の報告でした。時間以内に済ませるためでしょう、泣いている子どもの口に保育士が食べ物を押しこみ続ける、可哀想で見ていられない。そんな園で、親に渡すアルバム用に写真を撮ってくれと依頼される。もともと感性で仕事をしている人間が悪意のない利害関係のなかでこの光景を見せられる。シャッターを切るべきなのか、そうでないのか。
誰が育てた子なのでしょう
都内の小学校のPTAで講演しました。講演後に、どうしても、と個人的に質問をされた方が数人いました。
小学校の低学年の子どもがいるということは、結婚して十数年、子育てして7、8年、この時期の悩みは深刻です。問題があると、それがそろそろ固定化してきていて、しかも解決方法がわからない。相談相手がいない。家庭内で起こる人間の心の様々なひずみやすれ違いが、DVや児童虐待に進んでいることもあります。心療内科が認知され、母親が向精神薬を飲むケースも増えています。「子はかすがい」ではなく「子育てがかすがい」だったのに、様々な理由で充分に一緒に子育てを体験しなかった夫婦関係にほころびが見え始めるのがこの頃です。
一緒に子どもを眺める時間の大切さに気づかなかったこともありますが、父親が乳児に人間らしく育ててもらえなかったことが第一の原因でしょう。父親が子どもを授かって最初の三年間、毎日5分でも赤ん坊を抱いていれば、自分を信じきって頼りきって生きている命を実感していれば、ずいぶん一家の人生が違っていたはずです。
子育ては,人間たちがお互いを眺め合い信頼し相談相手をつくるためにある。男性と女性、若者と年寄りが心をひとつにするためにあるのです。
経済界がこの点に気づいて真剣に対策を考えないと何をやってもこの国の活力は戻ってこないでしょう。小さい頃、自分が育った時に見ていた父親が生き生きしていなかったのでしょう。20代の男たちが結婚しなくなってきている。男たちが家庭に魅力を感じなくなっているのです。
学校教育においても、自立とか夢(欲)を持つことを奨励するよりも、人間は自分のためにはなかなか頑張れない、誰かのためなら頑張れる、そして利害関係のない絆を持つことの大切さ、そういう原点のことをもう一度しっかり考え、子どもたちに教える必要があります。自立は孤立につながってゆく。そして福祉はやがて行き詰まる。
PTAで講演したあとのこと。
ドキッとするのは、「そんなことをあかの他人の私に尋ねてもわかるはずがない、返事のしようがない」種類の質問を母親から受ける時です。
カウンセラー、専門家、相談員なら平気で答えるのでしょう。プロですから。仕事ですから。わかりもしないことでも、彼らは一応答えるのです。
一緒に祈りましょう、とは絶対に言わない。
専門家が増えると社会に絆が薄れ薬物依存が始まり犯罪が急増する。
アメリカは、学校のカウンセラーが生徒にすすめる薬物でかろうじて画一教育を維持し教師の精神的健康を保とうとしています。背後には製薬会社の利権が見え隠れします。学校がきっかけで始まる薬物依存が麻薬やアルコール依存症につながってゆく、そんな分析は15年前にアメリカで終わっています。それでもなぜ欧米が薬物依存から抜けられないのか。社会の動きを決定する意識に「相談相手をつくろうとする方向性」が欠け始めている。
相談相手をつくろうとする意識の中心にあったのが「子育て」です。子育てを幼稚園・保育園・学校が肩代わりすればするほど、絆をつくる力が社会から消えていきます。
人生は相談相手がいるかいないかが鍵です。相談相手から良い答えが返ってくるかどうかはではないのです。
小中学生の親たちの一部に、0歳1歳2歳児とつきあっていれば育っているはずの感性や想像力、「祈り」という次元も含めて、コミュニケーション能力が著しく欠けている。客観的に見れば軽度の発達障害ととられても仕方がない程度まで進んいる。
(大切な部分なので繰り返しますが、人間は全員なんらかの発達障害で、それを補い合うこと、補い合って人間関係をパズルのように組んでゆくことに幸せを感じてきたのです。その補い合う能力を、非論理的で理不尽な0、1、2歳児とゆっくりつきあうことで身につけてきたのです。補い合う力と意思が希薄になるばなるほど、本来誰でもが持っている発達障害的要素が、人間関係、「絆」や「縁」を育ててゆくための「障害」になってくるのです。)
一人の母親が聴くのです。
小2の子どもがどうしても言うことを聞いてくれない。学校から帰ったら宿題をやる、とか、色々ルールを作ってきちんと守らせようとしているのに、嫌だ、という。なぜだかわからない。なぜなんですか?
母親は、落ち着いて丁寧に説明します。
「どうしていいかわからない」と言う以前に、「なぜだかわからない」と言うのです。
子育てをしながら、いまだに論理性で考えているのです。
0、1,2歳とつきあっていれば、とっくに飛び越えているはずの壁です。人間は多くの思うようにならない者(物)(事)との関係性の中で生きている。じつは、「なぜだかわからない」ことに囲まれて生きているのです。突然地震が起こったり、洪水や干ばつがあったりします。それが人生であって、宇宙であって自分はその一部に過ぎないことを学びます。私はそれを0、1,2歳とつきあうことで幸せを伴いながら学ぶのが一番いいのではないか、と言っているわけです。
そして、その宇宙の一部でしかない自分が全てと関係性をもっているということをいつか理解し、全体と一部が同一だ、という感覚まで進もうとする。ここまで来ると、ほぼ昔仏教の原点になったウパニシャッド哲学みたいなことになってしましますが…、簡単に言うと、水を汲んで運んでくるという作業がないと、水との関係性が希薄になってくるのと似ています。(『簡単ではないですね。すみません。』)
理性的に見えるお母さんの真面目な相談でした。
聴けば、0歳から子どもを保育園に預けたそうです。
私には、その子を育てた園がどんな園かわからない、育てた人がどんな保育士だったかわからない。その子を担当した保育士は五年間に十人はいたでしょう。8時間以上預ければ必ず一日二人以上。そして、毎年担当が代わるでしょう。乳幼児の時、担当制だったのか複数担任制だったのかさえもお母さんは知りませんでした。
父親は仕事に忙しく週末も子どもの相手をしようとしなかった。いまになって夫に相談しても、母親の責任だろう、と言われる。そして、講師の私にたずねるのです。「なぜですか?」と。
たぶん、その子がどういう育てられ方、育ち方をしたのかを知る人は地球上に一人もいないのです。つまり、このお母さんには、確かな「相談相手」が現在一人もいないのです。(神様か仏様にでも相談していればまだなんとかなったはずですし、なるはずです…。)そのことに本人が気づかなければどうしようもない。子育ては、育てる側にコミュニケーション能力がどう育つか、育てる側にどう絆が生まれるか、が第一の目標であって、子どもがどう育つか、はその後に来るのです。
(専門家は専門家の振りをする専門家。ラジオの子育て相談番組を聞いていればわかります。顔を見ないで、子育てについて電話で相談、というのは乱暴でしょう。「専門家」だったらしてはいけないこと。医療的な知識など役立つこともありますが。)
その場のお母さんの雰囲気から判断し、これから自分が自分の相談相手になれるように、まず子どものわがままを全部受け入れるところから再出発するのがいいかもしれませんね、と話をしました。祈るような気持ちで。
そうすれば、理性ではなく感性が蘇ってくるかもしれません。
あきらめ、でもいいのです。それも大切で、確かな出発点なのです。
もちろん、そのまま、特別なにもしなくても子どもは育って行きます。子育てや人生に正解はありませんし、決まっている道筋もありません。親が子どもを心配する気持ちさえあれば道はつながるでしょう。そして、このお母さんにはそれがあります。無関心にさえならずにオロオロと時間をかければ状況は必ずいい方向に変わっていくものです。
運良く,子どもが学校や塾で信頼できる大人に出会うかもしれない。ある歌手の唄っている歌の詩や、一曲の音楽、一遍の小説、一本の映画が子どもの感性を揺さぶるかもしれない。事故や事件、天災、異常に悲しい体験や苦しみが突然視点を変化させ強い絆が生まれる可能性だってあるのです。わざわざ残って私に相談して来るような親はまず大丈夫なのです。
(当分変わらないのはその父親くらいでしょう。だから、私は父親の一日保育者体験を早目に、と園をまわって薦めるのです。)
子育ては、親子という選択肢のない関係にある人間たちが時間をかけ試行錯誤を繰り返し、絆を少しずつまわりに増やしながら、たがいに育て育ちあうのが基本です。
「選択肢がないこと、逃げられないこと」が重要な条件でした。
利便性に支えられたシステム(福祉,サービス産業)と体験に基づかない言葉(学問、知識)に支配され、多くの人間が、その大切な条件を放棄してしまう。それが、義務教育が普及した後の現代社会の欠陥です。
そのお母さんが真面目で良さそうな人だっただけに、可哀想だな、と思いました。しばらくすると目に涙を浮かべ、「0歳で子どもをあずけた時には深くは考えなかった、そのときの流れでそうなったんです」のです、と言うのです。
話を聴きながら、「その子の乳幼児期に関わった、責任を少しでもわかちあう相談相手が一人でもいれば、いまこの人の心持ちはずいぶん違うのだけれど」とふたたび思いました。夫でも、祖父母でも,園長でも、ママ友でも良かった。人生はちょっとした出会い、運で変わってくるのです。
いまだに言葉というコミュニケーションレベルで解決すると思っているこのお母さんの勘違いを目の当たりにすると、心の絆に欠ける社会で起こりがちな不運としか言い様がありません。
子育てと自分の人生
新聞に載っていたのですが、「子育ても大事だけど,自分の人生も大切にしたい」、◯か×か、という調査が民間企業によってされていました。こういう手法は良くない。入ってくる活字の情報を素直に受け入れてしまう若者たちがこういう設問に簡単にひっかかるのです。
「自分の人生を大切にしたくない」人なんていません。
「子育てをしていると」それが、出来ないなら、人類はたぶん二万五千年前に滅んでいます。
自分の人生は家族の人生でもある、と時間を重ね合わせて考えた方がより安全で安心で快適でしょう。
自分の人生を大切にすることが、幼い子どもを十時間保育園にあずけて働き続けることだと判断する人がいたってもちろんいいです。ただ、経済競争に多くの人たちを引き込むことによって利益を得ようとしている人たちがしかける強者のトリックにひっかからないように気をつけてほしいと願います。経済競争は一部の勝者しか生まない。そこにギャンブル的な妙な魅力が潜んでいるのです。子育てはその場の損得勘定で計るものではないし、実はたぶんに損得勘定を捨てるところから始まる。
これは中々対照的な二つの選択肢です。
決める時にくれぐれも子育てを面倒なもの、専門家に任せておけばいいもの、とは思わないでほしい。なぜなら「その時期」は二度と取り戻せない特別な時間だからです。そして、絶対に忘れてはならないのは、乳児を十時間も他人に、しかもよく知らない人にあずけることは、人類の歴史上あり得なかったことだということ。
こうしたアンケートや新聞雑誌の見出しに影響され、人生を「大切にしてみて」10年たって、何を大切にしてきたのかわからないまま、気づいた時には子どもは10歳になっている。子どもがどういう風に育ってきたかさえ知らない。わからない。そうならないよう子育てと大切な人生を同一視する人たちの話にも耳を傾けてから決断してもらいたいのです。保育園という仕組みが出来るまで、ほとんどの人間たちが何万年も共有してきた特別な人生の体験を本当に放棄してもいいのかどうか、自分の感性と理性で考えてほしいのです。
一度失ってしまうと、幼児という不思議なメッセンジャーたちと過ごす人生の魔法の時間は取り戻せない。孫が出来るまで待つしかない。運よく孫を授かれば、のはなしですが。(「保育園に毎日十時間も何年も預けられた子どもは、結婚や子どもを育てることに何の魅力も感じないから、まず結婚したがらないし、子どもを産んでもそれでイライラするようになりますよ」「そういう子は年とった親の面倒なんか見ないし、生きる力が育ちませんよ」とおっしゃる保育園の園長先生だっているのです。)
しかし、埼玉県では子どもを保育園に預ける親は27%ですから、この時間はやはり人々を魅きつけるのだと思います。幼児と過ごす時間に魅かれるのは、人間の本能だと思います。
もう二十年も前に書いたアメリカにおけるベトナム難民のことを思い出したので引用します。
「十数年前、ロサンゼルスの公立高校を成績優秀者で卒業する子ども達に、ベトナム難民の子どもが異常に多い、という報告がされました。数年前まで英語も満足に喋れなかった難民の子ども達が、20%の非識字率を出すアメリカの公立学校を、成績優秀で次々に卒業して行くのです。アジア系の子どもは一般に勉強が出来ます。アイビーリーグなどは既に四人に一人がアジア系の学生だと言われています。これは別に頭が特別良いわけではなく、家庭がしっかりしているからなのですが、その中でもなぜベトナム難民の子どもに偏ったか。ベトナム難民の親子は、戦争、難民という辛い体験を親子で乗り越えてきた人達です。親子で苦労したことによって家族の絆が非常に強くなっている。。「言葉」というのは人間関係によって質も重さも変わってきます。ベトナム難民の親が言う「勉強しなさい、頑張りなさい」という言葉は、普通の親が言う言葉よりはるかに重みがあるのです。そして、ここでもう一つ見過ごしてはならないのは、子どもが親の言うことをある程度無条件に受け入れる親子関係があれば、アメリカの学校が今のままでも機能する、ということなのです。」
「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」より。
船中八策
いなかの田んぼのなかの公立保育園で講演しました。いいことをしようと思った町長が四つある公立園に看護士を一人ずつ配置してしまったのです。
職員室で看護士がため息まじりに言うのです。「私がここにいるから、園で子どもが熱を出しても親が迎えにこない。来ようとしない」
病気に素人の自分が会社に頭を下げて迎えに行って連れて帰るより、看護士がいる保育園に置いておいた方がいいでしょう、という理屈です。正論です。ただし、熱を出している「子どもの気持ち」が親に見えない。看護士さんが心配するのはそこです。理性が支配し、感性が育っていない。
最近の子どもたちが、登園時に熱を下げるために親が貯めている薬で抗生物質漬けになっている、ひょっとして男の子の草食系化はこのあたりに原因があるのでは、という「不都合な真実」について話していたときです。看護士さんが怒って言います。
「小児科でもらってくる薬だったら、まだいいです。最近の親は内科で抗生物質をもらってくるんですよ。内科。しかも、それをちゃんと私に言わないから怖い」
薬事法違反みたいなことを、子どもを保育園に置いてゆくための手法、手段として、親たちが気軽にするようになってしまった。田んぼに囲まれた田園風景のなかで。
「私が、ここにいないほうがいいんです」
待機児童もいない田舎の町で、大人の都合で子どもたちがわけもわからずに薬を口にする。親を信じて口に入れる。それが小児科でもらった薬でないことが、この国の何かを決定してゆくことを看護師は知っている。だから怒っているのです。子育ては専門家に任せておけばいいのよ、と言った厚生労働大臣の声が遠くで聞こえます。
看護士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いが、やがて、保育士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いになり、それがいつか子どもたちの「いないほうがいいんだ」という声につながってゆく気がしてなりません。
私たちから、自分一人では気づきようがなかった掛け値なしの自分を引き出してくれる不思議な人たちを、こんな風に騙していいわけがない。
保育者が不足しています。公立の正規採用でもないかぎり、ハローワークに募集を出しても、一人応募してくるかこないか、というのが全国的な現実です。あぶないな、大丈夫かな、と思ってもとりあえず雇うしかない。ひやっとする出来事が増えています。雇ってから、しまった、と思っても解雇するのはなかなか大変です。
その保育士のせいではなく、資格を取る前にふるいにかけられなけばいけなかったケースが増えています。この仕事に
は向いていない性格の人がいるのです。こういう人を解雇するのは本当に気まずいのです。園長主任の心労がたまってゆきます。
特定の保育士に怯える子どもたち。
(保育士を募集したときに、1.5倍くらいの倍率が出るようにしなければ、保育の質は保てません。そこに居てはいけない人を排除することさえできません。大学や専門学校の保育科が軒並み定員割れを起こしています。願書を出せば全員国家資格をとる。有資格者の質が急速に悪くなっているのです。教師の非正規雇用が時給二千六百円なのに保育士は八百五十円、九百円でやっています。その保育士たちに私は、子どもたちのために親子関係にまで踏み込んで下さいとお願いして歩いているのです。告示化された法律、保育指針にもそれが保育園の役割と書いてあるのです。)
待遇面での改善がすぐに望めないなら、状況を変えるために、まず第一歩として親たちが保育園に感謝してほしい、というと、何言ってんだ当然の権利なんだよ、と笑う親がいるのです。彼らは、保育界が保育士不足で危険水域に入っていることを知っているのだろうか。それは国の責任だ、と言っても良い保育士たちは戻って来ない。
(私は、新刊「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」に、4年前「保育士やめるか,良心捨てるか」という章を書きました。それが、いま起こっていることなのです。)