パズルの組み方が上手になること/一日保育士体験、高知県教育委員会の取り組み

2012年4月

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 埼玉県の特別支援学校で教師による虐待があったのでなないか、という報道がありました。状況を録音した音がテレビから流れて来ました。罵声と何かを激しく叩く音。怒鳴る相手が、母親にうまくその出来事を伝えられる能力のなかった、障害を持っている子どもだったことを考えると、その女性教師の叫び声はまさに異常でした。見るに見かねた職員によって録音されなければ、親にも知れず、そのまましばらく過ぎて行ったかもしれない。それが本来の人間の絆で成り立っているわけではないシステム・仕組みの恐ろしさだと思います。社会が子育てに関わることの恐ろしさだと思うのです。社会の実態が「人間たち」だったら良いのですが、システムが社会そのものになってゆくと必ず弱者を守りきれなくなる。だから、現実的問題は色々あったとしても、親の代わりはいない、ということを私たちは一つの常識として意識し続けなければいけないと思うのです。

 一昨年までその仕組みの一員として県の教育委員を4年つとめた私には、身内で起こった出来事のようで報道を見ながら呆然としてしまいました。無力感を感じました。

 保育士による虐待が家で報告出来ない三歳未満児によく起きるように、発言能力が著しく低い者たちに対してしばしば人間はこういうことをする。だからこそ、まわりの人間が気をつけて、いつでもどんなことでも話し合える絆をたくさんお互いに持っていなければならない。システム依存から起きる信頼関係の欠如が進み、社会全体の生きる力が著しく疲弊している状況のなかで、あってはならないことが起こっています。それを私たちは知っているはずです。

 児童養護施設でも、学童でも、老人介護の現場でも毎日どこかで起こっている。この国の根幹を崩してゆく不信感の連鎖です。それをどこで止めるのか。間に合うのか。

 でも一番はっきりしていることは、これからも幼児たちは生まれてくる。そして私たちには努力する責任がある。

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 私たちからいい人間性を引き出し、言葉の通じないコミュニケーションを私たちに強いることで想像力や理解力を高めてくれるはずの人たちが、虐待され始める。30年前にアメリカで私が見た福祉の現場が人間性を失ってゆく風景そのままです。性的虐待が高齢者福祉から始まり低年齢層に降りてゆく。そして、少女の5人に1人、少年の7人に1人が近親相姦の犠牲者という状況まで進むと、もはや止めることは至難の業です。人間たちに絶対的に必要な「絆」がゆがみだすと、強者が幸せを求めることが弱者の不幸につながりはじめる。家庭が原点になり学校教育が崩壊してゆく。優秀な教師、良識のある人材がある日突然ベッドから起き上がれなくなり、 教育現場から去ってゆく。そして、急速にシステムは心を失い形骸化してゆく。そのスパイラルが、日本にも確実に起こり始めている。その方程式に日本も組み込まれ始めているのです。


 「子育て」という選択肢のない一つの「苦労」が社会に信頼関係と祈りと絆を生む、という自然の流れが止まりつつある。

 数年前、埼玉の特別支援学校で、教師たちが重度の障害を持った子どもたちに立派に育てられている姿を見ました。身動きが満足に出来ない中学生が、言葉にはならない言葉で、教師をゆっくりゆっくり育てている風景を見ました。その日教えたことが次の日には無になっているような関係だからこそ、結果を求めず、教える側の人間性が育つ。

 親心とは心の底で損得勘定から離れること。特別支援学校で私が見た教師と生徒の関係は、親が乳幼児を育てる風景、乳幼児が親を親らしくする風景と重なるものでした。

 視察のあとに私が、そう感想を述べると、そうなんです、私たちが育てられているんです、と涙を流す先生がいました。だからこそ今度の出来事は悔しいし、腹が立つ。管理する者たちの手で止めることが出来たはずだから、言い訳がなりたたない。言い訳してはいけない。

 こうしたことが起こっていることが現在の子どもたち、特にコミュニケーション手段を制限された弱者を囲む環境なのだということを社会全体で認識し、福祉や教育といったシステムが人間性を育む場、教師や保育者と親たち祖父母たちの間に信頼関係が育つ場になるように変えていかなければなりません。一緒に幼児をながめれば、かならず人間の心は一つになります。それがスタートだったのです。

 

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 障害児、障害者、認知症のお年寄り、0才児も含めて寝たきりの人、一人では生きられないであろう弱者はどんな時代にも社会の一部として存在しました。最近専門的な名前がついただけで、以前は名前をつけて分けなくてもいいくらい普通に一員として居ました。人間社会はいつも様々な命の組み合わせで成り立ってきたのです。

 古典落語の重要な脇役与太郎や若旦那は非生産的愛すべき人間です。そして、日本の昔話や民話の主人公に意外に多いのが怠け者。三年寝たろう,眠りむしじゃらあ、わらしべ長者。一見まわりの負担になったり、一人ではなかなか生きられそうにないひとたちと、パズルのように組み合わさって私たちは生きてきました。彼らを愛し、

 受け入れること、が幸せだと知っていたのでしょう。母性の国なのかもしれません。幼児たちから日常的に学んだのかもしれません。この人たちがいないと人間は淋しさに包まれる。生きている意味が見えにくくなる。自然を見つめ、自分の弱さを自覚出来ないとパズルの楽しささえ見えなくなる。ほんとうに様々な次元で、お互いに少しずつ教えあい、助け合い、生き甲斐を交換しあい、感性を育てあうのがこの国の伝統だったのです。

 そのパズルの組み方が上手になるために、なるべくたくさんの人たちが、0歳から5歳までの幼児とゆっくり時間をかけて付き合うことが必要だと思うのです。とくに0歳から3歳までの人間たちは特別です。この人たちを理解すること、否、「理解しようとすること」が人間社会が調和する元にあった。一つ一つの命の存在意義と存在理由を人間たちに、それとなく教えてきたのだと思います。

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 親と保育者、教師の心が「子育て」で一つになっていれば、保育者や教師による虐待は起こらない。だからこそ見張り合いではない信頼関係の土壌を耕す意味で、「一日保育者体験」を進めていかなければならない、と思います。

 2年前、全国教育委員長教育長会議の分科会で目の前に座った高知県の教育長に、私は一日保育者体験について熱心に説明しました。分科会での教育長の発言を聴いていて、情熱の人だ、この人には通じる、と思い、気合いを入れて説明しました。一ヶ月後に高知県の教育委員会から埼玉の教育委員会に部長さんと課長さんがやってきました。埼玉県の福祉部が作った事例集やポスターを見せて説明したのだと思います。(この辺りは、もうよく憶えていないのですが、高知県のホームページを見ていると品川区の影響もあるような気がしますし、埼玉県の事例集の影響があるような気もします。はぐくむ会の雰囲気も取り入れています。本来仕組みというのは、互いに育てあい育ちあう証。改良しあう、進化してゆくのがいいのです。子育てに正解がないように、仕組みにも実は正解がないのです。子どもたちのために、という物差しを中心に、確認しながら進化してゆくのがいいのです。)

 高知県から来たひとたちが「親心をはぐくむ会」に参加している園に、実際に「保育士体験」の見学にこられました。「はぐくむ会」から花園第二保育園の高木園長先生が代表で高知県まで説明に行きました。そして、最近になって、高木先生のところにきれいな高知の「事例集」が送られてきました。すぐに、それを高木先生が「速達」で、私に送ってくれました。とてもわかりやすく、取り組みの成果と意気込みが載っていました。良かったという親たちの感想と、よかったという保育者たちの感想が各園ごとに並んで載っていました。両者の思いの上に、子どもたちの日々の生活があるのです。すごい、すごい、と高木先生と電話で喜びを分ちあいました。

(「プロセスと目的は一体でなければならない」:マハトマ・ガンジー。)

 一日保育士体験の元にあるのは、「弱者が強者から善性をひき出す」というガンジーのサティアグラハ。保育士体験をした親たちの感想文を読むとそれがよくわかります。父親たちの感想文を読むといっそうわかります。親心をはぐくむ会のホームページにその瞬間がたくさん積み上げられています。


一日保育者体験/

高知県教育委員会の取り組み



保護者の一日保育者体験推進事業

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/hogosyanoitiniti.html

一日保育者体験実施園一覧表

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601//hogosyanoitinitijisien

保護者の一日保育者体験実施マニュアル

http://www.pref.kochi.lg.jp/uploaded/attachment/53460.pdf

茅野市の取り組み

http://www.city.chino.lg.jp/ctg/03091001/03091001.html

茅野市の保育士たちの感想文

http://www.city.chino.lg.jp/ctg/Files/1/03091001/attach/hk_taiken_9.pdf

品川区の取り組み

http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000011100/hpg000011037.htm

 他にも、さいたま市、春日部市のホームページでも「一日保育士体験」の取り組みが紹介されています。「子どもたちが喜ぶからやる」それが根幹です。大人たちの心が一つになる原点です。

 埼玉県議の森田俊和さんの県議会での「一日保育士体験」に関する質問と福祉部の答弁は以下のページで見ることができます。森田議員は子どもが「育む会」の会場にもなっている熊谷のなでしこ保育園に通っていて(今年卒園?)、育む会の准メンバーといってもよい人、三度に一度くらい毎月の勉強会にこられます。

http://www.pref.saitama.lg.jp/page/gikai-gaiyou-h2206-j030.html

映像で見る一日保育士体験

 http://www.youtube.com/watch?v=jvu4mKfzmJU

詩集、配っています

 小野省子さんから快諾を得て、省子さんの子育ての詩を詩集にして講演会で配っています。

 去年から、「おかあさん、どこ」と「愛し続けていること」の二編を講演会で朗読しているのですが、もっと読んでみたい、読み返してみたい、という主に母親たちの希望にこれで応えられるようになりました。幼児の存在、そして幼児との時には言葉にならない会話が、どれほど深く、時に悲しく人間の心を育て、魂の次元のコミュニケーション能力と想像力を高めるか。省子さんの詩には、人間が、その人生を深く豊かにしてゆく瞬間が見事に語られています。こういう育ちあいの時間が、人間たちに、「すべての人に役割がある」「お互いに鏡なんだ」という意識を持たせるのだと思います。
 詩集は、解説付きでホームページの「原稿集」からダウンロードできるようになっています。http://kazumatsui.com/genkou.html
 広めていただければ、幸いです。
(メールが着ました)

突然に失礼致します。

00県00市にある、保育園の園長です。

00市保育協議会の会長も努めさせていただいております。

昨年度、1月に県の研究大会の時、先生の講演をお聞きしました。

先生のお話に吸い込まれ、私自身がとても元気を頂きましたので、あの時参加できていない、園を守っていてくれた保育士にも、是非、先生のお話を聞いてもらいたい!と思い、色々な方を通してやっとここまでたどり着き、不躾ながらお願いしております。

私達の町は、「市」と言っても人口は3万8千人、産業、工業もない小さな町です。

そんな町ですが、ここ何年、子どもの様子が様変わりしてきています。

5歳児になっても椅子に座れない、話が聞けない、朝から「だるい」「行きたくない」担任や他の保護者に「抱っこ」「おんぶ」

自分の方を見てくれるまで大声で泣き喚く、勝手にどこかに行ってしまう・・・・など等!

保護者に相談すると、

「保育園に任せているのに、保育園のことをいちいち言わなくていい!」

「いうことを聞かなかったら叩けばいい」

「去年まで言われなかったのに!どうして!」等、保育士も日々悩んでいます。

私自身が先生のお話で元気をもらいました。どうか保育士も元気の基をいただければと思い、お願いしている次第です。

ただ、誠に失礼なことは重々なのですが、協議会としましても、講演料のこと、日程のことなどありますので、詳しく教えていただきたく

ご連絡を差し上げました。

大変恐縮ですが、どうかよろしくお願い致します。

                               

(返信)

ありがとうございます。

現場の方たちに元気になっていただければ本望です。感謝です。

講演料のことはご心配なさらずに。どんな条件でも喜んでまいります。

日程の方は、ぜひ、早目にお知らせください。

よろしくお願いいたします。

 実際に子どもを長時間預かり、育てている保育士たちと、親たちの心が信じ合わない言葉の応酬で離れてゆく。

 その狭間で戸惑い、役割を果たせず、さ迷う子どもたち。

 そういう仕組みになっているのです。

 長時間子どもたちと関わる保育者たちが生き甲斐を感じること。保育に幸福感を感じること。そのことの重要性が30年間政府の施策の中に入っていない。もし、保育がただの仕事になってしまったら、それはこの国を守ってきた最後の砦が崩れてゆくことかもしれない。「子どもたちが子どもたちであるというだけで親を育て、家族や社会の絆をはぐくむ」という役割を果たせるように、仕組みを変えてゆかなければならないのです。このまま進めば、学校も福祉もこの国も、ますます辛い状況になってゆき、人間たちが孤立を深め、傷つけあいます。

 子どもの幸せを願う保育者は、親たちとの信頼関係に生き甲斐を感じます。

 それを理解し、施策を進めないといけません。

 人間たちが育ちあう「輪」を取り戻せば、自然治癒力は戻ってきます。

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ぜひ、省子さんの詩を読んでみてください。

北の大地のN女史

 北の大地のN女史はクラブのオーナーママ。36歳。

 なぜ、最近北へ行くと素敵な女性に出会うのだろうか。以前、ブログに書いた「仏塔のともちゃん」も北の街のシングルマザーだった。

 N女史は、6歳の実子と高校生の養子を女手一つで育てている。
 三年前に引き取った養子の少年は、女史の友人が産んだ三人の子の一人。その友人はいまどこにいるかわからない。友人が、子どもたちの住所をN女史の住所にしていて(このあたりは詳しく聴いていないので定かではないのですが)、それがきっかけで、児童養護施設から一人を引き取ったそうだ。
 「もう中学生でしたから信頼関係をつくるのが大変でした。こっちに三歳の自分の子を寝かせて添い寝しました。難しかったです」いまでも時々綱渡り、と話をしてくれました。
 その上、女史はクラブで毎晩家に帰りたがらない男たちの愚痴を、時には明け方までお酒を飲みながら聴くのだそうです。男女共同参画社会。(男女共同参画社会は、男女が一緒にオロオロすること。不必要だと宣言することではありません。)すごいなあ。N女史、みかけと雰囲気が熊本の巫女、K園長先生にそっくりだ、と思いながらみとれていました。この人に見捨てられてしまった男のことを思ってしまいました。
 ホステスさんのなかに幼な顔の化粧もほとんどしていない、その日が業界初出勤という二十歳の大学生がいました。九州から流氷の流れ着く土地まで生物の勉強に来ているのでした。
 「冷たい海の岸には鷲がいるんです。九州にはカラスしかいません」と真面目に言うのです。カラオケの持ち歌が2曲で、そのうちの一曲「真夜中のギター」を歌いました。上手ではないのですが、一生懸命、小学一年生のように歌いました。お母さんがいつも歌っている曲だそうです。育ちの良さそうな素朴ないい娘さんでした。
 私は、講演のあとに、こういう女の人がいてお酒を飲むところに幾度か連れて行ってもらったことがあります。23年間に10回くらいで回数は少ないのですが、びっくりするようなすごい女性に出会うことがあります。
 そのひとたちの存在を感じながら生きていけばいいのだ、と思うようにしています。
 

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 N女史のことを思いながら、「子どもでいられることは、ありがたいこと。親でいられることは、救われること」という誰かの言葉をふと思い出しました。
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 2歳の娘をもつ友人が、私に言いました。
 「この前近所の公園に子どもを連れて行ったら、保育園の子どもたちが遊びに来てたの。二歳くらいの子たちだった。さあ帰ろう、となった時、一人の男の子が帰りたくない、って駄々をこねて嫌がった。保育士の中に男性保育士がいたの。怒鳴るのよ、置いてくぞっ!って。その剣幕に、駄々をこねていた子がびっくりしたのか、いやだっ、て男性保育士の足にしがみついたの。そしてらその男性保育士がその子を蹴っ飛ばしたの。しがみついたのを振り払った、って感じかもしれないけど、男の子は転がったわ。びっくりして私は凍りついた。女性保育士たちは見てるだけだった。もし私の子があんなことされたら、飛びついていったと思う」
 私は、しどろもどろに一生懸命説明した。
 まず、なぜ、他の保育士たちが止められなかったかを。つまり、いま、保育士は足りなくて、一人辞めたら次を探すのが大変なこと。保育士の待遇が悪過ぎること。親たちが感謝しない事。そもそも人間社会の「絆」が弱くなっているのが、すべての人間関係を荒くしているんだ。そして、福祉の危険性。福祉が仕事になってしまった時に、心ある、福祉に一番必要なひとたちが現場を去っていっていくこと。説明をしながら、空しかった。その男性保育士を蹴飛ばしに行きたいと思った。
 N女史のことを思うと、なお一層そう感じた。

大学生の早期退職、詩人、内閣府





 同じテーマに関心を持っているひとの輪から、選ばれた情報が送られて来ます。

 新聞に、「就職できず・早期退職」/大学生ら2人に1人/高校生は3人に2人(一昨年春・内閣府調査)という記事がありました。(毎日3/20)八王子の共励保育園の長田先生がFAXで送ってくれました。

 内閣府は、「ミスマッチ(求職者と雇用者の意識の食い違い)」対策などをいそぐため、近く有識者による組織を設置し、6月をめどに就職支援の拡充策をまとめる、と書いてあります。

 ミスマッチが問題ではないですよね、これは政府の就職支援で解決出来ることではなく、若者たちに働く意欲がなくなっているだけですよね、と電話で長田先生としばらく話します。幼児と人間たちの関係(幼児も人間ですが…)、人生の初期の体験が社会の土台を築いている、特に意欲という面でかなり影響を及ぼしている、そんなテーマで二人でしばらく意見交換します。

 少子高齢化問題もそうなのですが、こういう現象の背後に、現在2割、10年後3割の男たちが一生に一度も結婚しない、という一つの集団としての意思があると思うのです。ひとつの国の中で、ある条件のもと、集団としての無意識の意識が動く。たぶん人間の進化にかかわる力学がそこにあって、その原因をだいたいでいいから探り、想像して対応しないと意味がない。対応の仕方がすでに動いている力学に要素として組み込まれている場合があるので、視点や思考の次元を変えて渦巻きの外に一度出て考えないと、対処するほどはまって行ったりする。ひと世代前の常識ではかり、ちゃんと働けとか忍耐力が足りないと彼らを責めても、自らの意思で辞めて行く者を引き止めることはできません。いまの「社会」という観点からは間違っていようとも、彼らは彼らなりに幸福になろうとしている。

 

  「三歳までに親に関心を持たれなかった子どもは安心の土台がないから新しい体験をしたときに不安がってそれが壁になる。安心している子どもには、新しい体験がチャレンジになって、壁がその子を育てる」

 長年現場で保育に携わってきた長田先生が常日頃言っていることですが、もちろん全ての子どもに当てはまるわけではありません。人生には出会いがあり、祖父母との関係、保育士や教師との関係も人格を形づくる重要な要素です。しかし、人間が哺乳類である以上、まず親子関係、特に母子関係に特別な意味を持たせるのは正しいと思います。これまで人間たちがその進化の過程でほぼ選択肢がないこととしてやってきたことが急激にされなくなってきているとしたら、それは人間の遺伝子、仏教で言えば修羅のようなものと摩擦をおこし始めてもおかしくない。その第一に福祉や教育の普及で「子育ての時間と意識がかなりの割合で親から離れたこと」が挙げられると思うのです。

 幼児期の発達を観察し現場で試行錯誤し、同時に親子関係を見つめてきた保育園の理事長の発言です。これが正しければ、国会に消費増税法案と抱き合わせで提出される「子ども・子育て新システム」は、長期的な国家戦略上の最重要案件といってもいい。雇用労働施策の一部として、5年以内にもう45万人未満児(三歳未満の乳幼児)を様々な手段を使ってシステムが預かる(社会で子育て)という政府の方針が増々意欲に欠ける子どもを増やしてゆくことになる。子育ての第一義的責任は親にある、という常識が崩れてゆく。

 人間が社会を形成する時、子はかすがいではなく、実は子育てが根底にあるかすがいでしたから、社会で子育てという施策はますます絆を希薄にし、崩壊家庭を増やし、生活保護受給者を増やしてゆくのでしょう。

 生きる意欲が減少しているいま、家庭崩壊の流れは一度崩れ始めたら止まらない。


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 子ども・子育て新システムで幼保一体化プロジェクトチームの座長をつとめている学者さんが言うのです。「若い世代は子供を産みたいと願っているが、産めない理由がある」(NHK視点論点)。放送を聴いていると、社会(保育所)が育ててくれば産む、ということらしい。しかし、日本の少子化現象は、自らの手で育てられないのだったら産まない、という親子関係を文化の基礎にする美学ととらえることもできます。この方が自然でしょう。自分で育てられなくても産む、という感覚の方が、人間社会に本能的な責任感の欠如を生むような気がしてなりません。ひょっとすると、人間性の否定かもしれない。人類にとって危険な一線がそこにあると思えてなりません。

 

 最近の高校生男子の草食系化や、平均年齢34歳二百万人ともいわれるひきこもりの数を考えれば、「がんばりなさい、君たちには無限の可能性がある」「夢を持ちなさい」といった安易なモチベーショントークではどうにもならないところまで来ています。励ましのように聴こえるこうした常套句は、真面目に受け止めると自己責任につながる。経済競争が社会の基盤になり義務教育が普及してから広まった強者の論理から出ている言葉だと思います。生まれつき自力精進型の人か強運の持ち主を除けば、自己責任は自己嫌悪につながる可能性が高い。そして、この自己嫌悪に人間は弱い。他人の責任か神様の責任にするほうが健康的です。地球上に現存する神や仏を祀る場所の多さを考えれば、それは明らかです。祠や神殿、社や神像の数を精神科医の数が上回った時、人類はどういう時代を迎えるのか。

 連帯責任と神様の責任は、人間社会に「絆」を育てます。

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 自立の先に「孤立」があるのでは、と若者たちは気づいています。無意識のうちにそれを避ける。

 経済政策にいま必要なのは文化人類学的視点と幸福論でしょう。欲に頼って経済をのばす時代は終わっています。この国では。

 (草食系男子は実は育ちの良さそうないい子たちで、繁殖しないかもしれませんが、地球の平和に貢献しそうなひとたちだと私は感じます。母親たちの意識が動いているのかもしれない。人間が豊かさに弱いことの反動だと思えばいいのかもしれません。)

 

 こんなことも考えます。

 現在、若者の多くは消費者であって、生産者にはなれない。

 育つ過程で消費者であることに慣らされている。消費者であることを義務づけられていると言ってもいいかもしれません。数人の小学生がゲームに熱中する姿を見ていて特にそう思います。

 嫌な上司に当たって早期退職しても、内閣府がミスマッチ対策と言って有識者を集めてくれる。それを当然のことと思う。

 内閣府の姿勢はサービス産業的発想です。消費者と生産者の中間に位置するサービス産業が意識の主体になり始めている。学者と政治家というサービス産業の中核を成す人たちが施策を考えているのですから仕方ありません。若者たちはますます消費者の立場に置かれて行くのです。

 福祉もそうですが、社会全体のサービス産業的発想への偏りは、政治家が次の選挙に受かりたいという心理が動機で起こっているような気がします。これもまた民主主義の一つの欠陥と言えるのかもしれません。

 (歴史の浅い民主主義という仕組みの一番の欠陥は、親しか投票出来ないこと。「親心」という人間性が薄まると、発言できない者たち、特に幼児の希望、願いを想像しなくなるか、後回しにするようになる。)

 生産者はめぐり巡って自分のために働くのですが、そこには必ず「誰かのため」という意識が存在します。それが人間の本能に沿ったかたちで社会に経済力を与えてきました。経済力の基本は絆をつくろうとする力です。

 簡単に言えば、人間は自分のためには中々頑張れない。誰かのため、友人や恋人、特に家族のためになら頑張る、ということです。家族を持とうとしない男性がこれだけいる、ということが問題の根本にあるのです。

 日本の昔話の主人公には怠け者が多いし、古典落語の重要な登場人物が与太郎です。人間が意欲を持つためには、必ず弱者、先天的な非生産者の存在が必要です。弱者や非生産者の役割を理解して、意欲が生まれるのです。だからこそ乳幼児とつきあうことが宇宙から義務づけられていたのです。

 

 人間の心理は不思議で、例えば「男女共同参画社会」という言葉を市庁舎に掲げ、ニュースや報道で流したり、法律をつくったりすると、宇宙に向けて男女が共同していない、と宣言することになってしまい、実際そのような社会になってしまうことがよくあります。「言葉」は背後で人間を誘導し支配することがあるのです。

 特に法律になる言葉には気をつけないと、言葉でがんじがらめになってゆきます。法律は作ればつくるほどいいのではない。17ヶ条くらいで治まっている社会が良い、ということを忘れてはいけません。特に法律家や立法者はそれを念頭に置いて活動しなければいけない。法律で、「助け合っていない」と宣言するより、遺伝子の進化の歴史に近い所にある慣習とか本能とか伝統、常識と呼ばれるものの存在理由をもう一度理解し、移動手段の発達とコミュニケーション網の発達で異常に膨らんだパワーゲームに巻き込まれないようにするといいのです。自然に近い体験から自分自身をまず体験する方が重要です。だからこそ、一番効き目がある方法として、一日保育士体験、保育者体験を薦めているのです。

 

 すごい感性で見抜く人がいます。私が子育ての詩を送ってもらい感銘した小野省子さん。http://www.h4.dion.ne.jp/~shoko_o/newpage8.htm

 この人の詩を読むと、詩人というのは、一番感性の磨かれた人たちではないか、と思います。他の芸術家に比べて生産活動から遠いところにいるからでしょうか。レオ・レオーニのねずみ「フレデリック」を思い出します。



  不特定多数のだれでもいいだれかへ   

                  by 小野省子



すべてがくるまって並べられて
売られている時代に
私たちは産まれたんだ
不特定多数のだれでもいいだれかのために
どこかのだれかが機械じみて作った何かを
私たちは整列して受け取って生きてきた

手の届かない品物はあきらめ
商品が無くなれば終わり

ああ 私たちはだんだん
熱い欲望を失ったと思わないか?
(私たちの体は クローンのような寸分たがわぬ商品に
育てられすぎたんだ)

自分のことを
くるまって並べられた
不特定多数のだれでもいいだれかだと思った瞬間
私たちはもう
不特定多数のだれかの中からだれかを
選ぶことができなくなるんじゃないのか?

私のためだけに作られた熱いスープをすすり
あなたのためだけに作った甘いデザートを差し出し

むかいあって わらいあって こぼしあって
おこりあって なぐさめあって ないたりして

そうして口に運びながら
そんな延長線上に
セックスはあったんじゃないのか?



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