宇宙の相対性の中で/公園に幼児と座っていると






 私が一人で公園のベンチに座っていたら「変なおじさん」で、

 三歳児と二人で並んで座っていたら、「いいおじさん」です。

 宇宙の相対性の中で、三歳児は、そこにいるだけで私をいい存在にする。

 それが、人間を進化させる一番揺るがない絶対的な法則のはず。

 その繰り返しが、人間たちを育ててきたのだと思います。

 

 幼児たちは、自分がいれば、周りの人間がいい人間になるんだ、ということを感じ、その感覚を身につけて育ってゆく人たちだった。ひとをいい人間にする、という役割りを身につけ、できればそれを感じ、理解し、社会は成立していた。

 

 世論調査で動く政治家、ところが世論調査は乳幼児の思いを反影していない。

 有識者は情報を学んだり数字を分析しますが、幼児の願いを知識として持ち合わせていない。幼児の願いは感性、つまり想像力の領域に存在するものだからでしょう。

 弱者を見つめ、人間は想像力を磨かれ、その想像力の積み重ねで生きる指針と心を得てきました。


 以前、経済財政諮問会議の座長をやっていた学者が「乳児は寝たきり、幼児は野蛮人」と私の目の前で言った。

 厚生労働大臣が、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と言ったり、25万人の乳幼児を母から引き離す施策を、総理大臣が国会で「党の真骨頂」と言う。

 子育ての仕組みを変える「新システム論争」の中心にいて、「これまで親が第一義的責任を担い、それが果たせないときに社会(保育所)が代わりにと考えられてきましたが、その順番を変えたのです」と言っていた学者が、今度は国民会議のメンバーに選ばれる。

 選挙のために、テレビの討論が繰り返され、次の世代を育てることではなく、年金の多寡で将来の幸せを量ることが当然のように意識のなかに広がってゆく。選挙という闘いが、人々の意識を利権争いに導いてゆく。

 弱者というのは貧しいひとたちを言うのではないのです。貧しき者は幸いなれ、と聖書にもあります。欲を捨てて貧しさに釈迦は身を投じました。弱者というのは、一人では絶対に生きられないひとたち、そこにいるだけで人間をいい人間にするひとたちを言うのだと思います。




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