道徳教育は仮面の領域?/喜び、崇拝し、祝うこと/副校長が足りない

 仮面、マスクの展覧会を見に行きました。(東京都庭園美術館:六月三十日まで、です。)

 古い、由緒のありそうな、庭園といくつかの巨木に囲まれたいい建物のそれぞれの部屋で、マスクもまたそれぞれに生き返って無言で語りかけてくるようでした。
 橋渡しの役割を担う不思議なものを、人形や音楽もそうですが、人間は昔から必要としていました。あっち側とこっち側の中間に位置するものを体験的に認めながら、生きるための絆は生まれた。マスクは、特に、人間が自分もそれになろうとするから面白いのかもしれません。自分が浮き彫りになって来る。

 乳幼児もまた、あきらかに橋渡しをする存在だと思うのです。
 言葉を発しない、超自然的な領域を身近なものにする、アニミストたち。
 この人たちの存在を否定する、この人たちの存在理由を否定する為政者たち。何に取り憑かれているのか知らないけれど、沈黙が浅い。
 道徳教育は元々、仮面の領域。
 モラルや秩序は、歴史の浅い「教育」や「司法」ではなく、非論理的な体験の領域で本能と重ねて身につけていくもの。
 輪になって踊り、一緒に火を眺め、自分の中にある多様性、多面性と、折り合いを付けること。その儀式。
150425_n_photo01-1.jpg
  教育現場で、副校長が足りない、教頭の成り手が足りないという新聞報道がありました。保護司、保護観察官も足りないというテレビの報道も見ました。もちろん介護士も足りないし、待遇が比較的いい教職を除けば、子どもにとって最後のセーフティーネットかもしれない養護施設の職員も、数年で辞めてゆくという。入所してている子どもたちの荒れ方がもう以前とは違う、と言うのです。
 保育士が足りないしわ寄せが、子育てに関わるあらゆるレベルで修復不可能な状況を生み始めている。足りないものは足りない。それは、もう、お金でどうこうなることではないのだと思う。
 根本に、幼児というアニミストに対する政府の「心配りが足りない」ことがある。そこから見つめ、考え直さないと、対処するほど崩れてゆく。
 (仕組み上の)「専門家」に「子育て」ができると思うから、こんなことになるのだと思う。
 もともと、すべての人が子育ての専門家になるため、あるいは、なろうとするために、人類の進化と営みがあったはず。そして、学問なんてものが無かった時間の方がはるかに長かったわけだから、子育ての専門家は方法や知識を知る人ではなく、子どもの存在に感謝する心持ちの人。いい親になりたいと思いオロオロする人、そんな心境のことだったのだと思う。この二つくらいの心境があれば人類はそこそこだいじょうぶで、相談相手が数人居て、助け合うことの幸せを知っていればたいていのことはなんとかなった。
 専門学校や大学などの定員割れに怯えている保育者の養成校で、政府やマスコミの言う仕組み上の「子育ての専門家」は育たないのだと気づいて欲しい。
 卒業させ資格を取らせることに四苦八苦で、教える側が、その先にいる幼児たちのことを考えていない。明らかに現場に出してはいけない学生が保育現場に実習に来る。そして、そんな学生に平気で、安易に資格を与えるようになった教育に幼児の存在理由はわからない。勉強ができるとかできないとかいうレベルの話ではないのです。人間性とか精神的健康の問題なのです。絶対に他人の乳幼児の命を預けてはいけないほど不安定な人が、「資格」を持って卒業してくる。これは、養成校が本来の存在理由を自ら放棄したということなのです。市場原理に呑み込まれた社会は、そのことに気づかない。
 社会で子育てなど机上の空論。「子どもの最善の利益を優先する」という保育所保育指針の精神が、「保育は成長産業」とした閣議決定で、養成校の段階ですでに踏みにじられている。
 「なんで、あんな人に資格を与えるのですか?」という真面目な学生の疑問に、誰も答えられないし、答えようとしない。その時点で、子どもを育てる保育者の良心がすでに裏切られているのではないか。教授や理事長、教える者たちによって。
 学問で子育てを考えるから、こんなことになる。
 子育ては仕事ではないし、職業でもない。結果でもない。
 育てる側が、喜び、命を拝み、成長を祝うこと。宇宙を感じ調和すること。持ち主の手を離れても生き続けているマスクたちが、そう語っているように思いました。
 


images-10.jpegのサムネール画像
 彼らが過去から時空を越えて私たちを育てる機会を用意する本能が、まだちゃんと私たちにはある。それが嬉しい。

“行方不明児20万人”の衝撃 「中国 多発する誘拐」/アメリカの現実

(国、制度、経済、福祉、教育…。人間社会の仕組みが、人間性を逸脱しはじめている。)

NHKクローズアップ現代/ http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3644_all.html

行方不明児20万人の衝撃  「中国 多発する誘拐」

中国の街角で写真を掲げる人たち。子どもを誘拐された親たちが救出を訴えています。

「もう一度子どもに会って抱き締めたい。」

今、中国では子どもの誘拐が大きな社会問題になっています。年間20万人の子どもが行方不明になっているといわれる中国。都市部の小学校。下校時間になると、誘拐を恐れる出迎えの親たちであふれ返ります。「心配で幼い子どもを一人で帰宅させられません。」

取材を進めると、誘拐された子どもは農村部に売られていることが分かってきました。貧しい農村では老後を支えてくれる子どもがいないと生活できないといいます。

誘拐された子どもを買った女性:「息子を買ってこなければ、養ってくれる人はいませんでした。」

急速な経済発展の陰で多発する、子どもの誘拐。

中国社会のひずみが生み出す犯罪の実態に迫ります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

報道は続きます。ここからは私見です。)

 二十五年前に著書「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」(エイデル研究所)に書いたのですが、当時アメリカで誘拐される子どもが毎年十万人。ほとんどが解決しない、という現実がありました。私が本を書いたり、講演したりするきっかけとなった凄まじいばかりの家庭崩壊の状況が、当時「国家の存続に関わる」と定義されて報道されていました。そんな中、我が子を探す親たちが、不特定多数の誘拐犯に語りかけるコマーシャルを作り、時間枠を買ってテレビに流していたのを思い出します。

「この電話番号に電話して下さい。警察には届けません、相談に乗ります」というメッセージを見た時に、一体この国では何が起こっているのだろう、と愕然としたのです。そして、状況を知れば知るほど、そのコマーシャルの向こうに、家族を求めての誘拐ゆえに解決しにくい現実と、悲しみに苦しむ親たちの必死さと絶望感を感じました。

 離婚後親権を失った親たちが我が子を誘拐する。州を越えるとFBI(連邦警察)の管轄になり、よほど運がよくないと誘拐された方の親は一生子どもと再会することはない。

 ほとんどの幼稚園、保育園で、将来子どもが誘拐され人相が変わってしまうほど成長してしまった時のために、指紋を登録しておきましょう、と薦めるチラシを親たちに配られていました。近所のスーパーマーケットで買い物をすると、牛乳パックに誘拐された子どもの写真と特徴が印刷されていて、よく読むと、つい数ヶ月前、すぐ近所で、というのもありました。

 理由は違っても、家族を求めての誘拐であることが今回の中国に関する報道と共通しているのです。

 背後にあるのは、人間が作った仕組みの中で「伝統的な家庭観」が失われてゆく異常な状況です。アメリカと中国、世界のパワーを二分する二つの大国で、家庭崩壊が根底にある孤立感が人々の不安を煽り、誘拐という形で子どもたちを巻き込んでゆく。競争社会で子育てをないがしろにしておきながら、いざ孤立すると、駆け引きや裏表のない子どもたちの純粋さに救いを求めようとする。「家族」を求めようとする。グローバル経済の行く末を暗示する、象徴的な流れだと思います。

 子どもを将来の労働力としてしか見ずに、とにかく生めば社会(仕組み)で育ててあげると政府が言い、「みんなが子育てしやすい国」と厚労省がパンフレットで宣伝し、実はプラス40万人の乳児を預かろうとしている日本。この不自然な流れを、子育ては育てる側の喜びがあって存在する、という方向に戻していかないと、日本でも形こそ違え家庭崩壊が始まり、子どもたちがそれに巻き込まれ、数十年先に、中国や米国と同様のことが起き始めるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 三歳までに愛着関係が希薄だった子どもたち、数人の善意に囲まれなかった子どもたちの寂しさや悪意に対する反応はすばやい。肌が繊細に、敏感になっているから、なおいっそう愛情を養分にしようとしてもがく。だから学校に入って、教師たちの視線の温度差がより決定的になってしまう。そして、その要望と視線に、教師たちの決意が追いつかない。

 体験から生まれた大切なものが欠けているから、経済という脅しにひっかかるのだと思う。大切なものがないから、情報を信じ、それこそが大切だと言い始める。

 一日保育士体験。人が人に戻る瞬間を一番簡単に目撃できる方法だと思う。予算もほとんど要らない。この状況下でソフトランディングするなら、この方法しか無いと思う。

 子どもの体や心より大事にされる経済。それに一体何の意味があるのだろう、と首相に聞きたい。国とは一体何なんだろう、と聞きたい。

泣き声センサー/保育の本質が忘れられる



 泣き声に反応し、メロディや童謡、クラシック音楽、胎内音が流れる「泣き声センサー」を保育に取り入れたいという園からの要望に、行政の人から「保育崩壊、いえ保育壊滅です」と嘆きのメールをもらった。

 「保育資格者がこんなことを言い始め、幼児の心はいつ育つのでしょう」。「保護者は気付いてほしい。大切な我が子がどんな保育をされてるのか」と結ばれていました。行政にも繊細で、出来事の本質を理解する敏感な人が居て、保育という仕組みの中で人間の心が反応するのを求めて泣いている幼児たちの無言の主張をメールで知らせてくるのです。幼児たちの泣き声は、センサーをオンにするための声ではない。人類の人間性をオンにするための音。

 以前このブログに、抱っこしなくて授乳できる哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来て、驚いていた園長先生の話を書きましたhttp://kazu-matsui.jp/diary/2015/01/post-262.html。法律でもある「保育所保育指針」の主旨を読めば、哺乳瓶ホルダーも泣き声センサーも法律違反だということがわかるはずです。乳幼児の存在理由が利便性や市場原理の間でますますわからなくなってきている。麻痺している。育てる側に「可愛がる心」を育て、遺伝子に組込まれた人間の「優しさ」をひき出すという乳幼児の命の意味が見えなくなってきている。

 「保育園にお願いする」が、「保育園でもいいんだ」、「誰でもいいんだ」、そして「機械でもいいんだ」と、どんどん進んできているような気がして怖い。それを保育士が言い始めることの危険性をこの市の保育行政の一人は知っている。政府の幼児の気持ちを無視するような心ない施策に必死に毎日抵抗し、現場を見張ってきたからこそ、仕組みから心が消えてゆくことに虚しさを感じるのです。怒りさえ覚える。

 こんな、幼児の気持ち優先に考える役場の人が最近その人の身の回りにも少なくなってきた。だからこそ、「保育壊滅」という言葉が出たのでしょう。

 保育士が資格を取る時に、子育ての本質を学んでいないのか、保育指針を読んでいないのか、と首を傾げたくなります。そして、「資格」という言葉に安心を求めようとしている現代社会の危うさをひしひしと感じます。

 弱者に関わることで生まれる人間社会の本質的な連帯が短時間に加速度的に希薄になり、結果、弱者の孤立化に拍車がかかっている。この孤独感は、すでに福祉とか教育で補える限界を超えている。子育ての意味が、福祉と教育(仕組み)で見失われてゆく。



和先生、こんばんは。

 

 あまりに哀しい出来事があったので、聞いてください。

 監視カメラの次は、泣き声センサーを取り入れたいと言ってきた保育園が現れました。

 「保育崩壊」、いえ「保育壊滅」です。

 自宅向けの商品が人気だとは聞いていましたが、まさか保育資格者が使う時代が来るとは。泣き声に反応して、洗練された遊具からメロディが流れる。クラシックから胎内音に似た音楽まで。機械化した人間から、機械的に育てられたこどもたち。心はいつ育つのでしょう。

  そんな保育を見たら、1保育士は気付いてほしい。自分たちの仕事はなんなのか。2保護者は気付いてほしい。大切な我が子がどんな保育をされてるのか。

 一部の保育園かもしれませんが、氷山の一角なんだと思います。こんな時、監視カメラがあったら、保護者は目新しいと喜んでしまうかと思うと恐ろしくなります。

 以下、メーカーの宣伝を送ります。

   ベビー用品を販売するコンビは、泣き声に反応して動きだす機能付きの「メロディいっぱい!みまもりセンサーメリー」を、全国のベビー用品専門店、玩具専門店、百貨店などで20153月下旬に発売する。赤ちゃんの泣き声に反応し自動で動きだす「みまもりセンサー機能」付きで、感度調整も出来る。メロディは豊富な12種類、童謡からクラシックまで赤ちゃんの気分に合わせて選べる。胎内の音を再現したという「あんしん音」も。肌に優しいふわふわとした下飾りのおもちゃは取り外し可能で洗濯できて、ラトルとしても遊べる。育児や家事に忙しいママをマルチにサポートする。  

 価格は8500円(税抜)、対象月齢は0か月から。単3形アルカリ乾電池4本使用(別売)

 

——————–(返信)—————————-

 びっくりですね。

 保育所からの要望ですか?

 韓国で監視カメラの保育所における設置が国会で法案として義務付けられた、という記事の紹介を先日ブログでしましたが、それは保育士による虐待を防ごうというのが主旨でしたが、これは保育者が機械で保育をしようということですよね。

 抱っこしなくて授乳できる哺乳瓶ホルダーの売り込みが保育園に来て、驚いていた園長先生がいましたが、乳幼児の存在理由が本能的にわからなくなってきていますね。

 可愛がる、という心を人間の中に育て、遺伝子に組込まれた「優しさ」とつながる本能をひき出すという乳幼児の命の意味が見えなくなってきている。

 「保育園にお願いする」が、「保育園でもいいんだ」、「誰でもいいんだ」、そして「機械でもいいんだ」と、どんどん進んできているような気がして怖いです。人間社会の本質的な連帯が短時間に加速度的に希薄になって、弱者の孤立化に拍車がかかっているいま、政府は「社会で子育て」と言いますが、福祉とか教育で補える限界をすでに超えているんだと思います。子育ての存在意義が、福祉と教育で見失われてゆく感じですね。

 昨日は、群馬の保育協議会で話してきました。同じ時間帯に、長田先生は函館の保育士の集まりで講演していたそうです。反応はとても良かったです。

 保育士たちと保護者に、繰り返し幼児からのメッセージを伝えていくしかないです。

 頑張りましょう。

 

松居

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 この話を聴いた別の園長が言いました。

「作った人は、いいと思って作ったんでしょうね。保育はサービスという厚労省もそうですが、幼児の発達の意味がわかっていない」


images-5.jpegのサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像のサムネール画像

 厚労省が出した保育所保育指針解説書というのがあります。その一番最後にこう書いてあります。

保育所は人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、
広げることを通じて社会に貢献していく重要な場なのです。」


 そうであってほしいと思いますし、そうでなければ人類が危ない、と思います。人類普遍の価値を人間に教えてくれるのが幼児たちだということに、再び、気づかなければいけません。