「捨てられる養子たち」里親について。教え子からの手紙・未来の現実

里親制度について、教え子からの手紙

松居先生
先ほどNHKのドキュメンタリーを見ていました。場所はアメリカ…。
施設から引き取られて養子縁組し育てられていたのに、親が途中で養育を拒否し家から追い出すため、インターネットを通じて新しい親となってくれる人を募集するというものでした。『リホーム』というのだそうです。
番組冒頭で里親希望の親たちの前をさながら品評会のように子どもたちがウォーキングさせられていました。
新たに引き取られたにしてもそこでまた養父母に捨てられ新しく親になってくれる人を養父母に勝手に決められ、たらい回しにされていく、という話でした。
この間、仲介者にはお金が入ります。里親となる人の中には性的支配のためとしか言い様のない大人もいます…。

純粋に自分に愛情を与えてくれる人だと信じきっている子どもの心は深く傷付き大人を信じる事が出来なくなりまた新しい養父母との間に問題を起こす…。

先生の講演などでアメリカの実状はぼんやりイメージにありましたが実際にパソコン画面に写し出される『家族が必要です』の文字と共に笑顔で写っている子どもたちがを見てなんとも言い難い感情が沸いてきます。

先生のいつも仰る、幼児が信じきって頼りきってという愛ある社会のあり方とは真逆です。

アメリカ社会を追う日本もこんなことにいつかなってしまうのでしょうか。

ほんとうにセンセーショナルでした…。

 

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ーーー(ネット上に番組紹介とyoutubeの映像がありました。

https://www.facebook.com/satooyarenrakukai/videos/1820006938239263/

https://www.facebook.com/watch/?v=1820006938239263

捨てられる養子たち (NHK:BS世界のドキュメンタリー)

  • 2016年10月27日(木)午前0時00分~
  • 2016年11月3日(木)午後6時00分~

簡単に養父母になり、簡単に解消できるアメリカの里親制度。毎年里子となる10万人のうち2万5千人が捨てられている。子どもをペットのように扱う社会の暗部を描く。

体育館に敷かれたカーペットの上を歩く子どもの姿を、両脇で見守る里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログが。簡素な手続きで身寄りのない子どもを引き取ることができるアメリカだが、その一方で深刻な問題も。14歳でハイチから引き取られたアニータは、5回目の引き受け先が8人の養子を持つ家庭で、養父は小児性愛者だった。育児放棄や虐待の結果、心に深い傷を受けるケースも少なくない。その実態に迫る。

  • 原題:DISPOSABLE CHILDREN
  • 制作:BABEL DOC production (フランス 2016年)

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日本で里親制度の普及を進めている人たちは、まだみんないい人に違いないのです。それはわかります。私の教え子の中にも、子どもたちの幸せを願って、頑張ってこの制度を広めようとしている人がいます。

しかし、このドキュメンタリーで報道される先進国社会で起こっている現実、子育てが、家庭から「仕組み」に移行する過程で起こる正常とは思えないやりとりは、そうなってはいけない日本の未来だと思えるのです。アメリカという4割の子どもが未婚の母から生まれ、毎年80万人の子どもが親による虐待で重傷を負う異常な社会で起こっていること、と簡単に片付けてはいけない、日本という国に住む私たちへの、未来からのメッセージだと思うのです。このドキュメンタリーが語る子どもを守れない「法規制の不備」は、福祉や教育で補いきれない家庭崩壊を市場原理に任せようというほぼ意図的な(必然的な)ものだということ。それが、日本で政府が行っている保育の規制緩和と重なっていることに気づいてほしい。

(アメリカで未婚の母から生まれる割合は、30年前にすでに3割に達していました。このドキュメンタリーを作ったフランスでも、現在5割です。欧米で、すでに家庭という定義が崩れ、本来の機能を果たさなくなっている。そうなった時に、「子育て」を中心に何が起こるのか。「里親希望の夫婦たち。その手元には子どもたちの写真入カタログ」という、この風景が違和感を失った時に、人類はどうするのか。人間社会はどうなってゆくのか。)

私は、この番組で浮き彫りになる里親制度の行き着く先、矛盾と歪みを、渡米した1980年代からアメリカでドキュメンタリーやニュース番組を通して繰り返し見ました。儲けるために里親制度を利用したり、質の悪いマッチングから起こる虐待や近親相姦。家族という、選択肢のないことで育ち、育てあう信頼関係の土台を斡旋する側が商売にしていることの弊害。テーマは様々ですが、報道はされ続けているのです。それでも、状況は悪化するばかりです。

「子どものため」と言いながら、そこには当時から一つの「市場」ができていて、それはいつか「子どもを守るために必要」な仕組みにさえなっていました。(このあたりが、いま日本で始まっている保育の市場原理化という動きと重なっている。)

そして、このブログにも書き、このドキュメンタリーの中でも指摘されていた胎児性アルコール症やクラック児の問題(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1428)、子育てが実は母親の胎内から始まっていて、「個別的継続的な養育者との関係」の欠如から、人類が体験したことのない、新たな悲劇の形が生まれている。

 

人間が助け合うことは、人間性の形成に絶対に必要で、それがより一層社会の絆を強くする。不幸な子どもが居れば、必ず周りが助け、親身な絆が維持され続ける、それが長い間、人間社会の土台でした。

しかし、制度としての里親制度は、それが普及するほど時間の経過と共にその不自然さが人間の持つよくない人間性と不幸な連鎖を生み始める、それを私は30年間のアメリカ生活の中で見てしまったのです。弱者にとって不幸なこの仕組み上の展開の仕方は、義務教育の普及や保育といった、子育てに関わるすべての仕組みに共通した「仕組みによる子育て」で起こる負の連鎖と同種のもので、人間社会が家庭・家族・血縁といった長い間の常識や土台を失い始めることがいかに致命的かということを知らせてくれるのです。

私のアメリカ人の友人にも里子をもらった人たちが数人います。裕福で知性のある人たちでした。そのプロセスを見ていて、「We are lucky to have this one.」という何気ないつぶやきや笑顔、肌の色によって存在する縁組み費用の格差などにアメリカでは日常的な、しかし日本人である私にはとても違和感のある会話がいくつかありました。

だから、日本で「里親制度」が欧米に比べ普及が遅れている、もっと広めるべき仕組み、社会の変化と価値観の多様化の中で必要不可欠な進歩であるかのように報道されることに、秘かに納得がいきませんでした。

「待機児童をなくせ」「子育ての受け皿を増やし、女性の輝く社会を」と言う人たちの、保育の現実を知らない、幼児たちの願いを想像しない主張にも同じ流れを感じるのです。この人たちは、そういう主張の先に何があるか見えていない。

そうした強者による主張の向こう側には、必ず市場原理が待ち構えている。家庭崩壊が社会の常識のように受け入れられたアメリカという国を見た私には、「慣らし保育」の風景、生まれて初めて親から引き離される幼児たちの叫びなど聴いたことのない人たちの、保育園を作ることがあたかも正義のような報道があまりにも無責任に思えて、憤りさえ感じるのです。そして何より、あからさまに、保育を「成長産業」と位置付けた閣議決定の異常さに背筋が寒くなるのです。

(いま、保育界を保育士不足による質の低下に追い込んでいる「子ども・子育て支援新制度」が始まる時に、その時点で待機児童が二万人しかいないにもかかわらず、あと40万人幼児を保育所で預かります、と首相が国会で言った。政府は、国民を人間として見る前に「労働力」(戦力)として見ている。だから、労働しない幼児の姿や、その気持ちが見えてこない。老人は「票」を持っているのでまだ視界に入っている。でも、幼児という、国の未来を担う人たちの「気持ち」「願い」が国の施策の上で後回しになっている。こういう状況では、やがて学校教育が成り立たなくなる。そうならないように、中学生くらいから、幼児たちの本当の役割を繰り返し伝えていきたい。保育の現場で、親たちの「子ども優先」の気持ちを耕していきたい。)

 

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「深夜のメッセージ」

再掲なのですが、以前、別の教え子からこんなメールが届きました。

「音のない一日。学生時代の教本とその続本を読みます。あの頃の先生の授業『深夜のメッセージ』は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。」とありました。

「深夜のメッセージ」、私の二冊目の本「子育てのゆくえ」(エイデル研究所)か、一冊目の本(「親心の喪失」として再販)に書いた文章だったと思います。授業で使ったのです。

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25年前でしょうか。当時、ロサンゼルスで、深夜、奇妙なコマーシャルがテレビから流れてきました。それは不特定多数の「誘拐犯」に語りかけるCMでした。

 「もし、あなたが子どもを誘拐してしまったなら、この電話番号に連絡して下さい。警察には届けません。相談にのります」

こんなメッセージが深夜テレビから流れてくる社会がある、数字から見る現実とは違った驚きがありました。アメリカという社会を象徴している、と思って本にも書いたのです。

当時、一年間に誘拐される子どもの数が10万人、その多くが親による誘拐。養育権を失った親が、自分の子どもを取り返すために誘拐する、というケースでした。親による誘拐とはいえ、れっきとした犯罪です。捕まったら刑務所行きです、逃げる方も必死です。州を越えた犯罪は連邦警察(FBI)しか捜査できない状況で、誘拐された方の親の9割が子どもと二度と会えないのが現実でした。身代金を求めての誘拐なら、子どもが見つかる可能性が高い。しかし、家族を求めての誘拐はほとんど解決できない。実際は、親による誘拐かどうかも判断できないのです。年に10万人の親たち(人口比で割れば日本で毎年4万人の親たち)が、子どもを一生失う、それがアメリカの現実でした。そして、子を失った親たちの悲痛な願いが、CMという形で深夜、流れてきたのです。

その頃、アメリカで幼稚園に子どもを行かせると、必ず「子どもの指紋を登録しておきますか?」と園から聴かれました。誘拐され、何年もたって姿や顔つきが変わってしまってから見つかった時に確認するための手段です。それもまたアメリカの現実でした。

私の教え子は、学生のころ、その状況にリアリティーを感じなかったのでしょう。でも、20年後、日本で幼稚園教諭を経験し、発達障害児の支援をしながら、『「深夜のメッセージ」は何を意味していたのか今ならしっかり理解できます。』と書いてきたのです。

最新刊「なぜわたしたちは0才児を授かるのか」(国書刊行会)に、私がアメリカという国の入口で出会ったエピソードについて書きました。42年前、当時小学校の五年生だった従姉妹に、ある日、「学校ではどんなことを友だちと話すの?」と聞いたのです。すると、いまでは医者になっている利発な従姉妹は、

 「そうね、今度のお父さんは、とか、今度のお母さんは、という話が多いね」と言ったのです。

小学五年生の子どもたちの日常の話題が、今度のお父さん、今度のお母さん、であって、その会話を大人たちが聴いていない。

人類の根幹が揺らいでいる、しかし、人間はこういうことに慣れる。そう感じてから、先進国と言われるその国で、何が崩れようとしているのか、意識して観察するようになったのです。

その会話の数年後に、「深夜のメッセージ」が加わり、家庭を崩壊させながらも、それにしがみつこうとする、人間たちの性を感じました。裁判所の中でおこる発砲事件は家庭裁判所が一番多い、ということを知りました。その数年後に「Nation in Crisis」(高卒の二割が読み書きができない。学校が機能しない。)というアメリカ政府が「国家の存続に関わる緊急かつ最重要問題」と定義した学校教育の危機が明るみになり、私は次の年、義務教育の普及が家庭崩壊を招き、家庭崩壊は義務教育の崩壊につながる、という図式についての本を書きました。

義務教育が悪いと言うのではないのです。その存在自体が「子育て」を夫婦から奪う一歩になり、子どもが親たちの絆を育てることができなくなり、それが社会からモラルと秩序を奪うという、全ての欧米社会で起こったことを率直に書いたのです。

そして世紀末、「母子家庭に任せておくと犯罪が増えるから、政府が孤児院で育てよう」という『タレント・フェアクロス法案』の連邦議会提出が重なっていったのです。

この法案に賛成し「孤児院と考えなければいい、24時間の保育所と考えればいい」と発言した当時の下院議長が、前回の大統領選で、破れはしましたが共和党の指名をロムニー氏と争ったギングリッジ氏、今年もトランプ氏の副大統領候補として一時浮上した共和党右派の重鎮です。

 教育と福祉、そして家庭は共存することが出来るのか。落としどころはあるのか。

私が米国で見たいくつかの象徴的な出来事を並べれば、先進国社会が一律に進んでいる家庭崩壊の方向と、その結果の可能性はあるていど予測できる。日本はちがった道を進んでほしい。その義務があるような気がします。人類全体のために、日本はちがった道を試行錯誤してほしい。そう言い続けて30年になりました。