まだ、わかってくれる。中学生くらいから説明するといい。

「十数年前に私立保育園の定款にサービスという言葉が入れられた時、違和感を感じた園長は多くいました。それでも少子化対策(エンゼルプランなど)の掛け声のもと、保育は政府の雇用労働施策に取り込まれてしまった。社会で子育て(実態は保育園で子育て)がいいと言う学者の意見にマスコミも同調してしまった。」という私のツイートに、

「まあとりあえず来年度の保育士採用状況次第ですな。関東圏では東京都の保育士優遇策によって、保育士が東京に一極集中し、悲惨な状況になることが予想される。また地方も東京などの大都市圏の業者によるリクルートで過度の保育士不足になるおそれが。物理的保育崩壊が進むと思われる。修正があるやも。」とツイートが返ってきました。

都会のお金のある自治体の、地方はどうなってもいい、というような待遇改善施策(月八万円の居住費補助など)と青田買いによって、地方の保育士不足はより一層深刻さを増しています。加えて、恒久財源を確保しにくい財政危機を抱え、地方の、特にいままで公立保育園主体にやってきた小さな市の課長さんたちは腹立たしさの中で必死に頑張っている。公立も職員の半数以上が非正規という地域がほとんどです。正規で雇えば倍率は出ますが、財政削減=非正規雇用化という流れになっています。

「地方では、すでに保育士不足と、0歳児を預けたいという親の急増で混乱しています。都会からの無節操な青田買いもありますが、いま枠を広げても財源が続くか見えない。市町村にも財源負担はある。切羽詰まって、役人が0歳保育を求める保護者一人一人に面接して、説得すると半数はわかってくれる。」と私。すると別の人が、

「半数はわかってくれる。まだ希望はあるのかな。」

『びっくりしますよ。希望がある、というより、0歳児を預けたい親たちの意識が「ニーズ」より「預けたい」であることが多い。三年前の国のニーズ調査でもそれは顕われていたのですが、誰かが親身に乳児と親の関係について説明し、市の財政や保育士不足を真剣に訴えれば、納得する親は相当いるのです』と私。

『大事なことを「知らない」親、「預けて働くのがスタンダード、乗り遅れたら負け組」と思い込んでいる親が、たくさんいるような気がするんですよね。親になる前に、そういう勉強の機会があるといいなと思います。』とその方から返信。

『この種の、「大事なこと」を説明するには中学生くらいが良いと思うのです。感性がまだあって、不思議な次元を理解するのです。ブログに、

「中学生の保育士体験:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260 

「中学生は理解してくれる:http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=726 」を書きました。」と書きました。

このくらいの年齢で幼児との自然な体験を繰り返し味あわせてあげると、人間の遺伝子は、ちゃんとオンになってくる。そうした大自然の流れに沿った親心の耕し、人間性の耕しをしていけば、自然治癒力は必ず働く。

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国会で、海保の職員、警察官、自衛隊員に敬意を表しましょうと首相が議員に起立・拍手を呼びかけ、小泉進次郎氏も「不自然」と言っていました。たぶん、保育士、教師、育てている親たちに敬意を表しましょう、と言って拍手していればそんなに不自然ではなかったと思います。国の守り方にはいろんな次元があって、政治家はその優先順位を知っていてほしい。

保育の「受け皿」という言葉・社会進出を阻む壁

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「保育の受け皿」という言葉を耳にするのです。

こんな新聞記事がありました。

安倍晋三首相は6日、東京都内で講演し、保育所などに入れない待機児童の解消に向け、「50万人分の保育の受け皿を整備したい」と述べた。政府はこれまで、2017年度末までに40万人分の受け皿確保を目標としていたが、上積みをめざす。』

『首相は、政権が掲げる「1億総活躍社会」の目標「希望出生率1・8」について、「20年代半ばまでには実現せねばならない」と強調。その具体策として、保育の受け皿確保のほか、新婚夫婦や子育て世帯が公的賃貸住宅に優先的に入居できるようにしたり、家賃負担を軽くしたりする考えを示した。』

本来なら「子育ての受け皿」というべきかもしれません。でも、そう言ってしまうと、そこに危うい闇が見えてしまうから、みんな言わない。

その人の人生のあり方を決定づける「親子の関係」は、双方向へ重なる日々の体験の中で育ち、築かれてゆくものです。子育てを、親子という特別な関係が形造られる営みと考えた時に、「受け皿」という言葉自体がすでにおかしい。非人間的、非現実的なのです。それに、もう誰も気付かなくなってしまった。マスコミや教育を通しての情報の共有が、不自然を、すっかり当たり前に見せている・・・。

本当は、子育てに受け皿などありえない。一歳の時の一年は、その親子にとって一生に一度の、2度と体験できない特別な一年で、それはゆっくり流れるように見えて、あっという間に過ぎてしまう。人間社会の絆の土台となるその体験を犠牲に、国が経済のために、「希望出生率」を目標に、一日11時間親子を切り離すのであれば、できるかぎりその時間を価値あるものにしなければいけない。「受け皿」を用意する人たちには、その質に関して相当の責任がある。

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「新婚夫婦の家賃負担を軽くし」結婚しやすい環境をつくるという。子どもを産んでほしいから。

そして、こんな記事もありました。

 配偶者控除見直し検討・自民税調会長が表明:「伝統的な家族観や社会構造の変化にあわせ、女性の社会進出を阻む壁をなくしつつ、結婚を税制面で後押しする狙い」

社会進出を阻む壁は「子ども」とハッキリ言わずに、結婚して子ども(壁)を産めと言う。これがたくらみでないのなら、支離滅裂です。その根っこにある矛盾をごまかすために、「受け皿」という言葉が使われている。

ある保育園の園長先生が首を傾げていました。受け皿で育った子どもが、受け皿で育てることに躊躇しなくなったら、もちろんその逆の場合もありますが、全体的にそれが当たり前になっていったら、保育界は本当に受けきれるのか、誰が子どもの成長に責任を持つのか、社会としてそれでいいのか心配です、と。

政治家は、もう市場原理から子供たちを守ってはくれません

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「今、新たに開園しようという事業者を、私は信用しない」という端的なツイートがきました。(@kazu_matsuiに。)

ほぼ同感です。(自治体が募集し、サービス業的な保育業者が参入し開園するくらいなら、あの法人、あの理事長に手を上げてほしいな、と思うことがあります。しかし、最近の保育園増設は「いい法人」が手を上げても選ばれないことが多々ある。市区町村に任せているだけに、どういう基準なのか、とても不透明です。)

親の意識の急激な変化が原因なのか、1歳児で噛みつく、3、4、5歳でもいわゆるグレーゾーンの子が急に増えています。いい保育をしようとしても加配が追いつかない。おいつかない加配を、0、1歳に回さないと市民の要求においつかない。地方に講演に行っても、状況はほぼ同じです。それは、保育関係者ならみなが知っていることです。

それでも、政府が経済活性化の対策費として出す予算で、とりあえず儲けようという人たちが、「待機児童をなくせ」「一億総活躍」「保育は成長産業」という掛け声に便乗しなり振り構わず参入してきます。

ほんの一例ですが、以下のような「保育園が誰にでもできるマニュアル」がネットで宣伝され、起業家予備軍を誘っているのです。

ーーーーーー以下ネット上の文章ですーーーーーーーー

『独立起業を誰にでも』

 

〜独立起業を支えるマニュアルです。保育園開業は今ビッグチャンスを迎えています。少ない資本で安定した利益をもたらす保育園開業マニュアルです。コンサルティング会社の100分の1以下の費用でノウハウが全て手に入ります。〜

「保育園開業・集客完全マニュアル」

*独立・起業を考えているが、何から、どう始めたらよいかわからない。

*自己資金がなくてもできる起業を探したい。

*自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいだ。

*安定した収入が入るビジネスにはどんなものがあるのかわからない。

*フランチャイズは失敗してもFC料金を払わなくてはならないのが不安だ。

起業をしたいと思ったときがチャンスです。ネットビジネスも儲かるのでしょうが、やはり安定した収入は確保したいものです。しかし、単に「起業」と言っても、何をどう始めたらよいのか、どんな手順を踏んで、どんな書類を用意しなければならないのか、わからない方がほとんどです。

そこで、「保育園開業・集客完全マニュアル」をあたなにお届けいたします!

ーーーーーーーーーーー(ここから私の文章です)

政府による保育士資格取得の規制緩和もひどい話ですが、数万円の「集客マニュアル」を買えば保育園が「開業」できると宣伝されるような制度にしてしまった規制緩和はもっと乱暴です。

しかも「自己資金がなくてもできる起業を探している人、何から、どう始めたらよいかわからない人、自分ひとりで始めるのは不安がいっぱいの人」には、保育園経営がお薦め、安定した収入になる、というのです。

「フランチャイズは失敗してもFC料金を払わなくてはならないのが不安」という指摘は、よく考えれば、それだけで政府や行政が問題にしなければいけない発言です。保育園経営に失敗して痛い思いをした人、自己資金を無くした人が、すでにたくさん居るということ。こういうことが起きないように、ルールを作ったり規制をかけたりしなければいけない。幼児という絶対的弱者を守るために。

本来子どもを守らなければいけない政府が進めている急速な規制緩和と市場原理、それらが創り出したコンサルビジネスやマニュアル販売ビジネスの先に、園児たち、幼児たち、保育士たちが必ずいる。経営に失敗した保育園にも通っていた子どもたち、保育士たちがいた。

政治家は、もう市場原理から子供たちを守ってはくれない。親たちが意識をしっかり持って、いま子どもと自分の人生に何が大切か、何が危ないのか、感性を働かせ考えてほしいと思います。

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そして、現場からこんなツイートが来ました。

『トイレから出てこなくなってしまった実習生を引き取りに来た母親の「保育士だったらなんとかなると思ってたのに」という一言は忘れられないけれど、一緒に来た担当講師の「なんとか二週間頑張れば資格とれたんですけどね」という言い草には腹立ちより呆れ。その講師はその養成校の卒業生と聞いて納得。』

養成校がすでに市場原理に取り込まれている。「資格」を与えることがビジネスになり、それが「養成」の中心になっている。「保育」を教えるはずの担当講師の意識の中に、「幼児の日々」が存在しなくなっている。

教える人たちの意識が麻痺しているから、育てる人たちの意識も麻痺してくる。教育界がその魂を市場原理に売ってしまえば、それは、政治家やマスコミの思考にも確実に影響していると思います。

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先日、2歳の子どもに何か一生懸命説明している母親を見ました。「2歳の子どもに説明する」、こんな素晴らしい瞬間があるんだ、と思いました。

真剣で、なにかとても広い、宇宙のようなものを説明している感じがしたのです。こういう時間をもう一度持てるのだろうかと考え、遠くを眺めました。

幼児といると、自分が「風景」の中にいることが感じられて、自分の「立場」がよくわかります。その絶対的「立場」に安心して、暮らせばいいのだと思います。(インドでの風景) http://kazumatsui.com/sakthi.html

待機児童対策で「質」置き去り

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『待機児童対策で「質」置き去り: 小規模保育3歳以上も 都知事が規制緩和要望』

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201609/CK2016091002000114.html

新聞もやっと指摘し始めましたが、政治家たちによる、幼児たちの生活や願いを考えようとしない規制緩和施策が次々と続きます。

役場の人が、私に言うのです。

最近、自分の子どもを行かせる保育園を、前もって見学にも行かない親が増えている。0、1歳児を預けることに躊躇しない親が増えている。そして、園に要望や不満があると、園に直接言わずに、すぐ役場に言いに来る親が増えている。

これが、待機児童がたくさんいて、どこでもいいから保育園に入れたいという地域の話だけではない。地方の、待機児童もいない市でも、同じことが起こっている。数的に言えば一部なのでしょうが、政治家たちの経済主体の仕組みが親たちの意識を変え、こうした親たちの意識の変化が、政治家たちの施策を後押ししているような気がします。

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以下は、現場で矢面に立っている役場の人からのメールですが、状況は切実です。新制度元年、去年いただいたメールですが、今年は一層、全国で問題が広がっているので、再掲します。こんなことをしているから、児童虐待や家庭崩壊が増えるのです。早く方向転換をしないと、児相も養護施設も、保育も学校も対応できなくなります。すでに、1年目でそうなっている。

 

役場の人からのメール

今週の水曜日から、来年度の入園受付が始まりました。連日、長蛇の列です。昨年よりまた一段とお母さん達が殺気だってるような気がします。なぜか?皆さん、必死なのです。待機児童になったら、どうするの?!会社を辞めろというの?!と、こんな調子です。

また、年々乳児の申込みが急増しています。待機児童になる確率を下げるため、少しでも早く入園申込みをする傾向が加速しているのです。受付をするあいだ、こどもを預かっているのですが、(その子の発達をみることが目的でもある)、生まれてはじめて母親から引き離される時の乳飲み子の泣き声、受付会場は凄まじい状態になります。

気になるのは、こどもに無関心な親が増えていること。親心の喪失も加速化し、養育の主体性も欠落しています。入園を希望する保育園選びをしていて、受付の最中に夫婦喧嘩さながらの光景もあります。(夫婦の絆も喪失?)

こどもを慈しむという人間本来の感情でさえ、失ってしまったのでしょうか。

1日10時間の入園受付をしていても、まだ終わりません。土日も受付をします。結局のところ、保育園を新設すればするほど、待機児童の掘り起こしになることが、新年度の入園受付で確証できたのですが、誰も増設に異論を唱える人はいません。

認可園増設=待機児童減少

愚策です。

いままで拒んでいた株式会社も公募対象として決まりました。この国の子育て政策に危惧する者は、行政の中にも官僚の中にも、皆無なのかもしれません。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーここから私です

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マスコミや教育という仲介者が加わり、親の意識の変化と政治家の経済優先の施策は相互に連鎖し、保育の質、子育ての質に影響を及ぼしています。しかし、質の低下を止めるとしたら、やはり親の意識が出発点になるしかない。

最近、子どもが言うことを聞かないと、保育士のせいにする親がいます。反対に、それを親との愛着関係のせいにする保育士がいます。たぶんどちらも正しいのです。逃げられないのはどちらですか、ということなのです。保育士は嫌になったら辞めてしまえばいい。親はそうは行かない。預けた方の意識がまず最初に幼児優先に変わっていかないかぎり、保育崩壊の流れは、変わっていかない。

どうしたらいいのだろう、と考えます。最近は状況が進みすぎて、中々いいアイデアが浮かびません。親の一日保育士体験も効き目がありますが、通過点での気づきであって出発点にはならない。やはり、中学生くらいから、もし将来子どもを授かったら祝いましょう、誰かに預かってもらうことになったら、感謝しましょう、と説明し、保育士体験で幼児と過ごす時間の素晴らしさ、自分自身の心の仕組みに気づかせてゆくしかないのかもしれません。

(以前、書いた文章ですが、中学生は中々すごい人たちなのです。彼らの感想文に希望が見えます。これは、出発点となりうる。ここから新たな流れは生まれる。そんな未来を感じ、少し嬉しくなるのです。以下のリンクで彼らの感性が読めます。)

 

『中学生は理解してくれる』

 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=726

『中学生の保育士体験/「あの人変」/役場の人からのメール』

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=260

 

 

 

政府主導の「子ども・子育て会議」が11時間保育を「標準」と名付けた時、義務教育の崩壊が始まったことにみんな気づいていない。

政府主導の「子ども・子育て会議」が11時間保育を「標準」と名付けた時、義務教育の崩壊が始まったことにみんな気づいていない。

 

保育士が昔「保母」と呼ばれていたように、保育は、主に母親の代わりをしようとすることで、そうした理解が、以前は社会の中にありました。「代わり」はできなくても、そう努力してみること、幼児と、心を合わせようとすること。それで、まあまあ良かった。なんとかなった。

8時間勤務の保育士たちに、11時間保育を「標準」と言って押し付けることは、その努力を捨てなさい、ということなのです。「仕事」なのだから、さあ、保母という言葉を完全に忘れなさい、ということなのです。

中心が8時間勤務でなりたっている保育界にこれを言うことは、保育(子育て)は「人間対人間」ではなく、「人間対仕組み」だと宣言することになる。加配相当の障害児の母親が「私も、標準、11時間でお願いします」と言った時に、現場はそれに対応できない。子どもの育ちに責任を持てなくなる、ということなのです。誰が、子どもの育ちに責任を感じるのか、という人間社会を支える柱が「子ども・子育て支援新制度」で一気に見えなくなってきている。義務教育を支えてきた堰が崩れ始めている。

 

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幼児を囲む静寂・風景・約束ごと

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幼児を囲む静寂・風景

 

「地下で保育所可能に:区長会・公設民営で問われる質・心の傷」をhttp://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060に書きました。雇用労働施策が発想が原点があるから、「保育の受け皿」という言葉が先走り、認知され、量の確保が最優先されている。保育の本質や意味が理解されていない。子どもの日常的環境、日々の生活の喜びに対する無感覚さ、無神経さが「地下で保育所可能に」という区長たちの発想につながるのだと思います。

親子関係というのは積み重なる体験の中で育ってゆくもの、築かれるものなのです。子育てを、親子という特別な関係が培われる営みと考えた時に、「受け皿」という言葉自体がすでに非人間的です。それに、もう誰も気付かなくなったようです。マスコミによる情報の共有が、不自然を当たり前に見せてゆく・・・。本当は、子育てに受け皿などありえないし、一歳の時の一年は、その親子にとって一生に一度の、2度と体験できない一年。そして、それはあっという間に過ぎていってしまう。もし、その双方向の人類不可欠の体験を、国の経済のために、一日11時間切り離すのであれば、できるかぎりその時間を価値あるものにしなければいけない。

「受け皿」を用意する人たちには、その質に関して相応の責任がある。

 

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音楽もする私が、ふと自分の子どもを幼児期に毎日十時間どこかに預けざるを得なくなったとしたら、と考えてみました。その時、どうしても欲しいものを考えてみました。そして強く思ったのが「静寂」です。昔から幼児期の子どもを囲んでいた静寂が、いま仕組みの規制緩和によって忘れられている気がしてならないのです。

背後に静寂がなければ、言葉さえも騒音になっていく。風景が見えなくなってゆく。

 

新しい園舎と広い園庭が完成したら噛みつきがなくなった、と言っていた園長先生の言葉を思い出します。ゆとりのある空間と景色に、保育士たちが落ち着き、無愛想だった親たちが自然に朝、挨拶するようになったというのです。不思議です。風景から挨拶が生まれる。今の時代、保育園は人間たちの重要な出会いの場。そこは、信頼関係が育まれる場でなくてはならない。

風景が生み出す「心のゆとり」が集団としての人間を支えていた。言葉でも理屈でもない。まさに、幼児の居る風景が整ってゆく。そして、幼児の居る風景が、人間社会を整えてゆく。その風景が人間たちの安心を支えるのだと思います。

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この文章をfacebookに載せたら、所沢市長からメッセージが来ました。facebookのありがたいところ。

藤本 正人 例えば、抱っこして眠る幼な児のおむつのおしりをとんとんとたたきながら、例えば、広場でベンチに座って抱っこしながら同じ風景を見ているとき、たとえば「・・・だねぇ」といわれて、「・・・だねぇ」とこたえたり、その逆に、子どもが親の言葉づかいをまねてくれる時、そして、もちろん子守唄を謳いながら寝顔を眺めているとき、安心感とともに静寂があるような気がします。

私の返信:

言葉の喋れない人たちとの会話が、人間に静寂を感じさせたり、その感覚が「祈り」というコミュニケーション能力を教えてくれたりするのですね。子守唄という、一方的に見えるけれども、親は自分の子どもだけではなく、まわりの風景や神々と交流しているような音楽のかたちが、人間社会に戻ってきてほしいと思います。

 

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「地下で保育所可能に」 http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1060 というニュースを受けて、

「保育室の窓から眺める外の風景は、保育士にとっても、子どもたちにとっても人生の大切な一部であって、生きてゆくには重要な体験です」とツイートしました。雨の日に、「外で遊びたいね、雨、やまないかな」と無言で心を重ねてくれる保育士がそばにいるかどうかで、幼児たちの人生が変わってくる、それが保育です。

このように、ある日静けさの中で、無言で心を重ねてくれる人が身近にいるかどうか、で幼児期の体験はその価値が決まってくる。いい保育士は、それを生まれながらのように理解している。その静かな心の重なり合いが少ないと、幸福感が相対的なものであって、自分の想像力の中にあることがわからなくなってくる。すると必然的に、数年後に始まる学校生活での人間関係の質が粗くなってくる。わかりやすく言うと、いじめの質が粗くなってくる。その積み重ねの結果と言ってもいいかもしれない、学校を卒業し競争社会に入って行った時の体験が、年々、殺伐としたものになってきている。それが、最近わかります。

社会全体を見える範囲で見渡すと、信頼関係の薄さにアップアップして、みんなでもがいている感じがするのです。競争社会は、誰かと競争するだけではなく、一緒に闘う人間との信頼関係に安心する、ということでもありました。もし、心の重なり合いが薄ければ、闘ったとしても、勝ったとしても、それは虚しい体験でしかない。体験を、お金で計ろうとしても、虚しさは必ず残ってしまう。

損得勘定とは離れた、「忠誠心」みたいなもの、約束ごとに、人生は支えられている。

 

私が一人で公園に座っていたら変なおじさん。でも、2歳児と座っていたら「いいおじさん」。

そんな宇宙の法則、遺伝子の働きみたいな約束ごとを実際に感じると、そこに居るというだけでこれだけの働きをする幼児たちに、すでに存在する法則のようなものが見えて、もっと楽に生きられると思うのです。こういう流れの中に居ることに感謝すると、流れ全体にいい感じの責任を感じる。こういう種類の責任というものは、良いものだな、と理解する。

 

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ツイッターは不思議な次元で会話が成立します。(@kazu_matsui)
 
『土曜日に、親たちはスキーを車に積んで出かける。
「お兄ちゃん、お父さん、お母さんはお休みなんだけど、僕は保育園があるの」と園児が言う。そんな話を岩手で保育士から聞きました。土曜日も就労証明なしでも預かれという施策が広がっています。』と私がツイートに書くと、
 
『子どもは夏休みがないんだってさ。私たち保育士は交代で休みを取れるけれど、一日も夏休みがない保育園だから(休んじゃダメだから)子どもは休みなし。「夏休める日」の希望保育日などの手紙もダメで「お子さんと一緒に休める日はありますか?」と聞くのもダメ。親が休みでも全部来る子どもが殆ど。』
 
という呟きが返ってくる。
 
自分の子どもを日々育てている保育士たちの気持ちを、親たちが考えない。その現実、そしてそれを言おうにも本音の会話を制してしまう仕組みが見えてくる。
「福祉だから、仕事だから、私たちの権利だから、税金払ってるんだから」で、「子どもの成長」とか、「保育園での保育士と子どもの日常」について考えたり想像するのをやめてしまった親が、ここ数年の間に急に増えている。
 
10数年前、地方では、お盆に「希望保育」(園の要望に応えて、親たちが自主的に、できる限り子どもを休園させる)で保育士たちが交代で数日休みをとれた。「保育士だって墓参りはするんだ」という園長の一言で、親たちが納得していた。そんな、互いの立場を慮る、助け合う日本がつい最近まであったのです。そろそろ地理的な「地域」では保てなくなってきていた「一緒に育てる」という信頼関係が、まだ保育園という場所で根強く育っていたのです。保育園とは、そういうものだったのです。
 
そんな人間同士の育ちあいや、気遣いが、「保育は成長産業」、そして「11時間保育が標準」とした閣議決定や施策でどんどん消えてゆく。失ってはいけないはずの、この国の気質や、存在意義が消えてゆく。そのスピードに驚きます。
 
別の保育士から、
 
『お姉ちゃんたちだけUSJ連れてって、一番下は保育園って子いたよ。ほんとに、馬鹿だよね。子どもをなんだと思ってるの?土曜保育、安易に使うなや( ´・ω・` )』
 
というツイート。
 
土曜保育、長時間保育、病児保育、預かり保育、ひととき保育、子どものショートステイ、学童保育、「安易に使うなや!」というのが保育士たちの本音だと思う。「安易に」という言葉の陰に、子どもたちと保育士の「無理を承知の」時間があることに、誰も気を留めなくなっているのです。福祉が権利ではなく「利権」になっている。
 
そして、
 
『台風の日に大雨の中赤ちゃんを連れてくる育休中のお母さんもいる、と公立園の園長が切ない顔をしてました。育休とっても、保育園をやめたら育休明けに行き場がなくなるとかで。何のための育休?』
 
これでは、育児をするための育休ではなく、育児から逃れるための育休になっていく。待機児童がたくさんいる地域では起こりにくい現象ですが、もともと「Needs:ニーズ:必要」ではなく「Wants:そうしたい」で保育園に預ける親が相当数いたのが現状。幼稚園という選択肢が一つも存在しない自治体が2割以上あったのですから、無理もないことだったのです。
 
三人目は就労証明なし、保育料無料という施策もそうですが、現場が「おかしいな」と思われる施策は、だいたい親たちの子育てに関する意識を、保育が成り立たなくなる方向へ導いてゆく。
 
土曜日は保育園に子どもを預け、親が休む日。リフレッシュして日曜日に子どもとしっかり遊びますと保育士に堂々という親もいる。政府が作った仕組みを利用して、何がベストか計画を立て、合理的といえばそうなのですが、幼児と一緒にいる時間が「重荷」「負担」という認識に近づいていくのを感じます。
 
人類が進化するための幸せの原点であった負担、幼児の存在意義が、薄れてゆくのです。この方向へ進んで、はたして学校教育が成り立つのか。そこを考えなければいけない。
 
そして一方で、こんな切羽詰まった呟きが届きます。
 
『乳児クラスでは、其々が休憩時間など取っていたら何も出来ません。個別のお便りを書く、0歳児が多い中(勿論、午睡リズムもそそれぞれですし)就寝中は呼吸確認、寝返り出来る子をうつ伏せから仰向けにさせる等(そして動かすから泣いてしまう)何人保育士がいても休憩なし』
 
『SIDSも不安で、皆、乳児クラスを離れて休憩などできません。何か事故があると「保育士何してた?」と批判されている。でも、皆いっぱいいっぱい。「休憩とってました!保育士一人で見てました」って言ったら?暗に保育士は(特に乳児)休憩なんかないぞ!と言われている』
 
政治家たちは、有権者の利便性だけではなく、今は選挙権がないけれど将来国を支えるはずの子どもたちの日々、家庭を基盤とした約束ごと、国全体の行く末をしっかり見据えてほしい。特に学校教育が健全に行われることを念頭に、いま施策を考えないと、市場原理に巻き込まれた保育界が限界に来ています。

 

 

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