保育「業界」のモラルの低下

保育「業界」のモラルの低下

「こども誰でも通園制度」は海外では常識、という専門家の発言がAERAに載っていました。いい加減な発言、嘘です。

家庭、家族という概念が崩れ、未婚の母から生まれる確率が半数近くになっている国々では常識、と言うべきでしょう。母子分離をしないと経済が機能しない、「子ども優先」という本来の「子育て」の姿ではなくなっているのです。

そういう国々が選択した政府による母子分離は、同時に親心の喪失でもありました。その結果が、日本の二十倍から三十倍という犯罪率になって現れている。未婚の母の低年齢化が進み、「家族」という定義が完全に空回りしている。

日本の「今」は、欧米の六十年前の状況でしょうか。だからこそ、欧米を真似してはいけない。

加えて、まだ、保育園という制度を人々がほぼ体験していない「海外」が半数以上ある。この専門家が都合よく使っている「海外」から、州によって状況が全く異なる米国や発展途上国を除外して考えないと、悪質なフェイクニュース(偽情報)になる。

簡単に「海外では常識」と載せてしまうマスコミがいい加減すぎるのです。「意図的」な報道と疑いたくなる。それによって、保育界と学校現場が追い込まれ、壊れていく。

 

選択肢のない、主張できない幼児たちにとって不当な、社会学者や専門家による提言を「進歩」のように報道するマスコミ。「ママがいい!」という、幼児たちの願いは、いよいよ四面楚歌になっています。

「11時間保育を標準」とした閣議決定と、保育はパートで繋いでもいいという規制緩和が加わって、保育の質の低下はすでに直接学級崩壊に連鎖している。保幼小連携などと、机上の空論を学者が言っているうちに、親たちの責任転嫁、園に対する要求はますます激しくなり、教師不足がもう止められない。

水増し受給で、計画的に補助金を不正受給する保育「業者」が後を絶たないのです。

確信犯的な業者の参入で、子どもたちの日々と、税金がその餌食になる。私は、保育園を「業者」と呼びたくはなかった。しかし「保育は成長産業」という閣議決定が、こういう事態を招いてしまった。主導権を握っていると思っていた政府や行政が、補助金に群がる「業者」に手玉に取られている。

そして、イライラすれば預ければいい、という人類未体験の「共通理解」が広まっている。

業者には煩わしかった、「ママがいい!」という言葉が、親たちにとっても、煩わしくなり始めている。

「不正は氷山の一角?職員不足で実地検査回らず」

https://www.tokyo-np.co.jp/article/190872

「国や自治体が運営費を支給する認可保育所は原則、都道府県による年1回以上の実地検査が義務付けられている。だが東京都が実地検査を行ったのは、約3000施設ある認可保育所のうち2019年度で8・0%、コロナ禍の20年度は4・3%にとどまった。担当職員の不足などが原因とされる。区市町村にも実地検査の権限はあるが、今回の不正発覚の端緒になった豊島区でも2年に1回程度という。」

保育界における倫理観の低下は、子どもたちの日常、一家の人生、学校教育の存続に直接影響します。「担当職員不足で実地検査回らず」など、まったく言い訳にならない。保育の重要性を理解していないから、担当職員を増やさなかったのでしょう。国の保育施策、「子育て安心プラン」と同じです。経済優先の「受け皿」の拡大に引きずられ、児童虐待過去最多、不登校児童過去最多、引きこもり過去最多、という事態を引き起こして、今になってこども家庭庁などを作ってオロオロしている。子どもの意見を聞く、などと言っても、出発点にある「ママがいい!」という幼児の叫び、すすり泣き、「意見」を無視しておいて、やったフリでこれ以上誤魔化すな、と言いたい。

大人たちの権利、平等意識に煽られて、子どもたちに逃げ場が無くなっているのです。

1歳2歳で噛みつく子が増え、教師が止められるはずのいじめが小学校で止まらなくなっているのも、保育の質の低下と、親の意識の変化が、その延長線上にある。

こども家庭庁は、不適切保育をなくすためのガイドラインで、 「児童福祉施設の職員は、児童の心身に有害な影響を与 える行為をしてはならない」「子どもに精神的苦痛を与えることがないよう、子どもの人格を尊重するとともに、子どもが権利の主体であるという認識をもって保育に当たらなければならない」と通達を出しました。11時間保育を国が標準と名付け奨励することは、児童の心身に有害な影響を与 える行為であって、子どもの権利と人格を尊重していない、という意識がない。現場に対する説得力がないのです。

それに、異次元の少子化対策の看板施策「こども誰でも通園制度」で拍車がかかる。

保育士不足と保育界の倫理観がこれほど下がっている状況で、なんて馬鹿げたことをやろうとしているのか。「ママがいい!」という言葉を尊重し、母子分離政策を辞めない限り、このままでは、政治家たちの集票施策、選挙対策で、学校という仕組みまで壊されていく。

人間が寂しいときに一番頼りにできる人たち、幼児たちとの時間が市場原理と選挙対策によって奪われていく。

二歳児が隣に居てくれれば、人間は、無敵だったのに。

学校の教育など、私の学びの邪魔にはならない、とマーク・トウェインは言いました。

人間は誰から何を学ぶのか、考えた方がいい。

0、1、2歳児を育てていると、人間は言葉を知らなくても、文字を知らなくても、生きられることに気づく。一人でご飯を食べられなくても、生きられたことに気づく。

母がいてくれれば、それで足りていた。むしろ、幸せだったことに気づく。

この気づきが、土台になければ社会は成り立たない。慣らし保育における「ママがいい!」という叫びと、すすり泣きは、人類への警告なのです。

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。簡単に手に入る相談相手の育て方、絆を作る選択肢が書いてあります。よろしくお願いいたします。)

 

 

一般公開している講演会は少ないのですが、時々あります。上越市の講演会は、午前中に私の作ったインドのドキュメンタリー映画の上映会もあります。多分、演奏付きです。無料です。応募受付け開始が6月23日からです。ご注意ください。

上越市での「講演会と上映会のお知らせ」

「講演会と上映会のお知らせ」です

一般向け、というか、講演の内容は大体同じなんですが、7月29日に、新潟の上越市で上映会と組み合わせた講演会があります。

 

企画・運営は、「自然な出産と母乳育児を考える会」。小さな会ですが、助産師さんを中心に、もう私の講演を主催するのは四回目。こういう人たちが人間社会を守るんだ、という独特な気合いを持った人たちで、今年は、私の作ったドキュメンタリー映画「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」の上映会を午前中にやって、午後は通常の講演会です。質疑応答の時間もたっぷりとってあります。

上映会は、監督(私)の解説付きです。ひょっとすると演奏付きです。無料です。講演会も。

 

私が自主制作したこの作品は、第41回ワールドフェスト・ヒューストン国際映画祭、長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。

見てもらった絵本画家の安野光雅先生から、こんな評をいただきました。(安野先生は、私の小学校の工作の先生で、編集者の父と共に50年以上お付き合いいただきました。)

 

「不要な会話がなかった、ひとことも聞き漏らすまいというふんいきが生まれていた」

「目の中に祈りを感じました」

「挿入された、一見関係のなさそうなシーンは、『詩』のように心に響きました」

 

この「評」は嬉しかった。

ナレーションのないドキュメンタリーで、映像と音楽(私のアルバムから)と字幕で通すのですが、ダリット(不可触民)と女性の人権の為に闘う修道女の話です。

ダリットに対する差別の問題は、論理性を超えた人間の狂気のような部分があって、私が理屈で立ち入れることではないのですが、その、踊る姿が、美しい。そこに、何かに守られた「強さ」がある。

ただ感性を研ぎ澄ませて、そこで観たものを表現するしかありませんでした。

シスターに出会わなかったら、私は「映画」を作ることなど無かったはず。縁は、不思議な道筋を示します。この縁を、生かしておきたい。

ぜひ、いらして、一緒に風景に触れてみてください。

 

児童文学と共に、インドの風景は私の考える基点です。そのあたりのこと。なかなか興味深い話をすると思います。

貧しき者は幸いなれ、という、不思議なメッセージが、インドの村から伝わってきます。

私がシスターに「幸せとは?」と尋ねると、シスターは一瞬間を置いて、「集まること(Coming together)」と答えました。最後のインタビューで、それに「分かち合うこと(to share)」が加わります。

時々、その次元にまで戻らないと、道筋が見えなくなる。

ちなみに、シスターと私は同い年、です。

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「みてきいて考える  いのちを支える絆」

7月29日、上越市市民プラザ、

午前、「シスターチャンドラとシャクティの踊り手たち」上映会と松居和監督トーク付き、午後、講演会

参加無料、定員、各40人

受付開始は、6月23日(金)です。

<申込み・問合せ>ウィズじょうえつ

(上越市男女共同参画推進センター)

〒943-0821 上越市土橋 2554

上越市市民プラザ2階

TEL/025-527-3624 FAX/025-522-8240

E-mail/d-sankaku@city.joetsu.lg.jp

受付時間:平日8:30~17:15(土・日・祝・市民プラザ休館日(第3水曜日)を除く)

 

(講演会もですが、この映画の上映会開催に興味がある方、ぜひ、matsuikazu6@gmail.com まで、ご連絡ください。今も、シスターのミッションと繋がっています。よろしくお願いします。)

 

 

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もう一つ、一般に開いた講演会のお知らせです。

もう一つ、一般に開いた講演会のお知らせです。

7/13:王滝村立王滝小学校体育館(長野県)で久しぶりに講演します。とても良い所です。ぜひ、お越しください。

【問合せ・申込先】

長野県生涯学習推進センター(担当)望月

TEL: 0263-53-8822

〒399-0711 塩尻市大字片丘字南唐沢6342-4 FAX:0263-53-8825:

E-mail:shogaigakushu@pref.naganolg.jp

 

 

 

講演、講座のご案内です

私の講演は、保育団体、幼稚園、保育園の主催が多く、一般に開いているものが少ないのですが、時々、あります。よろしければ、ぜひ、お越しください。群馬です。

令和5年度第1回リカレント講座のご案内
日 時  5年7月1日(土)13:30~15:30 (受付 13:00~)
育英大学 •育英短期大学教育研究所
125教室 (定員100名) 対象:保育・教育関係者

申込方法:氏名、所高機関、メールアドレス、相談希望者は相談の簡単な内容を
下記E-nailにてお申込みください。E-mail:kanrika@ikuei-g. ac. jp

申込期限:令和5年6月20日(火)※定員に空きがある場合は当日受付も可能です。

「諦める」こと

前々回、「慣らし保育」における「ママがいい!」という子どものすすり泣きを「可哀想に」と思ってしまう元大学の教師に関して、寄せられた投書と共に、私の意見を書きました。保育を学問として捉えていた人が、現場で、子どものすすり泣きを聴いて、人として目覚める。嬉しい、投書でした。すると、Twitterの側から来た返信にこうありました。

 

これが本当に現実です。保育園で、子どもが一番に覚えるのは『諦める』こと。なかなか諦めることができない子どもは、ずっとずっと泣き続ける。どうしても『可哀想』と思ってしまう。だから保育園を辞めました。

 

(ここから私。)

人生の始まりに、「諦める」ことを覚えさせられる子どもたち。心ある保育者(人間)たちが、その風景に慣れることができず、辞めていく。

今、この国が進もうとしている道筋を象徴する出来事です。

「可哀想に」、という、人間社会を支え、維持してきた言葉を、なぜ、みんな口に出して言わなくなったのか。

この保育士は、それに疑問を持ち、それに慣らされたら、自分の人生を諦めることになる。そう思って辞めて行った。

 

ごく最近のことですが、

「可哀想」という言葉が、預ける側の「後ろめたさ」に重なって、母親が(女性が)そう感じることが「不公平」で「不平等」という論法が通り始め、広がったのです。

その論法が、欧米で、半数近い子どもが未婚の母から産まれる社会をつくり、「社会で子育て」という「偽の約束」が、シングルマザーの異常な増加と、近親相姦や親による虐待につながっていったことは明らかなのに、先進国から来る警告や報告は耳にしても、それが印象に残らないように操作されている。それどころか、欧米を見習え、日本は遅れている、という学者さえいるのです。

「待機児童をなくす」という選挙公約や、保育施策に関するマスコミの報道に、「子どもたちが可哀想」という反論が出来なくなっている。しかし、保育者の善意と、女性らしさに頼って誤魔化すにも、限度がある。

平等が目標になれば、本当の意味での男女共同参画社会は、家庭、子育てという次元から壊されていく、そうはっきり言った方がいい。欧米がたどった、経済優先の、弱者に辛い格差社会への道筋に、この国も引き込まれようとしているのだから。

女性の、パワーゲーム、マネーゲームへの参加率が大きく影響する「国連の幸福度調査」にも、それがよく現れています。

多くの宗教が勧めてきた「欲を捨てることに幸せを見出す」、子育てと重なる幸福論から人間社会を切り離そうとすることが、いまのグローバリズム。その中心に、母子分離政策がある。

(繰り返しますが、政府が進めてきた「少子化対策」は、「子育て支援」という名の母子分離策を中心に置いている。それによって少子化がますます進んだことは一目瞭然で、みな知っているのに、いまだに止めない。少子化対策は、単に選挙対策だからです。与党も野党も、宣伝カーのスピーカーからは、子どもたちは、「ママがいい!」と言っています、「子どもたちが可哀想です」という言葉は絶対に発せられない。そうして、子育てに対する「意識」が麻痺していく。)

四月やゴールデンウィーク明けに日本中に満ちる「ママがいい!」という叫びとすすり泣きが、消えるまで、慣れるまで、親の目から離される仕組みが作られている。性的役割分担の押し付け、「権利」、「平等」などという言葉で、「可哀想」という言葉が、かき消されていく。

小さな子どもたちの無数の「諦め」が、その陰にあって、「利他」の伝承が、途切れていく。

三歳までに発達すると言われる人間の脳にとって、この時期の「諦め」が何を意味するのか、生きていくために大切な歯車が、そこで一つ欠けていくのではないか。発達障害や愛着障害の大半が、この「諦め」が原因ではないのか。0歳児を預けることに躊躇しない親が突然増えているのも、その根底にこの「諦め」があるのではないか、真剣に考えた方がいい。

人類未体験の不自然な連鎖が、「慣らし保育」の名で行われている。

がっかりし、心を痛め、去っていく保育士の後ろ姿に、誰も声を掛けない。

慌てて、次の保育士を探している。その心の動きに、市場原理による「支配」が見える。

政府によって、保育を「サービス」と思い込まされた、要求ばかり主張する身勝手な親たちが増え、仕組みをさらに追い詰める。

先進国社会が、情報や言葉に支配されていくのは、学問が重視され、乳幼児と過ごす体験が欠けてきているからだと思います。

授乳だけでなく、三歳の子どもが生まれたばかりの弟や妹と出会うところからも始まっている特別な体験、祖父母が初孫と対面する時からも、始まる、あまり言葉に頼らない双方向への体験、その価値に気づいてほしいのです。それは、往々にして自分との対話、宇宙との対話であって、そのやり方を、人間は、乳児を可愛がることから学ぶのです。育てられるのは、所詮、自分自身でしかない。

乳幼児たちは、人類にとって一番の相談相手でした。この人たちを生かすことで、生きる動機と道筋を手に入れた。

国の子ども子育て会議が、11時間保育を「標準」と決めたとき、誰も、「可哀想」とは言わなかったのでしょう。

「平等」という架空の「正論」に縛られ、会議自体が人間性を失っていたのです。それを主張できない乳幼児の「願い」が価値を失っていった。弱者の悲しみや、諦めが、人々の視界から消え、「可哀想」という表現さえ封じられた。

幼児の「諦め」(慣らされること)を「自立」(自律)とか、自主性と呼ぶ学者たちさえいる。システムを成立させるための「こじ付け」は、最近限度を超えている。保育士不足という点からも、学級崩壊という結果からも愚策と知りつつ、仕組みは、政府(経済界)の都合通りに作られていった。幼児の側からは存在の喪失に他ならない「標準」が、政府によって設定され、それが、あっという間に行き詰まっている。

人類は、平等の上には成り立たない。

進化は、性的役割分担で成り立ってきたのだし、宇宙は、陰陽の法則で動いている。

子どもたちが、人間であることを諦め始めている。そのことに、気づいてほしい。

全国で、地域の「核」になってきた「幼稚園」が、保育園を周りに建てられ廃園に追い込まれていく。それを目の当たりにして、私は、心底腹を立てているのです。政府には、この国の最後の砦が見えていない。絆を育てる最適な手段を、雇用労働施策の元に壊そうとしている。

「当たり前のこと」を、口にすべき時が来ています。子どもたちは、誰でもいい、とは言っていない。

西洋の「学問」と、東洋の「祭り」(哲学)が対峙しているのだとしたら、この国にはまだチャンスがある。

午睡の時間にしのび泣く乳児クラスの男児に、「頑張れ!」と言うのは人間性を逸脱している。それを知っている国だと思うのです。

「可哀想だ」と感じたら、それを口にし、周りを見回す。

人間「社会」はそこから始まるのです。

この投書が全国紙に載るということは、本当の仕組みが見える人がまだたくさんいる、ということ。

耕し直すことはできる。

「ママがいい!」という言葉を、これ以上聞き流してはいけない。

 

(前々回の私の文章です)

朝日新聞:オピニオン&フォーラムに、「安心して休める 子育て社会を」という投書が載りました。

大学で「子育て支援」などを教えていた人が、保育の現場で園長として働き始め、午睡の時間に、男児の「ママがいい!」というしのび泣きが乳児クラスから聞こえてくる。そして、「頑張れ!」より「可哀想に」を口にしてしまう。

そうですね。これが人間です。

幼児たちのいる風景に私たちは、育てられ、試される。自分の人間性に気付かされる。

慣らし保育で、私たちは、何に慣らされるのか。慣れてはいけないものがあるのではないか。この投書を読んで、私は、救われる思いがしました。

学問を離れて、帰ってこなければならない場所がある。

泣き続けた幼児たちの心に、その時、何が残ったのか。子ども真ん中、というならそこを真剣に、ずっと考えるべき、感じ続けるべきなのです。

いま、進められようとしている異次元の少子化対策、「こども誰でも通園制度」は、この悲しみ、このしのび泣きを、増やすこと。

その先には、すでに学級崩壊や、不登校児童過去最多、教師不足があって、もはや待ったなしのところまで来ている。

「ママがいい!」と言われたら、それはいいママだった、ということ。子どもに、いいママと言われて過ごす人生ほど、確かで幸せな人生はなかったはず。

 

 

(ブログは:http://kazu-matsui.jp/diary2/、ツイッターは:@kazu_matsui。「ママがいい!」、ぜひ、読んでみて下さい。幼稚園や保育園を核にし、絆を耕し直す方法が実例を挙げてたくさん書いてあります。予算もほとんどかからない、そのいくつかを仕組みの中で「常識」にするだけで、学校が鎮まってくる。よろしくお願いいたします。)