文科省が5歳児に「教育プログラム」

コロナ禍のいま、それどころではない、という感じもするのですが、書き残しておくべき重要なことだと思うので、続けます。

 

文科省が5歳児に「教育プログラム」

最近文科省が始めた施策です。全国的に普及を図るそうですが弊害の方が怖いのではないか。特に保育と教育の混同は危ない。

 学習態度・学力ばらつき「小1問題」解消、文科省が5歳児に「教育プログラム」 https://news.yahoo.co.jp/articles/bf08e64b24c984f8db7656e8d13e19070c92e048   (読売新聞)

 「文部科学省は、小学校入学時の学習態度や学力の差をなくそうと、5歳児向けの共通教育プログラムを作る方針を決めた。幼稚園や保育園、認定こども園で生活や学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげる。近く中央教育審議会で検討を始める。

 同省は2022年度からモデル事業をスタートし、効果的な教育活動をプログラムとしてまとめ、23年度以降の全国普及を図る。

 幼少期に意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」を培うと、将来の学歴や所得に大きく影響するとの海外研究もある。」

新制度で、11時間保育を標準と定め8時間勤務の保育士に三十人の五歳児を任せようとした時点で国の施策は常軌を逸している。それを、短時間のパートでつないでもいい、と規制緩和し、今度は「生活や学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげる」体制を就学前一年間で作れというのですから、保育の質の格差が広がっている現実を考えれば無謀というか、乱暴に過ぎる。実習に行った学生が、あの園に実習に行くと保育士になる気なくなるよ、と後輩に伝える園が昔からある。毎年二割の保育士が入れ替わったり、園児どころか実習生を育てられない、学生をいじめるような統制の取れていない園もある。そんなバラバラの保育環境に「5歳児向けの共通教育プログラム」を要求したらどうなるか、私には想像がつく。

長い間、実習先であったことは口外してはならない、と学生たちは誓約書を書かされてきたのです。個人情報保護というのは言い訳で、現場の実態を知られたくない意図があったのではないか。その誓約書が、20年間心の縛りになって苦しんだ主任さんがいました。私が生涯忘れない、保育者の涙です。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1983 

特に気にかかるのは、そうした良くない保育現場の現実を子どもたちが見ていること。実習生たちが一週間の実習で、保育士になる気がなくなるほどショックを受け、最近はベテラン保育士でさえ耐えられずに辞めていく光景を、園で過ごす幼児たちが目の当たりにして育っていくこと。その子は虐待を受けなかったとしても、「小さなお友だち」や「実習のお姉さんたち」がそういう扱いをされるのを幼児期に繰り返し見ること、しかも毎朝親によってその場に連れて行かれることが園児たちにどういう影響を及ぼすのか。どの程度の心的外傷になって残るのか。正確に把握することは誰にもできないからこそ、気にかかる。強者が弱者を威圧したり、思いやりに欠ける仕打ちを繰り返す姿を見続けることが、3、4、5歳児の人生に負の影響を及ぼすだろうことは容易に想像できます。その先に義務教育がある限り、誰にとっても「他人事」ではないのです。本来政府が責任を持つべき制度の混迷によって幼児期に植え付けられた不信感が、日本という国を覆っていく。

「5歳児向けの共通教育プログラム」で「幼少期に意欲や根気強さ、協調性を培い」たいなら、そういう風景を減らすことが先決でしょう。子どもの成長過程におけるこういう風景の存在は道徳教育などでは修復できないのです。

こうした風景を無くす、とまでは言いませんが減らすこと、それが、私が推奨している「親の1日保育士体験」の出発点にありました。親と保育者の間に波風を立てずに、一緒に幼児に囲まれることによって自然に育つ信頼関係で「親に見せられない風景」を封じてゆく。これしかないと思いました。

いつでも親に見せられる保育をする、それが原点であり保育の日常なのです。

(幼稚園の場合も一律に論ずることはできない状況になっています。一日五時間保育でお弁当持参、入園時に倍率が出る園もあれば、こども園という枠組みに入り程度の差こそあれほぼ「保育園化」している園もある。補助金を使って強制させられた預かり保育も、毎日2、3人という園もあれば、半数以上が、という園もあります。国の思惑は、保育園並みに子どもを長時間預かり、幼稚園並みに教育をさせようということで、それは幼保一元化やこども園を作った時にそう宣言しているのですが、幼稚園と保育園は「親が育つ」という環境において、子どもたちの成長過程においても、もともと異質のものだった。その異質性は「子育て」には大切なことだった。)

小学校の教師を半分非正規雇用にし、全員パートでいい、無資格者がいてもいい、派遣会社に頼ってもいい、とした上で、「学習態度・学力ばらつきの解消」を、まず学校でやってみればいい、と思いました。(怒っていましたから。)

経緯を見ていると中央教育審議会の学者たちは、所詮、三歳未満児を積極的に母親から引き離そうとする義務教育にとって致命的な国策に異議を唱えない人たち。子育てと教育を混同している。いままで学校で出来ていたことが出来なくなったからと言って、現状を理解しようともせず無責任に、それを保育現場に押し付ける。国の子ども子育て会議(自治体の有識者会議、審議会)もそうです。専門家たちは「小一問題」の本質がわかっていない。いや、わかっていても政治家の顔色をうかがっているだけで、行動しないのか。それとも、「保育園落ちた、日本死ね」的な一方的な世論をいまだに恐れているのか。

彼らの優柔不断な施策によって本当の意味での国力(幸せになろうとする力)が失われていく。

 

現在進行形の家庭崩壊が進むほど、保育者や教師の「子育て」における役割が重く、大きくなっている。「可愛がる」、「寄り添う」ことでしか救えない子どもたちが、中学でも高校でも増えている。よほどみんなで心を合わせなければ、できないこと。その子の「はじめの一歩」を見て、幼児期を知っている保育者たちとの連携が凍りついた魂を温め生き返らせるかもしれない。今、一体感を持って本気で取り組まないと、限界がそこまで来ています。

「同省は2022年度からモデル事業をスタートし、効果的な教育活動をプログラムとしてまとめ、23年度以降の全国普及を図る。

 幼少期に意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」を培うと、将来の学歴や所得に大きく影響するとの海外研究もある」と書かれている記事の前半部分は文科省が言ったことでしょう。

後半はマスコミが付け加えたのかもしれません。が、モデル事業でうまく行ったから全国普及ができるような状況にはない。子どもの発達や、意欲や根気強さ、協調性などの「非認知能力」に関わるプログラムは、それを実施する側の人間力、優しさ、子どもとの関係や立場、今回の場合は主に年長組を受け持つ幼稚園教諭と保育士ということになるのですが、その人たちの「意欲や根気強さ、協調性など」によって左右される。

公立園をイメージしただけでも、あの市では無理だけど、あの地域ならできるかもしれない、といくつかの自治体の姿が思い浮かびます。主に現場と行政の信頼関係や一体感に基づく判断なのですが、私を講師として呼んだ自治体であってもそうなのです。しかも、あの市ならという自治体でも、市長選挙の結果や部長の異動で状況は突然変わってしまう。幼稚園、保育園では、いまさら親子関係を重視する意見を聞きたがらない園の方が多いかもしれない。それほどみんな疲れ切っている。そういう園でこの「共通プログラム」を無理にやろうとしたら、なお一層保育者(先生)を怖がる子どもが増えるだけではないのか。だからこそ、本来そのあたりのことは、0、1、2歳の時の成長過程を時間をかけて経験し、これから人生を重ねていくその子の親によって成されるべきことだったのです。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2591 :幼児を守ろうとしない国の施策。ネット上に現れる保育現場の現実。)

(家庭型養護施設「光りの子どもの家」の菅原哲男氏の著書「誰がこの子を受けとめるのか」202頁に「子どもと関わる」という章があります。三才まで乳児院で育った子と、いい環境とは言えなくても家で親に育てられた子が家庭型養護施設で高校生になり、乳児と関わった時の実話と菅原先生の考察が綴られています。要約します。

三才まで乳児院で育った世話好きな高校生亜紀は、乳児の由紀が可愛くて仕方ない。その亜紀がある日自分の部屋で哺乳瓶にジュースを入れて飲んでいた。少ない小遣いから哺乳瓶を買って一人で飲んでいた。そして、同じように乳児院で育った高校三年生の嬉は、食欲が落ちてゆき、ある日、保母にリンゴをすってくれと頼む。保母にそうしてもらっている乳児が羨ましかったのでしょう。そして、一歳半の乳児がこの二人には寄り付かない。三歳まで親に育てられた高校生には懐くのに、この二人には懐かない。疑似家族のような関係の中で、施設に入所する以前の乳幼児期の体験の差が「育てる側の立場になった時に」浮き彫りになるのです。

菅原さんが書く、乳児期の「個別的継続的な養育者との関係」の欠如が高校生になっても、人間関係、特に幼児との関係に深い影響を与えている光景を読むと、政府がパートでつなぐ保育を容認し、三歳未満児を長時間預けることを奨励する危うさをひしひしと感じます。

http://www.luci.jp/diary2/?p=1676 愛されることへの飢餓感・荒れる児童)

 

(ある幼稚園の男性園長が面白そうに話してくれました。「卒園児が、いまはもう中学三年生なのですが、学校でとんでもない『ワル』になったというのです。通っている中学の校長が私の友人で、お前のところの卒園児だが、本当に困り者だと言うのです」

一度見に行ってみよう、園長先生は中学校に出かけました。

そして、私に言うのです。

「見に行ったら、ちゃんとあの子がそこに居ました」

幼児期を知っている園長には、その子の本質が見えたのです。そして、それは変わっていなかった。

幼児期が見える、本質が見える。これが「親であること」。だから、担任が変わり続ける仕組みに親の肩代わりは出来ないのです。「親身」というのは、親の身と書く。こういう時代だから、校長先生たちも親身になることを求められている。そうすると親たちがますます親らしさを失いそうですが、仕方ない。子どもたちはそれを求めている。

中学の校長先生たちに講演する時にお願いします。保育園や幼稚園に年に三日でいい、行って下さい。敷地の中にいるだけでいい。教育的な考えを捨てて、幼児に肩まで浸かる。すると、目の前にいる中学生たちの中にその子の小さい頃が見えてくる。それに話しかければいい。そうしないと魂を導けない。

懇親会の席で、校長先生たちが私の席に来て笑顔で言います。

「松居先生の話、孫が居るので良くわかります」

そして、携帯電話の中に入れてあるお孫さんたちの写真を順番に見せてくれるのです。

「御本尊様ですね」。

教育もまた、時々御本尊を拝みながらするもの。できることなら、生徒たちと一緒に……。)

 

文科省は、保育者一人で子ども三十人を相手に一年間で「良い子」に育てろ、しつけろ、「学習の基盤となる力を養い、小学校入学後の学びにつなげ」るようにしろと言う。親の協力があっても、以前に増して1クラスに二、三人は発達障害と思われる子どもと、いつでも引き金を引かれる予備軍を抱えている現状では、もう無理なのです。

「子育て」があっての「教育」でした。

「子育て」は、人間が子どもたちの信頼に応えようとすること。大人たちが、子どもたちの信頼を失わないように努力すること

「教える」というコミュニケーションは、人間の脳が最も発達する3歳までの時期に、子どもたちが、自分が生まれてきた場所は信ずるに足る環境なのだと認識し、初めて成り立つものだった。そう考えるべきです。

学校という仕組みが普及する以前、人類はこの「教える」というコミュニケーションの持つ普遍性に種の存続を賭けていた。その基盤に、数人の大人たちが子どもを囲み、可愛がる、守る、一緒に子どもの幸せを願う、という行いが常識としてあった。双方向に非認知能力が育っていた。

ま、共通プログラムが必要なのは子どもたちではない。親たちでしょう。

「子育て」という大自然から与えられた共通プログラムは、人間が自由や利権を弱者によって奪われることで成り立ち、人間を導いてきた。「自由」や「平等」などという言葉を使ってそのプログラムに反発しても、それは将来を傷つけるだけなのだ、ということに最近の親たちは気づかなくなっている。

疲弊している教師たちが言うのです。「様々な事情を抱えている子どもたちに対応しきれない」と。

ベテラン保育士たちは見抜いています。「様々な親を抱えている子どもたちに対応しきれない」。

老園長が言いました。全ての保育園、幼稚園、学校の門のところに横断幕を掲げて、書いておけばいいんだ。「あんたの子だろ」って。

国は早く方針を転換してほしい。マスコミもきちんと報道してほしい。三歳児神話は、神からの啓示、遺伝子からの要求、そこに調和への道筋が示されているのだと覚悟を持って親たちに伝えてほしい。

学校という仕組みに子どもたちが入っていくための準備をするのは親たちであって、専門家が作った「共通教育プログラム」などではない。

「教育」という言葉で子育てを誤魔化すのは、やめた方がいい。

保育という仕組みをもう一度、人間の営み、という本来の持続可能な姿に近くしていかねばなりません。教育という概念から離れ、保育界に「可愛がる」「寄り添う」の原則を取り戻していかなければならないのです。

 

三歳未満児を(標準11時間)保育所で預かれば女性が輝く、と言ってしまった政府の施策に、当事者である幼児たちに対する「思いやり」「気遣い」が欠けているのです。政治家の思考の道筋に「非認知能力」が呆れるほど欠けている。ユニセフの「世界子供白書2001」に、三歳までの、親や家族との経験や対話が後の学校での成績、青年期や成人期の性格を左右する、とはっきり書いてある。必ずそうなるとは思いませんが、そうだろうな、と思います。

萩生田さん、田村さん、散々説明したでしょう。保育士に子育てはできません。親が親らしさを失うことが仕組みにとって致命的なのだ、と。あなたたちは理解したはず。今は、コロナ対策で大変でしょう。しかし、コロナ禍の中ですり抜けていく保育、教育に関わる施策が乱暴過ぎます。「短時間勤務の保育士の活躍促進」にしても、「5歳児向けの共通教育プログラム」もそうです。これに反対しない野党も含め、すでに持続不可能になっている仕組みに、政治家たちが、選挙に勝つことを目標にさらに負荷をかけている。

すべての人間が赤ん坊と過ごす時間を数年持つ、それが人類の存続にとって不可欠な「共通プログラム」でした。このプログラムの偉大さに、中教審や子ども・子育て会議はさっさと降参して、少し素直になればいい、そんな風に考えます。

(関連リンクです。)

(いい人になること:「非認知能力」http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3016

(子育てというコミュニケーション: http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3282 

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3491  :「短時間勤務の保育士の活躍促進」がいまの政府の姿勢を端的に物語っています)

副園長先生からの質問。The Direction You Take

幼稚園の副園長先生から質問をもらいました。

「子どもたち、とくに幼児にとって今のコロナの状況では何を一番大切にしなければならないのか」と。

大人たちが真剣に、頑張って子どもたちを守ろうとしていることが子どもたちに伝わる、ということが大切だと思います。

私は特定の信心をしているわけではないのですが、これを機会に「祈ること」みたいなコミュニケーションを子どもたちに教えることができるといいですね、と答えました。

「将来この『コロナ世代』と言われる子ども達が大人になった時、この現代はどういう意味をもってくるのか」という質問が最後にありました。

感染するしない、という次元を脇に置いて考えれば、試練は必ず良い人間性を引き出し、助け合いの土壌を生むと思っています。

そう書いてから、昔作ったこの曲を思い出しました。音楽は祈り、時代を超えて鳴り続けます。子育ては、子どもたちの信頼に応えようとすること。それが永遠に連鎖していくこと。

 

The Direction You Take 

(from “The Direction West” by Kazu Matsui)

It was one of the greatest recording session with the Vocalist Jennifer Warnes, ​who sang “Up Where We Belong” with Joe Cocker year after this recording.  This song is my prayer for the future generations.   Kazu

このレコーディングの翌年、ジェニファーはジョー・コッカーとのデュエット曲「愛と青春の旅立ち」で全米1位になりました。自宅で一週間歌い込んだあと、スタジオではほぼ一回で決めてくる素晴らしいセッションでした。作詞は私で、作曲はヒットメーカーの林哲司さんです。私には自身に書いた応援歌になっていて、世界が混沌から抜け出るための祈りと希望の灯火となればいいなと思います。

The Direction You Take 

(from “The Direction West” by Kazu Matsui)

Words-By – Kazu Matsui

Music-By – Tetsuji Hayashi

Direction you take

Do you know the blessings from the hills

Morning dews are echoes from the stars

Loneliness of the shoreless ocean

Let’s you be one with the wind

Sail to the rising sun

When you see the streams of your life

Do you know the direction that you’ll take

When you chart your way across the sea

You will be one with the wind

Sail into the morning sun

On this shoreless sea, all wonderers are not lost

Ask yourself again the meaning of the waves

Now you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

You’ll see

Do you know the depth of all the sea

And the play shadows on the waves

Emptiness of the far horizon

Let’s you be one with the wind

Sail to the evening sun

On this shoreless sea, all wonderers are not lost

Ask yourself again the meaning of the waves

Now you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

Moonless night of silent sea, you feel so lonely

Then you see the distant sorrow

May your soul reach me

Keep the hope, keep the faith

 as all the stars shining in their splendor

On this shoreless sea, all wonderers are not lost

Ask yourself again the meaning of the waves

Now you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

I know

Well, you are standing tall, the sun on your face

The answers fly to you on the edge of a wind

You’ll see, 

On this shoreless sea

by Kazu Matsui

講演会後に、送られてきた感想文から二つ

最近の講演会後に、送られてきた感想文から二つ。話をする機会がもらえたことに感謝です。

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松居先生、講演会、また、懇談会でもお話が聞けて嬉しく良かったです。

ありがとうございました。

講演会では、松居先生のお話に笑ってしまったり、私自身体感していることや同意できることが多く感慨深くとても勉強になりました!本当に聞くことができてよかったです。

懇談会では、あまり詳しくお話することはできなかったですが、私の以前勤めていた職場での辛い経験を話した際、「そんなに辛いことがあったのに今はふっきれている顔になってて、すごいね」とおっしゃって下さったことがとても印象的に残っているのと同時に少し胸がスーッとしました。

その場では話し足りず、もっと私が以前勤めてた保育園での実態や、実習での出来事などを先生に話したくなりました。

保育士不足は実際、働いてみて理想と現実が異なりすぎて辞めてしまう人が多く不足しているのもあります。しかし、私は、大学や短大、専門などでの実習で日誌や先生たちからの暴言などの過酷な実態があり、描いた夢を諦める学生が私の周りに多くとても胸が痛い思いをしました。松居先生みたいな方に、そういう辛い経験をしたことがある若い世代の人たちの声ももっと聞いてもらえたら、とてもその人たちも救われるのではないかなと思いました。

また機会があればお話を聞きに行きたいと思います。お忙しい中、ありがとうございました!          (24歳 保育士)

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末の息子が保育園の時、1日保育体験をしました!!

若い男女の先生方が、こんなに小さな子供達のために、手抜きなしで体当たりの保育をしている姿に驚き、我が子は毎日こんなに充実した日々を送っているのかと驚愕した記憶があります。自然に触れ、季節の行事を行い、園児の手作り神輿に本物の神主さんが神事を行う。給食の食材を確認し調理員さんにお礼を言い、お茶をこぼせば自分で拭く。プールでは思い切りスキンシップをはかり、なわとびでは妥協させずチャレンジさせる。運動会のためにパパたちが本格的な“嵐”のダンス特訓し、パパ友で飲み会をするようになる。お母さん方はとても嬉しそうでした。一つ一つが印象深く残っています。幼~高校までのいろんな先生方を見てきましたが、幼・保の先生方が一番熱かったと感じます。

素敵な女性の園長先生でしたが、松居先生のお話を実践されていたのですね。勿体無いくらいの恩恵を受けたと感じ、卒園式では何とも言えない感謝に涙が溢れました。

昨今、“イクメン”といううれしい言葉もありますが、“産後クライシス”などの言葉もあり、産後にお父さんがゲームに没頭して育児を面倒くさがる、などという話も聞きます。自分は乳幼児とは関われないと思い込む。長期単身赴任のお父さんも同じような問題を抱えているようです。複雑な家庭に育ち、子供の愛し方がわからないというママたちもいます。

年齢の違う子供達が群れて遊ぶ中で親心が育ち、先生のおっしゃるように、親心は、子供の頃から育むものである、という事を感じます。近所や親子サークルなど、安全で多くの人々と関われる場が必要なのでしょう。全員が通過する義務教育の中での保育体験もぜひ実現させたいですね。そのために私たちに出来ることはどんなことなのでしょう。

色々な事を考えさせられ、また考えれば考えるほど、先生からもっとお教えを頂きたいと感じています。

(50代 女性)

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感想文を読んで思い出すのです。保育科の学生たちの間に、あの園に実習に行くと保育士になる気がなくなるよ、と申し送りされている園がある。実習生が「親に見せられない」と思う風景を、子どもたちが見ている。体験している。その風景を減らすには、と園長たちと考えて十三年前に始めたのが一日保育者体験でした。

いい保育園・幼稚園に当たることで一家の人生が大きく変わる。園長、主任、設置者の保育に対する意識が、政府の進める保育の市場原理化によって分断されているいま、親たちの「子育て」に対する意識が、子どもたちに対する感謝の方向に戻って来れば、出来ることが沢山あるのです。

これは私の責任、そして鎮まること。

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10年前にこんな文章を書きました。

子どもが一歳前後のとき、よく物を散らかして喜びます。嬉しそうに、上にある物は落とし、片づけてある物を引っ張りだし、閉まっている物は開けようとします。言葉もわからないし、言って聞かせられる時期ではありません。しかも嬉しそうにしているのです。この時期、親は子どもの嬉しそうな顔を見るのが好きなのです。それが第一。

叱ってはいけません。この時期の子どもを叱ると、安心感のある人間社会はできません。散らかしたら、親は片づける。ただ黙々と片づけます。理屈や理論で考えても仕方ない。宇宙の平和を願って、親は何度でも片づける。この時間は長くはつづきません。もうすぐ言葉がわかるようになります。違った段階の関係が始まるのです。それまでは数カ月、繰り返し、ただ片づける。静かに、落ち着いて、これは私の責任だ、と独りでつぶやくといいのです。そして、ある日、これは散らかさないでね、とお願いすると、子どもはちゃんと親の願いを聞き入れてくれるのです。

そうした独り言とつぶやきに、夫婦がお互いに耳をそばだてます。そのために、子どもは散らかすのだと思います。様ざまなことに、子ども中心に自然に反応する姿を眺めあうことで、家族や社会が一つになっていきます。人間社会が一つになるためには、理屈を越えた、本来持っているいい人間性の確認が必要なのでしょう。「これは私の責任」と言いながら。

(「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)より。)

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これを書いた時、子どもはまだ1歳半くらいで、近所の児童館の乳幼児室に二人でよく遊びに行きました。その時、黙々と、散らかった玩具を片付けるお母さんたちの笑顔を見ながら、ああ、そういうことだったのだ、と思ったのです。

この命を誕生させたのは自分だという自覚が、「私の責任」「私たちの責任」を育ててきたのでしょう。

親たちが「これは私の責任」と唱えながら、自分と子どもとの関係に納得する。そのつぶやきの中で人類という種が存続する道筋が整う。調和に向かうべく忍耐力が育っていった。

最近のジェンダー論争の狭間で、「子育てを女性に押し付けるんですか?」と私に言った人がいました。出産という行為が男性には不可能である限り、「自分が産んだ」という自覚には意味があるはず。祖父母もまた、自分が存在しなければこの子は存在しない、という自覚を持っている人たちであるはず。その本能に沿った自覚が「幸福感」に繋がっていたから、人間は家族を大切にしてここまで進化してきた。母親が先頭になって道筋を示し、進み、父親はそれに追いつこうと努力する。そんな感じでやってきた。

幼児たちの、特殊な、大切な役割を忘れてはいけません。

子育ては、「お互いの存在」を生きる動機、幸せの源と感じるためにある、そう考えるのが普通でしょう。

人生の質は、どれほど弱者に愛されたか気づくことで決まる。親が子に愛され、その確かさに感謝する。子どもたちは「信じること」が生きる力だと遺伝子のレベルで見極める。生きる力は、自立することではない。信頼の連鎖に身を置くこと。

政治に関わる人たちが、人間社会の成り立ちそのものと言ってもよい「子育て」に関する施策を考えるとき、そしてマスコミがこの問題に関して報道するとき、幼児と会話する人の心の声に耳を傾けてほしい。見極めようとしている本物の人間たちと会話することの大切さを忘れないでほしい。

さらに遡って、古(いにしえ)のルールを語ってくれる過去の哲人や詩人たちの言葉に、時々でいい、心を震わせてほしい。彼らと共に生きていることを次の世代に伝えていくことが真の教育であって、子育てだと思うのです。全世界がここまで混沌としてくると、人類の進む道筋、運命のようなものが見えなくなってきます。大事な友人から「見えなくなるときなのかもしれません」と言われてハッとしました。「心配になるけれど、見えなくてもあることは心の奥底でわかっていることをわかっていたいです」と言われ、ああ、そうだ。子育てと同じ、探すのではなくて、静かに待つ、そんな時も必要で、そんな風に考えると自分の心が鎮まる気がします。自分ひとりで鎮まることができれば、それはきっととても価値あること。

主義主張よりも、本物の人間たちを眺めることが求められている時代に入っている。

子どもを産み育てることは、宇宙から与えられた尊い役割り。自らの価値を知り人は納得する。子どもが親を育てることは、宇宙の動きそのもの。一人では生きられないことを宣言し、調和への道を照らす。

https://youtu.be/fm9KjKpoggE

Music of Kazu Matsui (Shakuhachi). “Black Bird & the Bamboo forest,” and “Legend of the lake”. 

「第三者委員会」という行き止まり

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少し前のニュースです。

保育園で卒園前に起こった子ども同士のいじめの問題で、市が弁護士らでつくる第三者委員会を立ち上げ調査・検証に乗り出すというのです。当初は、就学前のことであり義務教育ではないのだからと調査を拒んでいた市が、一転母親の要望に応えることになったのです。

いじめの問題は、見逃してはいけない弱者の悲しみ。自制心が曖昧な幼児同士の場合はその場で止めるだけでなく、みんなで寄り添って、いじめられた子が再び自分が生きて行く環境を信じることができるように配慮しなければなりません。それはそうなのですが、本当にこうした「弁護士でつくる第三者委員会が……」、みたいな解決方法でいいのか。このやり方で何が、どう解決するのか、という疑問が湧いてくるのです。

こういう方法、方向で、現場に不可欠な信頼関係がますます失われていく気がする。

いじめが長い間続き保護者は訴え続けていたという報道(リンクを後述)が本当なら、信頼関係にない大人に囲まれて子どもが1年半過ごしていた、という子育てをする環境としてはあり得ない状況こそが問題なのです。子ども同士の問題のように錯覚しますが、ごく初歩的な、一緒に子育てをするのであれば一番初めに解決しておかなければならない「大人たちの問題」なのです。

市の作った第三者委員会が調査し親が納得するなら、それはそれで価値のあることかもしれません。子どもにとって最大の「福祉」は親の精神的健康です。

そして、もし、委員になった弁護士たちが、保育は全員パートでつないで構わない、保育士は一日複数回交代し無資格者がいてもいい、子どもたちの願いに反して11時間保育を「標準」と決めたのだから子どもたちが日常的にイライラしていてもおかしくない、と国の施策にまで行きついて、問題の起こった環境を精査検証してくれるならいいのかもしれない。でも、それはあり得ない。

市の保育所の九割が公立で保育士の九割が正規雇用(地方公務員)だとしたら、市の対応への親の抗議や、その後の市の対応の変化もわからないではない。しかし全国的に見れば、財政削減に伴い公立園の廃止民営化は進み半数以上の保育士がすでに非正規雇用で、現場における一体感や連帯感は、以前よりはるかに希薄になっている。

この年齢の「家庭環境の異なる」幼児を集団にすれば「いじめ」は起こる。毎日親から10時間以上離されれば愛着障害と思われる子どもが増え、喧嘩や、噛みつきも日常的に起こる。いじめを止められなかった保育士たちにも問題はあるのですが、保育指針に書かれている「子どもの最善の利益を優先する」のが難しい仕組みの中で起こっているのだということを把握し、検証しないと逆効果になる。

子育てに関わる責任追及の「やり方」は、多くの子どもたちの将来に関わる「道筋」です。子育ては、当事者たちが「子どもの幸せ」を優先して心を合わせること、それによって乳幼児が人間社会というパズルを信じるに足るものだと認識し安心すること、そこに本質があるという捉え方をしないといい方向には向かわない。この問題に弁護士という法律の専門家(闘う道具)を委員として選んだ時点で、すでに大切な論点が置き去りにされている。この人たちは、子どもが問題を起こす時、それは社会が信頼関係を取り戻すために起こされているのだ、と捉えることができない。(失礼、できる人もいるかもしれない。)

そして、気になったのが報道のされ方です。

追い詰められた市の対応がマスコミで報道されることで、人権という言葉を軸に弁護士たちが論議する程度の問題では済まなくなった。保育士たちの責任に関わる問題になってしまった。確かに、そうなのだと思います。現場の責任だと思います。しかし同様の問題が起こった時に親たちが全国で市を訴え始めたらどうなるのか。それは当然の権利かもしれませんが、現場がそれに怯えて、保護者を「お客様」扱いし遠慮するようになったら、それはもう保育ではない、ただのサービス産業になってしまう。そうなることの怖さを多分親たちは知らないのだと思う。

ニューヨーク州から産婦人科医が消えていった時のことを思い出します。

出産時の事故に対する訴訟が増え、賠償リスクをカバーする保険金高騰で産婦人科医が次々に廃業、移転し他州に行かなければ出産もままならない状況になってしまった。訴訟や不信による持続可能な人間社会の破壊が様々な形で起こっている。

日本における「抱っこしない、話しかけない保育」も似た現象でしょう。

乳児に話しかけるな、抱っこするな、子どもが生き生きとすると事故が起きる確率が高くなる、と保育士に言う園長が現れている。じっと黙っている子どもが「保育しやすい子ども」と言われ、親とのトラブルを避けることが最優先で、知識として知っているはずの幼児期の「子どもの発達」が完全に後回しになっている。トラブルが絆や信頼関係を育むという本来の構図が崩れ、無事に(政府がつくった)仕組みを回すことに必死になり、乳幼児の「心の傷」が人々の視界から遠ざかっていく。その子の人生にその時実際に何が起こったのか、判断しようがないからこそ「信頼」が子育てにおけるセーフティネットなのです。それが、大人たちの保身と都合で後回しにされていく。

国の施策がそうなのですから、当然そうなっていく。

子育てをしている人たちが輝かなければ、子育てはその本質を失う。親身になることで輝く人たちが、この国を支えてきた。それがこの国の伝統文化そのものだった。

第三者委員会が必要なのは当事者たちに解決能力がなく、利害関係における対立と分断が激しくなっているからでしょう。しかし、そのやり方で子育てに必要な「信頼関係」が復活するのか。子育てにおける責任回避、押し付け合いと誤魔化しが進み、仕組みを整えようと法律や決まり文句を振りかざすことで、子どもたちに日々直接影響する現場の心が一層整わなくなるのではないか。

第三者委員会という言葉の響きは、保育の現場には似合わない。法律を拠り所に考える人たちが口を挟めば保育は形だけのものになっていく。形だけの保育は、子どもたちの将来の感性の深さに影響を及ぼし、やがて親から子へ伝承される。母親が子どもを思う気持ちは何よりも尊いと理解した上で、あえて言いますが、こういう争いの次元に保育を持って行ってはいけない。子育ては、第三者が評価するものではなく、当事者たちが共に喜びを見出すことにその目的がある。

 

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市場原理と司法が、絆と人間性の代わりをすることはできません。

 

それに関しては、以前ブログに少し書きました。「村人が通るだけで」だけで校内暴力が鎮まる不思議な話です。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=318 :「村人が通るだけで」・「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」・『先進国社会で「子育て」を奪われた人間たちが孤立している』・嬉しいメール「子育ては自由だから。)

 

いじめを無くすことはできません。まだ新しい命のする選択は予測できないからです。でも、その数を減らすために信頼関係を整えていけば、少なくとも、それが1年半も続くような状況は無くすことができる。しかし現実は、子ども同士の「いじめ」どころか、保育士による「虐待」の問題さえきちんと対処されていない。保育士不足によって、園長が、辞められるのが怖くて(悪い保育士を)注意できない、と言う状況が広がっているのです。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2743

*この件で私が参考にしたネット上の記事です

「法を理由に調査拒まれたいじめ 保育園児が失った時間」:https://www.sankei.com/premium/news/210213/prm2102130004-n1.html 

「大津市の市立保育園に通う園児(6)が約1年半、ほかの園児から暴力や暴言を受け、市や園側も認めたにもかかわらず、いじめ防止対策推進法の対象に園児が含まれていないことから、十分な調査が行われない事態が続いている。母親(35)は今月、同法の重大事態に準じた調査検証や再発防止策を市に要請、『年齢に関係なく、大人が苦しんでいる子供を守るべきだ』と訴えている。(清水更沙)」

「大津市の未就学児いじめ問題 第三者委が初会合」:https://www.sankei.com/affairs/news/210412/afr2104120010-n1.html 

「小学1年の児童(6)が大津市立保育園に通っていた当時、性別に違和感を抱えていることが原因で他の園児からいじめを受けて不登園になったとされる問題をめぐり、弁護士らでつくる第三者委員会が検証に乗り出した。12日の初会合に出席した母親(36)は児童が『たすけて。おねがい』とつづった手紙を提出し、『被害者に寄り添った調査、検証を心から願っている』と語った。」

記事を読んだ知り合いの園長が言いました。

「幼児は、ママゴトを見ていれば男の子だって『お母さん』やりたがりますからね。大人の理屈は通用しない。この委員の弁護士たちに、まず四歳児三十人を8時間保育させてほしい。短時間のパートでつないでいい、と決めておいて、幼児たちに道徳やジェンダーの問題を教えろと言われても無理です。一年半もいじめが続いたというのは明らかに異常で、親と保育士たちとの関係性の問題。こんな現場にしているのは政府じゃないんですか?」

園長の、幼児はほとんどトランスジェンダー、という言葉に、なるほどなと思いました。少し大げさに言っているのですが、幼児期は発達の方向が未だ柔軟な時期で人間として様々な可能性を持っている。だからこそ安定した環境と、緩やかな「常識」が必要なのです。学校教育を成り立たせるために持続可能な保育を現場に求めるなら、親と子どもの愛着関係を三歳までにしっかりつくって、それはつまり子どもたちが「守られている」という感覚を持つということですが、その上でただサービス産業のように預かるのではなく、「保育園とはこういう所ですよ、ここまでは親の責任ですよ、他にも子どもたちがいますからね」と親たちに説明し、保育士たちと親たちが一緒に「子どもを可愛がる」という思いで心を重ねることができるように努力するしかない。

(蛇足かもしれませんが、アメリカに35年住んでいた私が見る限り、日本は伝統的にトランスジェンダーに寛容な国です。法的にどうかは別にして、テレビの番組にこれほどたくさんゲイやトランスジェンダーのタレントが出演して知見を述べる国はない、と外国人が驚きます。「学者や弁護士」よりもはるかに日本的でいいね、と。人間国宝の一人に必ず女形(おやま)の名優がいるのも象徴的です。)

アメリカで黒人男性を殺した警察官が有罪になり、テニスの大坂なおみ選手がツイッターで、「お祝いのツイートをしようとして、悲しみに襲われました。なぜなら、私たちは当然のことを祝っているからです。これまでにあまりにもたくさんの不正義が起きていたために、きょうの評決の結果を私たちが息をのんで待たねばならなかったことが、多くを物語っています」というコメントを書いていました。確信をついたコメントです。警察による不正義、あからさまな人種差別が当たり前にずっと続いてきた国、続いている国なのです。私も、そこで様々な体験をしました。

この判決に対しバイデン大統領が「正義に向かっての大きな前進」とコメントしたのが象徴的です。そして、イギリスの報道が、問題の解決には程遠いと言う、それが現実です。

そして、保守派の巻き返しとも言える「Critical Race Theory」を標的にした混乱。子どもたちにアメリカを人種差別の国と教えるのか、否かで、各自治体の教育委員会で飛び交う親たちの罵声と怒号。現在、「教室で人種差別について討論すること」が禁止されている州が26州にのぼっています。これは私たちに対する強い警告です。そこに見える「民主主義」の危うい道筋から日本は何を学ぶのか。これについては別の機会にしっかり書きます。

前述のの事件後も警察官による黒人射殺が止まりません。それは日常的な警察官(人々)の意識に基づいていて、根源的な視点の改革をしないと止めることはできない、と国民の六割が思っている。信頼関係がそれほど崩れ新たな分断が進む社会で、前大統領の発言をきっかけに、矛先がアジア系市民に向いています。

そうした中、マスターズで優勝したゴルフの松山選手のキャディが、最後にコースに向かって一礼した光景が世界中で評判になり、やはり日本はすごい国だと言われる。これは、嬉しかった。日本では特に話題にもならないはずの「礼」が、アメリカの有名選手から、ゴルフ史上最も美しい風景とツイートされる。その辺りに私たちが誇っていい、大切に守らなければいけない日本の何か、がある。第三者委員会と法律では絶対に生み出せない、論理性ではない、たたずまいがある。

大谷選手の活躍もそうでしょう。成績以上にあれほどの熱狂と盛り上がりを見せるのは、彼の「育ちのよさ」にアメリカ社会がいま最も必要としている指針があるからでしょう。社会全体が憧れる「正しさ」がある。イデオロギーに関係なく、その道筋さえ通っていれば人類の試行錯誤はどこかへ我々を導く。

コロナ禍でより露わになるアメリカという国の苦悩が、私たちに警告します。「市場原理と司法が、絆と人間性の代わりをすることはできない」と。

子どもたちとその未来を眺める園長たちが以前はたくさん居たのです。私はその人たちから色々教わりました。

自分たちの役割の大きさに気づいていた。幼児(園児)たちの存在意義を知っていた。子育てに、第三者はあり得ない。祈り、あるのみ。

私たちは、永遠に幼児たちから信頼されている。それが人間社会を持続可能にしているのです。

(関連リンクです;「いい人になること:『非認知能力』」 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3016  

「教育という視点」 (保育園の背負う重荷が増えています。) http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2406)

(私の関連音楽です:

https://www.youtube.com/watch?v=BoENcI0Dnhw

Music of Kazu Matsui (Shakuhachi). “The Dream Walk” and “Red Sea”.

「一ヶ月後の謝恩会」

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講演する機会が少し戻ってきて、一年半ぶりに保護者たちの前に立ちました。時間がとても貴重に思えて、前ほど沢山解説することはできませんでしたが、ゆっくりと、肝心の、深いところを説明できた気がします。

2歳児の存在意義について、公園で横に座ってくれるだけで私たちが「いい人」という存在になれること……、など。その相対的な心の動きが人間社会を成立させることなど、思いを込めて……、演奏のように。

 

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以前、若手園長から聞いた、いい話があって、真の保育園の姿を模索し、元気に、一生懸命やっている男性園長でした。

「卒園すると、親は本当によく保育園に感謝します」と嬉しそうに言うのです。

子どもが学校に入ると、保育園のありがたさが身に染みてわかる、どれほど親身にやってもらったかが見えてくる、と言うのです。

なるほど、という指摘でした。一瞬、森の中で聴こえてきた言葉のように感じました。

学校と保育園は、その趣旨が違うのです。違って当然、違わなければいけません。教育と子育てでは、歴史と深さ、次元が違う。もちろん「子育て」が優先で、絶対です。

園長先生、園児が卒園して一ヶ月後に親たちの謝恩会をするそうです。

保育園の価値に気づき、懐かしく思い始めている。感謝したくなっている。新たな悩みを抱えている親もいるでしょう。まだママ友ができなかったり、子どもたちも環境に馴染んでいない。みんながオロオロ、ウロウロ、人間が自分を見つめ一番成長する季節です。

保育園や幼稚園の価値は、一緒に育てているという「感覚」が育つことにあります。

幼い命を一緒に育ててきた実感、小さかった「あの頃」の思い出を共有しているという連帯感が園での生活の実りであり成果です。親身さ、のようなもの。人からであれ、物からであれ、それこそが「社会」と呼ばれる連帯感なのですが、それが子どもが学校に入って仕組み上突然途切れたようになる。

その時、子どもを一緒に育ててくれた人たちに再会し、保育室や遊具を眺め「あの頃」を懐かしく思えば、一生の相談相手がそこに居ることに気づく。帰ってくるところがある、と安心するのです。

そこに集まったお互いの存在が特別なものだと気づけば、それだけで新たな「悩み」はずいぶん解消するのです。

お互いの子どもの小さい頃を知っている、この関係が人間社会の原点にありました。

人類は、身近な、そういう関係に支えられ過ごしてきました。オロオロしながらも一生懸命やって、一緒に祈ってくれる人が数人いれば、それでいい。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園を永遠にしてくれます。

こんな行事が、少しずつDVや児童虐待に歯止めをかけ、学級崩壊やいじめを減らすのだと思います。いま地道に耕し直さねば、荒れてしまった地面は砂漠化してしまいます。

「謝恩会」という命名はわかりやすい。法律や規則ではなく、子育てから生まれる「感謝」が社会を住みやすくするのです。

子どもが世話になったら、感謝する。

歌や踊りを教えてもらったら、それを見て、夫婦で感謝する。

本当は、足し算や掛け算を教えてもらっても、感謝する。

楽しい時間を過ごせたら、心の底から、みんなで何かに向かって感謝する。

九年間の義務教育に比べれば大したことではないのです。法律で決めてしまえばいい。

いえいえ、法律で決めるより、園長先生が決めてしまうのがずっといい。親たちに気持ちが伝わります。この人(園長先生)は、子どもたちの幸せを願っている、卒園した後も願っている……。その記憶、そして一ヶ月後の謝恩会を思いついた園長先生の「動機」が社会を耕し直し、その願いが、荒れている社会を鎮める。

11時間保育を「標準」と名付ければ、保育士は必ず一回交代し、朝、お願いする人と、帰り際に挨拶する人が別人になります。感謝する相手が曖昧になる。この人に預ける、から、この場所に預ける、この仕組みに預ける、に変わるのです。「仕組み」や「場所」に感謝するのは中々難しい。そして、今年の四月から正規の職員がいなくてもパートでつなぐ保育で構わないことになりました。それをビジネスチャンスと捉える人たちがすでに保育界にはいる。そうしないと維持できない、と言う人もいます。しかし、これでは大学や専門学校の保育科で教えてきた「愛着」や「発達」の問題も、保育指針にあった親を指導するという園の役割も机上の空論になってしまう。何が優先なのか、が忘れられている。

30年ほど前にアメリカで、自治体の予算が逼迫したときに、財政削減の最初のターゲットに音楽の授業がなって学校教育から削除されていったことを思い出します。そのニュースを聞いたとき、えっ、その順番? と驚きました。経済優先に考えるとそうなるのです。しかし、その手順はあまりに短絡的で、人間のコミュニケーションの深さや可能性を忘れている。

「教育」を過信している。

人々の優先順位が、密かに神の采配に代わろうしている。

子どもたちを見つめ人間は未来を眺める。安心が続いていくことを祈る。その姿が社会を形づくってきた。

前回書いた、遺伝子研究の村上和雄教授(生命の暗号)なら、それが遺伝子情報をつなげていく善循環なのだと言うかもしれない、遺伝子がオンになる道筋がそこに現れる。一緒に過ごした時間を未来に生かすこと、それが遺伝子情報の意義です。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=3495

福祉が「利権」となり、人間性の継承に不可欠な「子育て」という行いが機能不全に陥っています。「感謝」の絶対量の減少が人間社会には致命的なのです。そういう時期だからこそ、「一ヶ月後の謝恩会」という、園長の一手がより輝いて見える。

子育ては、システムでやるものでも、制度でできるものでもない。親たちの感謝の積み重ねです。そこに気づかなければ保育崩壊は止まらない。園長の、次の世代がそれに気づいて育って欲しいと願います。

幼稚園・保育園が、いつか親心を耕すだけでなく、行事の組み合わせによって祖父母心をも耕す役割を担うまでに回復すれば、幼児たちの「存在意義」が復活してくる。人間が幸せを追求する意思を持つかぎり、音楽を奏で輪になって踊ることをやめないかぎり、四歳児たちの「輝き」は必ず指針となる。同じ仕組みの中で生きている、という錯覚から離れ。同じ時間を生きている、という自覚に戻る。そのために、幼稚園・保育園が、いい役割を果たすことができるのです。

(二曲ユーチューブに加えました。)

https://youtu.be/fm9KjKpoggE

Music of Kazu Matsui (Shakuhachi). “Black Bird & the Bamboo forest,” and “Legend of the lake”. 

(関連リンク:実際にできること、やっていることを中心に。)

*板橋区の一日保育士体験/感謝!!/「子どもが喜びますよ」の繰り返しで;http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=261

*中学生の保育士体験/「あの人、変」/役場の人からのメール: http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

*一月に講演をした市の園長先生から/保育士体験を始めて(+首相の発言):

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=226

*パズルの組み方が上手になること/一日保育士体験、高知県教育委員会の取り組み: http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=161

*運動会4:4:2の法則/騎馬戦:運動会で社会が変わる http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=228

以前作った音楽から二曲、イメージを足してユーチューブにアップしました

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https://www.youtube.com/watch?v=BoENcI0Dnhw

Music of Kazu Matsui (Shakuhachi). “The Dream Walk” and “Red Sea”, featuring David Lindley .

I put two tunes from my Shakuhachi albums, “Sign of the Snow Crane” and “Wheels of the sun” with some images on YouTube.  Shakuhachi is the traditional bamboo flute from Japan. Please go into the Deep Forest with the tune, and bring back the ancient memories of ours. We need it.

The Second tune is called “Red See” featuring the legendary David Lindley playing Setars and his famous Slide guitar. I met David through Ry Cooder’s film sessions, Southern Comfort and Alamo Bay. We became good friends and made a whole album together.

ユーチューブに私の昔のアルバム“Singn of the Snow Crane” と “Wheels of the sun”から二曲、イメージを加えて載せました。心理学や哲学の存在意義が問われそうな単純な仕掛けは、それに気づけば、の話ですが、「技」の働く次元がちがっています。

森の一部になることで孤独から遠ざかり、湧き水の傍らに座って内側から木々を眺めていると、自身が神秘的な存在になる気がするのです。

 

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「生命の暗号」

筑波大名誉教授の分子生物学者、村上和雄氏が亡くなりました。

著書の「生命の暗号」という本に、遺伝子がたくさんオンになるほど良い研究が出来る、感性が磨かれる、と書いてあります。そして、遺伝子をなるべくオンにするには、感謝すること、Give&Giveの気持ちで生きること、その典型が乳児を育てる母親、と書いてあるのを読んで感動したことがあります。

わかりやすい、真実は、とってもわかりやすい。

ここまで歩んできた人類の道筋が見えてくるようです。直感は度々宗教っぽく聞こえることがありますが、それを真実と見抜く力が遺伝子に存在する。その源に、次の世代を優先することがあって、それはつまりGive&Give、利他の心。そのあたりの遺伝子がオンになってくると、人類は、より一層調和するということですね。

村上先生の本を読んでいると、0、1、2歳という特殊な人たちと過ごすこと、環境、景色としての幼児たちの存在、子育てという体験が「人間性」という、『遺伝子が充分にオンになった状態』と密接に関係しているのがわかります。笑う、という行為が遺伝子をオンにするという主張も、とてもわかりやすい。遺伝子は「心」とオン、オフという関係で常に交流している。「想い」によって遺伝子がオンになる。

その「想い」のスイッチになっているのが、0、1、2歳との交流、可愛がる、をベースにしたプロセスなのでしょう。

 

生命の暗号 

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笑わない一歳児。園長が母親と面接するが母親も笑わない。父親を呼び出すと不機嫌。祖父母を呼び出した時点で誰もこの小さな命に感謝していないのでは、と気づく。保育士に号令「くすぐってもいいからこの子を笑わせろ!一日中!」。子どもが笑う。母親が少し笑う。やがて一家が命のまわりで笑い出す。

「あの子ですよ」と園長先生が指差す先で、元気な三歳児が遊んでいる。これが保育。保育とは、人間の遺伝子がオンになるプロセスを助けること。

「短時間勤務の保育士の活躍促進」がいまの政府の姿勢を端的に物語っています

2021年4月

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言葉のしゃべれない乳幼児の要求通りに、(主としてそれを想像しながら、自問自答を重ね)ゆっくり時間をかけて関わり、寄り添い、その後、集団で遊ぶ幼児たちを眺めていれば、それが助走路となって人間はそう簡単に道を見失わない、そう考えています。

150年前の、日本人の子どもと遊ぶ風景やその可愛がり方に驚き、関心する欧米人の証言を集めた「逝きし世の面影」(渡辺京二著)第10章「子どもの楽園」(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1047 :に抜粋があります)を読み、私が実際にインドで見た世代をつないていく手段と、その原風景を重ね合わせて確信するのです。日本がその個性を生かして特別な役割を果たすのだとしたら、幼稚園・保育園が鍵を握っている。

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政府の言う「一億総活躍」、そんな経済競争のお金儲けの次元とは違う、本物の選択肢が常に並行して存在するということを、本来の生き甲斐や、人生の目的などを人間に繰り返し憶い出させるために幼児たちがいてくれる。「子育て」は、縦糸横糸でつながっている、だから、みんなの問題だということが自然にわかる仕掛けになっていた。

みんなの問題は、みんなの心の問題であって、仕組みの問題ではない。

前々回指摘した新内閣で進められている「新子育て安心プラン」には子ども優先の姿勢が欠けています。誰にとっての安心なのか、本末転倒になっている。こんな姿勢の中で作られる「こども庁」など推して知るべし。雇用労働施策から離れて、子どもの日々の生活を優先し、安心を第一に考える庁ならいいですが、ただ名前だけの(実は労働施策の)隠れ蓑にならないことを祈るばかりです。

四月に施行された「短時間勤務の保育士の活躍促進」がいまの政府の姿勢を端的に物語っています。

保育はパートでつなげばいい、その子がどういう一日を過ごしたか親が知る必要などない、と言っているようなもの。「保育の質が落ちないようにと、自治体には指示している」そうですが、規制緩和するときに使われる同じ言い訳、言い逃れです。不可能なことを「指示した」って意味はない。

乳幼児期に子どもが築くべき愛着関係(誰と、どれだけ)に気を使いながら、保育の質を憂い、親とのコミュニケーションを維持しようと頑張ってきた園長が「この施策はまるで政府に横っ面を叩かれているようなものです」と言いました。

(厚労省のホームページから)

 「新子育て安心プラン」では、4年間で約14万人の保育の受け皿を整備するほか、1.地域の特性に応じた支援、2.魅力向上を通じた保育士の確保、3.地域のあらゆる子育て資源の活用を柱として、各種取組を推進してまいります。

短時間勤務の保育士の活躍促進

(待機児童が存在する市町村において各クラスで常勤保育士1名必須との規制をなくし、それに代えて2名の短時間保育士で可とする)

 

学校教育が「義務」である限り、教育界にとって致命的とさえ思える「短時間保育士で可とする」という規制緩和に、幼児たちと毎日過ごしている保育界が表立って反対しない。一部反対の署名運動もありましたが、マスコミが大きく取り上げない。

保育界がまとまらなくない。子ども優先か、経済優先か、ますます両極へと広がり続けている。ここ10年くらいの間に、異業種と見なした方がいい新たな保育の仕組みが政府によって次々に作られ、保育界が分裂し分断されている。

三歳未満児に限定された小規模保育と、0歳から5歳児までいる認可保育園では仕組みや保育の内容が違います。幼稚園が土台になった「こども園」と、元々保育園だった「こども園」では旧幼稚園と旧保育園くらいの違いがまだある。(そうあって欲しいと思います。)そこに利潤追求型の旧認可外的小規模保育、家庭的保育事業、企業型、ベビーシッター紹介業、学童保育などが入り混じり、団体が乱立し歩調が合わない。意図的にバラバラにされた後に、保育の根幹に関わる法的変更が、政府と経済界の都合で施行されていく。

保育指針にある「子どもの最善の利益を優先する」という支柱が、実質取り払われようとしているのです。

この柱が政府によって壊されることは、国家(人類)の存続に関わる重要な問題です。マスコミも学者も本当に気づいていないのでしょうか……。

パートの保育士が悪いと言っているのではありません。自分も子育てしていて、子どもが学校から帰った時に家に居たいとパートを希望する保育士には頼りになる保育士が多い。だから午前中だけでもそんな人に保育をお願いしたいと言う園長先生もいます。派遣会社が「パートならいい保育士がいるんですけどね」と言うのがこのケースです。そこに、いま社会全体の「子育て」が抱えている奇妙な矛盾が現れています。仕組みに心を込めるはずの、優先順位の確かな人たちが仕組みに当てはまらない。仕組みが進む方向性に疑問を持っている。「子育て安心プラン」が作られた「動機」が、この人たちの生きる「動機」と異なる。

「市場原理」と「子育て」は、一見両立するように見えて、相反する動機によって成り立っている。幼児たちがそれを自然の摂理の中で実証する。

市場原理に巻き込まれた以上規制緩和しないと生き残れない、という理屈は理解できます。経済界における規制緩和は、ほとんどが負債の先送りなのですが、元々「保育は成長産業」という閣議決定が後押しした保育の産業化で、屋根に上がって梯子を外されてはたまらない。しかし、それは子どもの成長と日常を後回しにすること、犠牲にすることであって、正論を言うベテラン保育士たちの切り捨てを容易にすることでもあるのです。そのツケ、負債は必ず膨らみ、保育界の破綻につながっていく。保育科の学生に対する青田買いで、「三年経ったら園長になれます」とか、「みんなで一緒に新しい保育園を立ち上げましょう」などと言うとんでもない勧誘の言葉が使われ、それが「資格」を持った若者を惹きつけるのです。仕組みを成り立たせるための「流れ」がすでに保育の本流から大きくずれている。

閣議決定に後押しされるように、いま儲けるなら「保育」、というビジネスコンサルタントの宣伝がネット上に載ります。「保育はサービス産業」と割り切った人たちの参入が急速に増えているのです。その人たちが保育界を業界として仕切って、子どもの願い不在の少子化対策を政治家に進言している、ビジネスを得意とする人たちのビジネスセンスが「保育の心」に代わろうとしているのではないか、とさえ思える。その人たちが「短時間勤務の保育士の活躍促進」をビジネスチャンスと捉えている。

子どもの安全を第一に考えて、事故があった時に冷静に対応できるベテラン保育士を常駐させる体制を整えようとしたら支出の八割を人件費に回さないとできないと言われます。保育指針に沿って保育をしたら利益は望めない。その現実を無視した産業化であり、「保育は成長産業」という閣議決定なのです。その矛盾を、子どもの安全を犠牲にした規制緩和で穴埋めし続けているうちに、引き返すことが不可能な状況にまで質の低下が進んでいる。

(コロナ禍で、国から補助が出ているにも関わらず、保育士を休ませその収入を削って利潤を追求しようとした園長・設置者については、去年繰り返し報道されました。保育界で運営に携わる人たちのモラルの低下は、子どもたちの過ごす日々に数値に現れない様々な影響を及ぼしていく、そこが問題なのです。https://toyokeizai.net/articles/-/357849?page=4  https://dot.asahi.com/wa/2020111200011.html

http://kaigohoiku-u.com)

初心者といってもいい親たちは、こうした後戻りが難しい制度変更に気づかない。「保育は全員パートで構わない」という規制緩和が子どもたちの成長にどういう意味を持つのか、知らない。親子の一生に関わることですからきちんと説明すれば慌てると思うのですが、政府がやっていることだし、みんな預けているのだから、くらいの認識の人が多くなってしまった。だからこそ、マスコミがしっかり伝えてほしいのです。親に自分の身に起こったことを報告できない三歳未満児の発達に、良くない保育士と過ごす一日がいかに決定的か。たった数時間の心ない扱いが、子どもの一生の心の傷になって残る可能性があることを繰り返し、繰り返し書いてほしい。少なくとも、そういう保育士を排除できない状況に園長たちが国によって追い込まれているという警鐘を鳴らしてほしい。

親たちの自覚がなければ、政府と経済界主導の保育崩壊は止まりません。すでに、システム論や親の権利などを論じている状況ではないのです。

 

提言を依頼されて書いた衆議院調査局発行の「論究 第16号 2019.12」にこう書きました。

(共励保育園・こども園の長田安司理事長のツイートから)

「本年度の入園説明会が終了した。0歳児保育を希望する人が34名もいた。そこで、0歳から6歳までの発達の特徴 と、0、1、2歳児における母子関係の大切さを説明した。 世の中0歳児から預けようとする風潮が広がっているけど、それは間違いですと伝え、なぜ育休を取らないのか?と訴えた。 説明会終了時、拍手が起きたのには驚いた。夫婦が寄ってきて『説明会を聞いて本当に良かった!』と感謝された。その目には、自分で育てようとする意思がはっきりと見て取れた。」

拍手が起こった。そこに希望がある。きちんと説明すれば親は「この時期の大切さ」を理解する。この国の素晴らしさ、土壌だと思う。幼児と暮らしている人間は、自分を知ろうと、感性が開いている。遺伝子学の権威村上和雄教授は「命の暗号」という本の中で、 利他の気持ち、乳児を抱くことが人間の遺伝子をオンにすると書く。

(以下も、「論究」からの抜粋です。全文は、衆議院のホームページで読むことができます。)

乳幼児期における特定の人間との愛着関係(個別的継続的な養育者との関係)の大切さは、国連の子どもの権利条約にも「権利」として書かれている。母子関係の重要性と、その欠如が子供の将来の行動に及ぼす影響に関しては、60年代70年代にイギリスの児童精神分析学者ボウルビーの「愛着理論」や精神分析学者フロイト、「アイデンティティー」の研究で知られる発達心理学者エリック・エリクソンの論文にも繰り返し書かれている。世界の標準認識と言ってもよい。

 (エリクソンは、乳児期に「世界は信じることができるか?」という疑問に答えるのが母親であり、体験としての授乳があるという。欠けることで将来起こりうる病理として、精神病、うつ病を指摘する。)

 以下は、文科省が2005年に出した「情動」に関する検討会の報告書からの抜粋。

(資料6) 情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会報告書()

 情動の形成は、生まれてから5 歳くらいまでにその原型が形成されるとする知見がある。また、1 ~3 歳の時の記憶・感情は普段は忘れているが、脳の中には残っていて、ある引き金が引かれると動き出すという説もある。

 適切な情動の発達については、3 歳くらいまでに母親をはじめとした家族からの愛情を受け、安定した情緒を育て、その上に発展させていくことが望ましいと思われる。生まれてから5歳までの情動の基盤を育てるための取組は大変重要であり、その後の取戻しは不可能ではないが、年齢とともにより困難になると思われる。

 また、最近の脳研究によると、ヒトは過去の体験によって脳の各領域の発達度合いが異なってくると想定されるが、このことは、子どもの心の問題については、特に乳幼児・学童期の経験が重要であること、そして、学校教育についてみるならば、特に小学校までの教育が重要であることを示していると考えられる。

(ここまで「論究」からの抜粋です。)

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「子どもの権利条約」で特定の養育者との愛着関係が乳幼児の「権利」として書かれ、文科省がその重要性について報告していることが、「短時間勤務の保育士の活躍促進」という偽善的で誤魔化しとも思われる言葉によって無視されていく。

10年前に保育の質を下げる様々な規制緩和が始まった頃、役場の保育課の人が、「おおむねで始まって、望ましいで終わるような条例で子どもを守ることはできません」と、講演会のあと私に言いました。現場では政府による規制緩和以前に、すでに形は崩れ始めていた。子どもの命に関わることでありながら罰則規定が曖昧で、待機児童がいる自治体が規則違反で保育施設を閉園にすることはほぼあり得なかった。そして、首長選挙で「待機児童解消」は票を獲得するための決まり事のように叫ばれていた。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2276  :保育界の現実……森友学園問題)

 

もう一つの問題は、政府にアドバイスするはずの「専門家」たちが声を上げないこと。

ひょっとするとこの方針を作ったのは、この保育の「専門家」たちかもしれない。「子ども・子育て会議」で11時間保育を「標準」と名付けたのですから、やりかねない。待機児童をなくすといえば何でも通ると思っている。こうした乱暴な雇用確保のための労働施策を「一億総活躍」「女性が輝く」と言って現場に押し付ければ、保育という仕事に昔ほどやりがいを感じない、長続きしない、パート希望の若者が増えてもおかしくないでしょう。このどんぶり勘定のような「待機児童対策」「保育のビジネス化」が実はめぐりめぐって子育てのイメージを崩し、質を落とし、「少子化」に拍車をかけているのですから本末転倒というより滑稽でさえあります。

少子化ですから、待機児童はいずれ近いうちに無くなります。しかし、その前に起こる生き残りをかけた市場競争で保育界はすっかり様変わりしてしまうのではないか。そこが心配です。

マスコミが、もっと強い警鐘を鳴らしてほしい。

政府が、「活躍」とか「輝く」とか「安心」という言葉を使ったら、まず背後に隠された意図があると思っていい。当座の労働力を確保しようという作為がある。思い出してほしい。待機児童の中身である三歳未満児は、親から11時間離れることを「待っている」人たちではない、それを望んでいないということを。その時期の脳の発達を考えれば、彼らが過ごすやり直しのきかない日常が私たちの未来を決定づけているのです。彼らをどう「扱うか」が、国の「将来」そのものなのだという現実をもっともっと切実に報道して欲しいのです。

保育という仕組みを利用しているようで、実は、みな利用されているのです。

(あまり目立ちませんがこの施策に反対する報道もあって、これは「保育園を考える親の会」代表の普光院さんの書いた文章です。https://toyokeizai.net/articles/-/405631 :『保育士「全員パート化」容認が招く現場の疲弊』政府は「保育士不足解消」の一手としているが…。

保育に関してこれほど長く発言してきた人の意見を政府は政策を閣議決定する前に聴かなかったのでしょうか。聴かなかったのであれば、それ自体が問題で、聴いて無視したのであれば、子どもたちに対する裏切りです。)

人間社会において乳幼児は絶対的な存在で、彼らは大切な役割りを果たしてきました。それを理解することがいま起こっている混沌を鎮める鍵です。子育ては、人間が子どもたち、特に幼児たちによって自分の人間性を照らされ、親らしくしてもらうプロセスであって、この「親らしく」が「人間らしく」の基本にあった。その時に生まれる「利他」の心が、社会におけるモラルと秩序の土台になった。仏教的に言えば、自分自身と向き合う機会を回避すると真の安心は得られない、ということ。

親子という選択肢のない関係を快く受け入れるゆとりが、夫婦や社会の自然な育ちあいを生み、寄り添うことを覚えた集団の行為が連鎖して、いつか地球の向こう側の紛争をなくすのかもしれません。

専門家か神社のお守りか、学問か祈りか、条例か子守唄か、資格か人間性か、私たちは不思議な選択を迫られています。選択肢はないにも関わらず……。

 

(最近のニュース報道でもお分かりかと思いますが、アメリカの民主主義は、選挙権とか人権という面で見ても実質55年の歴史しかなく、まだまだ整っていない、形でしかない。1月6日の連邦議会への暴徒乱入(ほとんどが白人)、その後の民主党対共和党の議席をめぐる争い、罵り合いを見ていると、中身が固まってくる前に壊されようとしている立憲民主主義のもろさを感じます。異論はあっても、一応民主主義の象徴のように言われてきた国における人種や階層の分断が、いかに簡単に暴力に向かうか、私も実際に有色人種として差別を体験してきただけに、改めて最近の分断の凄まじさについて考えさせられるのです。根底で一体何が崩れていたのか検証する時が来ています。

自称愛国者による連邦議会への乱入、その後も続く警察官やシェリフによるヘイトクライムと言ってもよいような人権侵害を見ていると、人間の欲望が、「自由」という言葉を権利ではなく「利権」と重ねていった構造がよくわかります。ジェンダー(性差)という男女間の調和のために与えられた個性さえ、男女が闘うための道具にされ、そこで生まれる不信感が根元的な分断を進めている。

学校「教育」も実は形だけのものでしかなく、経済競争における道具や武器を子どもたちに手渡すことはできたとしても、民主主義の概念や憲法上の「平等」という趣旨さえ伝えきれていなかった。

所詮、資本主義社会のエネルギーは「平等」を目指すこととは相反するものですが、高等教育の普及とともに格差はますます広がり、今では全人口の1%が9割の富を握っているというのです。(5%が85%という計算の仕方もあるようです。)彼らの言う「平等」は「機会の平等」であって強者が勝つための免罪符でしかない。経済競争の助長と子育ての社会化が不信感と恐怖を生んでいる。その結果が、ここ五十年間に一気に進んだ家庭崩壊なのです。それに伴う児童虐待、DV、ヘイトクライムの広がりを見ていると、言葉(理念)に操られる危険性を感じるのです。)

「短時間勤務の保育士の活躍促進」、こうした「強者優先」の市場原理を進める言葉に簡単に騙されてはいけない。受け入れてはいけない。欧米も、コロナ禍の中、「怒りの矛先」の誘導ではもうどうにもならない「理念の空洞化」に気づいています。政治家たちは、争いへの誘導、扇動をやめ、人々の「怒りを鎮めること」を考えなければならない時なのです。この時期を逸してはならない。

誰が人間の心を鎮めるのか、それを考えることに新たな出発点があるのです。

遊んでいる幼児たちを眺めること。あの姿に憧れるのがいい。あの姿を守るために存在するのが一番自然で、簡単で、いい。

彼らの喜びがなぜあれほど本物なのか、なぜ夢中になれるのか、損得勘定を横に置いて、そのあたりを素直に、じっと考えることから気持ちを整えていくといい。幼児たちが社会の一員として常に視界に入っていれば、民主主義は機能すると私は思っています。

幼児のいる風景の中で、人生を楽しむ。歌い、踊り、食べ、祝う、そんな日常が民主主義の土台であり、それを教育活動や福祉の主軸ととらえ、保育園、幼稚園、学校の中でだけでも保護者と一緒に0、1、2歳児と過ごす原体験を繰り返していれば、たぶん大丈夫なのだと思います。

(以前私が作ったドキュメンタリー映画の部分映像がユーチューブに載っています。そこに出てくるインドの風景に様々なヒントがあります。そこに、インド人の修道女との会話があるのですが、輪になって踊ること、それが人生を豊かにする、と教わりました。調和しようとする人間の心の動きが見えてくると、そこには善性が社会の土台を作る「働き」があって、希望が湧いてきます。ぜひ、このアドレスからご覧になってみてください。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2345:シャクティの映像から抜粋~考えたこと/解説

ヒューストン国際映画祭の長編ドキュメンタリー部門で金賞を受賞しました。)

IAMのライブ配信演奏に参加します。京都からです。

IAMのライブ配信演奏に参加します。京都からです。

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https://www.ragnet.co.jp/livespot/25323が申し込みページです。

コロナ禍で、世界中でミュージシャンが演奏する機会を失ってしまい、どうしよう、どうしよう、という感じです。何しろ集まってはいけないのですから、こんなことが起こるんだ、と思いつつ試行錯誤をしています。インターネットが普及して、しかもその画質音質がとても良くなり、最近ライブ配信という手段も使われるようになりました。

今回は、私にとって初めてのライブ配信、京都からのIAMの特別ライブに参加します。同じ会場で前日にやるSayaさんのライブにも参加します。https://www.ragnet.co.jp/livespot/25322

 

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最近、ユーチューブで色んな音楽に触れる機会が増えました。検索すると、昔一緒に演奏した人たちの映像がたくさん出てくるのです。以前、自分が演奏した音楽と30年ぶりに再会したりできるのです。ライ・クーダーとやったSouthern Comfortという映画のサウンドトラック、音楽全体で30分くらいしかなかったため一度もCDやLPにならなかったのですが、検索したら出てきました。

ザキル・フセインというタブラ奏者がいるのです。

タブラはインドの太鼓。私が彼の演奏を初めて見たのは46年前、インドのデリーで、シタール奏者のビラヤト・カーンとのセッションでした。個人的にはシタールではニキル・ベネジーが好きで、もうずっと前に亡くなっているのですが、ザキルとの演奏映像がありました。そしてビスミラカーンというシャナイ奏者が好きです。カルカッタに居た時コンサートのハシゴをしていました。

インド音楽は即興演奏が主体ですから、タブラ奏者が誰になるかで随分グルーブ感が変わります。その頃は、サンタプラシッド、カナイダッタ、ザキル・フセインが三者三様で、面白く、のちに私がセッションをしたドラマーで言えば、ビンス・カリユタ、ジョン・ロビンソン、ジェフ・ポルカロの違いのような感じ。

人間には持って生まれたグルーブ感があって、お互いに影響し、お互いの音色を醸し出し合うのでしょう。今回京都で一緒にやるIAMもそのいい例です。尺八とディジュリドゥ、そしてピアノとパーカッション、楽器自体が三者三様の歴史を持っていて、人類のたどった異なる道筋がインターネット上で重なり合います。

インドの本式のコンサートは夕方に始まり、翌朝終わったりして、その場合、深夜と夜明け前に真打ちが登場します。その時間帯に、いいラーガ(音階:月のラーガ、夜明けのラーガなど)があるからです。2千人くらいいた観客も明け方にはすっかり減ってもう三割くらいしか残っていません。それで構わないのです。人間が大自然(神)と交わした取り決め、約束を守っている。

過去の約束や束縛に捉われなければ、もっとたくさんの人たちに聞いてもらえるし切符もたくさん売れたかもしれない。いえいえ、合理的とか自由とか言って、損得勘定で物事を考えてはいけないのです。

美しさは、度々最初の約束事の中に存在するのです。

インドで色々あたりを見回していた私はその頃二十歳、ザキルも同い年くらいだったでしょう。舞台と観客席に分かれていましたが不思議な出会いでした。10年後に彼の父親アララカとシタール奏者のラビ・シャンカルのコンサートで共演することになるのですが、当時は知る由もなく、ただただ彼の手の動きとそのリズム感の確かさに魅了されていたのです。その後、ラビジのコンサートでザキルとも共演しました。ジョージ・ハリソンがプロデュースしたラビ・シャンカルの全集にその音源が残っています。

モーリス・ジャール(ドクトルジバゴ、アラビアのロレンス、インドへの道ほか)の作曲で、「ジェイコブズラダー」というマニアックで伝説的なSF映画でもザキルと共演しました。ザキルのタブラ、バイオリンのL.シャンカルとブルガリアンコワイア、そして私の尺八という時空を超えた不思議な組み合わせでした。

ザキルはその絶対的な才能で不思議な糸を繋いでいきます。様々な分野の人たちとのセッションがユーチューブに載っているのですが、リズム、鼓動こそが生きる力で、それは常に鳴っているということがよくわかります。そうしたセッションの一つに、ダファー・ユセフというウードゥ奏者とのコンサートがあって、リンクを下記に張りましたので、よろしければ時間がたっぷりある時に聴いてみてください。(時間がたっぷりある時に……。)

人間は四歳の時の自分を手離してはいけない、そんな風景です。言葉を発しないコミュニケーションによってもう一つの次元を織り成す人間の魂が常に存在し、「絆」はこの次元で私たち自身が創造し続けている。そんな感じです。IAMでもそんな風景をつくりたいと思っています。

Dhafer Youssef, Ustad Zakir Hussain, Husnu Senlendirici – Sounds Of Mirrors Live:

https://www.youtube.com/watch?v=4Elh8WytKfA