シスターin America から速報です

アメリカ公演中のシスターから連絡がありました。

アメリカで出来た教会の友人たちが、シャクティのホームページを作ってくれました。
立派です。英語ですが、とても詳しい情報が手に入ります。
インド系の人たちだけでなく、ミッション系の友人が出来て、シスターの活動に声援を送り始めています。人種差別や貧富の格差、様々な問題を抱えている国だからこそ、シャクティの踊りとシスターのメッセージに不思議な光明が見えるのだと思います。
「輪になって踊りましょう」シスターが繰り返し言う人間社会の原点が記憶の底から蘇ってくるのだと思います。

http://charityforindia.org/

昨日の新聞に取り上げられ、新聞社のホームページから映像も見ることが出来ます。

http://www.postandcourier.com/


電話の向こうでシスターが笑っています。


トルコから教わること(すべての文化・文明がいずれ選択肢になる)

(私)

新幹線は超自然な速さです。大阪まで二時間半だって。そちらの時間の進み具合はどうですか?

(トルコに住んでいる友人)

こちらでは、列車は発達しないですね。どんな遠くへもバスで行きます。丸一日かけてバスを乗り継いで帰郷します。一説では、マフィアがバスに関する権利を持っていて、電車の普及を邪魔しているから発達しないらしいのですが、それ以前にトルコ人が、電車を必要としていないということなのでしょう。

バスではまず、コロンヤ(知ってますか?すっきりする香水みたいなもの)が配られ(バスの係の人が1人ひとりの手にかけに来ます)、1時間毎くらいにトイレ休憩、ごはんの時間にはごはん休憩があります。途中チャイやお菓子も振る舞われます。バスに乗っている人は貧しい人もいるので、バスの中での持ち込み飲食は禁止(トルコではこういう考え方があります。目の前に食べられない人が居るのに、自分だけ食べるのはとても悪いこと)男女が隣同士に座らないように、バスの停留所で人が新たに乗り込んで来ると、しょちゅう席替えをします。ただ、ひたすらバスに揺られて、故郷や、リゾート地や、仕事を求めて新しい場所へ。

チグリス・ユーフラテス川を通ったことがありますが、周りはただ茶色の大地で、時々数件の民家、商店が見られるようなところに、細い川がひっそりとありました。バスは川を気に留めることもなく、ただ走っていきました。

松居先生のメールで、アナトリアを旅したことを思い出しました。


(私)

返信ありがとう。

いつも面白い報告ありがとう。インド以上にトルコは人間の作った非民主的なルールが、意外と理にかなっていて、民主的な考え方の方が、実はただのパワーゲーム、利権争いだということを浮き彫りにするような気がします。

やはり回教の方がヒンズーより新しい論理性があるよね。

いま帰りの新幹線の中です。今日は日帰りで西宮まで行きました。

私の話を聴きたいと思ってくれる保育士や親が増えてきて嬉しいです。一つ一つ演奏会のつもりで話してきます。

(トルコに住んでいる友人)

 そろそろ、近年で最悪の(?)難関、真夏のラマザン(断食)に入ります。ラマザンは毎年一ヶ月ずつ日程がずれるので、いつかは真夏に当たってしまうのです。真夏は、気候条件だけでなく、時間の長さも最長。断食は、夜明けのお祈り(真夏は朝5時前!)から日が落ちるお祈り(夜8時頃。。。)の間行い、唾も飲み込めません。そして皆、長い一日の断食に備えて朝3時に起きて(太鼓をたたいて街中を歩き、皆をこの時間に起こす係がいる。迷惑。。。笑)食事をするため、寝不足。それでも、「この状況でイライラしたり仕事が手につかない人は、断食をする資格が無い」と考えられるため、いい人間性を保たなければなりません。去年の断食月もかなり暑く大変そうでしたが、皆変わらず親切でした。

断食の目的は、「食べることが出来ない人の状況を理解するため」ということで、それはトルコの基本的な考え方の一つです。でも、それ以上に、断食という苦しさを共有してものすごい一体感を得ているのだと思います。そして断食明けに訪れる砂糖祭では貧しい人に施しを行いまくりますが、断食を行うことにより、この施しが大変気前良く行われるのです。自分がつらさから解放され、増々神に感謝できるというか。本当に、この断食が、社会をいい方向に運営するシステムの基軸を担っていると思います。

このシステムは、本来人間は不平等な立場にあるということを認めないと成立しません。富める者と貧しい者は平等ではないというのは、民主主義国家では大失言にあたるような文言ですね。でも、人間平等じゃないし、自由なんかないって、トルコの人たちは知っています。知っているから、神のもとに集まり、富める者が貧しい者を助けるというシンプルな構造で生きているんです。

(私)

よくわかる。凄いよね。人間の生きてゆく知恵は、心を一つにするための道を探ることだったんですね。

トルコのように、日本もまた人類の大切な選択肢にならなければいけないね。

心を一つにする手法が、敵を作ることにならないように、いまこそ良い方向への試行錯誤錯誤が必要だね。シャクティとシスター、いまアメリカにいます。魂を揺さぶる演奏しているみたいです。


「目の前に食べられない人が居るのに、自分だけ食べるのはとても悪いこと。」だからバスに食べ物を持ち込めない。

 発想の原点が他人の気持ちを想像する、ことにあるのです。そして、想像する方向性が守られている。祈る方角が決まっているように。一応民主主義のトルコという国で、人々の意思によって守られている。こういう人たちの意思の力を見誤ると大変なことになる。先進国社会が抱えている問題点を理解し、学ぶべき相手を間違わないことです。

園と家庭の信頼関係



(一日保育士体験の実施を始めた保育園からお手紙をいただきました。保育士たちを、もうこれしかない、という予測でこんな立場に追い込んでいる私も辛いのですが、これから子どもたちが過ごす大切な時間の質のために、お願いし続けるしかないのです。子どもを思う保育士たちが理解してくれる、それが救いです。ぜひ、親たちに知って欲しいのです。この挑戦を受け入れてくれる保育士たちの心は「利他の心」だということを。

 行政や政治家が子どもを優先して考えようとしない現状の中で、いつでも親に見せられる保育をし続けるということは簡単ではないということを。)

(中略)

 保護者様には、4月の保護者会、また詳細は書面にてお知らせしましたが、特に質問を受ける事は無く、対象の保護者様全員がすぐに予定を入れて下さいました。ただ、始めて2回実施しただけなのでまだ何とも言えませんが、アンケートには・・・

 「3年のうち1回で十分(今回の一回で十分)」

 「働いている保護者が毎年参加するのは疑問!」

 と言った声が聞かれます。当園も来年度からは全学年にて実施したいと考えておりますが、こういった声が多いと正直こたえます。

 子どもは日々成長しますし、保育士(園)と保護者が理解し合い、同じ方向を向いて子育てできるようになるには、とうてい2、3年に1回でできることではないですし、年に1回でも少ないくらいだと感じています。要は、こちらの想いがまだ保護者の方に伝わっていないのだと感じました。

(後略)

 

(私の返信)

「3年のうち1回で十分(今回の一回で十分)」

「働いている保護者が毎年参加するのは疑問!」

 意図が善意であるだけに、こうした反応を乗り越えてゆくには、遠くを眺めての根性が要ります。すみません。でも、乗り越えてゆくしかないのです。乗り越える、と決めてしまって下さい。

 「中学校で連立方程式を学ぶのは疑問」とは誰も言わない。いつか、保育と一日保育者体験はセット、という風にならなければ本当の普及にはなりません。ご苦労をおかけします。

 保育界全体を視野に、保育の質を保つため、未来の無数の親子関係のために、よろしくお願いします

 自信をもって、「子どもたちが喜びます」と繰り返すこと、そして、夫婦が両方とも参加することを目指すのも、意図を伝えるための鍵でしょう。

 この園では全員参加、毎年参加を目指します、とはっきり宣言したほうがいい、とおっしゃる園長もいます。法律となり告示化された保育所保育指針に保育参加が書かれ、こういうことをするのが保育園の義務の一つになったのだ、と伝えることも場合によっては必要かもしれません。

 本当に子どもたちの将来を考えれば、祖父母まで範囲を広げたいくらいですよね。

 いつか、保育者たちが親子の幸せを願ってやっているのだ、という意図が通じる日が来るはずです。

  園と家庭の信頼関係を作ることを目標に、努力や試行錯誤をすることによって、職員の心が一つになってゆくことも、実はとても大切なことなのかもしれません。そうすることによって自分たちの直面している子育ての現実と生き方を把握、確認することにもなります。

 「要は、こちらの想いがまだ保護者の方に伝わっていないのだと感じました」とお書きになっていらしたので、心配はしていません。その通りです。そしてそれこそが保育界にとって一番重要な課題なのです。子育てを共にしながら、保育士と親たちの心が一つになっていない。これは、良い課題を与えられたぞ、という解釈をそこに加えていただければ、揺るがない生き甲斐になるかもしれません。

 よろしくお願いいたします。

松居


 2008年新待機児童ゼロ作戦に「希望するすべての人が子どもを預けて働くことが出来る社会」を目指す、と書かれたとき、「希望するすべての子どもが親と一緒にいることが出来る社会」を目指すことの方がよほど自然で、社会に「絆や人間性」を取り戻すことになるのではないのか、と心を痛めた保育士が日本中にたくさんいたのです。一緒にいることは出来なくても、せめて年にたった一日、一人ずつ、親たちが「さあ、今日はあなたが優先だよ」という姿勢を自分の子どもだけではなく、ほかの子どもたちにも見せてくれたら、それは社会に信頼関係を取り戻す意味で、大きな一歩になるはずです。

 「すべての子どもが、親と一緒にいることを希望する」これが哺乳類。それが揺らいだとき、人類は幸福になるために一番必要な宇宙からの「信頼」を失うのです。

園長は父親をウサギにする権利を持っている

 私は保育園や幼稚園に講演に行きます。保育参加、子育ての意味、この時期の大切さを説明します。そして、現場の風景から多くのことに気づきます。先日、講演に行った園では親たちの参加を増やすため、私の講演とお遊戯会を組み合わせていました。子どもたちに可愛い芸を仕込んで舞台にのせると、お父さんたちもビデオを持って集まってきます。お父さんを前にして、子どもたちの一生懸命な演技が終わると、間髪を入れず、私の講演に移るのです。逃げる時間はありません。

 講演のあと、続きのお遊戯会があって、お父さんたちが「ウサギ」にさせられていました。

 保育士たちが、手ぬぐいに長い耳を縫いつけた簡単なウサギのかぶり物を用意しておいて、私の講演が終わると、「ハイ、お父さんたちは、ウサギになってくださ〜い!」と言って手渡します。

 すると、お父さんたちはウサギになるしかないのです。

 そして、お父さんたちが変わる。保育園でウサギにさせられたら、誰だって少しは変わる。手ぬぐいを使ったかぶり物ですから、顔の部分は見えます。

 引きつった顔でいやいやかぶったお父さんも、三分もすればちゃんとウサギです。経済を中心にした競争社会で固まっていたお父さんたちのこころが溶け出す。それを見て一番喜んでいたのがお母さんたちでした。

 幼稚園や保育園という魔法の場所には、「お父さんたちをウサギにする権利」が与えられている。私はしばらく感動していました。何か凄いものを見た気がしました。人類の平和につながる糸口を発見したような気がしました。

 最近学んだことの中で、これは一番の学びでした。

 この権利は、いつ誰から与えられたものだろう。宇宙から与えられた権利にちがいない。だから強い権利です。最近「権利」と呼ばれる物のほとんどが「利権」である場合が多い中で、しかし、これは絶対に「利権」ではない。この権利だけで、子どもが安心して幼児期を過ごせる環境を勝ち取る闘いに、はたして勝てるだろうか。

 勝てるかもしれない、と私は思います。お父さんたちも実はウサギになりたかった。それが私にはわかるのです。幼児たちを眺めること、そして一体になることは、人間たちに、この宇宙に不公平はないという意識と感覚を与えるのです

 昔、男たちは年に2、3回「祭り」の場でウサギに還っていました。自分の中に3歳だった時の自分が生きていることを確認していたのです。目標とすべき自分が、心の中にいることを知って人間は生きていくのです。人生は自身を体験することでしかない。

 数週間経ち、園長や保育者が握っている「父親をウサギにする権利」について考え、行き着いた結論は、「人間は幼児という神様、仏様、絶対的弱者の前では、正しい方向に進むしかない。たとえそれがウサギになることであっても」というものでした。それは宇宙が人間のために用意している目的と重なるように思えました。

 父親をウサギにして母親が喜ぶ。これがいいのです。母親をウサギにしてお父親が喜ぶ、これでは駄目です。

 子どもたち、という神様が見ていますからね。


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