唄わない母親(子守唄)

 最近講演先である保健士さんから、0才児にまったくはなしかけない母親がいるんです、という話を聴きました。しゃべれないんだからはなしかけても無駄だというそうです。母親も無表情だそうです。いったいどうしてそんなことになったのでしょうか。何がそうさせているのでしょうか、と質問されました。

 この母親は一人で唄もうたわないのでしょうか。つぶやくこともないのでしょうか。0才児に話しかけるということは自分に話しかけること。子守唄は宇宙との会話。自分との会話を忘れてしまったのでしょうか、環境に合わせて生きるために拒否しているのか。色んなことを考えます。

 誰かが、子守唄をうたいなさい、と教えれば一週間くらいで変わるのかもしれません。音楽には人間に必要な魔力があります。0歳児というむき出しの現実と直面するには「歌」のようなものが必要なのだと思います。感性と理性の間には、必ず体験が存在します。体験を含んで魂というのかもしれません。

 産後、子育てで鬱になる母親のなかに、十代で鬱を経験している人が多い、とも言っていました。さかのぼってゆくと、幼児期の体験に行き着くような気がします。人間の人生はすべて幼児期の体験に遡るというのは、あたりまえなのですが、幼児という、世界を「祈り」で満たそうとして存在しているひとたちが、その役割を果たすことが出来なかった、そこに原因があるような気がします。

 「子守唄」が、人類が抱える様々な問題の解決策になる日は来るのでしょうか。保育士たちに頼みます。未満児を持つ母親に父親に「子守唄をうたいなさい、良く育ちますから」と声をかけてください、と。

 大切な循環が止まり始めている。それはたぶん0歳児が繰り返し起動させてきた循環で、私は時々それをシャクティの世界に取り戻しに行こうとする。

 まだ今年は行っていません。感性と理性をつなげる旅に。


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園との絆を大切に

(メールをいただきました)

私も「なぜわたしたちは0歳児を授かるのか」のご本読んでおります。

足かけ16年の公立保育園生活を今春終えました。

実は子どもはおっぱいなしでもお胸トントンで眠れるということを知ったのも

おむつが自然に外せたのも、おはしを上手に使えるようになったのも

シャツのボタンは自分ではめれるとかっこいい!ということも

おともだちとケンカしちゃったあとにごめんねと言える勇気も

「11:30はお昼ごはんを食べる時間」と腹時計でわかるようになったのも

みーんな保育園でおそわりました。

保育士の先生は、すごいね!すごいね!の16年間でした。

1年生の息子もだいぶ1年生が様になってきましたが

「保育園行きたいなー○○先生に会いたいなー」と時々つぶやいています。

信頼できる大人の背中を見て育った子どもたちは本当にしあわせです。

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(この子のつぶやきを、保育園の先生たちが聴いたらどれほど喜ぶでしょうか。電話でもメールでもファックスでもいい。小さな連絡が人類を救うかもしれません。宇宙はそういう微粒子の連鎖で成り立っているようです。保育園や幼稚園は親子にとって、ふるさとの役割を果たすことができます。たとえば、卒園児のためにゴールデンウィーク明けに第一回の同窓会をするといいのです。子どもは、古来、幼児期の成長を毎日見守った人たちの目線を感じながら信じながら生きていくのがいい。

 卒園児は中学を卒業するまで年に一度必ずコンタクトをとる園長先生がおられます。その視線を意識することが子どもを育て守る。絆とか縁は、仕組みによってつくられることが多いのですが、仕組みによって支配されるものではないのですから、特に子育てで出来た縁は意識的に大切にするのがいいのです。こんな時代だからこそ、一家と保育園や幼稚園との縁がなるべく一生切れないように、そして子育ての意識が伝承してゆくと良いのです。)

三日間/違った場所で一つの話を(所沢、永田町、岩国)

いのちのちから

 

 ベイビーズ(いのちのちから)という映画を見ました。NHK国際部の佐藤百合さんに薦められたのです。この人に薦められたら、さっさと実行に移したほうがいいという人が幾人かいます。百合さんはそんな人です。ご主人の佐藤さんも、松居さんに教えといたほうがいいんじゃない、と言っていたというのです。見ないうちから、伝言ゲームのように共励保育園の長田先生に伝えてしまいました。

 アフリカ、日本、モンゴルとアメリカ、四つの違った文化圏の0歳児の人生最初の一年を追った単純なドキュメンタリー映画です。解説もほとんどない、それだけの映画なのです。

 まず単純に、「人間は、0歳児と母親の生きる姿を一時間半じっとみていることが出来る」ということにホッとしました。これが人類の生きるちからになってきたのだと思います。ポスターを読んで、この映画がアメリカでヒットした、というのを知って人類規模でホッとしました。映画の中で何か事件が起こるわけではないのです。確かに文化の違いはありますが、結局子育ては子育て、何千年もそんなに変わっていない、そんな印象を持つのです。そして、人間は幼児を眺めていれば大丈夫。人間はそれだけで満足するのです。母子の姿に「絆」の根源を映して、安心するのかもしれません。生きるということは、輝くこと、そして光りが一体になること、深く考えると、そんな感じでしょうか。人間の意思と宇宙の意思が重なって進んで行きます。

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 次の日、永田町の衆議院議員会館で15人くらいの議員さんに短い時間ではありましたが話す機会をいただきました。花園第二保育園の高木園長、行田保育園の園部園長と三人組で多目的ホールの一番前に並んで話しました。ふと、トミー・ウンゲラーの絵本「すてきな三人ぐみ」を思い出しました。そう言えばあの三人組もちょっと変だし、子どもたちのためにがんばったな、と気づきます。
 滅多にない機会です。安倍さん、中曽根さん、下村さん、小坂さん、そして衛藤晟一さんがおられます、集中し気力を込めて話しました。厚労省の虐待防止対策室長、文科省の男女共同参画学習課の人もいました。一般の傍聴席には江戸川双葉幼稚園の菅原久子先生のお顔も見えました。
 保育園も学校も福祉も、親が親らしいという前提のもとにつくられている、親心は主に幼児が育てる、幼児の役割の大切さ、この人たちとしっかりつきあって、人間はお互いに育てあい、認めあい、受け入れあう能力を磨く、それが人間社会の土台を作っていると話しました。(盆栽やペット、人形なども同じ天命を負っているのですが、幼児が育つ速度と人間の遺伝子がオンになってくる速度の相性がいいのです。)
 高木先生と園部先生が現場から感じる不安と親の変化の現実を率直に訴えました。
 大きな流れがゆっくりと変わるといい、祈るばかりです。
 現場の様々な状況を知らずに政治家や行政が流れを急に変えようとすると、幼児が犠牲になりますから特に気をつけて下さい、と会のあと衛藤先生にお願いしました。よろしくお願いします、と心の中で唱えます。
 そのあと霞ヶ関ランプから高速に乗り春日部市に行き学校の栄養士さんたちの勉強会で同じことを話しました。インドのカレーの話をするのはどうだろう、と一瞬思ったのですが、普通に話しました。大笑い。今年は家庭科の先生、助産師さんたちにも話す機会があります。マサイ族が導く、いつものはなしをするつもりです。
 翌日、山口県の岩国市に行き、曙保育園で20人ほどのお母さんたちに話しました。黄檗宗のお寺です。心がひとつになりすぎて、小野省子さんの詩を朗読するところで泣きました。女性の刑務所に勤めているお母さんが二人聴いていて、講演のあと来て話をしながら一番泣いていました。
 不思議な三日間、違った場所で一つの話をして、この二人の涙をどうしたらみなで分かちあえるのか、ふと次元の複雑さに考え込んでしまいます。
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 岩国で、ホテルの前に、澄んだ水の川が流れていて錦帯橋という有名な橋が架かっていました。もう温かく静かな山の景色と絶ない川の音。白鷺が飛んで、山の上に小さな城が見えました。講演が始まるまでの一人の時間は川を眺めながらむしょうに淋しかったのですが、講演すると元気になりました。
 子どもたちが発する光りが一押し一押し私たちの時間を進めます。その光りを母親たちの涙が守ります。ありがとうございます。

助産師さんからの講演依頼/マサイ族の連鎖

  講演依頼とともに嬉しいメールをいただきました。励みになります。いまの仕組みの中で、こういう命の体験に育まれた感性を持っている人たちこそが真の子育てアドバイザーになれる人たちだと思います。一緒に体験する。そして「寄り添うこと」が絆の原点だと思います。

 (去年ブログに書いた「栄養士さんからの講演依頼」、来週実現します。)

助産師さんからのメール

 私たちはおもに妊産婦さんの健診や出産に携わり、幼児〜思春期の性教育にも取り組み、生まれたての赤ちゃんとお母さん宅への訪問、子育て&不妊不育電話相談などなど小さな赤ちゃん・子どもたちのいる周辺で仕事をしております。(市内では助産師が1年間に4000件以上の母子訪問に携わっています)

  私たちの願いは、出産や子育てが人生の喜びになりお母さんたちが笑顔で生活できること。未来につながる子どもたちが豊かな感性を感じながら成長していくことです。そのためにお母さんや子どもの心に寄り添いたいと日々活動しております。

 最近仲間で話題になるのがメンタル面で非常に敏感なお母さんたちが増えていること。生まれたての小さな命を前に不安をひとりで孤独に抱えている方や、2子以降の出産後に、上の子供たちへの子育てに息苦しさを感じているお母さんたちが増えていることです。イライラしながら悶々と過ごすお母さんたちの声に耳を傾けアドバイスもしますが、日々の生活で、人と人がつながり・思いやり・関わりあうことでしか解決できないのでは?という問題に直面しております。

  先生の講演「子育ての真実」のDVDを拝見しました。笑いながら泣きました。見終えてこころがほっとしました。遠くに飛んでいた魂が戻ってきたような・・・。

 私自身、17歳を筆頭に3人の男の子のお母さん。思い当たることが多々あったからです。授乳期間は自由にならず、おっぱい・うんち・おしっこ・だっこ・またおっぱいの繰り返しで寝不足で24時間休みなし。うちの子とってもかわいいけど、正直しんどいなと思うこともありました。自分の生きている時間をこの子に捧げようと気持ちを切り替えたら、何かが変わりました。子どもの笑顔が神々しく思えました。些細ないろんなことがありがたく感じました。まさに損得勘定抜きの祈りの日々だったのですね。あの頃のなんともいえない幸福感は今でも私の中にしっかり残っています。たぶん子供たちの中にも。

 そして。「あ、これだ!」「沢山の助産師に聞いてほしい!」とすぐひらめきました。ながながとすみません・・・。講演のお願いをする動機でした。

 どうぞよろしくお願いします。

 

追伸

マサイ族の件は早速ためしてみました。大草原で夕日をながめるところを想像したら、訪問先のはじめまして♪の赤ちゃんは5秒ぐらいで泣き止みました。イライラした時に自分にも試してみたら、まあいいか!と気持ちが楽になりました。助産師の世界で流行らせようと思っています(笑)。先生の書かれたご本にも大変興味がわきましたので、さきほど注文しました。また泣かせていただきます。


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トルコ帰りの教え子さとちゃんが、最近、言いました。
日本に帰ってきて、親切を受けるのは殆ど女性からです。

男性が父親になっていないのだと思います

トルコでは10歳にもなれば、男は皆父親でした
すごいなあ、このコメント。直感的に理解出来ます。
それはもう「信頼関係ってなんですか?」ってだれかに質問された時に、私が「私がインドで質問した時に答えたセルバの顔」って答えてしまようなものなんですが、そんなこと言ったって普通はまったく答えにならない。でも共通の次元というか、コミュニケーションの共通項を持っていたり、体験したりしていると言葉自体よりもそのまわりが振動して理解出来る。
しかも「セルバの顔」に関しては、幸いなことに私はそれを映像で見せることが出来る。 http://youtu.be/h3OpPP_JY_g
不思議な人生と出会いのおかげ…。
つまり、コミュニケーションは本来論理性を越えるものなんですね。セルバという人間のこの一瞬を映像で見ることが出来れば、たとえば「信頼関係とは人間の美しさ」などという言葉も少し震え始める。人間は互いに表現しあうというか、相対性の中で生きているので、助産師さんたちとマサイ族の風景でつながることさえ可能になる。しかも、それは常時可能なのだ。(マサイ族の風景は、私が時々講演で言う、生後三ヶ月までの赤ん坊が泣き止むために存在する風景です。)
 もちろん多くの場合、信頼関係の斜め後ろぐらいには、必ず裏切りのようなものが居るし、見える。それがわかるだけに、なお一層人間は「美しさ」という物差しに還ってゆこうとするのかもしれない。もう少し言えば、ともに抱く不信感やともに抱く不安感もまた信頼関係を支える。夫婦でやる子育てなどは、男女がともに「オロオロする」体験から人間社会の土台が作られる、ということ。
 セルバの場合は大丈夫だった。セルバを美しくしていた親子の信頼関係は、ちゃんと引き継がれていた。私はそれをちゃんと確かめにいったし、またいつか確かめに行くだろう。人間社会の美しさの可能性を確認するために。切符を買い、シスターに電話すればいつでも行ける。こうした可能性をいくつか持つことはいい事だと思う。それこそが人生だと思う。