幼児の姿・聖書から、そして仏教も・政府によって作られた保育新時代の悩み・就労支援か子育て支援か・一ヶ月遅れの謝恩会

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幼児と聖書、そして仏教も(人間は幼児をどう見るのか)

「幼な児(おさなご)のような心にならねば。天国には入れません」

「幼な児(おさなご)を受け入れることは、神を受け入れることです」

そして、「裕福なものが天国に入るのは、とても難しい」

どれもイエスの言葉だと言われています。

一つ目の言葉を、私は、子どものころに聖書カルタで覚えました。子ども用のカルタになるくらいですから、キリストの教えの中でも、重要なフレーズなのだと思います。

二つ目は、もっと率直に「幼児の存在意義」を表しています。この思いと認識で、人間社会は成り立つはず。そして人類は存続し、進化してきた。三つ目は「貧しきものは幸いなれ」という言葉でも表されます。

聖書に書かれているこうした言葉を2000年以上、人々は生きる指針にしてきた。今や世界中にくさんいる、経済競争への参加を薦め、豊かになることを目標とする種類の経済学者たちは、きっと「聖書は神話に過ぎない」と言うのかもしれない。三歳児神話は神話に過ぎないと、以前誰かが言ったみたいに。

しかし、神話であっても、ことわざであっても、そこに幸せになるための、人間たちが世代を越えて絆をつないで行ける「鍵」が存在するから、多くの人たちが、そうした言葉を生きるよりどころにしてきたのだと思います。

生きる指針が不透明になってきているこういう時代だからこそ、神話にこそ真実があるのではないか、と考え始めてほしい。

仏教の方は、もっと端的に教えの中で「欲を捨てること」を薦めます。そうすることで人間は執着から解放され、宇宙と一体になるというのです。「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」がシリーズになるくらいですから、日本という国は伝統的にこのやり方を愛し、信じてきた。そして、それが親心と重なっていた。親になることは、損得勘定を捨てること。そこに生きがいを感じること。「愛国心」を言う政治家たちは、まずそのことを思い出してほしい。この国の伝統文化や宗教的幸福論にもう一度丁寧に、慎重に耳を傾けてほしい。人類にとって、とても大切な「何か」がそこにあると思うのです。

お経を勉強するよりも子どもと遊ぶ時を大切にした良寛さま。幼児の中に仏性を見たのでしょう。人間が求める、生き生きとした美しい人間の姿が一番に顕れるのが幼児たちの遊ぶ姿なのです。

人は何のために生きるのか、それを考えさせ、幸せでいるために生きる、と教え続けるのが無心に遊んでいる幼児たちの姿なのでしょう。

 

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子どもと一緒にいるとイライラする、と言う親が時々います。(マスコミなどは、そう決めつけるような報道の仕方をします。)イライラしなければいいでしょう、と言うしかない。それが成長で、人間としての修行です。幸福を得るために自分を変えていけばいいのですが、こういう簡単なことを教えてもらっていない。修行が苦手ならば絆をつくればいいのです。自立なんて目指すよりよほど簡単で自然です。子育ては育てる人間たちの信頼と絆を生むためにある。子育てという最善の機会を与えられながら友達や相談相手をつくることをサボっていると、自分に嫌気がさし、イライラしてくる。子どもにイライラしているのではなく、自分にイライラしているのです。

そして、子どもがイライラしている、と親が私に言うのです。親のイライラが移ったのでしょう。まず、親側が落ち着いて、心を鎮めて、「イライラしちゃいけないよ」と言えばいいのです。言うことを聞いてもらえなければ、何か肝心なところが伝わっていないのですから、抱きしめて、可愛がって、甘やかせばいいのです。一緒に遊んでやればいい。話をすればいい。何でもかんでも要求を聞いてやればいいのです。一週間もそれをすれば何かが伝わります。時間がない、などと言っては、とても大切な機会を失うことになる。時間はあるのです。大切なものを伝える方法はいくらでもあります。その方法を考えることが人生の目的かもしれない。誰かが解決してくれると思うと、不平不満になって、それこそイライラの原因になる。社会制度や福祉などという仕組みで解決できることではない。それに頼っていると、いつか仕組みが壊れた時に自浄作用が働かなくなっている。子どもは、親がいれば大丈夫、それだけ思っていればいい。

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私は、キリスト教徒の家に生まれましたが、親鸞上人が好きです。祖母は毎日念仏を唱えていましたから、ご先祖様まで入れれば、真宗の家なのかもしれません。

幼児たちの「信じきって、頼り切って、幸せそう」、その姿に他力本願そのもの、目指すべき「安心」があると思うのです。人間の完成形、理想の姿が幼児、4歳児くらいにあると考えます。だから、常に幼児を眺めていないと人間はしくじるのだと思うのです。「社会で子育て」などと言って保育園を増やそうとする人たちは、なぜか忘れている。「子育て」が「社会」をつくってきたということを。

幼な児(おさなご)をたたえ、幼な児に信じてもらって、人間は自分に納得する。宗教はだいたいそんなことを言ってきたのです。

いま、「幼児を40万人保育園であずかれば、女性が輝く。みんなが活躍できる」と指導的立場にある総理大臣が国会で言うことに、もう少し、真面目に宗教者は異論を唱えないといけない。この国に、信仰を持つ政治家はいないのでしょうか。少しは、いるはずです。こういう時に声を上げないで、いつ発言するのでしょうか。

40万人の3歳未満児を親から引き離そうとする。そして、それをあたかも幸福論と結びつけようとする。こんなことは人類の歴史の中でありえなかったやりかたです。みんなで声を上げる時がきています。

 

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政府によって作られた保育界、新時代の悩み

私立の保育園は、保育士が一人辞めたり病気になったら、最近では、派遣会社に電話するしかない。そういう状況になってきました。すると派遣会社に「フルタイムの人はあまりお薦めできるひとがいないのですが、6時間、午後2時までのひとならいいひとがいます」と言われたりする。「子どもが学校へ行っている間なら」とか、「どうせ時給なのだから、疲れない程度に」とか、理由は様々ですが、短時間ならいいという人の中に「いい保育士」が意外といる。子どもを親から離して6時間以上預かると、預かっている方も幸せにはなれない、という種類の人類の法則が動いているのかもしれません。

6時間でいいから『いい保育士』にお願いするか、フルタイムで『お薦めでない』人にするか、こんな悩みは保育界にとってはまったく新しいものなのです。よく考えれば、様々な要素を含む、難しい決断です。それについて一冊の本とは言いませんが、本の一章、論文が一本が書けるかもしれない。

「いい保育士」の定義は非常に曖昧で、千差万別。その園の保育の仕方によっても、保育室の雰囲気によっても、保育士の組み合わせによっても基準は違ってくる。ある園で「いい保育士」が、他の園では「やりにくい保育士」だったりする時代です。だから最近、保育士たちが職場を転々として、「自分に合った」園を探そうとするのです。自然な動きに見えますが、一方で、選択肢があると迷いが生じ、育つべきものが育たなくなる。保育が伝承である限り、やがてこの「選択肢があること」が保育を異質なものに変えてゆく。

(親子という関係には元々選択肢がなかった。そこで人間社会の基本になる絆が子育てを通して作られた。)

そして、0、1歳児を預けることに躊躇しない親が増えた時に、先進国社会で、保育士は生きる指針を失い、学校教育が崩れてゆく。

(いまほど、保育の仕組みが多様化し、同時に保育(子育て)の定義が揺らぎ、園の方針に違いが出てきてしまったことはない。それが「保育士の当たり外れ」が余計頻繁に起こる原因になり、保育士不足の一因にもなっている。)

 

いい保育士とは

「しっかりしている」「任せられる」「子どもと居て、活き活きしている」「やさしい」「あたたかい」「きびしい」「他の保育士とうまくやれる」、色々ありますが、いい保育士の定義は実は子どもとの相性によっても変わる。

そこを辞めてきた人に聞いたのですが、サービス産業を自認する保育園では、「接客態度」「要領がいい」みたいな項目さえ「いい保育士」の条件として入れているようです。(この場合、「接客態度」の「客」は親たちです。これは非常に問題で、いい保育士というよりいい従業員というべきでしょう。)

6時間のいい保育士がいいのか、8時間のお薦めでない保育士がいいのか考える時、最低でも8時間、最長では国が標準と名付けて目標にしている11時間以上保育園で過ごす子どもたちにとって、担当の保育士が途中で替わる頻度が、どの程度心の安定や発達に影響を及ぼすのか、ということをまず考えてしまいます。

(最近では13時間開所が当たり前になっていますが、十数年前まで保育園は8時間開所だったのです。それを厚労省が長時間保育といい、白書で子どもに良くない、と言っていた。そして、朝、預かった人が夕方親に子どもを返していた。保育所、この場所に預けるというより、この人に預ける、という感覚が親側にもあったのです。)

早番、遅番、正規、パート、今では一日三人に担当される場合も少なくない。保育士の当たり外れだけではなく、交代する人との引き継ぎ、保育士同士のコミュニケーションの問題も重要になっている。引き継ぐ人が毎日替わる状況もある。保育園における「引き継ぎ」は、すでに子どもの一日をつなげない状況になってきている。そういう状況の中で、保育士が「いい保育」をあきらめている。親身になることをあきらめ始めている。そこが一番あぶない。

保育という仕組みを「子どもが育ってゆく環境」と考えれば悩みは尽きません。子育てと同じで、それが保育です。悩みが尽きなくて当たり前、それが親心というもの。だからこそ、「親身さ」だけは保てるような仕組みでなければいけない。

こういう今までありえなかった奇妙な悩みを、園長先生たちに与えないようにするのが、国が施策を考える時に最優先されるべきだと思うのですが、いま政府の進める新制度は、保育の根元に関わる解決しようのない「悩み」をどんどん増やしている。

「仕事」と割り切ることが絶対にできないのが、保育なのです。

大手の株式会社保育園の離職率を見れば、それがわかります。保育士やめるか、良心捨てるか、保育士は追い込まれている。

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就労支援か子育て支援か

病み上がりの子どもを連れてきた親に、もう少し一緒に居てあげてくださいと園長が言う。保育指針に「子どもの最善の利益を優先する。親を指導する」とあるのですから当然のことなのです。加えて、病気の時にこそ親子の関係は普段よりもっと深まる、と園長は思っているのです。自分が楽しようなどとは、絶対に思っていません。

すると、親が役場に文句を言いに行ったのです。そして、役場の保育担当が園長に「保育園は就労支援なのだから、そういうことを言ってもらっては困る」と言うのです。保育担当の役人が、保育所のあり方を法律で規定した保育指針を読んでいないということです。

埼玉県は、園と保護者の信頼関係を築くために「一日保育士体験」を奨励しているのですが、ある市でそれを進めようとした保育園が役場から「保育は就労支援なのだから、こういうことはしないでくれ」と言われた。保育所保育指針という法律に「保育参加」という言葉が入り、一日保育士体験が厚労省の解説DVDに入っていて、県がそれを奨励しているにもかかわらず、「就労支援」という言葉の方が役人の意識の中では勝っている。

保育は子育てであって、就労支援が第一義ではない、という意識を取り戻さないかぎり、いまの混乱は治らない。

 

一ヶ月後の謝恩会

最近、若手園長から聞いたのです。一生懸命やっている男性園長です。

卒園すると、親は本当によく保育園に感謝する、と嬉しそうに言います。学校に入ると、保育園のありがたさがわかる、今までどれほど親身にやってもらったかが見えてくる。なるほど。いい指摘です。(学校と保育園はその趣旨が違う。教育と子育てでは、その深さが違う。もちろん子育ての方がはるかに深く、面白い。)

卒園して、一ヶ月後に謝恩会をするそうです。そろそろ親たちが保育園の価値に気づき、あの頃を懐かしく思い始めている。しかも学校へ行くようになって新たな悩みを抱えている、相談相手がまだいない。

そんな時に、これまで子どもを育ててくれた人たちに再会すれば、きっと一生の相談相手に気づくかもしれません。親同士も、もう一度お互いの存在に気付き合う。お互いに相談し始める。お互いの子どもの小さい頃を知っているということは、親身になれるということ。人類はそういう人間関係に囲まれて何万年もの間、人生を過ごしてきた。子育ては、親身な相談相手がいるかいないかが重要で、相談相手からいい答えが返ってくるかどうか、ではないのです。

一ヶ月後の謝恩会が、保育園の存在を永遠にしてくれます。

 

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国会での討論。

25歳から44歳の働く女性の数の推移は、2010年から2015年にかけてほぼ横ばい。25歳から44歳の働く女性の数は2014年から15年にかけて減っている。女性の就業者数は待機児童の増減とは原因と結果の関係にならない。

この国会での質問に、首相がすぐに答えられないことが一番問題だと思うのです。就労支援、少子化対策と待機児童の問題は政治家や学者のイメージの中で進められた施策で、現実はそのように動いていない。現在の急激な待機児童の増加は、就労していなくても預けられるという規制緩和が主な原因だと思います。11時間保育を標準とし、就労証明なしで土曜日も預けられるようにしたり、三人目は保育料無料としたり。子育てに対する意識の変化が待機児童という現象に現れている。そして、それによる保育士不足が止まらない。

政治家が、保育士が去ってゆく姿から、幼児たちの主張を読み取らなければ、これからますます世の中が荒れてゆく。

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ツイッター(@kazu_matsui)の会話から

「保育園で親子遠足にいくと、お父さんの参加が多くなってきた。クラスの3割以上が参加してくれる。会社も「遠足か!」「行ってこい!」と休みをくれるようになった。」(園長)

「父親の保育参加、鍵ですね。調布の私立保育園で一日保育士体験を始めた一年目、父親の方が多かったと言われました。男たちも気づいている。競争社会よりも保育園の方がよほど自分のいい人間性を体験できる。それを体験しないと幸せになれない。」(私)

「所沢での1日保育士体験でも、だいぶん父親の参加が増えてきたように思います。少なくとも私の子供の通っている園では。他もそうだと期待したい。」(父親)

「嬉しいです。各地で園長たちが、父親の参加が増えたと言います。入園式や卒園式も含め、父親の行事参加が増えたのは10年くらい前からでしょうか。幼児期に実の父親が家庭に居ない率が3割を超えた欧米に比べ、日本の父親たちは何か気づいている。」(私)

(解説)所沢市では、すべて公立幼稚園・保育園で「一日保育者体験」が始まっています。市長さんから保育園に預ける家庭に、こういうのをやります、という手紙が行ったそうです。板橋区などもそうですが、市がバックアップしてくれると現場もとてもやりやすい。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/www/contents/1360914331329/index.html …

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_categories/index04004012.html …

福井県:http://www.pref.fukui.jp/doc/gimu/youjikyouiku/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf …

高知県:http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/311601/files/2014033100475/2014033100475_www_pref_kochi_lg_jp_uploaded_attachment_113264.pdf …

(ツイッターから)

ブログhttp://kazu-matsui.jp/diary2/ に『保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について』を書きました。やはりここが分岐点になる。保育は就労支援なのか子育て支援なのか。サービスなのか一緒に子育てなのか。子ども優先、と保育指針には書いてある。そこが保育の質そのもの。

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「幼子が来るのを止めてはいけません。天国はこのようなものたちのためにある」

保育園・幼稚園における「一日保育者体験」について

保育の質を保つために

:保育園・幼稚園における「一日保育者体験」

 

八年前、保育園の園長先生たちと「親心を育む会」という勉強会を始めました。その頃、すでに保育界は様々な問題を抱えていました。保育サービスということが言われるようになり、長時間保育が義務付けられ、保育士不足、財源不足などが加わって、いままでの保育の定義が揺らいでいました。
保育の質を保つにはどうしたらいいのか。

そこで提案 されたのが「一日保育者体験」です。年に一日、保育園の場合は八時間、親が一人ずつ、園児に囲まれ過ごす。 三つの園でやってみました。その結果は、会のメンバーを驚かせました。普段から親たちとの信頼関係が育っていたのでしょうか。親がほぼ全員参加した。そして、文句がほとんど出なかった。感想文に、判で押したように、保育園への感謝の気持ちが書かれていました。この、感謝の気持ちが保育士を育てます。そして、学校教育を支えます。
(「親心を育む会」 のホームページ http://www.ac.auone-net.jp/~oya_hug/ に感想文が千以上積み上げられています。園長先生たちが作ったマニュアルも ダウンロードできます。)


始めは、半数の親が嫌がります。会社を休んで8時間(幼稚園なら5時間)。しかも一日ひ とり、または一部屋にひとり、結構大変そうに思えます。でも、半数の親たちが、何月何日私が来ます、とスケジュール表に書き込んでくれました。つられて残りの3割が書き込みます。最後の2割は、もう他の親たちの保育者体験が始まっていますから、子どもたちが「お母さんは、いつ来るの、お父さん、来るの?」と聞いてくれます。


保育者は、「子どもたちが喜びますよ」「子どもたちが喜びますよ」と、繰り返し薦めます。信念を持って説得すればいいのです。園は親子の幸せを願って取り組んでいるのです。園に対する信頼があれば、一年かければほぼ全員参加します。説得できないなら、まだ信頼関係がないのだ、と思い、親たちと心を一つにする努力する。その努力が保育者の姿だと保育者自身 が思い出すかもしれません。そして、子どもたちを可愛がり、「子どもが喜びますよ」を、心を込めて言い続ける。それでも駄目なら仕方ない。そういう親はたぶん室町時代にもいたでし ょう。気にすることはありません。人類の進化には、そんな人ももちろん必要です。


一日保育者体験は、父親母親ほぼ全員が参加した時、園と親たちの信頼関係ができた、ということなのですが、一組でも参加し、その一家の人生が変わるなら、それだけでも実は素晴らしいこと。全員は無理でも、全員を目指す。その決意に意味があるのです。
お母さんがやったら、お父さんも、お父さんがやったら、お母さんも。夫婦が、別々の日に、卒園までに3回か4回、これで一家の人生がそうとう変わります。参加した親の感想文を園だよりに載せたり、玄関のところに写真を張り出したり、参加人数が少なかったら、参加した人、やって良かったと思った親に、祖父母もいかがですか、もう一度どうですか、と薦めます。幼児と居て楽しそうな人を一人ずつ増やしていけば良いのです。(特に父親。男性は大人になっても結構子どもなので、素直になると幼児と波長が合います。)


埼玉県では、三年以内にすべての幼稚園保育園で、を目指すことになりました。当時の厚生労働副大臣に頼んで、新しい保育指針の解説DVDに、保育参加の例として「保育士体験」を入れてもらいました。保育参観ではなく、参加を、これは、保育所保育指針に書かれ、法律として決ま った保育園の役割です。そのことは、堂々と親に言っていいのです。法的裏付けもあるので す。
でも、やはり親を説得する言葉は、「子どもがよろこびますよ」が良いのです。

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保育は就労支援なのか、子育て支援なのか。一日保育士体験は保育園はただ預かる所ではなく、保育士と親が一緒に子育てする所ですという宣言です。しかも、いつでも親に見せられる保育をしている、という宣言でもあるのです。保育界が混沌としてきた今、ここが、これから分岐点になってきます。
幸い広がっています。砂場で遊ぶ幼児を眺めて、人間は自分はいつでも自分次第で、砂でさえ幸せになれることを思い出します。

(保育者体験の勧め、など、講演依頼、お問い合わせはchokoko@aol.com 松居までどうぞ。市長さんが聴いてくれると、保育に関する市の姿勢がずいぶん変わったりします。)

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親全員が参加する保育園のページです。http://www.hanazono-fukushikai.com 特に父親の保育参加に力を入れています。

茅野市の一日保育士体験:http://www.city.chino.lg.jp/…/cont…/1360914331329/index.html

板橋区の一日保育士体験:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_cate…/index04004012.html

福井県の一日保育士体験:http://www.pref.fukui.jp/…/…/youjikyouikukatei_d/fil/023.pdf

高知県の一日保育士体験:http://www.pref.kochi.lg.jp/…/2014033100475_www_pref_kochi_…

その他、各地で始まっています。「一日保育士体験」で検索するとたくさん出てきます。

 

幼児たちが私たちを育て、支える一番確かな存在です。彼らの役割を果たさせてあげれば、必ず社会に自然治癒力と浄化作用が働きます。
どうぞよろしくお願いします。

 

 

「村人が通るだけで」・「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」・『先進国社会で「子育て」を奪われた人間たちが孤立している』・嬉しいメール「子育ては自由だから」

2016年4月

 

「村人が通るだけで」

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更生施設の所長が懇親会で話してくれました。以前、学校が荒れ、校内暴力が蔓延していたころ、まったく荒れていない中学校があったそうです。その中学校は、村人の通り道になっていて、日常的に村人が校内を通り抜けていたのです。それだけのことで、校内暴力がまったくない学校が維持されていた。

こういう実話や、そこから何かを感じた人たちの伝聞に先進国社会の子育てに関わる様々な問題の解決策がそっと埋まっています。人間が一見無意識に作り出す風景の中から、何かを学び、美しさ感じ取っていれば、そうそう間違わない。伝達メディアの発達とコミュニケーションツールの進歩で、「風景が人間を育てる機会」が減ってしまったのだと思います。

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 人間は、日々の風景、特に「調和」を感じる風景によって、その感性を身につける。
 そして、「育つ」ということは「安心する」ということだった、と気づくのだと思う。
 
 日々の風景が環境となって、人間の心に何かをコツコツと刻み込む。安心の仕掛け、遺伝子の働き、それらが、人々が作り出す風景として現れ、脳裏に刻まれ、人間は本来の自分をより深く体験する。その内側を知る体験が幸福だったから、人類はここまで来たのだと思うのです。
 
 一人の良くない保育士の、手のかかる子に対する扱いが保育室の風景になることを忘れてはならないのです。それを見て、心を痛め辞めてゆく保育士の陰に、その風景を毎日見続ける幼児たちがいることを決して忘れてはいけない。それが保育という仕組みの恐いところだと思ってほしい。

 

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政府が施策として、三歳未満児をあと40万人保育園に預けることを「女性が輝く」「一億総活躍」と言って奨励するのであれば、その子育てを代行する保育士たちが「子どもに親身なる権利」は絶対に守られなければいけなかった。しかし、そこが「保育は成長産業」という閣議決定で崩れていく。日々子育てをしている保育士が輝く権利、活躍する権利が、親たちの「預ける権利」によって奪われようとしている。

子育てをしている人たちが輝かなければ、子育てはその本質を失う。親身になることで輝く人たちが、この国を支えてきた伝統文化そのものだった。

保育士が子どものために親に苦言を呈することが出来る権利、権利というより空気、または常識、人が生きる術といってもいい、それだけは守らなければいけなかった。

それがあったから、保育はかろうじて、ぎりぎり「家庭」の役割を代行することができた。「保育はサービス」という言葉でそれが消えてゆく。

「親身になる権利」と「預ける権利」は存在する次元が違うのです。「遺伝子の法則」と「近頃、人間が作った法律」ほどの違いがある。「宇宙の法則」と「個人情報保護法」くらい深さが違う。混同してはいけない。ぶつかりようがないのだから。「利権(りけん)」になりやすいほうが偽物。いま、そっちが優先されている。

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人間にとって、国にとって、子どもたちの幼児期の過ごし方がどれほど大切なことか理解していないいくつかの閣議決定が、三歳未満児を保育園で預かることを雇用労働施策として掲げるから、そして県の説明会で「財源はあるのですか?」という園長の質問に厚労省が「努力しています」としか答えられないから、市町村の保育課長たちと現場の保育士たちの溝がますます広がってゆくのです。

二年前、「人材はどうするのですか?」という質問に、「掘り起こせばいいのです」と大臣が答え、「70万人潜在保育士がいるのです」と社会学者が言った。ところが実際に県や都が主催しても、「掘り起こし大会」にはパラパラとしか潜在保育士はやって来ない。人材を探す保育園の数の方が多いくらいの不可思議な光景だった。その光景が、今の国の施策を暗示している。国も専門家も現実を知らない。

潜在保育士の多くは専門学校や大学で保育実習を体験し、資格を取ったとしても自分には無理、と自らを埋めてくれた人たち。「掘り起こさないでほしい。できることなら、一生埋めといてほしい」と現場が願っている人たちです。保育は資格さえあれば誰にでもできる仕事ではない。そういう実態を国や学者はわかっていない。保育士不足で、仕方なく「三年前、やっと埋めた保育士を掘り起こさなければならない」という市役所の保育課長さんの嘆きを理解できる人が、施策を考える人たちの中にいない。いまの保育崩壊は学者や政治家の勉強不足の結果だと思う。

(資格者を募集すれば倍率が出る、正規、地方公務員として面接し雇っても、ハズレが出る場合はあるのです。この場合「埋める」ということは、現場から外す、少なくとも幼児と接する仕事から異動させる、ということ。)

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「訴訟と保険で崩壊してゆく福祉社会」

 制度を市場原理化すると、保険料と訴訟がその仕組みの危険度のバロメーターになる。危ない事業には保険会社が手を出さない。渋々手を出しても、補償の額を極端に下げるか、保険料を極端に上げてくる。

 日本経済新聞に以前「小規模保育」に関して記事が載っていました。この記事は、小規模保育も保険に入れるから大丈夫、と言っているように見えたのですが、支払われる補償額の低さと、日本も訴訟社会になり補償が長く続いてゆくことを考えると、危うい感じがしたのです。

 

 アメリカの大都市で保険料が払えなくなって産婦人科医が次々と撤退していった頃のことを憶い出します。30年くらい前のこと。訴訟大国で訴訟対象になりやすい職種が保険会社のリスク算定によって採算がとれなくなってくるのです。

 「子育ての社会化」に関わる仕組みが、市場原理で広まり、やがて「保険」という別次元の市場原理によって排斥され淘汰されてゆく。これは信頼関係がまだ土台にある日本という国が未体験の、弱者切り捨ての市場原理です。いま政府が保育園で預かる子どもの数を雇用施策の一環として増やしても、数年後、その仕組みの質が保てなくなり、保険制度という市場原理の中で存続出来なくなってきた時に、「家庭」という、何十万年にもわたって培ったきた遺伝子に適う仕組みを取り戻すのは非常に難しくなっている。

 規制緩和を進める政府は、遺伝子に沿っていた常識や伝統を一気に壊そうとしているのだ、ということを理解していないのではないか。

 経済論が幸福論の主体になりうるのであれば、いままで主だった宗教の言っていたことは何だったのか、と思います。(来日したムヒカ元大統領も言っていましたが)幼児を産み育てることは、自由を失うことに幸せを感じる、利他の心持ちでモラルと秩序を保つ、人間社会に必須の自己発見の道筋ではなかったのか。

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先進国社会で、「子育て」を奪われた人間たちが孤立しています。

 奪われたというより、子育ての意味を伝承されないまま自ら放棄した、という方が正しいのかも知れません。ほとんどの場合、そこに別の選択肢はあったのですから。

 孤独ほど人間たちにとって辛いものはありません。人間は一人では生きていけない。一人では生きていけないことを自覚することに「幸せ」を見いだすように出来ている。幼児を眺めることで自然にそれを学んできたのだと思うのです。

 いま、日本で一人きり家庭が三割になるという。若者も老人も、いる。一人で生きていけることは、人類未体験の「豊かさ」の弊害なのです。保育の問題と同じで、実現が可能になることで「心」の問題が後回しになった。

 若者も老人も、政府の三歳未満児を保育所でもう40万人預かれという意図に現れる経済論と、子どもたちを集団にして長時間家庭から離す仕掛けによって、集まる意味、絆の中心を失い、ますます孤独になってゆくのが見えるのです。(福祉が進んだと言われた北欧の老人たちのインタビューを見たことがありますが、老後、弱者になった時の孤立感は苦しい。)寂しさの中で生きようとするもがきが犯罪の低年齢化や自死につながる。

 子どもたち、特に男の子たちの弱さ、いじめや不登校も、社会から分かち合うこと、集うことが欠如していることから生まれる現象だと思います。これ以上人間たちから「子育て」を奪わないでほしい。しゃべれない乳幼児を眺めていないと、人間たちは想像力を失ってゆくのです。乳幼児を育てるということは、日々、言葉では教えてくれない人たちから、「理解しようとすること」の重要性を学ぶこと。「理解すること」ではなく、「理解しようとすること」が人間を調和に導いた。乳児との会話は、想像力の中で、自分を体験することだった。

 

 「社会で子育て」と言いながら、社会の原点である家庭を壊してゆく人たちの意図がわからない。しかもそれで経済が上向くと思っているのだとしたら、人間の本質を理解しない、浅い経済論でしかない。孤立すると人間は必死に生きてゆくために、最後の力を振り絞って競争する。それはわかりまます。(アダムスミスが言った資本主義社会のエネルギー。不安と不満。)しかし、それは同時に男女という社会の最小単位が信頼関係を失うことでもある。(欧米先進国では、すでに3割から6割の子どもが未婚の母から生まれている。)家庭が吸引力を失い分裂すれば、一つでよかった炊飯器が二つに、冷蔵庫も二つに、冷暖房も二つになり、しばらく企業は儲かるかもしれませんが、地球温暖化や異常気象も、家庭崩壊が大きな原因になっている。

 助け合う絆がないと、すべての人間の持つそれぞれの欠陥、それぞれの発達障害と呼んでもいい、パズルを組むために必要な不完全さに、自分1人では対応できなくなって、自己責任に耐えられなくなった人間たちは精神的なバランスを失ってゆく。

 

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ママ、あんなところに行きたくない!?子どもを蝕む「ブラック保育所」急増の裏側

ジャーナリスト・小林美希「ルポ保育崩壊」の著者

http://diamond.jp/articles/-/74296?page=5

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「嬉しいメール」

(障害者の施設で働くのが好きで、そこで子供たちとかけがえのない時間を過ごして、でも、繰り返される指示語の風景に耐えられなくなってある日辞めていった、感性豊かな女性からメールが来ました。いまは結婚して子どもがいます。「子育ては自由だから」という言葉に、彼女が手に入れた広い世界を感じます。)

こんにちは!
春ですね!お元気ですか?
息子は8カ月になり、人間みたいになってきました。かわいいです。
子育ては祈りの連続なんですね。そして私は親からのたくさんの祈りで大きくなってきたたんだなぁとしみじみしています。
施設で働いていたときみたいに、子育てでいろいろな景色をみています。働くといろんな制約やきまりがあるけど、子育ては自由だから楽しいですね(笑)
寝不足だけどがんばります。
かずさんも講演がんばってください。

「小学校には待機児童がいないでしょ」・政府の緊急対策・保育士不足がどのように保育の質を低下させるか、公立と私立ではずいぶん違う・地域限定保育士制度・介護業の倒産過去最悪という記事

「小学校には待機児童がいないでしょ」

「保育園落ちた日本死ね」ブログ以来テレビのニュースやワイドショーでも関連した報道が続きます。新聞報道の方は、それなりに核心に近づいていますが、テレビはその内容が、まだまだ表面的で雑な感じがします。保育の専門家みたいな人が先日も待機児童問題で、「小学校には待機児童がいないでしょ。お金さえかければ保育でも出来ること」と言っていて、唖然としました。

ふむふむ、そうだそうだ、税金を払っているのにお金をかけない政府がいけないんだ、と思ってしまう人が居てもおかしくない。

誰かが「小学校は11時間預からないでしょう」とか、「6歳でも当初は半日です」「学童は待機児童いる」、「三歳未満児と小学生は違うでしょう」。

「喋れない乳幼児だから余計に気をつけて、大切にしなければいけない」

「0、1歳児は抱っこでしょう」と言えば、ほとんどの人が、「それはそうだ」と再び頷くコメントを言う人もいない、テレビ局はそういう当たり前の意見を放送しない。テレビ局が、幼児を保育園に入れることはいいことだ、と大雑把に決めている感じがする。小学校に待機児童はいない、なんていう馬鹿げたコメントをニュースでは放送しない、という判断さえできない。

もっと進んで、「5歳までの家庭での愛着関係が精神的安定の土台として育っていなければ、そもそも学校教育がなりたたないでしょう」という発言が、ほんのちょっとした本当の専門家、学校の先生でも保育士でもいいですが、合わせて放送されれば、今の保育施策や政府の方針が、保育が、同時に「子育て」でもあること、本来1歳児6人に育てる人1人では無理なことを知らない「専門家」たちの意見で進められていることが理解されるはずです。

待機児童対策においてサービス産業化が、すべての鍵、という学者がまだいるのです。これだけ保育士不足が進んでも、保育は双方向に心の成長の問題なのだ、と理解しない。

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社会福祉法人の役割(1人の若手園長からこんなメールが着ました。安易に社会福祉法人を待機児対策が進まない原因と批判する経済学者に対する、保育者としての憤りがそこにあります。)
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最近のメディアの状況・・・

まだ時が来ませんね。

わかりもしないで、ここまで書けるってすごいなと感心します。

http://diamond.jp/articles/-/89044

ダイアモンド社

こちらもTV出るので有名ですが、知ったかぶりですね。

http://diamond.jp/articles/-/88846

同じくダイアモンド社

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 この園長先生が指摘したいのは、自分たちの保育に対する思いは、こんな風に単純に批判されるものではない、ということ。

私も30年間、全国の保育園で多くの園長先生たちに出会った経験から、色々問題のある社会福祉法人もたしかにありますが、全体的に、その通りだと思うのです。

「小学校には待機児童がいないでしょ」とテレビで言っていた人もそうですが、補助を増やして、たくさんの子どもを預かれば、もっと産業として成長出来る。その妨げになっているのが社会福祉法人で、それを「既得権益にしてしがみついている人たちがいる。」「今までの社会福祉法人中心の保育の仕組み変えることが、待機児童対策だ」と見ている。しかし、この既得権益は、一部を除いては権益の拡大が押さえられている、いわば「欲」が抑制されている既得権益であって、その抑制が、保育の質を保つ大切な要素だった。簡単に言えば、親をしかれる、場合によっては強くアドバイス出来る仕組み、親へのサービスより、子どものことを優先する場面がしばしば起こりうる仕組みだったのです。人類の長い歴史から考えれば、見えにくいかもしれませんが、「祖父母の役割」に似た仕掛けがそこにあった。

そうした本質を考えずに、競争原理、市場原理に持って行けば、サービス産業として回り出す、というのはあまりにも学者らしい考え方だと思いますが、これでは「子どもの幸せを優先する」という、子育ての仕組みが機能しなくなる。

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政府の緊急対策

いま、政府が待機児童対策として緊急に進めようとしている保育士配置の国基準の規制緩和、1才児は保育士1人で6人という国基準があるのだから、条例で1:5(埼玉県は1:4)にしている自治体はもう1人受け入れろ、そうすれば数千人待機児童が減る、ということなのですが、この「1人くらい」という数字しか見ない安易な考え方が、今回の保育士不足騒動の根幹にあることが厚労省も厚労大臣もわかっていない。1:6でもひなたぼっこ保育ならできるかもしれません。ただ見ているだけなら1:10だって出来るのです。でも、この時期の子どもたちは、人類に向かって「抱っこ」を求めているのです

1:6では、抱っこされない子が必ず出てくる。それが一日二日ではない。年に260日だということ。そして、この時期特有の発達はほぼ一対一の愛着関係を要求しているということを理解していないと、知らないうちに取り返しがつかないことになる。いい保育士に当たればまだしも、いい保育士に当たる確率を政府が待機児童対策で下げている。

最近の噛みつく子の増え方や、小学校の学級崩壊の現状を見て、今まで1:6だった国基準を1:3にするというのならまだわかる。いまの一歳児は30年前の一歳児とは違う、政治家たちはそれさえわかっていない。保育士たちが繰り返し言う。親の意識が変化している、子どもに向ける目線が違う。子どもに向ける笑顔の質が違う、という主任さんさえいる。

 

現場に無理を強いて待機児童解消をしても、今のやり方ではますます待機児童は増えてゆく。いまだにそれに気づかない。気づかないのか、次の選挙だけを考えて生きているのか、よくわからない。

子育ての責任は、自分ではなく「社会」にあると考える親が増え、同時に、いまの施策は子どもの幸せにつながらない、と感じる保育士が辞めてゆくのだから、いくら少子化が進んでも追いつかない。いつか追いつくかも知れませんが、このまま進めば数年間は混乱する。そして、その混乱を一番身近に体験した子どもたちは、やがて学校に行き、数十年生きる。だれもそのことには責任を取ろうとしない。

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 保育士不足が危機的状況を迎えているのに、何か、論点が完全にずれてしまっている。

 待機児童対策に一兆円をかけたとしても、それは一兆円かけてより多くの幼児たちの願いを私たちの日常生活から切り捨て、彼らの私たちへの絶対的信頼を裏切ることでしかない。それに気づかないから、論争の間に、保育の質の低下は急加速していくのです。

 

国は、待機児童対策で、小規模保育の定員を増やし規制緩和するという。小規模保育は、保育指針も守れない、子ども優先なんて最初から視野にない仕組みです。数年前まで「認可外」と呼ばれ、補助さえ限られていた。それを認可にした上に更に規制緩和している。0〜2歳は保育所ではなく託児所でいいということ。

閣議決定された「サービス産業化」では、保育士は絶対に問題のある親に注意できないのです。それがわかっていながら、小規模保育は、資格者半数でいいことに目をつけた政府の付け焼き刃の待機児童対策でしかない。

保育園は長年、児童相談所的、養護施設的役割を果たしてきました。0〜2歳児の親にはアドバイスが必要だった。ここで適切なアドバイスをしていれば、その一家の一生が変わった。それがほとんどできなくなってしまった。そしていま児童虐待の増加が止まらない。5年前、11時間預けるのは児童虐待と私に言った園長がいた。それをいま政府が標準と名付けている。これでは児童虐待もDVも止まらない。

「保育園落ちた、日本死ね」のブログをきっかけに、保育士の待遇改善が叫ばれています。給料を月五万円上げる、十万円上げる。保育界をここまで追い込み保育士不足を一気に進めた両党の政治家たちが、やってる振り論争を国会で繰り広げる。もう40万人園児を増やし、保育士の給料を月五万円上げるとして、毎年一兆円恒久財源を確保できるのか。本当に、本気なのか。消費税上げても四千億円足りないと言っていたのに、上げずに新制度を始めてしまったのが去年のこと。幼児のこととなると、政治家たちはいい加減過ぎる。

 

働いていない時間は基本的に親が育てる、その方向へ向かうしか方法はない。それでないと保育士が納得しない。

しかし、いまそれをやると票が減るという怖れが、幼児の安心・安全より優先するから、政治家は誰も言わない。三人目無料、などという幼児の気持ちを無視した非人間的な施策を進めたのがつい去年なのですから、論争が幼児優先にまったくなってこない。乳児も含めて、幼児は生きている、呼吸している、反応している。そのことにまず気づくべきです。

保育士不足はもう待った無しです。昨日も県の保育士会の会長まで務めた園長から、もう駄目です、辞めます、という電話があった。根性のある、行政を叱り、保育士を鍛える人だっただけに涙が出そうになる。

保育界の魂のインフラが崩れてゆく。

 

保育士不足がどのように保育の質を低下させるか、公立と私立ではずいぶん違うのです。

公立でも正規、非正規の割り合いが1対9か9対1かでまったく違う。私立でも園長が(政府の方針に従って)サービス産業化しようとしているか、(保育所保育指針に従って、または良心に従って)幼児の最善の利益を優先しているかで、まったく違う。

待機児童がいる地域か、過疎化が進んでいる地域か、でも違う。処方箋が異なる。だから、市の役人にアドバイスをする時は、こうした基本的な状況をまず訊ね、それから話をします。基本は保育士たちの精神的健康を第一に考え、保育士を守ること。それなくしてこの状況は乗り切れない。保育が集団制になる三歳未満児の部屋に、1人でも良くない保育士を入れると、良い保育士が去ってゆくからです。

全国で、幼稚園がない自治体が2割あるのです。そして同時に、幼稚園を選ぶ親が7割という県もある。それほど地域によって人々の気質や習慣が違うし、仕組みが違う。

幼稚園と保育園の違いは単純に保育の内容だけではありません。様々な側面で生じてきた役割り、対立、均衡を理解せずいきなり手を突っ込んでかき回したのが今回の新制度。何度も無理だと忠告したのに、経済優先で進めてしまった。

まだ引き返せるのですが、政治家と学者が非を認めず、ますます子どもの人生が犠牲になってゆく。この国のゆく末を、選挙よりもっと本気で考える政治家が現れてほしい。

 

地域限定保育士制度

地域限定保育士制度、国家試験の他に県で試験をし、地域限定の保育資格を与える。その県で三年働けば全国で通用する資格になるという。http://www.e-hoikushi.net/column/17/、これでは保育士養成校は存在意義無し。保育という学問の否定。ここまでないがしろにされた学者たちが「社会で子育て」などと、保育=子育ての現場をまったくわかっていないことを言って、三歳未満児を親から引き離すことを国に薦めたのだから自業自得かもしれません。保育園が増えれば自分たちのやっている保育士養成校が繁盛するとでも思ったのでしょう。しかし、そんな思惑を飛び越えて、保育士は辞めてゆくし、国はなりふり構わず規制緩和に走ったのです。

 

入れればいい、という親が激増している。入ってからの方が本当の問題なのです。ただ眺めているだけの保育士に4、5人の子どもを一日十時間、年に260日預ければ、その子たちの一生に何らかのかたちで「愛着障害」という負の影響を及ぼすことは、厚労省も、国連も、ユネスコも繰り返し過去に言ったこと。それがはっきり見えないからといって、見えるようになってからではもう遅い。だから北欧では、子どもと親が一緒に過ごす時間を取り戻す方向へと施策が進められている。(手遅れだと思いますが。)。

以前、経済財政諮問会議の座長の経済学者が、0才児は寝たきりなんだから、と言ったことを憶い出します。人間たちをいい人にしてくれる三歳未満児の存在意義を理解していない。幼児を蔑ろにして、この国の将来は輝かない。

 

介護業の倒産過去最悪という記事

介護保険で老人福祉に競争原理を導入し、家庭崩壊が加速、人手不足の直撃を受け経営に行き詰まる業者が増えています。

心のこもらない福祉から人材が去ってゆくのです。経営が下手な場合もあるでしょう。しかし倒産に至るまでの過程で施設に居た弱者の人生に何があったのか。そこが一番問題です。最近になって「抜き打ち立入り調査」を実施します、などと政府は言っていますが、これをやったら介護施設不足は一気に進んでしまうから、実は手をつけられないのが現状です。抜き打ち立入り調査をして問題が発覚しても、それを止められない。

保育は成長産業と位置づけた閣議決定の先に、介護と同じことが起これば、その影響は半世紀に渡って人と国に影響を及ぼします。

民営化、市場原理、競争原理で福祉の予算を減らせるという、保育を知らない保育の専門家と学者や経営者の「子どもを優先しない」論理に内閣が簡単に乗った。それが「子ども・子育て支援新制度」。介護崩壊が保育崩壊を暗示していることは仕組みを見れば明かだと思います。保育資格を持っている者が全員保育出来るのではない。保育は保育士の心。学校教育とは違う。そこを考えずに数字の上で「保育の義務教育化」などと社会学者が言う。社会は仕組みではない。心のジグゾーパズル。幼児を眺めていないと組めないパズルです。

家庭という人間関係を、一部の人間が儲けようとする利己的な経済論で壊しておいて、「一億総活躍」「女性が輝く」と言っても、保育士たちの目線は冷ややかです。保育の現状から見ると現実離れした絵空事でしかない。国の根幹を揺るがす保育崩壊が始まっている。保育は心。子育ては信頼関係。国がそれを壊している。

非正規の方がいいです

地方で、公務員(正規雇用)で保育士をやるより、非正規の方がいいです、という保育士が出始めている。これが何を意味するのか。児童数の現象と財政削減のため、これから教員の数を減らしていこうとしている国はよく考えた方がいい。保育や教育に「子育て」の肩代わりをさせればさせるほど、保育や教育の定義が揺らぎ、質を保つのが増々困難になってゆく。

去年から今年にかけて、都市部では第一希望の保育園を見学に行かない親が急に増えています。地方でも入園の説明会の案内に「会社を休んで行かなければいけないんですか」と気色ばむ親が行政を怯えさせている。こんなことを続けていていいんだろうか。去ってゆく年輩の保育士を止める気さえなくなります、と課長補佐が寂しそうに言うのです。

保育士の待遇問題を言う人たちが多い。確かにそうなのですが、保育士不足の本質はそこにはない。法律でも決まっていた「子どもの最善の利益を優先する」という保育の根幹が国の施策で揺らいでいること、親の意識が変わり始めていること、それが保育士を精神的に追い詰めている。それを現場で伝えていた年輩の保育士があきらめ始めている。

(「地域限定保育士」は、試験を受けた都府県内のみで保育士として仕事に就けるものとして新しく創設される予定の資格です。最初は就職する地域の制限がありますが、3年間「地域限定保育士」として活躍したのちは全国で働けるとされています。 )

子育て支援員

子育て支援員、支援員研修で儲けようとしている企業との出来ゲームのような気がします。第三者評価が行政の天下り先になっていた仕組みと似ているのです。子育てを損な役割、これをしていては女性が輝けない、というイメージ付けをしておいて、学童、乳児院、小規模保育、家庭的保育事業、事業所内保育事業、すべての資格を数日の座学でとれるような規制緩和が行われる。保育(子育て)とはそんなものだったのか。「子育て支援員」が、無資格者を雇う時の方便になっている。ちゃんと厳選すれば、資格を持っていない人でもいい保育士はいるのですが、これほど資格を蔑ろにすれば、保育科に来る学生の質はますます下がってゆく。

司法試験合格者「1500人」に半減。/政府の目標の半分

素晴らしいことだと思う。日本人は闘うのが好きではないという宣言だと思う。司法制度というパワーゲームの道具を拒否しないと、日本が一気に西洋化して、荒れてしまう。

諏訪の御柱祭/茅野市のこと/三年前に予測出来たこと

諏訪の御柱祭

 

 諏訪の御柱祭を茅野で見ました。

 涙をこらえながら見ました。女性の木遣り歌に、子どもたちの木遣り歌がかぶさって、男たちに気合いを入れる。この辺りでは、歌うと言わずに、泣く(鳴く?)と言うそうです。

 男たちが、丸太(御柱)にまたがって、おんべを振りながら、女たちと子どもたちに見守られて、合図と共に斜面を落ちてゆく。

 神々の前で、男たちは時々、自分の中に4歳だったころの自分が居ることを確認しなければならない。砂場の砂で幸せになれたことを憶い出し、幸せは自分の心持ち次第、と憶い出す。

?女と子どもに見つめられ、丸太に乗って落ちてゆくだけで、幸せになれることを確認する。

 人間は、こういうことをしなければいけない、と思いました。

 

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 茅野市とは長いお付き合いで、7年に一度の御柱祭も、元行政アドバイザーという肩書きで招待していただきました。

 時々思い出すのは、一日保育士体験を市の全ての保育園で始めて二年目のこと。園長・主任先生たちと、市役所の会議室で年に一度の報告と質疑応答をしていた時のことです。

 1人の主任さんが「保育士も、一日保育士体験するんですか?」と私に訊いたのです。幼稚園が一つしかない市ですから、保育士も預け合っています。しばしば親の立場でもあるのです。

 すると間髪を入れず、1人の園長先生が「それはそうでしょう。子どもが喜ぶんですから」とおっしゃったのです。

 通じている、と思いました。嬉しかった。みんなで、ひとつ何かを越えたのです。

 子どもがよろこぶことをする、それがすべての始まりなのです。

 

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茅野市のこと、そして保育士不足

(ふと思いついて、「茅野」で自分のブログを検索すると、色んな思い出が出て来ました。三年前のブログからです。今の保育界の状況はすでに予測できたのです。((2013224) http://kazu-matsui.jp/diary/2013/02/post-190.html

 

 講演の前後に園長、役人と必ず話すこの国の一番危険な状況。

 「保育士居ないですよね」

 「はい、困っています」。

 「悪い保育士、辞めさせられないですよね」園長先生の顔が一瞬顔が強ばり、ゆっくり深く頷く。認めてはいけない、しかし認めざるを得ない。子どもたちの顔が目に浮かびます。実は横にいる役所の人も知っています。園長が何度も頼んだからです。「あの保育士は現場に居てはいけない」と。でも、待機児童を増やすわけにはいきません。

 「その風景を見て、いい保育士が辞めていきますよね」じっと私を見つめる目が必死に訴えます。もう無理ですよね。

 

 一日保育士体験は、親に見せられる保育をする、という保育士たちの宣言です。品川の公立園長が「こういうのを待ってました」と言ってくれた時は嬉しかった。いま全国で、派遣でつなぐ保育が増え、資格だけ持っていて心のない保育士を雇わざるをえない状況に現場が追い込まれています。役場から定員超えの要求がありほとんどの園で一割増の園児数。

 そして親たちの心ない批判。(理にかなった批判ももちろんあります。)

 あちこちで、親に見せられない保育に現場が追い込まれ始めている時、品川の園長たち、茅野の園長たちの言葉は嬉しかった。親心の喪失に歯止めをかける方向に動くことが出来れば、まだ保育士たちを「生き甲斐」でつなぎ止めることはできます。。

 

 茅野の園長主任と2年目に入った一日保育士体験について話合った。嬉しい報告を全員からもらいました。父親参加が3割を越え、信頼関係が出来る、モンスターが止まる。時にはこの時とばかり粗捜しをする親もいます。「そういう親は室町時代でもいたですよ」と言うと大笑い。

 「子どもが喜びますよ!」そう繰り返すことで、子どものための保育園だと親たちも気づけば、保育士たちの元気が還ってきます。

 

 これだけ現場を追い込む施策が続くと、一日保育士体験で生まれる親の感謝の気持ちで保育の質を保つしかない。

 子育ては技術ではない。人間が心を一つにすること。

 やがてそれが学校教育を支えることを信じ、子どもたちの、「親を育てる,人間を育てる」力を信じ、一人の園長が決心すれば出来ること。保育指針という法律に、保育参加と書いてある。でも、「子どもが喜びますよ」を繰り返す。

 

 午前中に茅野市長と懇談し、午後所沢の保育園で講演。市長が聴いてくれて、そのあと夕食。保育士がいない現状を話す。市長が、保育が親心を軸に老人介護までつながっていることを理解してくれるとありがたい。

 乳児が屋根の下にいるだけで、家の気配が変わる。幼児が横に座っているだけで人類はいい人類になる。それを市長が理解してくれれば、なんとかなるはず。