「閣議決定」と公正取引委員会の介入/広い園庭(園長は考える)/K市保育連盟からの手紙/

「閣議決定」と公正取引委員会の介入


 最近の政府の動きがわからない。いよいよこの国を根幹から壊すようなことをする。以下、市場原理で保育を考える公正取引委員会の調査報告の冒頭部分ですが、十年前、経済財政諮問会議が「保育園で子どもを預かり女性が働けば、それで得られる税収の方が保育にかかる費用より大きい、お得」とした発想がいまだ続いている。潜在的欧米コンプレックスなのか、欧米並みに女性が働くこと/子育ての社会化が先進国の道と決めた経済学者が政治家に薦めた過去十五年間の保育施策は、実際、少子化対策にも、増税対策にもならなかった。子どもも増えないし、家庭崩壊に起因して福祉全体の予算が増すだけで、増税対策にもならなかった。それを認めず、子ども・子育て支援新制度で、政府はいまだにそれを実現させようとする。今回の公正取引委員会を使うやり方は、いよいよ力ずくのようで恐ろしい。

 保育士不足と資格を取る学生と園長設置者の質の低下で、すでに保育界がこれほど追い込まれ、子どもに寄り添う保育士たちが次々と去り、現場における保育の定義さえ揺らいでいるのに、意地なのか面子なのか、政治家は経済優先で一度決めた道をあきらめようとしない。この調査報告書を読むと、公正取引委員会を使って、保育園が託児所化されてゆく過程がよくわかります。こども園化によって、幼稚園も引き込まれるかもしれない。斜体が報告書からの引用、括弧内は私のコメントです。

 

(平成26625日)保育分野に関する調査報告書について(概要)http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h26/jun/140625.html

平成26625日 公正取引委員会

1 経緯(報告書第11

 我が国の少子化の要因の一つとして,仕事と子育ての両立の難しさが挙げられている。特に都市部では,保育の需要に対して子供を預かる保育施設が不足しており,待機児童の発生が大きな問題となっている。


(仕事と子育ての両立は出来ない。どちらかが犠牲になる。その現実から目を逸らし「両立」を目指しても、社会のあちこちに歪みが生れ、いつかそれが全体の負の遺産として返ってくる。幼児の要求に感謝し、応えることで人間社会は心を一つにしてきた。子育ては目的ではなく、親子がたがいの人間性を体験する「喜び」がその中心だったことを忘れてはいけない。そこに選択肢がないからこそ覚悟が問われる通過儀礼のような人生体験。ほとんどの人間がその道を通ってきた。この常識的な覚悟の所在を曖昧にすることで、秩序を保つために不可欠な連帯感と自制心が先進国社会から消えてゆく。

 「待機児童の発生」という言葉に違和感がある。待機児童は発生するものではない。児童の意志と無関係なところで人為的に作られた名前にすぎない。主張出来ない、でも実は親と一緒にいたい子どもの気持ちを常態的に政府が無視していると、こういう感性に欠ける言い方をする役人が現れる。悪意はないのだろうが、子どもの気持ちという大切な視点が欠落している。)


 保育分野については,平成248月に子ども・子育て関連三法が成立し,平成274月に予定されている同法に基づく子ども・子育て支援新制度(以下「新制度」という。)の施行に向けた準備が国・自治体双方で行われているほか,「待機児童解消加速化プラン」(平成25419日内閣総理大臣公表)に基づき,平成29年度末までに待機児童を解消することを目指して種々の取組が強化されてきている。 また,「日本再興戦略」(平成25614日閣議決定)では,保育分野は,「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」,「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」とされている。さらに,国の成長・発展等への貢献を目的に,「規制改革実施計画」(平成25614日閣議決定)においては,保育の質を確保しつつ,待機児童の解消を目指し,改革に取り組むこととされている。


「日本再興戦略」の「制度の設計次第で巨大な新市場として成長の原動力になり得る分野」,「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」という文言に問題がある。保育の質は、保育士の心。それがわかっていない。質を問うのは子どもたちであって、親たちの利便性が基準ではない。「日本再興戦略」で保育がただの仕事・労働と位置づけされている。これは日本を欧米化させていることであって「再興」させているのではない。いまこの国がその存在意義を守るために一番大切な、保育士や子どもの気持ちを政府が考えない。だからそれに反発するように危機的な保育士不足が起っている。それが、いつまでたっても理解されない。

 新制度が巻き起こしている今の保育界の混乱と疑心暗鬼、そして養成校の学生と授業の質にまで影響を及ぼしている保育士不足、それらが重なりあって進んでいる園長設置者の心の質の低下は、小規模保育の現状を見ればわかるはず。「良質で低コストのサービス(中略)を国民に効率的に提供できる大きな余地が残された分野」と国のあり方を主導すべき政府が言うことは、あまりにも短絡的で、今までの保育界が担って来た「子育て」という功績に対する暴言と言ってもよい。これが本当に閣議決定されたのなら、内閣は、この国の将来の展望を考えていない。子どもの幸せより現在の市場を優先に施策を考えていることになる。

 保育は日々の「子育て」なのだ。保育施策が、国の将来を決定づける魂のインフラ政策なのだという自覚に、政治家は欠けるような気がする。

 20年間繰り返し伝えているのですが、保育士が「良心」を持っているかぎり、「保育の質を確保しつつ,待機児童の解消を目指すこと」は不可能です。


 保育士の資質は子どもたちの幸せを願うこと。「待機児童の解消」は親子を引き離すという現実を抱えているので、保育士の良心と基本的に相容れないのだ。認可外では半数が資格を持っていればいい、保育士不足から、明らかに現場に居てはいけない保育士を解雇出来ない、という状況が広まり、現場の保育士の質が急激に落ちているいま、良心捨てるか、保育士辞めるか、いい保育士ほど追い込まれている。横浜市でそのことはすでに証明されている。横浜市では、すでに派遣に頼らないと認可外保育が成り立たない。募集しても、園庭も無いような保育所では誰も応募して来ない。突然職員が辞め、派遣で良い保育士をすぐに獲得しようとすれば、たぶん時間2500円派遣会社に払わないと保育士を確保出来ない。市の補助では、運営は無理。国の方も、計算してみたら四千億円不足していた、と言っている。これが国の言う市場原理で、それを公正に、公正取引委員会が仕切るのだとしたら、もうどうしようもない。

 派遣頼りの、職員が毎年換わる職場で、子育てに必要な保育士たちの連帯感が消えてゆく。子どもを無視した市場原理が働くことによって心ある保育士が現在進行形で消えてゆく。)

 

 このように,保育分野は,需要の充足が求められているだけではなく,我が国の成長分野となることが期待されている分野である。 公正取引委員会では,事業者の公正かつ自由な競争を促進し,もって消費者の利益を確保することを目的とする競争政策の観点から,保育分野の現状について調査・検討を行い,競争政策上の考え方を整理することとした。競争政策は,事業者の新規参入や創意工夫の発揮のための環境を整備することにより,事業者間の競争を促進し,これによって,消費者に良質な商品・サービスが提供されることを確保するとともに,消費者がそれを比較・選択することを通して,事業者に商品・サービスの質の更なる改善を促すことを目指すものである。 このような競争政策の観点から保育分野について考え方を整理することは,保育サービスの供給量の増加や質の向上が図られることにつながるとともに,ひいては,同分野を我が国の成長分野とすることにも資すると考えられる。

 公正取引委員会としては,上記のような競争政策の観点から保育分野について検討を行うに当たっては,[1]多様な事業者の新規参入が可能となる環境,[2]事業者が公平な条件の下で競争できる環境,[3]利用者の選択が適切に行われ得る環境,[4]事業者の創意工夫が発揮され得る環境が整っているかといった点が重要であると考えられることから,主にこれらの点について検討を行った。

 

(「消費者に良質な商品・サービスが提供されることを確保するとともに,消費者がそれを比較・選択することを通して,事業者に商品・サービスの質の更なる改善を促すことを目指すものである。」ここまで書かれると、もはや子育てを国の根幹と考える側としては虚しい。市場原理における「公正さ」を基準に、公正取引委員会の指導で保育が商品・サービスと正式に見なされた時に、消費者は「親」であって、子どもたちではない。現在進行形の規制緩和を見る限り、公正取引委員会が管轄する「取り引きに」に、園庭の広さや園長の試行錯誤、保育士の笑顔が加味されていない。最近の親らしさの急激な変化の傾向を見れば、こうしたサービスという考え方が、子育て放棄や児童虐待の増加につながったり、子育てを分かち合わない男女間の信頼関係の欠如がDVや犯罪の増加に繋がっていることは、現場の保育士たちの声を聴けばわかるはず。子育ては誰かがやってくれるもの、という意識が子育てをイライラの原因にする。「子育てしやすい環境」を「保育園を増やすこと」と政府やマスコミがこれだけ言い続ければ、そういう認識が新しい世代に広がっても不思議ではない。その認識が保育を疲弊させる。事故が起っても不思議ではない。

 閣議決定をした内閣が何も知らずに学者や専門家、経済界の言いなりになっている人たちなら仕方ない。ですが、私もこういう主張を始めて25年。内閣の中に5人私が保育の大切さと現状について説明した人たちがいる。一人反対すれば閣議決定は出来ないという。ある大臣は以前「地震で乗っていた新幹線が一晩止まってしまった時、近くに幼児がいたんです。その子がいたおかげでみんなの心が一つになって、楽しかった。ああ、これが松居さんが言っていたことなんだな、と思いました」と言ってくれた人。

 政府という仕組みは一体どうなっているんだろう、と最近戸惑うことが増えました。誰が動かしているのか。立場を賭けて国を愛する人はいないのか。人間ではなく経済という仕組みが動かしているのだとしたら危険です。学問が動かしているのだとしたら、社会から人間性が消えてゆく気がします。)

(今まで社会福祉法人であることを利用して、良くないことをしていた人たちが保育界にもいて、それが市場原理の中で「公正に」競争しているひとたちから見れば「ずるい」と思われても仕方がない、それは事実です。だからこそ、公正取引委員会まで引っ張り出して、競争を公正にしようとしているのでしょう。でも、そういう悪いひとたちをどうにかしようということと、保育界を市場原理にさらすことでは次元が違う。いま保育界に安易に市場原理を持ち込むことは、この国の守るべき良心を市場原理にさらし、この国の「子育てと言ってもよい親身な保育」を失ってゆくことになる。

 公正取引委員会はその役割を果たしているだけで罪はないのだと思います。日本人のほとんどが知らないうちに「閣議決定」された方針に従って「公正」を目指す主旨で判断を下しただけでしょう。そして、この「判断」は「判断例」となって一人歩きを始める。幼児の意志とは無関係のところで。

 以前、民主党が、今回の新制度の元になった「子ども・子育て新システム」を施策とした時、その危うさを子どもの立場から理解する厚労省の役人が、「でも、閣議決定されたら仕方ないでしょう。内閣を選んだのは国民ですよ」と私に言ったのを思いだす。子どもを見つめる目が社会を構成する、という原点が狂い始めている。すると、すべてが狂い始める。

 欧米諸国で3割から6割に達している未婚の母から生まれる確率が、まだこの国は1%台。現状を見るかぎり、子育てを国の成り立ちと見て大事にするという点では、人類の進化に大きな役割りを果たすかも知れない希有の国だと思う。内閣はこの国の本質を競争原理などで変質させてはいけない。経済論で子育てを計るやり方は所詮無理なのだから、あきらめないと、本当に経済が立て直せなくなる。)

  

image s-6.jpeg

広い園庭

 公正取引委員会には見えない次元の話を一つ書きます。いま、こういう人たちが保育の現場から減って行く。政府の施策、役場の指示に自らの感性を封印されて。

 講演に行った先の幼稚園の園長が言いました。

 「最近は、昔から居た少し変わった子、思うようにいかないとパニックを起こす子、自分の個性を押さえられない子に、『障害』の診断をし過ぎるように思います。障害が認定されると、障害児支援センターは指導の過程で、子どもがパニックを起こさないようにします。カードで指示を出したり、とても変なんです」。

 落ち着いた環境を作るのはいいけれど、将来1人で生きていけるわけはない。園でしっかりパニックを起こさせて、まわりがそれに反応し、学び、切り抜けてゆく力をみんなでつけていかなければ駄目だと園長は言うのです。

 障害児支援センターは、子どもの起こすパニックを「その子の問題」として対処しようとしている。しかし、園長先生は長年の経験から、「みんなの問題」として受け入れようとしているのです。大人が子育てを分かち合い、みんなでしっかり見守っていれば、その子がいることで他の子どもたちも社会の一員として育ってゆく、他の子たちがその子を受け入れる柔軟性を持つことが将来この国にとって大切、という視点があるのです。保育園に比べ、幼稚園の方ではまだ気持ちに余裕がある園が多い。その園長の園では、親たちが保育に参加すsる行事を積極的にやっている。親たちを園の重要な一員と考えているのです。

 毎日二時に親が迎えに来る、幼稚園という親子が過ごす時間が比較的確保されているかたちの中で、「家庭」という密な関係を土台に保育をしてきたからそういう考え方になるのでしょう。母子関係という継続的に向き合う基盤があれば社会は常に柔軟に変化成長し、その柔軟性の中で、時々パニックを起こしてしまうその子が本来の役割りを果たせる。言い換えば、みんなが継続的に向き合わなければ「問題」が輝かない、ということです。

 保育園で0才児から8時間以上も母親から切り離すことを政府が奨励する時代です。5歳までの幼児期に、幼稚園も含め、これほど親子が離れ離れになることはかつてなかった。乳幼児期に愛着関係の土台が出来難い、という人類の歴史始まって以来の突然の環境変化に、対応出来ない子どもが増えてきて当たり前なのです。障害児支援センターは、まず、一対一に近い時間を増やし、子どもを安心させることから入るしかありません。しかし、専門家がいくら頑張っても、それはその子の人生にとっては束の間のことでしかない。何年も続く一対一の関係ではない。親子や家族の関係に代わることは出来ません。忘れてはいけないのは、子育ては、学問の領域ではない、祈りの領域だということ。その自覚が社会に生まれるかどうか、が目的なのです。

 薬物で落ち着かせるか、絆で落ち着かせるか、全国で選択を迫られるケースが増えています。

 専門家か神社のお守りか。教育か祈りか。結果か体験か。そんな次元の選択肢があることを忘れないでほしいのです。乳幼児を見ていれば人間たちは次元の違う選択肢を憶い出す。特に0歳、1歳児との言葉を超えた会話が人間社会には必要なのだと思います。

 その子がいることに感謝する人と、感謝する時間を少しでも増やす。それが本来の姿です。

 園長の言葉を、その広い園庭が聴いている。そして、一緒に考えている。

 新しい園舎と広い園庭が出来たら、噛みつきがなくなった、という保育園のことを思い出しました。ゆとりのある景色に、保育士が落ち着き、無愛想だった親たちが毎朝自然に挨拶するようになる。風景が生み出す心のゆとりが、風景の一部なった集団としての人間を支える。言葉でも理屈でもない。まさに0才児の居る風景です。

 親子という選択肢のない関係を受け入れるゆとりが、夫婦や社会の自然な育ちあいを生む。寄り添うことを覚えた集団の行為が、連鎖して地球の向こう側の紛争をなくすのかもしれない。

 

images-13.jpeg

 

松居先生

 ご無沙汰をいたしております。お忙しい毎日をお過ごしのことと存じます。

 その節は長時間にわたって、私どものわがままなお願いを快くお受け頂きまして本当に有難うございました。

 ようやく研修報告が出てまいりまして、事務局も驚くほどの一日保育士体験への期待が大きい感想が多く寄せられ、とてもうれしく思っています。事務局から、間もなく先生の許へもお送りすると思いますが、有難うございました。

 資料にあれだけ様々な地域の実践報告のアドレスが表示されているにも関わらず、会員が個々には動こうとしない様子がうかがえましたので、とりあえず、こどものとも社さんにお願いして、市内の連盟加盟園に私から大修館書店の「一日保育士体験のすすめ」をプレゼントすることにしました。

 保育課の方も、聴講者の反応に満足してくれてさっそく主任会で検討を始めてくれるようです。

 私の自園では毎年、この六月の一週間
保育参加の行事を行って、保護者が見たい活動に参加することをやってまいりましたが、先生の「ひとりずつ八時間乳幼児の中に親を漬け込む」発想には至っておりませんでしたので、保育参加のあと、今年度中をかけてすべての保護者に「一日保育士体験」へと発展させていこうと話し合っております。

 さらに市全体で先生のお話を聞いてもらえるように、市会議員、幼稚園連盟、家庭教育委員等々かかわりのある団体に是非先生をお招きしてくれるようことあるごとに依頼しています。

 ご報告が遅くなりましたが、とりあえずこんな状況でございます。とりあえず、講演会後の経過をご報告させていただきました。私どもの会の折にも感じたのですが、余りにもハードなスケジュールに先生のお体がとても心配です。

次世代を担う子供たちの安心のためにくれぐれも御身お大切になさってくださいませ。

                                    k市保育連盟


 同志からの、元気が出る手紙。一日保育士体験は保育士たちにも面倒くさいことかもしれない。それをして補助が増えるわけでも待遇が良くなるわけでもない。それでも、駆け引きや利益に関係なく、子どもたちの幸せを願って、親たちの幸せを願って、こうして現場で動いてくれるひとたちがいる。こういう方たちが、本当の意味でこの国を守っているのだと思います。