保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げる場

2019年12月

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10年前、著書「なぜ,私たちは0歳児を授かるのか」(国書刊行会)に「閉じ込められるこどもたち」という章を書きました。

当時認可外保育園で儲けようという動きが全国展開を始めていて、フランチャイズ料と指導料で大きく稼ぐ会社が衛星チャンネルやインターネット上で宣伝を打っていました。

しかし、その内容は、子どもたちの安全性、保育の質を考えると継続性が見込めない非常に危ういビジネスの形でした。儲けるための親支援、子どもたちの気持ちや成長過程など意識していないと思われる粗雑で乱暴なやり方でした。数年後に「保育は成長産業」という閣議決定があり、小規模保育や認可外保育所が「子育て安心プラン」の名の下に認可され補助を受け、国策として増えていきました。市場原理に巻き込まれ、すでに問題になっていた保育士不足が一気に加速していきました。

その当時「厚労省の資料を調べると、平成十九年度に新設されたベビーホテルが全国で193カ所、廃止休止が177カ所。認可外保育施設は594カ所が新設され492カ所が廃止休止」。これだけ新設されこれだけ廃止休止される。国はすでに保育ビジネスがいかに危ういかということを知っていたのです。

それでも進めた。そして、いまだに進めている。待機児童対策、少子化対策の名の下に進められた保育施策に関わった学者や専門家たちは、そこに子どもたちがいることを忘れている。政治家たちは、脳の発達、愛着障害、後天的発達障害、という観点から見れば、「戻すことができない乳幼児たち日常」があることを無視している。

 (当時のネット上の宣伝の一つ)

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保育は「何から、どう始めていいかわからない」人、「今まで保育園経営などにまったく興味のなかった方」、「不安でいっぱい」の人がマニュアルを読みながら始める仕事ではなかったはず。この宣伝を打った人たちは、「親たちから、自分の価値を感じる瞬間を奪うことになる」という、長年乳児保育の広がりの中で親身な園長たちが持ち続けてきた葛藤など一瞬たりとも感じていないでしょう。保育を一業種と見なし、儲ける手段と考え、それを他人に薦めている。しかも、それは違法ではなく、むしろ政府の意向に沿っている。

保育を無法地帯にするようなこういう市場原理化を止めるどころか、追い打ちをかけるように、認可外小規模保育施設や家庭的保育事業など様々な形の保育事業が認可の枠組みに入り、補助金が受けられるようになっていった。国の予算に裏打ちされたリスクの少ない「起業」(儲け話)と宣伝され、その後も、企業主導型保育事業のような失敗が繰り返されるのです。

(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=269 :児童発達支援と放課後等デイサービスを始めた人からの相談  )

 

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幼児期に愛着関係が希薄だった子どもたちの寂しさは、悪意に対する反応がすばやい。肌が繊細に、敏感になっているから、なおいっそう愛情を養分にしようとしてもがくのです。だからこそ学校に入って、教師たちの視線の温度差がより決定的になってしまう。低学年の子どもたちの多くが、担任の教師をまだ一対一の関係で見つめようとしている。しかし、教師たちに親の代わりはできないのです。

 

以前厚労省が作った保育指針解説書の最後に、

「保育所は、人が『育ち』『育てる』という人類普遍の価値を共有し、継承し、 広げることを通じて、社会に貢献していく重要な場なのです」とありました。

その通りだと思います。保育は、「教育」よりずっと古い、人類普遍の価値を守る行いでなければならない。

そして、学校教育や福祉、民主主義も同様に、最近つくられた仕組みや仕掛けは、「幼児たちが親を育てる」「育てる側の絆を育む」ことを前提に作られていた。この前提を普遍のものとして継承しなければ、保育は社会に対して諸刃の剣となるのです。

この前提が継承されなければ、競争や闘いはモラル・秩序を失い、ただただその激しさを増していく。

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悲しいかな、保育現場の内部告発が止まらない。(末尾の五つのリンク参照)

それでも政府は、保育士と起業家の使い捨てをやめない。保育者と保育施設を、経済競争を成り立たせるための消耗品のように扱う。このままでは保育界全体に良識と優しさが欠けていく。なぜ政治家やマスコミがこの流れを本気で阻止しようとしないのか。

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「保育は成長産業」(子育て支援は成長産業)という閣議決定をもとに、保育崩壊、家庭崩壊が進み、この国の子どもたちが日々傷ついています。

《完全版》足立区認可外保育施設の虐待音声公開:https://www.youtube.com/watch?v=StmWlMD_DeA

保育園でトイレに園児閉じ込め 足立区の認可施設 同僚保育士が「虐待」訴え発覚、区が改善指導:https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/hoiku/23438/

《虐待音声公開》1歳児に「泣けばいいと思ってんじゃねーよ、この野郎!」都内保育施設虐待 恐怖の“お叱りベッド”も:https://bunshun.jp/articles/-/14361

(毎日新聞)「バカ」「ブタ」と呼ぶ、正座させる 吐き出した給食、口に押し込む:https://mainichi.jp/articles/20190215/dde/041/040/017000c

“恐怖の副園長” を傷害容疑で再逮捕 園児に続き同僚の保育士に暴力か:https://www.fnn.jp/articles/-/787

フィクションを信じる力・「AI」と進化の道筋

経済財政諮問会議の委員を務めた経済学者が「0歳は寝たきりなんだから」と園長たちの前で言ったことがある。その小さな集まりに私も参加していた。この人は、本当にそう思っている、と気づいた時、高等教育や学問の恐ろしさ、それを中心に回っていく社会制度に対する危機感を身近に感じた。横にいた園長の肩が怒りに震えていた。学問と子育ては、今これほど離れたところにある。

21年前、毎日新聞(98.12.18  東京本紙朝刊)の経済欄にこんな記事が載った。「保育所整備は社会にとってもオトクですよ」というタイトルだった。

 「経済企画庁の研究会『国民生活研究会』は17日、保育所整備は社会にとっても、保護者、市町村などにも「得」との分析結果をまとめ、働く母親支援策として提言した。子どもを6歳まで預ける場合で、母親の可処分所得(手取り収入)が約4450万円増え、市町村などの税収も約1700万円増加し、それぞれの費用を大きく上回る。」

この『国民生活研究会』の座長が前述した経済学者だった。それが本当に社会にとって「お得」だったのか、保護者にとってお得だったのか、市町村にとってお得だったのか、検証されないまま(検証を無視して)同様の趣旨の施策が、新エンゼルプラン、「生産性革命と人づくり革命」、「新しい経済政策パッケージ」と続いていく。

保育所整備を税収増や労働力増という観点でしか見ない経済学という学問の中で、人間が、自分の人間性を体験していない。幼児たちの存在意義と彼らの意識が離れることによって、社会全体が感性を失い、想像力を失っていく。市場原理や自由競争という言葉に社会全体の思考が操られつつある。勝者になる人間が限られているという仕組みの宿命が、子どもたちを追い込む。追い込まれた子どもたちが、保育士や教師、やがて親たちを追い込む。

三党合意で現政権が受けついだ旧子ども・子育て新システムを進めていた前政権の厚労大臣が、「子育ては専門家に任せておけばいいのよ」と私に言った。国の「子育て」の問題を仕切るトップが、あっさりとこれを言う。「任せておけばいい」と言う「専門家(保育士)」たちの心が萎えていく規制緩和と、「親や企業の利便性」を争う自由競争を保育界に強いておいて、これを言う。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=208

そして、首相が国会で、もう40万人保育所(受け皿)で預かれば女性が輝く、と言ってしまっては、子育てが女性が輝かない原因というイメージが育っても無理はない。ただでさえ高等教育や学問によって子どもたちの感性は押さえつけられている。これ以上幼児たちと過ごす時間を奪われては、男女ともに一層自分の遺伝子の成り立ちを体験できなくなる。先進国社会で人間性が退化しようとしている。

絶滅したネアンデルタール人と生き残ったホモサピエンスの能力差は、フィクションを信じる力だったという。想像の世界で心を一つにする能力が、より強い人間「社会」を構築していった。皮肉なことに、それが高等教育の普及で退化し始めているのだ。人間の想像力や理解力は、0、1、2歳児という特殊な人たちとの会話、言葉を超えたコミュニケーションによって培われてきた。この人たちを、夫婦という単位から始まり、家族、そして集団で守ろうとすることにより、人類はコミュニケーションが言葉を超えることを実感する。0、1、2歳児という半分「あちら側」に居る人たちと無言の会話をすることによって、人類固有の能力と絆が、人類固有の次元で育まれる。誰かの気持ちを「理解しようとすること」で社会は整っていく。「理解すること」ではない。

祈り、は子育てから生まれた。

最近話題になる「AI」が人間の進化の道筋に関わり、前述した元経済財政諮問会議の委員や、元厚労大臣や首相の視点を「情報」としてインプットされたら、人類は危険な状況に追い込まれる。インプットされる他の莫大な量の情報が、こういう視点の正当性を「非現実的」と打ち消してくれるとは思うが……。

AIは「平等」という概念を受け付けないはず。ジェンダーは理解しても、「平等」を非現実的と選択肢から排除するはず。「平等論」はパワーゲームの裏返しで、それを目標とすれば、人類は無限の争いに導かれることを、仮想現実の中での試行錯誤でAIは理解すると思う。フィクションを信じ、調和を模索すると信じたい。それともAIは、まだ戦うための道具にすぎないのか。

役場の保育課の窓口の人たちが、「0歳児を預けることに躊躇しない親が、突然増えている」と不安そうに言う。それ(受け皿)を提供している人たちが、自分たちのしていることに怯えている。財源的にも目処が立たないし、人材的に「無資格者」と「素人経営者」を増やしていくしか打つ手がない。自分たちが政府の「雇用労働施策」を進めるほど、子どもたちの日常の質が落ちていくのが見える。親子関係の希薄化が、妊娠中からすでに進んでいる。親子の絆が育ちにくい家庭が増えていけば、就学前の保育、その先にある義務教育の崩壊が学級崩壊という形で連鎖していく。もうそれははっきり見えているでしょう、と保育者たちは叫んでいる。それでも、学者たちの暴走は止まらない。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2822

小学校の教員の応募倍率が下がり教職員の質の低下が進んでいる。保育園の4、5歳児から始まり小学校5、6年まで、ちょっとしたきっかけで集団の秩序が崩壊してしまう。並行して、親たちの「社会で子育て」に対する要求はますます激しくなっている。

自分たちの責任ではない、と投げてしまう主任や園長もいる。市長の方針だからと言って、保育現場の要望や苦言(悲鳴)に耳を傾けない保育課長や福祉部長もいる。「閣議決定されたのだから仕方ないでしょう。内閣を選んだのは国民でしょう」と言う厚労省の役人もいた。その通りだと思う。「社会で子育て」は、とっくに「仕組みで子育て」、つまり「責任転嫁」になっていて、人間たちの手から離れようとしている。

子育ての第一義的責任が宙に浮き始めている。そして、相談相手が家庭に居ない子どもたちが、 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の中に「絆」や「助け」を探し始めている。

潜在的待機児童の向こうに潜在的労働力を見る経済学者や政府によって、人間の生きる動機が「次世代の幸せ」ではなくなろうとしている。少なくとも仕組みはそうなってきている。その結果、未来の安心が、信頼ではなく、お金で量られるようになってきた。月に十万円保育料を払うようなセレブ保育園では保育士による虐待も、子どもを叩く英語講師もいないはず。https://www.youtube.com/watch?v=kKWuZfSFKDI

老人介護施設もしかり。

でも、高額の保育料や介護費を払えない人たちのほうがはるかに多いのです。

経済学者が「0歳は寝たきりなんだから」と言うことによって、格差が急速に広がり、弱者がその本当の役割を果たせなくなっていく。

保育や子育ての問題がもっと真剣に、この国の存続に関わる緊急課題として語られなければなりません。マスコミの取り上げ方が、まだまだ足りないと思う。子どもはしつける対象ではなく、可愛がり、その存在をみんなで祝う、感謝する対象でなければいけない。それがこの国の伝統だったはず。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1047

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保育士不足で現場に負担感? 認可保育園で虐待、背景は:https://www.asahi.com/articles/ASMCD5X1RMCDUTIL04S.html

隠れた“虐待”保育園が消えない理由…おぞましい実態、背景に保育士の過酷な勤務:https://biz-journal.jp/2019/10/post_125014.html

認可保育園でも幼児虐待。叩く、突き飛ばす、転ばせる…実際に働いていた女性に話を聞いた:https://news.yahoo.co.jp/byline/osakabesayaka/20180828-00094721/

東京・亀有の認可外保育施設で虐待 「しつけ」と称して:https://www.youtube.com/watch?v=TNXW6-I4iuk

認可外保育施設でカナダ人講師が幼児虐待 動画で発覚:https://www.youtube.com/watch?v=kKWuZfSFKDI:

人間は、親孝行を三歳までにすると言う。

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乳幼児の成長が守られなければ、人類は存続できない。

子育てが喜びでなければ人類は進化できない。「子育て」は信頼関係を築くために人間たちが分かち合う最初で最後の砦。この単純で当たり前の法則が、保育施策に関する議論の中で忘れられている。忘れるように仕向けられている。

人間は、親孝行を三歳までにすると言う。生きる動機、喜びの伝承がそこで行われる。それが途切れ初めている。

20年前、新エンゼルプランで少子化対策と雇用労働施策が重なり、以降、「子育て」をしていれば誰もが気づくはずの幸福感に気づきにくくなる誘導と、仕組みの改革が「経済優先」で行われてきた。ここ数年、それが政府の進める保育施策(子ども・子育て支援新制度:「新しい経済政策パッケージ」)でますます露骨になっている。

11時間保育を「標準」と政府が名付け、推奨することで、親より長時間子育てをしている保育士たちが、子どもの幸せを願う自分の人間性と、子どもたちの気持ちをないがしろにする制度との間で板挟みになり、辞めていく。

それもまた、人類が持つ自然治癒力、自浄作用だと思う。社会全体のあり方、学校教育も含めた子育てに関わる仕組みのあり方が問われている。

(新エンゼルプラン:1999年12月19日に、大蔵・文部・厚生・労働・建設・自治の6大臣合意で策定された少子化対策の2004年度目標の実施計画の通称。「重点的に推進すべき少子化対策の具体的実施計画について」が正式名称。少子化傾向を食い止めるため、共働き家庭の育児を援護するなどさまざまな施策が盛り込まれている。)

この方向へ進んで、少子化傾向を食い止めることはできなかった。それどころか、ますます進んだ。それが現実、誰も異論はないはず。

施策を作った時点で、本気で少子化を食い止めようとしたのであれば、現場を知らない「保育の専門家」と、「人間の生きる動機」を理解しない経済学者によって進められた愚策。

もしこれが、(分母である母親が減り続けるため)数字上少子化は食い止められないことを知った上で、少子化対策を装い、女性の労働力で税収を確保しようという作略だったのであれば、国の存続を軽んじる暴挙といっていい。エンゼルプランという名前そのものが、胡散臭い、と言った保育者が当時たくさん居た。保育士会の幹部から「エンゼルプランは虐殺プランです」という憤りの声を聞いたのもこの頃だった。

(「新しい経済政策パッケージ」:『待機児童を解消するため、「子育て安心プラン」 を前倒しし、2020 年度までに 32 万人分の保育の受け皿整備を着実に進め・・・』)

ネット上に名を連ねていた新しい経済政策パッケージ」を作った学者たちは、新エンゼルプランの失敗から学ばない。学ぼうとしない。受け皿を増やすことで合計特殊出生率は上がらず、過去最低を更新しつづけた。その事実からどう目を背けられるのか。

待機児童解消を優先し、「子育て安心プラン」 という本末転倒な名前をつけ、「子どもたちの安心」を犠牲にした規制緩和が進められた。保育現場に次々と無資格者を入れ、訳のわからない付け焼刃の「資格」をつくり、同時に利益を求める素人の保育事業参加を促した。その結果、保育現場の混沌と愛着障害が連鎖し義務教育が維持できなくなってきている。

都市部だけではなく全国で、小学校の教員の募集倍率が危険水域に達している。この倍率では学校教育の質は保てない。保育士の募集倍率はとっくに消えている。

しかし、「2020 年度までに 32 万人分」という「受け皿」の数値目標を設定し、(保育の質、学童の質、学校教育の質を犠牲にして)常軌を逸した経済政策だけがいまだに進められて行く。この状況で、保育単価(公定価格)の引き下げを行ったら、どうなるのか。以前公立保育園の運営費が一般財源化されたときに何が崩れたのか。その後の民営化の動きも含め、子どもの最善の利益という観点から検証されないまま、「社会で子育て」という実態を失った言葉が、政府の都合で一人歩きしている。

最近、サービス産業化に迎合する園長に呆れて辞めていく保育士たちから、どこかに子どもを優先に考えるいい保育園はありませんか、とよく聞かれる。いい園長がいても、よくない保育士を雇わざるを得ない状況では、ここなら大丈夫、となかなか言えないのが辛い。保育の良し悪しは、特に乳幼児の場合、その部屋の微妙な空気感に左右される。保育士の人柄や組み合わせに左右される、と言ってもよい。派遣に頼らざるを得ない状況で、半年先の「いい現場」は、もう誰にも保証できない。

保育、学校教育、先進国社会における家庭崩壊について講演するようになって35年、毎年50から100講演し、たくさんの現場を見てきた。現場で保育観について私に色々教えてくれた園長たちが、最近疲れ果て、精神的に落ちていく人もいる。子どもの幸せを願っても、それが親の「都合」に跳ね返され、行政も支えてくれない。

保育の質の低下、そして、それを許すことは、幼児を大切にするという「人間性の根幹」を社会が失っていくこと。それに代わる価値基準は存在しない。「保育士不足」という言葉そのものが「人間性不足」と裏表だ、ということに気づいて欲しい。

http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1676