「もっと保育の質について報道してほしい」

image s

東京23区の公立園の保育士の四割がすでに非正規雇用で、これで質が保てるのかという報道がされています。質より量で、盛んに新しい保育園が造られているときに、保育の質が問われるのはいいこと。色々問題が起こってからやっと、という感じですが、実は、全国で考えれば、すでに10年以上前から公立園の保育士の六割が非正規という状況なのです。正規雇用が地方公務員となる公立園は私立保育園とは仕組み的に異なります。慢性的な高齢化と過疎化の流れの中で、財政削減の手段として公立保育士の非正規雇用化と公立保育園の民営化がずっと続いてきたのです。質の低下、保育に対する意識の変化の根っこになっていると私が指摘し続けている「保育は成長産業」という閣議決定の裏側にあるのが、この財政削減と公務員減らしです。(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=108:男女共同参画社会)

10年前にすでに、財政状況が悪い自治体では公立保育士の九割が非正規雇用という市がありました。講演後に市長と会談する機会があってそれを指摘すると、市長が驚いて同席した福祉部長に尋ねるという場面がありました。その市長が当選する前からすでにそういう状況だったのです。保育にしっかり取り組まないとその負担が学校に来ますという私の指摘を市長は理解しました。横で教育長が一生懸命に頷いていました。保育の重要性やその役割を理解している市長がいるところでは、逆に九割が正規(地方公務員)という市もありました。この異様とも思える自治体による格差自体が国の保育施策に対する考えの甘さ、幼児たちの育ちを軽んじる経済優先の傾向を表しています。

東京23区は財源が豊かなため、よほど変な区長が選ばれない限り以前は正規雇用がほとんどでした。それが保育士不足や規制緩和、保護者の意識の変化や保育士の質の低下で崩れてきて、今、やっと問題視されているわけです。

10年前に、保育雑誌に書いた文章です。

images-1

 

親子も、保育士もう役人も、施策に追いつめられている

 

どこの町へ行っても保育士が不足しています。いい役人も、いい保育士も、いい園長も、子どもたちも、親たちも、雇用労働施策とそれにともなう変化に追いつめられています。毎週、保育士たちに会い、悲しそうな役人たちの顔を見、私なりに励まし続けるのですが仕組み自体がもう危ない。

これから書くことは、警告のための最悪のシナリオ、と考えてもらっても構いません。進み方に違いはあっても、どの市町村でも起こっていること、と捉えてもらっても構いません。

公立の保育園で、財政削減を目標に保育士の非正規雇用化が進み、現在6割が非正規雇用、時給八百五十円から都市部では千円くらいの賃金で働いています。正規雇用の人との賃金格差は仕事の内容がほぼ同じであるにもかかわらず、三分の一、四分の一ということになり不満がたまっても仕方ないと思います。

非正規雇用という仕組みの、雇う側にとってのメリットの一つとして、保育士であるべきでない人を雇ってしまった場合、6ヶ月または1年ごとの雇用の更新をしなければいい、ということがあります。雇い止めを恐れてちゃんと仕事をしよう、という気になることである程度の質が保てるわけです。

保育は「子育て」という信頼関係に関わる仕事ですから、こういう脅し脅される関係の中で行われることはすでにおかしいのですが、子育てを「仕事」(賃金労働)の枠組みのなかに入れようとすると、こういう経済的打算と権利と利権の駆け引きを土台にした関係が生まれます。それを「雇用関係」というのかもしれません。しかし、人間は経済を信頼関係の基盤にしていると、いつかその脆さ、危うさに気づくことになります。

雇用関係というある種の駆け引きの中で、市がハローワークに非正規の保育士の求人を出しても応募が来ないという状況が全国的に広まっています。それを非正規雇用の「良くない保育士」が見ていると、「どうせ辞めさせることは出来ない」という意識が広がります。雇い主の足元を見るのです。

「良くない保育士」の定義には色々ありますが、とりあえず「子どもが怖がる、一緒にいることを嫌がる保育士」と、考えて下さい。多いわけではないのですが、います。保育士たちの名誉のために言っておきますが、毎週私がどこかの市町村で、ある意味保育士にも耳が痛い話をしに呼ばれるのですから、大多数の保育士たちが第一に子どもの幸せを願い、自分たちの心構えでなんとかしようと頑張っています。本当に感謝です。

「子どもが怖がる保育士」は、気に入らない親の子につらく当たります。ある日、一人のお母さんが保育園に子どもを迎えに行くと、その保育士が寒空の下、泣いている我が子を抱いて待っています。

「泣くんで、外へ出てあやしているんですよ」とその保育士が笑顔で言います。

「泣いているのは、あんたが抱いているからでしょう!」とお母さんは心の中で叫びます。

でも、誰もこの保育士を辞めさせることはできない。子どもから引き離すことは出来ない。(実は出来るのですが、お母さんはそれを忘れている。自分で育てればいいのです。日本という世界一豊かな国で、その方法は必ず見つかります。実は、その方法を見つけることが社会に絆と信頼関係を生み出します。)

お母さんは知っています。子どもがその保育士の名を呼びながら夜怖がってうなされるからです。園長先生にも苦情を言いました。

園長先生は役場に言いました。役場の人も困っています。保育士を辞めさせれば、預かる子どもの数を減らすしかない。役場が、待機児童を増やしてでも「良くない保育士」を排除する決意をすればいい。私は、それを薦めます。でも役場の人は苦笑して答えません。体を張って、それこそキャリアをかけてでも主張しないと状況は変わらない。しかしもし一時的に改善されたとしても、その人が異動になったらそれでおしまい。対象が正規雇用の保育士だったら、一度採用すると簡単に解雇はできません。児童館や他の部署に配置換えしても、これを俗に「埋める」というのですが、市長は「待機児童をなくせ」と役人たちに繰り返し言い続けます。「待機児童をなくします」と選挙の度に宣伝カーで宣言しているような市長ですから、資格を持っているなら保育園に配置しろ、と平気でいうのです。

園長・主任がその役割を果たそうとしても、保育の質を保てない。

「良くない保育士」は研修会にも出ません。自分を解雇できないことがわかっているからです。非正規の場合、なんで同じ仕事をしているのに、こんなに賃金格差があるのか、と不満がたまっています。その怒りの態度が園長・主任たちに向けられ、子どもにも向けられます。

やがて園長・主任の気持ちが萎えてゆく。そして、自分たちが、子どもたちをこんな状況に追い込んでいることに耐えられなくなって、医者へ行き向精神薬を呑み始める。そして、登園拒否。(になる場合も稀にあります。励ましに行ったりします。)

無理に自分の感性を押さえて生きようとする場合もあります。しかし、幼児という「頼りきって、信じきって、幸せそう」でいることを天命としている人たちの目にさらされていると、人間は精神的に追い込まれていきます。定年を前に辞めてしまう人もいます。

「良くない園長・主任」も時々居ます。心のバランスを力関係に求めようとする。役場が保育士を見つけられないので、自分が捜して来た保育士でまわりを固めて、派閥をつくり、園長や役人をいじめたりします。

職場で起こっているよくない連鎖を感じるのか、大学や専門学校の保育科が定員割れをおこしています。入学金と授業料さえ払えば、「入れてはいけない学生」も入学させ、「保育士になってはいけない学生」も卒業させ、国家資格を与えます。そんなことをしていると大学の先生たちの心が荒んできてしまう。

こうした状況全体に、軽度の発達障害の問題が加わってくる。

親も子どもも、保育士も園長も大学の教授も、政治家も、必ず軽度の発達障害を持っています。人間は全員軽度の発達障害で、それを「命」とか「個性」と呼ぶ。子育てをめぐる人間関係が殺伐としてくると、軽度の発達障害、つまり「個性」が負の問題になって現れる。お互いの欠陥を補完し合う人間関係のパズルを組むたの「個性」が、人間同士の摩擦と軋轢の原因となり、犯罪やいじめ、不登校やひきこもり、ストーカーや無責任な政治家などを増やしてしまう。

発達障害者が普通にパズルの一員として暮らせることが、社会に絆があるかどうかのバロメーターです。

0、1、2歳という発達障害+知的障害的な人間たちとみんなが数年間つきあうことによって、しかも幸せにつきあうことによって、人間たちはおたがいの役割を見定め、理解しようとし、社会というパズルを組んできた。

すべての人間がパズルの一部で、一つ一つの命に意味がある。それを全体で理解しながら人類は進化してきたのです。

だからこそ、「絆」が最高の幸福のものさしでなければいけない。

子どもが育ってゆく現場で、政府が、親子の絆が薄くなるような仕組みをつくり薦めておいて、愛国心も道徳教育もないでしょう。

ーーーーーーーーー

10年前にこの文章を書いたころ地方にいた「いい役人」たちのほとんどが定年になり退職しています。役場の中で、子どもを優先する視点の伝承が行われたことを祈るばかりです。市長、福祉部長、教育長、そして現場の園長・保育士たちに一体感があると、ずいぶんその市の雰囲気が変わるものです。幼児たちを見つめる「目線」が人間たちの絆を、温かく、確かなものにするのです。

ここに書いたワーストシナリオは、実はどこでも起こりうるシナリオでもありました。これをなんとかして食い止めないと、この国の子どもたちの安心と安全を保つことはできません。子どもを育てる時間の大切さをもう一度政治家たちが意識しない限り、または保育界が「保育は産業ではない、子育てです」と言い切らない限り、ワーストシナリオは幼児の体験として未来に影響し続ける。

もう一つ方法があります。マスコミがもっと子どもたちの立場になって、その安全を第一に考えて報道することです。弱者を優先することで人間はもっと輝く、という視点になることです。

images-11

(http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1400;「嫌なら転園しろ」・保育士のメイド化・保育者と親たちとの間に、「一緒に子どもを育てている」という感覚を忘れたように、溝が広がっていきます。)