親父の会/園での父親の交流が学校でのイジメを減らす

十年以上前に講演した幼稚園へ行きました。その時の講演をきっかけに父の会ができて、それが園でとても大切な存在になっている、という嬉しい報告をお母さんたちからいただきました。先週もそんな園で講演し親父の会の役員たちとピザを食べました。父の日が近づくと改めて父親の役割り、そしていまこそ父親たちが幼児と過ごす時間がとても求められている、と思います。

東漸寺幼稚園の父の会のページは、一年間にこんなに色々出来る、という道標になります。ぜひご覧下さい。お父さんたちの幸せそうな写真が大きな子どもたちのようで、子どものための父の会というより父親のための父の会、という感じが自然でいいのです。それを見て、男の子たちもきっといつか父親になりたくなるのです。少子化対策、親父の会版です。

(いまの少子化の一番の原因は、三割の男たちが一度も結婚しない、男たちが父親になる幸せを見失っていることにあるのです。)

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父親たちが集う意味

 

夫の暴力に苦しむ母親が増えています。小学校のPTAで講演すると特に感じます。講演後に相談を受けることがあります。競争原理に煽られ、操られ、生きる力を失いつつある男たちに優しさや忍耐力がなくなってきているのです。心にゆとりがない。子どもには優しい父親が、妻に暴力を振るう、というケースもあります。子煩悩な父親にはまだ希望がありますが、子どもに関心を示さない父親が暴力を振るい始めると危険です。

早いうちに父親の親心を耕しましょう、と私は保育者に呼びかけます。保育所保育指針に掲げられている「子どもの最善の利益を優先する」という言葉に、いま一番かなっているのです。

一日副担任をやってもらって、一人ひとり幼児の集団に漬け込むのが効果的です。父親の顔が数時間で変わります。ニコリともしなかった表情が園児に囲まれて和みます。すると、家庭の空気が温かくなる。

 家庭内暴力が奇跡的に止まることがあります。暴力を振るうのに誰にも相談に行かない。そういうプライドの高い頑なお父さんが「園の行事」という助け舟に救われ、本来の姿を取り戻すところを何度も見ました。

父親だけ集めて、年に数回酒盛りをさせる幼稚園があります。お母さんと子どもたちはいなくてもいい。父親同士が仲良くなることが目的です。

「父親同士が知り合いかもしれない、友だちかもしれないという意識を、幼児期に子どもたちに持たせることができれば、小学校や中学校でいじめはなくなるんです」

と園長先生が断言します。「本当は友だちでなくてもいいんです。お父さん同士が友だちかもしれない、子どもたちが日常的にそう思うことがいいんです」。部族の感覚。

インドの田舎の村なら当たり前のこと。言い換えれば人類は過ごした時間の99.99%、この感覚に包まれて成長してきたのです。

学校教育の現場から、ある時期、「平等」を勘違いして、意識的に家庭の存在を排除しようとしたことがあります。友だちの向こうにその子を育てた人がいることを意識できなくなった。

見えない絆や、様々な人間関係を「意識すること」で、人間社会はバランスを取り、成り立ってきた。学校という非常に新しい「実験」の中で、放っておくと残酷になりがちな子どもたちの世界には、そうした見えない世界の意識のバランスが必要なのです。人間は様々な絆でつながっているということを、早いうちに覚えるのがいいのです。

お父さんたちの酒盛りから野球のチームができたり、釣りの同好会や、季節の行事が生まれます。それはやがて学校での「オヤジの会」に進化します。「利害関係のない友だち」、競争社会で生きていればいるほど、それが必要です。卒園後も一生続くと良いのです。

 大人たちの部族的意識が子どもたちを安心させ、学校での生活が安定してくきます。

 

 

父親のいない子ども

 

園で父親参加の行事をやろうとすると、「父親のいない子どもに対する配慮は?」と言う人がいます。心ある保育者が「お父さんがいない子は悲しいと思います」と私に言います。優しさから出た言葉です。しかし、人間の幸せは悲しみと背中あわせ。「死」があるから「生」があるように、正面から受け止めずに、真の絆は生まれません。周りの人間たちの悲しみを意識することは、絆そのものかもしれません。

以前、運動会で徒競走に順番をつけないという学校の話を聞きました。平等という概念で絆は育たない。平等なんてあり得ない、支え合って、人間たちは幸せになる。

徒競走でビリになった自分の子どもを親がどう慰めるか。オロオロして一言も声をかけられなくても、オロオロを実感することで「親心」が育っていく。親はオロオロするからいいのです。

漫然と悲しみを避け、現実から顔を背けていると人間は繊細さを失ってゆく。優しさという人間らしさの大切な部分を失っていく。悲しみと不幸は同質ではない。悲しみを分けあう、実感しあう、そのことが、楽しみを分けあうよりはるかに絆を深めることがあります。

「父親のいない子に配慮し」幼稚園が、父親参観日という名前を自粛し、「走るのが遅い子に配慮し」みんなで一緒に手を繋いでゴールするような教育をしたら、信じあうことを忘れ、悲しみをわかちあえない社会になるでしょう。

一人の人間の悲しみを包み込み、絆が育つ。絆が助けあいを生み、助けあいがより深い絆を生む。人間は一人では絶対に生きられない。

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人間が助けあったり頼りあったりしなくていいように、政府や行政がやらなければいけない、とみなが言い始めている。権利として主張し、要求し始めている。これは怖い。

地震や洪水が起きると、マスコミが「心のケア」が必要、「カウンセラー」を政府が用意せよ、とまで言う時代になりました。人々の間に、政府や行政がしてくれないから自分は不幸なんだ、という意識が広まってくる。人々が怒りをぶつける相手を探してあげる、みたいな報道が多すぎます。

悲しみから目をそむけ、日常生活の中で人間関係の絆を築く機会を失い、そのうちカウンセラー(専門家)がいなくては機能しない社会になったら、殺伐とした救いのない不幸が人間社会を満たすでしょう。自分がいじめられないため、形だけの絆を保つために誰かをいじめるという最近の小中学生の世界に、私は未来の日本を感じて怖くなります。

人間は、絆がなければ生きていけない。しかし、その絆が悲しみさえもわかちあう深いものでなければ、幸せにはなれない。

 

「配慮」という言葉に話を戻します。

実はこの地球上に「父親のいない子」は存在しません。クローンでも創らないかぎり、どこかに父親はいる。それがお墓の中であっても、親が離婚したとしても、父親はいる。「それを意識すること」が魂の会話の始まり。それを思い出すことが、現代社会から失われつつある「魂のコミュニケーション」の復活につながります。だから、私はあえて言うのです。「父親参観日」を作りましょう、「父親が遠足へ一緒に行く日」を作りましょう。父親を園に引っぱり出しましょうと。

お盆に子が親の墓参りにきたら、親は死んでも子育てをしているのです。

そして、宇宙は私たち人間に自信をもって〇歳児を与えている。

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「父親のいない子に対する配慮」という言葉を口にすることによって、「実は、父親のいない子は一人もいない」という真実を忘れる。真実から目を逸らしているうちに、やがて父親とはどういうものかさえ思い出せなくなる。

私はお母さん方に話をする機会が多いのですが、「子どもが幼児のうちにご主人の心に祈りの火をともしてあげてください。子どもが小さいうちが鍵です」と言います。

「幼稚園や保育園を利用して、父親が出てくる行事をたくさん作ってもらってください。父親の心に親心が芽生えれば、それがあなたの幸せにつながります。ご主人が文句をいったら、『こういう園長に当たったんだから』とか、『仕方ないでしょ。ほかの子の親だってやってるんだし』とか言って、全部園長先生の責任にしてかまいません」と言うのです。

理屈ではない。父親が保育園や幼稚園に出かけて一日園児たちとゆっくり過ごすだけで、家族の一生が変わる。これをみんなですることによって、国の未来が変わる、人類の進化の仕方に影響を及ぼす、それくらい思っています。

 ちょっと不思議な話をします。

もし、父親の心に祈りの火をともしたかったら、一週間でいいのです。眠っている自分の子に、毎晩、歌わせるのです。

「カラスなぜなくの」でいい。父親に歌を唄わせるのです。一人で。

眠っている自分の子どもに一人で、という一見非論理的なコミュニケーションの場に音楽が加わることによって、父親の心に、ポッと祈りの火がともります

音楽にはそういう不思議な力が備わっています。

音楽の役割はそんなところにある。

本当は、奥さんに言われて、ご主人が実行してみようという気になるような夫婦関係ならばもう大丈夫なのですが、うちはどうかな? と思ったら、まずお母さんがやってみてください。眠っている子どもに一人で唄いかけるのです。お母さんが不思議なことをやっている姿を父親が眺める。その姿には、父親が忘れていた「何か」があるはず。

こうした風景を目にして、人は人らしくなってゆきます。人が互いに眺めあう、言葉を実際に交わしあうよりもっと大切なコミュニケーションの手法です。絆で守りあう姿です。

言葉に支配されている人間が、音楽という儀式に近いものによって魂を解放される、それが子守唄の原点です。

 

自己実現/Self-actualizationまたはSelf realization

 自己実現という言葉が、あまり良い影響を日本に与えていない、と以前から思っていて調べてみると、Self realizationという言葉の訳に使われているのを知ってびっくり。Self realizationは、素直に訳せば「自分に気づく」。少し体裁を整えるなら「自己発見」とか「自己体験」と訳した方が自然。川合隼雄さんの本にもユング派のSelf realizationを自己実現としている箇所があって、これはロスト・イン・トランスレーションではなくてミスリードではないか、と思いました。

 乳幼児との関わりで、人間は自分自身を発見し人類の一体感を体験すると言い続けてきた私にとって、Self realizationという英単語は突然非常に魅力的で、ひょっとしてユングも同じことを言っていたのかもしれない、と期待します。

 ユングについては何も知りませんが、もしSelf realizationが自己体験と訳されていたら全体の方向性がはっきりして来て、日本の土壌にもっと馴染んだのではないかと思います。これを自己実現と訳すことによって、本来他力の発想を、誰かが自力に変えた。意図的だったとしたら非常にまずい行動だったと思います。
 現在私が直面している社会問題をベースに考えれば、浅い次元で、幸福論が経済論に持って行かれたという感じ。
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(少し遡ったところにSelf-actualizationという言葉があって、これは自己実現に近いと思います。しかし、この言葉とSelf realizationとの間にはかなり決定的なギャップがあり混同してはいけない。)
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 私は、ずっと4才児完成説を言ってきて、人間は4才児くらいを眺め、その生き方を目指しているといいんだ、と親たちに伝えているわけですが、ユング派の最終的なカウンセラーは0才児なんだと思います。