江戸川双葉幼稚園のブログから「お弁当について」/七月、認可外保育施設の宿泊保育で女児死亡/シャクティからの手紙

 小さい頃に、人間の本質は自然に輝く。その繰り返しが波のように続き、生きる力になった。まわりがそれを見つめ、可愛がるほど力が輝きを増し強くなる。そして、全員が輝いていた。なぜなら、1人では生きられなかったから。

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 保育も教育も、家族という体験に代わることは出来ない。家庭での子育ては学校教育がなくてもなりたつ。何千年もの間だいじょうぶだった。学校教育は家庭での子育てがなければなりたたない。学校と家庭は、その意味、目的の次元が異なります。「子育て」と「教育」が混同されると次元の違いが見えなくなる。歴史の長さが違うことを常に意識するべきです。


 江戸川双葉幼稚園の菅原久子先生とは父の代からもう30年くらいのお付き合いで、何度か園にも講演に行きました。久子先生は保育界では論客で、何度かお互いの文章が隣り合わせになることがありました。私が衆議院の税と社会保障一体化特別委員会で公述人をした時には、お願いして、後ろに座っていただきました。

 先日江戸川区の幼稚園教職員の全体研修会で息子さんの創先生にお会いしました。給食のある幼稚園を探していた親が、創先生の書いた園のブログから「お弁当について」の記事を読んで、「お弁当の意味」に納得し、子どもが入園してきたそうです。講演をしていて思うのですが、便利なことは必ずしもいいことではない。特に幼児を育てている時は、知らないうちに親の「思い」がおもわぬ瞬間に子どもに伝わっていたり、毎日のちょっとした努力の積み重ねがとても大切なものを育てていたりする。丁寧に説明すればたいていの親は理解してくれる。

 (政府が保育施策を「親の利便性」と「労働力確保」でやっているから、スマフォやゲームに平気で長時間子守りをさせる親が増えるのです。でも、どういう園に当たるか、で一家の人生はずいぶん変わる。そんな時代になりました。)

 


江戸川双葉幼稚園のブログから、お弁当について

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http://blog.goo.ne.jp/futaba_kindergarten/e/ff7ba42e15b022a6ca46da572da80ad8

「ここの幼稚園はお弁当ですか?」

 幼稚園を見学に来られる保護者の方から、必ずと言っていいほど聞かれることです。

 ふたば幼稚園のお昼ご飯はお弁当です。保護者の方々にとって、お弁当よりも給食の方が楽であることはわかっています。わたし自身、以前は給食を出す幼稚園にいましたが、幼稚園にとっても経営的にかなりプラスになります。でも、やっぱり幼稚園はお弁当の方がいいと思います。それはなぜだと思いますか?

 子どもたちは、給食をよく残します。親御さんは、給食なら嫌いなものも食べられるようになるだろうと期待しますが、幼児期の子どもは、まず食べることはありません。毎日そんな感じですので、かえって残すことが当たり前になってしまいます。教師たちは、食べ残しを捨てることに心を痛めながらも、誰が何をどれだけ食べ、何をどんな理由で残したかを把握することは不可能です。

 子どもたちは、お弁当は残しません。毎日親御さんが何を作ってくれたのかを楽しみにしてお弁当箱を開け、嬉しそうな顔をして全部食べます。もちろん、時には全部食べられないこともあります。しかし、残すには残す理由があります。教師は親御さんに残したときの様子などをお帰りの時に伝えます。親御さんは、残菜やお子さんの顔を見て、また前後の経緯を思い浮かべて考えます。例えば、昨日夫婦げんかを見せてしまった翌日、お弁当を残してきたとか、お弁当を残して帰ってきた日の夜、熱を出したとか。そういうことの繰り返しを通して、子どもたちの言葉にならないサインを読み取ることができるようになっていきます。

 このようにして、子どものことをしっかり理解して育てるというのは、とても大事なことだと思います。このプロセスを通じて、親は子どものことを感覚的に理解できてしまうようになります。このようにしてできていった親子関係は、一生続きます。

 みなさんも記憶があるはずです。お子さんがまだ赤ちゃんだった時、泣いている理由がわからず苦労したはずです。おっぱいかな?眠いのかな?うんちかな?最初はわからなかったものが、だんだんわかってきたはずです。新生児の泣く理由って、4種類ぐらいしかないんですけどね(笑)。でも、最初はわからないものなのです。

 子どもが成長し世界が広がってくると、またわからないことが出てきます。2歳の子どもの情緒は10種類ぐらい、3歳になると数十種類になると言われています。そして、いやなことがあっても泣かないことも出てきます。どこまでわかっていたら十分なのか。それが、幼児期までの子どもの心です。ここまでしっかりつかんでいれば、それ以降は多少ルーズにしていても大丈夫です。

 子育ては、幼児期以降もまだまだ続きます。思春期になると、どんな子どもでもそれなりに不安定になります。子どもが荒れた時、子どもの荒れる理由が感覚的にわかる。そういう親子関係だったら、子どもはすぐに落ち着くでしょう。しかし、親が全然理解できなかったら、子どもは救われません。

 では、しっかりした親子関係を作っていくには、どうしていったらよいでしょう。

 幼稚園のお弁当は、その方法の一つです。これがすべてではありませんが、これに代わるものもありません。この特別な時期だけでも、ちょっと頑張ってみませんか?

 

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悲しい出来事がまた起きました

宇都宮の認可外保育施設で宿泊保育中に女児死亡


 (産経ニュースから、前略)愛美利ちゃんが死亡した施設は、児童福祉法が定める保育所に該当しない認可外保育施設。市保育課によると、こうした施設は市内に19カ所あり、設備やサービス内容などを記した運用状況報告書の提出が義務付けられているほか、年に1回立ち入り検査を実施しているという。

 施設では、パンフレットやホームページで24時間預かりや夜間保育をうたい、「看護師がおり、嘱託医とも提携しているので病気の場合も迅速な対応が可能」などと宣伝していた。

 だが市に提出された報告書には、一時預かりのみで夜間保育などは行っていないと記載され、看護師も常駐していなかった。嘱託医として名前が挙げられていた医療機関は、両親の問い合わせに対して「そんな事実はない」と否定したという。

 市は、愛美利ちゃんが死亡する以前に報告書の内容と宣伝内容が違っているのを把握し施設側に指摘。施設側は「対応する」と返答していたが、「事故」は起きた。

 市の担当者は「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と明かすが、両親は「違反車両を認識していたが、そのまま取り締まらずに走らせておいて死亡事故を起こしたようなものだ」と話している。

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 死亡事故にまでつながることは稀ですが、乳幼児の安全を確保出来ない状況が現在進行形で全国に急速に広がっています。子どもの安全が守れないような、子どもが大人を信じなくなるような、心ない保育が政府によって前倒しで、少しずつ確実に広められているのです。それは国家の存続に関わる最重要問題・危機であり現実なのですが、政治家たちは気づこうとしない。気づいていても選挙優先、政権維持優先、経済優先で真面目に向き合おうとしない。国の成立以前からの自然の法や摂理を国が無視しては、国自体の存続が危うくなる。こういう乳幼児の死亡事故は事故ではなく、仕組みの欠陥であって、それは政治家が作ったもの。そのくらいの自覚は持ってほしい。一体何を考えているのだろう。
 乳幼児の安全に責任を持たなければいけない市がすでに「報告書に書かれた内容が本当に正しいかを逐一確認するのは難しいのが現状」と言っている。この市だけで19カ所、その状況の下で乳幼児が日常的に繰り返し預けられている。なぜそれが出来るようになったのか、よく考えてほしい。
 こうした、様々な形の小規模保育の状況を市が監督・指導できない状態はもう十年以上放置されている。監督しようとしても罰則規定がないから取り締まれない。(取り締まれば「待機児童対策」が進まないから罰則規定を作らない?)その現実を私も本に書きました。政治家にも機会のあるたびに伝えました。厚労省の局長にも言った。知らないとは言わせない。知らなかったら政治家の資格はない。
 その現実を知りながら、今の内閣は来年始まる子ども・子育て支援新制度で、「すべての子どもたちが、笑顔で成長して いくために」とパンフレットに書き、もう40万人保育園で預かることを目標に掲げて施策を進める。犠牲者が出るような規制緩和で保育の質を下げておいて、まだ歩けないうちから親と離され「すべての子どもたちが笑顔になる」はずがない。たとえ園庭で笑顔になっても、いい保育士に当たって笑顔になっても、それは父母や祖父母と視線を合わせる笑顔とは違う。
 たくさん預かれば女性が子どもをもっと産む、などという政府の考え方は人間性に対する暴言だと思う。日本はそういう国ではなかったはず。幼児の気持ちを優先するのがこの国の伝統文化だったはず。いまでも、幼稚園に子どもを預ける親のほうが保育園に預ける親よりも子どもを多く産む。まだ伝統は生きている。

 新制度では、労働力確保を目的に、保育資格者が半数でいい小規模保育を自治体に奨励し、家庭的保育事業は資格がなくても2週間の研修で誰にでもできるようになる。その研修を誰がするのか、中身をどうするのか、待ったなしの無理な施策を押し付けられた県が右往左往している。4月の実施に合わせ11月には研修を始めなければならない。小規模保育が監督できないのに、より細分化された規制緩和・家庭的保育事業を市町村が監督できるとは思えない。何かあったら誰が責任をとるのか。それさえも曖昧なのだ。
 国は、自治体を使って、今まで以上に保育界を市場原理という無法地帯にしようとしている。一体何人の小さな命が失われればこの動きをやめるのか。
 保育界が追い詰められ、乳幼児の安全がすでに確保出来なくなっていることをマスコミがなぜもっと厳しく書かないのか。待機児童を無くすことばかり報道するマスコミの姿勢は「働く女性のため」のように見えるが、実際は先の見えない経済論に振り回されているだけではないのか。本当に懸命に働いている、保育が必要な親子のための保育が壊されてゆく。
 
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シャクティからの手紙
 南インド、タミルナード州、シャクティ・センターのシスター・チャンドラから手紙が着ました。新しいホームページが出来ました、と書いてある。
 私の作ったドキュメンタリー映画「シスター・チャンドラとシャクティの踊り手たち」の映像がうまく使われています。NHKの国際テレビのインタビューもありました。
 冷蔵庫も洗濯機も水道もない村人たちが、より良い生活を求めて娘たちをシャクティセンターに預けます。歴然としたカースト制の続くインドで、女性の地位向上は中々思うように進みません。経済成長の名のもとに貧富の差がますます広がっています。犯罪が増え、センターでも停電になる回数が増えたそうです。
 でも、シスターは一歩一歩、歩いていきます。一人一人、教え、導きます。時々顔をしかめますが、笑顔で日々の努力を続けます。そして、みんなで踊ります。
 そのエネルギーの源は、貧しいけれど,親が子を思い、子が親を思うダリットの村人たちの助け合う姿勢、笑顔なのでしょう。助け合わなければ生きていけない。貧しさと子育てが絆を育てます。それがあれば、人間は自分の欠けている部分、良くない資質を抑制することができるのです。絆の安心感が薄くなると、社会から笑顔が消えます。そして、不可解な犯罪がより一層不安をかき立てるのです。
ドキュメンタリーの中でシスターが言いました。

Unity, Equality, Harmony.
"We all come out of the oneness."
"There should be no divisions, hi caste, low caste, rich, or poor, No. We are one."
-- Sister Chandra
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 毎年会いに行こうと思いながら、今年はまだ行けていません。
 でも、あっちとこっちで、二人で頑張っている感じはしています。今年は二人で還暦になりました。
Dear Loving Kasuzan,
How is yoko san and Ryo san
How is your health. Are you ok kasuzan.
Sorry we could not mail to you for long time.
But we very often talk about you and our friends.
are you very busy
Can you not make a trip to visit us
We are eagerly waiting to see you
Now we have created a new website.www.sakthifolk.org 
The previous one we could not update.so it will not open.
waiting to hear from you.
Love to yoko ,Ryo and all our friends.
Love from all our sakthi dancers.
With much love,
Sr.Chandraand felci


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三歳児神話について。/NHKニュースから・報道の仕方について

 三つ子の魂百まで、ということわざがあります。キリスト教の聖母子像もその一つの象徴ですが、ネイティブアメリカンの民話、インドのラーマヤーナなど、様々な文化や宗教の中で三歳までの親子の関係に人間は特別な価値や意味を見いだしてきた。そして、生きる術として次世代に伝承してきた。その時期の親子の「双方向に向き合い、育て、育てられる関係」は人間性の基盤を育て、その場で育まれる「情」は人間社会のセイフティーネットだったと思う。

 大自然の法則とも言うべき選択肢のない関係と制約が気に入らないのか、「三歳児神話は神話に過ぎない」と言った学者がいました。だから保育園でもっと預かっていい、大丈夫、という論旨で使われたのですが、最近、「三歳児神話は正しいと言う論説はあるのですか?否定的な論説はたくさんあるのですが」とある町の保育行政の方から質問を受けたのです。

 一応、学者のフロイト、分析医のエリクソンとかユネスコの子ども白書、国連と結んだこどもの権利条約、脳科学者の発言などをいくつか例として挙げてはみましたが、この問題は論争自体がおかしいのです。

 神社に向かって「この神社は、神社に過ぎない」と言っているようなもの。それは、そこにあるもので、こういう物が人間の(実存はしない)過去と未来をつないでいるのです。その存在理由を学問が問うなら、なぜほとんどすべての家に人形たちが居て、人間と一緒に住んで居るのか、そこで人形たちは何をしているのか、太古の昔まで振り返って考えてみるといいのです。いまさら「人形は、人形に過ぎない」と言う人はいないのです。世界中にこれだけたくさんの人形たちが、それぞれ長い歴史を持ち、様々な文化の中でほとんどの家に住んでいるということは、過去と意識を共有する道具として、自らの意識を重ね未来に伝える伝達手段として、やはり人間には必要な者たちなのです。人形も0才児も人間が自らいい人間になろうとして作り,生み出してきたもの。俯瞰的に見ればそれ自体が生命体と呼んでいい存在となりうる……。

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 雛祭りは雛祭り、土俵入りは土俵入り、トーテムはトーテム、音楽は音楽にすぎない。しかし、学問が神話と対峙する時、神話とか神社の正しさより、その存在理由を文化人類学的に振り返り、現代社会における役割りのさらなる正当性を調和という次元で問うべきだと思う。

 聖書のノアの箱船の話を嘘だと言っても、ほとんど論争にはならない。(戦争にはなるかもしれない。)

 法華経の序章を、あり得ないこととその真偽を追求する人も居ないでしょう。聖書も法華経も人類の歴史や進化の一部としていまだに未来のために存在する。歴然と存在する。

 最近困るのは、神話は神話に過ぎないと馬鹿なことを言う連中の発言を真に受け、政治家が国の成り立ちであるはずの「子育て」の本質を経済優先で変質させようとしていること。利用しようとしていること。なぜ、そう言う人たちが出たか、その流れと意図を把握した方がいい。これは日本という一つの文明の終わりの始まりなのかも知れないのです。

 神話は本来政治に利用されるべきものではない。それが、三歳児神話においては、否定することで政治的に利用されている。

 神話はいつでも生活の中に生きている。

 音楽におけるメロディーや、砂場で遊ぶ幼児たちの想像力は神話と同次元で、(実存しない)過去と未来を存在させ、それを楽しむ。人間は実存しないそれらのものを共有し体験していればいい。子育ては親が自分の人間性(遺伝子)に感動すること。そのためにも、過去と未来は常に意識されていたほうがいいのです。

 

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 保育園が四つしかない町で三歳児神話の正当性を私に尋ねた保育課の人は、一日保育士体験を始めようとする感性を持った人だった。政府の保育施策を進めながら、何かおかしいと感じるから自分のやっていることに正当性を見出したかったのだと思います。私も、三歳までの親子関係の大切さは言いますが、三歳未満児保育をなくせとは主張していない。保育という制度が、どういう「心持ち」と共になら生き残れるのか、荒れてゆく社会にどう対応出来るか、という話をその町の保育士たちにしたのでした。

 神話とともに生きるのか…?

 別の言い方をすれば、三歳未満児を平均十時間、年に260日、後ろめたさを感じながら預けるのか、そうでないのか。それがいま過去の人間たちの体験が育んだ神話(意識)によって問われているのだと思います。断言できるのは、三歳児神話を多くの親たちが身近に感じていないと、いい保育士がいなくなるということ。そして、本当に預けなければならない人、辛そうに預ける親の子どもたちの保育環境がどんどん悪くなっていくこと。その流れはすぐに学校教育に影響し、すべての子どもたちの環境になってゆくということ。

 こうした一連の流れや連鎖は、いままでは神話の領域で語られ、戒められてきたことですが、自然科学の分野で証明され始める一つの法則/原則でもある。だから、今の時代が大事なのだと思う。日本という、先進国でありながら欧米の文化とは一線を画す不思議な国が役に立つ時だと思う。

 

 ことわざや言い伝え、一般常識も含め、数々の神話的なものを軽んじるようになると、待機児童が2万1千人しかいないのに、一国の首相が経済対策で乳児を保育事業でもう40万人預かれと言い始めるのです。そして、マスコミがそれをほとんど疑問を抱かずに報道する。主張出来ない子どもたちの願いがいつからか聴こえていない。刹那的な競争社会に翻弄され、喋らない乳児の存在理由が見えなくなっている。

 歴史の浅い「学問」や「経済的成功者」の意見に頼り過ぎているからそうなるのだと思います。4才児、という一番幸せそうな人たちの生き方から社会の核になる「幸福論」を学ばなければいけない。その人たちを眺めることによって、人間の心はどう成長し一つになってきたのか、意識を司る思考回路のどの部分がどうセットされるのか。それは間もなく科学によって明らかにされるでしょう。

 学問や経済的成功者の歴史は浅いが、幼児の集団を眺める歴史は古い。

 学問は、しばしば神話を否定することによって成長して来ました。しかし、それではうまくいかなくなってきた。

 何千年にも渡って、母親が知らない人に乳児を手渡すことはなかった。それが保育施策における発想の原点にあってほしい。

 以前、ある経済学者が「0才児は寝たきりなんだから」と私の目の前で言った。小泉政権の経済財政諮問会議の座長をやっていた有名な学者だった。その時、私の隣に座っていた共励保育園の長田先生が拳を握りしめ、もう片方に座っていたなでしこ保育園の門倉先生が肩を震わせた。園で、たくさんの幼児たち、太古からの伝令者たちと毎日過ごしている人たちが、「こんな連中がやっているんだ」と怒りに震えた。

 

 四月から始まる子ども・子育て支援新制度は、8時間保育を短時間11時間保育を標準時間と名付けました。11時間を長時間と名付けるなら、まだわかる。子どもにとって、親から11時間離れることは「標準」ではない。それが標準だったら人類は進化出来なかったはず。それを決めた政府の意向の根拠は心を忘れた保育施策、神話を忘れた経済論でしかない。伝達手段が発達した現代において言葉は注意して使わなければいけない。特に「政府」という、仕組み全体に影響力を持つ「力」が「標準」という言葉を使う時に、遺伝子とか歴史、文化や伝統に照らし合わせなければ、社会からモラルや秩序が消えてゆく。

 11時間が標準、これによって今まで、「子どもを迎えに来てから買い物に行きなさい」と親を叱っていた園長たちの立場が崩れてゆくのです。こうした年長者、園長たちの忠告や進言をパワハラとまで言う親が現れる。http://news.livedoor.com/article/detail/9242868/ 保育士たちの子どもを思う心が萎えてゆく。子どもの最善の利益を優先する、という保育所保育指針が空洞化してくる。

 子どもたちは神話なくしては生きられない。子どもたち自身が神話の源で、子育てから「祈り」が始まるのだから。

 最近「愛国心」という言葉が聴こえてくると思う。国とは、幼児という宝を一緒に見つめ守ることで生まれる「調和」だったはず。国の概念が曖昧なまま、愛国心という言葉を愛する人たちが、言葉でまとまってもやがて限界が来る。心は、共通の体験を伴う調和だと、神話が言っている気がする。

 

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NHKニュースから)

 厚生労働省によりますと、ことし4月時点の待機児童は全国で2万1371人で、去年の同じ時期より1370人減り4年連続で減少したものの、都市部を中心に依然として深刻な状態が続いています。

 待機児童を解消するため、政府は平成29年度末までに新たに40万人分の保育の受け皿を確保する計画で、自治体も保育所の整備を急いでいます。しかし保育所の増設に伴う保育士の確保が課題で、厚生労働省によりますと、計画どおりに保育所の整備が進めば、4年後には7万4000人の保育士が不足する見通しだということです。

 このため厚生労働省は、ことし中に「保育士確保プラン」を策定し、保育士の処遇の改善や、60万人を超えると推計されている資格を持っていながら仕事をしていないいわゆる「潜在保育士」の再就職を後押ししていくことにしています。厚生労働省は「共働きの世帯が増えるなか、保育を必要とする人も増えている。できるだけ速やかに受け皿を整備できるよう人材の確保に努めたい」としています。(以上)

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 「四年連続で減って来ている、現在2万1371人の待機児童を解消するために40万人の保育の受け皿を確保する」これはよく考えれば変なのです。それは政府の目論見であって、人々の願いではない。望んでいる社会の姿でもない。それをマスコミはきちんと指摘してほしい。こういう言葉や数字がテレビのニュースで流れてくるのを繰り返し聴いているうちに、「待機児童は解消しなければいけないもの。それはまだ40万人居る」という印象が人々の記憶に刷り込まれていくのです。こうした仕掛けのある刷り込みを誘導する「経済優先の支配者になろうとする想念」は確かに人間性の一部ではあるけれど、それは、常に「絶対的弱者を育てるという利他の土台」が対極にあって抑制されていた人間性なのです。子育ての社会化が進むとこの対極の抑制が効かなくなり、人々は一層競争に駆り立てられる。待機児童を解消することは実は三歳未満児を母親と引き離すことでもある、という記憶が薄れてゆく。

 「受け皿」という言葉も、立ち止まって考えるとかなり危ない。真実に近く伝えるなら、「保育の受け皿」と言わずに「子育ての受け皿」というべき。そう言えば、気づく人はいる。家庭や親の代わりになる「受け皿」は、そう簡単に存在し得ないのではないか、と。

 保育の新制度、実は、待機児童解消が目的ではなく、子育ての本質を曖昧にすることによって女性の労働力を増やすのが目的です。だから保育園を増やしても待機児童は解消されない。40万人を目指しているのだから労働力と待機児童はまだまだ掘り起こされることになる。マスコミは数字を見て深刻な状態と言うのですが、本当に深刻なのは「子どもたちの過ごす時間の質」が下がっていること、「親の心が社会に育つことの大切さ」を政府が考えていないこと。そして、こうした報道の繰り返しで「子どもは仕組みが育ててくれるべきもの」という考え方が少しずつ日本人の心に刷り込まれてゆくこと。それが取り返しのつかない痛手となってこの国に残ってゆく。そういう思いを持った親たちがある一定の数を超えれば仕組み自体が成り立たなくなる。

 「計画通りに保育所の整備が進めば七万4000人の保育士が不足する見通し」。これは現在進行形のとんでもない状況なのです。政府はその意味がよくわかっていない。1万人不足であろうと、5000人不足であろうと、不足した時点で採用時の倍率が消え園長は人材を選べなくなる。悪いことを子どもにする保育士を素早く解雇できなくなる。その状態こそが子どもにとっても親にとっても、保育や学校教育の将来にとっても「深刻」なのです。

 潜在保育士60万人と、これもまた単純に数値で言いますが、相当数が一度も保育を体験したことのない言ってみればペーパードライバーか、実は過去にふるいにかけられた保育士、自らこの仕事に向かないと気づいた保育士たち。このひとたちを掘り起こして採用すれば、園の空気が淀んで来る。保育は、ただ人数を揃えればいいという話ではない。仮に運よくいい保育士を掘り起こすことが出来ても、たぶん今の保育の状況を体験すれば,昔を知る保育士ほどあきれ顔で再び辞めてしまうでしょう。

 十年遅い話ですが待遇改善はもちろん必要です。でもよほど意識を変え、リニア新幹線をやめるとか防衛費を削るとかしないかぎり、現状で四千億円不足しているという試算があり、このままでは焼け石に水です。すでに派遣保育の時給が去年の倍以上に高騰している状況で根本的な改善が出来るのか。どう考えても無理な施策です。

 養成校に来る学生の質、国家資格取得のあり方、小規模保育における規制緩和を加えて考えたら、ちょっとどうしていいかわからない。「一日保育士体験の薦め」でこつこつと、やっていくしかありません。頑張りますけれど。

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 人生は自分を体験すること、しかも、たった一度だけ。それなら、過去の人間たちの意識を重ね合わせることによって、より深く体験できる。

 多くの人間が選択肢無しに、しかも疑いを抱かずにやってきたことはなるべくやってみた方がいい。幼児と数年しっかり付き合うこと。それを楽しむこと。それは、人類にとって重要なことだと思う。