園が道祖神を生む話

images-6.jpeg

 数年前、熊本で二代目、三代目の若手保育園長、理事長先生の研究会で講演したときのことです。初代が女性でも、なぜか園を継ぐのは男性が多く、男性中心の会でした。懇親会で少しお酒が入って、若い園長先生がマイクを握って言いました。

 「松居先生。親御さんは、僕の母、先代園長の言うことはよく聞いたのに、なんで僕の言うことは聞いてくれないんでしょう」

 保育の核心にせまる質問です。私は嬉しくなって考えました。

 「先代は、お元気ですか?」と尋ねました。元気です、という返事に、「まさか、先代を引退させてしまったんではないでしょうね」

 保育園も代替わりを迎えています。ビジネスの世界の真似をし、後進に道をゆずる、時代に即した経営、などと言います。日本各地で、創設者である園長理事長が引退する現象が起こっています。しかし、忘れてもらっては困ります。保育園という特殊な「子育て」の仕組みが「代替わり」を迎えるのは、人類の歴史始まって以来のことなのです。保育園や幼稚園は「子育て」という太古からつづく伝承の流れに関わっていながら、ごく最近作られた新しい仕組みです。お団子や歯ブラシを売るのとはわけが違い、その仕組みを創り上げるには細心の注意が必要なのです。経営を譲るのはいい。でも、園という不思議な空間を単純に二代目に任せていいのでしょうか。

 「四〇年以上勤めた保育士に『引退』はありません」と私は若手園長に言いました。

 「保育士を二〇年、一人の人間が幼児の集団に二〇年も囲まれれば、『地べたの番人』という称号を得ます。四〇年勤めれば、『道祖神』という格づけになっているのです」

 そのときたまたま「道祖神」という言葉が浮かんだのですが、眺めるだけで昔日の真実を感じるものならば、なんでもいいのです。

 「まさか、道祖神を引退させたんじゃないでしょうね」

 笑いながら話すと、若手園長はすぐにピンときたようで、理解し、苦笑いし、すみません、という顔になりました。

 「道祖神はいるだけでいいんです」と私はつづけました。

 「園の中を歩いているだけでいいんです。車いすに乗って子どもたちを眺めているのもいい。ひなたぼっこをしているのもいい。門のところで毎朝親子を迎えるだけで、園の『気』が整ってくるのです。園の形が、すーっと治まってくるんですよ。母親の心が落ち着きます。その瞬間、あなたは道祖神の息子です」

 子どもたちが育ってゆく風景の中で、私は園長という名の道祖神たちを見てきました。直接教わったこともたくさんあります。道祖神のいる風景から、私は考え、保育における視点を学んだように思います。園は、子どもが育ち、親が育ち、道祖神が現れ、親心が磨かれてきた場所。そういう場所には絆が育ちます。言葉では説明のつかないコミュニケーションの絆が、大自然に近い秩序を生む。日本人はそういうことに敏感だった。大木を切ることにさえ躊躇してきた民でした。

images-7.jpeg

 もう一人の若手園長が、酔った勢いで口を開きました。「うちの道祖神は、もう亡くなってしまったんです」

 私は、ちょっと考えてから、「老人福祉をしている所に行って、一つ拾ってくればいいんです」

 ちょっとお借りしてくる、という言い方が正しかったと思います。

 人間は幼児に囲まれなくても、一〇人に一人くらいは、ある年齢に達したとき、道祖神の領域に入ります。平和で幸福そうな顔ができあがっています。もうすぐ宇宙へ還る人たち。欲から離れた人たちだからこその落ち着きです。

 そのあと、私は宴席で密かに思い出していました。数日前、NHKの特集番組で見た「インカ帝国のミイラ信仰」を……。文化人類学的にです、あくまでも。

 ご先祖のミイラが村に一つあって、それに向かって村人の心が鎮まっている風景。心が一つになっている。それに比べれば、園の道祖神たちはまだ歩いているのです

 人間が遺伝子の中に持った太古の流れを、時々意識しないと本来の目的を見失います。それどころか、幸せに生きるための秩序を失います。私の想像力は、また一歩飛躍します。厚労省がこんな告知をしたら、すばらしい決断と言えるでしょう。

 「保育園で道祖神を引退させると法律で罰せられます」< /p>

 厚労省が、こういう視点を持つことができるだろうか?

 いまのところ、答えは否、でした。情報に頼りすぎる思考の進み方にも問題はあるのですが、一番の問題は現場の風景を知らない、知っていてもそこから「感じることができない」ことにあるのです。次元が幾重にも交錯する人間の「気」の交流現場に気づきにくい人がシステムを考えていることに、現代社会の欠陥があるのです。感性が鈍っている。官僚と呼ばれる人も、家へ帰れば子どもの運動会に一喜一憂し、保育参観日に行き、ふと我に返るはず。実は細胞は死んではいない。生きる機会と場所を失っているだけです。

 アンデスの山を思いながら、「道祖神は、ちょいと惚けてきたら、なおいいのかもしれない」と思いました。惚ける人間の存在にも必ず意味がある。生まれて一年目に、ほんの少し笑うだけで周りを幸せにして親心を育てた人間は、歳月を経て、いつか歩いているだけで周りの気を鎮める神のような存在になりたいのだと思います。

images-8.jpeg

 私は、当時、埼玉県の教育委員をやりながら、時々道祖神たちの顔を思い出し、視点を変えればまた違った世界が見えてきます、と折に触れて発言しました。私の発言は、県庁の中で少し浮いているような気もしましたが、同時に教育局の人々に何かが通じているようにも思えます。

 道祖神を見る人間の目や心の動きを教育の現場に復活させる方法はあります。教育局の人たちが「保育士体験」に参加して幼児の集団をたった一日見つめるだけで、地球に変化はあるのだろうな、と思いました。いまの常識にとらわれることなく、幼児を意識した視点や様ざまな絆が生まれる環境を、子どもたちが育つ仕組みに取り入れていかないと、親の潜在的不安は治まらないでしょう。意識的に太古の視点を復活させなければ、学校という歴史の浅い巨大なシステムが、はるかに古い魂を持つ「家庭」や「部族」という絆を崩壊させるのが、私には見えます。家庭が崩壊しては困ります。家庭が幼児を守り、幼児こそが、道祖神を生み出しているのですから。

images-10.jpeg

 私は、質問をしてくれた園長先生のお寺で、引退した先代にお会いしました。みごとなお顔でした。

 「四〇年以上園児に囲まれた保育士に引退はないのですよ」とお話しすると、先代はとても喜んでおられました。

 「園に行きたい、とこのごろ思っていたんですよ」とおっしゃった道祖神と二代目のお嫁さんの姿を、私は携帯電話のカメラで撮影しました。私の道祖神コレクションの一枚になりました。

images-12.jpeg


人間50歳も越えると、二十代三十代では見えなかったものが見えてくるのです。
 60歳も越えて、そろそろ宇宙に帰ろうか、という時期に、「早くいい人間にならなければ」と思います。人生は自分自身を体験する事でしかない。自分がいい人間だ、と思えれば嬉しい。思えなければ、仕事に成功しても、お金を貯めても虚しい。
 いい人間に成りたいと強く願っている人間の前に、人間をいい人にするひとたちが現れる。それが幼児。孫です。祖父母と孫の関係は、特別いいのです。いい人に成りたいと思っている人からいい人になるのが順番。

 幼児という、ついこの前まで宇宙の一部だった弱者と、老人というもうすぐ宇宙へ還ってゆく弱者が、欲を持たずに、楽しそうに役割を果たしているのを見て、人々は安心する。私もたしかにこうだった。そして、私もこうなる。
 幼児と老人が出会うと、「これでいいんだ」という笑顔の交歓が行われます。その交歓を風景として見つめるのが、これからの人間社会に一番いいのだと思います。)

images-11.jpeg

チンパンジーとバナナ/人類学と民主主義

 私の好きな人類学者にジェーン・グドールという人がいます。五十年以上も、アフリカのタンザニアにあるゴンベ国立公園でチンパンジーの研究をした、フィールドワークを思考の原点にした現代人類学の草分け的女性です。(龍村監督のガイアシンフォニー第四番に出演しています。チンパンジーとの感動的なシーンがあります。)初めてそのレクチャーを直接聞いたのが三十五年前、カリフォルニア州立大学(UCLA)での特別講演でした。そのときのテーマが、チンパンジーのカニバリズム(共食い)でした

images-11.jpeg

 元々ジェーンは、チンパンジーがシロアリを釣り上げる道具を使うことを発表し、道具を使う動物は人間だけと言われていた定説をくつがえした人でした。アフリカで野生のチンパンジーの群れと何年も過ごし観察した研究成果は、研究所主体だった当時の動物学や文化人類学に大きな影響を及ぼしました。彼女が第二のセンセーションを学会にもたらしたのがカニバリズムの研究でした。仲間同士の殺しあい、群れの中で起こる子殺しを含む非常に残酷な仕打ちが、その時、映像とともに発表されました。

 それは人間たちに恐怖心を起こさせるほど、人間的な情景でした。チンパンジーの遺伝子は動物の中で一番人間に近いと言われています。

images-9.jpeg

 最近になって、このしばしば残酷で、時には共食いさえするチンパンジーが、ジェーンの研究している群れに限られることがわかってきました。皆無ではありませんが、ほかの群れでは仲間内のこうした残虐な行為がほとんど行われないのです。

 ジェーンの群れとほかの群れの違いは、ジェーンの群れが五十年間餌づけをされていたことでした。野生の群れに近づくため、ジェーンは当初から群れにバナナを与えていたのです。それも、なるべく一匹一匹に「平等に」行き渡るように工夫をしたのです。

 いまでこそ、野生動物は本来の生態を損なわないように観察することが常識になっていますが、当時、草創期のフィールドワークでは、そこまでルールが確立されていませんでした。

 この報告を真摯に受け入れたジェーンが、インタビューで、「いま私が持っている知識があれば、絶対に餌づけはしなかった」と、悲しそうに答えていたのが印象的です。


images-13.jpeg

 このバナナに当たるものが、私たち人間にとって何なのか。

 ジェーンの群れで起こったチンパンジーの残虐さは、序列を取り戻そうという行為の一つでしょう。様々な要素によって作られた序列によって保たれていた秩序が、バナナが平等に与えられたことによって崩れ、生きてゆくための遺伝子の何かがはたらいて、殺しあいや、カニバリズムにまで群れを駆り立てたのだと思います。しかも、集団として駆り立てたのです。

images-11.jpeg

 進化の過程で、ジェンダー、つまり雄雌の差を手に入れたとき、私たちは、「死」を手に入れました。それまでは、細胞分裂で進化し、つぶされでもしないかぎり生は永遠につづいていたのです。「死」を受け入れた代償に、私たちは次世代に場所を譲る幸福感を得たのかもしれません。しかしいま、豊かさの中で、人間は死を受け入れることが下手になっています。パワーゲームの幸福感を追い、執着し、死から意図的に逃げようとしている。「一度しかない人生」という言葉がその象徴です。

 性的役割分担が希薄になったときに、人間は家族という生を支えてきた意識を少しずつ失います。いい悪いの議論はとりあえず置いておくとして、これが現在、先進国社会で起こっている一つの流れです。男性的なパワーゲームの幸福論が、母性的な次世代に譲る幸福論に勝り始めている。それが、結果的に女性と子どもに厳しい現実を生み、男性には寂しい現実を生んでいます。

 そうした中で、何十万年も積み上げてきた遺伝子が、豊かさに耐えられなくなって、眠っていた遺伝子を起こし始める。同性愛者が増えるのは、人間の進化の中で一つの防御作用でしょうか。しかし、ジェンダー以前、つまり単細胞に戻るには滅亡しかない。

images-4.jpeg

 男らしさ女らしさがあってこそ、「親らしさ」が存在します。親になることは、男らしさ女らしさの結果です。そして、子どもを産み、男らしさ女らしさが適度に中和され、自然界の落としどころ、「親らしさ」に移行するために必要なのが、「子育て」なのだと思います。しかし、パワーゲームに組み込まれた子育ての社会化が、親らしさという視点で心を一つにするという、古代の幸福感を揺るがしているのです。

 親らしさが弱まると、当然、男らしさ女らしさが台頭します。ジェーンの群れのチンパンジーが残虐になった理由の一つは、自分の子孫を残したいという雄の本能でしょう。雌の発情を促すために、その雌の子を殺すわけです。

 死への恐怖からくる「命を大切に」という言葉と、死への理解からくる「命を大切に」という言葉は意味が異なります。死への恐怖は競争社会を生みます。死への理解は人間を謙虚にするのです。

 人間の営む現代社会においてバナナにあたるものは何か。

 九八%遺伝子が同じとはいえ、人間とチンパンジーでは繊細さ・複雑さがちがいます。単純ではないと思いますが、思いつくままに、バナナかもしれない言葉や意識を並べれば、学校、教育、知識……。自由、平等、人権……。

 (さらに、言葉、文字なども、相当可能性があります。でもそれでは虚しいので、資本主義? 共産主義? 民主主義? それとも宗教? 身近なもので、水道? ファミリーレストラン? インターネットはどうでしょう。)

 これらを否定しているのではないのです。バナナを手に入れたあと、殺しあいにならない方法を考えればいいのです。しかし、まずバナナが存在することを意識し、気をつけることです。


ゾウがサイを殺すとき

images-5.jpeg

 

 チンパンジーとバナナの関係によく似ているドキュメンタリーを以前、NHKのテレビで見ました。アフリカの野性のゾウの群れが、突然サイを殺し始めた、というのです。もちろん殺して食べるわけではありません。ただ、殺すのです。

 ゾウがサイを殺しても、警察や裁判で止めることはできません。言葉が通じませんから、ゾウに質問することもできません。カウンセリングをしたり、道徳を教えることもできない。人間は、懸命にその理由を考え、想像します。環境の異変がゾウの遺伝子情報と摩擦を起こしているのではないか。そしてある日、サイを殺し始めたゾウが人間によって移住させられた若いゾウばかりであることに気づきます。

 ゾウのサイ殺しは、巨大なゾウを移送する手段がなかった時代には、絶対に起こりえない現象だったのです。麻酔をかけて眠らせることはできても、巨大なトラックがなければゾウは運べなかった。それが可能になり、人間の都合で、その方がいいとなんとなく思って、若いゾウを選んで移送し、別の場所に群れをつくらせたのです。そうしたら、ゾウがサイ殺しを始めた。

考えたすえ、試しに年老いた一頭のゾウを移送し、その群れに入れてやったのです。すると若いゾウのサイ殺しがすぐに止まったというのです。

 年老いたゾウは、きっと道祖神ゾウに違いない。

(私は、道祖神園長が座っているだけで、親たちを鎮める話を以前書いた事があります。)

 ゾウの遺伝子がどれだけ人間と重なっているのかは知りませんが、哺乳類で目も二つ鼻も一つ、共通点はたくさんあります。脊髄があって脳みそもあって、コミュニケーション手段を持っているわけですから、こういう本能と伝承にかかわる動物の行動は、とても参考になるような気がします。言葉が通じないときに、人間は深く考えるのかもしれません。幼児を眺める行為と似ています。

 

(埼玉県の社会福祉協議会でボランティアコーディネーターに講演しました。六〇歳を過ぎた団塊世代のボランティアが何千人も登録しています。この人たちを「子どもと遊ぶボランティア」として、幼稚園や保育園に二人ずつ送り込んだらきっと何かが変わる。

 子育てをあまり経験してこなかった団塊世代の男たちが、幼児と遊んで人間性に目覚めれば、社会の空気が少し変わる。全県でできれば、経済対策にもなるはず。)

images.jpeg



「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会より)

待つ園長先生と待たない園長先生の話

待つ園長先生の話

 公立保育園の民営化が進んでいます。公立は公務員である職員が高齢化しお金がかかります。民営化すれば、お金をかけず、しかも「競争原理?」が保育の質を保つ、というのです。公立保育園の補助が一般財源化され、拍車がかかりました。しかし現実は、行政が「預かれ、預かれ」と言って、現場が「水増し保育」をして対応せざるをえないという状況です。

 公立の保育園を一つ頼まれ、引き受けた園長先生の話です。K園長としましょう。

 幼稚園や保育園は、園長先生の人柄と意識でずいぶん雰囲気が変わります。親の雰囲気も、子どもたちや保育士の雰囲気も変わります。この「雰囲気」が子どもの日常を左右し、大切なのですが、保育園によってかなり違うのです。保育園は人間たちが心をこめ、日々を創造する場所ですからそれでいいのですが、公立の場合、園長先生が四、五年で異動します。一つの園に道祖神園長が根づくことが出来ない。その結果、親の要望が、園の雰囲気を作ることがあるのです。

 K園長は、もと私立保育園の主任さん。子どもは子どもらしく、遊びを中心に園で楽しい時間を過ごさせたい、という保育観を持っていました。ところが、先生が引き受けた公立保育園が民営化されるとき、親たちが役場と掛けあって、保育のやり方を変えない、という同意書をとりつけていたのです。公立のときに入園した子どもが卒園するまでやり方を変えてはならない、それが権利だ、というわけです。役場は、とにかく公務員を減らし民営化を進めなければなりません。予算と議会決定のことで頭がいっぱい。園は子どもが育つところ、親心が育つところ、などという考え方は持っていない。親の要求を丸呑みしてしまいました。

 一人の園長が、主(ぬし)のように存在する私立の園とは違い、公立の場合はどうしても親の主張が強くなります。保育園は社会の仕組みとして扱われることで、保育士が保育を「仕事」と割り切る傾向がある。そして、役所は「親のニーズに応えてください」と園長先生に言いつづけてきたのです。厚生労働省も「福祉はサービス、親のニーズに応えましょう」と指導してきたのですから、役所を責めるわけにもいきません。親も保育園を子育ての「道具」くらいにしか考えていないようです。親と保育士という一緒に子育てをする人が、「役場の窓口経由」で話しあうなんて、そうとう馬鹿げた状況です、文化人類学的に考えれば、子どもの存在意義が忘れられている。

 「親のニーズに応えたら、親が親でなくなってしまう」という叫びを現場の園長から聞いたのがもう二五年も前のことですから、この役場と現場の意識の差がいまの日本の混乱した状況をつくっていると言っても過言ではない。親のニーズを優先するか、子どものニーズを優先するか、という視点の違いです。

 これは、人類の進化の方向を決定づける選択肢です。

 親の要望とニーズの第一が、この園の場合「しつけ」だった。大人の言うことをよく聞く、学校で通用する「いい子」に保育園でしてほしい、と言うのです。こういう子どもを作ることは可能です。子育ての手法、目的としては楽かもしれません。厳しいしつけが文化になっている国や宗教もあります。しかし、これを集団でやるには子どもに対する「情」を押さえなければなりません。

 K園長はその園にきて、ああ、この子たちは萎縮している、かわいそうだ、と感じました。子どもが子どもらしいことは、園長の願いであり、幸せでもありました。同意書があったとしても、楽しそうなのがいい、無邪気なのがいい、という気持ちが勝って、そういう雰囲気を作ったのです。途端に、一部の親たちから文句が噴出しました。「子どもが言うことを聞かなくなった」と。

 子どもが言うことを聞かなくなるには意味があります。子どもたちには、親を育てる、という役割があるのです。

 園長はあきれ顔で私に言いました。「あと二年残っているの。二年すればみんな卒園して、それから本当の保育ができるの」

 モンスターペアレンツは、紙一重で「いい親」。いや、いい親だからこそモンスターになるわけですが、もしこのとき、彼女たちが、もう少し時間をかけてK園長先生の真心に耳を傾けるだけの心の余裕があったら。目を見つめ、親身さを感じることができたら、視点を変え、きっと親子で違った人生を送ることになったのです。役所の受付の人が一言、「こんどの園長先生は素晴らしい方ですよ」と笑顔で親たちに言ったなら、ひょっとすると、それだけで何かが変わっていたかもしれない。

 保育士がどんなにしつけても、しょせん五歳までの関係です。継続性がない。しつけを支える「心」は、子どもの幸せを願う心、子どもの発達をみつめながら自らも育っていく、育ちあいの継続性を持っていることが大切なのです。親が子どもをしかるとき、たとえ子どもが成人していても、親の記憶の中には三歳のときのその子が存在します。それが親子関係の一番の意味です。

 一見「いい子」が小学五、六年生で突然おかしくなったりする原因の一つが、このあたりにあります。いわゆる「良い子が危ない」、保育士がしつけた子どもは、数年でキレる。

 保育園と親たちの心が一つになっていない。大人の心が一緒に子どもたちを見つめていない。子どもたちが安定した幼児期を送っていない。親が子育てやしつけを保育園に頼りすぎると、子どもたちが言うことを聞かなくなるときがくる。親を育てる役割を果たせていないからです。そのときに、やり直しはきかない。人生の修行のやり方はいろいろですから、いつか親が真剣に子どもと向きあえば手遅れということはないのですが、お互いにつらいことになります。親がその子が幼児だったときのことをなかなか思い出さないからです。

 私はK園長の思い、そして人柄を知っているだけに、この人の真意を見抜けない親は、いったい何に駆り立てられているのだろう、何を急いでいたのだろう、と考えずにはいられません。「自由に、のびのびと、個性豊かに」なんていう教育が、こんな親を増やしたような気はします。

 いい園長先生の「心」を、立ち止まってしっかり見てください。子どもが幼稚園や保育園で楽しそうにしていたら、それを当たり前と思わないで、先生に感謝してください。

 

 ある日、知人のお医者さんが悲しそうに言いました。患者が感謝してくれないんだ、と。ひどいときは、疑わしそうな目でみられたり、ほかの病院に行ってもいいんですよ、という表情をするのだそうです。いいことをしようと思って医者になった知人には、それが一番つらいことでした。

 病院があって、そこにお医者さんがいて、一一九番を回せば救急車がくる。それだけでも感謝することはできるのに、もう誰も感謝しなくなった。このままいくと、いつか日本もアメリカのように、お金か保険がないと医者に診てもらえない社会になるかもしれません。目の前に救える人がいるのに、お金がなければ救わなくなったとき、人間は進化するための人間性を放棄するのでしょう。

マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「シッコ」をご覧になってみてください。保険に入っていないからと、病院が患者を捨てる映像が映し出されます。いま先進国と呼ばれるアメリカの現実です。人類がシステムを作って人間性を失ってゆく実態です。背後にあるのは経済論です。

im ages-4.jpegのサムネール画像のサムネール画像

 待たない園長先生の話

 幼稚園を二つやっていた園長先生が、役場に頼まれ、保育園を一つ引き受けました。県議会議員もやっているので、行政の方針には協力しようと思ったのです。

 引き受けた保育園は、まったく行事をしない、親の言いなりになってきた保育園でした。非正規と四時間のパートでつないできたような保育園です。園長先生は、そういう保育に慣れて気の抜けた半数の保育士を入れ替え、「潮干狩りの親子バス遠足」をやることにしました。

 さあ、大変。ほとんどの親が反対です。行事なんてやったことがないのです。園長の言う事を聴くなんて経験がない。結束してボイコットしようとしました。最近の寂しい親たちは、時々こういう馬鹿げたことで団結するのです。子どものためではなく、自分の権利(利権?)のために結束するのです。自分たちの保育園が、新しい園長先生の保育園になってゆくのが嫌なのです。許せないのです。

 「なんでバスで行かなければならないのか、自家用車で行きたい」と言う親がいました。

 園長先生は「だめです。みんなでバスで行くのです」

 「じゃあ、行きません」

 もう、子どもの遠足なのか親の遠足なのか本末転倒、むちゃくちゃです。

 参加者が半分に満たなかったために、最初の年、園長先生はバス代をずいぶん損したそうです。でも、そんなことではめげません。親たちに宣言します。

 「私は絶対に変わらない。それだけは言っておきます。あなたたちが変わるしかない」

 わずか三年で、親子遠足全員参加の保育園になりました。親も楽しそうな、子どものための保育園になりました。

image s-2.jpegのサムネール画像

 長い間幼稚園や保育園を回って話をしたり、体験談を聴いたりして、時々自分は伝令役なのだと思います。以前書いたのですが、もう一度書きます。視覚障害の子を引き受けた理事長先生から聴いた悲しいけれどなぜか美しい話です。保育の難しさ、子育てを共有しながら、部族社会(運命共同体)にはなり得ない、三年間だけの宿命を象徴する話です。

im ages-4.jpeg

 私立の幼稚園の理事長先生の体験談です。男性ですが、子どもが大好きで熱血漢、県会議員もやっておられる年輩の方です。

 ある年、視覚障害をもっている子どもを引き受けたそうです。経験がなかったので躊躇したのですが、どうしても、と言われ、決心し、自ら勉強会や講習会に通い、出来る限りの準備をしたのだそうです。

 その子が入園して間もなくのころ、砂場でその子が一人で遊んでいて、自分の頭に砂をかけたそうです。その「感じ」がよかったのか、そっと、繰り返しかけたのだそうです。理事長先生は、注意することなしに「遊び」「体験」として見ていました。幾人かの子どもが集まってきて、その子にそっと砂をかけ始めました。それを理事長先生は、「育ちあい」として見ていました。長年保育をしてきた先生の経験からくる確かな判断がありました。その子のお母さんが見ていたことも、先生は知っていました。

 無事に3年が過ぎ、卒園が近づいてきました。そして、その子の母親が「あの日」のことを卒園の文集に書いたのです。砂をかけられ幼稚園でいじめられている我が子の姿がどれほど不憫だったか。それを先生たちは笑って見ていた、と。

 理事長先生は、あれほどびっくりしたことはなかった、悲しかったことはなかった、障がい児を預かるのはもうやめようかと思った、と話します。子どもに対する思い、保育にかける情熱に自信がありましたから、その気持ちが母親に伝わっていなかったことにびっくりしたのです。

 3年間そういう思いで過ごしてきた母親の気持ちを思うと、私はやりきれない思いにかられます。しかし、これは、いい理事長先生といい母親のエピソードです。

 その子は3年間、この二人に守られていたのです。


保育界の混迷/たぶん誰も確信がない。そして勘違い

 保育士さんたちに、「子育てから生まれる絆」〜幼児が親心を育て、社会に絆が生まれる〜という講演をして、講演のあと園長先生たちに呼び止められました。

 「先日、こども園に関しての説明を厚労省のひとから受けました。小さな会だったので、色々質問もしたのですが、よくわからないんです」と首をかしげます。その時に配られた資料には、先生の書き込みが細かい字でたくさんあります。一生懸命聴いていたのでしょう。

 「これをすると来るお金が増える、文科省と厚労省両方から補助が来るので得なんだと言われたように思います。子どもにも、教育と保育両方が受けられるし、親もニーズに合わせて預けられ、いいことばかりです、0.7兆円来るんです、と言うんです。ホントですか?」そして「私は、どうしても子どもには良いとは思えないんです。だって、保育園は幼稚園とは違うでしょ?」

 それは、違います。本気で取り組めば、ますます違います。子どものニーズが異なります。

 もう1人の園長先生が言います。「保育士は子どもの発達を見ますし、幼稚園の先生は教育が主体でしょ。そして、こども園では、8時間以上、8時間未満で、子どもを分けると言うんです。去年はたしか6時間で区切ってましたよね。単価のことでしょうけど、どうなってるんでしょうか?」

 通常、0、1、2歳を同じ敷地内で保育する保育園では、当たり前のように、「発達」という視点で子どもたちを見てきました。学問の領域とはちょっと違う。長年保育園をしてきた園長と、幼稚園をしてきた園長では、子どもに対する目線が違います。8時間で線を引くという考え方は、保育団体側の主張として聴いた気がする。決定したとは知らないし、こども園に移ると補助金が増えるというのも初耳。この件に詳しい園長の分析では、東京都では認定こども園に移行すれば、補助金が二割減になるのでは、ということでしたから。しかし、それも「たぶん」の話でした。

 私は、園長先生たちに、「全体の予算がどうなるか、誰も知らない状況で進む方向だけが閣議決定され、子ども・子育て会議と役人が迷走しているんでしょう、現時点でされる説明は、あまり意味がないと思いますよ。お金をかけずに待機児童をなくすには潰しやすい小規模保育しかない、それに移行するために保育の概念が崩されようとしているのではないですか。でも、保育士がいないし、こども園は認可保育所の国基準を規制緩和するために利用されているようにも思えるので、気をつけて下さい」と言いました。

 子ども・子育て会議における様々な団体の意見書を読むとわかるのですが、同じ子育てについて論じているはずなのに、委員によって視点が違う。よく読むと、異なった利害がぶつかっている。子育てを論じながら、子ども不在の利益誘導の論戦のようです。政府や学者の言う「市場原理」の体現が、この会議かもしれません。水面下の迷走ぶりを見ていると、園長先生には、

 「とりあえず現場は無理に変えないでほしいです。会議には、保育士が増え、仕事に魅力を感じるような仕組みになることをまず第一に考えてほしいですね」と解説します。

 園長先生たちのいくつかの素朴な疑問に答えられなかった私は、こんな質問をされたんだけど、と若手の論客園長に確認の電話をしました。

 すると、偶然にも同じ説明会に出ていた園長が、それは園長先生たちの勘違いです。短時間長時間保育を8時間で切る、という話も、両方の省から来る予算の話も、とてもわかりにくく早口に説明されていたので、そんな風に聴こえてしまったかもしれませんが、結局はまだ何も決まっていません。幼保一体化を本当に目指すのか、縦割りを省庁の次元でどうするのかも流動的ですね。小規模保育を増やす、ということだけは確かなようですが、と説明してくれました。

 ここで問題なのは、厚労省の役人の説明を、「普通の園長先生がどのように理解するか」です。

 こういう問題が得意で役人の説明に慣れている人には、「ああ、まだ何も決まらないのだな、決まったとしても実現は無理かもしれない」と思えることでも、「ああ、保育はこういう風に変わってゆくのですね、準備をしなければいけないのですね」と真面目に受けとめてしまう人たちが相当数いるのです。私の経験から見ても、乳幼児に関わる仕事を目指す人には、理論派よりも感性の人たちが多く、それはある意味、大切なことなのです。

(過去にも、0才児保育、ステーション保育、11時間開所、病児保育、一時保育など、役人の説明では、それが社会のニーズで、しかも良いことと説明されながら、やってみると、うまく行かず、数年経って、屋根に登ってハシゴを外されたような気持ちに現場がなることがありました。そのしわ寄せが現場に来て、その結果保育界全体の質が落ちてゆく。そして、子どもたちを眺めながら、「結局、子どものためにはなってないじゃない」と悔しい思いをした園長先生たちが沢山いたのです。)


i mages-6.jpegのサムネール画像のサムネール画像

 思い出すのが、2000年ころだったでしょうか。「ゆとり教育」というのを文科省と政治家が言い始め、幼稚園の教育要領が変わって、それに準ずる保育園の方も、「教えてはいけない、子どもの気づきを大切に」とか、「見守る保育をして、指導してはいけない」という主旨の厚労省の指導があったのです。そして、真面目な園長ほど、「指導しない保育?」をしたのです。

 7、8年経って、学校教育に混乱が現れ、小一プロブレムや学級崩壊が起こり、文科省はゆとり教育の転換を決めました。厚労省も慌てて火消しに走り回りました。その時、ある大きな大会で厚労省の椋野美智子氏が、「それは現場の勘違いです」と言ったのです。

 現場の勘違い、それで厚労省は済ませようとしました。しかし、その時の十年に渡る(一見かっこいい)子どもの主体性を育てる保育で育った子どもたちが、今、たぶん10才から18才くらい。その子たちの人生を考えると、勘違いかどうかは別にして、勘違いするような説明や指導をした厚労省の責任は大きいと思います。

 「社会で子育て」などと言って誤摩化し、個々の直感ではなく、仕組みや学問で子育てをしていると、仕組みや組織が巨大なだけに、「勘違い」が多くの人生に一律の影響を与えてしまう。良い影響もあるでしょうが、人間の多様性や運命の偶然性、そして祈りが、安全網の役割りを果たさなくなるのです。

 

 子どもの主体性に関して言えば、「逝きし世の面影」(渡辺京二著)第十章〜子どもの楽園〜に出てくるような、江戸の末期から明治の初期にかけてこの国全体を包んでいた、「子どもを崇拝する」「子ども主体に大人が生きる」日本的文化・文明・伝統の中で、4、5人の大人たちが1人の子どもを見守るような子育てだったら構いません。

 1人の子どもの命に4、5人の大人たちが感謝する、その積み重ねで社会はまとまります。その不思議なまとまり方を見て、この国を、欧米人はパラダイスと呼んだのです。しかし、1人の保育士が子どもを20人も30人も、一日中見続けなければならないような仕組みの中で、画一的な保育はできたとしても、それぞれの子どもの自主性を尊重するのはほぼ不可能です。単純に「指導しない保育」が広がっていったのです。

 幼児は、野性的で残酷なところがあります。集団にする場合は、しっかり見守っていないと弱者に厳しく、辛い社会をつくることがあります。同年齢の幼児をこれほど長時間集団にすること自体が、実はとても不自然で、人間社会ではあり得なかったことなのです。

 「見守る保育」「気づきの保育」は、本来親や祖父母、兄弟が見守り、家族の絆に気づく「子育て」なら可能だった。

 仕組みよりもまず、子育てに関する意識を「子ども主体」に社会全体で統一しなければと思います。

逝きし世の面影表紙.jpg

12月23日鎌倉/KNOB君のコンサートにゲスト演奏します。

今年もアッという間に年末です。
早かった。
年末に、ディジュリドゥー奏者のKNOB君の演奏会に参加します。
一月に、スイートベージルで吹かせてもらって、今年は、IAMとKNOB君関係を主体にほぼ隔月で演奏しました。
講演会の最後に一曲、というリクエストもありました。
お寺で話し、演奏するのは特に好きでした。
2013年12月23日(月・祝)
開場13:00  開演 13:30
会場 雪堂美術館
出演 KNOB (ディジュリドゥ、石笛 他)
ゲスト 松居和(尺八)
          山本コヲジ(クリスタルボウル)
入場料 予約 3500円  当日 4000円
お申込みは 天然空洞木で受け付けています。
メール dream-tree@knob-knob.com
FAX  0422−49−1703
☆会場情報 ≪雪堂美術館≫
神奈川県鎌倉市山ノ内1391−1
TEL 0467−24−4563
JR北鎌倉駅下車 徒歩4分

小野省子さんの詩「愛し続けていること」朗読し続けています。

『愛し続けていること』 詩/小野省子

いつかあなたも
母親にいえないことを
考えたり、したりするでしょう

その時は思い出してください
あなたの母親も
子供にはいえないことを
ずいぶんしました

作ったばかりの離乳食をひっくり返されて
何も分からないあなたの細い腕を
思わず叩いたこともありました
あなたは驚いた目で私を見つめ
小さな手を不安そうにもぞもぞさせていました

夜中、泣き止まないあなたを
布団の上にほったらかして
ため息をつきながらながめていたこともありました
あなたは温もりを求め
いつまでも涙を流していました

わたしは母親として
自分を恥ずかしいと思いました
だけど苦しみにつぶされることはなかった
それは小さなあなたが
私を愛し続けてくれたからです

だからもしいつか 
あなたが母親にいえないことを
考えたり、したりして
つらい思いをすることがあったら
思い出してください

あなたに愛され続けて救われた私が
いつまでもあなたを
愛し続けていることを

http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm (省子さんのホームページ)

joseph1.jpgのサムネール画像のサムネール画像

 出会うことの不思議は、人それぞれが自立出来ないといことを証明しているようです。三年間、私の講演を聴いた一人の母親が、手紙と詩を送ってくれました。

 「話が進むに従って、私の中で不思議に思っていた問題が少しずつ解かれていきました」と書いてありました。

 自分が子育てをしながら書いた詩の解説に、私の講演がなったのです。私は、講演で小野さんの書いた詩を朗読し、詩集を配ります。(衆議院特別委員会で公述人をした時も最後に読みました。)短い詩が、私の2時間の講演の全てを説明してくれます。詩という芸術の素晴らしさを実感します。

 余韻、余白、で表現する、これは、言葉の喋れない0才児が私たちから「人間性」を引き出そうとする人間の進化の仕組みに似ています。

 感性の世界で全体的につながることを要求する。詩人の感性は、子どもの感性とよく響きあう。この余韻、余白から生まれる時空を超えた感性の絆が、人間社会には大切なのだと思います。人が育てあうことの背景には「信頼」が存在する。信頼を確認するために人は永遠に育てあう。

 人間が育てあい、支えあう行為が、人間対システムになってはいけないと思います。人間対自然であればいいけれど、システムは人間の思考から出来上がっていることが多いので、偏りが出て来てしまう。社会全体で子育て、と政治家は言うけれど、それでは、社会から本来の人間性が失われてしまう。システムが人間を支配するようになってしまう。

 幼児は信頼することで私たちに人間であることの幸せを教え、ときどき許し、絆を育てる。それが初めにある。それが社会。そして私たちは、詩人がそう言うように、幼児によって「救われる」。そうやって人間性は回り続けてきた。絶対的弱者が運動の始まりに存在して、動機、意思を生み出す。
 講演でこの詩を声に出して朗読すると、時々、最後のところで泣きそうになってしまいます。


(小野さんの子育て詩集「おかあさんどこ」がhttp://kazumatsui.com/genkou.htmlからダウンロードできます。)