保育士を目指す学生たちに/園長先生からの手紙

 育休を終えて職場復帰する教え子が一人、助言を求めてきました。


 「保育相談支援/保育者がどう親を支援するか」という授業を大学で受け持つことになり何かアドバイスがありますか、と言うのです。

 子ども・子育て新システム、新制度、現在進行形で激変する保育界。自分なら、いま学生に何を一番伝えたいか、改めて考えてみました。私が好きな保育指針の第六章がこの授業のテーマです。そこに書いてある「子どもの最善の利益」とは一体何なのか。

 

 学生の質は大学によってずいぶん違います。その現実がイメージとして最初に浮かびました。しかし、次に見えるのは、子育てという人類にとって大きな一律の伝承の流れです。その流れは「親の質」を問うていない。そうだとすれば、何が伝承されてきたのか。大学や養成校という仕組みの中で,何が伝えられるのか。伝えるべき中心は何なのか。


 二十年以上前、初めて保育科の教壇に立った時のことを憶い出します。何を基準に成績をつければいいのか、成績が何を意味するのか、1人で立ち止まっていたのです。いずれ受け持つ子どもたちのために、人柄で順番をつけたいと思いました

 生来の保育士は、学生であっても、すでに私が教えることのはるか向こう側にいて、乳幼児たちと一緒に生きている。その不思議さを、私は数人の園長たちからその時すでに教わっていました。保育の仕組みと、心の仕組みの間でずいぶん考えました。


 いま、学生たちが働く場所は、それが社会福祉法人なのか認可外かで環境はずいぶん違います。政府が導入している株式会社とか派遣会社は、そもそも仕組みの動機やサービス対象が以前とは違います。公立保育所でも、正規(地方公務員)か非正規かで微妙に立場が違いますし、その市に幼稚園があるかないか、公立と私立の割り合いなど、地域の過去の歴史によって保育に向ける行政や住民の意識が違います。

 養成校を出た有資格者を求めるひとたちの質や意図が、千差万別なのが今の保育界なのですここ数年、雇用労働施策が前面に出て、受け入れ先の目的や仕組みがこれほど変化していったら、授業内容は、毎年教授を入れ替えて対応しなければならないのではないかとさえ思います。


 電話では応えきれず、教え子には、このブログを読んで下さい、と言いました。


 国家試験を受験者を除けば、資格を養成校が認定している現在、福祉を教える大学や専門学校で、学生に、福祉の危険性についてはあまり教えていないことが一番気になります。保育は直接的に親子の人生に関わってきます。ただ、学校の言うことを信じてやっていればいいことではありません。以前は、それを現場の先輩保育士や園長主任が教えてくれました。

 家庭崩壊を招いた、北欧における福祉の失敗は繰り返し翻訳され、出版報告されているのに、授業ではあまり伝えられず、福祉の有効性のみを教えようとする人が多い。有効性と危険性のバランスを考えさせなければ学生に現実を教えたことにはなりません。福祉が人間関係を断ち切ってゆく現象が先進国社会特有の様々な問題の背景にあり、そのことが早く現場の人に理解されないと、日本でも福祉そのものが立ち行かなくなります。


 支援しないことの大切さ。

 支援が必要な人を見分ける能力。

 誰が本当のSOSを発しているのか。

 誰が応えるべきものなのか。誰が応えるのか。


 サイン(兆候)を子どもから、親から、祖父母から、日々感じ取り、仲間と考え、話し合うことが保育の第一歩でしょう。対応すべき原因の多くが家族関係にあって、子育ての周りに親身な相談相手がいるかどうかが社会全体として問われているのです。

 相談相手からいい答えが返ってくるかではない。親身な相談相手がいるかいないか。いれば結果としてそんなに深刻な問題は起ってこない子育ては人間が安心するためにある。それを理解することが保育士としての出発点であってほしい。


 子育てに関する相談相手は、一生関係が続く人がいい。

 基本は夫婦ですが、祖父母、そして部族的な繋がりのある人がいい。子育ての悩みは、絆を深め体験と知恵を伝承するために人類に与えられていて、その役割を保育者がどこまで果たすべきなのか。長い目で見ると、親たちが、自分で相談相手を作れる状況を保育者がつくることの方が大切かも知れない。

 そして、究極の相談相手は、実は幼児であること。特に乳幼児との会話は宇宙との会話、自分との会話、幼児としっかり会話をしていれば、山や川や海、盆栽や人形さえ相談相手になってくれる。その辺りをどう伝えるのか、もう一度考えてみました。


 子育てである保育が学問に取り込まれてゆくと、支援することが、そもそもいいことなのだと学者たちは教えがちです。私も短期大学の保育科で8年間教えたことがあって、そこがとても気になりました。「サービス」という言葉が定義にすでに含まれる今の子育て支援が、長い目で見て親子関係にどう影響を及ぼすのか。初心者でもある親の意識や視点を、これからどの方向に導くのか。経済競争優先のいまの変化に、福祉は人的にも財政的にも対応しきれるのか。伝えたいことはたくさんあるのに、それが核心ではないのです。


 保育者がよりいっそう感性を求められる時代になっています。

 学問が役に立つことが必ずしもいいことではないということを繰り返し学生に教えないと現場が苦労するような気がしてなりません。


 保育に限らず、学問は最近、祈りの世界を離れ、正解のないことにまで正解があるようなことを言い、それを権威で押し切ろうとします。だから権威を身につけようとする。その積み重ねが、子育てを体験としてではなく、方法として捉える空気をつくっている。すると政治家たちは、子どもを、人生や国の未来ではなく、数で考え始める。これ以上専門家を作らないためにも、子育てや保育の専門家がいなかった時代の方が、悩みの数ははるかに少なかったことを、学生にしっかり伝えなければなりません。

 そして、40万人預かりますと首相が言う時、慣らし保育の幼児たちの悲鳴は聴こえていない、ということも。


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 テレビのクイズ番組で、母親が子育てしやすい国ナンバー1がスウェーデンで日本は30位?だという。スウェーデンでは6割の子どもが未婚の母から生まれ、日本は2%。離婚率も考えれば、子どもを実の両親が自ら育てることが少数派の国で、子育てを代わりにしてくれる仕組みがあるからと言って、それがいい国だとは思えない。学者のトリックはたちが悪い。

 (スウェーデンで、女性がレイプされる確率は日本の50倍、強盗が25倍。そういう数字を同時に放送し、子育てしやすい国の順位が何を元に決められているかを検証するといいのだが、クイズ番組ではそうもいかないのだろう。しかし、こんな番組を見て、親たちの不満がたまり、それが保育士に向くことだってあるのだから、元々の順位つけをした学者たちの罪は重い)

 子どもが十歳になった時に実の父親が家庭に居る確率を比較し、犯罪被害者になる確率や若者の麻薬の汚染率を比べてから国の善し悪しを判断してほしい。「母親が子育てしやすい国」と「母親が一人で子育てしやすい国」では明らかに意味が違う。国際比較のアンケートをとっても「父親が」と「実の父親が」ではその意味が違う。





園長先生からの手紙


松居 和様

 

 昨晩は、熱いお話の席にご一緒させて頂き、ありがとうございました。

 帰宅してから、頂いた本を一気に読み進む中、あれ!『げんき』の連載だ!と気付きました。

 私は、2004年、松居先生の『子育てのゆくえ』のご講演をステージの袖で一生懸命聞いていた保育士の一人です。今、親から引き継いだ保育園の園長になって1年、園の舵取りの責任の重さ、園長の心意気次第で、どのようにもなってしまう恐ろしさを、ひしひし感じています。

 世の中がどのような方向に流れて行こうとも、制度がどのように改革されようと、目の前にいる「こども」の肌のぬくもりを感じると、やるしかない!と損得抜きに思います。

 今朝も、第2子を産んだ母親が、子育てピンチに陥り、ヘルプの子育て相談を申し込んできました。1時間じっくりと母親の気持ちを聴き込み、「あなたの苦しみは、こういうことなんですね。お気持ち察します」と、お困りごとのからくりを図式化して解説してみました。

 すると「このゴールデンウィーク中に家庭を、立て直します。子どもが問題ではなく、私のこころ次第ですね」と明るくなって帰って行きました。

 そんな面談が出来たのも昨夜、松居先生の「親心を育てる以外に救いはない!」とパワーを頂いたからです。

 子どもと保護者と毎日向き合う保育士の意識を高め、仕事に誇りややりがいを感じてほしい。

 講演をお願いを致します。


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 園長先生や保育士さんが元気になって欲しいと願い、講演を続けている身には励みになります。

 「熱いお話の席」には、理事長、園長先生たちだけでなく、学者さんや市と県の部長さんも居て、席を設けていただいた小児科のお医者さんと共に、長年にわたる政府の子どもの気持ちを重視しない子育て支援策、五歳までの子どもの発達の不思議さや大切さ、一日保育士体験の広まり、親心の社会における意味など、様々に話し合ったのでした。

 園の舵取りの責任の重さ、園長の心意気次第で、どのようにもなってしまう恐ろしさを、ひしひし感じています。世の中がどのような方向に流れて行こうとも、制度がどのように改革されようと、目の前にいる「こども」の肌のぬくもりを感じると、やるしかない!と損得抜きに思います」

 追い詰められた保育界にあって、振り絞るような決意の宣言です。

 「保育園でもう40万人預かります」と笑顔で言ってのける総理大臣、「三人目は無料にします」と自慢げに約束する市長、保育者養成校に青田買いに行き、「4年勤めたら園長になれます」と学生を誘う株式会社の人たちに聴かせたい。保育は覚悟と境地。だからこそやりがいがあるし、仕組みを安易に考えてもらっては困るのです。大きな曲がり角に立っているこの国を、実はこんな園長先生の日々が支えているのです

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幼児の成長に必要なはずの静寂/保育園の巡回視察。/そして電波組inc.

  家庭を離れ、親たちの目の届かない場所で集団で過ごす子どもたちの一日の質とは、「松居さんは何が一番大切だと思いますか?」と講演後の質疑応答で聴かれたことがあります。

 子どもが育つ状況や環境がますます多様化し、求める側の視点も様々ですが、私のイメージの中で、特に三歳未満児にとっての保育の質は、保育士の優しい目線に囲まれること。そして可愛がられること、だと思います。保育士の人間性が常に問われていなければ、保育ではありません。しかし、最近はもう、

 「無視されない。叩かれない、怒鳴られない、叱られない」

 それだけ一律一日中確保出来ればまあ良いかな、と思うことさえあるのです。

 確かに世界中で、子どもは厳しく辛い環境の中でも、けっこうしっかり生きてゆきます。小さな幸せを確実に見つけ出し、それを悲しいほど体一杯に感じながら。すごい人たちです。だからこそ、大人たちには責任がある。

 いま日本で、保育という特殊な環境の中で、同年齢の子どもを一緒に育てれば、まず事故は避けられません。しかし、信頼関係が希薄になってきたいま、保育士も保護者も疑心暗鬼になっています。噛み付き痕を消す方法が伝授されたり、活き活きしない,話しかけない保育が現れたり、事故から始まる大人たちの人間関係のトラブルを避けることが保育の最大関心事になってきました。

しかし、事故を避けて子どもたちに元気のない活力のない日々を強いるのはやはりおかしい。そこが保育という仕組みの難しいところです。大人たちの利便性のための保育なのか、子どもたちの日々の生活が保育なのか、国や社会が再度自覚しなければいけません。

 子どもたちの将来を国の将来と重ね合わせると、人材不足のうえ、園庭もない園で、元気のない日々を強いられている子どもたちが、将来どうなってゆくのか、とても心配です。現在の少子化の一番の原因でもある「結婚しない男たち」の増加などは、このあたりに根深い原因があるような気がしてなりません。

 

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 もう一つ、音楽もやっている私が、もし自分の子どもを毎日十時間どこかに預けざるを得ないとしたら、どうしても欲しいものが「静寂」です。子どもたちを、これほど頻繁に集団にすることは人類の歴史上かつて無かったこと。昔は、幼児期の子どもの成長を常に囲んでいた静寂が、いま仕組みの中で、忘れられている気がしてなりません。「静寂」を忘れることは,心を忘れること。背後に静寂がなければ、言葉さえも騒音になっていきます。

 静寂と、肌の温もりに抱かれて、熟成して行くのが「人間性」だと思うのです。二つを重ね合わせて毎日身近に感じること、それが昔ながらの子育てだったと思うのです。しかし、今、そこまで望むには仕組みが追いついていない。感性のいい、子どもを可愛がる保育士を揃えるのが、以前に比べとても難しくなっている。なぜそうなのか、を考えずにこれ以上進んではいけないのです。

 保育士の優しい目線を日々そろえるために大切な、親たちの子どもに向かう姿勢が整わなくなってきている。親の保育士を見る目に感謝の気持ちがなければ、子どもが安心して育つ環境は絶対に整いません。

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 最近の保育園での親の笑えない要求。担当保育士の笑顔が足りないから替えて欲しいと園長に言ったそうです。園長は、子どもにはいい保育士なんですと私に言います。その親は、いったい誰に対する笑顔を要求しているのでしょう。この疑問が保育士の顔を険しくし、精神を疲れさせるのです。

 厚労省の言う「福祉はサービス」のサービスという言葉が、こういう感謝しない親を創り出す。ある保育サービスの会社では、職員研修で保育士に「朝と夕方、五分でいいから親に笑顔を見せろ」と言うのだそうです。

 

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 「小規模保育事業への新規参入時業者に対し、各市町村において公立保育所のOB等を活用した巡回支援を行うための経費を助成する」という施策があります。小規模保育の質を保つために、巡回して見張る、というのですが、こういう巡回は今までも名前を変えて様々にありました。

 監査や査察が入った時だけちゃんとやっているように見せる園が現れます。しかも、既存の認可外保育施設の規則違反を見つけても、罰則もなく、役人がほどんど取り締まれないのです。「役人の見回りの度に靴箱のシールを剥がします、それでもいいですか?」と親に訊いて定員を超えて幼児を預かる園が昔からありました。

 認可外で、規則違反があっても、何度回っても是正しようとしない確信犯が増えてきました。待機児童ゼロが第一目標ですから、足元を見られているのです。役人が取り締まれない状況で、保育所OBの巡回支援で何ができると言うのでしょうか。保育施策における最近の政治家たちの対応は、後手後手どころが認識が二十年遅れています。「実現する政治、行動力、改革します」などと政治家のポスターに書いてあると、嫌な感じがします。

 

 巡回した元保育士が「ここには静寂が必要です」と言っても、たぶんそれはほどんど意味を持たないでしょう。そんな社会になってきたのです。

 

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 「管理者向けの人材マネジメントセミナーの開催で潜在保育士の再就職を支援」という施策がありました。保育士の子どもに対する気持ちという「質」を「管理者向けの人材マネジメントセミナー」でマネージまたは確保できると思っているのだとしたら、甘過ぎる。

 共励保育園の長田安司先生のツイートに:東京都の奥村朝子保育人材担当係長も「事業者が選ばれる時代。柔軟な働き方を用意するなど事業者の意識改革も重要」と言う。一日11時間の保育で8時間労働。パート保育士で埋めると、子供の生活と発達の連続性が損なわれる。コンビニのパートと同じ発想で保育士を確保しようというのか?:というのがありました。役人にも政治家にも、現場の空気や気の動き、心のやりとり、成長、というものがまるで理解されていない。視野にも入らない。こういうビジネスコンサルタントが言いそうな、聴こえの良い施策のほとんどが、行政の「やった振り」に過ぎない。事業者が誰に選ばれるのか。誰が当事者で誰が評価するのか。潜在保育士が、なぜ現場に出なかったかわかっていない。資格さえ持っていれば保育が出来ると思ったら大間違い。その認識こそが致命的なのです。

 

 

 派遣事業が、保育界にもうすでにかなり根深く入りこんでしまっている。多くの現場で、派遣会社がなければ、保育が成り立たない状況にまできています。

 保育士が1人欠けたら国基準を下回る可能性の中で運営されている保育園が多い。次の保育士を募集し、吟味し、選んでいる時間も余裕もありません。保育士不足のいま、営利を目的とした派遣会社の意図の不自然さが、保育界に良くない影響を及ぼしています。園の弱みにつけこみ、派遣保育士1人につき契約金五十万円を要求する会社があります。同時に、養成校へ行き、青田買いの対象の学生たちには、「毎年色々な園が体験出来ますよ。海外旅行もつけますよ」とまるで勘違いなことを言って勧誘する。一年ごとに勤め先を変える前提がすでにあるのです。

 その度に派遣料をつり上げ市場原理が動くのに合わせるのかもしれません。または、保育士としては良くないか、手伝いとして使い物にならなくて、園から一年で交代を求められる。それもまた現実なのですが、毎年色々な園が体験出来ることを売り文句にして学生を集めようとするような派遣会社は、一年ごとに先生が居なくなる園に通う子どもたちへの影響など、始めからまったく視野にない、考えていないのです。子どもの過ごす時間より、お金を儲けることに興味がある人たちが、保育界に入ってきている。それを政府が奨励している。

 

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 2、3年の間になんで親たちはこんなに変わったんでしょう」どこへ行っても園長が言う。保育は当然の権利、受けるべきサービスだという態度。たとえそうだとしても、保育士たちは日々「子育て」をしている。親の感謝がなかったらどうなるか。保育は子どもにとって一対一の人生体験。仕組みではない。

 

 ある県の保育施策に書いてあった言葉、「家庭のニーズに合った保育サービス」と「増大する保育ニーズ」この二点が問題です。

 いままで週に16時間働けば40時間子どもを預けることが出来る、というのが国の基準でしたが、それを今回政府は新制度で週12時間にします。県も予算獲得のために対応しようとする。これをニーズと言えるのか。幼稚園でも十分に対応出来るはず。しかも、12時間働いて40時間預ける親に全国で対応していたら、ただでさえ足りない保育士がもっと足りなくなる。それがわかっていて進めるのは、国が短期的な経済を優先性、保育の子どもたちに与える影響を理解していないということです。

 施策に「潜在保育士の再就職を支援する」というのがありました。これも厚労省が進めている施策ですが、現在時間1800円になろうとしている派遣保育士の相場に対応してゆけるのか。何人分対応するのか、将来の相場をいくらに設定しているのか、未定のまま、今あるお金、国が用意している、何年続くかわからない予算(安心子ども基金)を頼りに進めようとしているのです。

 施策には、「安心して、子育てを行う」と書いてあるのですが、「安心して、子育てを他人に任せる」が実態。それは、正直に書くべき。しかも、これだけ保育士がいない状況で、「安心して預けられるだけ保育士を確保出来ない」ことは明らかです。

 「誰もが子どもを生み育てることに喜びを感じられる社会づくり」とあるのです。保育所で平均十時間以上子どもを預かることで、喜びが感じられるようになるとしたら、それはどんな喜びなのか。そういうことが議会で議論されなくなって久しい。

 小規模保育、保育ママの資格基準はどうなるのか。子どもの安全に責任が持てる人材を揃えられると本気で思っているのか。行政がこれを進めようとしている限り、事故が起った場合、賠償責任はどうなるのか。日本も確実に訴訟社会になってゆくでしょう。保険会社でさえ、すでに逃げ腰です。

 「家チカ保育所」「認可保育所並みに質を確保した保育施設」とあるのですが、毎年3、4割の保育士が代わるような派遣保育士頼りの保育チェーン店に任せるような保育は認可保育所並みとは言えない。しかも、認可保育所並みのチェック機能はどう確保するのか、子どもを守る手立ては約束されていないのです。

 「児童虐待防止、児童養護施設の充実」。言葉では並びますが、すべて、後手後手の対策になっていて、子育ての社会化を進めたらどんなに予算をつぎ込んでも歯止めがかからないことは、ここ十年の経緯を見れば明らかなはず。子育てを一緒にすることが夫婦の絆を深め、信頼関係を築く、その信頼関係がモラル・秩序を生みだす、となぜ考えられないのか。0、1、2歳児を積極的に預かること自体に問題があるとなぜ考えられないのか。三歳未満児の保育にかかっている税金の1/3でも親に直接渡し、子育て支援センターを充実させ、父親の子育て体験を条例化することによって、児童虐待の増加や待機児童対策の流れを変えることは出来るはず。

 

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保育士たちの声

 

 保育士の勉強会、研修会で講演する事が多いのですが、研修依頼の文章の書き出しにこう書いてあります。

「保育現場も保護者のニーズが多様化する中、個別の援助が必要な子どもさんの支援、愛着関係が築けない親子の支援、精神的な病を抱える保護者の支援、まは保育士自身が人間関係を築くことが難しくなっている現状で、日々抱えるものは山積みです。保育会でも、健やかな子どもたちの成長を支援できるよう、また保護者の方々の子育てに少しでもお役に立てるよう、皆で職員研修を行っていこうと考えています」

 

 山間部の町でさえ、とても保育士たちの力だけでは対応しきれない状況になっているのです。待機児童などいない市でさえ、親たちのニーズに応えよ、という中央政府からの指示と市長の選挙公約で、実際に子育てをしなければならない保育士たちが追い詰められている。三才児、一対二十で全ての子どもを可愛がることなどできません。子どもたちも少しずつ精神的拠り所を失いはじめ、個別の援助が必要な子どもが増えている。子育ての主体が家庭を離れ社会化することによって愛着関係の築き方がわからない親が増えている。周りに相談相手がいない、夫婦の絆も希薄で、精神的な病を抱える保護者たちが増え始めている。それを一緒に子育てをする者として支えなければならない。そんな毎日の中で、保育士たち自身が精神的にも人間関係の限界を感じ始めているのです。それでも、まだ、「健やかな子どもたちの成長を支援できるよう、また保護者の方々の子育てに少しでもお役に立てるよう」と書いてきてくれる保育士たちに感謝です。元気になるように、と祈り、行って励ますしかありません。政府や行政、マスコミが早く視点を変えてくれたら、と願います。このままでは無理です。いずれ変えざるを得ないのなら、立ち直りが困難になる前に、早く、と思います。

 

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 パシィフィコ横浜で、「東アジア文化都市2014横浜」のオープニングイベントで一緒に演奏したメンバーたちです。私の頭のところでマーシャルのアンプががんがん鳴っていましたが、ストリングスも入り、ガッツのある不思議な音でした。一緒に出た電波組incも、なかなか不思議でした。さながら時空を越えた、踊り念仏のようでもありました。ステージから見た客席の男たちの踊りはちょっと不気味な感じもしましたが、その圧倒的なエネルギーに日本の伝統の深さを感じました。

 

「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」?/解放されるために踊り、歌う。/エプロンで変わる視点/「専業主婦からの自由」

2014年4月

 「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」

 政府の少子化対策会議で小泉改革の時から発言して来た女性の学者が、少子化の問題を扱ったテレビ番組で言っていた。「女性はみんな結婚しても働きたいし、子どもを産んでも働きたい、それなのに6割がやめざるを得ない。そこが問題なのです」と。 出演者や司会者が頷く。

 言っている意味はわかりますし、気持ちの出所も理解できる。でもこの発言に、発言者本人も気づいていないかもしれない危険なトリック、そして罠がある。この言い方はまずい。簡単に頷いてしまうのは、それが常識みたいに広がるとしたらもっと危うい。

 繰り返しこのブログでも書いてきましたが、この発言を支えることが出来る仕組み(保育)を整えることは、私が知る限りもう無理です。欧米の社会状況を見ていると、それがもっとはっきりします。(良い悪いではなく、福祉や教育が普及すると家庭が成立しなくなってくる。すると、福祉や教育が財政的にも人材的にも限界に達する。それでも、選挙を中心にして社会がまわり続ければ、仕組みが人間性(遺伝子?DNA?)と摩擦を起こし、人間性の内に仕組まれた破壊のメカニズムが動き出す。)

 子育ての問題が話し合われるとき、受け入れられ、使われている「専業主婦」という定義さえ最近作られたもの。人類が、不慣れな「豊かさ」の中で、経済競争を介し、新たに日常に広まった机上の「定義」だと思います。通常女性は、結婚しても子どもを産んでも働いてきました。私が時々原点を探しに出かけて行くインドで、農村に居ると見えますが、子を育て、生きることは即ち働くことでした。

 多くの場合、労働、働くことは生きるための共同作業と役割分担、お金によってその対価が払われる種類のものではなかった。独りでは生きられないことの確認作業の意味合いが強かった。その対価は、祈りとか絆、子どもの健康とか笑顔、悲しみ、といった、人間の幸福感に直接関わる次元に属していたのです。

 テレビ番組で女性学者が言う「6割の女性が結婚や出産でやめざるを得ない」種類の労働は、こうした依存関係を下地に日常的に行われてきた労働とは違ってきている。この仕分け、区切りはどこから起ったのか。立ち止まって冷静に考えれば、6割の女性が結婚や出産で働くことをやめたら、人類は成り立たないのです。金銭の授受を伴わない労働を差別する意識は、なぜ生まれたのでしょう。この差別は、なんのために必要だったのか。女性に対する差別意識への反発が、平等をお金で計る習慣を根付かせ、そこで起こる競争を市場原理が利用しようとしているのか。自由や自立という獲得不可能なステータスを、お金で買えると思わせるほど、人間の想念が経済活動に支配されはじめた、ということかもしれません……。

 学者が言う「子育てとは同時に成立し難い」、家庭を(物理的にも、心理的にも)離れた「経済活動」に参加することが「働く」ことの主流で、もし「女性はみんな結婚しても子どもを産んでも働きたい」という女性学者の言葉が本当だったら、集団としての人類はどう変化してゆくのか。どう進化してゆくのか。家族の定義を失いつつある欧米のようになるのであれば、犯罪率、幼児虐待率、麻薬の汚染率から考えると、まだ選択肢がある日本は違う道を選んで欲しいと思うのです。

 子育てをしながら学ぶ「利他の道」を捨ててはいけない。その道が調和に必要な遺伝子がオンになってくる道のような気がするのです。特に「乳児に触れている時間」は、母親にも父親にも、周りの人たちにも貴重な、代え難い時間だと思うのです。

 「女性はみんな働きたいと思っている」その言葉を唱えつつ、インドの農村の母親たちをもう一度思い浮かべると、言葉の前後に普通「子どもたちのために」という一句がつく。この一句にリアリティーがなくなったら、たぶん地球のあちこちで社会の基盤となる男女の信頼関係が崩れてゆくのでしょう。それが崩れても保育所があれば大丈夫なのか。それは絶対に違うと思う。金銭を絡めた次元のすり替えが、ある一線を超えようとしています。

 

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俯瞰的に見ると、

 「女性はみんな働きたいと思っている」という「働き」の中には、音楽活動や祈り、絵を描くことが入ってくる。無報酬のものもあるに違いない。そこまで見極めれば、これは実は選択肢の問題で、「子育て」という「人生の選択肢を狭めるもの」に対する反発かも知れない。しかし、この「選択肢を狭めること」(親子関係)に人間は幸せの基盤を置いてきた。命に限りがあることから始まり、大自然から受ける災害、病気や怪我、部族の一員として生きることなど、選択肢がないことが多いから絆や道筋が生まれた。その絆や道筋の深さを知り、次元的に解放されるために、人間は踊ったり、歌ったり、赤ん坊を眺めたりしてきた。

選択肢があるように思える先進国社会でうつ病が多いのは、明らかに人間が自己責任に耐えられないことを意味しています。連帯責任、神の責任、その次元を感じるために、人間は輪になって踊る。

 

伝統的家庭

 日本の伝統的家庭というと男が働きに出て女が家で子育て、と誤解する人が多くて困るのですが、それは本当の日本ではありません。この国の伝統は違う。渡辺京二著「逝きし世の面影」(平凡社)の第十章「子どもの楽園」を読むと、160年前に日本に来た欧米人がみな、日本の男たち(父親たち)が常に子ども(特に幼児)と一体になって楽しそうに暮らしている、と驚きを持って書き残しているのです。日本人は幼児をしからない、ほとんど崇拝している、と書いている。それなのに日本人の子どもは六歳にもなれば、良い子になってしまう、この国の子育ては魔法だ、と言うのです。

 江戸で朝、男たちが十人ほど座っていると、それぞれが幼児を抱え子どもの自慢話をしている。その姿が欧米人がパラダイスと呼んだ国の日常であり原風景です。寸暇を惜しんで幼児と過ごし、それに喜びを見出し、堪能する男たち。それがこの国を支えてきた、穏やかにしていた。それが日本の子育て文化、伝統だったのです。

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 幼児と一体になることで自己を手離し利他に向かう。インドや中国とはひと味違う、日本独特の大乗仏教の核がそこにはある。

 最も理にかなった「易行道」の本質(宇宙と一体になり自分の善性を体験すること)が幼児の横に座ること、です。親になることは損得勘定を捨てること。これほど合理的で、たやすい人生(自分自身)の見つけ方はないのです。

 

エプロンをつけたら

 調布の、一日保育士体験を始めた私立保育園で講演しました。二年前、園長が恐る恐る提案すると、保育士たちがすぐにやりましょうと言ってくれたのだそうです。保育園は、心が一つになっているかどうか、が肝心。幼児を一緒に眺めていると自然にそうなるのです。園長と保育士たちの意欲と願いが説得力になり、親の評判もとても良く、しかも一年目、父親たちの参加の方が多かった、と園長先生が嬉しそうに親たちの感想文を見せてくれました。

 1人の親が「他の親と一緒にした参観日の時は、自分の子どもしか見えず、泣いた時の保育士の対応が遅いのに苛立ったのに、保育士体験で先生と同じエプロンをつけたら、他の子どもたちも見えてきました。泣いても一呼吸置いてから対応するタイミングが、とても参考になりました」と書いていました。

「不思議でしょう? エプロン一枚で」。

 普段家庭では見えなかった種類の自分の子どもが、保育士体験で見えてくる。どの子たちと、どんな遊びをするかで、いままで知らなかったその子が目の前に現れる。一枚のエプロンが人間の視点を変える。選択出来る視点があることを学べば、子育ては楽になります。子どもたちの可能性が嬉しくなるのです。エプロン一枚が人間を変える。

 祈る次元で心を一つにしないと、男女がそれぞれ孤立して自己中心的になる。自立という言葉が邪魔をして、家族という縛り、絆が苦痛になる。そういう時にエプロンが必要になるのかもしれません。エプロンが象徴するものは何か。「一緒に食べること?」「料理をすること?」「働くこと?」たぶん「自分の命は我がものではない、と気づくこと?」

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 福井県教育委員会で始まっている一日保育体験。参加者の63.8%が「大変良かった」、「良かった」も合わせると97.3%という数字が送られて来ました。感想文も沢山あります。幼保と家庭の信頼関係が、「一緒に育てる」という絆につながり学校を支える。どんな形でもいい、大人たちが幼児たちに出会い囲まれる。それを繰り返してゆけば自浄作用が働く。多くの人々が幼児との時間を大切にするようになると、社会の空気が変わってくる。十歳以上の人間たちが一緒に子どもを眺め、自分が失った物差しを確認しあえば、世代を超えた体験がうまく重なり自然治癒力が働く。幼児の笑顔に救われる。そして、待機児童を無くすのではなく、待機児童という言葉が消えてゆくのだと思います。

http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

 

201507121414000

専業主婦からの自由

 

「専業主婦からの自由」という朝日新聞の1ページを使った特集がありました。

 「『専業主婦』。女性の社会進出を妨げると批判されたり、最近はうらやまれる対象になったり。どこか心に波風を立てがちなこの言葉から、そろそろ自由になってみませんか。」という解説がつき、三人の女性が実体験から思いを語ります。専業主婦という言葉とその意味の危うさについて書いていた時だけに、この言葉が今持っているネガティブな意味合いから自由になろう、という論旨はとてもよくわかります。

 1人はVeryという雑誌の女性編集長。「『仕事は二番』と割り切る」というタイトルです。

 「『家族が一番、仕事は二番』と考える人がどんどん増えてきました。女性たちは職場でのキャリアアップより時短勤務を最優先。子供を持ちながら大企業などでばりばり働くスーパーマザーを、『とてもまねできない』『あくまでリスペクとの対象』と、割り切って見るようになったのです」「特別の条件がなければスーパーマザーは不可能であることが見えてきた結果です」と言う。その通りだと思う。子育ては体験であって結果ではない。家庭を離れた仕事との両立は難しい。

 もう1人は、ハーバード大卒のアメリカ人ジャーナリスト。タイトルは(専業主婦を)「キャリアだと納得したい」。米国で専業主婦が増えている現状を語り(15才以下の子どもがいる母親の専業主婦率が、1994年に20%だったのが2008年には24%に増えている。)、出産休暇が法律で義務化されておらず、多くの企業で有給休暇さえない、社会の仕組みとして育児と仕事の両立が難しい米国の現状を説明。専業主婦というキャリアが追求するに値するものという考え方の広がりを伝えている。

 もう1人は、日本人のシンガー・ソングライター。「部屋とYシャツと私」というヒット曲を書いた人。タイトルは「生きている実感を持つ」

 「かけがいのない存在のために尽くす時、『生きている』という実感がありました」と、病気の娘を育てた時のことを語る。いま若い女性に専業主婦思考が高まっていることの理由に、「家庭以外の働く場所で、生きる実感が持ちにくいせいじゃないでしょうか」と素直な感想を語っている。なんでも経済的理由にしようとする分析よりも、心の動きという、日常的な真実が感じられる。そして「『専業主婦願望は時代遅れ』と批判された昔を知らない彼女たちが思い思いに歌い継いでくれることが、私はうれしいです」と締めくくる。

 『専業主婦願望は時代遅れ』と批判されたのは『昔』なのだ。これには良い意味での驚きがありました。でも、自然な流れだと思います。社会には必ず自浄作用と自然治癒力が働く。それを一番に促すのは「子どもを育てること」。三人の女性の主張(感想)には、体験に基づく無理のない響きがあってとても気持ちがよいのです。イデオロギー優先の論調が多過ぎる最近の新聞紙面の中で際立っていました。ともすれば男尊女卑が見え隠れする間違った伝統主義では社会は決して「子ども優先」には変わっていかない。

 首相の言う、女性の活用、保育園でもう40万人預かれ施策が、現実を見誤った、とても可哀想なものに思えました。