犬にはちゃんと法律ができたのに/詩の力
「生後56日までの子犬子猫、販売引き渡し禁止へ」
ペット店での幼い子犬や子猫の販売を規制する動物愛護法の改正を巡り、民主党は22日、生後56日(8週)まで販売目的の引き渡しを禁止する方針を固めた。
自民党や公明党などとともに改正案を提出し、今国会での成立を目指す。
ただし、ペット店に対する移行措置として、施行後3年間は規制を生後45日までに緩和する。その後も子犬や子猫を親から引き離すことについての悪影響が科学的に明確になるまでは、規制を生後49日までとする。
環境省によると、ペット店では年々、幼い犬や猫を販売する傾向が強まっており、動物愛護団体は「親から離す時期が早すぎると、かみ癖やほえ癖がつく」として規制強化を求めていた。
(読売新聞 2012年8月23日)
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寿命が人間より短い犬にとっての56日は、人間にしてみれば一年くらいになるのかもしれない。生まれて56日目の子犬は、もうちょこちょこ歩いていますから、ひょっとすると人間の2才くらいかもしれません。
人間の幼児にもしっかりこういう法律を作ってほしい。同じ哺乳類ですから。母子の愛着関係に関しては、三歳くらいまでは配慮する、と法律で決めてもおかしくないはず。
霊長類の親子の愛着関係はとてもデリケートで繊細なも、とチンパンジーの研究で知られるジェーン・グッデルも言っています。成長過程や生活習慣におけるちょっとしたバランスが崩れることによって、霊長類の暴力的行為、子ども虐待が、始まることがあるのです。ジェーンの場合、それは「餌付け」でした。観察をしやすくするために、野生のチンパンジーに餌付けをしたことで、ジェーンの研究した群れにだけ、小猿殺しや共食いが始まった可能性が強いのです。平等に餌をもらうこと、競争を無くすことによって、その遺伝子が何十万年に渡って育まれて来た「条件」が変わる。そして、それが突然いままで起きていなかった、種(群れ)の存続に関わるような負の行為に発展するのです。
もちろん簡単に比較するわけにはいかないのですが、国会で論議されたように、子犬に、親から早く引き離すことにによって「かみ癖やほえ癖」がつくのなら、75%の遺伝子を共有する人間にも似たような可能性があるかもしれない、そう考えるのは的を外していないと思います。最近、日本の保育園で、以前はなかった一歳児の噛みつきが不自然に増えている問題、そして、ほえ癖とは言いませんが、ひょっとして人間でいうところの「いじめ癖」が将来顕著になるのも、早くから親子を長時間離し過ぎるのがその一因かもしれない。
一歳で噛みつく子に、一人の保育士が一日10時間一週間、一対一つきっきりで保育すれば噛みつかなくなる。その時に対応しないと、4才、5才になってからでは遅い、と言われる園長先生もおられます。保育施設の普及から来る親子の愛着関係の不足は、やがて子どもたちが必ず入ってゆく学校教育を成り立たせなくするような気がしてなりません。
最近、学校の先生やPTAの役員のひとたちに講演したのですが、いじめの質、ということではここ五年くらいちょっと尋常ではないような気がすると、何人もの方が言われます。私も実際にいじめる子たちの顔つきを見て、異様さを感じることがあります。特別暴力的になっているというよりも、子どもたちの表情に、冷たさを感じるのです。
子犬に関する法律が現場の意見を反映し、与野党一致で法律として通り、なぜ人間の乳幼児の親との愛着関係を守る法律は提出されないのか。人間が豊かさという環境の変化の中で、本能(人間性)を忘れ、選挙とか民主主義、法律という、部族を超えたパワーゲームと経済活動が生んだ人工的なルールに判断を委ねようとしているのではないか。
(民主主義は、親が親らしい、人間が人間らしいという前提のもとにつくられています。同時に選挙権が成人(親)にしかない、という重大な欠陥を持っています。しゃべれない乳幼児が何を望んでいるか、願っているかイメージする想像力が欠けてくると、この制度はいまのままでは、人類の存在を揺るがすような負の連鎖、絆の崩壊に導きます。)
人間は、時々、動物や植物や大自然をよく観察し、自分たちの進化してゆく方向性を大自然の一部として考え、起こっている不自然な出来事を注意して見極めないと、結局自分で自分の首を絞めるようなことになってゆく気がします。
この報道を読んだ時、ふとインドの野良犬たちのことを思いだしました。インドでは、都会でも田舎でも、「飼い犬」はあまり見かけません。たぶん、犬を売り買いするひとたちは、人口の1%もいないかもしれない。
犬たちは人間社会と古い自然界の中間あたりをうろうろし、昼間は暑さと闘わずにぐったりと寝そべっている。そして、ときどき身の回りに昔からある人間社会と必要に応じて交流する。夜になると野生の血が騒ぐのか、元気に走り回ったり縄張り争いをしたりして、満月の晩などは遠吠えをしたりします。ふと思ったのです。この犬たちが今度日本の国会で審議され。通るであろう法律のことを知ったらなんと吠えるだろうか。ありがとう、と言うのか。
親犬の気持ちはどうなるんだ、と言われたら人類は応えようがない。
そのあたりまで想像力を働かせないとはっきり見えてこないではないか、と「動物会議」という児童書で主張したのは詩人で思想家のケストナーでした。
こちらからも必要に応じて私たちの母体である自然界の法則とは交流し続けなければいけません。
(国会で0増5減、定数削減、そんな些細な問題で大騒ぎするより、子犬の将来を心配してつくった法律を、人間の子どもにも適用するような法律をつくることの方がはるかに重要だということを、この国の政治家やマスコミはいつ理解するのでしょうか。)
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こんにちは。
今日、さいたま市在住の子育て中のお母さんから、メールが届きました。
子育てジャーナル(埼玉県私立幼稚園連合会が11万家庭に配っている機関誌)で、松居さんが書いて下さった私の詩を読み、泣いてしまったという内容でした。
第三者から見ればほほえましいような、でも当人にはとてもつらいのだろうと思える悩みがせつせつと綴られていました。
そして、最後は、メールを書いてすっきりしました、としめくくっていました。
私はこういうお母さんに詩を読んでほしかったんだ、ととても嬉しくなりました。
松居さんがあちこちで私の詩を広めてくださり、私のやりたかったことが実現できて本当にありがたいです。
ありがとうございます。
メールを送ってくれたお母さんは、同じようなお母さんにこの詩を広めたいと仰って下さいました。
小野 省子
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小野さんの詩二つ
自分のために
トイレのドアをたたく
よちよち歩きの小さな手
「ままーままーままー。どこーどこー?」
一分間だけ・・・ 耳をふさいだために
今日一日が・・・ 罪悪感で埋まる
ああ 不満や不安はこぼれ落ちて
手の平には 喜びだけが残りますように
涙やため息は結晶となって
胸の中で メダルのように輝きますように
子供のためだけに過ごした
今日一日の最後に
私は 自分のためだけにお祈りをした
姉弟
「幼稚園でもらっためずらしいおやつ、
こうちゃんにもあげたかったの」
お姉ちゃんがそっと小さな手を広げると
にぎりしめたワタアメが
カチカチにかたまっていた
「ひかりちゃんがいないと、つまんないわけじゃないよ
ただ、さびしいだけ」
私と二人だけの部屋で
弟は たどたどしくうったえた
人間は
かたわらにいる人を 愛さずにはいられない
幼い子供から それを教わる
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子どものためだけに過ごした一日。信じきってもらい、頼りきってもらい、最後に祈る一日は、私たちの魂を清めるのかもしれない。
「親心を育む会」著で、「一日保育士体験のすすめ」(大修館書店)が出ました。
「親心を育む会」のメンバー共著で、「一日保育士体験のすすめ」が大修館書店から出版されました。
高校の家庭科の先生たちに講演しました。
高等学校の家庭科の先生たちに講演しました。インドの村人の生活の中に、「わかちあう」という家庭の原点を見ます、というお話しをしたところ、シャクティのDVDを授業で使ってみたいとメールをいただきました。
(私の返信)
ありがとうございます。
http://kazumatsui.com/sakthi.html
ここに、解説が載っています。
私がこの作品で日本の高校生に伝えたいことは、だれが幸せそうか、だれが美しいか、それを理性ではなく感性で見極めてほしいのです。聴き分けてほしいのです。そんなに難しいことではないのです。なるべく体験に基づかない情報や既成概念に捕われないようにして、自分の感性を自然に開き解放し、そして判断する。次に、なぜ幸せなのか、どうすればいいのか、など自分自身の理性を使って考えてほしい。そうしているうちに、幸せと美しさが必ずしも一致するわけではないこと。幸せと楽しさ、幸せと豊かさが一致するものでないこと、を思い出してほしいのです。幼児期を過ごした彼らはもうすでに知っているはず。もう知っているということを思い出させてあげて下さい。
宮沢賢治、新美南吉、ローラ・インガルス・ワイルダーなどを読むといいのですが、ワイルダーの「長い冬」「はじめの四年間」などを読んで、家庭について絆について、ゆっくり考え、話し合うといいのです。
高校生でも、いい本を読み聴かせてあげるとずいぶん落ち着いてきます。耳を傾ける、という姿勢は社会に静けさを取り戻すのに一番いいのです。
そうやって、いい本の読み聞かせをしてあげたり、文章を書かせたり、幼児との体験を積み重ねたり、じっくり家庭科をやるには、週に4時間くらい必要ですね。
でも、それをやれば経済力を含めて日本をもう一度いい国に立て直すことは難しいことではないのですけれどね。
ひょっとすると、一番役に立つ、この国を救うかもしれない学科の時間が減らされてゆくのですから、悲しくなりますね。
いつになったら、気づくのでしょうね。
大切なことは、静けさの中で育つ、ということ。
http://www.youtube.com/watch?v=_uUnaHuViqk&feature=youtu.be
ここをクリックすると、シスターの新しい試み、第一回シャクティセンター・サマーキャンプに向かう子どもたちの映像が見えます。
ダリットの少女たちは、学校に行かせてもらえない場合が多いのです。労働力という側面も確かにありますが、それよりも母親たちが娘を守ろうとする意識の方が強い。学校の中での差別、そして行き帰りの道など、安全ではない、ということも大きな理由です。娘たちに何かあっても泣き寝入りするしかないのです。
サマーキャンプに向かう子どもたちの姿には、「こういう子どもたちに教えることが出来たらきっと毎日が幸せだろうな」と思わせる、学校の原点があります。「教えること」で先生たちが幸せを感じる。「教える側の幸福感」を基盤に、本来、伝承は成り立っていくのです。教える側の動機がなければ始まらない。教えることがある、のを知っているのは教える側だからです。
そして、子どもたちが、教え手を育てる、それが親子関係の本質です。シャクティセンターに向かう子たちのように、明るく、潔く、堂々とした表情が、そして草原を並んで歩く風景が、学校に命を吹き込むのです。この子たちは、貧しいけれど、とても「育ちがいい」感じがします。見事です。親心に育まれた、安心した表情です。まわりにその子の命に感謝し、その子に幸せにしてもらっている人間が数人いれば、そして常にその視点に見守られていれば、必ず子どもはこんな感じに育ちます。育て方ではないのです。育ち方、環境です。一組の親だけでつくりだせる環境ではない。子どもを見つめる目線が、感謝と憧れの目線だといいのです。
そして、シャクティセンターの先生たちはシャクティの踊り手たち。十代後半の、教職の免状もなければ教え方を教わった娘たちでもありません。でも、任せられるのです。村の生活の中で、特に娘たちの間に,いつの間にか「教え、教えられる関係」が育っている。
そして、たった8日間のサマーキャンプから生まれる「美」。それは技術を習ったのでもなく、情報を勉強したのでもなく、「意識」を身につけたのだと思います。家族、村、そしてシャクティセンターを包み込む人間たちの「信頼関係」が、たった8日間のサマーキャンプに、「真の学校」を映し出すのだと思います。
不思議なのは、シャクティセンターのサマーキャンプは、読み書きや人権の真ん中に「踊ること」があるのです。教えることの中心に「和」があるのです。日本の学校も、一日1時間は必ずみんなで輪になって踊る。そんな方向に、遺伝子から湧き出るような教育改革が出来たら、きっと日本は、以前のように絆で結ばれた美しい社会に戻るのだと思います。決して不可能なことではない。そういう視点を取り戻せないほどに、感性が鈍ってしまっているだけです。人間がシステムを作っているうちに、いつの間にか、システムが人間を作るようになってしまったのです。
省子さんの詩/理科の点数/自立
つながりのあるだれか(東日本大震災)
避難所をうつすテレビの画面に向かって
五歳の息子は叫んだのだ
母親にしがみつく 小さな男の子を指さして
「あれはぼくのお友達だよ!」
「違うよ。よく似ているけれど違う子だよ」
なだめる私に首をふり
以前公園で遊んだ、名前を知らないお友達だと
何度も悲しげに繰り返すのだった
「あれは僕のお友達だよ!
あれは僕のお友達だよ!」
繰り返しひびく息子の声が
私の心を小刻みにゆらす
そうかもしれない そうなのかもしれない、と
いつのまにかつぶやきながら
私は、まばたきもせずに
唇をかんだ
(解説:真実というものの領域が広ければ人間の思考能力、想像力、許容する力が育っていきます。母親が、事実や現実を離れた「真実」を子どもとの会話の中でひろげてゆく。こういう領域が子どもを中心に文化として存在した。それが昔話やおとぎ話、ピーターパンの中に見えるのです。「真実」を未来にとって必要なものにしていた。
こういう非論理的な理解力を体験する瞬間に育ってゆく人間の能力を、「子育て」の中に見ようとしないから、思考する力、想像する力、許容する力が減少してゆくのです。それを学校教育の責任にしているのですから、教育を取り巻く者たちは、人間が育つことの意味を理解していないように思えます。理科教育や応用力は、一才児が「噛みつく」という表現方法で主張をしはじめた時に、すでに衰え始めているのです。)
一人でできることが
「一人じゃなんにもできないくせに!」
そうののしった私を
幼いあなたは
決して忘れはしないでしょう
そして未来のあなたは私のことを
「一人じゃなんにもできない人だったのだ」と
そう思い出すでしょう
そうです
子供にそんなことを言う大人は
一人じゃなんにもできない人です
お母さんはそういう人でした
だけど あなたのおかげで
一人でできることが
一つずつ 一つずつ ふえていったよ
(解説:子育ての目的は、人間が一人では生きられないことを、双方向に、幸福感を持って自覚すること。自立なんていう言葉が、目標のように語られるようになったのも、幼稚園・保育園・学校という最近の仕組みが、子育てを人類から奪ったことにあるのでしょう。自立を目指せば、孤立し、絆は生まれない。自己責任は多くの場合自己嫌悪につながります。自己嫌悪が人間には致命的なのです。)
父親からの手紙/市場原理
2012年7月15日
保育はサービス産業ではない
新聞にいまの参議院を通るかもしれない、あぶないなあ、と思う法案が載っていました。消費税を通すための三党合意の中で、駆け引きに使われたのでしょうか。株式会社が認可保育園の条件を満たし、その地域に待機児童がいれば自治体は株式会社の認可申請を受理しなければならない、という法案でした。
当たり前だろう、と事情を知らない人は思うかもしれないこの法案の裏側に、いまの保育界を根底から揺さぶる、ひょっとするとこの国の「保育」「子育て」の概念を変えてしまうかもしれないせめぎ合いが見えます。
現在ある認可保育所の国基準は、心ある園長たちが「最低基準」と呼んでいる「最低」のもの。たとえば、保育士は三人に二人が資格を持っていればいい、というのが国基準ですが、多くの自治体で「11時間開所を可能にするために必要な2時間3時間のパートを除けば,基本的に全員資格を持っていること」を基準にしています。(東京都は逆に認証保育所という新たな仕組みを作り、三人に一人資格を持っていればいい、としています。)乳幼児に関しては国基準以上の保育士の加配を自治体主導で行っているところがまだたくさんあります。現場からの「いまの基準でもまだまだ足りない」という声に耳を傾けてきたからです。
加えて、法的に参入が可能な株式会社には確かに理不尽で不公平かもしれませんが、保育はなるべく社会福祉法人でと暗に決めている自治体もあります。これは、株式会社が入ってくると、親をサービスの相手、お客さんと考えることで、積極的に長時間預かったり、夕食を出したり、長い目で見ると子どもの幸せにはつながりそうもない市場原理がはたらくことを恐れているからです。そうした「保育・子育て」をめぐる意思表示も自治体に認可の権限があったからできました。これが取り払われると保育界における市場原理の参入を食い止めるのは、もはや市場原理しかない、ということになってくる。ちょっとややこしいことを言いましたが、なるべくわかりやすく説明してみます。
大学や専門学校の保育科で軒並み定員割れが起こっていて、幼稚園も含めてここまで保育者が足りない状況が蔓延している中、いま市場原理において勝ち負けを決めるのは、「保育者を確保した方が勝つ」という保育者の獲得競争です。すでに株式会社系はヘッドスタートしていて派遣会社もラジオに宣伝を打っています。学校ごとに急激な青田刈りが行われています。
保育園でハローワークに一人求人を出せば応募はゼロ、次の日に派遣会社から「うちから雇いませんか?」という電話がかかってくる、それが歪んだ現状なのです。保育はただ預かっていればいいという託児ではない。小学校の先生が半年ごとに変わる派遣会社の職員だったら社会問題になるはず。乳幼児期に子どもが育つ環境が、将来のこの国の経済や安心感を支えるのだということはちょっと考えればわかるはず。派遣や短時間のパートで回していく保育では将来この国を支えきれないのです。
確かにいままでの保育界は、社会福祉法人という一つの利権の上にあぐらをかいていた側面がありました。だからこそ、「子ども・子育て新システム」の議論の中で保育界が一体になれなかった。子どもの生活が第一と、考えれば幼稚園の団体と保育園の団体が一体になって反対することだって出来たはず。いま保育が市場原理に取り込まれようとしている時に、保育界が先頭に立って「子どものため」「子ども優先」と言わなければいけないのに、それができていないのは保育界が保育業界でもあった証でもあります。だから私もいまのままでいい、とは思いません。しかし、いまこの時点で、保育へのビジネスの参入を許すのであれば、「待機児童は、購買意欲を煽るように、意図的に増やすことができる」ということ。そしてもう一つ、「幼児とつきあうことで、人間社会にモラル・秩序、絆が生まれる。一緒に育てることが夫婦、そして社会に信頼関係を生む」この2点だけはしっかり肝に銘じておいてほしいと思うのです。
子育ての社会化は男女間の信頼関係を希薄にし、真の意味での男女共同参画社会を崩してゆきます。
人間は一人では生きられない、というメッセージを幼児たちからもらい続けることが人間という種の進化の根幹にあったのです。
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幼稚園のキモチ(子どもの居場所新事情)という新聞記事の見出しに「共働きも(幼稚園に)預けたい国に」「教育も保育も進化型続々」「教育の場、なお変革に壁」といった言葉が踊ります。いまの保育・教育、子どもたちを囲む現状を考えると、30年前に比べ良くなっているとは思えません。「進化」「変革」という言葉が、実は子ども主体から親主体、心主体から経済主体の道を進んでいることは「預けたい国に」という見出しに現れています。それがいかに不自然かということになぜ気づかないのか。
ーーーーーーーーーー父親からの手紙ーーーーーーーーーーー
松居様
昨日、講演を聞いた者です。
何か、表現し難いものに興奮し、また感動し、寝付けずにいます。
結論から言えば。
子供を持ち、親になったことで得られたことがあると強く感じます。
今年35歳になりますが、まだ独身でいる友達が両手に余ります。
正に非論理的盛りの2歳児を育てながら、今、ここに、幸せが手の中にあるような、、、
目に見えない形のないものを実感しています。
独身の頃には、時間もお金も好きなように使えて(自由にとは言いませんが)、それが結婚したら。
この時代の夫は、家事を手伝い、小遣いは十分の一、
輪を掛けて休みの日には子供の面倒を見なくては、しなくてはならない。
子供が生まれて1年半で、10キロ吸い取られるように痩せました。
この話をすると、現在50代のお父さんたちは、「時代が違う」と後悔か懺悔かをにじませ言います。
それでも、この不自由の中にも確かに幸せを感じられました。
先生のような悟りや確信を得られた訳ではありませんが。
一番強く思ったのは、「俺もこうだったのかな」と。
長年父親に対して様々な思いを感じたことが浄化したような。
俺の親父も、こうやっておむつを替えて、チンチンに付いたうんこを拭いてくれてたのかなと。
刺し違えてでも母と妹を守る、とさえ思ったことのある親父のことを、自分勝手に理解し合えたような、不思議な満ちた感覚を得ました。
何か大きなものをもらった時に、自分も何か言い返したいというか、訴えたいというか、言いたいことを言っている人は、エネルギーに満ちているし、若く見える。先生もそんな感じでした。
そんなまとまらないお礼を言いたいと思ってメールしました。
p.s. 仕事が多少忙しいですが、9月に一日保育します。
ーーーーーーーーー保育士からの手紙ーーーーーーーーーー
松居先生、ご無沙汰しております。お元気でいらっしゃいますか?
6月18日より、1日保育士体験を始めました。まだ、3人の方の実施ですが、その方々のご意見は、まさに先生がおっしゃっていたとおりでした。
どのかたにも、5歳児の子どもに読み聞かせをしてもらっていますが、それも大好評です。保育士も体験の保護者が来られると、嬉しいですし、子ども達は大喜びです。先日、理事が様子を見に来られました。(先生とお食事をご一緒したときに先生の向かいに座られた華奢な方です)市をあげて実施する方向へもって行きたいと後押ししてくださっています。
そこで、先生にご相談なのですが、公立保育所の職員対象で研修をお願い出来ないでしょうか?そして、誠に情けないのですが、交通費が出ませんので、先生が西日本方面へ来られるような時に、西宮に寄っていただけるようなスケジュールの時はありませんでしょうか?いつもいつも、無理を言ってすみません。また、お返事を待っています。よろしくお願いいたします。
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去年の11月のフジテレビ朝の番組で、主に0歳児の保育園における過密状態の報道がされていました。
番組が、100名の保育士たちに意見を聴こうとしたところ、1200名から回答があったと言うのです。ここに、現場の状況を一番良く知る保育士たちの叫びがあります。それを聴いてほしい。自分で、言葉で話すことができない子どもたちに毎日接している保育士たちの叫びは、子どもたちの叫びでもあるのです。過密は噛み付きにつながる状況もちゃんと語られていました。
最後に女性のコメンテーターが「若い母親たちはそれでも頑張っている」と言って、まとめられてしまいましたが、子どものために一生懸命発言してくれるのは結局保育士たちだけのようです。
ある大臣は「子育ては専門家に任せとけばいいのよ」と言う。そして、「あなたたちが365日保育園を開けとかないから、女性が働けないのよ」と保育団体の理事に向かって言うのです。
ある役人は「閣議決定されたらしかたないでしょう。内閣を選んだのは国民じゃないですか」と私に言うのです。
起業家は「市場原理を導入すればサービスは向上する。保育所で夕食を出せばいいのに、役所がそれを止めようとする」と文句を言います。この場合のサービスは、親に対するサービスです。夕食は、出せばいいというものではない。わかちあう、食卓を囲む、料理をする、待ち望む、様々な行為が人間関係を育てるためにあるのです。
サービス産業として保育に目をつけ、ビジネスを始めた創業者が新聞のインタビューに答えて言います。一年目は保育士の離職率が5割だったのを2割にまで減らしました、と自慢げです。株主や経営者の心を持ったひとたちは、それはなかなか良くやったと思うのでしょう。しかし、保育の現場を知るひとたちは思うのです。「離職率が5割だった時も、子どもたちは一生に一回きりの大切な一年をそこで過ごしていたんだ」。5割の保育士が子どもを置いて離職する環境、それがどういうものなのか、親たちは、知らずに「頑張って」いたのでしょうか。
未満児は報告が出来ない。保育は見えない部分に存在するのです。想像するしかないのです。
船中八策(私流)/子ども中心に
の報告でした。時間以内に済ませるためでしょう、泣いている子どもの口に保育士が食べ物を押しこみ続ける、可哀想で見ていられない。そんな園で、親に渡すアルバム用に写真を撮ってくれと依頼される。もともと感性で仕事をしている人間が悪意のない利害関係のなかでこの光景を見せられる。シャッターを切るべきなのか、そうでないのか。
誰が育てた子なのでしょう
都内の小学校のPTAで講演しました。講演後に、どうしても、と個人的に質問をされた方が数人いました。
小学校の低学年の子どもがいるということは、結婚して十数年、子育てして7、8年、この時期の悩みは深刻です。問題があると、それがそろそろ固定化してきていて、しかも解決方法がわからない。相談相手がいない。家庭内で起こる人間の心の様々なひずみやすれ違いが、DVや児童虐待に進んでいることもあります。心療内科が認知され、母親が向精神薬を飲むケースも増えています。「子はかすがい」ではなく「子育てがかすがい」だったのに、様々な理由で充分に一緒に子育てを体験しなかった夫婦関係にほころびが見え始めるのがこの頃です。
一緒に子どもを眺める時間の大切さに気づかなかったこともありますが、父親が乳児に人間らしく育ててもらえなかったことが第一の原因でしょう。父親が子どもを授かって最初の三年間、毎日5分でも赤ん坊を抱いていれば、自分を信じきって頼りきって生きている命を実感していれば、ずいぶん一家の人生が違っていたはずです。
子育ては,人間たちがお互いを眺め合い信頼し相談相手をつくるためにある。男性と女性、若者と年寄りが心をひとつにするためにあるのです。
経済界がこの点に気づいて真剣に対策を考えないと何をやってもこの国の活力は戻ってこないでしょう。小さい頃、自分が育った時に見ていた父親が生き生きしていなかったのでしょう。20代の男たちが結婚しなくなってきている。男たちが家庭に魅力を感じなくなっているのです。
学校教育においても、自立とか夢(欲)を持つことを奨励するよりも、人間は自分のためにはなかなか頑張れない、誰かのためなら頑張れる、そして利害関係のない絆を持つことの大切さ、そういう原点のことをもう一度しっかり考え、子どもたちに教える必要があります。自立は孤立につながってゆく。そして福祉はやがて行き詰まる。
PTAで講演したあとのこと。
ドキッとするのは、「そんなことをあかの他人の私に尋ねてもわかるはずがない、返事のしようがない」種類の質問を母親から受ける時です。
カウンセラー、専門家、相談員なら平気で答えるのでしょう。プロですから。仕事ですから。わかりもしないことでも、彼らは一応答えるのです。
一緒に祈りましょう、とは絶対に言わない。
専門家が増えると社会に絆が薄れ薬物依存が始まり犯罪が急増する。
アメリカは、学校のカウンセラーが生徒にすすめる薬物でかろうじて画一教育を維持し教師の精神的健康を保とうとしています。背後には製薬会社の利権が見え隠れします。学校がきっかけで始まる薬物依存が麻薬やアルコール依存症につながってゆく、そんな分析は15年前にアメリカで終わっています。それでもなぜ欧米が薬物依存から抜けられないのか。社会の動きを決定する意識に「相談相手をつくろうとする方向性」が欠け始めている。
相談相手をつくろうとする意識の中心にあったのが「子育て」です。子育てを幼稚園・保育園・学校が肩代わりすればするほど、絆をつくる力が社会から消えていきます。
人生は相談相手がいるかいないかが鍵です。相談相手から良い答えが返ってくるかどうかはではないのです。
小中学生の親たちの一部に、0歳1歳2歳児とつきあっていれば育っているはずの感性や想像力、「祈り」という次元も含めて、コミュニケーション能力が著しく欠けている。客観的に見れば軽度の発達障害ととられても仕方がない程度まで進んいる。
(大切な部分なので繰り返しますが、人間は全員なんらかの発達障害で、それを補い合うこと、補い合って人間関係をパズルのように組んでゆくことに幸せを感じてきたのです。その補い合う能力を、非論理的で理不尽な0、1、2歳児とゆっくりつきあうことで身につけてきたのです。補い合う力と意思が希薄になるばなるほど、本来誰でもが持っている発達障害的要素が、人間関係、「絆」や「縁」を育ててゆくための「障害」になってくるのです。)
一人の母親が聴くのです。
小2の子どもがどうしても言うことを聞いてくれない。学校から帰ったら宿題をやる、とか、色々ルールを作ってきちんと守らせようとしているのに、嫌だ、という。なぜだかわからない。なぜなんですか?
母親は、落ち着いて丁寧に説明します。
「どうしていいかわからない」と言う以前に、「なぜだかわからない」と言うのです。
子育てをしながら、いまだに論理性で考えているのです。
0、1,2歳とつきあっていれば、とっくに飛び越えているはずの壁です。人間は多くの思うようにならない者(物)(事)との関係性の中で生きている。じつは、「なぜだかわからない」ことに囲まれて生きているのです。突然地震が起こったり、洪水や干ばつがあったりします。それが人生であって、宇宙であって自分はその一部に過ぎないことを学びます。私はそれを0、1,2歳とつきあうことで幸せを伴いながら学ぶのが一番いいのではないか、と言っているわけです。
そして、その宇宙の一部でしかない自分が全てと関係性をもっているということをいつか理解し、全体と一部が同一だ、という感覚まで進もうとする。ここまで来ると、ほぼ昔仏教の原点になったウパニシャッド哲学みたいなことになってしましますが…、簡単に言うと、水を汲んで運んでくるという作業がないと、水との関係性が希薄になってくるのと似ています。(『簡単ではないですね。すみません。』)
理性的に見えるお母さんの真面目な相談でした。
聴けば、0歳から子どもを保育園に預けたそうです。
私には、その子を育てた園がどんな園かわからない、育てた人がどんな保育士だったかわからない。その子を担当した保育士は五年間に十人はいたでしょう。8時間以上預ければ必ず一日二人以上。そして、毎年担当が代わるでしょう。乳幼児の時、担当制だったのか複数担任制だったのかさえもお母さんは知りませんでした。
父親は仕事に忙しく週末も子どもの相手をしようとしなかった。いまになって夫に相談しても、母親の責任だろう、と言われる。そして、講師の私にたずねるのです。「なぜですか?」と。
たぶん、その子がどういう育てられ方、育ち方をしたのかを知る人は地球上に一人もいないのです。つまり、このお母さんには、確かな「相談相手」が現在一人もいないのです。(神様か仏様にでも相談していればまだなんとかなったはずですし、なるはずです…。)そのことに本人が気づかなければどうしようもない。子育ては、育てる側にコミュニケーション能力がどう育つか、育てる側にどう絆が生まれるか、が第一の目標であって、子どもがどう育つか、はその後に来るのです。
(専門家は専門家の振りをする専門家。ラジオの子育て相談番組を聞いていればわかります。顔を見ないで、子育てについて電話で相談、というのは乱暴でしょう。「専門家」だったらしてはいけないこと。医療的な知識など役立つこともありますが。)
その場のお母さんの雰囲気から判断し、これから自分が自分の相談相手になれるように、まず子どものわがままを全部受け入れるところから再出発するのがいいかもしれませんね、と話をしました。祈るような気持ちで。
そうすれば、理性ではなく感性が蘇ってくるかもしれません。
あきらめ、でもいいのです。それも大切で、確かな出発点なのです。
もちろん、そのまま、特別なにもしなくても子どもは育って行きます。子育てや人生に正解はありませんし、決まっている道筋もありません。親が子どもを心配する気持ちさえあれば道はつながるでしょう。そして、このお母さんにはそれがあります。無関心にさえならずにオロオロと時間をかければ状況は必ずいい方向に変わっていくものです。
運良く,子どもが学校や塾で信頼できる大人に出会うかもしれない。ある歌手の唄っている歌の詩や、一曲の音楽、一遍の小説、一本の映画が子どもの感性を揺さぶるかもしれない。事故や事件、天災、異常に悲しい体験や苦しみが突然視点を変化させ強い絆が生まれる可能性だってあるのです。わざわざ残って私に相談して来るような親はまず大丈夫なのです。
(当分変わらないのはその父親くらいでしょう。だから、私は父親の一日保育者体験を早目に、と園をまわって薦めるのです。)
子育ては、親子という選択肢のない関係にある人間たちが時間をかけ試行錯誤を繰り返し、絆を少しずつまわりに増やしながら、たがいに育て育ちあうのが基本です。
「選択肢がないこと、逃げられないこと」が重要な条件でした。
利便性に支えられたシステム(福祉,サービス産業)と体験に基づかない言葉(学問、知識)に支配され、多くの人間が、その大切な条件を放棄してしまう。それが、義務教育が普及した後の現代社会の欠陥です。
そのお母さんが真面目で良さそうな人だっただけに、可哀想だな、と思いました。しばらくすると目に涙を浮かべ、「0歳で子どもをあずけた時には深くは考えなかった、そのときの流れでそうなったんです」のです、と言うのです。
話を聴きながら、「その子の乳幼児期に関わった、責任を少しでもわかちあう相談相手が一人でもいれば、いまこの人の心持ちはずいぶん違うのだけれど」とふたたび思いました。夫でも、祖父母でも,園長でも、ママ友でも良かった。人生はちょっとした出会い、運で変わってくるのです。
いまだに言葉というコミュニケーションレベルで解決すると思っているこのお母さんの勘違いを目の当たりにすると、心の絆に欠ける社会で起こりがちな不運としか言い様がありません。
子育てと自分の人生
新聞に載っていたのですが、「子育ても大事だけど,自分の人生も大切にしたい」、◯か×か、という調査が民間企業によってされていました。こういう手法は良くない。入ってくる活字の情報を素直に受け入れてしまう若者たちがこういう設問に簡単にひっかかるのです。
「自分の人生を大切にしたくない」人なんていません。
「子育てをしていると」それが、出来ないなら、人類はたぶん二万五千年前に滅んでいます。
自分の人生は家族の人生でもある、と時間を重ね合わせて考えた方がより安全で安心で快適でしょう。
自分の人生を大切にすることが、幼い子どもを十時間保育園にあずけて働き続けることだと判断する人がいたってもちろんいいです。ただ、経済競争に多くの人たちを引き込むことによって利益を得ようとしている人たちがしかける強者のトリックにひっかからないように気をつけてほしいと願います。経済競争は一部の勝者しか生まない。そこにギャンブル的な妙な魅力が潜んでいるのです。子育てはその場の損得勘定で計るものではないし、実はたぶんに損得勘定を捨てるところから始まる。
これは中々対照的な二つの選択肢です。
決める時にくれぐれも子育てを面倒なもの、専門家に任せておけばいいもの、とは思わないでほしい。なぜなら「その時期」は二度と取り戻せない特別な時間だからです。そして、絶対に忘れてはならないのは、乳児を十時間も他人に、しかもよく知らない人にあずけることは、人類の歴史上あり得なかったことだということ。
こうしたアンケートや新聞雑誌の見出しに影響され、人生を「大切にしてみて」10年たって、何を大切にしてきたのかわからないまま、気づいた時には子どもは10歳になっている。子どもがどういう風に育ってきたかさえ知らない。わからない。そうならないよう子育てと大切な人生を同一視する人たちの話にも耳を傾けてから決断してもらいたいのです。保育園という仕組みが出来るまで、ほとんどの人間たちが何万年も共有してきた特別な人生の体験を本当に放棄してもいいのかどうか、自分の感性と理性で考えてほしいのです。
一度失ってしまうと、幼児という不思議なメッセンジャーたちと過ごす人生の魔法の時間は取り戻せない。孫が出来るまで待つしかない。運よく孫を授かれば、のはなしですが。(「保育園に毎日十時間も何年も預けられた子どもは、結婚や子どもを育てることに何の魅力も感じないから、まず結婚したがらないし、子どもを産んでもそれでイライラするようになりますよ」「そういう子は年とった親の面倒なんか見ないし、生きる力が育ちませんよ」とおっしゃる保育園の園長先生だっているのです。)
しかし、埼玉県では子どもを保育園に預ける親は27%ですから、この時間はやはり人々を魅きつけるのだと思います。幼児と過ごす時間に魅かれるのは、人間の本能だと思います。
もう二十年も前に書いたアメリカにおけるベトナム難民のことを思い出したので引用します。
「十数年前、ロサンゼルスの公立高校を成績優秀者で卒業する子ども達に、ベトナム難民の子どもが異常に多い、という報告がされました。数年前まで英語も満足に喋れなかった難民の子ども達が、20%の非識字率を出すアメリカの公立学校を、成績優秀で次々に卒業して行くのです。アジア系の子どもは一般に勉強が出来ます。アイビーリーグなどは既に四人に一人がアジア系の学生だと言われています。これは別に頭が特別良いわけではなく、家庭がしっかりしているからなのですが、その中でもなぜベトナム難民の子どもに偏ったか。ベトナム難民の親子は、戦争、難民という辛い体験を親子で乗り越えてきた人達です。親子で苦労したことによって家族の絆が非常に強くなっている。。「言葉」というのは人間関係によって質も重さも変わってきます。ベトナム難民の親が言う「勉強しなさい、頑張りなさい」という言葉は、普通の親が言う言葉よりはるかに重みがあるのです。そして、ここでもう一つ見過ごしてはならないのは、子どもが親の言うことをある程度無条件に受け入れる親子関係があれば、アメリカの学校が今のままでも機能する、ということなのです。」
「家庭崩壊・学級崩壊・学校崩壊」より。
船中八策
いなかの田んぼのなかの公立保育園で講演しました。いいことをしようと思った町長が四つある公立園に看護士を一人ずつ配置してしまったのです。
職員室で看護士がため息まじりに言うのです。「私がここにいるから、園で子どもが熱を出しても親が迎えにこない。来ようとしない」
病気に素人の自分が会社に頭を下げて迎えに行って連れて帰るより、看護士がいる保育園に置いておいた方がいいでしょう、という理屈です。正論です。ただし、熱を出している「子どもの気持ち」が親に見えない。看護士さんが心配するのはそこです。理性が支配し、感性が育っていない。
最近の子どもたちが、登園時に熱を下げるために親が貯めている薬で抗生物質漬けになっている、ひょっとして男の子の草食系化はこのあたりに原因があるのでは、という「不都合な真実」について話していたときです。看護士さんが怒って言います。
「小児科でもらってくる薬だったら、まだいいです。最近の親は内科で抗生物質をもらってくるんですよ。内科。しかも、それをちゃんと私に言わないから怖い」
薬事法違反みたいなことを、子どもを保育園に置いてゆくための手法、手段として、親たちが気軽にするようになってしまった。田んぼに囲まれた田園風景のなかで。
「私が、ここにいないほうがいいんです」
待機児童もいない田舎の町で、大人の都合で子どもたちがわけもわからずに薬を口にする。親を信じて口に入れる。それが小児科でもらった薬でないことが、この国の何かを決定してゆくことを看護師は知っている。だから怒っているのです。子育ては専門家に任せておけばいいのよ、と言った厚生労働大臣の声が遠くで聞こえます。
看護士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いが、やがて、保育士の「私が、いないほうがいいんだ」という思いになり、それがいつか子どもたちの「いないほうがいいんだ」という声につながってゆく気がしてなりません。
私たちから、自分一人では気づきようがなかった掛け値なしの自分を引き出してくれる不思議な人たちを、こんな風に騙していいわけがない。
保育者が不足しています。公立の正規採用でもないかぎり、ハローワークに募集を出しても、一人応募してくるかこないか、というのが全国的な現実です。あぶないな、大丈夫かな、と思ってもとりあえず雇うしかない。ひやっとする出来事が増えています。雇ってから、しまった、と思っても解雇するのはなかなか大変です。
その保育士のせいではなく、資格を取る前にふるいにかけられなけばいけなかったケースが増えています。この仕事に
は向いていない性格の人がいるのです。こういう人を解雇するのは本当に気まずいのです。園長主任の心労がたまってゆきます。
特定の保育士に怯える子どもたち。
(保育士を募集したときに、1.5倍くらいの倍率が出るようにしなければ、保育の質は保てません。そこに居てはいけない人を排除することさえできません。大学や専門学校の保育科が軒並み定員割れを起こしています。願書を出せば全員国家資格をとる。有資格者の質が急速に悪くなっているのです。教師の非正規雇用が時給二千六百円なのに保育士は八百五十円、九百円でやっています。その保育士たちに私は、子どもたちのために親子関係にまで踏み込んで下さいとお願いして歩いているのです。告示化された法律、保育指針にもそれが保育園の役割と書いてあるのです。)
待遇面での改善がすぐに望めないなら、状況を変えるために、まず第一歩として親たちが保育園に感謝してほしい、というと、何言ってんだ当然の権利なんだよ、と笑う親がいるのです。彼らは、保育界が保育士不足で危険水域に入っていることを知っているのだろうか。それは国の責任だ、と言っても良い保育士たちは戻って来ない。
(私は、新刊「なぜ、私たちは0歳児を授かるのか」に、4年前「保育士やめるか,良心捨てるか」という章を書きました。それが、いま起こっていることなのです。)
親心を育む会/覚悟の伝承
2012年6月
月に一度、もう四年熊谷市のなでしこ保育園で集まっている「親心を育む会」で、ときどき若手保育士お悩み相談会をやります。若手保育士が班ごとに分かれて他園の園長先生主任さんに保育の悩みを相談します。他の園ではどうやっているか、おたがいにお知恵を拝借するのです。私はその日、会の重鎮門倉先生の班に入ろうか、若手論客で恐れ知らずの高木先生のところにしようか、北の魔女の園部先生にしようか迷ったあげく、保育界のチャネラー大島先生の班に加わりました。(大島先生は園長で、実はまったくチャネラーではないのですが、なんとなくそんな感じがするので私が勝手にそう呼んでいるのです。衆議院の委員会で発言した時も後ろに座ってもらいました。)

http://www.youtube.com/watch?v=uiTxamfg6iM (衆議院の委員会で)

Dear Kazu San
How are you? How is Yoko San and our Maharaja Ryo .
Convey our regards to them. We can understand your busy schedule and
your inability to come to India. Thank you very much for the photo.
We are doing well. We had our summer camp with 250 children.
Also this year we had arranged three days seminar for the youth.
During this summer we happened to be very busy with our camp, seminar,
As usual Folk arts training took place for a week and 16 performances we had.
This summer was very hot. But we some how managed the whole thing.
Looking back we feel very happy about the way we each one worked hard.
Our girl Uthirai selvi’s wedding today. Please do remember her in your prayers.
She is from a very poor family. No father. She has only her mother and grand mother
with her. She asked me to inform you. She needs your prayers and blessings.
With much love
Sr.Chandra
公聴会を終えて
先週、衆議院の社会保障と税の一体化特別委員会の公聴会で発言した反響が届いています。15分という限られた時間であっても、小野省子さんの詩を読んで良かったと思います。問題は制度を決める上で、この次元「生きている実感」が欠けていることなのですから。
私が様々なことを教わった園長先生たちの思い、そして幼児たちが園長先生たちに伝えた意識、詩を書く母の思いと発見、そしてアメリカだけでなく世界中で小さな子たちが叫んでいる人間たちを育てたいという叫びが一体になって私をしゃべらせたのだと思いたい。私は伝令役です。あそこに座っていた政治家たちはその思いと叫びを確かに聴いたのです。もう知らなかったとは言えないはず。
数日後、私は奇跡的な偶然が重なり、ずっと以前から尊敬している保育士の悲痛な叫びを聴きました。現場で起こる他の保育士たちの子どもたちに対する良くない扱いと、それを見るに見かねて指摘した時の保育指針も読んでいない子育て支援課長の対応に、とうとう精神のバランスを崩した同志の涙を見ました。これからなのです。現場も役場も政治家もあらゆる次元で立て直しが必要なのです。
保育界の意識と子育てに関わる制度の立て直しがいまどれほどこの国にとって大切か、政治家もマスコミも理解してほしい。この国の魂のインフラを支える、一番大切な施策を幼児の、特に三歳未満児の幸せを中心にしっかり作ってほしいのです。しゃべれない者たちの思いを優先し想像して進めば人間はだいじょうぶ。その想像力が自浄作用になるからです。
二十年先のことを考えるなら、子育てと保育の状況を整えずに経済について語るなど馬鹿げています。
幼稚園と保育園、私立と公立、ビジネスと子育て、権利と利権、福祉と教育、関心と無関心、祈りと仕事、そして男と女、こうした様々な要素と次元が絡み合って保育界は成り立っています。そして、確かにある一定の規則をもった制度の下に、子どもたち、親たち、保育者たちの心と意識が何かを求めて動いてゆくのです。
茅野でいいはなしを聴きました。保育者体験をした中学生が父親に幼児との嬉しかった体験を話したのです。その表情と心に感動したのでしょう、父親が夜電気もほとんど消えた役場の子育て支援課に感謝を伝えに来たのです。
「幼児が中学生を育て、中学生が父親を育てる。そして、父親が子育て支援課を育てているのですね」と係長が私に話してくれました。
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突然のメール失礼いたします。
本日の衆議院特別委員会の公聴会を拝聴し、どうしても一言申し上げたく、メールさせていただきました。
私は、子ども子育て新システムの検討経過や子ども子育て関連法案の審議をある程度近くで詳しく追っておりましたが、ずっと物凄い違和感が拭えずにいました。それは、本当の「チルドレンファースト」は幼い子どもと親が一緒にいること、それが実現できるように働き方や社会の在り方を変えていくことであるはずなのに、その理屈抜きの大切さがほとんど議論されないまま、ここまで来てしまったと考えていたからです。
本日、松居先生のお話を伺い、自分はこういう議論が聞きたかったのだと実感いたしました。公聴会の性質上、待機児童の解消や保育への株式会社参入などに質疑が集中してしまいましたが、政府と議員の方々にはここに至るまでに何よりもまず、親と子の在り方について十分に議論していただきたかったです。
赤ちゃんや小さい子というのは、そこにいるだけでこちらを幸せにしてくれる凄い存在だと思います。
私は結婚も出産もまだ経験したことはなく、幼稚園や保育所、政党や各種団体などの関係者ですらありません。まずは先生の御著書を読ませていただこうと思っておりますが、こうした将来の親予備軍のような者にも御講演を伺う機会があれば嬉しいです。
このような自分の感想を有識者の方にお送りすることが滅多にないため、乱筆乱文お許し下さいませ。
公聴会で貴重なご意見を述べていただき、どうもありがとうございました。
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私、先生のお話し聞いていてなぜか涙がでるんですよね。
実は母も一時期つらい母子家庭時代をすごし、私たちを育てましたから
私も小さいころの肌そのままでわかってるんです。
細胞のすみずみにしっかり残っています。
子どもは母1人だけじゃ育てられない。母も子もたくさんのあたたかい愛に囲まれてなきゃって。
そんなことを想いながら聴かせていただきました。
政治家の皆さんはいろんな保育の現場や生き生きしたいのちの現場を
いい環境のところもそうでないところも1日体験されたらいいのに。
見学じゃだめです。1日いっしょに泣いたり笑ったり生活するのです。
そうしたら今の子どもたちに、家庭に、地域に、何が必要かすてきな答えがみつかるはず。
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貴重な持ち時間を私の詩のために割いて下さいまして、ありがとうございました。
わが子の小学校や、仕事先の幼稚園で、小さな子どもをもつ親御さんと話し合う機会が多い日々です。
親として育っていく大切さを日々感じています。
小野
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これを機会に少しでも政府の意識が変わりよい方向に向かって欲しいと
願うばかりです。
最後の詩の朗読の部分では、夫婦して涙しておりました。
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http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=41883&media_type=fp
公聴会の映像が衆議院のホームページに載っています。
国会ではじめての公述人をしました。
週末、エルミタージュ展を見たあと、石垣島のみよし保育園の宮良先生が上野の不忍池の野外音楽堂で旗を持って石垣の祭りの再現をするというので雨の中見に行きました。いつも石垣島ではお世話になっているので、旗が倒れないかとひやひやしながら一家で応援しました。旗の先から二本ある綱の一つを先生が持って、倒れないようにひっぱるのですが、かなり危ない感じもしました。登場したミルク(弥勒菩薩)さんに、いくつかお願い事をしました。
(衆議院特別委員会で公述人として話した映像が以下のアドレスで見ることができます。
最初15分話したあと、質疑応答もありました。質疑応答のところでは、もう少し具体的な内容で説明することができたと思います。やはりちょっと緊張して早口になりました。保育界の人たちには喜んでもらえました。もう少し、奏でようと思ったのですが、修行が足りません。)
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=41883&media_type=fp