インドに来ています。久しぶりに、一年半ぶりにシャクティーセンターを訪れています。
空港に降りた時から、「変わらないインド」がそこにあります。生きている感じがします。貧しくて、働けなくなったり怪我をしたら怖い、諦めるしかない世界。じっとりと人間が生きています。人類が集団である感じがします。アメーバーような人類です。理屈や理想論とは別の次元で、お互いがパズルのように組み合わさって、だから存在する「生きる力」です。この力は、強い。
シスターチャンドラもシスターフェルシーも元気そう。空港に迎えに来てくれた二人の姿を見てホッとしました。シスターは少し体重を減らし、フェルシーは少し増えて、ちょうどいい感じです。マドライ空港は、典型的な田舎の空港だったのが、ずいぶん立派に巨大になっていました。インドの南部はハイテク産業の拠点になるはず。その玄関口として立て直されたのです。
センターに着くと、歓迎の詩と踊りをみんなからプレゼントされました。新しい娘たちがたくさんいます。みんなで祈りました。
インドの景気はどうですか、とシスターに聴いたら、「お金持ちはますます金持ちになるけど、貧乏人はますます貧乏になってきました」
ダリットに対する差別の問題も、なかなか簡単に改善というわけには行かないようです。宗教や職業の世襲制がからんだ複雑な常識の中にカーストは存在しています。二千年の呪縛です。アメーバーの解体は、思うようには進まないようです。
ダリットの少女たちも8年生までは学校へ行けるようになって来ました。行政や政治家の意識も変わって、選挙があるたびに、教育の権利が少しずつ守られるようにはなってきました。ダリットの人口はインドの人口の20%ですから、大票田ではあるのです。民主主義というパワーゲームも、試みとして一部機能しつつあるのです。
しかし、新たな問題として、ダリットは学歴社会での差別と闘わなければならなくなってきているそうです。村で暮らしている時には体験することのなかった差別の現実を、教育と交通の発達のおかげで、体験出来るようになってきたのです。差別のフィールドが、個人の人生体験の次元で広がって来ている、ということです。ドキュメンタリーで語られたようなあからさまな差別の状況は、いつかは改善されるのでしょうけれど、まだまだ遠い遠い道のりです。
まだ現時点では、差別の現実を体験する権利を勝ち取ることが出来た、という段階です。
私もアメリカで人種差別を幾度も体験しました。多くの黒人の子どもたちが中学生くらいで崩れるように暗い顔になっていくのを見て来ました。知る、ということは、実は、覚悟のいることなのです。
それでも、センターに来ている子どもたちの表情は明るく元気で、私をずいぶん勇気づけてくれます。
美しさで量れるものがそこにはあります。美しさ、は「絆」の目に見える形だと思います。
そこへ共励保育園の長田先生がから、この映像を見よ、というメールが入って来ました。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/1efa580162d941628d5d95393ebad583
保育所の国基準を緩和せよ、という全国知事会の要望のニュースでした。大阪の橋本知事がテレビに出て来て、0才児一人当たりの面積を緩和しろというのです。簡単に言えばもっと詰め込めるようにしろ、ということです。
インドにいると、なぜかこうした子育てに関する問題が、より一層くっきりと異常に見えて来ます。
貧しい村で育ち、いまも貧しい暮らしをしているシャクティの卒業メンバーが、日曜日に子連れで集まってくれることになりました。結婚、子育てが人生そのものとして受け入れられている国の風景です。みんな子どもを私に見せたいのです。
「シスター?チャンドラとシャクティの踊り手たち」から、映像のメッセージ
オープニング http://youtu.be/YXk7xexQR8I
セルバの結婚観 http://youtu.be/h3OpPP_JY_g
