前茅野市長で現長野県教育委員長の矢崎さんと全国教育委員長会議で出会ったのがきっかけで始まった茅野市との不思議なご縁です。以前から茅野で絵本の読み聞かせ運動を進めていた牛山圭吾先生とは長いお付き合いでした。それが矢崎さんの推薦で去年役場とつながって、現市長が一日保育士体験をマニュフェストに入れて再選されたので、6月から一斉に保育園で始まります。今月中にすべての保育園で保護者に講演することになりました。半分終わりました。
月別: 5月 2011
若い議員に陳情
午前中、国立市の私立幼稚園PTAでお母さんたちに講演。偶然聴きに来ていたひえださんという若い女性市議が、講演のあと他の若い男性市議二人にすぐ電話して、ホールのロビーで色々話をしました。駆けつけた若い政治家たちに、幼児たちの存在意義、親心が崩壊してゆくと弱者に厳しい社会になってしまうこと、福祉が家庭崩壊を進めてしまう危険性などについて話しました。そして、たぶん一日保育士体験が唯一の解決策だと思う、と言いました。20年後のことを想像しながら,頼むよしっかり、半分祈りながら気合いが入ります。
佐伯昭定先生のこと。
昨日の国神保育園に続き、今日も秩父の明星保育園で講演しました。両園は姉妹園です。真言宗のお寺の保育園。びっくりしたのは、八十才を越えた創設者でもある道祖神園長先生、小学校が明星学園で照井げん先生に音楽を習ったとおっしゃるのです。その時の授業や修学旅行がいまだに忘れられずに保育園に明星と名付けたそうなのです。私はおげん(お元)先生の最後の教え子。おげん先生は私が入学した時にはもうおばあちゃんでした。私は小学校しか明星に行っていませんが、お互いにその時期の思い出が強く、歳がこんだけ離れていてもやはり共通して習った先生が数人いて、いろいろと懐かしく話をしました。当時の明星学園は修学旅行で京都に行き、帰りは船で帰ってきたのだそうです。もちろん戦前です。照井先生が一学期かけて道中出会う物に関連づけて授業をしてから出かけたそうです。
遠藤豊先生のこと
2011年5月
今週,埼玉で学校の先生たちに二度講演しました。
保育という仕組みの問題点は、幼児という特殊な人間の存在意義を確認するという原始的な人間の遺伝子に関わってくる根源的な問題なので説明しやすいのですが、学校教育はそれとは違った側面を持っていて、それはたぶん、ほとんどの人間の人生にとって役に立たないことを子どもたちに大量に教えることが人類全体の可能性をのばしてゆく、というかなりしっかりとした絆意識がないと持続出来ない目的が、学校教育の普及とともに進む家庭崩壊によって見えにくくなってくる、という面倒な説明をしなければならない点にあり、そこで私も苦労しているのです。
それを一時間半でうまく現場の先生たちに説明出来るほどに私がまとめきれていないのだと思います。授業とは何か、役に立たない事を子どもに教える過程で何が大切なのか、を考えていたのがきっかけで、遠藤先生のことを懐かしく思い出し、考えました。
遠藤豊先生は私の小学校5、6年生の時の担任で、のちのち自由の森学園というかなり斬新な学校を創った人です。
とにかく素晴らしい授業でした。授業というものにあれほどの充実感を感じたことはそれ以後一度もなかったような気がします。いまの私の考え方は、自分で考えよ、基本的な情報以外の情報には惑わされるな、自身の体験を考える柱に必ず置く、というあたりが特徴なのですが、明らかに遠藤先生の理科と数学の授業が影響していると思います。
五年生の時、電気について一学期かけて考えたことがありました。電気は明るい、熱い、から始まり、「明るい」とは何か、熱いのはなぜか、と進み、電気が流れるとはどういうことか、まで続いていくのです。数学でいくつかの定理を学んだ時、先生は、その定理を発見した人の苦しみと楽しみと驚きを100分の1でも小学生に感じさせようとしていた。その定理を覚えることより、その定理が生まれた時の感動や苦悩を知ることの方がはるかに重要だと考えていたのです。
灰谷健次郎さんのこと
さっき、突然のメールで、灰谷さんの本読んで感動した、という友人の言葉が届きました。読んでいて、私のことを思ったと書いてあり嬉しかった。灰谷さんどうしているかな、とネットで検索すると、とっくに亡くなっている。あれっ、という感じ。
人形/ なぜ人間は人形をつくるのか
(五月五日、被災地の空に鯉のぼりが泳ぐ。外国人にとっては不思議な光景だろう。以前、「なんで魚なんだ?」とアメリカ人に訪ねられたことがあった。日本人はかなり不可解なことをする。先進国の中では特にその不可解さが目立っている。渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社)に、150年前この国を見た欧米人の驚きが集約されている。第十章、「子どもの楽園」は感動的。後々作られた儒教的、武士道的日本のイメージが吹っ飛ぶ。欧米人が「パラダイス」と書き残した国のひとたちは、大らかで、時空をわかちあうひとたちだった。まるで鯉のぼり。
人類は不思議なことをする。社会における人間性の確認か、自分の人間性をそれぞれが思い出すためか。いずれにしても、鯉のぼりは抜群にいい。被災した人々と被災地に舞う鯉のぼりが、私に元気をくれるような気がする。ありがとうございます。)
人形
誰の家にも人形があります。30や40はあるはずです。
平均いくつくらいあるか、ちょっとイメージで考えてみましたが、日本という国は特に一緒に暮らす人形の数が多い文化かもしれない、と思いました。おひな様が2セットあったら、それだけでけっこうな数になります。こけしや雉馬、鯉のぼり、ぬいぐるみや鉛筆や箸の先っぽについているものまで丁寧に数えていったら、一世帯平均100くらいになるかもしれません。これだけの数の人形が、全ての世帯にあるのだとしたら、私たち人類は、こういう物(者)をかなり必要としているということです。人形は私たちの「人間性」の一部だということです。
なぜ宇宙は、私たち人間に人形を与えたのか?
人形を見ながら考えると、ふと、なぜ宇宙が私たち人間に0歳児を与えたかが見えてきます。
0歳児が私たちから引き出そうとしているもの、人形が私たちから引き出そうとしているものが、似ている。
優しさだったり、祈る気持ちだったり、忍耐力、言葉を介さないコミュニケーション能力…。良い人間性を引き出そうとしているのだな、と思います。良い人間性とは、調和に向かう人間性でしょう。
人間の面白いところ、不思議なところは、自分をいい人間にしてくれる者たちを自ら生み出し、つくり出すというところです。それが、0歳児であり人形です。