状況を規制緩和で作っておいて、それが「待機時対策」優先でしっかり取り締まれていないから、いい保育士があっさり辞めてゆく。

大手株式会社が三割増しで保育士を募集するということは、毎年三割保育士が辞めてゆくこと。こうした営利優先の一部企業や社福の保育士の使い捨てが、保育界全体を追い詰める。
何より怖いのは、それと並行して、「保育は成長産業」という閣議決定がされていること。