自分も昔は完成していた

 砂場で幼児が集団で遊んでいる姿をながめ、人間は、自分がいつでも幸せになれることに気づきます。幸せは、勝ち取るものでもつかみ取るものでもない。「ものさしの持ち方なのだ」というメッセージを、遊んでいる幼児が私たちに教えます。砂場の砂で幸せになっている子どもたちを眺め、「私も昔、あそこに居た」「自分も昔は完成していた」と、みなが気づいた時、目標に気づいたもの同士の一体感が生まれます。

 ある人は、最近、人間たちの遺伝子がオンにならなくなった、と言います。ある人は、常識が変わった、社会が変わった、価値観が変わったと言います。私は、幼児たちが、本来の役割を果たせなくなってきている、と言います。幼児たちが人間たちを人間らしく育てられなくなってきている、祖父母を祖父母らしくする天命を果たせなくなってきている、と言います。社会の大切な一員である0、1、2歳は、人間の中でも非常に特殊で不思議な存在です。0才児、1才児、2才児は、それぞれとても違う。こういう人たちには必ず強い役割がある、この変化の速度、時間のかけ方には大切な意味があるはずです。

 私は、二十歳の時にインドへ行き、それから何度かそこで過ごしました。インドの村で、何千年の過去を感じる。ゆったりとした時間を過ごしていると、一日の生活のどこかで必ず乳幼児を見かけるのです。母親に抱かれている風景です。乳幼児が視界に入ってこない日は、まず考えられません。

 絶対にひとりでは生きられない人たちを仲間と意識し、時が流れてゆく。これが人間社会をつなぐ何千年も続いてきた「意識」ではなかったか、と考えました。そして、現在の先進国の状況を見ていると、だからこそ、いま多くの人たちが、親や祖父母ばかりではなく、小学生から大学生まで、教師たちも経営者も、幼児を眺める時間を増やさなければならないのではないか、と思うのです。

 人間社会が人間性を取り戻すために。


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仙台の教え子無事でした。

インターネットは本当にありがたい。

保育士をやっている教え子から無事のメールが届きました。

「このアドレスで届くでしょうか?電波も不定期なのでちゃんと着くといいんですが‥

勤務先の子も、私も怪我一つなく元気です!

同じ市内の中でのあの惨状。行方不明の保護者・知り合い。あまりのことに茫然とするばかり。

余震が続いたり、ライフラインがなかなか復活しなかったりと色々ありますが、まずは目の前にいる子ども達となんとかやっていこうと思います。

倒れない程度にがんばります!」

日本中で保育士たちが被災地の保育士たちを応援しているはずです。

ウズヤマさんもがんばって下さい。

インドで地震のニュースを見ています

 タミルナード州の、ここDindigulのホテルではBBCとCNNのニュースが入るのですが、どちらも報道がセンセーショナルで、日本にいる家族のことがとても心配になります。

 もう、メールと電話で連絡がとれたのですが、無事がわかるまでは、シスターたちも私の部屋に集まって一緒にテレビを見つめていました。家内の実家と連絡がとれて、無事がわかった時はみんなで感謝をしました。
 これだけたくさんの方たちが亡くなっているわけですから、感謝というのも不謹慎のように思えました。でも、心からホッとしました。自分が一緒にいないことに自責の念を感じてしまいます。
 インドの修道会でも、日本へ向けての祈りの集まりが始まっています。この地方も、インドネシア沖の地震による津波では、たくさんの被害者を出しているのです。その時のメモリアル碑が、あちこちの海岸に立っています。
 仙台では、東洋英和で教えていた時の教え子が公立の保育士をしています。ウズちゃん大丈夫?
 福島の園長先生たちは大丈夫だろうか。みなさん元気ですが、お年だから心配です。
 保育園はまだ開いていた時間帯です、子どもたちはうまく避難できたのだろうか。
 祈るしかないです。
 

インドにいます。







 インドに来ています。久しぶりに、一年半ぶりにシャクティーセンターを訪れています。

 空港に降りた時から、「変わらないインド」がそこにあります。生きている感じがします。貧しくて、働けなくなったり怪我をしたら怖い、諦めるしかない世界。じっとりと人間が生きています。人類が集団である感じがします。アメーバーような人類です。理屈や理想論とは別の次元で、お互いがパズルのように組み合わさって、だから存在する「生きる力」です。この力は、強い。

 シスターチャンドラもシスターフェルシーも元気そう。空港に迎えに来てくれた二人の姿を見てホッとしました。シスターは少し体重を減らし、フェルシーは少し増えて、ちょうどいい感じです。マドライ空港は、典型的な田舎の空港だったのが、ずいぶん立派に巨大になっていました。インドの南部はハイテク産業の拠点になるはず。その玄関口として立て直されたのです。

 センターに着くと、歓迎の詩と踊りをみんなからプレゼントされました。新しい娘たちがたくさんいます。みんなで祈りました。

 

 インドの景気はどうですか、とシスターに聴いたら、「お金持ちはますます金持ちになるけど、貧乏人はますます貧乏になってきました」

 ダリットに対する差別の問題も、なかなか簡単に改善というわけには行かないようです。宗教や職業の世襲制がからんだ複雑な常識の中にカーストは存在しています。二千年の呪縛です。アメーバーの解体は、思うようには進まないようです。

 ダリットの少女たちも8年生までは学校へ行けるようになって来ました。行政や政治家の意識も変わって、選挙があるたびに、教育の権利が少しずつ守られるようにはなってきました。ダリットの人口はインドの人口の20%ですから、大票田ではあるのです。民主主義というパワーゲームも、試みとして一部機能しつつあるのです。

 しかし、新たな問題として、ダリットは学歴社会での差別と闘わなければならなくなってきているそうです。村で暮らしている時には体験することのなかった差別の現実を、教育と交通の発達のおかげで、体験出来るようになってきたのです。差別のフィールドが、個人の人生体験の次元で広がって来ている、ということです。ドキュメンタリーで語られたようなあからさまな差別の状況は、いつかは改善されるのでしょうけれど、まだまだ遠い遠い道のりです。

 まだ現時点では、差別の現実を体験する権利を勝ち取ることが出来た、という段階です。

 私もアメリカで人種差別を幾度も体験しました。多くの黒人の子どもたちが中学生くらいで崩れるように暗い顔になっていくのを見て来ました。知る、ということは、実は、覚悟のいることなのです。

 それでも、センターに来ている子どもたちの表情は明るく元気で、私をずいぶん勇気づけてくれます。

 美しさで量れるものがそこにはあります。美しさ、は「絆」の目に見える形だと思います。

 

 そこへ共励保育園の長田先生がから、この映像を見よ、というメールが入って来ました。

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/1efa580162d941628d5d95393ebad583

 

 保育所の国基準を緩和せよ、という全国知事会の要望のニュースでした。大阪の橋本知事がテレビに出て来て、0才児一人当たりの面積を緩和しろというのです。簡単に言えばもっと詰め込めるようにしろ、ということです。

 

 インドにいると、なぜかこうした子育てに関する問題が、より一層くっきりと異常に見えて来ます。

 貧しい村で育ち、いまも貧しい暮らしをしているシャクティの卒業メンバーが、日曜日に子連れで集まってくれることになりました。結婚、子育てが人生そのものとして受け入れられている国の風景です。みんな子どもを私に見せたいのです。


「シスター?チャンドラとシャクティの踊り手たち」から、映像のメッセージ

オープニング http://youtu.be/YXk7xexQR8I    

セルバの結婚観    http://youtu.be/h3OpPP_JY_g        






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