「親心を育む会」著で、「一日保育士体験のすすめ」(大修館書店)が出ました。

 「親心を育む会」のメンバー共著で、「一日保育士体験のすすめ」が大修館書店から出版されました。

 園長、主任、保育士、保育の現場からの子どもたちの心を代弁したメッセージです。(親に向けて、保育士に向けて、社会に向けて)
 いま政局が混乱混迷するなか、日本全体が淋しさと焦りの中で絆を探して迷走しているように思えます。
 わからないから闘う、そんな方向でどんどん社会が動いて行きます。たしかに「闘い」は心を一つにする作用があります。
 しかしそれでは日本人ぽくない。子育てが、まわりに相談相手をつくろうとする力(force)の中心にあったことを思い出し、大人たちの一緒に幼児を眺める目線がこの国に信頼関係と絆を育てて来たことをもう一度確認し、子育ての現場から一歩一歩、子どもたちの願いを第一に感じ、進めてゆくしかありません。

高校の家庭科の先生たちに講演しました。

高等学校の家庭科の先生たちに講演しました。インドの村人の生活の中に、「わかちあう」という家庭の原点を見ます、というお話しをしたところ、シャクティのDVDを授業で使ってみたいとメールをいただきました。

(私の返信)

ありがとうございます。

http://kazumatsui.com/sakthi.html

ここに、解説が載っています。

 私がこの作品で日本の高校生に伝えたいことは、だれが幸せそうか、だれが美しいか、それを理性ではなく感性で見極めてほしいのです。聴き分けてほしいのです。そんなに難しいことではないのです。なるべく体験に基づかない情報や既成概念に捕われないようにして、自分の感性を自然に開き解放し、そして判断する。次に、なぜ幸せなのか、どうすればいいのか、など自分自身の理性を使って考えてほしい。そうしているうちに、幸せと美しさが必ずしも一致するわけではないこと。幸せと楽しさ、幸せと豊かさが一致するものでないこと、を思い出してほしいのです。幼児期を過ごした彼らはもうすでに知っているはず。もう知っているということを思い出させてあげて下さい。

 宮沢賢治、新美南吉、ローラ・インガルス・ワイルダーなどを読むといいのですが、ワイルダーの「長い冬」「はじめの四年間」などを読んで、家庭について絆について、ゆっくり考え、話し合うといいのです。

 高校生でも、いい本を読み聴かせてあげるとずいぶん落ち着いてきます。耳を傾ける、という姿勢は社会に静けさを取り戻すのに一番いいのです。

 そうやって、いい本の読み聞かせをしてあげたり、文章を書かせたり、幼児との体験を積み重ねたり、じっくり家庭科をやるには、週に4時間くらい必要ですね。

 でも、それをやれば経済力を含めて日本をもう一度いい国に立て直すことは難しいことではないのですけれどね。

 ひょっとすると、一番役に立つ、この国を救うかもしれない学科の時間が減らされてゆくのですから、悲しくなりますね。

 いつになったら、気づくのでしょうね。

 大切なことは、静けさの中で育つ、ということ。

B01-124.jpg

http://www.youtube.com/watch?v=_uUnaHuViqk&feature=youtu.be

 ここをクリックすると、シスターの新しい試み、第一回シャクティセンター・サマーキャンプに向かう子どもたちの映像が見えます。

 ダリットの少女たちは、学校に行かせてもらえない場合が多いのです。労働力という側面も確かにありますが、それよりも母親たちが娘を守ろうとする意識の方が強い。学校の中での差別、そして行き帰りの道など、安全ではない、ということも大きな理由です。娘たちに何かあっても泣き寝入りするしかないのです。

 サマーキャンプに向かう子どもたちの姿には、「こういう子どもたちに教えることが出来たらきっと毎日が幸せだろうな」と思わせる、学校の原点があります。「教えること」で先生たちが幸せを感じる。「教える側の幸福感」を基盤に、本来、伝承は成り立っていくのです。教える側の動機がなければ始まらない。教えることがある、のを知っているのは教える側だからです。

 そして、子どもたちが、教え手を育てる、それが親子関係の本質です。シャクティセンターに向かう子たちのように、明るく、潔く、堂々とした表情が、そして草原を並んで歩く風景が、学校に命を吹き込むのです。この子たちは、貧しいけれど、とても「育ちがいい」感じがします。見事です。親心に育まれた、安心した表情です。まわりにその子の命に感謝し、その子に幸せにしてもらっている人間が数人いれば、そして常にその視点に見守られていれば、必ず子どもはこんな感じに育ちます。育て方ではないのです。育ち方、環境です。一組の親だけでつくりだせる環境ではない。子どもを見つめる目線が、感謝と憧れの目線だといいのです。

 そして、シャクティセンターの先生たちはシャクティの踊り手たち。十代後半の、教職の免状もなければ教え方を教わった娘たちでもありません。でも、任せられるのです。村の生活の中で、特に娘たちの間に,いつの間にか「教え、教えられる関係」が育っている。

 そして、たった8日間のサマーキャンプから生まれる「美」。それは技術を習ったのでもなく、情報を勉強したのでもなく、「意識」を身につけたのだと思います。家族、村、そしてシャクティセンターを包み込む人間たちの「信頼関係」が、たった8日間のサマーキャンプに、「真の学校」を映し出すのだと思います。

 不思議なのは、シャクティセンターのサマーキャンプは、読み書きや人権の真ん中に「踊ること」があるのです。教えることの中心に「和」があるのです。日本の学校も、一日1時間は必ずみんなで輪になって踊る。そんな方向に、遺伝子から湧き出るような教育改革が出来たら、きっと日本は、以前のように絆で結ばれた美しい社会に戻るのだと思います。決して不可能なことではない。そういう視点を取り戻せないほどに、感性が鈍ってしまっているだけです。人間がシステムを作っているうちに、いつの間にか、システムが人間を作るようになってしまったのです。

 







省子さんの詩/理科の点数/自立

詩集ホルダー茅野.jpgのサムネール画像
 茅野市で、小児科や産婦人科の医院で小野省子さんの詩集「おかあさんどこ」を置いてくれることになりました。(http://kazumatsui.com/genkou.html:原稿集のページからダウンロード出来ます。)
 これは、市役所で作ってくれたフォルダーの写真です。母親が訪れそうな場所に小野さんの詩集を置く試みは所沢市でも始まっています。こつこつと、ことことと、意識が一つになってゆくといいのですが。
 子どもが意識の中にいると、人間たちが育つ。絆が育つ。
 詩集から二つ、解説してみます。

つながりのあるだれか(東日本大震災)

 

避難所をうつすテレビの画面に向かって

五歳の息子は叫んだのだ

母親にしがみつく 小さな男の子を指さして

「あれはぼくのお友達だよ!」

「違うよ。よく似ているけれど違う子だよ」

なだめる私に首をふり

以前公園で遊んだ、名前を知らないお友達だと

何度も悲しげに繰り返すのだった

「あれは僕のお友達だよ!

 あれは僕のお友達だよ!」

繰り返しひびく息子の声が

私の心を小刻みにゆらす

 

そうかもしれない そうなのかもしれない、と

いつのまにかつぶやきながら

私は、まばたきもせずに

唇をかんだ

 

(解説:真実というものの領域が広ければ人間の思考能力、想像力、許容する力が育っていきます。母親が、事実や現実を離れた「真実」を子どもとの会話の中でひろげてゆく。こういう領域が子どもを中心に文化として存在した。それが昔話やおとぎ話、ピーターパンの中に見えるのです。「真実」を未来にとって必要なものにしていた。

 こういう非論理的な理解力を体験する瞬間に育ってゆく人間の能力を、「子育て」の中に見ようとしないから、思考する力、想像する力、許容する力が減少してゆくのです。それを学校教育の責任にしているのですから、教育を取り巻く者たちは、人間が育つことの意味を理解していないように思えます。理科教育や応用力は、一才児が「噛みつく」という表現方法で主張をしはじめた時に、すでに衰え始めているのです。)

 

一人でできることが

 

「一人じゃなんにもできないくせに!」

そうののしった私を

幼いあなたは

決して忘れはしないでしょう

 

そして未来のあなたは私のことを

「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と

そう思い出すでしょう

 

そうです

子供にそんなことを言う大人は

一人じゃなんにもできない人です

お母さんはそういう人でした

だけど あなたのおかげで

一人でできることが

一つずつ 一つずつ ふえていったよ


(解説:子育ての目的は、人間が一人では生きられないことを、双方向に、幸福感を持って自覚すること。自立なんていう言葉が、目標のように語られるようになったのも、幼稚園・保育園・学校という最近の仕組みが、子育てを人類から奪ったことにあるのでしょう。自立を目指せば、孤立し、絆は生まれない。自己責任は多くの場合自己嫌悪につながります。自己嫌悪が人間には致命的なのです。)