優先順位の共有が、歯車をまわす。

私が公園に一人で座っていたら、変なおじさん。でも、2歳児と座っていたら、いいおじさん。

横にいる幼児を眺め、その仕組みに感謝することは、自分を(宇宙の働きを)見ること。人間は幼児との関係を理解し、必要な相対性はすでに存在していると知る。優先順位の共有が、そっと歯車をまわす。

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親に向いてない人?・甘えられる、信頼される幸せ

「親に向いてない人?」

 

こんなツイートが保育士さんからありました。

「保育士の転職サイトで『保育士の仕事は親の代わりに子育てをすること!親に向いてない人はいないから、保育士に向いてない人もいない!』という文章をみつけて衝撃を受けている。

私は親代りのつもりは全くないし、保育士に向いている人はわからないけど、向いていない人はいると思っている。」

最近の保育士不足から起こっている現場の状況や、「保育園落ちた、日本死ね」という流行語に代表される、保育に対する意識の変化を考えれば、こういう、転職サイトの無責任な宣伝文句自体が衝撃です。資格を持っていればいい、という問題ではない。よくわかります。保育をサービス産業、成長産業と位置付けた政府の経済優先施策、その狭間で儲けようとする転職サイトや派遣業者が「親の代わりに子育てをする保育界の質を一気に下げ、壊してゆくことへの憤りさえ感じます。

もともと実習を体験した保育科の学生の半数以上が、自分には無理、と判断して保育士にはならなかった。それが保育界の常識だった。資格を持っているから保育士になれるのではない、と理解した学生たちの、仕事に就く前に「自分を埋める」という賢明な判断が保育界の質を支えていたのです。大自然の法則にも似た彼女たちの行動を、政府が無責任に、現場に出ていない資格者が80万人いるのだから、「掘り起こせ」と言い、保育界で儲けたい人たちが、人を選ぶ前に、「三年経ったら園長にしてあげる」「派遣会社は毎年違う園が体験できますよ」などと学生に呼びかけるのです。そして、馬鹿な首長が、「子育てしやすい街にします」「待機児童をなくします」「三人目は無料です」と言って親子を引き離す施策を選挙公約に掲げ、現場の状況を知っているがために板挟みになって苦しむ課長の意見には耳を傾けずに、いつの間にか「子育て、放棄しやすい街」をつくる。財源のある東京都のある区長は、5万円の商品券、月八万円の居住費を餌に、地方から保育士を青田買いしようとするのです。地方のことなどまるで考えていない。幼児たちも区民であって、親と一緒にいたいと思っているかもしれないということさえ想像しない。

実は、誰にも親の代わりはできない。ベテラン保育士たちはそてを身に染みて知っているのです。しかも、自分たちがいくら頑張っても5歳まで。毎年担当は代わる。自分たちが頑張ることで、親たちが親らしさを失うのであれば、本末転倒。指針にもある「子どもの幸せを優先」したことにはならない。

最近の保育士さんの離職原因の第一が同僚との問題と言われます。特に3歳未満児保育は、以上児と違って複数担任の場合が多く、「向いていない人」「そこにいてはいけない人」が同じ部屋にいるだけで、感性のある人が辞めていく。そういうケース(ケースと言うことがすでにおかしいのですが)、奇妙な出会いが、日々幼児の視線(神様の目線)にさらされているのです。保育は、だれでもできる仕事ではない。保育士という職業につける人間はそうそういない。たぶん20人に一人くらいしかいない。

(この宣伝文句を眺めてふと思いました。保育士が基本的に出産を経験していて、30年くらい続ける職業で、親身に育ててくれる先輩数人に囲まれ、担当する子どもが年齢を問わず三人ずつくらいまでで、必ずそこに親たちからの感謝と信頼の目線があり、訴訟がない社会なら、「保育士に向いてない人もいない」と宣伝して、それから数年かけて一人前の保育士を育ててもいいかもしれない。でも、まったく、そういう仕組みではありません。)

「親に向いていない人はいない」ではなく、「子育てに向いていない社会はない」ということなら言えるかもしれない。一人ではできないのが子育てで、集団の意識や、異なる資質や、様々な体験の重なりあいと、相互の育ちあいがなければ不可能なもの。もっと進めて、一人一人の人間の違いを生かし、相談しあい、育ちあい、人類が必要とする絆を深めるために「子育て」があるのだと理解するといいのです。

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福祉の仕事に憧れ、それを自分の天職と思い、資格をとり、養護施設や障害児の支援団体、介護施設と経験し、その度に「人間の在り方」と「仕組みの働き」の狭間で悩んで、立ち上がれなくなって辞めていった友人から、メールが来ました。結婚して、子育て真っ最中の人です。

「私は福祉でやりたかったことは、今の子育てのようなことで、仕事ではなかったなぁと最近思います。こどもを産まなかったらずっと仕事で悩んでいた気がします。でも子育てで自分のやりたかったことが満たされていて、そのまんまでいれるからうれしいです。
細々した悩みは当然ありますが、全体的には小さいこどもといる時間はいつもきもちがわくわくしています。あたらしいことが一緒に発見できて私もまたこどもみたいにいれるからかなと思ったりします。
きっとあとから考えたら今の時間がかけがえのないものになるのだろうという予感がものすごいです。
講演、近くにくることがあればまた聞かせてください!」

 

こうした不思議な人たちの、繊細な感性が、静かに人間社会を守ってきたのだと思います。言葉にはできない幼児たちの主張や波長が、この人と同調している。それが人間社会を鎮めていたのだと思います。

「子育て」というのは、「そんな仕掛けではないかな」と思っていたことを言葉にしてもらって、思わずメールに感謝です。メッセージに、ありがたいな、と思います。

 

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「甘えられる、信頼される幸せ」

「主婦なんて夫に頭を撫でられて、喜んでいるペットじゃないの!自立しなきゃダメじゃないの!」田嶋陽子先生が、鼻で笑っていた主婦が産んだ子供が、先生の老後を支えているのです。そのことを忘れてはいけませんよ。」

というツイートを読みました。

「依存すること、甘えること」を「悪いこと」と思い始める最近の先進国における意識の変化、その「怖さ」を感じます。仕組みを作ってそれに依存し、慣れた人間たちが、実はたくさんの命に支えられていることを忘れ、その命の気づかず、つながりを実感しなくなっている。自立していると勘違いしている。

価値観の多様化、などといういい加減な言葉では片付けられない、仕組みに依存し、やがて支配される、「危うさ」を感じます。

学問や教育や情報に支配され、「自立」という奇妙で不自然な言葉が、いつしか力を持ち始めると、人間の生きる力が弱くなってゆく。すると競争や闘いに流れてゆく。幼児が遠のいてゆく。やがて、その存在意義さえ否定することになってゆく。

人には、依存され、甘えられることで育つ何かがある。依存し、甘えることで確認する何かがある。その確認こそが、生きる力。

お互いを必要とし、求めあう関係に反応してオンになってくる魂の働き(遺伝子?)が幸福感と呼ばれるもの。それは過去の長い時間と重なっていて、絶対に否定できない、すでに起こったことで、私たちの一部になっている。

親子関係に象徴される、異なる成長過程にある人間たちの遺伝子が相互に関係することが社会には大切で、ひょっとすると人間の進化の根本的な働きだと、乳幼児を眺めながら思い出さなければならない時が来ています。

甘えてもらえる、信頼してもらえる幸せが人間社会の絆の原点になっている。

依存される(そして、依存する)幸福感が、こうした学者(強者)の言葉で否定され、マスコミで流されると、社会全体の幸福の幅が狭まっていきます。言葉を使わない幼児(弱者)の沈黙のコミュニケーション能力が発揮されなくなってくる。それを福祉や教育制度といった最近の仕組みで補おうとしても、人間はますます生きる指針を失い始める。人生を導いてくれる幸福感に気付かなくなってくる。

幼児に依存され、頼られ、その状況に反応することが人生の出発点にあり、人生そのものだということに気づけば、ぞれぞれの生きる力が復活してくるのだと思います。

アメリカ、イギリスで4割、フランスで5割、スエーデンで6割の子どもが未婚の母から生まれる。その状況の中で起こっている価値観の分裂を見ればわかると思うのです。教育ではどうにもならない次元の分裂が起こっている。

日本は、別の道を進んでみる、それが役割だと思うのです。この国の伝統文化、存在意義でもある、沈黙のコミュニケーション能力が問われています。

 

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