#9 「ワーキングマザー」の短歌/施策の中のカタカナ語/未就学児の児童養護施設入所を原則停止

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#9

「ワーキングマザー」の短歌/施策の中のカタカナ語/未就学児の児童養護施設入所を原則停止

園長先生から聴いたことがあります。「ワーキングマザー」から「母」の顔に戻るのは中々難しい。

言い得て妙。深い発言だと思います。

「働く母親」は一人の人間でありうるのに、なぜ「ワーキング」と「マザー」は対立し、そこに葛藤が生まれるのか。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=265

浅羽佐和子さんの歌

(講演に来て下さり、いただいた短歌集「いつも空をみて」を読みました。そこには、身が引き締まるような母の「本音」が詠まれていました。本の帯の宣伝文句に「ワーキングマザー」とあって、たぶん出版社がその言葉を選んで使ったのだと思います。「働く母親」では?と、一瞬思いましたが、それでは宣伝文句には向かない。それは、私にもわかります。「母」という言葉にある伝統的なイメージを払拭し前へ進まなければ、「マザー」にはなれない、社会全体にそんな意識が働いているのかもしれません。しかし、マザーだけでなく、母はみな働いている。)

 

浅羽佐和子さんの歌

昇進の見送り理由を幼子とする ぼろ布のような私

私のキャリアをどうしてくれるの と考えたってあふれる乳汁

仕事中だけはあらゆる不安からのがれられるの、どうしようもない

保育園で描く絵はいつもママばかり、ママがぽつんといる絵ばかり

「お母さん、疲れたとだけは言わないでください」若い保育士のメモ

「ママうちにかえろう」ってただ手をつなぐために 私はずっとここにいる

代役のない本当のママという役を演じる 地球の隅で

 

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ワーキングマザーは結果を求める世界に生きている。しかし、母親は、いい親でいたい、いい親になりたい、と思った瞬間すでに「いい親」です。結果ではなく、その親の心持ちに価値がある。いい親でいたい、と思った親たちが子どもに愛され、許され、救われて生きてゆく。そのプロセスが、「人づくり」などと言って子育てに結果を求める経済論・成果論主体の方向へ歪められてゆく。

この句集からにじみ出る母の苦しみや悲しみは、いい母親であるほど増してゆく。だからこの葛藤を、不公平だと言って減らしてゆく方向に意識が動くと、その同じ量の悲しみを知らないうちに幼児たちが負っていったりする。そして、その悲しみは連載しやがて増幅してゆく。いい親であるがゆえの母親の苦しみや悲しみは、そのまま負っていけば、やがて喜びや期待になって増幅され、連鎖してゆく。

親たちは、よく子どもの笑顔や、寝顔に幸せを感じるといいます。目の前で安心しきって眠っている姿に不思議な幸せを感じ、自らの真の価値を知る。何千年にも渡って、幼児たちに全身全霊で頼られ、幼児たちの安心した姿に囲まれて人間は生きてきた。初めて笑った時、初めて歩けた時、初めて呼ばれた時、親たちにとってそれは自分との会話で、自らの成り立ちを確認する自問自答のような作業にもなっていました。

幼児たちに繰り返し愛され、許されることによって、自分がその信頼によって守られていることに気づく。そこに人類の進化の法則、生きる動機が見えるのです。

この短歌を詠んだ母の人間としての葛藤を、多くの父親たちがあまり経験していない。そこに男たちが生きる力を失っていく、結婚したがらなくなっていく原因があるような気がしてなりません。(だからこそ、一日保育者体験はなるべく父親から、と保育者たちに薦めます。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=261)

日本という国で、西洋の言葉を意図的に利用する場合に生まれる様々な対立は、東洋と西洋、幸福論と資本主義の対立のようにも思えます。英語にしてしまうことで、過去の価値観や評価、この国が大切にしてきた古(いにしえ)の法則が見えにくくなり、変化することへの抵抗感が薄れる。守り続けてきた理(ことわり)を進歩の名の下に飛び越え易くなる。そんな感じでしょうか。

異様なのは、最近の政府の施策が書かれた文章やその解説書に、読む側が辟易とするほど外来語、外国語が多いこと。ただの外国語がいつの間にか「専門用語」となり、その種の学問をしている「専門家」でないと意味がわからない仕掛けになってくる。本当はただの英語に過ぎないのに、日本語的発音のカタカナにするから余計わかりにくくなる。西洋志向の学者たちが、自分自身の創造力の欠如を外国語で覆い隠そうとしているようにさえ見える。多くの学者たちが、学者ではなくただの伝令役になって、「専門家」という名のごっこ遊びに浸っている。

日本の施策においてカタカナ語を利用することは、人間性と経済論のような、次元の異なる対立を可能にするための手法なのかもしれません。

厚労省が全国の児童相談所に通達してきた「未就学児の施設入所を原則停止」の時もそうでした。説明する厚労省の文章(「新しい社会的養育ビジョン」)にもカタカナが溢れていました。専門用語(ただの英語)を知らなければ読み進むことの困難な政府の文章と説明で、それが改革であり進歩であるように装われ、マスコミが検証しないことでいつの間にか国民が納得したような雰囲気がつくられ、幼児の立場を顧みない施策が経済政策として次々実行に移されている。子育てに関しては成功とは言えない欧米の進んだ道をなぞっただけの文章が、専門家、有識者会議を素通りしてゆく。

 「厚生労働省は7月31日、虐待などのため親元で暮らせない子ども(18歳未満)のうち、未就学児の施設入所を原則停止する方針を明らかにした。施設以外の受け入れ先を増やすため、里親への委託率を現在の2割未満から7年以内に75%以上とするなどの目標を掲げた。家庭に近い環境で子どもが養育されるよう促すのが狙い。」毎日新聞

この記事に載っている「家庭に近い環境」という言葉は、政府の財政のつじつま合わせを実行するための厚労省の誤魔化しに過ぎません。日本でも家庭崩壊が始まり福祉の財源が底をつき始めているいま、(たぶん欧米並みの)「里親への委託率」75%を達成したいための方便です。欧米の数字を目標にすることは、欧米並みの家庭崩壊に近づくことでもある。もし、本当にそれ(「家庭に近い環境」)がいいものと信じるなら、去年始まった「子ども・子育て支援新制度」で11時間保育を「標準」とは言わない。女性の就労率が子育てによって下がるM字型カーブを経済優先でなくそうとはしないはず。8時間勤務の保育士に「11時間保育=標準」を押し付けて「保育を仕事化」しないはず。働いていない親も保育園に乳児を預けられるような安易な規制緩和はしないはずです。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2391

こうした政府の(学者の)ご都合主義的な矛盾だらけの経済・福祉政策が、家庭崩壊や人間の孤立化を招いている。そして失敗した施策の隠蔽や誤魔化しに「家庭に近い環境」という言葉が使われる。

確かにいまの児童養護施設や乳児院は量的にも質的にもほぼ限界に近づいています。このままでは「子どもたちが育ってゆく環境」としては疑問で、保育園の状況と同じです。施策を進めた者たちの無知、無責任で、人材がいない、待遇が悪い、対応しなければならない問題が悪い方向へ変質してきている。しかし、だからと言って、突然里親への委託率75%という不可能な目標を設定し、原則入所停止という現実が残れば、そのしわ寄せは必ず「保育園」にまわってくる。これ以上後手後手にまわってしまう前に、基本的な方向性を経済論から幸福論に戻さないと、まさに取り返しのつかないことになる。

途上国へ行けば、多くの子どもたちは5歳位で働いていますし、私が1年以上居たインドの村々でもそうでした。子守りや水汲み、道端での物売りや畑仕事、家畜の世話、一人前になった自分が嬉しいのか、結構みんな活き活きと、美しく、働く。そして一緒に祈る。彼らを眺めていると働くことはいいことだ、とわかります。働くことは人々にとってただ食べるための行いではなく、人生を守る絆を育て、助けあい頼りあう幸せを教え、教えられること。生きてゆくための日常であり、形は様々ですが人は皆してきたこと、信頼関係という幸せの基盤でした。

そして、時には「三年寝太郎」や「わらしべ長者」、古典落語に出てくる与太郎のような生活力のないように見える人たちが重要で、その人たちには「労働」を超えた、人間社会における「働き」があったのだろうと思うのです。社会の役に立たないように見えるその人たちが、実は三歳未満児の社会における大切な役割を体現していたのだろうと思います。こういう人たちがいないと本当のパズルは組めない。

日常的に働くことで生まれる絆を主体に、社会は成り立つ。「子育て」は働くというよりも、「働き」に近いのですが、それが中心にあるから人間は「働く」。

保育と子育てが本当は重ならないように、保育と仕事も実は重ならない。それを一番よく知っている幼児たち、特に乳児たちが発言できないのですから、これはもう大人たちが想像力の世界で視点や思いを重ねて行くしかない。自分も幼児だったと思い出せば、見えてくる人生があるのでしょう。人間は絶対に一人では生きられない。自立できない。その辺りで社会の本当の「絆」が生まれる。

国連の幸福度調査第1位(日本は51位)のノルウェーでは、殺人事件の被害者になる確率が日本の2倍、泥棒に入られる確率が4倍、女性がレイプにあう確率が20倍なのです。13歳から始まる低年齢のシングルマザーが問題になり、傷害事件の被害者になる確率が日本の15倍、ドラッグ汚染率が5倍というデンマークが、この幸福度調査では第2位になっている。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=1990。「精子の売買が合法化」され、ネット上で男たちの精子に容姿や学歴によって値段がつけられるほど「家庭や家族」観が変質してしまった国を、幸福度第2位にするようなものさしは根本的に病んでいる、歪んでいる。

こんな奇妙な幸福度調査を気にして女性の社会的地位の低さが問題だと政治家や学者たちは言うのですが、社会的地位を幸福論とすり替えて、女性議員の割合や管理職の割合で「幸福度」を決めるのは極めて欧米的な偏った考え方だと思います。そうした考え方や施策が、巡り巡って、保育所に仮児童養護施設の役割を押し付けてくる。保育所はすでに崩壊寸前の限界に来ています。http://kazu-matsui.jp/diary2/?p=2391

ーーーーーーーーー(続く)ーーーーーーーーー